第4研究室 創作に関するQ&A 171P | トップへ戻る |
矢神千倖さんからの質問
 小説を書くにあたっての知識
 
 小説を書く場合、それに登場するものやことについて知識が必要なのは当然のことだと思います。
 さて、ここで疑問なのがどれほどの知識が必要なのかということです。
 ある人から寄せられた意見なのですが、
 小説に登場する全てのものやことについては専門家並の知識が必要である、とのこと。

 この意見を聞いた瞬間、僕は小説を書けないと思いました。
 それこそ、心理学や哲学から文学理化学まで、全ての分野を学ばねばなりません。
 それこそ、主人公がテストで悪い点を取って悔しさのため石を蹴ったとき、
 テストについて、学校について、石についてと、たくさんのことを調べなくてはならないのです。
 ただたんに主人公の前を通ってゆく車にしても、車がどういった背景で生まれたのかなど、
 調べねばならない、ということです。

 確かに、そこまですればリアリティのある、矛盾の極端に少ない密なものが書けるでしょう。
 そうまでしない人の書いた小説など小説ではない、との感想もいただきました。(最初の人とは違う)
 今までの僕の作品(といっても1つ2つくらいなものですが)は、
 確かに情報量不足でリアリティに欠けています。
 やはり、これくらいしないと良い小説は書けないのか、と感じました。
 皆さん相当頑張っているのだな、と。
 やはり、ほんの常識程度の知識だけで描いている僕はもっと詳しく掘り下げて調べ、
 それから執筆に移るべきなのでしょうか?


● 答え ●

亜留間 次郎さんの意見
 描写されない部分の知識は不要です。

 車が出てきたからと言ってエンジンの電子制御システムの仕組みまで知る必要はありません。
 教師が出てきたからとって教職課程の教科書を全部読む必要もありません。

 これは演劇や映画などと同じだと思うんですよ。
 背景にお城が出てくるかといって、本当に建てたとしても、
 その背後はスカスカのハリボテなのが普通です。
 本物を建てる予算も時間もあるわけないですからね。
 それでも感動的な映画が作られています。
 小説家だってそれは同じです。
 全てを知ってから描写することなんて不可能でしょう。

 小説を書くには必要な物と不要な物を正しく分けて、
 要な物だけを選択する能力が何よりも必要です。



Cさんの意見
 夜更かし中、Cです。こんばんわ。
 そんなこと言われたら私も小説書けませんですよ(苦笑)

 小説に必要なことだけ分かればいいと思います。

 そもそもその道の専門家でも、その専門分野について100%知っていて、
 何でもかんでも分かってるなんてことはありません。
 第一人者で一流の人であればあるほど、
 「自分が知ってることなんてごくわずか」と考えているはずです。
 
 必要なのは、むしろ想像力のほうじゃないかなと思いますが。
 
 例えば主人公が車オタクだったとしたら、どんな知識を持っているはずであるか。
 私は車のことなんかまるで分かりませんが、想像力を働かせれば、
 車メーカーの名前と歴史、車種、型式、構造……そんなものをは当然知ってるはずだろうな、
 という見当はつきます。
 街で車を見ても「○○社の××だな。あれはエンジンがいいから速度が出るだろう。
 おまけにちょっとカスタムしてるみたいだ」とか、そういうことも分かっちゃいそうです。
 そうすると、調べ物の方向性が決まるわけですね。
 ○○や××の中身を埋められるようにすればいいのです。
 なんかそんなことじゃないかなと思うんですが。
 いかがでしょうか(答えになってなさそうな気も……)。
 

らじがくさんの意見
 私的な意見を少し。

 まず、その作品にとって、重要な事、特に病気なら病気、学校なら学校、その他、
 地域が密接に関係するならその地域について、最低限の知識は間違いなく必要ですよね。


 私は、今、自殺者や、脊椎空洞症の人が出てくる小説を書いてますが、
 自殺者の感情や心理は勿論、考えに考えぬきましたし(ちょっと、死にたくなるくらい^^;)、
 脊椎空洞症についても、パッと、どういった症状で、どんな人がなるかぐらいなら容易に言えます。

 重要な事は、何を掘り下げるかでしょうね。

 まず、小説を書くにあたって、例えば、怪談ならば、百鬼夜行について〜とか、
 百物語を読んでもいいでしょう。

 必要な情報を、選別して、それを元に自分だけの世界を脳内に構築する事が、
 小説を書くにあたっての知識ではないでしょうかね?


