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「もしもーし」
彼は眠っていた。前日は気を張りつめっぱなしだったので、とにかく疲れていた。 「おーい、朝ですよー」 外では風が唸っている。また明日も吹雪だろうか。三日後にはここを出るので、それまでに天気が回復すればいいのだが。 「ご主人様ー、起きてくださいー」 それにしても寝心地のいい布団だ。高級羽毛布団だから当然か。明日の朝目覚めた時、きっと爽快だろう。 「起きないとくすぐるぞ」 こしょこしょこしょこしょ。 全身を走る、むずがゆさの極地。 「っだぁぁ! さっきから何なんだお前は!」 高級羽毛布団を大きく跳ね上げて、彼はベッドの上に勢いをつけて起きあがった。 「やあ、おはよう」 「まだ深夜二時だっ!」 「正確には二時二十三分だな。私のことはアザゼルと呼んでくれ」 「何の脈絡もなく冷静に自己紹介してんじゃねぇっ! しかもなれなれしいし!」 腹の底から気合いを入れて怒鳴りつけたあと、彼は少し後悔した。 いつの間にか灯されていた淡い間接灯に照らされていたのは、恐ろしいほどの美貌の主だったのだ。 うなじまでを覆う黒髪は光を受けてさらさらと輝き、大きな翡翠色の瞳は楽しげに笑みを浮かべている。女性の柔らかさと男性の強さを兼ね備えた面差しからは、性別を判断することはできない。 しばし見とれ、だが今はそんな場合ではないと思い直す。優先すべきことがあるではないか。 「……人の部屋で何をしてるんだ?」 「夜ばいではないので安心してくれ」 「ああそうか。それは何よりだ。というかどうやって入った?」 「実は、少々困ったことが起きたので、相談に来たのだ」 アザゼルと名乗ったその人物は、当然の質問を無視してぽすんと彼の隣に座った。その名前と顔立ちからして日本人とは思えなかったが、言葉はずいぶんとなめらかで語彙が豊富なようだ。 「相談?」 「うむ。君が最も適任だからな。御堂龍彦君」 いきなりフルネームで呼ばれ、彼――御堂龍彦は目を見開いた。 「夕食の席には遅れてしまったが、ここの主人が君を特に招待したがっていたことは小耳に挟んでいた。今までいくつもの難事件を人知れず解決してきた名探偵に、極秘裏に解決してほしい相談事があるらしいとな」 確かに、龍彦がここ北海道富良野市にほど近い、大蔵正信氏所有の別荘に招かれたいきさつは、アザゼルの言ったとおりのものだった。正信氏は資産家で、その立場の者に特有の悩み事を抱えていた。龍彦の友人から噂を聞いたとかで、旧知を装って彼をここに招いたのである。 「私も同じようなものだ。雪がひどくて、つい先ほど到着したばかりなのだが、部屋でシャワーを浴びてみると、ちょっと困ったことになっていてな」 「んで、何があったって?」 質問してから、堪えきれずあくびが出た。 アザゼルはそんな龍彦を見てくすっと笑った。 「うん。実は、部屋に怪我人が倒れていたのだ」 やや前傾気味の姿勢だった龍彦は、勢いよく床に落ちた。 「のんびり話しこんでんじゃねぇっ!」 「手当はしてあるから大丈夫だ」 「そういう問題かっ! どこだ現場は!」 アザゼルの腕をひっつかみ、龍彦は廊下へ飛び出した。 被害者は、大蔵正信氏。頭部からの出血はひどかったが、適切な応急処置が功を奏して命に別状はなさそうだった。ちなみに、手当をしたのはアザゼルだった。 「これでも医学部卒業資格を持っている」 えっへんと胸を張っているアザゼルを、龍彦は無視して正信の話を聞いていた。 「では、後ろからいきなり?」 「そうだ。部屋に戻ろうと歩いているところを……」 ソファーに横になった正信は、傷がやはり痛むのか顔をゆがめている。 「傷が浅くてよかった」 そのそばには、正信の妻美子が付き添っている。おとなしげで、常に夫を立てているような女性だ。 「それに、医学の心得のある人がいてよかったですよ。この吹雪じゃ病院まで行くのも難しいですからね」 「ほんとね。ほら、風の音すごいわ」 ひょろひょろと軽薄そうな若者が、追従するように口を挟む。大蔵夫妻の甥に当たる戸田政夫。二十歳の大学生だが、童顔で幼く見える。彼の隣に座っているのは、夫妻の娘敏江だ。 誰もが正信の怪我が軽いことを喜び、安堵しているように見えた。そして、暗黙のうちに不文律を守っている。 ――誰が正信を殴ったのか。一人として言及する者はいない。 龍彦は、そっと正信の方を伺っていた。傷口の状態で、どのように襲われたのかがわかる。それが加害者を知る大きな手がかりとなる。 「これは不可解な事件だぞ、龍彦」 いつの間にか背後に立っていたアザゼルが、ぼそっとささやいてきた。 「何だよ」 「詳しいことはあとで話す。大蔵氏を部屋へ運ぼう」 「? ああ……」 訳がわからないまま、龍彦は政夫にも手を貸してもらい、アザゼルと共に正信を部屋へ連れて行った。頭部に巻かれた包帯から赤く血が滲み痛々しい。振動を与えないよう気をつけて狭い廊下を歩きながら、傷口にも注意を向けていた龍彦は、そこでふと違和感を覚えた。 「ここだ」 廊下の奥からふたつ目のドアの前で、正信が声をかけてきた。はっと足を止め、龍彦はアザゼルと歩調を合わせ、政夫が開けた扉の中にそっと進んでいった。 「ゆっくり休んでくださいね、叔父さん」 「ああ。騒がせてすまなかったな」 政夫は人の言い笑みを見せ、龍彦達にも挨拶をして退室していった。 残った二人に、正信はおっくうそうに目を向けた。やはり、彼自身からも話があったようだ。 「御堂さん……それに、アンヘル先生」 「私は医者ではないのだし、改まった呼び方をしなくても結構だ」 龍彦がぎょっとしてしまうような物の言い方だった。アザゼルはどう見ても二十代半ばといった印象で、正信から見たら自分の子供のような年齢だ。しかし正信は不快に思うことはなかったようで、表情も変えずに「では」と続けた。 「先ほどお話ししたとおり、私が殴られたのは廊下です。倒れた直後に、気を失いました……。しかし、アンヘルさんのお話では、私はあなたのお部屋にいたということでしたね」 「そうだ」 「って、それは」 思わず口を開いた龍彦を、アザゼルは視線で制した。 