一つ書き忘れました。
◎読者と主人公(視点人物)の知識の一致。
これも重要なのではないかと考えます。
御作の冒頭、呪い屋の主人公がヤクザと商談していますが、主人公のふてぶてしい態度は演技らしいというところまでは何となくわかります。しかし、その背景(死神の能力と呪い屋の関係)まではこの描写では分かりようがありませんよね。そのため、主人公は人を呪い殺せるらしいのにヤクザごときを怖がっている理由がわからず、読者の脳裏に?がうかびます。
実は怖がっているようなのだけれど演技で隠していて、そうする理由がわからない。
これだと読者はこのキャラクターに共感しようがないことはお分かりでしょうか? 怖がっているなら怖がっている、怖がっていないなら怖がっていない、そしてなぜそうなのか明瞭にわかる。それでこそ読者はキャラクターと心理を共有できるということです。
もちろん。
主人公の全人生の知識を読者と一致させることは不可能です。ただ、物語の本筋にかかわる部分の知識はできるだけ一致していた方がいいのではないかと。
それによって、読者と主人公が歩調を合わせて物語を理解していくことができる、というメリットも生じます。読者と主人公に一緒に発見させ、一緒に驚かせ、一緒に悲しませるのです。
オイディプス王というキャラは隠された秘密が満載ですが、戯曲のスタート時点では本人もそれらを知りませんよね? そこがポイントだと思うんです。
むしろ観客の方は戯曲以前のオイディプス伝説を知っているでしょうから、観客は知っているけど主人公は知らないという逆の不一致はあります。
しかし、こちらの不一致は大丈夫のようです。
◎名作は何度読んでも感動できるという事実。これはなぜなのか考えてみると、見えてくるものがあるのではないでしょうか?
結末を知っているのに何度も同じ物語を再体験できる。ここにこそ「物語の力」があるのではないかと思うんですね。
一方。
物語の根幹にかかわる重要なことを主人公は知っていて読者は知らないという不一致は、少なくとも主人公への共感という点においてはかなりマイナスです。そして往々にして読者に物語を理解させる段取りの調整がむずかしく、そこを失敗した作品になってしまいがちなのだと思います。
ストーリーは時系列を守った方がいいと言われる理由の一つも、おそらくここに関わっています。
落語の『死神』では、何も知らない主人公が死神と出会うところから始まります。そして設定説明を、聴衆と主人公は一緒に死神から聞かされるのです。それから半信半疑でニセ医者稼業をはじめ、うまくいったから調子に乗って設定の裏をかくことをやりはじめ~、という流れを聴衆と主人公は一緒に体験していきます。だから、分かりやすいのです。
エンタメ・ストーリーの主人公に巻き込まれ型が多い理由も、おそらくこれ。
昨今、異世界転生モノが大流行した本当の理由もこれなんじゃないかと。これほど読者と主人公の知識を一致させやすい形式もありませんよね?
以上のことはあくまで基本であって、実作においてすべて杓子定規に守る必要もないのだろうとは思います。
ただ基本をしっかり把握したうえで、計算づくでバリエーションを加えていく姿勢は大切かと。