 全てを掘り下げる必要はありません。必要な事だけです。


しきさんの意見
 こんにちは、矢神さん。いつもお世話になっております。
 さて、小説に対する知識量に関しての質問ですが。これは書く小説にもよると思います。
 ただ、学園小説、恋愛小説を書く上では常識程度の知識で書いて構わないと思います。
 わからないところが出たら随時調べるということで解決してください。
 
 主人公がテストで悪い点を取って悔しさのための石を蹴ったとき。
 テストについて、学校について、石について、調べなくてはならないと矢神さんはいっていますが。
 それは「本当に調べる必要があるとき」だけです、

 書く必要がないものまで調べる必要はありません。

 例えば、「主人公が蹴った石は、実は太古、エベレストの岸壁から崩れ落ちた岩が海に落ち、
 それが海流に乗って日本へと届いたものだったのだが。
 もし考古学を目指す主人公がそれを知ったら至極驚いただろう。
 しかし、そんなことを当時の主人公は知る由もなかった」などのように書きたいときだけです。

 それでも一般常識レベルの常識をつけたいのであれば、
 私は「図解雑学」シリーズをお勧めします。
 これは私も愛用しておりまして、概要的な知識を得るにはもってこいの書物。
 また、医学小説、歴史小説、ファンタジー小説についてでありますが。
 これについては注意が必要です。これを書く際には、かなりの知識量が必要とされます。
 はじめて書く際には、確実に間違いを指摘されます。
 私の場合、こういう小説を書く際には、知識なしでいいので、
 おおざっぱに書きたいストーリーを紙に書き出してみます。

 そして、そのストーリーが果たして知識的(医学的、歴史学的、科学的など)
 に正しいのかを調べます。
 それによって間違いを随時、撃滅していきましょう。

 注意してもらいたいのが、ストーリーをある程度確定させないうちに、
 知識ばかりを追い求めることをしないことです。私の経験ですが、はっきりいってこれは自爆します。


 というのも、私は以前、植物人間に関する小説を書こうと思ったのですが、
 ストーリーも未確定のままで医学書、薬マニュアル、手術手法などを調べました。
 すべての書物を揃えるのに二万円以上はかかりました。
 (そして、その二万円も結果的にドブに捨てることになったのですが)
 しかし、知るというものは怖いものでして、
 知識というものは得れば得るほど疑問が増えてゆく仕掛けになっているのです。
 例えば、盲腸の手術を私は調べていたのですが、まず、盲腸をどう手術すればいいのか。
 という疑問が出てきます。
 その疑問を解決するために盲腸手術の概要を知ります。
 すると、その手術ではどういうメスや器具を使うのか、麻酔はどんなものを使うのか。
 という疑問が生まれます。当然、それも調べます。
 すると、どうしてその麻酔でなければならないのか、他の麻酔だとどうしていけないのか。
 麻酔を別の場所に打ったらどうなるのか。という風になり、
 これを際限なく繰り返せば当事者ですらわからないほどの疑問にまで発展していってしまいます。
 
 何度もいうようですが、深く掘り下げて調べるのは、たいていはアイディアを出した段階で、
 本当にこれが正しいのかということを調べるときだけです。
 無論、小説を書いていないときにネタ探し、暇つぶし、知識集めに本を読むことはいいですが、
 それ以上深刻になって調べる必要はありません。

 ぶっちゃけていえば自分の興味のままに自然に書物などを読んでいけば、
 小説を書く上での最低限の知識はついていきます。


 長文末筆で失礼いたしました。参考にしていただければ幸いです。


但馬晴さんの意見
 ちょっと蹴っただけの石ころとか、ちょっと目の前を通っただけの車について長々と説明されても、
 読む方はウンザリするだけだと思います。
 調べても書かなければいいかもしれませんが、
 調べたことは書きたくなることが多々ありますので‥‥

 ただ、専門用語を使用するもの(野球のルールとか医学用語)は、
 間違っていると容赦のない突っ込みがあるでしょうから、念入りな調査が必要ですね。



脂さんの意見
 うん。どうなんでしょ。
 一番わかりやすい言い方は、
「わかっていることをわからないフリして書くのが一番楽」
 ということですかね。
 わかってないことをわかっているフリして書くのが一番ダメです。
 というか、そんな小説が投稿室や、ライトノベルでは出版されているレベルでも、
 ちらほら見かけるのですが、これはダメですねー。いただけません。

 私はよく言っているセリフで、ライトノベルはちゃんと物事を調べて書いているものが少ない、
 というのがありますねえ。
 最低限のことは調べて書こうよ、ということです。

 では知らないことはどうすればいいのか。それに関することは書かなければよいのです。
 自分の知っていることを中心に書けばよいのです。

 私がよく言っている「読者と共有の地平」という言葉には、この知識という要素も含まれています。
 作家は一人ですが、読者は不特定多数ですよね。
 その中で知識がある人がいればない人もいる。
 そのあたりの最大公約数が共有の地平の中の、知識という一要素となっています。