「私はその時間帯シャワーを浴びていた。当然、部屋の鍵はかけていたぞ」 「……じゃあ」 突拍子もない仮説が、瞬時に龍彦の頭をよぎる。あまりにばかげた考えであることの自覚が、それを口に出すことを彼に躊躇させたが、アザゼルの方は何の衒いもなくさらりと続けた。彼が思いついたその通りのことを。 「誰かが私の部屋に、あなたを運んだのかもしれないな。おそらくは、私に罪を着せようとして」 厚いカーテンを通しても、朝が近づいてきたことがわかる。龍彦はベッドにうつぶせになって、しょぼしょぼする目をきつくつぶった。 頭が重い。まだ朝食の時間まで一時間以上あるが、台所にインスタントコーヒーでもないだろうか。カフェインでもとらないことには、うまく考えをまとめられそうになかった。 正信氏は今、妻に付き添われて眠っているはずだった。ほっそりとしたおとなしげな美人を、しかし龍彦は最初正信の娘なのかと誤解していた。 「何しろ彼女はまだ三十才で、義理の娘となった敏江とは六つしか違わないのだからな」 「……うわ!」 ぼそぼそと聞こえてきた己の思考に、龍彦は飛び上がった。 「おはよう諸君」 「お前またか! どこからどうやって入ってきた!」 「さて、諸君の今日の任務だが……」 「聞けよ人の話! つか諸君って俺しかいないだろうが!」 混乱のまま投げつけた枕は、いともあっさりかわされた。腰をかがめてそれを拾いながら、不法侵入者アザゼルはいっそ爽やかなほどに美しく微笑んだ。 「昨日も入れたのだから、今日それができないという道理はない。しかも厳密にはあれから数時間しか経過していないのだからな」 「……俺は、具体的に『どうやって』入ったのかって訊いてるんだけどな」 「まあ些細なことだ。あとできっと回収できる時が来る」 龍彦はあきらめた。この相手には、まともな会話を期待してはいけないのだ。 「では、続きだ。敏江は正信と先妻の間に生まれた娘で、現在二十四才。親の会社でアルバイトをしていて――」 「だから待てって」 頭が痛い。たまらず龍彦はベッドと再びねんごろになった。 「何を当然のように、大蔵家の解説してるんだよ」 「だって、今考えていただろう? たっちゃん」 「たっちゃん!?」 「親密な関係への第一歩だ」 「いらん」 三十五にもなってそんな愛らしいニックネームはいやだ。 「だが、これは立派な事件だ。それも内部犯」 急にアザゼルの口調が変わる。指摘された内容に、龍彦もすっと目を細めた。 「まあ、それしか考えられないよな」 外は昨日、猛吹雪だった。玄関はしっかり施錠され、どのような形であれ無理に開けられた跡はない。おまけに、この別荘は他の建物や街からかなり距離がある。外部犯の可能性は限りなく薄い。 「ん?」 いや、そうでもないかもしれない。龍彦はベッドの上に起きあがり、あぐらを掻いてアザゼルに向き直った。 「お前さ、昨日何時に着いたんだ?」 自分の記憶が正しければ、昨日は夕方から天気が崩れていたはずだ。時々少しは風が弱くなってはいたようだが。 「確か十二時前後だ。主に挨拶して、奥方が軽い夜食を振る舞ってくれた。食べ終わったのは二十分後くらいだったかな。時計は見ていないからわからないが。そのあと部屋へ案内してもらって、荷物の整理をした。眠くはなかったから本を少し読んで、一時ごろにシャワーに入って、出てきたら入り口付近に正信氏が倒れていたのだ」 「……ずいぶん細かく時間を強調するんだな」 「どうせ私の詳しい動向を聞くつもりだったのだろう? それから天候の具合。私がこちらへ向かっていた時も、少し収まってはいたが吹雪いていた。大蔵夫妻も証言してくれるだろう」 くす、とアザゼルは笑う。何もかも見透かしたような態度は少し気にくわなかったが、その通りだったので龍彦は何も言い返さずにいた。 「んで、お前が俺を起こしに来たのが……」 「君に時間を訊かれたのが二時二十三分だった。君が完全に覚醒するまでには十分ほどかかったから、部屋に駆けつけたのは二時だな」 「余った十三分は?」 「鍵のかかったドアを開けるまでの時間だ」 「……なるほど」 おぼろげにだが、アザゼルが部屋に侵入した方法がわかった気がする。 「シャワーから出た時間っていうのは?」 「一時二十分。正信氏の頭部を手当てして、それに二十分かかった。幸い意識はあったから、下まで降りて奥方を呼んで、彼を任せてから君の部屋へ」 「うん」 余計な疑問を差し挟まず、龍彦に必要な情報をすべて与えてくれたのがありがたい。会話のやりとりのおかげで頭もさっきよりは冴えてきた。 「ちなみに。出血の状態からみて、犯行の時刻は一時くらいだな」 「そうか」 アザゼルが医学の知識を持っていると言うことを、龍彦は思い出した。第一発見者がアザゼルだったのは、不幸中の幸いだろう。被害者にとっても、龍彦にとっても。 だが、まだ不可解な点が残っている。 「アザゼル。医者として、あの傷をどう見る?」 「うむ。はっきり言って不自然だな」 「やっぱりか」 龍彦の目から見ても、おかしいと思ったのだ。 「殴打の傷は、側頭部につくことが多いからな。そこから犯人の利き手や殴られた時の状況もある程度推測していけるのだが……」 「今回は難しいか?」 「ああ。何しろ」 美貌が初めて、龍彦の前で憂いに曇った。麗人の瞳が翡翠のような緑色であることに、なぜかこのとき彼は気づいた。 「完璧なるシンメトリー。後頭部の上方中央部分を殴られていたからな」 階段を下りている途中から、コーヒーの香ばしい薫りが辺りに漂っていた。 「おはようございます」 キッチンで、コーヒーをカップに注いでいた敏江が振り返って、にこやかに龍彦達に挨拶した。 「おはようございます。早いですね」 「寝付かれなくて、徹夜しちゃいました。あ、コーヒーいかがですか?」 彼らがうなずくと、彼女は戸棚から新しいカップを二つ出して、こぽこぽと注いだ。 「お砂糖とミルクは?」 「あ、いいです」 「私も結構だ」 向かい合ってテーブルにつき、龍彦は敏江に軽く会釈してカップに口を付けた。アザゼルは猫舌なのか、じっと湯気を見つめている。 