それは当人の資質の問題かもしれませんね。
大前提として、書きたい作品を書けばいいと思います。それが執筆するモチベになるし、誰だってそうだからです。
本人が面白いと思っていれば、少なくとも自分が読者になったとき面白いと思った部分は書けるのではないでしょうか。
逆に面白くないと思っていれば、書きたくなくなります。面白くないのに書けば、需要をわかった気になってるだけで実は見出せてない作品を書き続けることになるかもしれません。
これでは悪循環です。
苦痛でも、需要を満たせればそれなりの成果がでるので成功体験になります。
しかし、苦痛を我慢しても成功体験がなければ、学習無料感に襲われることになります。
ここに、壁がありますよね。
途方もない壁が。
できるなら、僕は、そんな人が、
壁を超えるとこを見たいです。
自分で考えて成果がでないなら、その考えに穴があるからで、その考えの欠陥に気付ければ良いのですが、気付けるならそもそもそんな苦労はしないかもしれません。需要のある部分、読者が読みたい部分をかけていないと指摘されても当人は需要を意識して書いていると思っているものですから。
あなたの場合、途中で投げ出すことなく完結させるのは間違いなく長所です。本当にすごいことで、誇っていいことでしょう。自信にすべきです。
が、完結させても、読まれないと、なかなか徒労感がありますよね。そこらへんは、現実として、他者はあなたの頑張りには興味がないことを自覚しているべきだと思います。なんのために頑張るかはあなたしか決められず、やめるべきかどうかもあなたしか決められません。
頑張っていたら応援はしたくなりますが、その努力が報われず苦しむだけになるなら、その応援ほど残酷なものもないのかもしれません。
やめたいなら、やめてよいと思います。
でも、夢を追いかけて頑張っている姿は、
どんなにつまらない作品を書いていようが、
人から尊敬されるものですよ。
そして、
本当に需要のある作品を書けたとき、
無駄じゃなかったと思える瞬間はくるかもしれません。
くるか、こないかは、運もあります。
運だけじゃなく、
自分だけでドツボにはまるなら、プロにたよってまずは自分の考えを矯正することも必要かもしれません。
趣味と言い聞かせて、惰性でやれるなら、よいのです。傷つかない範囲で、やれるでしょう。
本気で自分という存在を他者に認めて貰いたいと思い、本気で体当たりしようとすれば、傷が付きます。死にたくなります。痛みで喚き散らしたり、気を失うこともあるかもしれません。
僕はそんな人を笑わない。頑張っている人はそれだけですごいと思うし尊敬します。
が、トレーニングも、無理して筋肉を痛めたら、逆効果です。筋肉を虐めるのは大事ですが、休養は同じくらい大事です。
失敗体験で学習無力感を蓄積するよりは、小さな成功体験ができるような環境を整えのは大事だと思います。
そう、環境です。
意識して環境(人間関係、執筆環境、ルーティン)を変えれば、
あるいは、なにかが変わるやもしれません。