 逆に、専門知識がある人は、
 自分が持っている専門知識と関係ないテーマの小説を読むと思いますよ。
 小説なんか読むなら論文読んだほうがマシです。
 私は舞台劇場論あたりは専門ですが、そういう小説ってないですしねー。
 演劇論を扱った小説は(一般小説で)ありましたが、
 そういう特殊な題材はさすがによく調べて書いてありますね。
 
 マンガですが、ガラスの仮面なんかあれ深いですよ。
 後で読み返してまさかスタニフラフスキーシステム扱ってるとは思いませんでした。
 現代演劇文化である小劇場文化も見事に表現できています。
 また、ヘレンケラーの劇のモデルになった劇というのは、
 リアルでも非常に有名な演劇なんですよね。

 ガラスの仮面なんか読んでみると、スタニフラフスキーメソッドや
 小劇場文化という言葉はでませんが、それを抽象化して見事に表現していたりするわけですね。
 本質を見抜いているとはいえないと思いますが。

 作家としては、それらに関する知識を集めて、知識をひけらかしたり、
 組み立てたりするだけではだめです。それは学問がすべきことです。
 集めた知識を咀嚼し、自分なりに本質を見抜こうとすることが重要だと思います。
 主人公が一般人であれば、たとえその本質が専門家の見る本質と違っても構いません。
(専門家キャラ視点だとだめでしょうが)

 要は、抽象化です。
 オタク文化は、イメージの抽象化は非常に富んだ文化だと言えます。
 萌え絵なんてあれ浮世絵レベルの抽象化ですよね。
 しかし、それらに比べ、知識の抽象化に関しては未熟だと思います。
 オタク文化やサブカルが「動物的」と揶揄されるのは、こういったところからです。
 そしてこの傾向は、ライトノベルにも如実に現れていると思います。
 マンガやアニメならば、視覚や聴覚によるイメージが優先しますので、
 イメージの抽象化は有効ですが、ライトノベルは言葉によるものですよね。
 言葉と知識は非常に近いところに存在します。
 個人的には、小説がオタク文化にそのまま倣うのは違和感があります。

 とにかく、テーマになるようなものに関しては生半可な知識だけではだめでしょうね。
 読者に嘘を教えかねないわけですから。この責任感は必要だと思いますよ。
 それに、リアリティと、知識は別物ですよ。
 知識があるほうがリアリティをえやすいでしょうが、なくてもリアリティは構築できます。
 それについて書かなければよいのですから。
 ただ、いろんな知識、学問を知っていれば、上で書いたように書くのは楽になりますよね。
 知識があればネタを拾いやすく、広げやすく、掘り下げやすい、という言い方でしょうか。
 ただ、「やすく」なるだけにすぎないことも事実だと思います。

 うーん。作家としては知識は「広く浅く」ということですかねー。
 浅くても知っていれば、調べ物するとき楽になりますし。
 スペシャリストよりゼネラリストでしょう。


 うーん、作家としてなら、知識を得ることは後になっても財産になるわけですから、
 知識を得ることを先にやるのも構わないと思いますよ。


みつきさんの意見
 矢神千倖さま、こんにちは。

> 小説に登場する全てのものやことについては専門家並の知識が必要である

 なんてこと、絶対にありませんよ(^^;。
 知識は確かに大事ですが、それよりもっと大事なものは知性だと、私は思います。
 小説のリアリティというのは、個別の専門的な知識の集まりから生まれるものではなく、
 書く人の全体的な知性から生まれるものなのではないでしょうか。

 若いうちからバラバラの知識ばかりを溜め込むよりも、感覚を敏感にして、
 人や物や環境や、いろんなものの関係性、繋がりといったものを常に意識して生活していくほうが、
 よっぽどリアリティをもって世界を見ることが出来るようになると思うんですよね。
 だから、プロの作家さんたちは、若いうちにたくさん恋愛しろ、たくさん仕事しろ、
 何でもまず身をもって経験しろ、と口をすっぱくして言うわけで。
 ついでに書くと、『知らないということは創作の最後のジャンプ力だ』
 という言葉もプロの作家さんが言っていました。はい。

 なんでも、まず、人や物事の大きな流れというか、そういうものを体の感覚として掴んでから、
 必要とあらば専門的な知識を得るほうがしっかりと身につくものです。
 買い物と同じで、本当に必要で集めた知識は役に立ちますが、そうでないものは、
 狭い部屋を占領するだけの、ただのゴミになってしまうものなんですよね。
 そうなると掃除はしにくくなるわ、風通しは悪くなるわ、気分は滅入ってくるわで……
 いや、これはいいか(^^;。

