序章
決して忘れることのできない言葉というものがある。
それは母親が嬉しげに口にした誉め言葉かもしれない。親友と仲直りするときの、ぎこちのない愚直な一言かもしれない。死に逝く父親が最後に残した、ひたすらに純粋な「ありがとう」かもしれない。
ニコ・リヴィエールのケースは、ひと味かふた味くらい、そんな典型例とは異なっていた。
名も知らぬ少年から告げられた、ひどく不遜で温かみに満ちた命令。その言葉は、今でもニコの心で脈を打っていた。
生きた言葉だった。
「守ってあげるから、僕の背中を見ていて」
そう、言われた。その少年がいたから、ニコは今、生きて地に足をつけていられる。
五年前。人類にわずかに残された生存圏の一つ、アルプスで、それは起こった。
ニコにとっては、魂をミキサーにかけられた気すらする最悪の事件。
走りに走り逃げに逃げて、当時一〇歳だったニコは、ついに体力の限界を迎えた。しかし、それで十分なはずだった。目的地には、もう着いたも同然だった。
後は、シェルターへ続くエレベーターの扉が開くのを待つのみだった。
安堵のあまり絨毯に尻餅をついた。そんなニコの耳朶を、不吉な舌打ちの音が叩いた。
舌打ちの主は、ニコをここまで導いてくれた年上の少年だった。名前は知らない。
「追いつかれた……」
少年は凛々しい眉間に縦の皺を刻み、議事堂の廊下を視線で射た。
何もない。ただ、川面を連想させる柔らかな絨毯が、水の代わりに長い毛足をふわりとたたえているだけだった。
それと、音。
ずる、べた。ずる、べた。
重い家具を引きずるような、そして濡れ雑巾を床に落とすような。聞き間違えようはずもない、あの怪物の足音だった。
エレベーターは、意地悪く口を閉ざしたままだった。階数表示のメーターが、温度計でも見ているように変化に乏しく感じられる。
もどかしさから扉を叩こうとした瞬間、それは起こった。
ニコたちからほんの五メートル先で、天井が崩落したのだ。瓦礫が滝のように降り注ぎ、廊下を粉っぽい灰色の煙が満たしてゆく。それは轟音とともに展開された光景だったはずだが、不思議とニコは、一切の音声を知覚していなかった。その代わり、天性の視力が粉塵の一粒一粒まで正確にトレースする。まるで、フィルムのスロー再生を見ているようだった。
そんな世界に音や温度が戻ったのは、階上から落下してきた不気味な怪物をその目に捉えたときだった。
怪物には、手足がなかった。顔すらない。ただ半透明なゲル状の塊。それが、象のような巨体をぶよぶよと蠢かせながら、床にべたりと着地した。
生物かどうかも疑わしいその物体は、ほんのわずか動きを止めた後、のっぺりとした体から二本の触手を生み出した。
「見えてるんだ。僕らのことが」
少年の表情は厳しい。
ニコは視線を怪物の巨体に固定したまま、恥もなく悲鳴をあげかけた。そんなニコの視界に割りこんできたのが、少年の背中だった。
「怖くないよ」
少年の声は微笑みに彩られていた。それがなければ、錯乱したニコは闇雲に逃げ出して地獄への扉を駆け抜けていただろう。それほどに、少年の背中はニコにとって広く、大きく、たくましかった。
少年の背中越しに、ゲル状の怪物が二本の触手を振るったのが見えた。高速の鞭が少年に迫る。
少年の右腕が一文字に空気を裂いた。
直後、怪物の触手は水のしぶきとなって八方に飛散した。無数の水滴は壁に衝突するなり、ジュッという、熱した鉄板に触れたような音を立て、瞬く間に蒸発していった。
ニコの理解を超えた光景だが、それも気にならない。少女の瞳には、少年の姿は正義のヒーローとして、輝かしく照り映えていた。
だが、怪物は触手を増殖させてなおも襲いかかってくる。苛烈さを増した攻撃に、少年は次第に触手を捌ききれなくなっていった。足に、肩に、全身に、細かい傷が増えていく。
それでも少年は退かない。
そしてついに、エレベーターの扉が開いた。
「ごめん!」
律儀に謝る少年に突き飛ばされ、ニコは不格好にエレベーターの中へと転がりこんだ。
その瞬間、少年に隙が生じたものらしい。ニコは異音と、苦しげな呻きを耳にした。
顔に暖かいものが降りかかり、むっと匂いが鼻につく。ニコは反射的にそれを手でぬぐった。ぬめりとした感触も寒々しかったが、ニコが怯えたのは、その、あまりにリアルな赤さゆえだった。
見れば、少年の左肩からは一本の触手が突き出ている。そこから溢れているのは、ニコの顔を、手を濡らしたものと同じ赤だった。
ニコは、今度こそ悲鳴をあげた。
「大丈夫だよ」
ニコの悲鳴を遮って、思いのほかはっきりとした声で、少年は背中越しに囁いた。
「守ってあげるから、僕の背中を見ていて」
ああ、やっぱりこの人はヒーローだ……。急激に落ち着きを取り戻す意識の中で、ニコはそんなことを思っていた。そして、魔法にかかったような従順さで、ニコは少年の背中だけを見つめ続けた。
だが、言いつけ通りに硬直している間にエレベーターの扉が閉じ始めた。慌てて開閉ボタンに手を伸ばそうとしたが、不覚にも腰が立たなくなっていた。
ニコが最後に見たのは、扉が閉じる寸前の隙間から覗いた、少年の悪戯めいた横顔と、赤く染まった背中だった。
唐突にニコは悟った。ニコの小さなヒーローは、始めからこうするつもりだったのだ。
閉じた扉を何度も叩き、それが無意味であることを知った。エレベーターはすでにシェルターへの降下を開始していた。
降下する密室の中、ニコは一つの誓いを幾度となく繰り返し呟き続けた。
「ありがとう、言わなきゃ。絶対にもう一度会って、ありがとう、言わなきゃ……」
もう、五年も前の話だ。
ニコは生きている。
少年との再会は、いまだ果たされないままだ。それどころか、生死も、素性すらもわかっていない。
それでも、「ありがとう」と言いたい。
その誓いを抱いたまま、ニコはハイスクールに進学する。
1章
一度は滅びかけた人類。人々に残された生存圏は、アルプス、アンデス、ヒマラヤの、わずか三カ所のみとなっていた。それでも人類は、子を産み、街を築き、文明を発展させる。人が他の生物に対して誇るところがあるとすれば、それは知性ではなく、生命力のほうだろう。
生存圏と呼ばれない場所には、ただ水だけがあった。地球の九割以上を覆う、「海」という名の秘境である。海面が今よりも四千メートル下にあった頃は、人類はその数を六〇億にまで増加させていた。後に混沌期と名付けられた、歴史上もっとも人類が輝いていた時代だ。
水に意思があることが発見されたのは、混沌期の後期のことだった。それを発見した科学者は、どれほどに驚いたことだろう。生物ですらない水に、意思があるというのだから。
もともと当時の科学は、宇宙全体の情報を集合させた情報思念群体とも言うべきものの存在を予言してはいた。それは決まった形、決まった意志を持たず、ただ情報の海として、宇宙空間を漂っているはずのものだった。ところが、本来なら宇宙空間に無秩序に混じり合っているはずの情報の渦が、水という物質に同調したのだ。
「水は、宇宙のすべてを知る情報のスープである」とは、それを発見した科学者の言葉だ。
世界中の学者たちは、水に溶けた情報思念群体から知識を引き出そうと、血眼になって研究を重ねた。しかし、それに成功したのはただ一人。水の本質を突き止めた、最初の科学者であった。
彼は、自ら「通水術」と名付けた精神感応法により、水と意思を通じることに成功したのだ。水から情報を引き出すだけでなく、その情報を書き換え、水を形態変化させることも彼は可能とした。
しかし、独占された力や知識は人間を狂わせる。彼の身柄を巡り、大国の間で暗躍が繰り返され、水面下で思惑が衝突するようになった。そしてそれはすぐに表面化し、大規模な世界大戦へと発展していった。
「殺し合ってはいけない。水が人々に絶望してしまう」
彼が世界中に向けて発信したメッセージは、しかしながら当然のごとく無視された。ただ、メッセージの発信元を探るべく、競争が激化しただけだった。
そしてついに、そのときは訪れた。
某国で核ミサイルの発射スイッチが押された瞬間、その軍事基地にいたすべての人間が、体の水分を蒸発させて死んだのだ。また、核の使用に関わったすべての人間が、同様にして瞬時にミイラと化した。
同時に、核の標的となった都市では大規模な地殻変動が起きていた。地盤が沈み、海岸沿いにあった世界最大の都市は、瞬時にして海底都市へと変貌してしまった。海水の氾濫はなおも続き、そして核ミサイル着弾の瞬間を迎えた。
爆発は、起きなかった。
都市を呑みこんだ海水が、蛇のように頭をもたげたのだ。物理法則を無視して幾本もの水の触手が立ち昇り、空中でミサイルを掴み、包みこんだ。そしてそのままやんわりと、ミサイルは海底都市へと沈められていった。
情報思念群体を溶かした水が、初めて世界に干渉した瞬間だった。
干渉は、それで終わりではなかった。
世界中の大陸が沈んでいき、海水自体も増殖していった。海面は上昇し、あらゆる都市が水没した。水は、当時海抜四千メートルとされていた土地までを、海に変えてしまったのだ。しかも、四千メートルを超えたロッキー山脈やシエラマドレ山脈、エチオピア高原、キリマンジャロなども、地盤の沈下によって、今では優美な珊瑚礁の海原となっている。
しかしそれとは別に、大地が隆起し、沈没を免れた土地もあった。現在、人類の生存圏となっている、アルプス、アンデス、ヒマラヤである。特に、アルプスの地殻変動は、当時でももっとも激しかったものの一つだ。四千メートル級の山はさほど多くない山脈だったが、今でも多くの陸地を残している。情報思念群体にとっても、知性を有する地球という星は、特別な観測対象だったのだろう。その星が核によって滅ぼされるよりはと、生物の間引きを行った。今では、そのように認識されている。
戦争と水の氾濫により、六〇億の人口は、二億人にまで減少した。その数は、「水歴」一〇四二年になった現在でも、三億強までにしか増加していない。
また、「はじまりの科学者」と呼ばれる男は、その後ヒマラヤにて、小さな塾を開校したと伝えられている。彼は、そこで水と通じるための術、「通水」を教え、広めていった。
ニコ・リヴィエールは、人間離れした脚力で建設途中のビルを駆けのぼっていた。
触れれば折れてしまいそうな細い四肢。そのどこに、これほどの力が秘められているのか。階段を三段飛ばしにするニコが吐く白い息からは、わずかな乱れも見出すことができない。
急がなくてはならなかった。タイミングも大事だと、ニコは自分に言い聞かせる。
「夜のほうがよかったというのは、贅沢でしょうね……」
自分の蜂蜜色の髪と白い肌は、真冬の夜闇にさぞかし映えるだろう。学園の白い制服も、夜にこそいっそう輝くはずだ。
「でも、仕方ありませんね。悪とは、時を選ばずして夜陰に乗じるもの」
真面目な顔で矛盾したことを口走りながら、ニコは最後の五段を一歩で飛び上がった。
四階までたどり着くと、ニコは目当ての部屋へ駆けこんだ。合成建材の固い床面が靴音を反響させる中、ニコは窓の一つへと走り寄る。未完成のビルには、いまだ窓枠すら嵌ってはいない。
大きな窓だった。高さは床から天井まで。幅も、ニコの歩幅で一〇歩はあるだろう。
壁で口を開ける四角い穴の脇で、ニコは一つだけ、深い息を吐いた。それから、地上に顔を出すモグラのように、コソコソと外の様子をうかがう。
「よかった。まだ手遅れにはなっていないようです」
ほっと、さらに一息。
ニコは、いそいそと身だしなみを整え始めた。学校指定の純白のブレザーを撫でつけて皺を伸ばす。風で効果的にはためくように、あえてボタンは外しておく。乱れた金髪も、巻き毛が上品に見えるように鏡で念入りにチェックする。
いつタイミングが訪れてもいいように、ニコは準備を急いだ。
今回の獲物は男たちが狙った通りに弱く、気が小さく、そして育ちがよかった。ネオカシミール学園の入学式である一月七日、つまり今日は、男たちにとっても心躍る一日なのだ。
真新しい制服の少年少女たちは無防備なことはなはだしい。大事に飼われてきた鳥籠の中から、この日初めて解き放たれたのだ。そういう小鳥たちのなんと多いことか。
それでいて財布の中身だけは一人前なのだから、男たちにはたまらない。明日以降は友人を作り、ともに登下校する者が増えるので、やはり今日が一番実入りが期待できる。
建設途中のビルは、昼を過ぎないと業者が入ってこない。すでに調査済みだ。
そのビルの前に、男たちはひ弱そうな少年を引きずってきていた。広い前庭だが、敷地外とはシートで仕切られているので人目はない。
三人の男たちは、慣れた動作で、均等に少年を取り囲んだ。
少年は、白い制服の中で全身を強ばらせるばかりで、逃げる気すら起きないようだった。
それを見て、カモの正面に立っていたひときわ大柄な男が口の端を吊り上げた。
「さて……言われなくてもわかるよな。おれたちはちょっとばかり貧しくてな。きみに少しばかりの融資を頼みたいわけだ」
「少しばかりってのは、有り金全部のことだぜ。ヒヒッ」
男の言葉を継いでいやらしく笑ったのは、少年の左後方に立つ細長い男だった。どこか、栄養失調のカマキリを連想させる。
大柄の男は、唇をさらに傾けながら少年に一歩詰め寄った。
少年が、同じだけ後ろに下がる。
その背中を、右後方にいた小柄な男が軽く突いた。身長は低いが、やたらと肉厚で、重量がありそうな男だ。岩のようなその男は、無言のまま少年に圧力をかけ続ける。
「なに。融資をしてくれる恩人に手をあげるような真似はしねえさ。話し合いで解決できない問題などありはしない、ってのがおれたちの持論でね」
正面の男は、表面上は優しい口調で、さらに一歩距離を詰めた。
実際、怪我をさせるつもりなど男にはなかった。殴って奪うのは、頭の悪い連中のやることだ。怪我をさせれば、それが証拠となる。また、同じ相手に複数回融資を請うことも、男たちは避けてきた。一度きりならば、黙って泣き寝入りしてくれる連中がほとんどだ。
男が手を伸ばすと、少年は合成革の鞄を頑なに抱きしめた。
男の片眉が小さく持ち上がった。少しは意地というものを持っているようだ。なんの役にも立たない下らない心根だが。
怪我をさせない程度に軽く痛めつけようかと、新入生の顎を掴み上げた。
そのときだった。
「そこまでです!」
まるでこっそりうかがっていたようなタイミングで、制止の声が降ってきた。
男は上方を仰ぎ見た。目を凝らすと、四階の窓枠に小さな人影がある。
「……なんだ?」
「弱き者を恐怖で従えようなど、恥ずべき悪行と心得るべきです。くわえて金銭を奪おうとは不届き千万。わたくしの目に留まったからには、これ以上の罪を重ねること、断じて許しはしません!」
妙に時代がかった口上が終わるなり、効果的な風が、人影のブレザーをはためかせた。その風に乗り、小さく「決まりました……」という呟きが聞こえてくる。
人影が身につける白い制服からして、やはりネオカシミール学園の女生徒だろう。なぜ工事中のビルの四階などにいるのかと、男は実にまっとうな疑問を抱いた。
「…………で?」
頭上の女生徒は、脱力でもしたのか一瞬だけ体勢を崩した。
「で? ではありません悪党ども! あなたたちの悪行、天は知っています! 大人しく正義の刃にその身を晒し、夕日とともに地に沈むのです!」