「お腹空いてませんか? まだみんな起きてこないだろうけど、よかったら何か作りますよ」 「いえ、平気です。ありがとうございます」 活発な敏江の様子が、コーヒーの薫りと一緒に心を和ませる。自然に、龍彦の表情は柔らかくなっていた。 「正信氏の具合は?」 だが唐突に、アザゼルが口を開く。話題の重苦しさに、その場の雰囲気は一気に反転した。 「私は今朝はまだ、父に会ってませんよ。まだ寝てるだろうし」 「そうか」 「あの、それより……」 龍彦の懸念をよそに、あっさりと敏江は問いを受け流し、好奇心を浮かべた瞳でアザゼルを見つめていた。 「昨日はごたごたしてて、自己紹介もしてませんでしたよね。私、娘の敏江です。昨日は父を助けてくださって、ありがとうございました」 「いいや。発見が早くて何よりだった」 それは事件の謎の一つになっているのだが、深くは触れずアザゼルは続ける。 「私はアザゼル・アンヘル。正信氏とは先日、絵画の展覧会で知り合ったばかりなのだ」 「あ、やっぱり外国の方だったんだ。展覧会って、もしかして画家さんとか?」 「残念ながら、そんなにたいしたものではないな。ひょんなことから話が合って、親しくなったのだ」 「へぇー」 今更ながら、アザゼルの素性を知らないことに龍彦も思い至って自己紹介を聞いていたのだが、腑に落ちないところが早くも二つ浮上していた。 一つ。正信氏が「話が合った」という理由だけで、知り合ったばかりの相手を別荘にまで招待するような人柄ではないこと。龍彦自身、友人を介して正信氏と引き合わされ、奇しくも解決してきた事件の話を友人に暴露されたことから、内密に正信氏の懸念を調査してほしいと頼まれた故にここにいる。 二つ。アザゼルの日本語がうますぎること。 どういった素性なのか、本当のところを聞き出す必要がある。 がたがたと、キッチンの入り口で物音がしたのはそのときだった。 「敏江ちゃん、おはよ」 「あ、政夫君」 戸田政夫が、憮然とした顔で足音も荒く入ってきた。龍彦とアザゼルになおざりに挨拶して、彼は従姉妹にあれやこれやと他愛ないことを話し始めた。 「やきもちだな」 ぼそっと、アザゼルが龍彦にしか聞こえない声で呟いた。あまりにやり方があからさますぎて、龍彦もうすうすそうではないかと思っていた。当の敏江がはたして気づいているのかどうかは微妙なところか。 「人間関係は大事だから、しっかり覚えておくのだぞ」 「……わかってる」 とげとげした政夫の気配のためと、コーヒーを飲み終わった二つの理由から、二人はリビングへ移動した。テレビがついていないので、しんとした空気がどこか引き締まっているように思える。アザゼルがリモコンを見つけ、スイッチを入れた。甲高い女子アナウンサーの声で、ニュースが流れる。 「龍彦は、事件をどう見る?」 要領を得ないアナウンサーの言葉をカーテンにして、アザゼルはまっすぐに切り出してきた。 「内部犯。容疑者は五人。動機としては……資産かな」 「私も入っているのか?」 「俺もな。公正を期すために」 「うん。いいことだ。動機は、それが一番可能性が高いな」 アザゼルはにっこりする。間髪おかず、今度は龍彦の方から切り込む。 「それで? お前は何なんだ?」 「何、とは?」 「さっきの自己紹介。半分は嘘だろ?」 緑の目が、彼の間近で大きく見開かれる。 「嘘とは失礼な。真実を少ししか言っていないだけだ」 「それを嘘って言うんだろうが。んで? 名前は本名か?」 「ああ。出身は日本ではないが、ちゃんとがんばって日本語を覚えたのだぞ。その傍ら居候させてもらっているから、習得も早かった」 「居候……」 それは『ホームステイ』と言うのではないだろうか。 「あと、正信氏からプライベートで招待されたわけじゃないだろ?」 「その通りだ。しかし秘密の任務なので家族には内緒だ」 龍彦は思わず天井を仰いだ。テレビから流れてくる声が、いつの間にか男性のものになっている。東京方面のニュースをやっているようだ。 「つまり、君と同じだ。フリーライターにして名探偵の御堂龍彦君」 とんでもない枕詞をつけられて、彼はアザゼルを睨んだ。 「事実だろう? 警察が手を出さなかった事件はもちろん、警察よりも早く真相を明らかにし、必ず犯人を崖っぷちに追いつめて動機を聞き出している」 「……俺はどこの二時間ドラマの探偵だ?」 「何っ!」 なぜかそこで、アザゼルは大きくのけぞった。そして、青ざめてすら見える顔色で、おそるおそる問いかけてくる。 「違うのか!?」 「何でそこで驚く! しかもリアクションでかいっ!」 「えーだって、お約束ではないか」 「知らん!」 「ぶーぶー」 ぐったり疲れて、龍彦はソファーにもたれた。 「よし、ではこれから私が風呂に入るぞ」 「はぁ?」 「無意味な入浴シーンもまた王道! そしてたっちゃんがのぞこうとして私にお湯をかけられるのだ」 「何をまたわけのわからんことを……」 疲労困憊しつつ、律儀に返事をしていた彼は、そこでふと考え込んだ。 何かとんでもないことを聞いてしまった気がするのだが……。 風呂。入浴。二時間ドラマの王道。そしてのぞき。 「えええ!?」 今度は、龍彦が吹っ飛ぶ番だった。 「どうしたのだ。いきなりソファーから落ちたりして」 「な、だっ……お前、今」 「ん?」 ソファーにつかまって何とか立ち上がりつつ、自分の脳が導き出してしまったあることに彼はおののいていた。 「お前……女なのか?」 「? 男だといった覚えはないが」 「ぐぬぁあああああああ」 女性に部屋に侵入されて寝ているところを目撃されたとかせっかく美人なのに性格がちょっとあれでもったいないとか、いろいろな原因のために龍彦は悶絶していた。 「まあまあ」 あっけらかんと、アザゼルがぽんぽんと肩を叩いてくる。 「犬に噛まれたと思って忘れればよいのだ。日本の犬は安全だし」 「……何か違う気がする上にフォローになってない」 人生最大の損失をしてしまった気持ちの龍彦であった。 かちゃかちゃ、ぴん。 それだけであっけなく、閉ざされた空間は消え失せた。 