 と、つい説教じみたことを書いてしまいました。
 つまらない話はこれくらいにして。さよならさせていただきますね。
 それでは。


脂さんの意見
 うん。
 知識、知恵、知性。あやふやになりそうですね、ここらへん。
 なので最近は、総合的なそれらを「知」と呼んだりしていますね。
 某大学の教科書なのにベストセラーになった本で「知の技法」というのがあったりします。
 理系の私はざっと読んでだめだこりゃ、なんて思ってましたが。蓮實一派は妙に肌にあわない^^;

 まあ、最近では、その総合的なところを表す「知」に、接頭語をつけて表現したりしていますね。
 哲学的知であるとか、自然科学的知であるとか、数学的知であるとか、神学的知であるとか。
 現代では、知識知恵知性では割り切れないほど知が蔓延してるからでしょうねえ。

 例えば、みつきさんのおっしゃっている

> 感覚を敏感にして、人や物や環境や、いろんなものの関係性、
 繋がりといったものを常に意識して生活していくほうが、
 よっぽどリアリティをもって世界を見ることが出来るようになると思うんですよね。


 などは、私は「演劇的知」と呼ばれているものかなーなんて思いました。
 (って知りつつ書いておられそうですが)

 演劇的知というと演劇に限っていそうですが、
 物語により揺り動かされる「知」も、この「演劇的知」に入っていると思います。
(というか、この言葉を使い始めた哲学者の、その時の著作の題材がバリ島演劇だったから、
 こう書かれたのであって、演劇論一般とはあまり関係がなかったりする言葉なんですよね^^;
 哲学用語なんです)

 どこかで書きましたが、学問は「知の共有」を命題にしていますが、
 その「知」は理論的な、数学的な、理によるものによって構成される「知」に限られています。
 これを「近代的知」と呼んだりします。神学は除いた、哲学的知、自然科学的知、
 数学的知などをひっくるめたものですね。(哲学はポエジーまでいくとはずれそうですが)
 その「近代的知」からこぼれたところの「知」の共有を担うのが、「演劇的知」である、
 と私なんかは思っています。

 こう考えると、物語には理じゃないところが重要ということがなんとなく理解できると思うのです。
 ただ、土台はそこにあっても、理による「知」は、
 主に「読者との共有の地平」を構成するのには重要な要素だと思うのです。

 自分の感覚というのはあくまでも自分の感覚にすぎませんよね。
 それを他人と共有するためには、やはり理による「知」、
 みつきさんのおっしゃる「知識」もある程度必要になるんじゃないかな、と私は思います。


みつきさんの意見
 脂さん、こんにちは。

 えっと、私も、『個人的感覚を他人と共有するための、ある程度の知識』
 というのはとても必要だと思っています。
 ただ、矢神さんの最初の書き込みにあるような、

> 主人公がテストで悪い点を取って悔しさのため石を蹴ったとき、
  テストについて、学校について、石について と、たくさんのことを調べなくてはならないのです。

> ただたんに主人公の前を通ってゆく車にしても、車がどういった背景で生まれたのかなど、
  調べねばならない、ということです。


 というようなことまで細かくやらなくても小説書けるよー、他に大事なことあるよー、
 ということを言いたかっただけなのですが、うーん、ちょっとダメな書き方だったかしら(^^;。
 お手数をおかけしてしまいました。
 
 それでは簡単ですが、これにて失礼させていただきますね。


橋方悠吾さんの意見
 橋方と申します。
 このテーマに惹かれて書き込んでいます。

 知識は、物語や世界を想像する際の「種火」としての役割を果たせれば十分かなと思います。
 
 脂さんが先ほどおっしゃっていたように、
 巧く知識を抽象化することで魅力的な世界を描けると思います。

 厳格に知識に準拠しすぎては、かえってつまらなくなるかもしれませんので、
 リアリティを高め、世界を魅力的にするのに使えそうな部分をピックアップして、
 それらを想像力の「種火」としてご活用すればよいのではないかと思います。

※専門知識にこだわりすぎて、もてる知識をそのまま読者にぶつけたり、
 見せ付けるのは最悪だと思います。それではただの自己満足。
 書き手のほうで自分なりに消化して、
 加工して読み手が飲み込みやすいように料理してあげることは必須だと思います。


●知識を上手に活用している事例について(個人的感想)
 ストーリーだけでは差別化が難しいとか、従来の作品の焼き直しだ、というような場合、
 設定で特徴を出すというアプローチが考えられます。
 緻密でよく練り上げられた世界観で読み手を魅了するというアプローチでいうと、
 たとえば「マルドゥック・スクランブル」「シュヴァリエ」の冲方丁さんは、
 ストーリーもさることながら、歴史的な背景や世界観の作りこみも目を見張るものがあるなと、
 個人的には感じています。


