「皇帝と皇后が御召列車に乗って観光地(チベット?)を旅して、特に何も起こらず、無事に家に帰る」
というストーリーを考えておられるようですが、それだけだったら99パーセントつまらない駄作確定でしょう。
1パーセントくらい、ものすごく文章力のある人が書けば、それだけでも面白くなる可能性もありますが、まあアマチュアレベルでは無理じゃないですか。
俺だったら絶対そんな駄作は読みません。
なぜ、つまらないのか。
それは、「特に何も起こらない」からです。
そりゃね、皇帝と皇后の御召列車での公式訪問で何かが起きる、なんてことは、あってはならないことです。何も起きずに無事に家に帰るのが、当然のことです。
現代日本で考えてみましょう。
天皇陛下が御召列車に乗って、とかいう話ではなく、一般人が普通の電車に乗って旅をする場合を考えてみてください。
特に何も起こらず安全に、だいたい時間通りに到着します。一般人が乗る普通の電車ですから、警備が厳重とか、そういうことはありません。ではなぜ、何も起こらないのでしょうか。
それは、乗客の目には見えないところでスタッフが安全確保に奔走していて、危険な要素をあらかじめ排除しているからです。警備が厳重だからじゃないんです。
話を戻します。
皇帝と皇后の乗った御召列車での旅では何も起きません。なぜでしょうか。
それは、皇帝と皇后の目には見えないところで、現場担当の小役人が安全確保のために四苦八苦して、危険な要素を事前に排除しているからです。
じゃあその現場担当の小役人の苦労を描けば、面白くできるのではないでしょうか。
主人公はどうしても皇帝と皇后にしたい、ということであれば、AパートとBパートに分けて、Aパートでは小役人が苦労して危険を排除する場面を描き、Bパートでは皇帝と皇后が何事も起こらず脳天気に旅をするシーンを描いて対比にするようにして、AパートとBパートを交互に描くようにすればいい。
例えばですね。
線路の所に鹿の群れが出てきていることに気づいた小役人が、危険なので鹿を追い払う。でも追い払っても追い払ってもまた鹿が線路に近づいてしまう。
鹿は鉄分補給のために線路を舐めに来ているのだと気づいた小役人は、線路から離れた場所に線路の切れっ端を置いて、鹿が安全に舐められるようにした。
Bパートでは、鹿の出没ポイントを御召列車が何事も無く通過する。
「あ、あそこに鹿の群れがいるよ。かわいいwwww」と皇后が喜ぶ。
舞台がチベット?らしいので、急激な高低差移動をしてしまった小役人が高山病で苦しむ。
Bパートでは、皇帝と皇后は充分な時間的余裕をもって移動するので高山病にならない。
高山病で苦しんでいる小役人だが、訪問予定の絨毯工場の屋根が崩れかけていることに気づく。地元の人は大丈夫と言って直そうとしないので、自分で直すことにする。ところが屋根に上ろうにも、以前まであったというハシゴが無くなっている。木材の乏しいチベットなので新しくハシゴを作るのも難しい。さてどうするか。
Bパートでは、皇帝皇后が来た日はたまたま冷え込んだので、木材を燃やした焚火で暖を取る。以前まであったというハシゴをバラした木材だった。
倒木が線路を塞いでしまっている箇所があるのが発覚する。帰りの御召列車が来るまでに取り除かなければならない。引っ張るためのロープは何本も用意したけど、人手が足りずに引っ張れない。どうしよう、という時に小役人の前に出現したのは、鹿の群れだった。
「あの日、あなたに助けていただいた鹿です。今こそ恩返しの時」
という台詞を発するかどうかは知りませんが、鹿たちがロープを引っ張って倒木を除けてくれたので、列車は何事もなく通過。
皇帝皇后が何事も無く家に帰り着くと、小役人は疲労困憊でぶっ倒れる。
Bパートで、皇帝と皇后は、「順調すぎて、なんかもうひとやま欲しかったね」的なことを言って笑い合う。
といった感じにすれば、伏線回収要素のスッキリ感も入るし、目には見えないところで誰かが頑張ってくれているから今の便利さがあるんだよ、というメッセージ要素も入ります。何も起こらない原案よりは1000倍くらい面白くなっていますよね。
要は、何も起きない、と決めつけるのではなく、柔軟な発想で対応することじゃないでしょうか。