……それと、すみません、やはりもう1点。
>本当に現実を変えるほど「ドラマティック」であるということは、ドラマに触れた観客の生活が変わるということなのであり、そのきっかけはまだ日本で見つかっていないだけで必ずある、という「思想」を筆者は述べています。
私に言わせれば、それは思想ではありません。
ただ、繰り返しますが「設計思想」というような用法なら、思想の一種ではあります。
木下さんの論じる文脈において「思想」というなら、重要なのは明治日本における「近代の受容」という歴史的な課題に際し、当時の日本人が理解しがたかった「思想」とは何か?
そういう問いかけなのではないでしょうか?
ヨーロッパ特有の中世的権威の否定。キリスト教=神への懐疑。それは中世以来千年以上に及ぶ西洋の歴史を生きていない日本人には少なくとも体感として理解しがたいものです。(ジイドやドストエフスキーの作品を読むと少しだけ体感できる気がするのですが、本当の意味で理解できているのかどうかは分かりません。ただ、そういう巨大な何かの影くらいは知ることができました)
詳述するスペースがないので簡単に書きますが、19世紀西洋の文学者は神を否定してしまったゆえに「個人」という問題に悩み、そこから生じる精神的な葛藤を作品に盛り込んでいます。そのきわめて真摯な文学的態度に明治日本の文学者は衝撃を受け、しかし精神的な葛藤の内実を体感的には理解しきれなかったために、「文学は真摯でなければならない」という形で受け取ってしまったように思います。
でも、これって本末転倒だと思うんですね。
人間は悩む理由があるから真摯になるのであって、真摯であることそのものが立派なわけではありません。理由もなく真摯ぶってもしょうがなくね? ということです。
日本近代の文学者や劇作家にとって西洋文学の本質を取り入れることが困難だった理由は、以上のようなことと私は考えています。
「ドラマツルギー」とは、真摯な思想を表現するために精緻に鍛え上げられた技術ではあるでしょう。しかしあくまで技術であって、思想そのものではありません。よってエンタメにはエンタメの技術があるのであって、そこに優劣はつけられないと強く考えるのですよ。
ヒロインとイチャコラして読者を萌えさせる技術も立派な技術です。