そりゃもちろん文体に個性はあるよ。
いろいろ吸収して、それを自分の中で昇華させて「自分らしい文体」などと気にならないようになったら、もう知らずに身についてるものだと思うよ。
私の場合はむちゃくちゃ書いてた頃にハマってたのが浅田次郎と宮部みゆきで、かなり影響されてて文体に現れてる。けどそれも多分自分でそう思ってるだけで今はもう影も形もないんじゃないかな。
>これもある意味「自分らしさ」でしょうか?
それはたぶん「作風」で、文体の個性とは違うような気も。自分らしさという枠で言えばそうだと思うけど。
うーん。インプットよりアウトプットのほうが大事だけど、インプットがあったほうがアウトプットしやすいから、問題はその仕方ではないかな?
たびたび例に出す事なんだけど、宮部みゆきの「ドルネシアへようこそ」っていう短編で、その冒頭に「都営地下鉄日比谷線の六本木駅は、頭上に広がる街の鬼子である。」っていう一文があるのね。
これは「六本木にこの駅は似つかわしくない」って意味で作品全体から味が出てくる冒頭なんだけど、惚れ込んだので何度も利用させてもらった。
「〇〇王国の凱旋門は、その奥に広がる城下町の鬼子である」とか「煌びやかな装飾は、その本性を隠す張子の虎である」とか。
別にベースはパクってもいいのよ。それを自分の中でどう昇華するか、その工夫や自分なりにどう「自分のものにしたのか」が自分のセンスになるし自分のオリジナリティになるし、自分の文体になる。
いじくりまくりゃ元の面影は完全になくなる。そうなりゃベースはあくまで発想の起点にしたに過ぎない。
ようは、自分らしさって、出力した絵や文章それ自体にあるものじゃなくて、絵や文章を通してにじみ出てくる自分のセンスから来るものだから、そもそも「俺らしい文体ってなんだろう?」と気にしてるうちはまだまだ修行段階だと思うんで、どんどんパクって自分の中で昇華させていこう。
まあ、私の場合はこういうプロの惚れた文体を解体し分解しいじりまくるのが面白かったし好きだったのでこういう考えになったってだけで、これが正解って話じゃないけどね。