女の頭の中では、その瞬間に何かしらの効果音でも鳴ったのだろう。男に向けて、真っ直ぐに人差し指を向けてきた。
夕方にはまだ時間があるんだが、とは思ったものの、口にすると面倒そうなので男は無視を決めこんだ。入学式の朝は、年に一度しかないのだ。
男は、呆然と上を見上げている少年に狙いを定め直した。少年が抱く鞄に素早く手を伸ばす。
「こらーっ! 無視するんじゃありません! 礼儀を知りなさい、礼儀を。悪党が正義の味方を無視してどうするのです!」
どうするも何も、悪行に精を出すだけなのだが、それを教えてやるのも面倒くさい。
少女は、四階の高さで地団駄を踏んでいる。大変結構なことに、先ほどからスカートの中が眺め放題な状態だ。
「不遜なあなた方に、正義のなんたるかを教えてさしあげましょう!」
「やかましいな。誰が正義の……なっ?」
悪態を吐きかけた男の口が、驚愕を表したまま固まった。その場の全員が、目を見開いて上方の人影を凝視する。
少女は、四階の窓から躊躇なく身を躍らせていた。空中で華麗な伸身宙返り。さらにはひねりもくわえると、ブレザーが翼のように大きく開いた。仕上げにもう一回転してから体勢を整え、少女は優雅に着地した。
ところが。
直後、少女は右足の裏を押さえて地面をのたうち回った。
「あ、足が! 土踏まずで石踏みました!」
思ったよりも小柄でかわいらしい少女が、地面を転げ回っては制服を土で汚していく。
確かに男も見ていた。きれいに着地を決めた少女の右足が、尖った石を見事に踏んでいた。さぞ痛かろう。
しかし四階から飛び降りて、痛いのは右足だけなのだろうか。
反応が麻痺している男の袖を、カマキリ似の男が肘でつついてきた。
「なあ。かなりの上玉だぜ。頭はちょっとアレみてえだが、こいつもどうやら新入生だ」
なるほど。確かに少女の右袖口には、一本のブルーラインがデザインされている。ネオカシミール学園の一年生に違いなかった。
もう一人の一年坊主は、いつの間にか目の前から消えていた。混乱に乗じた逃げ足の早さは、賞賛に値する。学校では陸上部に入ることを勧めてやりたい。
「今の隙にあのガキは逃げちまったからよ、この女を獲物に切り替えようぜ。それに女のほうが、融資の後も奉仕が楽しめるじゃねえか。ヒヒッ」
下卑た笑いに、男は同種の表情を浮かべて頷いた。稼ぎ時なのであまり長々とは遊んでいられないが、せっかく舞い降りてきてくれた獲物だ。せいぜい楽しませてもらうとしよう。
「……よし、さっさと済ませろよ」
二人の仲間に順番を譲り、男は享楽の現場に背を向けた。逃がした生徒が人を呼んでこないともかぎらない。一応の警戒はしておかなくてはならなかった。
そこへ、不意に背後から短い苦鳴が聞こえてきた。女の声ではない。
振り返った男の目に、想定外の光景が飛びこんできた。
カマキリ似の男が、みぞおちを押さえて前のめりに倒れこんでいくところだった。完全に白目を剥いており、顔面ごと地面にキスをしてそのまま動かなくなる。
「――なんだと」
少女は、いまだ右足を抱えながらのたうち、白い制服を黒く汚すのに余念がない。苦悶する少女が犯人ということはないだろう。
続いて背の低い男が、分厚い体を「くの字」に折って胃液を吐いた。砂嚢を殴ったような打撃音があったが、その攻撃がどこから飛んできたのかがわからない。肉厚の男は、さらなる打撃音とともに足をすくわれ、為す術もなく地に沈んだ。カマキリ似の男同様、それきり動かなくなる。
「な、なん――っ!」
その瞬間、男はすさまじい打撃を顎に受けて舌を噛んだ。顎の砕ける音と痛みのせいで気を失い損ねてしまった。おかげで倒れずにいられたが、それは決して幸運などではなかった。二撃目を脇腹にくらい、肝臓にまで損傷を負う羽目になったからだ。
地面の感触を頬に感じた直後、男の意識は闇の底へと急降下していった。
ニコは痛む足を押さえながら、大男が倒れていくのをぽかんと眺めていた。
何が起こったのかは、どうにか理解できた。悪党の足元に、あめ玉サイズの透明な球体がいくつか転がっている。
「これは……通水、ですね」
よろよろ立ち上がりつつ、球を一つ手に取ってみる。すると球は簡単に形を失い、掌でただの水になってしまった。見ると、残りの球も固体から液体へと変化していくところだった。男たちは、この透明な弾丸を食らって倒れたに違いなかった。水を自在に操る「通水師」にとっては、さほど難しいことではない。
「いったいどなたが……?」
それもすぐに明らかになった。
敷地内への立ち入り禁止を示すシートが一部めくれ、白い制服姿がビルの前庭に入ってきた。その服装からニコと同じ学校に通う生徒だとわかる。
「さては、正義の味方気取りの学生ですね……?」
自分のことは棚に上げて、ニコは制服の汚れを叩く。
「でも、登場が甘いですね。正義の味方は、やはり高所から現れなくては……。それに、いきなり通水を使って敵を倒すのも感心できませんね。必殺技はピンチで出してこそ映えますのに」
自分の恩人を、勝手にあれこれ評すニコ。恩人の男が煙草を銜えているのを見て「減点」、と内心で呟く。いや、火を点けていないので訓告くらいにとどめておいてもいいかもしれない。
恩人の右袖を確認してみた。随分大人びて見えるが、男はニコと同じく新入生のようだった。
緩んだネクタイと、着崩した制服を見てさらに減点。無駄に前だけが長い黒髪に減点。その下からかすかに覗く、寒気がするほどの鋭利な瞳にますます減点。どう見ても、正義を好むタイプの人種とは思えなかった。
それでも、礼を言おうとニコは口を開きかけた。
しかし、恩人はニコの存在など歯牙にもかけず、倒した男たちの前でしゃがみこんだ。
何をするのかと眺めていると、悪人顔の恩人は倒した男たちから財布を回収し始めた。慣れた手つきで中身を確認してから、それを通学鞄に押しこんでいる。
唖然とするニコを完全に無視して、男は作業を終えるなり足早に立ち去ろうとする。
「ちょ、ちょっとお待ちなさい!」
慌てて、ニコは黒髪の後ろ姿を引き止めた。いくら相手が恐喝常習犯かつ強姦未遂犯でも、金を巻き上げていいという理屈にはならない。
恩人は、一瞬だけ立ち止まって振り向いた。黒塗りのナイフを思わせる視線が、ニコの上を通過する。彼が示した反応はそれだけだった。すぐに前に向き直ると、今度こそ振り返ることなく去っていく。
「な、なんなのです……」
ニコは憤慨した。
男の黒瞳は、本当にニコの上を通過しただけだった。視線は、止まることも速さを緩めることもなかった。道ばたの石ころと、ほとんど変わらない扱いだ。
「わたくしはお礼を言えばいいのでしょうか……それとも文句?」
心情的には後者にしておきたい。しかし、男はニコが葛藤するうちに、さっさと立ち去ってしまった。結局、会話らしい会話もないままだ。
「それにしてもあの方……あの目……」
思い出しただけでも首筋がざわついてくる。あれは、まともに生きてきた人間の瞳ではなかった。
「たった今人を殺してきた」
そう言われても信じてしまいそうな、深い闇色をしていた。
「どうやら、正義の味方の出番には事欠かない学園生活になりそうですね」
大まじめに呟いて、ニコは再度制服を払った。かなり汚れてしまったが、入学式の前に挨拶に行っておきたい場所がある。
弱者を一人救うことができたことにとりあえず満足し、ニコは建設現場を元気に走り去った。
海に近い立地の学園は、世界的にも珍しい。
太古に生じた四千メートルもの海面上昇のせいで、好んで海に近寄ろうという人間は多くないのだ。漁師を志す勇敢な者もいるが、それも収入がほかの職業に比べて圧倒的に高いからに他ならない。海では、船ごと行方不明になってしまう事件も少なくない。水の怒りに触れたのだとも、水竜に食われたのだとも噂されている。実際、世界の九割以上を占める割に、海洋のことはほとんどわかっていないのが実状だ。
そんな海が近いからこそ、ネオカシミール学園は広大な敷地を贅沢に使用することができるのだ。また学園は、「通水師」を養成する世界でただ一つの機関としても知られていた。有望な少年少女が世界中から集まり、通水師となることを夢見て学園の門をくぐる。三年制高等部への入学者は、毎年千人を数えるほどだ。しかし、その中で実際に通水を扱えるようになるのは五〇人ほどだと言われている。
学園は周囲を幅二〇メートルの堀に囲まれ、東西南北それぞれに一つずつ橋を有している。水に囲まれた学校というのも、そういった校風と無関係ではない。
南門。学園の裏門にあたる橋であり、海に最も近い側でもある。四階建ての立派な部室棟が、この区画にはある。
部室棟の二階。文化系クラブが集合するフロアに、その部屋はあった。
〈ハニワ研究同好会〉
ドアには、そんな文字が女性特有の丸い書体で書いてある。これを見て、どんな活動をするクラブなのか想像できる者は、まずいない。
室内は、たかが数名の会員を抱えるだけの団体に不釣り合いなほど広い。
「今年の新入生は有望ですってね」
部室中央のカウチで、やたらと艶めかしい女性が髪にブラシを通していた。肩で切りそろえたロゼ色の髪を、早朝の空を思わせる澄んだ色の瞳で慈しんでいる。
ドレスのように優雅に着こなしているが、服装自体は学校の白い制服だ。
「あの子がかい? エルスターさん」
応えを返したのは、星空を思わせる黒髪を持った、優しげな男子生徒だった。スマートな体つきに柔和な黒曜石の瞳からは、温厚な性格が垣間見える。
「キョウジ。あたしのことはエルフリーデと呼んでって言ってるでしょう」
女性、エルフリーデ・エルスターは、向かいのソファに座る男子生徒を軽く睨みつけた。その表情から、年相応の幼さがちらりとのぞく。
「やあごめん。エルスターさん」
キョウジと呼ばれた男子生徒は、笑顔で謝りながらも注意を聞き入れる様子がない。
「まったく……」
髪を梳く手を止め、エルフリーデは足を組み替えた。
「自分はファミリー・ネームを呼ばれるのを嫌がるくせに、勝手なものだわ」
しかし、目の前の男子生徒が「響司・不破」という名を敬遠する気持ちもわからないではない。自分が好みの問題でファースト・ネームを頻用しているのとは事情が違う。
「まあいいわ。ともかく、部長がおっしゃったのよ。あの子にも期待しているし、もう一人、今年の一年にはいい素材がいるって」
「そのもう一人って、まさか……」
響司の穏やかな表情がわずかに曇ったのを見て、エルフリーデは悪戯っぽく微笑んだ。
「今度スカウトに行くわ。言っておくけど、部長の決定は絶対よ」
先手を打って釘を刺したのと、ドアからノックの音が響いたのは、ほとんど同時だった。
「どちら様?」
「僕だけど……」
ドアの向こうから、気の抜けたコーラのようなくたびれた声が届いた。
「うちの関係者に、ぼく様という方はいたかしら?」
エルフリーデは、わざと外に聞こえる音量で響司に尋ねてみた。
響司からは、穏やかな苦笑が返ってくるのみだ。
「相変わらず意地が悪いんだなぁ。アレン・ヤングだよ。君らの顧問様」
「あら、名前だけの顧問が珍しい」
それでようやく、エルフリーデはドアのロックをリモコンで解除する。
「君は、いじめ癖を改めるべきだと思うなぁ」
そんなことを言いながら入ってきたのは、ピンの甘い顔をした三〇代の男だった。グレーのスラックスに、カッターシャツという名に泥を塗るような、よれよれのシャツを着ていた。そのシャツは、冬だというのに袖が肘までまくられている。平均的な身長だが、やたらと貧相で細い体格のため、ひょろ長い印象を受ける。
「だって、いじめるのって気持ちいいんだもの。うちの家族はみんな喜んでたし」
顧問教員の顔が引きつるのを承知で、エルフリーデはわざとらしく言葉で脅した。
「あら、後ろの子は……」
「ああ、入学式の前に挨拶にきてくれたんだ。感心だなぁ」
アレンが横にどくと、その陰から小柄な少女が現れる。蜂蜜色の巻き毛と白い肌が儚げな、可愛らしい少女だった。
「あらまあ、ニコちゃんじゃない!」
「あ、はい。ニコ・リヴィエールです。本日からお世話になります」
噂の一人、「あの子」の登場に、エルフリーデは思わず顔を輝かせた。豹のような瞬発力で立ち上がり、入り口に立つ少女に抱きつく。
「ちょっ、先輩っ?」
新入生があげる、戸惑いの悲鳴が耳に心地いい。
「もう〜。入学式の前に部室に挨拶にくるなんて、とってもいい子。ご褒美に、今日はあたしの家に泊めてあげようかしら」
「蜘蛛の巣に招かれる蝶……」
横手からのだらけた雑音に、エルフリーデは持っていたブラシを無造作に振るった。
それが見事にアレン教諭の手の甲にヒットする。普段趣味で使っている鞭に比べれば、ブラシなど腕の一部と変わらない。
「ぼ、僕はこれでも教師なんだけどなぁ……」
手を押さえて涙ぐむアレンは無視して、エルフリーデは新入生に向き直った。そのまま、目を白黒させるニコを引っ張って響司の向かいのカウチに座らせる。
突然響司の前に座らされ、ニコが白い頬を桃色に染めた。この上なくわかりやすい反応だ。入学前にスカウトに行ったとき、ニコは響司に一目惚れをしてしまったらしい。
鈍感な響司が、ニコの反応に首をかしげながら甘く微笑し、口を開いた。
「その汚れ……どうしたの?」
改めてエルフリーデもニコを見下ろした。確かに、おろしたてにしてはニコの制服はひどいありさまだ。
「あの、登校途中に悪者を退治しようといたしまして、その、不覚を……」
ニコが、正義の味方に憧れる趣向の持ち主だということは、エルフリーデも承知している。
「それで、大丈夫だったの?」
響司の声は穏やかだが、本気で親身になっている真剣味も同時に帯びていた。まるで妹を案じる兄のように思えてほほえましい。妹では、ニコにとっては不本意だろうが。
「はい。途中で助けが入りましたから。わたくしと同じ新入生だったみたいですけど、すごく目つきの悪い人で……。それに、通水を使っていました。そうそう、ひどいのです。倒した相手からお財布を……。キョウジ先輩?」
ニコが、怪訝そうに話を中断させた。せっかくほぐれた表情が再び硬くなっている。
エルフリーデも、様子の変わった響司を見て、やれやれと息をついた。この男も実にわかりやすい。響司の心を揺さぶる人物については、エルフリーデも心当たりがあった。
「キョウジ、話の途中よ」
「え? ああ、ごめん」
悲しむような、苦悩するような表情を見せていた響司が、慌てたように笑顔を取り繕う。
エルフリーデは、それ以上何を注意するでもなく、ニコの後ろに立って蜂蜜色の髪に勝手にブラシを通し始めた。
「あの、キョウジ先輩はその男の人に心当たりがあるのですか?」
「そうだね……いや……」
困ったように眉を下げる響司を見ては、さすがにそれ以上追求できなかったのだろう。ニコは話題を変えてきた。
「ところで、どうして〈ハニワ研究同好会〉なんていう名前なのですか?」
訊く少女は、エルフリーデに髪をいじられるままに首をかしげた。
エルフリーデは、明け方の青空めいた色の瞳で顧問教諭を睨みつけた。
「説明してやれ」という意図は、無事にアレンに伝わったようだ。だらついた教師は、苦笑の浮かぶ頬を撫でながら説明をはじめた。