●その他思うこと
 使い古された従来の世界観、たとえば魔法ひとつとっても、物理や化学の知識を踏まえて、
 独自の世界観でリライトすれば、また一味違った魅力が醸し出されると思います。
 たとえば浅井ラボさんの「されど罪人は竜とおどる」の魔法設定を例に挙げることができます。
 大学初年度までの教科書の範囲の知識だけでも、
 あれだけのユニークな描画ができる例と思います。
(化学、物理、量子力学の入門的知識があれば恐らく十分)

 計算式や図式まで覚えて理解しようとすると大変かもしれませんが、
 文献を読んで何か「インスパイア」されるものがあったら、
 それをひたすらメモしてデータベース化すれば、有効ではないかと思います。


●結論的には……
 ある程度の知識を準備して、それらを「種火」とすることで、今までよりも想像力が豊かになり、
 魅力的な世界や人物が描ければそれで十分知識の役割は果たせていると思います。


 思いつくまま長く書き連ねてしまいましたが、何かしらのご参考になれば幸いです。
 また、ご意見・ご感想があればぜひお伺いさせてください。


みずさんの意見
 こんばんわ。
 事の発端となったであろう感想の片方は多分私だなと思う、みずです。

 小説を書くにあたって必要なのは、一般常識があれば大丈夫だと思います。
 (特に専門的なことを題材にするものでなければ)
 ただし、適宜、「自分の常識を確認する」という過程が必要になるのではないでしょうか。

 人によって「常識」の範囲は異なります。
 自分が常識と思っているものは、正しいのか間違っているのか、世間でも常識で通用するのか。
 自分では常識的だと思っていても、他の人から見れば全くの世間知らずということもあるでしょう。
 少なくとも物語の主題にしようとしていることに関しては、
 一度知識を確認する作業をはさんだ方がいいだろうと思います。
 無知故に無茶苦茶なことを書くのと、知った上で常識を覆すのとでは、
 物語の深みが全く違ってくると思いますから。


峰しずくさんの意見
 こんにちは。

 もっと気軽に考えて、気軽に書いてください。
 この世のこと全てを知るなど所詮不可能なんですから。
 「そうまでしないと小説ではない」と言われた方が、僕のそばにいたら、
 「小説は娯楽なんだから、そこまでしたらそれは既に小説ではない」と僕なら言います。

 ただ、野球の物語を書こうと思ったら、野球のルールを知らなくてはいけません。
 では、ルールを知っていればいいのでしょうか?
 多分「俺はルールを知っている」という程度で書けば、
 「おまえは野球のことを何も知らないのに書いているから、中身が薄い」ということになるでしょう。
 例えば、「送りバント」「スクイズ」「敬遠」「ヒットエンドラン」など、
 様々な作戦が野球では駆使されます。

 9回裏ツーアウト満塁で、点差が3点。
 ここにいわゆる「一発屋」が代打で登場します。
 一発屋は、ホームランか三振か、ていう打ち方をするんで有名です。
 監督は当然、「三振してもいいから、ホームラン狙いで行け」と言うでしょう。
 一方、守るほうはどうでしょうか?
 三振を狙うのか、それとも内野ゴロを一塁でアウトでゲームセットを狙うのか、
 あるいは敬遠押し出しで1点を与えても、この打者のホームランを阻止するのか。

 このあたりのことを書く程度の知識は必要です。
 それがリアリティでもあり、ストーリーの面白さでもあるからです。

 テストで言うなら、テストには「定期テスト」あり、業者の「統一模試」あり、
 成績に影響しない「小テスト」ありで、そのテストによって、
 同じ悪い点をとっても主人公の落ち込み具合は違うはずです。
 きっとアドバイスくださった方は、そこんところを書かないとダメだよ、
 と言ってくれているのだと私は思います。


ぺーさんの意見
 知識は重要です。
 自分も「ちゃんと調べて書きなさい」と、同じようなことはよく言います。
 本当に専門家になれと言っているのではありません。
 そんなに簡単になれるなら専門家は食っていけませんから。

 必要な知識は調べて書いた方がいいよ、ってことです。
 調べる過程で、知らなかったら浮かばなかったであろうアイデアも浮かびます。

 わからないからあやふやにして書く、というのは避けた方がいい。
 結構それで書けてしまうから危険なんです。これでOKと思ってしまう。
 細かいところまで書くかどうかは全く別問題です。知ってて簡略化してるのと、
 知らないからあやふやにしているの、結構ばれるものなんです。読者をなめてはいけません。

 「この意見を聞いたとき、僕は小説を書けないと思った」
 の後の一連の石やテストを調べろと言うのか、と言う下りは少し悲しくなります。
 あなた自身が自分の話にリアリティがないと感じているのでしょう?
 アドバイスしてくれた方は、良かれと思って言っているのであり、
 あまり悪意のある取り方をされてはいけません。
 