「まあ、普通に考えて、一般家屋でそこまで厳重な鍵はつけないよな……」 「うむ」 針金一本で、龍彦が掛けたばかりの鍵を開けてしまったアザゼルは、にっこりと満足げな笑みを浮かべていた。 「だいぶ慣れてきたから、次は五分を切るだろう」 「慣れんでいい慣れんで」 「ギネスに挑戦だ」 「ルパン三世にでもなるつもりか」 龍彦は、呆れて壁にもたれる。 「まあ、これでお前の侵入方法と、密室のもろさがわかったわけだけどな」 「次は私の部屋だな」 アザゼルは腰を上げた。 警察や探偵のまねごとは正直気が進まないのだが、自分を頼ってきた困っている相手を放っておけないのが龍彦の性分だ。まして、その相手である正信が負傷したのだから。 家族の誰にも心を許せない、と正信は龍彦に言っていた。ここへ龍彦が呼ばれたのは、正信を囲む身内の誰かが、よからぬ企てを進めている可能性に彼が怯えていたからだった。 大蔵正信は一代で会社を大きくし、相当の財をなした。だがそのためにあまり家庭を顧みず、仕事に没頭する間に先妻は病死し、死に目に間に合わなかった。娘は、父の所行を恨んでいるだろう、と正信は語った。 美子は元秘書で、三年前結婚したばかりだという。敏江は最後まで反対し続け、今でもまったく若い継母と口をきくことはないらしい。美子のほうは無理に義理の娘に近づこうとはしないが、正信の言ではぎくしゃくした家の雰囲気を気にしている、ということだった。 政夫は敏江にべたべたとすり寄っているが、正信は財産目当てと頭から決めつけていた。勉強が取り立ててできるわけでも、特技があるわけでもなく、敏江と結婚することで得られるものを皮算用しているのだろうと。 「確かに今時の、骨はお世辞にもなさそうな若者ではあるが、悪人ではないと思うがな」 「……だから、何ですごくいいタイミングで思考を読んだような相づちを打ってくるんだよ」 「いや、このタイミングで人物の背景と動機を列挙しておかないと、先へ進めないではないか」 「は?」 「それはさておき、私の部屋についたぞ」 ドアを示され、釈然としないながらも龍彦はその場にかがんだ。彼の部屋とまったく同じ作りのドアだ。鍵も同じ種類のようだ。 「これも針金で開けられるか?」 「君の部屋よりは時間がかかるだろうが」 「ふむ……」 鍵穴周辺を調べてみる。年期は感じられるが、傷などはない。鍵を針金でこじ開けた痕跡はなおさら。 よほど気をつければ、跡を残さず先ほどのアザゼルと同じ作業はこなせるかもしれない。密室の脆弱性はすでに証明されている。 しかし。 「ここのマスターキーはどうなってるんだろうな」 「マスターキー?」 「個人の別荘だから、初めから存在しないのかもしれないけどさ」 「針金より安全で確実、しかも迅速な手段だな」 うなずきあい、そのまま階下へ降りる。幸い美子がそこにいて、マスターキーの有無を尋ねるとすぐに答えをくれた。 「ええ。ありますわ。もっとも、何年も使ったことはありませんけれど……ここに家族以外の方が泊まることは、滅多になかったそうなんです」 「今はどこに?」 「ええと……」 彼女はごそごそとリビングのチェストを探り、ほどなくしてビニールの袋に入った鍵を持ってきてくれた。 「これがマスターキー?」 「そうです」 「……ううむ」 アザゼルは美子が眉をひそめるほどあからさまに唸り、龍彦は表情に出さないまでも疑念を抑えられなかった。 何年も使われたことがないはずの鍵、その先端に一見して新しいものとわかる傷が一筋ついていた。 「さて。早いがもう推理編だ」 長いズボンの上からでもわかる綺麗な足を組んで、アザゼルはゆったりとくつろいでいた。 例によって龍彦の部屋である。 「マスターキーは、間違いなく最近使われた。扉を開けるために」 「だろうな」 美子が知らないだけで使われていた可能性ももちろんあるが、家族だけが利用するこの別荘で、おのおのの部屋の鍵がきちんと揃っているのであれば、あえてマスターキーを使わなければならないようなことがあったとは考えにくい。しかも、その鍵すらほとんどかけていないことの方が多かったらしい。 「あとは、動機と凶器と、どうやってそうしたか。だな」 「そうだな」 「How had he done itだな」 「何?」 「ハウダニット。『どうやってやったのか』――ミステリにおける謎の一つ。今回はフーダニットも解かなければならない」 フーダニット。Who had he done it……誰がそれをしたのか。 「容疑者は三人……誰が、何のために」 三人とも、正信が死ねば得をする。そこに怨恨などが加われば、彼に危害を加えるに十分な動機になるのかもしれない。 柔らかいが無機質な電子音が、唐突に龍彦の思考を遮った。 「もしもし?」 部屋に備え付けられた電話をとったのはアザゼルで、短い受け答えをしてすぐに切ってしまう。 「何だって?」 「正信氏からだ。だいぶ気分がよくなってきたそうだ」 「そうか」 龍彦は立ち上がり、アザゼルはうなずいて微笑んだ。 「現場を見に行こう」 現場は二階の廊下だった。昨日正信が証言したとおりの場所、彼の部屋の前に龍彦とアザゼルは立っていた。 「ふむ……」 天井を見上げて、アザゼルはなにやら考え込んでいた。細身の上に長身のため、圧迫されているようにも見える。 「後ろからこう、がーんと殴られまして……」 痛むのか、顔をしかめながら正信が再現してくれた。 「後ろから……いったい何を使ったんでしょうね」 龍彦もまた天井を見て、それから正信に視線を戻す。身長差のため、見下ろすような状態になってしまう。 「さぁ……鉄パイプとか……そんな感じじゃないでしょうかね」 「傷口付近に、破片のようなものは見あたらなかった。割れやすい花瓶などの陶器でないのは確かだ」 アザゼルが捕捉をし、なぜか龍彦に微笑みかけてくる。間近でそんな綺麗な表情を見せられ、不覚にも彼は赤面した。 「凶器をどこへやったかも問題だな。龍彦」 「……あ、ああ」 大変にもったいない。誠に遺憾である。 アザゼルは掛け値ない美人だ。すこぶるもつくくらい美人だ。 場違いな滂沱の涙などを心の中で流しつつ、何とか龍彦は頭を切り換える。 