「うち、入会希望が殺到しちゃうんだなぁ。そこのエルスター君目当ての男子生徒と、キョウジ君目当ての女子生徒たちでねぇ。しかもろくに通水も使えない生徒ばっかり。それで部長さんキレちゃってね。〈通水同好会〉だったのを、人が寄りつきそうもない名前に変えちゃったんだなぁ」
「はぁ……。それで、入会希望者は減ったのですか?」
「全然。だから結局入会テストでふるいにかけることにしたんだなぁ。名前変えた意味はなかったわけだね」
「ニコちゃんはあたしたちがスカウトしたんだから、テストなんて必要ないけどね」
きょとんとするニコに、エルフリーデは説明を補足してやった。
「それで、その会長さんはどちらに? わたくし、まだ会ったことがないので挨拶を……」
きょろきょろとするニコの仕草を見て、エルフリーデは背後から抱きついた。
「ニコちゃあん? 部長って言わないと怒られるから、気をつけた方がいいわよ?」
「そ、そうなのですか?」
戸惑うニコの姿に、エルフリーデはさらに笑顔を深くする。
「もっとも、今はハニ研メンバーはあたしとキョウジ以外全員出払ってるんだけど」
「出払っている……ですか?」
「そ。アルプスとアンデスで水獣が出現したって話、聞いたことあるでしょ?」
アルプスとアンデスで、海から現れた怪物が暴れ回るという事件が、先月から頻繁に起こっている。これまでに確認されたどんな海洋生物とも異なるそうで、陸上でも不自由なく動き回れるらしい。ビルさえ苦もなく倒すというから、サイズも大型なのだろう。
響司が、普段の穏やかな表情を取り戻して説明を引き取った。
「水獣の数が多いから、ヒマラヤに応援要請がきたんだ。だから、学園の中からも通水が使える人たちが派遣されてるんだよ」
「そうですか……。でも、それではヒマラヤが手薄になってしまいませんか?」
「確かにね。でも、僕とエルスターさん、そこのヤング先生がいるし、チベットの高地にだって上位の通水師は少し残っているはずだよ。それにリヴィエールさん、君もいる」
「わたくしは……あ、わたくしのことは、ニコと呼んでください。わたくしなんて、まだ第三位の通水しか扱えませんし……」
「十分だよ、リ……ニコちゃん」
言って笑う響司の表情は飾り気がないが、そのぶんどこまでも柔らかで、爽やかな魅力に満ちていた。ニコも簡単に参ってしまうわけだ。それより、なんでニコはちゃんとファーストネームで呼んでもらえるのだろう。その点が、エルフリーデには納得いかない。
「でも、世界に千人ほどいるらしい三位以上の通水師……そのほとんどがアルプス、アンデスに派遣されちゃってるのよね」
わざと不安を煽る言葉を口にしてみたエルフリーデだったが、響司の目元は常と同じで優しく笑んでいる。
「いざとなったら、一位の通水師さんが守ってくれるんじゃないかな?」
そう言って、響司は珍しく悪戯っぽい微笑みを浮かべた。その視線は、無精ひげを引っ張るアレンに向けられている。
「ねえ、ヤング先生?」
「はあ、あまり期待されても困るなぁ」
「えっ! ヤング先生って一位の通水師なのですか?」
ニコが、こぼれんばかりに目を剥いた。
当然の反応だと、エルフリーデは思う。
「凄いです! これで司令は決まりですね。あとはわたくしたち三人の戦隊というのは……。戦隊は五人いるのが理想なのですけれど……司令はどう思われます?」
「え? 司令? 僕が?」
玩具を与えられた子どもみたいなニコに、アレンは戸惑いを隠せないようだった。
響司はそんな二人を、目を細めつつ優しく眺めていた。
響司も意外と食えない男だ。巧みに、通水師の話題を避けるように仕向けている。
エルフリーデは、注意深く響司の様子をうかがった。おかげで、直後に響司がこぼした囁きを耳の端で拾い上げることができた。
「いざとなったら……か。そのときは……」
そう呟いた黒曜石の瞳は、ここではない、どこか別の時間を見つめているようだった。
滞りなく終了した入学式。
気持ちだけは胸が膨らむつもりで、ニコは期待いっぱいにネオカシミール学園高等部の一年生となった。
校長や理事長の挨拶などは退屈きわまりなかったが、一応はまじめに聞いておいた。
特に理事長は、ニコの「要成敗リスト」に名前があるほど悪評高い人物だ。注意深く話を聞いておくのも後のためなのだ。しかし、理事長の話は大して聞く価値のあるものでもなかった。定型句を並べたらこんな文章になった。そうとしか評し得ない賛辞だった。
「式というのは、どこの学校でもこんなものなのでしょうね……」
軽い疲労に肩をほぐしながら、ニコは教室へと続く廊下を歩いていた。周りも、ニコと同じような顔をした生徒たちがぞろぞろと列をなしている。みんな、これからともに学ぶことになるクラスメイトたちだ。
「それにしても……エルフリーデ先輩に気に入られるのは嬉しいのですけど、できればキョウジ先輩にも……あれ?」
思考を口からだだ漏れさせていたニコは、視界の端に、気になる人物を引っかけた。
闇色の髪に、黒塗りのナイフを連想させる瞳。無差別にまき散らす殺気のためか、周囲にぽっかりと空間を作って行列の中を歩いている。ビル建設現場で悪党どもを駆逐した新入生に間違いなかった。
そう認識するなり、ニコは条件反射のように男に歩み寄っていた。
「そこのあなた!」
「あ?」
無視されるかと思ったが、返事はすぐに返ってきた。威圧するような響きがこめられていたが、そんなことで怯んでいては正義の味方はつとまらない。
ニコは、妖刀のような顔で見下ろしてくる男を、正面から睨め上げた。
「あなた、悪党の駆逐はともかく、その後に金銭を巻き上げるのはどういうことです。正義の名の下に、見逃すわけにはいきません」
「…………誰だ? おまえ」
「――っ!」
男の返事と見下した態度に、ニコは言葉を詰まらせた。
ちょっとした騒ぎに、周りの新入生たちが注目しているのがわかる。ここで男を説き伏せれば、入学早々正義の味方として一目置かれるようになるだろう。
ニコは大いに張り切った。
「とぼけようとしてもそうはいきません。あの、建設現場での一件のことです」
「建設現場? 今日は、まだどの女も連れこんだ覚えはねえんだがな」
男が吐いたそのセリフで、周囲の空気が微妙に浮ついた。
建設現場。女を連れこむ。その言葉から、みんなが何を思い浮かべたのか――。急激に背中に噴き出した汗を感じながら、ニコは慌ててかぶりを振った。
「な、何を言うのです! わたくしは……!」
「あーわかったわかった。認める。認めてやるから、また相手をして欲しかったら、話しかけるのは学校の外にしろ」
瞬時に白い制服の群れがざわついた。その中から、ニコの汚れた制服に哀れみの視線を向けてくる者も多い。
ニコは、湯を沸かせそうなほど頬を赤くして、周りの新入生たちを振り返った。
「ち、違います! 建設現場で悪党からわたくしを助けてくれたのがこの方で……:」
「それで、おいしい礼をいただいたってわけだ」
必死の弁解に、黒髪の男が余計な口を挟んでくる。
瞬間、ニコの理性が弾けた。
思わず、手加減なしの平手を繰り出してしまう。下手をすれば、人の頭などもぎ取ってしまいかねない一撃だ。
通水師は、体を構成する水と意思を通じているため、常人にはあり得ない身体能力を有するのだ。その力を、ニコはこの一瞬に爆発させてしまった。
強打者のバットよりも凶悪な一撃が、男の頬にクリーンヒットした。
ボールのように弾け飛び、男は白い壁に体ごと激突した。壁に細い亀裂が走るのを、ニコの非凡な視力が捉えた。
ニコは、紅から蒼へと顔色を早変わりさせた。頭蓋を砕いたか頸骨をへし折ったか。この場合、どちらがましとも言えなかった。
「ど、どどどど、どうしましょう……」
正義の味方改め、人殺しに転身だ。
動揺する精神に溺れていると、不意に野次馬たちがどよめき揺れた。
顔を上げて、ニコは我が目を疑った。殺してしまったはずの男が、二本の脚でまっすぐ立っていたのだ。頬は赤黒く腫れ、口からは血の筋を引いているが、両眼は鋭さを失っていない。
男はニコを一瞥すると、何事もなかったかのように背中を向けて去ろうとする。
「お、お待ちなさい!」
叫んでも、まったく反応がない。またしても、道ばたの石ころと同じ扱いだ。
唇を噛むニコに、慰めの声が方々から浴びせられた。今日からクラスメイトとなる女子生徒たちだった。
「あいつには、関わらないほうがいいわよ」
「そうそう、知らないの? あいつ、『キョウイチ・フワ』なのよ」
「――え」
女生徒たちの一人が教えてくれた固有名詞に、ニコの心臓が跳ね上がった。
「嘘みたいな話だけど、ホントらしいわ。しかもあいつ、入試トップの成績で奨学金まで貰ってるんだって。怪しくない? 理事長が独断で入学させたっていう噂もあるし、歳も違うし……それ以前にあいつ死刑囚なんだから、一〇〇%裏口入学よね」
「キョウイチ・フワ……」
その名を聞いて、碧天色の瞳が動揺に激しくくらんだ。あり得ない。不破恭一は第一級の犯罪者、死刑囚だ。それが高校に入学など、許されるはずがない。
ニコがヒーローを目指すプラスの要因が五年前の恩人なら、マイナスの要因は、間違いなく不破恭一への憎しみだ。
不破恭一。
ニコが、今まででもっとも憎いと思った人間。そして、密かに恋心を捧げる二年生、不破響司の兄でもあった。
五年前のあの日、アルプスの首都ツェルマットは、三日連続の雨に覆われていた。まるで、霧のヴェールで惨劇を包み隠そうとしているかのように。
街は、巨大な怪物たちによって完全に蹂躙されていた。少ない土地を有効に使うための高層ビル群が、砂の城のように簡単に崩されていく。
水から生まれた怪物たちは、衝動のままに街を破壊し、死者を大量生産していった。
ニコは、純粋な恐怖に歯の根を鳴らしながら、父、ジョゼフの車に乗せられていた。
破壊衝動を持つ水獣たちは、次々と海から生まれては被害を拡大させているらしかった。カーラジオのアナウンサーが伝える水獣の数は、発表のたびにその数を増している。
水がこれほど激しく怒りの意志を表したのは、かつての大災厄以来だった。ニコは街を逃げ回りながら、今度こそ世界は水に覆い尽くされてしまうのだと、本気で信じていた。
被害がツェルマットに限定されていたと知ったのは、もっと後になってからだ。
「パパ、なぜです。どうして、水がこんなに怒っているのです?」
議事堂の門を抜けた車の中、ニコは隣でハンドルを握るジョゼフに涙混じりの声で問いつめた。議員である父と一緒なら、議事堂地下のシェルターが利用できる。それに安心して、ようやく悲鳴以外の声を出すことができたのだ。
「特位クラスの通水師が殺されたのかもしれんな。でないと、水がこれほど猛るはずがない」
通水師と呼ばれる人々のことは、ニコも話には聞いたことがあった。水を自在に操り、水に溶けこんだ全宇宙の記憶を、少しばかり取り出すことのできる人たちのことだ。
自分も通水師の素質があると言われたことがあったが、いまひとつピンとこない。
通水師が自然死以外の死を被ると、海が波打ち、天候が荒れると言われていた。しかし、水獣が生み出されるほど水が怒ったというのは聞いたことがない。
「ともかく、この事態を収拾できるのは通水師の方々だけだ。我々は避難を――」
ジョゼフの言葉は、タイヤごしの地響きによって遮られた。
見れば、地下駐車場入り口の前に巨体を横たわらせる影が出現していた。
プリンのよう――と言えば可愛げがあるが、そいつが五メートルの巨体から無数の触手を生やしていては、スプーンをのばす気にはなれない。
「くっ!」
ジョゼフが急ブレーキを踏んだ。
「きゃあ!」
ニコの体がシートベルトに圧迫される。
車は濡れた路面を景気よくスピンして、水獣に突っこむ寸前のところで停止した。だが、安心してもいられなかった。ゲル状の触手が、不気味にうねりながら車のほうへとのびてきた。
「こいつ、海からじゃなく、雨から生まれたのか!」
突然現れた水獣に、ジョゼフの声が震えていた。
「ニコ! 急いで降りるんだ!」
叫びながらも、ジョゼフは手際よく運転席のコンソールを操作していた。運転席と助手席のハッチが上へ開いていく。
すぐに、激しい雨がニコの顔を叩いた。
それでも、ニコは恐怖に体を痺れさせてしまい、シートベルトを外すこともできない。
「急げ!」
娘の様子を察したジョゼフが、危険に目もくれず、外から助手席側へと回りこんできた。
ニコは、ジョゼフにシートベルトを外してもらい、引きずられるようにして車を降りた。
しかし、すでに親子は脱出に時間をかけすぎていた。
車を離れようとしたジョゼフの背中を、水獣の触手が襲った。
「がはっ!」
苦痛と空気を吐き出して、体格のいいジョゼフが勢いよく飛ばされた。もちろん、抱えられていたニコも一緒だ。
石畳に叩きつけられようかという瞬間に、ニコは父に強く抱きしめられた。直後、体に鈍い衝撃が走ったが、ジョゼフがクッションになってくれたおかげで痛みを感じることはなかった。
蜂蜜色の髪を振りながら、ニコは水たまりの中で上体を起こした。早く逃げないと――。
「パ、パパ……」
なかなか起きようとしない父を揺すろうとして、ニコの指先が石膏のように固まった。
ジョゼフの背中は背広が破れ、むっとする血臭を放っていた。そしてその反対側、胸も服に穴が開き、信じられない量の血を吹き出している。
先ほどの触手は、父の体を刺し貫いたのだ。
「そんな、パパ……」
「ニコ……に、逃げるんだ……!」
そういうジョゼフの口からも、赤いものがこぼれている。
「そこの二人! 早くこっちへ!」
ニコを絶望のふちからすくい上げたのは、力強い少年の声だった。
その少年は、ニコよりも一つか二つ年上に見えた。やはり、ニコと同じく議員の子どもなのだろうか。濡れそぼった黒髪を乱してこちらへと駆け寄ってくる。
同時に、触手もニコへと迫っていた。
ニコまでの距離は、少年も触手もほぼ同じだった。そして驚いたことに、少年の脚のほうが、触手よりもわずかに速かった。
「させるかっ!」
少年は、ニコの前に出るなり右手を払った。触れてもいないのに、それだけで触手の一本がはじけ飛んだ。
少年は、疾走を緩めずに水獣へと向かった。
不意に、空気が変わった。気温が上昇し、雨粒を巻き上げるほどの上昇気流が発生した。むせかえるような湿度と熱気の中、少年は触手をかいくぐって拳を水獣の本体に突き刺した。
「消えろっ!」
少年の気合いが突風のように吹きつけ、ニコの重くなった髪をなびかせた。
直後、ゲル状の怪物が瞬時に体を沸騰させ、蒸発した。五メートル近い巨体が、一瞬にして湯気と水蒸気になってしまったのだ。
それを見て、ジョゼフが血まみれの体を身じろがせた。
「パパ、動いてはいけません!」
「おお、あの子は……」
ニコの声も耳に入らないのか、ジョゼフは少年にすがるように右手を挙げた。
とてつもない通水を使ってみせた少年も、すぐにこちらへと踵を返していた。
「あなたは、リヴィエール議員!」
少年とジョゼフは、どうやら顔見知りらしかった。
「動かないで。傷に障ります」
駆けつけてきた少年は、ニコを安心させるように微笑んでからジョゼフの傷を検分し始めた。
ニコは、どうしたらいいかわからずに少年の袖を握りしめた。ジョゼフの怪我は、脱出にもたついた自分のせいだ。体が、瘧のように震えてきた。