 創作術には人それぞれにポリシーがありますから、違うと思ったら聞き流せばいいだけです。
 自分にあったものだけ取り入れましょう。


 どの程度調べるかは個人の問題。人によってまちまちでしょう。
 自分自身で見極めるべきもの。そのラインがわからないというのは一種の練習不足です。
 知識は重要、でも必ずしも必要ではない。いる知識かいらない知識か。
 自分の目で見極めてください。取捨選択です。


日路さんの意見
 こんにちは、日路です。

 さすがに専門家並の知識はいらないと思いますが、
 その筋の入門書レベルのことは知っておいたほうが良いと思いますよ。

 ただし、「調べる」ことと「調べたことを小説内で書く」ことは全く別の次元の話です。
 100調べたら、そのうち小説内に出すのは0か1。

 それでも、知らないで書くよりは、知っていたほうが深いものが書けるはずです。

 余談ですが、私は資料は図書館で探します。
 豆知識程度ならその場で暗記、必要ならメモかコピーをとっています。
 執筆→疑問や不安発生→図書館で調べ物→執筆……と、
 資料探しと執筆をほぼ平行して行います。近所に図書館がごろごろあるからできることですが。


緑葉さんの意見
 どうもこんばんは。緑葉と申します。

>小説に登場する全てのものやことについては専門家並の知識が必要である、とのこと。

 その通りだと思います。少ないと困るが多くて困る場合の存在しないもの、それが知識ですので。

>それこそ、主人公がテストで悪い点を取って悔しさのため石を蹴ったとき、テストについて、
 学校について、石についてと、たくさんのことを調べなくてはならないのです。


 面白い事をお考えですね。誤解しないでください、けなしてません。その通りだと思いますので。
 いくら腹が立ってたといっても、
 蹴った小石が1kmもの彼方まで飛んでったらおかしいですもんね。

 でもそれが創作最大の魅力、即ち「創造世界」なのではないでしょうか。

 小説の中は日本ではありませんよね。
 もっと大局的に見るならば、地球の中ですらないと思います。
 作者の頭の中にある、全く別の世界。仮に日本が登場したってそうです。

>確かに、そこまですればリアリティのある、矛盾の極端に少ない密なものが書けるでしょう。

 その通りですね、矛盾の極端に「少ない」密なものは書けるでしょう。
 でもどこまで似せたって現実と小説は重なりませんよね。
 知識はストーリーに深みを与えます。これはもう間違いないことだと断言できます私は。
 が、それとは逆に知識は自身を常識で縛り付けます。
 常識で縛られた作者は脆い。創造がしにくくなるわけですから、
 結果創作ができなくなっていきますよね。
 今の矢神千倖さんのお悩みはまさにそれだと思います。
 調べておいて損はない、より具体的には場面を追加したり、切り替えたり、
 増やしたり出来るようになる程度のもの。それが知識だと思います。

 何が言いたいのかといいますと、

>主人公がテストで悪い点を取って悔しさのため石を蹴ったとき、テストについて、学校について、
 石についてと、たくさんのことを調べなくてはならないのです。


この部分。
・テストについて(想像ですがどんな科目、内容、そして○と×の配分と理由あたりでしょうか)
・学校について(間取り、生徒数、雰囲気、制服、机や椅子の形、庭の大きさetc)
・石について(大きさ、重さ、位置、蹴った時の反応、主軸との関係性)
 この位細かく考えれば、とてもリアリティのある場面が描けると思います。
 
 ですが読者はそこを読みません。なぜってストーリー自体に関係ないんですから。
 一度読んだらそれっきり、です。


 車について比べてみるともっとわかりやすいかもしれません。

・どんな色、形、メーカー、乗員、スピード、ナンバープレートだったのか。

 あなたは目の前を通り過ぎた車に対し、以上の全てを一度に挙げる事ができますか?
 せいぜいが色と車種程度でしょう、気にするのは。
 男と女が何人乗ってるかすら、普通は気付かない(気にしない)と思います。
 ストーリーにも同じ事が言えます。
 そこにどんな風景があるか、読者はそれを単語ではなく描写から連想します。
 私は今、机に片肘を突いてもう片方の手で教科書を持っています。
 5分後に先生が入り口を開けるはずです。
 ↑「私」が何処にいるか、おわかりいただけるかと思いますがいかがでしょうか。

 正解は教室です。
 机の数も椅子の形も黒板の有無もチャイムの音も何も書いていませんが、伝わりませんでしたか?
 場所だけでなく、その場の風景や雑音、人物の動きなどもおぼろげに浮かんできませんでしたか?
 必要ないものは省く、そういう目を養うのも、立派な描写力です。
 知識をつける事は良い事です。やって損する事はまずありません。
 が、身につけた知識を全て言葉で表す必要はありません。
 その方法を学ぶ機会として利用するべきだと思います。
 要は方法論の問題ではないでしょうか。