凶器が何であれ、始末するのは簡単だったろう。窓から放り出してしまえばいい。昨日は吹雪いていたから、あっという間に埋もれてしまう。春になったら出てくるだろうが、自分の犯行をごまかすための手だてを講じるには十分な時間が確保できるのは確実だ。 「あなた」 美子が、水を入れたコップを盆に載せてやってきた。 「ああ、すまんな。では、ちょっと失礼して薬を飲んできます」 龍彦達に会釈して、正信はコップを手に部屋へ引っ込んだ。 「薬?」 「痛み止めだ」 「ああ、なるほど」 そんなことを話している間に、正信は戻ってきた。まだ水の残っているコップを美子の盆に戻し、龍彦達に向き直る。 美子は、一瞬目を瞠ったように見えた。 「あとは、何かお話しすべきことはありますか?」 「ええと――」 「いや、今はいい。しばらくしたら薬が効いてくるだろうから、少し休んでいてくれ」 龍彦を遮る形で、アザゼルは一方的に言葉を紡ぐ。そしてあれよあれよという間に正信を再び部屋へ戻し、龍彦を連れてすたすた廊下を歩き出した。 「どうしたんだよ?」 「気づかなかったか?」 尋ねれば、小声で返される。緊張感すら漂う雰囲気に、龍彦は気圧される。 「あのコップ。水がまったく減っていなかったぞ」 「え?」 「これは重要な伏線だ」 にこりと。 再び至近距離で、アザゼルの笑みが花開く。 緑の瞳がとろけそうで、薄い唇は何も余計なものはつけていないのに、つやつやと柔らかそうで。 「……伏線って何だよ」 最後の理性で、龍彦は口をついて出そうになった言葉をつっこみに置き換えた。 「のちのち重要になるから、忘れないようにな。龍彦」 そんな彼の苦労などまったく気づかない様子で、佳人はにこやかなままだった。 二階は、階段を挟んで六部屋が二分されている。龍彦がいるのは階段から見て右側の角部屋だ。アザゼルの部屋は階段のすぐ隣り、現場および正信の部屋は階段の左側にある。 「……何で、わざわざお前の部屋に運んだんだろうな」 アザゼルの書いた見取り図を眺め、龍彦は唸っていた。すでに会議室となっている龍彦の部屋にて、それぞれベッドと椅子に座って額をつきあわせている。 「正信氏の隣は、娘の敏江が使っている。向かい側は妻が。政夫は龍彦の隣だな」 「ああ」 「目撃される危険を冒しても、なぜこの二人の部屋ではなく私の部屋を選んだのか。罪をなすりつけるのであれば、彼女達でも適任だったわけなのに」 アザゼルの言葉に、彼はうなずいた。 「そうしなかった理由としては、二人が犯人だった場合。それから……二人には疑いを向けたくなかった可能性、か」 「そうだな」 敏江と美子の部屋の次に、現場から近いのはアザゼルの部屋ということになる。 「うーん……」 考えすぎて疲れてきた。龍彦は天井に顔を向け、凝り固まった首筋をほぐした。 「もんでやろうか?」 言いながら、アザゼルはベッドに上って龍彦の後ろに回る。 「いいって……」 身体をひねろうとするより早く、アザゼルの手が龍彦の両肩に触れていた。すぐに一定のリズムとほどよい力加減で、こわばっていた筋肉に心地よい刺激が与えられる。 「お客さん、凝ってますね〜」 「書き物もけっこうする仕事だからな」 周囲の知人達に主張しても最近信じられなくなってきたが、龍彦はこの道十年のライターなのである。しかも専業。 「つむじだ」 何がおかしいのか、アザゼルがくすくす笑っている。 「将来はげるとか言うなよ」 「大丈夫だと思うぞ。ふさふさしてる。身内に頭髪が弱かった人は?」 「いないと思うな。親父も白髪だし」 「それは何よりだ」 心得があるのか床屋ごっこのつもりなのか、アザゼルは頭頂部もマッサージを始めた。かこんかこんと、軽く叩かれるのが気持ちいい。 「ん……?」 頭頂部。頭のてっぺん。そして背後。 「あ……ちょ、ちょっと待て!」 がばっと振り向いて、龍彦はちょうど頭一つ半分上にあるアザゼルの顔を見上げる。 「そうだな、このくらいか……けど、それだとつじつまが合わないぞ……」 「どうした、龍彦?」 問いかけに答える時間ももどかしい。龍彦は勢いよく廊下に飛び出した。 「……やっぱり」 そのまま、じっと廊下を凝視する。 「龍彦」 続いて出てきたアザゼルを、龍彦はゆっくりと振り向いた。 「犯人は……」 「私と同じ結論にたどり着いてくれたと、思ってもよいのかな」 にこりと、アザゼルは笑みを見せる。高ぶっていた気持ちが、その表情に和らげられる。 「まだ口にしない方がいい。凶器も証拠もないし、ここでは他者の耳があるからな」 「ああ……」 促されるまま部屋に戻り、龍彦は深呼吸を繰り返した。 そうだ。証拠がない限り、うかつなことは言えない。犯人が予想と違った場合、正信をもっと危険な立場に追い込むことになる。 「それに」 ぴたりと扉を閉ざし、アザゼルは唇の前に人差し指を立てた。 「ここで犯人を言ってしまうと、このあと読んでもらえなくなるだろう」 「……小説じゃないっての」 凶器と動機と、犯行とそれらの証拠。 あのあとアザゼルと龍彦は、それとなく家の中をさんざん探し回ったのだが、どれ一つとして発見には至らなかった。 「お疲れですね」 夕食の前、リビングでテレビを見ていると、美子がコーヒーを出してくれた。龍彦は会釈して、その薫り高い一杯を堪能する。隣でアザゼルがだばだーだばだーと歌っているのは黙殺した。 「もう少しでお夕食ですから、申し訳ありませんがお待ちくださいね」 「いえ、お構いなく」 奥ゆかしい日本人同士の挨拶を交わしていると、ふらりと政夫が入ってきた。 「あ、いい匂い。シチューですか?」 「ええ。ビーフシチューですよ」 「楽しみだなぁ。俺もコーヒーもらっていいですか?」 「ええ、今お淹れしますわ」 キッチンへ向かう二人の後ろ姿を、龍彦は見送る。政夫は特別長身というわけではないが、美子が小柄なので並ぶと大きく見えた。 「彼は何かスポーツをやっているわけではないのだろうな」 思いの外優雅な仕草でカップを傾けながら、アザゼルが言う。 「傷口の状態からして、相当重いもので殴ったはずだ。ブロンズ像とか」 「そんなもんないよな」 「あくまで喩えだ。