そんなニコの頭を、ジョゼフの大きな手が優しく撫でた。その手は、すでに体温を失いかけていた。
「リヴィエール議員、動いては――」
「いいのだ。それより、今きみに会えた幸運を……無駄にしたくない。た、頼む……。ニコを、娘を……シェルターへ……」
「い、いやです! パパも一緒に――」
「ニコ、この少年が……絶対におまえを守ってくれる……。生き延びて、ヒマラヤの……母さんのところへ……行きなさい……」
次第にジョゼフの声がか細くなっていく。
失われつつあるジョゼフの魂を引き止めようと、ニコは必死に父親の体を抱きしめた。その体が、悲しいくらいに冷たい。
「フフ……すまんなあ……。きみは、死人の頼みは……断れ……ないだろう……」
ジョゼフは、最後に安堵の吐息を漏らし、ニコの腕の中で命の灯を消した。
最後の吐息とともに命まで吐き出されたのを、ニコは嫌というほど実感できてしまった。
五年前のあの日は、ニコにとって生涯でもっとも辛い記憶となった。
父を失った。
恩人である少年は、ニコを逃がすための盾となり、議事堂に残った。名前もわからないニコだけの小さなヒーローは、生きているのかどうかさえ定かではない。
「キョウイチ・フワ……」
すでに小さくなった背中を睨みつけ、ニコは五年前の惨劇を起こした張本人の名を呟いた。
不破恭一、響司兄弟の両親は、世界で数人しかいないといわれる「特位」の通水師だった。極限まで水との意思を共感させ、始源から未来における宇宙の情報を多量に引き出すことができる存在だ。それだけに、彼らが殺されたときの水の怒りは凄まじかった。しかも、その犯人が夫妻の長男とあってはなおさらだ。
それが、五年前の惨劇の原因と言われている。
マスコミは、このスキャンダルを大々的に報じた。当事者でない人々にとっては、さぞ興味を引かれる事件だったことだろう。長男、不破恭一が、特位の通水師である両親を殺した。弟の響司は、悲劇の主人公としてメディアの格好のターゲットとなった。
ニコは事件の報道から意識的に目をそらしていたため、最近まで、学園に憎き男の弟が通っていることを知らなかった。
入学前から同好会にスカウトされていた。そのスカウトに訪れた先輩の一人に、不破響司がいたのだ。そして、周囲の雑音に惑わされることなく穏やかに生きる彼に惹かれた。
「キョウジ先輩は、キョウイチが学園に入学したことを知っていたのですね……」
だから、自分が通水を使う男に助けられた話をしたときに、表情を硬くしたのだろう。
「でも、どうしてあの男が……」
通水師殺しは死刑と定められている。それは、当時一二歳だった恭一も例外ではないはずだ。そんな男が、なぜ刑務所ではなくハイスクールに入学しているのか。
「理事長とキョウイチ・フワ……。いったい何を……」
悪党が何を企んでいようと、ニコは負けるつもりはなかった。
恩人の少年に憧れ、正義の味方として生きてきたニコにとって、これは紛れもなく最大の試練だった。正義の味方として、憎しみに溺れることなく悪の企てを阻止しなくてはならない。
「絶っっっっっ対に、負けません!」
突然拳を突き上げて叫んだニコに、周囲の新入生たちが数歩後ずさった。
そんな彼らに気づくこともなく、ニコは汚れたブレザーを颯爽とひるがえらせて教室への道のりを急ぐのだった。
2章
通水の授業では、東門近くにある広大な室内プールがしばしば利用される。初回は自己紹介と基礎知識の講義だけだったが、二回目の今日は実技が行われるということだった。
濡れてもよい服装で、と言われていたが、恭一は普段と変わらない制服姿でプールサイドを訪れていた。クラスメイトが水着や体操着で集合する中、一人異彩を放っている。
恭一の目的は、通水の担当教員アレン・ヤングの実力を見極めることだった。
ところが、何をどう間違えたのか自分が通水の見本を見せる役に指名されてしまった。しかも、ニコ・リヴィエールとの実戦という形で。
通水を使えることを極力隠しておこうという思惑は、早々に頓挫してしまった。
「このクラスでの授業は楽だなぁ。僕の代わりに通水を見せてくれる生徒が二人もいるんだもんなぁ」
無精ひげをつまみながら気の抜ける口調で言われたときは、一瞬だけ殺意めいたものがこみ上げた恭一だった。
対戦相手に指名されたニコは、お人好しなのか頭が悪いのか、照れながらもやる気満々のようだ。どうせ、憎き悪党を公然と叩きのめすことができるのが嬉しいのだろう。
白いジャージと隙なく整えられた巻き毛という姿に、軽い同情を覚える。じきに水浸しになってしまうことは、自分の相手を任された時点で決定しているのだ。
「模擬戦だからねぇ。お互いプールの反対側に陣取って、先に一撃与えた方の勝ちっていうことにしようかなぁ」
どうでもいいが、脱力する口調はどうにかならないものか。アレン・ヤングという教師は、外見からはとても高位の通水師であることを想像させてくれない。だが、それだけに不気味な存在でもあった。
飛び込み台に腰を落ち着けながら、恭一は小さく嘆息した。ともかく、こんな茶番はさっさと終わらせるに限る。アレンは、今のところ手の内を見せてくれるつもりがないようだった。
五〇メートル先には、ニコがクラスメイトからの声援を受けて位置に着こうとしていた。
笑顔で友人たちに手を振りながら、ニコはちょうど恭一の正面にあたる第五コースに位置を定めた。洗濯板がそんなに自慢なのか、飛びこみ台に立って胸を反らしている。
授業に影響がないよう、コースロープは取り払われていた。設備を破壊しない程度の気遣いはアレンにもできるということだろう。
クラスメイトは一〇コースのサイドに控えているが、当然のように全員がニコ寄りに陣取っていた。
「それじゃあ始めてみようかぁ」
その声は背後から聞こえる。
「なんでこいつだけがおれのそばにいるんだ……」
うんざりとしながらも、恭一は心に壁を作って軽薄な教師の存在を無視した。
ところが、正面からは別の声が恭一を脱力させようとする。
「覚悟なさい! 勝つのはわたくしです。なぜなら、わたくしは正義なのですから!」
黙殺してもよかったが、あえて恭一はニコの神経を逆なでしてみることにした。
「おまえは俺の背中でも見てりゃいい。どうせ追い越せねえんだからな。俺の前に出たら、命は保証しねえぞ」
効果はてきめんだった。ニコの綺麗な顔が、赫怒によってみるみるうちに赤くなる。今の言葉の中に、よほど神経に障る要素が混じっていたのだろう。
感情の爆発に通水が連動したようだ。
「二度と! 二度と言わせません!」
怒りにまかせた一撃が天に昇った。
プール中央で、水が昇竜となって高い天井の間近まで達した。電車ほどもある水柱が大量のしぶきを散らし、先端を恭一に向けるや、うねりながら急降下してくる。
クラスメイトたちが、それぞれの口から歓声や悲鳴を室内プールに反響させる。それに、水柱が発する地鳴りのような轟音が覆い被さり、空気を低く震わせた。
「なに……」
顎を開く水竜を見上げて、恭一は小さな嘆声をこぼしていた。
頭上の透明な牙は、想像を遙かに超えた高速で襲いかかってきた。恭一は、とっさに右拳を、殴るようにして突き上げた。
半瞬と時間差をおかず、膨大な量の水が形成情報を失って内側から八方に弾け飛んだ。
無数の滴は、ニコと恭一だけを避けるようにしてフロア全体を水に濡らす。クラスメイトたちが被害を被り、抗議の声をあげた。
「あいつ……」
平静を欠いた自分の声に、恭一は思わず臍を噛んだ。
「本当に第三位なのか」
確かに、水の形状と動きを操るのは第四位に分類される術だ。初級者が最初に覚える通水でもある。しかし、今のはパワーが桁違いだ。二位の力をも上回るだろう。
「指一本使わずに勝ってやるつもりだったんだがな」
どうやら、そうも言っていられないようだ。体の動きに合わせて意思を叩きこまないと、ニコが干渉した水の意思を封じられないかもしれない。
「この才能は予想外だが……」
言葉数が増えていることに気づき、恭一は口の端を吊り上げた。柄にもなく興奮をしてしまったらしい。
しかし、のんきに笑っている暇もなくニコの猛攻は続いた。
飛び散った水滴が再び集合し、幾条もの触手となって襲いかかってきた。この手数も、通常の第三位を超える苛烈さだった。
豪雨のような激しい攻撃は、恭一が腕を振り払うごとに無害な霧雨と化して四散した。しかし、生じた霧がまたしても集結し、しつこく攻撃を加えてくる。前後左右、さらに頭上や足下からも、水が鋭利な針となって迫る。恭一も、少々の忙しさを感じたほどの手数だ。
水が次第に熱を帯び始めてきた。そして、それはすぐに沸騰した熱湯となる。
ニコの仕業なのは明白だった。水分子の活動を活発化させ、分子間衝突によって生じる熱によるものだ。逆に、分子の活動を停止させれば水は凝固し、氷になる。これが行えるようになって初めて第三位の通水師と認められるのだが、ニコの場合は規模が桁外れだった。
恭一は、飛び込み台の上で無造作に脚を組み替えた。灼熱の針は視線のみで弾き飛ばす。
ニコは自分が圧倒的優位に立っているとでも思っているのだろう。反撃はないと判断したからこそ水を沸騰させ、より攻撃に殺傷力を与えたのだ。
「ったく……。たかが授業で本気になってんじゃねえよ」
そんな独白もむなしく、対岸の少女は攻撃パターンに、わずかな変化を加えてきた。
「あいつ……」
初めて、恭一の黒瞳が感嘆に見開かれた。
「俺の弱点を見抜きやがった……」
恭一は、背後よりもむしろ左からの攻撃を苦手としていた。
そして今、ニコの猛攻は特に左方からの密度を増しつつあった。
弱点といっても、まず気づかれる心配がない程度のわずかなものだ。到達者級の武道家でもないかぎり、見抜くのは不可能だと思っていた。
武術に関してはまったく素人のはずのニコに、どうして見抜くことができたのか。
「とんでもねえ視力を持ってるらしいな」
不意に、腹の奥から笑いがこみ上げてきた。とてつもない才能だが、本人にその自覚はまったくないだろう。
「稀有な素材だが、まだ飛ぶこともできねえ雛鳥……いや、卵だな。敵を知らねえ、自分のこともわかっちゃいねえ」
ひときわ強烈な一撃を、恭一は左腕一本でプールに叩き落とした。
「まずは思い知ることから始めるんだな」
続く右手の一振りで、プールサイドの水、濃霧、熱湯の触手や弾丸のすべてが本来の居場所に帰還していった。五〇メートル先の第五コースでは、ニコが慌てた様子で水面に手をかざしている。突然水の意思に干渉できなくなったのだから当然だろう。
「おい、正義の味方」
恭一は、伸びた前髪の奥から視線のナイフを飛ばした。
それと衝突した碧天色の瞳は、抵抗するように力強く見返してくる。いい度胸だ。
「おまえに弱者が守れるのか。自分が使った力のせいで、周りの人間まで命を落とすってことも、ときにはあるんだぜ」
告げると、恭一は静かに水面に右手をかざした。
煮え立つ熱湯が、海のように不規則に波立った。かと思うと、直後にはニコと観客にとって絶望的な津波となった。プールの内容物すべてを一滴の無駄もなく鉄砲水として、対岸を急襲させる。ニコの通水など問題にならない、圧倒的な質量だ。
ニコが、必死に津波を押し返そうとしている。しかし、恭一が支配する水の意思は、涙ひとしずくの干渉すら受け付けなかった。
ニコの背後まできて声援を送っていたクラスメイトたちは揃って悲鳴をあげた。
津波が絶叫を押しつぶした。恭一の攻撃が轟音と衝撃の牙をむく。ニコを吹き飛ばし、背後のクラスメイトを飲みこみ、一〇コース脇にとどまっていた観客をも濁流に押し流した。
しばらくは、水流のざわめきだけが室内プールを支配していた。それが治まると、続いて人の呻き声がちらほらと聞こえるようになる。熱湯のままなら多くの死者を出しただろう。しかし、学園内でそんな問題を起こすわけにもいかない。恭一は、沸点に達していた熱湯の温度を寸前に四〇度まで下げていた。怪我人といっても、せいぜい転んでどこかをすりむいた生徒がいるくらいだろう。
ニコは、プールの中で尻を着いてへたりこんでいた。一度押し流された後、返す波にさらわれてプールに落とされたのだ。見れば、同様に何人かのクラスメイトが適温の風呂に水着や体操着姿のまま浸かっていた。
先ほどまでの威勢はどこへやら、ニコは呆然と恭一を見上げてくるばかりだった。
刺激が強すぎただろうかと、恭一は小さく肩をすくめた。恭一が水温に気を遣わなかったら、間違いなくクラスメイトの大半が死んでいた。そして、もともとプールを沸騰させたのはニコなのだ。そのことを、蜂蜜色の髪の少女は理解し、噛みしめ、飲みこんでいるのだろう。ニコの瞳に浮かんだ怯えは、恭一にではなく、自分自身に対して向けられているようだった。
「言っただろう。おまえは俺の背中を眺めてりゃいいんだ。前に出ようなんて思わねえことだ」
直後、ニコの瞳に生気がみなぎった。強い怒りと反発の視線で恭一を睨め上げてくる。
思ったよりも強靱なニコの精神力に、恭一は心の中だけで小さな笑みを浮かべた。
ニコが何かを言おうとする前に、場を落ち着けようとする教師の声が室内プールに反響した。恭一以外では、唯一体を濡らしていない人物だ。
恭一は、プールサイドで生徒に声をかける教師に針のような殺気を送った。
アレンの肩が、かすかに反応を示した。
恭一は、手元で水をビー玉サイズの弾丸に変換し、亜音速で撃ち出した。
頭部を粉砕する威力を持った弾丸を、アレンはあっさりと左手で受け止め、無数の水滴にしてしまった。のみならず、反撃の弾丸を右手に生み出し、超音速で放ってきた。
応じて、恭一も弾丸を掌で受け止めた。ひとつ違うのは、恭一はその弾丸を散らしてしまわず、手の中にとどめたことだ。
アレンは、何も言わずに困った顔で頬をかいている。
恭一は、口元を片方だけ吊り上げて笑った。簡単に挑発に応じてくれたおかげで、目的を達することができた。
二人のやりとりを目撃する視力を持った唯一の生徒は、しかし悔しげに自分の足下を見つめているだけだった。
表面上は平和な日々が二週間ほど続いていたが、ニコの内心はそうもいかなかった。
授業も一通り体験し、新入生も徐々に活気づき出している。話に聞いていたとおり、ハニワ研究同好会には入会希望者が殺到した。そのほとんどが、響司とエルフリーデ目当てなのは明白だった。光栄なことに、今年はそれに加えてニコを目当てにやってくる男子生徒も見受けられたようだ。
そして、そのための「ハニワ研究」だ。入会試験をパスできた者は、いまだかつて一人もいない。そもそもニコ自身、ハニワというものがなんなのかさえ知らないのだ。
ところが、今年の試験では合格者が出てしまった。ハニワとかいう、太古の異国が生んだ土器について、完璧に近い知識を有する女子生徒がいたのだ。ハニ研があると聞いたからこの学校を志望したのだと、青空のような瞳をきらきらと輝かせていた。
マニアというのはいるものだ。
ニコは、頭を抱えるエルフリーデという、大変珍しいものを見て内心で微笑んでしまった。悪いとは思うのだが、普段まったく隙がないだけに、こういう姿を見ると安心してしまう。
結局、試験で満点を取られてしまった以上、入会を認めないわけにはいかなかった。ハニ研とは名ばかりの、通水師ばかりを集めた同好会だと説明したところで、諦めてくれそうにない勢いだった。