脂さんの意見
 ん、なんかおもしろいことに気付いたので。

 みつきさんへの横レスで「近代的知」と「演劇的知」という話をしました。
 この「近代的知」の元を探ると、デカルト主義の、精神と物体二元論に突き当たります。
 物体は物体で普遍的なものなので、自然科学が成り立つわけですね。
 一方、精神は精神の中で囚われたからこそ哲学では観念論などが生まれたわけです。

 「演劇的知」というものは、それら数学や弁証法などの「理」による知の集大成から
 こぼれたところの「知」の共有を担いうるもの、と言いました。
 私はみつきさんの

> 感覚を敏感にして、人や物や環境や、いろんなものの関係性、
 繋がりといったものを常に意識して生活していく


 という言葉はよくこの「演劇的知」を表していると思いました。
 この「関係性」が重要になってくると思ったのですね。
(ちなみに「演劇的知」という概念を生み出した哲学者中村雄二郎氏によれば、
 この言葉の前身は「パトス(情念)の知」だったそうです。こちらの方がわかりよいかもしれません)
 でもこれだけではわかりにくいですよね(汗)

 例えば、

> 主人公がテストで悪い点を取って悔しさのため石を蹴ったとき

 という文章の中の、「テスト」ということを考えてみましょう。
 テストにおける「科目、内容、点数」などは「理」によって定められます。
 もちろんこれで「テスト」なるものが確かなものになります。リアリティは得られますね。

 しかし、ここで主人公のことを考えてみましょう。
 勉強ができる主人公か、勉強ができない主人公か。
 それによって「テスト」の性格は変わりませんか?
 前者なら、自分のアイデンティティを保つための道具かもしれません。
 後者なら、恐怖の対象かもしれません。
 「理」よって細分化された項目である「点数」だって変わりますよね。
 例えば同じ80点であっても、前者と後者で全く違う意味になります。
 デカルト主義だと「テスト」は「テスト」、「80点」は「80点」なのです。
 
 この精神と物体の関係性によるものを認めたところで得られる「知」が、
 (知性などと呼ばれるものかもしれません)
 「演劇的知」ではないか、ということをシンボリックに表している事例かと思います。

 無理すれば、蹴飛ばす「石」だって変わりますね。
 「石」の重さ、材質、分子構成、量子力学まで、色なら視神経に関する知識まで必要になります。
 蹴飛ばした速さを考えるなら特殊相対性理論まで考えてもいいわけです。
 これらは「理」ですね。主に自然科学という「近代的知」です。
 ここでは、「石」は「石」なのです。
 しかし、勉強できる子ならば、「石」にふがいない自分を見出して蹴飛ばすかもしれません。
 勉強できない子ならば、テストを作った先生や、
 叱られるかもしれない親を見出して蹴飛ばしているかもしれませんね。
 「石」の持つ性格は違ってますね。

 上の例をみれば、どちらが物語に重要なのかわかりやすいかと思います。
 上の例をみて、そんなん心理学みたいなもんじゃん。所詮「理」じゃん、という方もいると思います。
 私もこれが「演劇的知」の本質だとは思いません。 
 あくまでシンボリックに表現したもの、と捉えてください。
 あえて言うなら。
 上の例で勉強ができる子がテストで悪い点をとったとしましょう。
 しかしそこで蹴飛ばす石に、自分のふがいなさではなく、
 ある女の子を見出して蹴飛ばしたとします。
 わけわからないですよね。心理の「理」からは外れています。
 けどその心理の裏にいろいろな可能性が想起されますよね。

 これが「劇的なるもの」であり、その時に、この文章と読者の間で得られる情念のゆらぎというのが
 演劇的知というものに近似できるかな、と私なんかは思っています。
 このあたりは、同じ文学である詩の方が直接的に関わっているのではないでしょうか。

 しかし。
 近代的知も、演劇的知も、「知」には変わりありません。
 演劇的知の方が物語の本質に近いところにはありそうですが、近代的知も私は否定しません。
 そもそも小説という芸術は詩や演劇などと比べまだ若く、
 近代的知の影響を大きく受けているからです。
 近代的知の元になった哲学は言葉による学問です。その言葉を用いた芸術になるわけです。
 また、現代は科学信仰と呼べるべき時代でもあります。
 こんな時代で「理」による「知」は無視できません。
 逆に、橋方さんが仰っているように「理」による「知」の集積を抽象化などして、
 うまく用いることで得られる感動、演劇的知もあると思います。
 ここで初めて専門家がどうのという話になると思いますよ。

 とまあ、そんな感じで。
 矢神さんの場合、一概に知識を漠然と捉えたりするから、
 恐怖感を味わってしまっているのではないでしょうか?