実際は石とかブロックとか、その辺にあるものだったかもしれない」 「……いや、石とかブロックって」 家の外や物置、車庫も見て回ったが、そういったものは見あたらなかった。もっとも、あったとしてもとっくに始末されているだろうが。 「アザゼル。傷口周辺に凶器を特定できるような痕跡はなかったんだよな?」 「ああ。陶器の破片やブロックの破片、その他、そういったものはなかった」 「うーん……」 実のところ、凶器がどんなものだったのか、ある程度の予想はついているのだが、今日調べた限りではどこにもそれを裏付けてくれる証拠がなかったのだ。自分の思いつきとそれに基づいた推測が間違っているのかもしれないが、今のところそれが一番可能性が高いのだ。 「御堂さん、アンヘルさん」 正信と敏江がやってきた。 「キッチンへ行きましょう。もうすぐご飯ですよ」 「はい」 「傷口は大丈夫か?」 「ええ、多少痛みはありますが……」 娘に少し遅れて入ってきた正信に、アザゼルは駆け寄っていろいろと問診のようなことをしていた。性格は突飛だがまじめではあるようだ。 「席に着いてましょ、御堂さん」 敏江は龍彦を促して、さっさとキッチンへ行こうとする。父を一顧だにしない。 正信が口にしていたとおりの確執があるようだ。それも、かなり根深いものが。彼の無事を喜んでいたように振る舞っていたのは、他人である龍彦達の目を意識したためだろうか。 「お支度ができました」 キッチンの入り口から、美子がリビングの全員を呼ばわった。 ぞろぞろとテーブルに着くと、温かいシチューの薫りが急に空腹を強く意識させた。主食は柔らかそうなパン、テーブル中央には高級感漂うワインが鎮座している。 「おいしそうだな」 正信が座るのをアザゼルが手伝って、美子は全員に確認してからワインの栓を開け、グラスに注いで回ったあと、食事が始まった。 「いただきます。んー……おいしい!」 政夫は真っ先にシチューを口にして歓声を上げ、敏江はパンを小さくちぎった。正信はゆっくりとスプーンをとって、シチューをすくう。 「お口に合いますか?」 「すごくおいしいです。具材も煮込まれてて柔らかいし」 「そうだな」 政夫と正信は異口同音に料理を褒めたが、敏江は無言で食事を続けていた。 アザゼルが、彼女の横から龍彦に目配せしてくる。目立たないよううなずき返し、龍彦は食事と当たり障りのない会話をしながら、じっくりとこの場の人々を観察していた。 物証がない以上、人のしぐさから隠された感情を読みとるしかない。不本意な幾多の経験の中で、何気ない動作や言葉の端々から、大きなヒントを得ることが多々あった。 これまでのことから鑑みるに、ここにいる人々の人間関係は、正信から聞いていたとおりのようだ。 「ごちそうさま」 最初に食事を終えたのは敏江で、そのまま部屋へ戻っていってしまう。龍彦とアザゼルに簡単な挨拶をしただけで、他の誰にも視線を向けない。 「落ち着きのない子で申し訳ありません」 「いえ。お気になさらず」 正信に答え、龍彦も食器を置く。アザゼルはまだシチューが少し残っており、政夫は食べ終わっていたが、美子と談笑していた。何となくアザゼルを待つ間に、正信がワインを勧めてくれる。 「相伴してくれる相手がなかなかいなくて」 あまり強くないのか、すぐに顔を赤くして彼は上機嫌だった。 「過ごすのは毒だ。怪我人なのだから」 「はい」 そつなくアザゼルが釘を刺したが、正信は気軽な返事を返しただけでワインを一本開けそうな調子だった。傷のことを考えると、酒は飲まない方がいいのだが。 結局アザゼルがドクターストップをだして、ささやかな酒宴はお開きとなった。 「あの人ほんとに怪我人か?」 連れだって戻りながら、龍彦はアザゼルに問いかけた。 「怪我人だ。ただ……」 言葉を濁し、アザゼルはちょうどそこにあった自分の部屋のドアを開けた。 「ただ?」 連れだって入りながら、彼は言葉の続きを待った。 やや低い位置から、アザゼルの瞳がまっすぐ見上げてくる。 「出血は多かったが、傷口そのものは浅い」 「……どういうことだ?」 椅子とベッドに向かい合って、知らず声を潜めた。 「暴力による傷が浅いのは、加害者が不慣れな場合か、躊躇った場合。または……狙いを定められなかった場合」 「……そうか」 「龍彦」 これまで見せたことのない深刻な表情で、アザゼルは膝の上で両手を組んだ。 「あの人は孤独だ。自分でそうしている」 「……うん」 「あの人のためにも、早く解決しなければ」 「凶器と犯行の方法と、それを裏付ける物証がないとな」 どんなに筋の通った推理でも、証拠がなければ事実として提示できないのだ。 「発想を変えてみようか」 考え考え、アザゼルは言葉を継いだ。 「凶器は何だったのか、ではなく。なぜ凶器の痕跡がなかったのか」 なぜ。 痕跡を残さない凶器。そんなものがあるのだろうか。 「固くて重いもの……石とかブロック以外で」 「花瓶も駄目だ。灰皿類も」 「割れなくて固くて重くて壊れない……うーん」 がたがたとやかましい物音で、龍彦の思考は中断された。 「何やってるんだ?」 「うろうろだ」 「は?」 なぜか窓を開けようとしているアザゼルは、振り返ってにっこりした。 「助手が無駄にうろうろすると、探偵はヒントを得たりするだろう?」 「……助手なんだ」 「うむ。探偵名助手だ」 「迷う方だな」 ぽんぽんと軽口を交わしていると、不思議に気持ちが和む。出会って一日ほどだが、妙にアザゼルの纏う雰囲気は心地よい。 「わー」 和んでいた時にのんびりとアザゼルが悲鳴を上げて、龍彦はあわてて駆け寄った。 「危ないだろうが!」 「うん、危なかった」 外開きの窓を開いた勢いが余って、危うく転落するところだったというのに、憎らしいほどアザゼルは落ち着いていた。 「気をつけろよ」 「うん」 引っ張り起こした龍彦だったが、そのとき妙なことに気づいた。 何か、妙な違和感がある……。 「どうした? 龍彦」 「いや……」 考え込む彼の頬を、冷たい雪と風が叩いていく。昨日ほどではないが、まだ降り止まないようだ。 「雪?」 龍彦は息を呑んだ。 ここは北海道だ。