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雷矢さんからの質問
プロットがうまく作れません。 (研究所の掲示板に書き込まれた文章を一部修正して転載しました) 電撃大賞に応募しようと、バイトのかたわらプロットを作っている雷矢です。 こちらの「新人賞の間」では応募用の作品を投稿されている方がたくさんいらっしゃるのに、雷矢はといえばまだプロットすら終わってないので正直、焦ります。 あわわわわ。 昨日その書きかけのプロットを妹に見てもらったのですが、(アラをプロットのうちに直せればそれにこした事はないと思うので)「ありきたりすぎ〜」とかさんざん言われ。(ぐすん) 「いいとこはないのかよぉ」 とか詰め寄ったりしました。いや、ちゃんと褒めてももらいましたが。 まぁありきたりと言われた所は直そうと思うのですが、「あそこはああした方がいいんじゃないか」とか「ここはこういう展開の方が」とか。 「冒頭はどうしようかな」とか「エンディングはどうしようかな」とか。 ぽわぽわアイデアが浮かんでは消え、仕事中にもいつも小説の事を考えています。でも生活費の為にはバイトをやらねばなりませんので、脳内メモリ占有率は仕事八割小説二割くらいです。 「プロットにこだわる事なかれ」とのお言葉がありますが、もっとうまいやり方があるんじゃないかといつも悩んでいます。 一度これと決めたものが、明日になるとダメダメに見えたりします。このままだとなんだかプロットが一生終わらなさそうで、どきどきそわそわびくびくしています。 皆様はこんな場合どうしていらっしゃいますか? ご助言頂けましたら幸いです。 では、失礼します。 ●答え● 元村良一さんが、この質問について非常に良い答えを掲示板にて書いてくださったので、これを掲載します。また、プロットの作り方については、第1研究室の『プロットを作ってみよう』で解説をしております。 元村良一さんからの答え プロットというのは、あくまでも「設計図」に過ぎません。 どんなに優れた設計図があっても、実際に完成した物が素晴らしいかどうは、作ってみないことには判別できません。 だから、プロットにこだわりすぎて、小説を実際に書き出せないというのは問題です。 プロットの製作段階では予想だにしなかったことが、 小説本文を書いている最中に必ずと言っていいほど発生します。 設計図作りは「机上の論理」なのですよ。 これを完璧にこなしたからといって、仕上がった作品まで完璧になると思ったら大間違いです。 設計図を作る建築デザイナーと、実際に建物を造る大工はまったく別の技術を要求されます。 また、プロットの書き方は人それぞれあるので、これに関しては「自分で見つける」か「他人の方法を参考にする」ということしかできません。 ここでは、参考までに元村流のプロットの作り方を紹介します。 まずは「自分が何を書きたいのか?」ということをはっきりさせてください。 その上で、必要事項を1つ1つ埋めていく。 つまり「登場人物」「ストーリー」「舞台」という3つの要素を埋めていく。 その他には「枚数」「制作日数」「タイトル」といった物も埋めていくといいでしょう。 経験上、一番困るのは「ストーリー制作」かな? あれがしたい、こんなことをさせたいという欲求が出てきて、どうにもまとまらない。 こういう場合は「場面」を箇条書きにしていくと良いです。例えば、 ・ AとB。森の中で出会う。 ・ 街の中でケンカする。 ・ 敵と戦う。 ・ 口論する。 その後「起承転結」に当てはめて、組み込んでいく。そうすると、すんなりいくと思われます。 繰り返すようですが、プロットはあくまでも「設計図」です。 設計図作りに熱を入れるのも大切ですが、小説を書くのであれば、全身全霊を込めなければいけないのは「小説を書くこと」であるはずです。 不安は誰にだってあります。けれども、失敗を怖れていては、何もできません。 失敗しなければ、それを教訓にすることもできません。 行動あるのみ、です。頑張ってください。 ▲目次に戻る |
黒豹 臨時さんからの質問
キャラクターを多く出しすぎてはいけない? (研究所の掲示板に書き込まれた文章を一部修正して転載しました) こんにちは、黒豹です。 早速出好けど、私の作品は何故かキャラクターが多いです。 人物として出来上がっているかどうかは、微妙ですけど、それでも大勢考えてしまいます。 中期に取り掛かる作品の内1作では、総勢キャラがサブを入れても100人超えます。 その作品の予定としましては、そこそこ長い長編モノとして予定しています。 そこで、質問なのですが、キャラクターは出しすぎては良くないのか、教えてください。 友人からの意見では、軽くダメだ! と言われました。 でも、長編趣向な私にとっては、最低でも10人近くは出したい所です。 では、失礼します。 ●答え● 元村良一さんが、この質問について非常に良い答えを掲示板にて書いてくださったので、これを掲載します。また、第1研究室の『タブー、これをやってはいけない!』でも同様の解説をしております。 元村良一さんからの答え 結論から言うとダメです。 理由は簡単です。描ききれないからです。 