黒尻尾の駄猫さんの意見
 通りすがりの野良猫です。
 オイラなりの答えを残します。

 今回のお問い合わせで、トルーキンという人が書いた
 「指輪物語」と言う物を思い浮かべて考えました。

 知識。そう、「指輪物語」と言う作品に登場する妖精種族のエルフ、ドワーフ、トロール、
 オーク等の名前は北欧やブリテンの伝承を有る程度調べないといけないかもしれません。
 でも、「指輪物語」って、種族の名前以外は全部「創作」なんですよね。

 今の日本のファンタージー感というか、結構世界的なスタンダード的な印象がある作品ですし、
 エルフとドワーフが仲が良くないとか、エルフがえらいタッパがあって長寿だとかの種族的性格や
 特徴やら、結構「指輪物語」が原典な感じですが、あれは9割以上「創作」のお話しで、
 資料なんざほとんど集めてないような気がします。

 だって、エルフと言えば10センチくらいの羽の生えた悪戯好きの小妖精ですしね。
 (ピーターパンのティンカーベルやベルセルクのパック)
 ドワーフだって、かなり小さい(ディズニー白雪姫に出てくる7人の小人とか)。
 ちゅーか、のんきそうなトロル(ムーミンですね)がどうしたら、
 3メートルほどの日光に弱い巨人になるのでしょう?
 死を司る神オルクスが何をやったら豚顔の集団になるのでしょう?
 (まあ、オルクスは豚づらだった気もしますが)

 ホビットなんか完全創作だし(そんな妖精の伝承は存在しません)。
 中つ国とか、世界設定も全部トルーキンオリジナルなはずです。

 そういう意味では各地の伝承から妖精の名前を拝借しただけの完全創作ファンタジーが、
 「指輪物語」じゃないかと想うのですよね。
(武器の扱い方とかも嘘が多いというか……まあ、良くも悪くもファンタジー^^;)。


 小説はその作品のストーリーを読んで貰うものだと想うのです。
 ストーリーにより深く感情移入して貰うためには、作中の小物や設定に説得力、
 と言うか納得力を持たせる事も「手法の1つ」であり、
 ディティールをより明確に表現したりする事は一般的な方法でもあります。
 その為には、近い物や、その物についての詳細な知識があった方が良いでしょう。

 でもキャラクターの造形やそれらの遣り取り、
 背景の大まかなイメージでストーリーを流していく事だって出来ます。
 「指輪物語」は伝承やら伝説をあまり反映していません。
 むしろ知っている人間が読めば、違和感を感じる作品かもしれません。

 でも、壮大な冒険小説で、ソレまでになかったファンタジー感を確立した名作です。

 小説はエンタメであり、ドキュメンタリー以外はフィクションであり、
 創作において知識とは「1つの要素」であるとオイラは想います。

 知識はないよりあった方が良いかも知れませんが、
 それだけに拘ってしまうと面白い作品は書けないような気がします。


 嘘でも引き込まれる納得力の作品と、妙に現実的な幅の狭い作品なら、
 オイラは面白い嘘に飛びつきます。
 そうじゃないと世の中の大半のフィクションはバカバカしくなって楽しめなくなってしまうですよ。
 ではでは。


羽月さんの意見
 どうも、この掲示板に来て、まだ時間たっていない新参者の羽月です。以後おみしりおきを。
 僕はそんなに調べない方です。
 企画を立てる際に、重要な設定だったら多少は調べますが、それぐらいです。

 それでも、それを実際に小説に出すのはほんの一部です。
 これぐらい知っていればどうにかなるんじゃない?
 程度で、足りなかったら追加で調べる。
 マイペース街道まっしぐらの僕にはこれぐらいのアンバイが丁度いいように思えます


出城さんの意見
 自分の書く小説の題材については、徹底的に調べるべきです。

> それこそ、主人公がテストで悪い点を取って悔しさのため石を蹴ったとき、テストについて、
  学校について、石についてと、たくさんのことを調べなくてはならないのです。


 そりゃあ、大きく言えばそういうことでしょう。
 しかし、この石は、凝灰岩を主成分としたナンタララ、
 なんてことは、物語に全然かかわってこないでしょう。
 たとえば、もっとも考証が必要な小説のジャンルはなにか、
 というと、おそらくサスペンスやミステリーだと思います。
 殺人事件が起こって、犯人を特定して、追っかけて、捕まえて、という流れの中に、
 化学、犯罪者心理学、人体工学、歯学、医学、機械工学、
 現代の物流システムをはじめとした経済学など、
 完璧に理解していなければいけない事柄が山ほどあります。
 現在、ライトノベルにサスペンスものは少ないですが、
 まぁ、教養、知識のない作家には厳しいってことでしょう。
 面白いものを書くのに、それくらいのこだわりが無ければいけないということでしょうか。

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