ニコとしては、同学年のメンバーができたことが少しだけ嬉しかった。新メンバー、ルル・ユーリーの、小学生のような可愛らしさがまたたまらない。ほとんど、妹ができたような気分だ。なにより、ルルの胸が自分よりもいっそう平面に近いというのがすばらしい。
「完全に想定外だわ……。なんで、ハニワに関する筆記試験で満点がとれるの?」
「そんな〜。あたしなんてまだまだですよ。世界的に見たら、ハニワ初級者です」
そんな会話をしながら、同好会のメンバー四人が、そろって職員室を退出した。一年生二人が、部室の鍵の返却場所を教えてもらっていたのだ。そろそろ下校時刻が近づこうかという夕刻のことである。
世界的にといっても、世界中にそう何人もハニワマニアがいるのだろうか。思ったニコだったが、口に出すのは控えておいた。
「すっごくいい問題でしたよ! あの問題を作った方は、きっと名のあるハニワ研究家さんなんでしょうね!」
「部長がハニワ研究家だったなんて初耳ね」
「会長さんですか! 早く会ってみたいなぁ。楽しみだなぁ」
「部長って呼ばないと、体中の関節を全部反対側に曲げられるわよ」
エルフリーデが話す部長像は、いつも悪魔めいていて身震いを誘う。
「みなさんはスカウトで同好会に入られたんですよね。すごいな〜。あたしも早くそのくらいハニワに精通したいです」
ルルは、ツインテールにしたブロンドを弾む歩調に合わせて跳ねさせている。
ルルの尊敬の眼差しが、ニコにはやけに後ろめたかった。
「それほどのことでもないわ。ね、キョウジ」
「うん。好きこそものの上手なれってね。人の脳は、好きなもののことはたくさん吸収できるようにできてるんだよ。ユーリーさんなら大丈夫。ね、ニコちゃん」
「え? そ、そうですね……」
突然話を振られて、ニコは慌てて首肯を繰り返した。
ルルは、不自然に頭をかくかくさせるニコを見て、それでも励まされたようだった。ツインテールが上機嫌に跳ねている。
それにしても、エルフリーデだけでなく響司までも平然とハニワ好きを装うとは。正義の味方としては甚だ不本意だったが、エルフリーデが怖いのでニコも話を合わせざるをえなかった。
「鍵の場所も教えたから、これからはいつでも部室で活動ができるよ。がんばってね」
「はい!」
優しい笑顔に対し、ルルは元気な笑顔で返事をした。ニコは、ぎこちない笑顔でそんなやりとりを見つめている。エルフリーデの笑みは悪戯めいていて、性格がよく知れた。
職員室脇の階段を下りると、目の前には教員用の玄関とエレベーターがある。生徒用の通用口は、そこからさらに歩いたところにある。そちらへ足を向けかけた四人の前で、エレベーターの扉が音もなく開いた。一般教員用とは別の、理事長室直通のエレベーターだった。
はからずも、会話が止まった。黒い噂の絶えない老人が出てくるのかと、ニコは心の中で身構えた。
しかし、開いた扉から出てきたのは、そんなくだらない小悪党ではなかった。
「キョウイチ……」
その名が、思わず口からこぼれてしまう。
ニコにとっては、くびり殺したいほど憎い相手。響司の兄であり、自身の肉親すら殺した男でもある。
不破恭一は、エレベーターから出ると四人に気づいたらしく足を止めた。なかば前髪に隠れた暗黒色の瞳が、ニコたち同好会メンバーに向けられる。
ニコの胸が、木枯らしに当てられた枯れ野原のようにざわついた。黒塗りナイフを思わせる恭一の瞳に睨まれると、必ずわき上がってくる感覚だった。憎しみとは別の何か……。
エレベーターが、扉を閉じることを機械音声で告げた。静寂が耳に痛い無言の時が流れる。
ルルだけが、状況を理解できないのか仔犬のような目できょとんとしている。
恭一の視線が、一同をさっと撫でた。双眸の動きは、実の弟に対しても固定されることがなかった。
常に穏やかな笑みを絶やさない響司が、ニコの隣で強く拳を固めた。
それに気づいたニコは、響司の横顔に目を見張った。
普段からは想像ができないほど、響司の表情がこわばっていた。黒曜石の瞳には輝きがなく、食いしばった奥歯のせいか、口元はかすかに震えている。
対照的に、兄は少しも心を動かされなかったようだ。かすかに鼻で笑ったような気配のあと、恭一は四人に背を向けた。
その仕草がひどくニコの気に障った。
「――待っ」
思わず恭一を呼び止めようとしたニコの肩に、そっと暖かい手が載せられた。見上げると、響司が諦めにも似た表情を浮かべていた。
「キョウジ先輩……」
この兄弟の間には、どんな感情のやりとりがあるのだろう。少なくとも、兄は弟の姿に何ら感慨を抱かなかったように見えた。
「怖いのねえ、彼」
その割には、エルフリーデの声はどこか楽しげだった。新入生とはいえ、年齢的には自分より一つ上の男を、年下の少年であるかのように「彼」と呼ぶ。
エルフリーデは、上品なロゼ色の髪に手櫛を通しながら「彼」を見送った。
「ねえ、ニコちゃん。彼、放課後は普段どうしてるのか知らないかしら」
「わたくしにはなんとも……。毎日、終業と同時に教室を出て行ってしまいます」
「昼休みは?」
「やはりすぐに教室を出て行ってしまいますので、わたくしにはちょっと……」
「そう。朝は? 遅刻はしないのかしら」
「ええ、いつもかなり早いらしくて、みんな迷惑しているくらいです」
どうしてそんなことを訊くのか、考え事をするときの癖で、ニコは指に髪の毛を巻きつけた。
すると、エルフリーデは聞き捨てならない一言を言い放った。
「彼をウチに勧誘するには、朝しかないってことね」
玄関を開けた瞬間に逆さ吊りの腐乱死体を見たとしても、これほどの衝撃は受けないだろう。それほどにニコは驚き、反発を覚えた。
響司からも、息を飲む気配が伝わってくる。
「な、なにを言っているのです? 相手は通水師殺しの重罪人ですよ!」
「五年前の事件でしょ? 知ってるわよ、もちろん。でも部長は、彼の入学の噂を聞いたときからスカウトするつもりだったみたいよ。自分が帰るまでに、キョウイチ・フワを入会させておけって言い残してアンデスに行っちゃったんだもの」
「わたくしは断固反対です! キョウジ先輩もそうですよね!」
「そうだね、僕もちょっと承伏できない」
「あたしに反対されてもね。部長の指示だもの」
エルフリーデは、戸惑う二人を見るのが楽しいのか、生き生きとした表情で肩をすくめた。並の男なら簡単に参ってしまうだろう魅惑的な笑みだ。
もちろん、ニコは参らされなどしなかった。
「部長の指示でも納得できかねます! あの事件でキョウジ先輩は両親を奪われましたし、わたくしも、パパを水獣に殺されました。キョウイチのせいで亡くなられた人が、いったい何千人いると思っているのです!」
「ニコちゃん、もういいよ」
人のよい響司がなだめてきたが、一度高まった憤激は、そう簡単には治まらない。
「キョウイチは、人殺しです。それも、罪も償わずにこんなところでのうのうとしている、言語道断な死刑囚です!」
「ニコちゃん、もうその辺で……」
「普段から暴力的ですし、人のお財布は盗りますし、今だって、何を企んでいるのかわかったものではありません。はっきり言って、悪党の中でも最低最悪な――」
突然、顎をものすごい力で掴まれた。骨がきしみを上げ、痛みと動転で声も出ない。
「黙れと言っている」
冷たい黒瞳。激情を無理に抑えこんだような声で、響司が喉を震わせた。
怖い。普段が穏やかなだけに、感じる恐怖は恭一以上だった。体が小刻みに震えた。
響司の肩に、白い手が置かれた。エルフリーデだ。途端に、ニコの顎は万力のような握力から解放された。
ふらりと一歩よろめいて、痛む顎に右手を添えた。信じられない思いで、ニコは響司を見上げた。じわりと持ち上がってきた涙のせいか、かすかに、その姿が歪んで見える。
「ごめんニコちゃん……。僕の前で、兄の話はしないでほしいんだ……」
「も、申し訳、ありません……」
あまりに沈んだ様子で話す響司に、ニコは受けた仕打ちも忘れて謝った。
ニコは知った。たった今、自分は響司の心の傷をスパイクで踏みつけてしまった。端から見れば響司の蛮行だろうが、悪いのは自分のほうだということを理解した。
何となく気まずい空気が漂った。そんな空気を吸いこむように、エルフリーデが大きく深呼吸をした。
「ま、勧誘はするけど、どうせ入ってはくれないでしょ。そんなに気にするほどのことでもないわ」
どこからか取り出したブラシで、エルフリーデはロゼ色の髪をくしけずる。
ニコは、美貌の先輩が眩しくて目を伏せた。とてもエルフリーデのようにはふるまえない。恭一のこと響司のこと、どちらを先に気にかければいいのかもわからない。
決して負けないはずの正義の味方は、ほかの三人に聞こえないようにこっそりと吐息をもらした。
一年L組。
エルフリーデが見上げたプレートにはそう記されている。
始業まではまだ時間があるものの、すでにほとんどの生徒が教室にいる。一学年の一学期ともなれば、みんなまじめなものである。
エルフリーデは、産毛の先ほどの遠慮も見せず、堂々と一年生の教室に踏み入った。
「あら、ニコちゃんおはよう」
教室の最後尾、入ってすぐの席に、ニコは腰を落ち着けていた。蜂蜜色の巻き毛は、今日も上品にまとまっている。
「おはようございま……先輩っ?」
朝一からかわいい後輩の仰天するさまが見られて、エルフリーデの機嫌は大いに上昇した。
ニコの声を聞きつけて、教室中の視線がすべてエルフリーデの姿に釘付けになった。室内に充満していた笑い声や世間話が、戸惑いのざわめきにとってかわる。
エルフリーデは、女優のように優雅な仕草で、下級生たちに微笑を返した。とたんに、教室全体が嬌声に満たされた。
「せ、先輩。どうしてここに……?」
「あら、言ったでしょう。勧誘よ、か・ん・ゆ・う。彼はどこかしら?」
頭を巡らすと、目当ての人物はすぐに見つかった。一人だけクラスの輪から浮いているのですぐにわかる。
「へえ。窓際の一番後ろなのね」
「本当は別の席でした。でも、初日にあの席だった男子に強引に席を替わらせたのです」
エルフリーデは首をかしげた。言ってみれば、席の場所など些末事にすぎない。窓際にこだわる理由が、何かあるのだろうか。
黒髪黒瞳の死刑囚は、純白の制服を着崩し鋭い目線を外に向けている。手元でコインを弄び、時々指で弾き上げては、危なげない動作で受け止めていた。その間も、視線は外を睨んだままだ。
一連の仕草に惹かれ、眺めていると、ニコが袖を引っ張って忠告してきた。
「先週、キョウイチの弾き上げたコインを途中で奪い取って絡んでいった男子生徒がいました」
「あたしだったら殴り倒して、股間のタマを踏みつけるわね」
「実際殴り倒されました。その、タ……踏みつけは、しませんでしたけれど」
「なあんだ。意外と優しいのね、安心したわ」
ニコの忠告を軽く笑い飛ばして、エルフリーデは窓際の席へ向かった。
「せ、先輩!」
後ろからニコの咎める声が聞こえてきたが、それには軽く投げキッスを返しておく。
「おはよう、狼さん。群れからはぐれちゃったのかしら? それとも一人がお好き?」
エルフリーデは、自分でも少し大胆かと思う態度で声をかけつつ、ゆっくりと歩み寄った。
反応はない。相変わらず、恭一は外を眺めながらコインを弾き上げている。
エルフリーデは、しばし思案したのち、恭一の視線の先に回りこむことにした。
「ふうん、ここからだと、ちょうど部室棟が見渡せるのね」
さりげなく外を眺めながら、恭一の眼前で窓を開け、桟に腰かけた。実際、六階の高さから見る学園の敷地は、緑と水に装飾されてとても優美だった。
もっとも、今、恭一の視界にあるものはそれよりもさらに優美な景色のはずだ。エルフリーデとしては、ここで白い美脚を組んだり、組み替えたりといったサービスが必要かどうか、悩みどころだった。
しかし、その必要はなかったようだ。コインをいじっていた恭一の手が止まり、視線がエルフリーデの顔を向いた。
しばし、黒塗りナイフの瞳と視線を交錯させた。
「おはよう、狼さん」
「……あんた老けてんな。高校生か?」
出会い頭でいきなりパンチをもらった気分だった。せめて「大人っぽい」と言って欲しかったが、そこをぐっとこらえるのが、真の大人というものだ。
エルフリーデは、余裕を持って暴言を受け流し、小さく声をあげて笑った。
「同好会の勧誘にきたの。エルフリーデ・エルスター、二年生よ。よろしくね」
「おれが入ると思ってるのか?」
「いいじゃない。かわいい弟もいるし、メンバーは一人を除いてみんな通水師よ。顧問もね。通水師殺しとしては気にならない?」
相手の神経を逆なでする一言をつけ加えてしまうのは、癖みたいなものだった。
「顧問もだと?」
「気になったようね。アレン・ヤング先生よ。通水の授業、受けてるでしょ」
「ああ……なるほどな」
曖昧に答え、恭一は腕を組んで思案に入ったようだった。
この程度の誘いに食いついてきたのは、エルフリーデにとってもいささか意外だった。
「あんた、何位だ?」
通水師としての階位が気になるらしい。
「二位よ。弟さんと同じ」
「あの教師より強いヤツはいないのか」
「今はね。部長が留守だから」
「そうか」
恭一が黙りこんだ。好奇の視線とひそめきが教室中に充満していたが、エルフリーデが睨みつけるととたんに静かになった。
恭一が、制服の内ポケットをまさぐった。そこから取り出したのは、目薬を思わせる小さな瓶だった。
「なあに、これ。目薬? 香水かしら?」
「持ってろ」
恭一は、一方的に小瓶を押しつけてくる。
「ずいぶん野暮ったい渡し方ね。プレゼントというのはもっとこう……」
「黙って受け取れ」
肩をすくめながらもエルフリーデは小瓶を受け取った。相手に屈したわけではなく、純粋に興味からだ。すぐに、小瓶をしげしげと観察してみた。中身は、なんの変哲もない水のように見える。
「で、受け取ったら入会してくれるわけ?」
「しねえよ」
「――だと思った。じゃあ、力ずくなんていうのはどうかしら」
「どうもこうも、無意味だな。あんたじゃ俺には勝てない」
きっぱりと告げられて、エルフリーデは早朝の青空色の瞳をわずかに細めた。実力に自信があるだけに、恭一のセリフは自尊心を大いに刺激してくれた。
ひとつ、試してくれようか。
エルフリーデは、右手を上に掲げて大気中の水蒸気に意思を接続させた。意識のパターンを水蒸気にリンクさせ、掲げた右手に力を送りこむ。
教室の各所から怯えの声が上がった。
エルフリーデの右手周辺には濃密な霧が立ちこめていた。それが次第に形を定め、一振りの鞭となる。
エルフリーデは、水でできた透明な鞭を操り、鋭く床を叩いた。小気味よい音が体の芯を震わせ、快感が背筋を駆け上がってくる。
「これを食らっても、無意味だなんて言えるかしら。さあ、跪きなさい!」
鞭を振るおうとした瞬間、恭一が教室前方のドアを指で示しているのが見えた。そちらに目を向けるなり、ドアが開いて担任とおぼしき教師の姿が現れた。
「ええっ? もうこんな時間!」
エルフリーデは、慌てて窓の外へと身を躍らせた。さすがに教師に見られるのは、歓迎すべき事態とは言えなかった。教室からは、短い悲鳴がいくつも聞こえてきた。六階から身を投げたことに驚いているのだろう。
「ニコちゃんがうまく取り繕ってくれてればいいけど」