1人の人間を描ききるだけでも大変なのに、それが10人、100人となったら、どんなに枚数を費やそうとも、描ききるのは不可能です。 無理矢理描いても、それは「人物」として平坦な、ただの記号と化した魅力のない登場人物になってしまいます。 よくあるパターンとしては「AとB。キャラが被ってる(似ている)」とか「名前だけで、どんな人間かわからない」といった事例が、アマチュアの作品に多々見られます。 目安としては、50枚以下なら3人以下。 100枚から200枚なら5人以下。 400枚以内で8人以下……と言われています。 無論これらは「目安」に過ぎないので、多少の上下は構いませんが、大きく逸脱すると結局「人物が描き切れていない」と言うことで、ほぼ100%駄作になります。 また、上記の目安の人数は、あくまでも「主要登場人物の数」になります。 物語上、役割のない「端役」に関しては、その限りではありません。 例えば歴史物で言う「兵士」とかね。 「10万の大群が押し寄せてきた」ってなると、単純に出てきた数は10万以上になりますけど、主役と一緒にはできません。 人物とストーリーには、密接な関わり合いがあります。人間一人を描くのは、とても大変なことですし、その数が一人増えただけでも、物語が大きく変化することがあります。 きちんと「役割分担」をし、適所に適材を配置する。 それも重要な「登場人物設定」です。 単に、名前や年齢、職業や性格などを描くだけが「設定」ではありません。 そんな物は、ただの「プロフィール作り」です。 繰り返すようですが、登場人物は「記号」ではありません。一人一人みんな違うはずです。 趣味思考、性別、出身地、年齢……その辺りのことをきちんと理解し、正しい手法で小説を書かないと、それはただの「自己満足」になってしまいますので、ご注意ください。 弓一 さんからの意見 黒豹さん、はじめまして。 基本的に、元村さんの言われる通りだと思います。 第1研究室の「タブー、これをやってはいけない」にもある通りです。 > 早速出好けど、私の作品は何故かキャラクターが多いです。人物として出来上がっているかどうかは、微妙ですけど、それでも大勢考えてしまいます。 > 中期に取り掛かる作品の内1作では、総勢キャラがサブを入れても100人超えます。 > その作品の予定としましては、そこそこ長い長編モノとして予定しています。 10人と100人ではだいぶ違いますが……そこそこ長い長編がどの程度長いのかわかりませんが、400枚程度で100人超だとしたら、絶対やめた方がいいと思います。 たとえ100人、1人1人に特技があっても、「たまたま入った酒場のオヤジ」とか「話したこともないクラスメイト」に名前がついてるような感じにしかならないでしょう。 ……シリーズものなら、話は変わりますけどね。 最後に完璧に脱線して、 大勢の登場キャラがいる作品のお勧めとして小野不由美氏の「屍鬼」 を上げておきます。 (たぶん)ライトノベルじゃないし、めっちゃ長いですが、面白いし、150人以上でてきます。 どうしても、大人数を描いてみたいと思っていましたら、一度読んでみてください。 ……きっと、諦めがつくでしょう(笑)。 水無月さんからの意見 初めまして、黒豹さん。 なんだか久し振りの書き込み、水無月です。 大勢のキャラクターを出したい気持ち、わかりますよー。 でもそれだと、どうしても”自己満足“になってしまいがちなんです。 作者は、自分が描いたキャラの見分けがついて当たり前です。子どもみたいなものですから。 でも読者は違います。 よほど上手く描かない限り混乱を招きます。 どのくらいの長さの長編を書かれるかは知りませんが、やはり十人前後に押さえるのが賢明かと。 人物が大量に登場する小説の例として、「水滸伝」 を挙げておきます。 まっっったくライトノベルではない上にかなり長いのですが、おもしろいです。 Des Cruxさんからの意見 言いたいことは必ず大抵言われてしまうので、残るわずかなモノを言うしかないDes Cruxであります。 個人個人ありますが、僕はインヘリタンスと言う名前の小説がどうも好きになれません。 そこそこのプロットがあっても、その中にはキャラクターが多すぎて、 一人ひとりが浅はかになりすぎるからです。 これを防ぐため、できるだけキャラクターは少なめにしたほうがよいかと。 少ないことしか言えなくてすいません ▲目次に戻る |
ヴィクセンさんからの質問
既存の物とオリジナルを混ぜた世界設定はダメ? 『このライトノベルがすごい! 2005』でこちらのサイトを見つけてから、 ちょくちょく来させて頂いております。 さて、質問なのですが……。 最近は、ライトノベルのファンタジーでも、言葉の読みなどの多少の差はあれ、オリジナル要素を主面として構成されています。 これを見るにつれて迷いが出始めたのですが、今までの神話や作品に登場した存在や名称が殆どの割合が占めてしまう中に、自分のオリジナルの要素を詰め込んでしまって良いのでしょうか? 例えば、ゴブリンやオークなどが闊歩する世界に、自分の考えた存在が混じっているという状態なのですが……。 賞に作品を送ることを主眼に置いているのですが、そういう状態は良いのでしょうか。 それとも、オリジナルの要素のみで構成すべきなのでしょうか。 