しかも冬。 「……くそ。もっと早く気づけば」 「金田一耕助か。何がわかった?」 「……アザゼル」 今までよりもずっとはっきりした仮説が浮かんだ。もうすでに、確固とした証拠は失われてしまったかもしれない。だが、かけらだけでも手に入れば、それは絶対的な武器となる。 「頼みたいことがあるんだ」 「何だ?」 龍彦は、はっきりと宣言した。 「一緒に来てくれ。真相を暴く」 「どうしました? 御堂さん」 訪ねていくと、その人物は驚いたような顔をしていた。無理もない。そろそろ夜も更ける。 「すみません。手がかりを探しているんです。入らせて頂いても?」 「ええ……」 面食らっている相手にかまわず、龍彦はすたすたと部屋に入り、脇目もふらずバスルームの戸をあけた。 「あの」 「アザゼル。これだ」 「うむ」 拾い上げたそれをアザゼルに手渡し、龍彦はゆっくりと部屋の主を見つめた。 「犯人は……あなたですね?」 びくりと、目の前の相手は肩を震わせた。 「な……何を言うんですか。第一、そんなことをしても無意味じゃないですか」 「別にいいわけをしなくてもいいと思うが。私たちは警察ではないし、この事件での損害はあなたの周囲の人々が傷つくことだけ。まあ、それがあなたの目的であり、そのためにこんなことをしたのだから、あなたとしては願ったりなのだろうな」 指紋を付けないよう、手袋をした手でしっかりそれを抱えてアザゼルも言葉を添える。 「こうして二人だけでここへ来たのは、公にしたくないからだ。鍵も回収した。そしてこの凶器を調べれば、完全な裏付けとなる。どうか、真実を話してくれないだろうか――大蔵正信さん」 彼は――大蔵正信は、がっくりとうなだれた。 「なぜこんなことを?」 小刻みに震える肩を見つめながら、龍彦は静かに問いかけた。 「……あいつらが許せなかった……」 「あいつら?」 「おとなしい振りをしてあんな若造と浮気している妻、金目当てで近づいてくる馬鹿な若造、それに、育ててやった恩を忘れて俺をないがしろにする娘だ!」 ぎらぎらと睨みつけてくる眼光は異様で、龍彦は思わず一歩後ずさったが、アザゼルは鼻で嗤っただけであしらった。 「証拠もないのに、表面だけを見て決めつけたか。そうして自ら信頼を崩しておいて、許せないなどとは片腹痛い」 初めてアザゼルが見せた冷笑に、龍彦までもが息を呑んだ。 「疑心暗鬼をため込むうちに、妄想が大きくなったか。確かに、あなたの妻は若すぎる。あなたの甥は軽佻浮薄に見える。そしてあなたの娘はあなたに冷淡だ。だが、望む思いを向けられないのは、決して彼らだけのせいではない」 「何がわかる……他人の貴様に!」 「水を飲まなかっただろう?」 激高する正信に対して、どこまでもアザゼルは冷静だった。 「水……?」 「あなたの奥方が、コップに入れて持ってきてくれた水だ。飲まずに返しただろう。しかも、それとわかるように少しも減らさずに」 龍彦も思い出す。それを指摘したのはアザゼルだった。ならば、その意味するところは……。 「彼女に疑いを向けているのだと、あからさまに示したな? 夕食のときも、皆より一呼吸遅れて口を付けた。毒殺を警戒していたのか」 正信は答えない。ただ、しわの刻まれた顔がどんどん赤く染まっていく。 「そして、家族に殺人未遂の疑いを掛けるために、こんな自作自演をしたのだ。……傷口が頭頂部にできてしまったことと、この家の天井が低いのが徒となったな」 「何だと?」 洗面器を大切に抱え、アザゼルはまっすぐ正信を見据えた。 「殴打した時の傷は、側頭部につくことが多い。頭頂部を殴るためには、当然真上から何かを振り下ろすことになるが……」 「この家の廊下で、それは不可能です」 あとを、龍彦が引き取った。このままアザゼル一人が話していては、正信が逆上する危険があった。あまりにアザゼルは率直だ。 「あなたの身長からすると、真上から凶器を振り下ろすには、天井が低すぎるんです」 「な……!?」 「政夫はあなたと同じくらいの身長だが、たとえば鉄パイプを使ったとすると途中で天井にぶつかるだろう。かといって何か短いものを使えば、近づきすぎて気づかれる可能性のほうが高い。そんなリスクは無意味だ。そして、重い鈍器を真上から振り下ろすという行為は、女性二人には不可能」 「考えられるのは、一つ」 アザゼルのマッサージがヒントとなった。あのときの二人の状況。真上から、頭頂部へ。 「あなたが座った状態で、頭上から凶器を落とした」 がっくりと、正信は膝を折った。 アザゼルが肩をすくめる。 「傷口に何の痕跡もないことも、逆にヒントになった。割れないようなもの、固いもの、そして、簡単に始末できるもの」 一見都合がよすぎてあり得ない凶器だが、実は至極簡単に用意することができるのだ。ここが、極寒の季節の北海道だからこそ。 「洗面器で氷を作って、自分の上に落としたのだな」 正信は無反応だったが、この状況でそれは肯定と同じだった。 龍彦は、正信の横を通って再びバスルームへ入った。シャワーカーテンのレールをよく見てみると、探していたそれが見つかった。 ほんのわずかな、何かがこすれた跡。 「あったか?」 「ああ」 自力で持ち上げられる高さは限られており、それでは思うように傷などつけられないし、躊躇いも生まれる。確実に「殴られた傷」を作るには、一番簡単な方法では、洗面器に紐を付けて、持ち上げてから落下させることではないだろうかと龍彦は予想していたのだ。 カーテンレールは、まさにうってつけの小道具だったわけだ。 「ここにロープをかけて、下から持ち上げる。真下で待ち受けて手を放せば、あとは……」 「自室のシャワーだし、後始末は簡単だが……一歩間違えたら本当に死んでいたぞ」 アザゼルの声は、本気の怒りを孕んでいた。 「ここで気を失っていたりしたら、間違いなく朝まで誰にも見つからなかった。何でこんな馬鹿なことを」 「……赤の他人の私に、ずいぶんと親身ですね」 「あなたのために言っているのではない」 皮肉混じりの正信の言葉を、アザゼルは強く遮った。緑の双眸に、龍彦は純粋な怒りと――哀しみを認めた。 