無責任なことを言いながら、エルフリーデは水の鞭を大きなパラソルに変化させ、落下速度を調節した。
再戦の機会は、いずれ見つけるとしよう。
昼休み、ニコはクラスメイトの質問攻めから這々の体で逃げ出してきた。
エルフリーデの考えも部長の考えも、入会したてのニコになどわかるはずがないのだ。まして、恭一の頭の中など理解したいとすら思わなかった。
「やっと、お弁当が食べられます」
人のいないところを求めているうちに、屋上へ出る通用口まできてしまった。
「でも、たまには見晴らしのいい場所で昼食というのも――」
疲労混じりの独り言を続けながら、屋上への鉄扉を開いた。
「…………」
正確に三秒間硬直して、静かに扉を閉めた。
「む、ムカつきます……! どうして、せっかく見つけたと思った安寧の地まで!」
恭一に占領されているというのか。
ドアを開けた瞬間目に飛びこんできたのが、のんきに昼寝をする不破恭一だった。分厚い本を顔に載せていたが、闇色の髪と着崩した制服ですぐにわかった。
「どうしてわたくしの気に障ることばかりするのでしょう! 天性の悪党です」
ぶちぶちと不平を並べながら、仕方なしに階段を下りていく。早いところ静かな場所を見つけないと、食事を摂り損ねてしまう。
一年生の教室がある六階まで下りたところで、多数の男子生徒たちとすれ違った。袖のラインを見ると、二年生と三年生の集団のようだ。殺伐とし、妙に好戦的な雰囲気をまとっていた。
集団は階段を上り、屋上へと向かおうとしている。
「あ……そちらは……」
思わず引き止めようとすると、細目の二年生が必要以上に顔を近づけて威嚇してきた。
「おっと、女が余計なことに首を突っこんじゃいけねえな。嬢ちゃんは校庭で、お友達とボール遊びでもしてるのが似合ってるぜ」
つまり、これから上ではひと騒動起きるということなのだろう。それぐらいは、鈍いニコでも理解できた。
それにしても……と、ニコは頬を膨らませた。気遣われたということなのだろうが、上級生の態度は少々無礼に過ぎた。ぞろぞろと階段を上っていく集団を仰ぎ見て、しばし黙考する。
喧嘩慣れしていそうな上級生十数名。
対するは通水を操る殺人鬼一人。
「残念ながら、キョウイチが勝つでしょうね……」
恭一の力は、先日の授業で思い知らされたばかりだ。高校生が勝てる相手ではない。
返り討ちにあって不良集団のよい教訓になるのならいいが、その考えはややぬるいかもしれない。
「ああもう! どうしてわたくしの貴重な昼休みがキョウイチなんかのためにっ」
不満がありすぎて膨らませた頬が破裂してしまいそうだ。だからといって、集団が血祭りにあげられるのを見過ごすわけにもいかない。正義の味方に休息などないのだ。
ニコは、集団を追って階段を一段飛ばしで駆け上がった。
登り切ったところで、屋上へ通じる鉄扉に耳を当てる。特に乱闘の気配は伝わってこない。
ニコは、ドアノブをそっと握りこんで、開いた隙間から様子を覗き見た。
恭一は、屋上に造られた簡易庭園で、真冬だというのに今ものんきに昼寝を継続していた。葉の落ちた広葉樹の下、顔に本を載せて規則正しく胸を上下させている。
そんな恭一に対し、男たちは静かに包囲を固めつつあった。
集団の中から、ひときわ体格のいい男が進み出た。マントヒヒのような赤ら顔の上級生を、ニコは勝手に「ヒヒ男」というあだ名で呼ぶことに決めた。
ヒヒ男の重くスピードに乗った蹴りが、恭一の脇腹に突き刺さった。
決して小柄ではない恭一が、フェンスの近くまで軽々と吹き飛んだ。
「こ、殺す気……?」
あまりのえげつない攻撃に、ニコは巻き毛に包まれた白い顔を嫌悪に歪めた。
さすがに目を覚ました恭一だが、芝生にうずくまったまま咳きこみ、立ち上がろうとしない。
完全に相手の戦力を奪ったと知り、集団に嗜虐の炎が灯ったようだ。不良集団はこぞって恭一に殺到し、容赦のない攻撃を叩きこんだ。
背中を踏み、脇腹を蹴り、顔面に無数の靴跡を刻みつける。
ニコの予想に反して、恭一は反撃の機会すら与えられないまま集団に私刑を受け続けた。嫌でも目立つ新入生を、上級生たちはよっぽど腹に据えかねていたらしい。
ニコはそのまま静かに扉を閉じると、乱闘の音が聞こえないように階段を三段ほど下りた。脳の奥が痺れるような感じがする。血の巡りが悪いのか、手の先が冷たく白い。
「い、いい気味です……。死刑囚の義務も果たさずに学校通いなどをするから天罰が下ったに違いありませんね……」
ニコが嘲笑のつもりで浮かべた表情は、しかし妙にこわばっていた。
ともかく恭一が集団に危害を加えることはなさそうだった。ニコはそれに安堵して再び階段を下っていく。
「ヒヒ男たちがやりすぎてしまったとしても、もともと死刑囚ですものね。むしろその方が正し……」
ちょうど六階の廊下に脚を下ろしたところで、ニコの口が元気なく閉じてしまった。
「ただ……しい……?」
本当に? 確かに恭一は憎い。これまでも、幻想の中で何度惨殺してやったかわからないほどだ。けれど――。
すでに、恭一は抵抗することのできない状態だった。
胃のあたりが重く、むかむかする。息が速く、浅くなる。一方的な暴行。血反吐を吐く恭一。想像するだけで脳内が揺さぶられ、気分が悪くなってくる。
ニコにとっての正義とは、五年前に一度だけ会った少年と同義だった。
『守ってあげるから、僕の背中を見ていて』
少年は、その言葉通りに背中を見せて立ち続け、弱いニコを守り抜いたのだった。
「あの方なら、こんなとき……」
考えるまでもなかった。正義の味方の使命は、弱者を守ることだ。弱者が何者であるかなど、この場合関係ない。そして、弱者をいたぶるものは、これすなわち悪なのだ。
「本当に、どこまでも腹の立つ男です!」
自らを奮い立たせるように大声で言い放ち、自分の頬を勢いよく張った。
周囲からの視線が集まる頃には、すでに踵を返し終えている。一歩で一〇段を飛び越える身体能力で、ニコは階段を駆け上がった。
屋上への鉄扉を、集団に気づかれないようにくぐり抜ける。そして、そのまま通用口の上へと跳躍した。
フロア一つぶんの高さを軽々と飛び、ニコは塔屋の上に立った。先には理事長室のある中央棟が、さらに高くそびえていた。できればそちらに上りたいところだったが、ニコでも一飛びにできないほどの高さがある。
「しかたありません。今回ばかりはこの高さで妥協しましょう」
呟くと、弁当箱を脇に置く。そして、極力ヒーロー然として見えるように背伸びをし、ない胸を張った。
下方に目をやると、細目男の蹴りが恭一の延髄に叩きつけられる寸前だった。
「そこまでです!」
ニコの声はよく通る。常に高みから第一声を発しなくてはならない正義の味方としては、必須の能力だ。
大声のたまものか、細目はバランスを崩し、蹴りは虚しく空振りに終わった。
全員の視線が自分に集中するのに快感を覚えながら、用意しておいた口上を歌うような軽やかさで舌に載せた。
「弱きを助け、強きを挫くは正義の法! 数でもって強さに代え、悪党を討つ行為に正義の幻想でも見ましたか。おのが行いを俯瞰し、恥という言葉の意味を知りなさい!」
「――――??」
私刑集団は、一人残らず何が起こっているのかわからないといった顔でニコを見上げていた。奇妙な介入に、全員毒気を抜かれたようでもある。
「相手が人間の屑とはいえ、集団で不意打ち、リンチとは醜すぎる所業です。見過ごすわけにはまいりません!」
自分なりの宣戦布告を述べ、ニコは足下のコンクリートを蹴った。
先日の教訓から、控えめに、一回の宙返りのみで着地を決める。敷かれた芝は冬でもなお柔らかく、今度は軽やかに地に立つことができた。こっそりとガッツポーズを決める。
リーダーと思われる赤髪赤顔のヒヒ男が、怪訝な顔でこちらを見下ろしてきた。しげしげと、不躾にニコの全身を観察している。
ニコもお返しに相手を観察してみたが、ヒヒに似ている意外、わざわざ見るべき特徴もなかった。袖のラインが三本入っていることぐらいだろうか。
「おまえ……キョウジさんのところの新入生だったか……?」
集団のざわめきからも、同様の声が漏れ聞こえてくる。意外にも、自分の顔は上級生にまで売れていたらしい。
それにしても……と、ニコは巻き毛に指を絡めた。響司が三年生からも「さん」付けで呼ばれる存在だったのは意外だ。もしかしたら、怒った際の響司を見たことがあるのかもしれない。
ともかく、響司の後輩という立場が利用できそうなのはありがたい。
「ここはわたくしに免じて手を引いていただきましょう。多人数で一人に暴行を働くのは看過できかねます」
「ちょ、ちょっと待てよ。キョウジさんがこのクソ兄貴を嫌ってるのは嬢ちゃんも知ってるだろ?」
「あなた方は、キョウジ先輩に言われてこの男を叩きのめしにいらしたのですか?」
「そうじゃねえけどよ、でも、むしろ嬢ちゃんも参加してえくらいなんじゃねえのか?」
ニコは、ことさらゆっくりとかぶりを振った。確かに、響司は兄を嫌悪しているだろう。ニコだって恭一は憎い。しかし、それと集団暴力は一つの方程式で結ばれる関係ではない。
もしも響司がこの集団の行為を喜ぶような男なら、そもそもニコが惹かれることもなかっただろう。こういった行為を潔しとしないからこそ、ニコは響司に惚れたのだ。憎き仇の弟と知りながらも。
「残念ですけど、あなたたちの行為に正義を見ることはできません。お引き取りください」
「嬢ちゃんの指図は受けねえよ」
「なら、少々手荒なまねをしてでも、従っていただきます」
「なんだと?」
単純なのか、ヒヒ男以下、集団が一人残らず色めき立った。さすがに、華奢な少女に言われて素直に従える言葉ではなかったようだ。
「この女、ちょっと世間の厳しさってもんを教えてやったほうがいいんじゃねえのか」
そう言ったのは、階段でニコに無礼な口をきいた細目の二年生だった。針のようなまぶたの隙間から、好色な視線をニコの全身に絡みつかせてくる。気色悪い。
ほかの男たちの視線も、似たようなものだった。ヒヒ男だけはニコを追い払いたそうに顔をしかめていたが、仲間を制する意志はないように見える。どうやら、響司の威光など忘却されてしまったらしい。もしくは、告げ口をする気も起きないほどの仕打ちをくれるつもりか。
ニコは、全身に注がれる視線に居心地の悪さを感じて身じろぎした。同時に、穏便に済ませようという気も完全に失せる。腹が減っていて機嫌が悪いのだ。
集団の中から、忍耐力に欠けた男が一人、はやって飛び出してきた。胸元に伸びてきた手は、意外にも俊敏だった。
しかし、ニコの身体能力は常人とは違う。さらに、天性の動体視力がニコに味方した。
胸ぐらを掴まれる寸前で、ニコは男の腕を払った。平面に近い双丘が吉と出た。
腕を払われた男は、レスラーに体当たりを受けたような勢いで横に弾き飛んでいった。
それには目もくれず、ニコは集団の中に自ら飛びこんでいった。多対一の戦闘においては自殺行為にも等しかったが、知識のないニコはそれを自覚できなかった。
男たちが四方から群がってくる。しかし、その動きが途中で止まった
「な、なんだ?」
男たちから、戸惑いの声が漏れた。
集団の足下で、長く伸びた芝がミミズのように怪しく蠢いている。それらが、男たちの脚に絡みついているのだ。
むろん、ニコの通水の仕業だった。生物を構成する水分に干渉することは困難だが、草花ならば、ニコの実力でもどうにか操ることができた。
力を入れればちぎれる程度の拘束でしかなかったが、男たちに恐慌を与えるという点では十分効果があった。あとは、超人の力で突き飛ばしたり投げ飛ばしたりすれば、戦意を喪失してくれるだろう。
手近な男の袖を取ろうとした瞬間だった。
「きゃっ!」
ニコは何かに足を取られて無様に転倒してしまった。見れば、脚に何本もの笹が細い茎を絡みつかせていた。踏みこんだ場所が悪かった。しかも慣れない通水だけあって、制御も不完全だったのだ。文字通り、自らの行為に足下をすくわれた格好となった。
ニコの転倒を見て、男たちが活気づいた。まとわりつく芝を蹴りちぎっては殺到してくる。男たちの目の奥には、先ほど以上に凶暴で淫猥な熱がこもっていた。
身の危険を感じたニコは大いに慌て、植物の活動にさらに強く干渉を加えた。
それが完全に裏目に出た。
自らの脚に絡みつく笹が、さらに強度と締め付けを強くしたのだ。しかも、地に手を着いたそばから、腕にも拘束をくわえてくる。
ついに細目の右手がニコの細い肩を掴んだ。
「いやっ!」
尻餅をついたまま身をよじったが、細目に油断はなく、体勢すら崩してはくれなかった。
完全に混乱したニコは、通水を解くのも忘れて怯えた目を細目に向けた。
細目の肩にほかの誰かの手がかかったのは、ニコが悲鳴を上げかけたその瞬間だった。
「おい」
暗い声と肩に置かれた手が、細目を強引に振り向かせる。直後、細目は前歯と血を景気よく吐き出しながらニコの頭上を越えて飛んでいった。
ニコは、思考を停止させたまま前方を見上げるばかりだった。
そこに立っていたのは、血に汚れた制服をだらしなく着こなした、黒髪黒瞳の男だった。顔も血にまみれているため、表情を読むことができない。
「キョウ……イチ……」
小さく呟いたニコの声が、風に乗って包囲の外周まで染み渡っていった。
男たちの興奮は、すでに氷点を大きく下回ってしまったようだ。恭一に立ち上がる力が残っているなど、誰一人想像していなかったのだろう。
ニコは、この極悪人が自分を助けてくれたことが信じられず、唾の塊をぎこちなく嚥下した。
しかし、恭一の視線は自分ではなくすぐ真下の芝に固定されている。
恭一はダメージを感じさせない動きで、芝生から何かを拾い上げた。その手には、普段恭一が弄っている古びた硬貨が握られていた。細目の男がそれを踏んでいたので、排除したらしい。
ニコは唖然とするばかりだった。人助けの意志など、恭一にはなかったということか。
我を取り戻したのは、ニコよりも私刑集団のほうが先だった。改めて、男たちの敵意が恭一に回帰した。ヒヒ男の号令一下、男たちは手で顔の血をぬぐっていた恭一に向け、津波のごとく襲いかかった。
恭一はゆったりと立ち上がり、背を向けたまま先頭の二年生を迎える。
後ろに目がある者の動きで、恭一は後頭部に迫る拳をかわした。同時に半身を返しながら襲撃者と体を入れ替えている。
何事もなくすれ違っただけのようだが、二年生は空中で一回転半して派手に地面に落ちた。完璧なタイミングで脚払いが入ったのを、ニコの動体視力は捉えていた。
喧嘩慣れした男たちは効率よく包囲網を造り、三人ずつが同時に襲いかかるという戦法に出た。ニコから見ても、男たちの動きは決して悪くない。通水を扱う者でも簡単にはさばききれないだろうと思われた。
しかし、そんな彼らの攻撃は恭一にはかすりもしなかった。決して速い動きをしているわけではない。通水師としての超常の力を使っているようにも見えない。それでも、相手の手数を完璧にかわしているのだ。むしろ緩やかにさえ見える恭一の動きに、ニコは思わず見とれていた。踊るように攻撃を流しては、脚を払い、蹴りを放ち、手も使わずに男たちを投げていく。
男たちに大した怪我はないようだ。しかし転ばされる場所が全員同じだったため、後からくる者の下敷きになって誰一人起きあがることができない。