既存のものが使用できなくなったら、創作ということそのものに関わるという意見を他の方から以前頂いたのですが、賞に送るとなるとどうなのだろうと、まだ頭の中で迷っています。 何だか個人的な質問で申し訳無いのですが、似たようなことで迷っている方が他にいたら……そう思い、こちらで質問させて頂きました。 宜しければ、お答え頂けると幸いです。 それでは、失礼致します。 ●答え● ライトノベルは、なんでも有りの分野です。 どんなぶっ飛んだ世界観だろうと設定だろうと、おもしろければ官軍です。 それに作品の類似化、大同小異が問題にされている昨今では、いかに斬新なアイディアをひねり出せるかが、新人賞を受賞する際の大きなポイントになっています。 他人にはとても思いつけないようなネタやアイディアは、小説書きにとって強力な武器になるのです。 だから、発想に制約を設けるような考え方は危険ですね。 ただでさえ、社会に生きる私たちは分厚い常識のフィルターを通して物を考える癖が付いています。 例え「これはおもしろかも……」と感じる思いつきを得たとしても、常識のフィルターがそれを表に出す前にシャットアウトしてしまうのです。 アイディアを閃くためのコツは、まず常識にとらわれないということ。 だから、ゴブリンやオークなどが闊歩する世界に、自分の作った存在がいたらダメなのか? などと考えてはダメです。 世界観が破綻しないのであれば、問題ありません。 既存の枠組みなど、どんどん破ってイイのです。 そういう自由な発想ができる人間こそ、小説家に向いていると言えるでしょう。 映画監督のスティーブン・スピルバーグは 『僕は、本当は子供なんか理解していない。もし夢のある映画が僕に創れるとしたら、それは僕自身がいつまでも子供だからさ』 と語っています。 子供は常識になんてとらわれずに、自分が楽しいと思ったことには素直に従うでしょう? クリエーターにとっての天敵は、世間の常識。おもしろいと直感したことは、恐れずどんどん形にしてみてください。 無論、その中には使えない発想というのもあるでしょうが、100のアイディアを閃けば1つくらいは使える物が出てくるはずです。 あと、最近の傾向とか、流行とかは気にする必要は無いです。 そんなものに振り回されていては、あなたの個性(オリジナリティ)は発揮できません。 人にはそれぞれ得意とするジャンルや作風、文体というものがあります。 それを深めるようにしていってください。 ▲目次に戻る |
RENDさんからの質問
世界観に合わない描写の基準とは? 「世界観に合わない描写をしてはならない」という第1研究室でのタブーを読みました。 まったくもってそうだなとは思いますが、少し疑問があります。 例えば、西洋風ファンタジーのときには「仁王立ち」とか「観音開きの扉」とかは使えないものでしょうか? 他の表現で解決すべきですか? ●答え● 結論から言うと両方ともOKです。 世界観に合わない描写とは、例えば「冷蔵庫」や「テレビ」が無い世界で 『冷蔵庫のように中の食品を低温に保つ魔法の箱』 『テレビのように遠くの映像を映し出す鏡』 といった描写をすることです。 これらは、世界観を壊すのでタブーとされています。 しかし、「仁王立ち」という言葉は、比喩表現でありながらも、すでに日本語の熟語として定着しているものです。 「観音開きの扉」とは、左右の扉が中央から両側へ開くように作った開き扉の事です。本来、観世音を納める厨子(ずし)の戸をまねた扉を指す言葉でしたが、これも前述の意味の熟語として定着しています。 だから、地の文で使用しても特に問題はありません。 世界観に合わない描写のタブーに引っかかるか否かは、 使用する言葉が日本語の熟語として定着しているか否かで見分けると良いです。 ただ、これらの熟語をセリフで使うのはさすがにマズイですよ(汗)。 例えば、西洋ファンタジー世界のヒロインが、膝を抱えて 「弁慶の泣き所を蹴られたわ!?」 などと言ったら、ちょっと違和感を感じますよね。 お嬢さん、弁慶って何? という感じです(笑)。 他にも西洋ファンタジーの軍の指揮官が、兵士を鼓舞する際に 「ここが天王山と心得よ!」 と叫んだらどうでしょうか? 天王山とは、天正10年(1582年)山崎の合戦で、羽柴秀吉が明智光秀を破った場所です。 この故事から、勝敗や運命の重大な分かれ目を指す言葉として使われます。 でも、ファンタジー世界には当然、天王山なんてありませんし、秀吉と光秀の戦いも過去に起こっていません。 だから、こんな号令を発せられたら、兵士たちは意味がわからず混乱するでしょう。 また注意して欲しいのですが、ここで紹介した基準は絶対ではありません。 例えその言葉が熟語として定着していたとしても、読む人間によっては世界観に合わないと感じることがあります。 極端な例ですが、石で作られた橋が無い世界の地の文で、「石橋を叩いて渡る」という語句を用いた場合、違和感を感じる読者が少なからず出てくるでしょう。 だから、その言葉を使っても大丈夫か否かは、その都度、考え、もし心配なら他の表現に変えるようにしてください。 |
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