「あなたの娘は、本気であなたを心配している」 「何を馬鹿な」 「そうでなければ」 緑の輝きが、ふっと優しく細められる。 「そうでなければ、私の部屋にあなたを連れてきたりするものか」 「なっ――!」 「え?」 驚く正信と龍彦に、アザゼルはうなずいて見せた。 「実際に、私はあなたを運んできた彼女と話をしている。あなたは意識が朦朧としていたから、気づかなかったし覚えてもいなかったのだろうが」 「……まさか」 「龍彦。私は嘘をついた。本当は、あの夜彼を連れた敏江と廊下で会い、私の部屋で彼を治療した」 「……そうか」 そうだ。どうして気づかなかったのだろう。 あのとき、部屋にやってきたアザゼルの髪は、まったく濡れていなかったし、石けんの匂いもしなかった。 そして何よりも。実際にアザゼルが鍵開けをして見せてくれた時と、龍彦の問いかけに対して自己申告した、扉を開けるまでの所要時間の差が大きい。 「どうして、本当のことを言ってくれなかった?」 「彼女と約束したからだ。彼女は彼女で、美子と政夫を疑っていたのだ」 「あの二人を?」 気になることをさらりと持ち出しておいて、アザゼルはしかしそれ以上を言おうとはしなかった。 「この洗面器、ルミノール反応がでると思うが。血液は相当気合いを入れなければ洗い流すことはできない」 「物的証拠、というわけですか」 「ああ。しかし先ほども言ったように、公にしたくはない。これからのことは、私たちに任せてはくれないだろうか?」 真摯な緑のまなざしをじっと見つめ返していた『真犯人』は。 しばらくしてから、ゆっくりとうなずいたのだった。 そして。 『謎解き』から二日後、ようやく冬の空は磨き上げられたような鮮やかな青へと変わった。 北海道の交通機関は、たいていの悪天候にはびくともしないので、電車も遅れずに動いているらしい。今朝方そそくさと帰っていった政夫を駅まで送り届けた敏江が、リビングでそう話していた。 「未遂で終わって本当に何よりだ」 今日も今日とて龍彦の部屋に入り浸り、アザゼルはにこにこしている。 「さすがに、あいつがほんとに殺人計画練ってるとは予想しなかった」 「具体性には欠けていたし、共犯にしようとした敏江も奥方も、本気にとっていなかったがな」 政夫は、百万ほどの借金があったらしい。正信に返済のために金を無心して、当然のように断られたため、殺そうと思ったといともあっさり白状した。龍彦の見たところまったくそんな様子はなく、いったいどうしてアザゼルが見抜いたのかは謎だったが、「お前のやろうとしていることはすべてお見通しだ」と言っただけでぺこぺこ謝りだしたあの青年の態度からして、放っておいても実行に移されなかった可能性もある。 そして、政夫は逃げていったわけなのだが。 「お前、結局マスターキーのことでも混乱させたよな」 荷物の整理をしつつ、龍彦はふと思い出してぼやいた。 アザゼルは廊下で敏江達と顔を合わせたのだから、鍵のかかった扉を開けたりする必要は当然なかったわけで、つまりはじめからマスターキーは使われたはずがなかったのだ。やたらと細かかったアザゼルの証言を、鵜呑みにしてしまったのは龍彦のミスであるのは否めないが。 確かに敏江は、アザゼルに職業を聞いた時、「画家なのか」と質問した。アザゼルが医師免許を持っていることはあの時点でわかっていたのだから、不自然な問いではあったのだ。 「使ったぞ。確かに」 龍彦のぼやきに対して、アザゼルは首を横に振る。 「私の行動についてはぼかしたが、マスターキーについては龍彦も一緒に確認したではないか」 「まあ、傷はあったけど。使ったって、どこでだよ?」 「たっちゃんの部屋を開ける時」 「……」 「鍵開けは、嗜みとして身につけているのだ」 「んなわけあるかっ」 ばしっとつっこみ、彼は最終確認のため腰を上げた。服も洗面用具も一通りバッグに詰めたはずだ。 昼前の電車で、龍彦は空港へ向かう。滞在が少しばかり延びてしまったが、まあ問題ない。フリーのいいところだ。 「お前はいつまでこっちにいるんだ?」 「明日だ。婚約者が迎えに来てくれるのだ」 うっとりと、佳人は頬を染める。見とれそうになってあわてて龍彦は目をそらす。 「婚約者かぁ。美人か?」 「うーん、大きくて固くて強い」 「……プロレスラー?」 「要人警護だ。写真もあるぞ」 別に見たいとも言っていないのに、アザゼルはいそいそと胸元からロケットペンダントを取り出し、ふたを開けた。あまりに嬉しそうな様子に、つい龍彦も中をのぞき込んで。 「……アザゼル」 「ん?」 「……男に見えるんだが」 「男だからな」 「何でだよ!」 「ん?」 「だって、お前……男だろ?」 窓で抱き留めた時。 あまりにも胸が真っ平らだったので、龍彦はそう認識していたのだが。 「男と明言したことはないぞ?」 「けど……」 「些細なことだ」 にっ、とアザゼルの唇が綺麗な形に弧を描く。 「私は私だからな」 緑の瞳が、きらきらと輝いていたのは、日の光のためだったのだろうか。 確かだったのは、微笑みが美しくて鮮烈で、とうとう龍彦は抗えず、完全に魅了されてしまったことだった。 「龍彦」 そのままの綺麗な表情で、アザゼルはゆったりと言葉を紡ぐ。 「私のことを信じてくれて、嬉しかった」 何も言えないままの龍彦の前で、佳人は静かに立ち上がる。 扉を開けて、閉める音。アザゼルが完全に部屋からいなくなってしまうまで、龍彦は動くこともできなかった。 溜息をついたのは、時計の秒針の音がかなり積み重なってから。 「……もったいない」 一緒にこぼれでてしまったつぶやきに、彼は自分で驚き、うろたえたのだった。 |
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●感想
一言コメント ・読みやすい ・アザゼル、君は一体何者なんだ?主役の出番を取らないでくれたまえ。 ・テンポがよく、キャラもいいです。こういう話も書かれるんですね、この方。面白かったです。 ・アザゼル〜 |
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