最後にヒヒ男が脚を跳ね上げられ、十数名の上級生たちは全滅した。
恭一は、ゴミ山のようになった男たちに視線を流し、軽く鼻で嗤った。
「キョウジさん……ね。おまえら、あいつを本気で怒らせたことがあるな?」
ニコの心臓が大きく跳ねた。おそらく、彼らも響司の前でくどく兄の話をしたのだろう。
問いには、くぐもった呻きが返るのみだった。積み重なった男たちは山を崩して自由の身になっているはずだが、立ち上がる気力は残っていないようだ。もともと、自らの優位が確実でなければ暴力など振るえないタイプの人種なのだろう。
「あいつの機嫌を取りたいんなら、街でボランティアでもやったほうが確実だぜ」
そう告げると、恭一は口の中の血を吐いて屋上を後にしようとする。脇には、いつの間にか日よけに使っていた本が抱えられていた。
「お、お待ちなさい!」
思わず呼び止めてしまった。
無視されることはなく、恭一は素直にニコを振り向いた。正面から見ると、顔は特に腫れることもなく綺麗なものだった。
「ニコ・リヴィエールか……。おまえ、何しにきたんだ?」
その質問に対する応えを、ニコは持たなかった。助太刀にきたなどと言ってつけあがらせるのも癪だし、第一、助けどころか醜態をさらしただけだった。
「俺を助けようとしたのか」
「か、勘違いしないで下さい! あなたのような人殺しにそんな資格があるはずないでしょう! 罪も償わずのうのうとしている殺人鬼など、彼らに蹴り殺されてしまえばよかったのです!」
言ってしまってから正義の味方らしからぬセリフだと気づいたが、もちろんなかったことになどはできなかった。
「そうか」
ただ一言、それだけを呟いて恭一は暗く嗤った。それは、男たちを蔑んだようでもあり、ニコを哀れんだようでもあり、自らを嘲ったようでもある笑みだった。
そのまま、恭一はコインを弾きながら屋上を出て行った。今度は、ニコからも男たちからも制止の声はかからなかった。
ニコ自身、なぜ恭一を呼び止めてしまったのかわからなくなっていた。
3章
放課後。エルフリーデはロゼ色の髪をひとしきり整えてから部室へ向かう。
生徒用玄関を出たところで、お気に入りの新入生の後ろ姿を発見した。これから部室へ向かうところなのだろう。友人と別れ、やや早足となっている。
蜂蜜色の巻き毛を見つめる瞳に怪しい光を混ぜ、目尻を下げた。ほとんど愛玩動物を見る目つきと変わらない。
背後から気配を消して近づき、首筋に、しなやかな指をそっと伸ばした。
「ニコちゃ〜ん」
「ひいぃっ?」
白い首を撫でると、期待通りのいい声で鳴いてくれた。
「せ、先輩っ?」
焦った様子で振り返ったニコは、貞操を守るように自らの体をしっかりと抱きしめた。
首筋に現れた鳥肌を見て、エルフリーデは声を立てて笑う。
「いや〜、やっぱりニコちゃんっていじめてて飽きないのよね」
意識的に迷惑なことを言いながら、エルフリーデはニコの腕に自分の腕を絡めた。
背徳的ではあるが、実のところエルフリーデにその手の趣味はない。本当は、強くて危険な香りのする、年上の男がタイプなのだ。
ニコは、単なる楽しいオモチャに過ぎない。
「先輩、他の人が見ています。離れてください」
「いいじゃないの。余計な虫が近寄らなくなるかもよ」
さらに体を密着させると、ニコの顔色が面白いように赤くなった。
「きみたち、学校内でそういう行為はどうかと思うんだけどなぁ」
斜め後ろからのネジが緩んだ声に、エルフリーデの体は音速に迫る勢いで動いていた。
鞄に差しこんでおいた教鞭を抜き、声のほうへと一閃させる。
教鞭は、空気を鋭く切り裂く音とともに、声の主――アレン・ヤングの鼻先を通過した。
あと一センチ踏みこんでいたら、アレンの鼻は折れるか裂けるかしていただろう。
「……なんだ、アレン先生か」
そういえば、ちょうど教職員用玄関の前までさしかかったところだった。
「な、なんだって、きみは相手を確認しないでそういうものを振るうのかなぁ」
「なんとなく、叩きのめしたくなるような声だったのよね……。でも、アレン先生だったんなら、もう少し踏みこんでおけばよかったわ」
とたんに教師の顔色が血の気を失ったのを見て、エルフリーデは邪悪な笑みを浮かべた。ニコは赤くさせるのが好きだが、この教師は青くさせるほうが面白い。
「他の男性に対してもそうなのか、気になるところだねぇ」
「わ、わたくしは、その鞭のほうが気になります」
「ああこれ? いいでしょ、通販で買ったのよ。軽いし、しなりと硬さの具合が絶妙で、すごく叩きやすいの」
「い、今どき教鞭なんて売っているのですか?」
「鞭ならいろいろ売ってるわよ。どういう鞭で叩かれたいかは人にもよるし」
そう言うと、ニコはますます赤くなり、アレンはいっそう顔色を悪くした。
「で、アレン先生はもう帰宅? 教師って楽なのね」
「違うよ。ちょっと同好会に顔を出そうとしたんだけどねぇ」
部室に向かうエルフリーデたちに、よれた格好の教師が猫背で続く。
「どうしたの? 今月は入学式の日にも顔を見せたし……熱血顧問に転向かしら」
「はは……。僕は部長さんが苦手でねぇ。今は不在だから……」
「今度はあたしを苦手になってみる?」
「いや、もう十分……」
そんな、内容のない会話をしながら学園の敷地を歩いていると、中等部の女子生徒たちと数度すれ違った。その多くが、不安な表情で穏やかならざる噂話を囁きあっている。ここ数日で急激に噴出してきた噂で、エルフリーデも何度となく耳にしたことがあった。曰く、
「カシミール漁港を拠点に活動する漁師が、立て続けに行方不明になっているらしい」
「沖で水獣の目撃が相次いでいるらしい」
「干潮の時間なのに水位が下がらない」
などといったものだ。通水師としては、見過ごしてはいけない噂話なのかもしれなかった。
「ニコちゃんは、どう思う?」
「無視はできないと思います。アンデスでもアルプスでも、水獣は大量発生していますし、それがヒマラヤへ波及したとしても不思議ではありません」
「でも、今は大半の通水師はアンデスとアルプスに出払ってるのよね」
「僕は何とかなると思うなぁ。ほら、同好会にも君らがいるし、キョウイチ・フワもかなりの実力者だしねぇ」
「あなたも一位の通水師でしょうに……」
鞭でもう少し気合いを注入してやりたくなったが、それよりも気になることがあった。
「キョウイチ・フワ……試したの?」
今朝スカウトに行ったかぎりでは脈なしと感じた。それどころか、こちらの神経を逆なでしようという態度が見え見えだった。まるでわざわざ嫌われようとしているみたいだ。
「先日の授業でね。リヴィエールさんと手合わせをしてもらったんだけどもねぇ。試されたのは、僕のほうだったかもなあ」
その報告は聞いていない。ニコの様子を窺うと、不機嫌になったのが一目瞭然だった。
「負けたのね?」
遠慮せずに訊いてみると、ニコが碧天色の瞳で勢いよく見上げてきた。綺麗な瞳には、涙の膜がかかっていた。
「よっぽど悔しかったみたいね」
「それはもう! 負けたのは仕方ないですし、わたくしにとっては教訓になりましたから、まあ納得します。でも、捨てゼリフだけはどうしても許せません!」
やはり、恭一は各所で人の神経を逆なでする言葉を吐きまくっているらしい。なぜわざわざ人から嫌われるまねをするのか、エルフリーデには理解できなかった。
「『背中を見てろ』という言葉を、あんな使い方するなんて! わたくしのヒーローと同じ言葉を……」
エルフリーデは、詰問の視線を顧問に送った。
「試されたのは僕のほうって言ったわね?」
アレンは一瞬エルフリーデの視線に怯んだものの、手合わせの様子と、直後の弾丸の応酬について詳しく話してくれた。
説明と解説を、エルフリーデはロゼ色の髪にブラシを通しながら聞いていた。話が終わると、ブラシをバトンのように回しながら思考の世界に沈降する。
「アレンの水弾を受け止めたとはね……」
恭一の実力は、第一位にも匹敵するということなのだろうか。そもそも、部長はどこで恭一の実力を知り、スカウトを考えるに至ったのだろう。
考えるべきことは多そうだ。
死刑囚でありながら学園に入学してきた不破恭一。裏で手を引いていたと思われる理事長。アンデスやアルプスで暴れているという水獣たち。そして最近では、ヒマラヤにも水獣を目撃したという噂が飛び交い始めた。
すべてが独立した要素とは思えない。
「おやぁ、あれは」
空気の抜けたタイヤみたいな声に、エルフリーデは思考の海から引き上げられた。
アレンが指さす先には体育館がある。今日は、ハニワ研究同好会が一フロアを使わせてもらうことになっていた。体力面のトレーニングが目的だ。
入り口脇の外壁に一人の学生が寄りかかって腰を下ろしていた。
「キョウイチね」
隣では、ニコが敵愾心を燃え上がらせているのが気配でわかる。
キョウイチは、一行が見つめるのも気づかぬげに、厚い本を無表情で読んでいる。口には、火の点いていない紙巻き煙草。
「彼さぁ、いつも同好会を監視できる場所にいるように思うんだよねぇ」
言われてみれば、と、エルフリーデは顎に指を当てて校舎を見上げた。
今朝、恭一は席に座り窓外を眺めていた。その窓からは、ハニ研のある部室棟がよく見える。あの席は、他の生徒から強引に奪ったのだとニコは言っていた。さらに噂では、昼休みになると恭一は屋上に足を運ぶことが多いという。そこからも、部室棟が完全に見渡せるのだ。
そして今日、部室で着替えた後は体育館でのトレーニングが待っている。体育館の入り口脇で本を読む恭一は、そのことを知っているのだろうか。
「先輩、あんなのを気にかけても、かけたぶんだけ気がもったいないですよ」
ニコが先を急ごうとするので、腕を絡めたエルフリーデも一緒に歩かざるをえない。ニコに引っ張られながらずっと恭一を観察していたが、一つ、どうしても気になることがあった。
「ずいぶん、読むのが遅いのね……」
エルフリーデが見ている間、恭一は一度も本のページを繰ることがなかった。
文化系クラブが集合する部室棟を二階まで上ると、制服に乗っかられているといった印象の後ろ姿と出会った。体が小さすぎて、制服のサイズが合っていないのだ。
短い歩幅で歩くたび、プラチナブロンドのツインテールがリズミカルに跳ねていた。
「はぁい。ルルちゃん、部室行くとこ?」
後ろから声をかけると、ハニワおたくの少女はつむじ風のように軽やかに回った。少し回りすぎたのを修正すると、ぴょこりとエルフリーデたちに頭を下げてくる。
「はい! 昨日読みかけの『はにわ今むかし』を今日のうちに読破しておきたいので!」
今むかしといっても、今現在、ハニワなどというものは存在していない。しかし、それを口にすると話題が困った方向に熱を帯びそうなので別の言葉で会話をつないだ。
「そう、がんばってね。あたしたち、今日は体育館に行くから……」
「ハニワ発掘のための体力作りですね! あたしもいずれご一緒させてくださいね!」
ハニワを発掘したかったら四千メートルの深海を潜る必要があるのだが、そのことも黙っておいたほうがよさそうだ。エルフリーデは、曖昧に微笑むにとどめておいた。どうも、この少女が相手だと調子が狂う。
物理部の前を通りかかったとき、小太り眼鏡の三年生が後輩に何かを自慢していた。
「見たまえジョニーくん。消火器を手作りしてみた。これで火事が起きても心配なしだな。材料がなかったので中の粉は小麦粉で代用したが」
「部長、小麦粉では火は消せません」
学園の文化部は、危ない連中が多い。その筆頭は自分たちだろうなと、エルフリーデはいたって理性的に自覚していた。
さらに歩いて、エルフリーデたちは、まるい文字の書かれたドアの前までたどり着いた。
カードキーをドアのスリットに通そうとしたところで、エルフリーデは手を止めた。
「どうかなさいました?」
「話し声……。キョウジみたいだけど」
かろうじて聞こえる程度の音量だ。ニコとアレンは気づいたように耳をそばだてたが、ルルはきょとんと瞬きを繰り返すだけだった。常人の聴力では捉えられないらしい。
「先輩、盗み聞きは……」
「黙って」
ニコの苦言を、エルフリーデは短く斬り捨てた。ニコ自身、言葉に反して興味は隠しきれていない。エルフリーデとしても、興味本位で聞き耳を立てているわけではなかった。残りのメンバーはすべて海外に派遣されているし、響司は電話を持っていない。
最近、どうも響司が落ち着きを欠いていると感じるのだ。両親を殺した兄が学園に入学してきたからだろうか。
ずいぶん小さい声で喋っているようだ。会話の断片しか拾うことができない。
「噂……僕も聞いて……いよいよ……」
これでは内容が今ひとつ把握できない。
エルフリーデはドアに耳を押しつけた。すると、さっきは制止にまわったニコまでが同様に耳をつけてくる。ルルもアレンも同じだ。
圧迫される格好となったエルフリーデだが、この状況で文句を言うわけにはいかなかった。
室内の会話はまだ続く。
「思っ……早かった……うん……具体的な時期は……早いね……標的……学園も? それは……任せるけど……僕は……?」
「誰と話してるのかしらね……」
響司の声からは不安と緊張が感じられる。普段の日だまりを思わせる声からは想像もできないことだった。
「まさか、女の人を連れこんでいるなんてことはありませんよね」
ニコの思考は、せいぜいそのあたりが精一杯のようだ。
「その程度ならいいんだけどねぇ。なんだか不穏なものを感じるなぁ」
「ちっともよくありません!」
アレンとニコが、それぞれ勝手なことを喋り始めた。それにともなってもぞもぞと動くものだから、ドアに押しつけられているエルフリーデはたまらない。
「二人とも静かに。って、あんたどこ触ってるのよ!」
怒鳴りつけた瞬間、部室のドアが音もなくスライドした。
四人がそれぞれの悲鳴をあげて、部室の中に倒れこんだ。当然、一番下になったのはエルフリーデだ。
とりあえず、アレンに関しては後で蹴り殺すことは確定した。ニコへのお仕置きは、これからじっくりと考えることにする。
「みんな、どうしたの」
見上げると、椅子に逆向きに座った響司がドアのリモコン片手に微笑んでいた。盗み聞きをしていたことは気づいているだろうに、まったく怒ったそぶりも見せない。普段の響司と変わりがなかった。
「誰かいるの?」
起きあがろうとしない三人を押しのけて、少しきつい口調でエルフリーデは訊いた。
「いないよ」
「でも、誰かと話してたわよね」
今度は、響司からの返事はなかった。
「霊界からの電波でも受信してたのかしらね?」
「はは。じゃあそういうことにしておいてよ」
適当にはぐらかされてしまった。これ以上追求しても、成果は期待できそうにない。
エルフリーデは、白い制服を払ってのろのろと立ち上がった。
「で、霊界のご両親は元気だったの?」
こんな嫌味が飛び出したのは、エルフリーデ自身、不信と不機嫌にさいなまれていたからかもしれない。言ってしまってから激しい後悔と自己嫌悪に陥ったが、口から出た言葉が戻ってくることはない。
「元気だよ……。すごくね」
隠微な笑みを刻んだ顔を見て、エルフリーデは罪悪感を深めなくてはならなかった。
「本当に誰もいませんか? 女の人とか!」
興奮気味のニコは、アレンの背中を踏んでいることも気づかない様子で立ち上がった。そのまま、完全に逆立った柳眉で部室内の捜索をおこなう。
エルフリーデは、響司と瞳を見合わせて苦笑した。意識したわけではないのだろうが、ニコの行為が微妙に硬質化した空気をすっかり打ち砕いてくれた。
人に心の平安を与えるのが正義の味方の仕事なら、ニコは知らないうちにそれを果たしていたことになる。行動原理がただの嫉妬だったとしても。
惨めに踏みつけにされたアレンは、ようやくルルに手を貸しながら立ち上がった。その目をロッカーを物色するニコに向けながら、まなじりを下げてぼさぼさの髪をかく。
しかし、直後に響司に向けられた目は、エルフリーデが息を飲むほどに鋭かった。響司の不審な話し声について、何か思うところがあったのだろう。
「キョウジくん、きみは……」
「きゃあ!」
アレンの声を遮って、部室にニコの悲鳴と鈍い崩落音が反響した。
ニコが、最近部室に新設されたばかりの本棚を、ありあまる怪力で倒してしまったのだ。
「あーっ! あたしの本!」
ルルが、子猫の危機に駆けつける親猫のような動きで散乱した本に駆け寄った。本棚も、それに収められていたハニワ関係の本も、もともとはルルの私物だ。
「ご、ごめんなさい!」
謝るニコと、一つ一つの本を手にとって嘆くルル。再度張られた緊張の糸は、またしてもニコによって切断されてしまった。
響司は、優しい微笑を残してから、惨劇の後始末を手伝うためにアレンに背を向けた。
「整理とか片づけとかは苦手だからなぁ」
言い訳じみた独り言を投げてから、アレンは無精髭をなでつつドアへ向かった。早々に騒ぎからの退散をはかるつもりらしい。
エルフリーデも止めようとは思わない。
研究室の名目で学校から与えられているアレンの部屋、その散らかりようを知っているからだ。足の踏み場さえなく、たまの掃除さえ、バイト代を払って学生にやらせている。そんな人物に片づけの手伝いを期待するなど、赤子に一輪車に乗れと言うにも等しい。
アレンの去ったドアと響司とを交互に見比べため息ひとつ。
「何が起こるのか知らないけど、つまらないことに巻きこまれるのは勘弁願いたいわね」
もちろん、面白いことだったら積極的に関わるつもりだ。
髪にブラシを通しながら、エルフリーデは一つ大事なことを思い出して口元を曲げた。
アレンを蹴り殺すのを忘れていた。
ニコにとっては特に変化のない日常が、それからも数日間は続いた。細かいことは、気に病んでも仕方ない。ようは響司の周りに女性の影がなければそれでいいのだ。
どうしてここまで響司に心を奪われるのか、自分でも不思議だった。入学前に、響司とエルフリーデが同好会のスカウトに訪れたときからずっとだ。親の仇の弟と知っても、気持ちが薄れることはなかった。響司のそばにいると、安心感と不思議な懐かしさを得ることができるのだ。おかげで、不穏な噂や事件の予感にも、心が大きく揺さぶられることはない。
漁師の行方不明や水獣の目撃談は日ごとに増えている。しかし、まだ学園の通水師に出動要請はきていない。また、帰宅後に正義の味方の扮装でパトロールをしてみても、収穫が得られていないのが現状だった。
その日の同好会の集合場所はプールだった。通水の実技演習があるとのことだ。更衣室はプールのものを使えるので、部室に寄っていく必要もない。ニコは自然と歩調を速めた。
「霧が出ていますね……なんだか寒い……」
学園は南側に海を望む立地なので、濃霧に覆われることも多い。その日も、上空はニコの瞳の色のように晴れ渡りながら、地上には鈍重な雲が降りていた。寒冷な地域ではないが、やはり冬の風は身を切るようだ。霧で制服が濡れてしまうせいもあるのかもしれない。
「今日はキョウジ先輩が先にプールに行っているはずですね」
選択科目の関係で、この日はエルフリーデが一時間ばかり遅れて集合してくるのだ。ルルは部室で読書をするので、必然的にプールでは響司と二人きりになる。
「なのに掃除当番で遅くなるなんて……あと一〇分ほどでエルフリーデ先輩がきてしまいます。きっと何かの陰謀ですね。さてはキョウイチが……あら?」
玄関から小走りしていたニコは、北門前に差しかかったところで一番会いたくない人物を目にしてしまった。この日にニコが掃除当番になるよう陰謀を巡らした男だ。ニコの脳内では勝手にそういうことになっている。
恭一は、学校を囲む水堀をしきりに調べているようだった。北門の橋上で、火の点いていない煙草をくわえつつ堀の水に手をかざしている。
怪しい男の奇怪な行動に、嫌悪を感じながらも意識を吸いこまれそうになる。一見すると通水をおこなっているようだが、水面には波紋ひとつたっていない。
そのとき、身震いを誘う寒風が、肌をなでながら右から左へと吹きすぎていった。そのせいか、一瞬だけ霧が流れ、薄れたようだった。
ニコは、ぎくりとして首をすくめた。
霧が薄れた刹那、恭一にこちらを発見されるかと思ってしまった。しかし、それは杞憂にすぎなかったようだ。ニコの視力だからこそ恭一の姿を認識できたのだ。多少霧が薄れたからといって、こちらの所在がばれるものでもなかったらしい。
「やれやれです」
ほっと安堵してから、ニコは平らな胸をなで下ろす手を途中で止めた。
「な、なぜわたくしがびくびくする必要があるのです!」
照れ隠しに自分の頬をつねり、ニコは早々にこの場を後にした。
恭一が何を企んでいようと、同好会のメンバーならば阻止できるとニコは信じていた。響司もエルフリーデも、自分なんかよりずっと強いし、アレンは世界に三〇人しかいないといわれる第一位の通水師だ。
「それより、プール、プール」
響司が待つプールは東門の近くにある。急がなくてはエルフリーデがきてしまう。
小走りから駆け足になって、ニコの蜂蜜色の髪がリズミカルに揺れた。
学園を南北に走る道と東西に走る道が敷地の中央で交わっている。
そこにある噴水を左に折れ、ニコは東門のほうへ向かった。途中で体育館を左に見て、次に見える白亜の建物が室内プールだ。
授業のときも思ったが、なかなかセンスのいい建物だ。理事長の趣味だとしたら、そこだけは共感してもいいか――そんなことを考えながら、ニコはプールの入り口をくぐろうとした。
くぐろうとしたが、その脚は足下から突き上げた震動に止められてしまった。
地震だろうか? 首をひねっていると、低い爆音がかすかに聞こえ、建物の壁がびりびりと細かく震えた。どこか遠い場所で何かが爆発でもしたみたいだった。
「なっ、なっ?」
驚きのあまり、意味のある言葉が出てこない。それでも、ニコは怖がって建物の中に閉じこもるような少女ではなかった。状況を確認しようと、再び道に出て東門のほうへ向かう。こんなときこそ、一〇〇メートルを五秒で駆ける脚力に感謝したくなる。
「音は、たぶん北東のほうから……」
学園の敷地は壁ではなく、堀で外界と仕切られている。そのために見通しはよかった。東端の橋に着く前に、異変の所在地を見定めることができた。
「食料プラントが火災……いいえ、ただの火災ではありませんね」
碧空に冲する黒と白の煙、空気を紅く焦がす暴力的な爆炎、それらが霧の向こうに確認できる。このあたりは海が近いので建物が少ないのだが、その中では学園の次に目立つ建造物だ。
それが燃えている。いや、爆発していた。
これは事故とは思えない。陰謀の臭いを感じずにはいられなかった。漁師の間で行方不明事件が多発し、漁獲量が目に見えて減っている。そこへきて食料プラントの爆発だ。偶然とは思えない。当面、食糧不足は免れられない。魚ばかりか、合成肉や人工野菜まで供給不足に陥ってしまうだろう。
水没前の世界では食用の動物を育て、大地に野菜が実っていたらしいが、ニコの生きる今の時代はそうもいかない。希少種と呼ばれない生物は蠅、蚊、ゴキブリ、そして人間ぐらいなものだ。当然、そのどれも食すには適さない。野菜が育つような肥沃な土地は、本当に貴重だった。そして、そういった場所には畑ではなく森林を作るのだ。
事件とわかっていても、飛び出していこうという気になれない。以前だったら、むしろ嬉々として現場に首を突っこんでいたはずなのに。
ニコは、最近やや失調気味だった。過剰とも言えるほどだった自信も、夕方のアサガオのように萎れてしまっている。
いくつかのトラブルではことごとくドジを踏み、助けるはずの自分が逆に助けられるという醜態を演じた。同好会には自分よりも格上で、よりヒーローに向いていそうな先輩方がいる。
極めつけは、キョウイチ・フワに負かされたことだった。ニコが父を失った五年前の事件――その元凶を相手に敗北したという事実が、心の奥底をえぐっている。
父や、名も知らない少年が命をかけて守ってくれたこの身。しかし、自分は五年経った今もあのころと変わらず弱いままだ。本当に、自分に彼らの命を犠牲にしてまで生きる価値があるのか。そう思うことこそ彼らに失礼だとわかっていても、思考は同じところばかりをぐるぐる回る。そんなこともあって、ニコは今、事件に積極的に関わる意欲を欠いているのだった。
食料プラントの爆発を霧の中に見ながら、ニコは堀の手前で脚を止めてしまった。どうすればいいのか心が定まらない。
そんなニコをあざ笑うかのように、新たな異変が学園を襲った。
堀の水が、天高くへと凄まじい勢いで突き昇ったのだ。その勢いは、地上から天空へと雷が疾ったかのようだった。
水の壁は退路を塞ぐように、橋の上までせり出してきていた。高さも校舎の一〇階ほどはあり、とても飛び越えることはできない。外界は、壁面に走る細かな波に邪魔されて視覚的に閉ざされてしまっている。聴覚的にも、水音が激しくて外の音は聞こえない。
「ま、迷っている暇などありませんね。このぶんだと、学園全体が壁に覆われてしまったようですし……。とにかく脱出路を確保して――」
独白で自分を励ましながら、ニコは水の壁に意思を干渉することを試みた。
細かく波打つ壁に歩み寄り、そっと右手をさしのべる。
「――っ!」
壁に指先が触れた瞬間、電気が走ったような感覚に手を引いてしまった。
指を見る。思わず、ニコは壁から一歩あとずさった。
爪の先端が、砂のように細かな粒となって霧の中に溶けていった。
壁面のさざ波が超振動の効果を生んでいるようだ。しかもこれだけ完全に対象を崩壊させるということは、触れた物質の固有振動数に合わせて振動数を変化させているということだろう。
ニコは用心して、足下の小枝を拾ってそれで水の壁をつついてみた。
今度は何も起きない。
「通水にだけ反応するようですね」
これなら、生徒たちにもさしあたって危険はないだろう。
「間違いなく、キョウイチですね」
先ほど、北門の近くで見た姿を思い出す。風が吹きながら水面に波が見られなかった時点で疑うべきだった。
枝を捨て、ニコはきた道を駆け戻った。今は、響司と合流するしかなさそうだ。
戸惑う生徒たちの間を縫って、ニコは室内プールの入り口をくぐった。更衣室を抜け、土足のままプールサイドに出た。
「キョウジ先輩?」
いない。外の騒ぎに気づいてプールを出たのだろうか。
広いプールの中、ニコはどうしたらよいかわからずに右往左往し、巻き毛に指を絡めた。
男子更衣室まで探しに行ってもいいだろうかと考え始めた頃、視界の隅に動くものの気配を感じた。
「先輩?」
いっぱいに水をたたえたプールのほうを見て、ニコは瞳を一回り大きくした。そこに、プールサイドへはい上がろうとする透明な触手の群体を見たからだ。
どこに感覚器官があるのか、人の腕ほどの触手が一本、ニコに気づいたように身をもたげた。
「い、いや……」
無意識にもらした一言で、他の触手までもがニコの方向へと身をくねらせた。
五年前の記憶がよみがえってくる。
ニコは、恐怖の悲鳴を上げようとしてそれもかなわないことを知る。渇いた喉が貼りついて、まともに声も出せない。
触手の一本が鋭く動いた。
ニコは、このときほど自分の優れた視力を呪ったことはなかった。
触手の先端が尖り、まっすぐに心臓へ向かってくる軌跡が鮮明に見えてしまう。
ニコは目を閉じた。せめてもの抵抗だった。
エルフリーデが爆発音を聞いたのは、生徒用玄関から北門前を経て、職員用玄関までさしかかったあたりだった。
「なにかが、始まるみたいね」
通学鞄からブラシを取り出し、ロゼ色の髪を梳いた。
校舎が邪魔をして見えないが、爆発は北東の方角で起きたようだった。もっとも、霧が出ているので見晴らしのよいところにいたとしても音源を探れるとも限らない。
「エルスターくん!」
名前を呼ばれ、エルフリーデは瞳だけを動かして職員用玄関を見た。
はたして、思った通りの人物が駆け寄ってくるところだった。
「い、今の音は?」
同好会の顧問、アレン・ヤングが、慌てているせいかいつもよりも早口で訊いてくる。
「あたしの出した音じゃないもの。知らないわ」
肩をすくめ、エルフリーデはブラシを鞄にしまいこんだ。
それとほぼ時を同じくして、北門の方角で大きな騒ぎ声が多数弾けた。
見ると、堀の水が頭上高くへ突き昇っている。一瞬にして形成された水の壁は、下から上へ向けて降る滝のようだった。
「あ、あれは、なな、なんだろうねぇ? え、エルスターくん?」
アレンが、歯を鳴らしながら震える声ですがりついてきた。それを、エルフリーデは教鞭をふるって遠ざける。
「あなたね、仮にも教師なんでしょう? 一応、とりあえず、それなりに、まがりなりにも何となく!」
恫喝されて、アレンは怯えた目を水の壁に向けながらも口を閉ざした。
「しかも学内一の通水師なんだから、少しはしっかりしてもらわないと困るわ」
「ご、ごめん。そうだねぇ。うん、ごめん」
学生に叱られたのが効いたのか、アレンの口調が普段のものに近くなった。
「それでこの状況、一位の通水師としてはどう思うの? きっとあの壁、学園全部を包囲してるわよ」
「だろうねぇ。そうだなあ」
アレンは、落ち着きを取り戻した様子で無精髭をいじり始めた。カッターシャツという名が赤面しそうなほどよれよれの服を、自分なりになでて整えながら言う。
「さしあたって、危険らしい危険はないと思うんだよなぁ。この状況で水辺に近寄ろうとする人もいないだろうし。まずは、部室に行けばいいと思うねぇ。あそこ、今日はユーリーくんが一人だけでしょ」
「なんで知ってるの?」
「プールの使用許可を見たら、今日はハニワ研究同好会が使うことになってたから」
「ふうん。本当に、部長さえいなければ顧問らしいこともするのね」
アレンは苦笑しながら頭をかいた。
「まぁ……ねぇ。とにかく、部員を集合させた方がいいなぁ。全員を集めてから、水の壁対策を考えればいいからねぇ。だからまずは、無力なユーリーくんの安全を確かめよう」
「そうね……」
エルフリーデは、珍しくいつもの果断を発揮できずに悩んだ。
もしもアンデスやアルプスのような水の暴走がここでも起きようというのなら、水の近くはそれだけで危険ということになる。そして今、響司とニコはプールにいるはずなのだ。いわば、一番の危険地帯だ。
気がかりといえばルルも同様だった。建物の中には水道管が通っている。それを危険だと思った生徒たちは次々と校舎の外に出てきていた。しかし、読書に夢中になったルルはそこまで考え至らないだろう。外の異変に気づいていない可能性すらある。
「……わかったわ。部室に行ってみましょ」
結局、エルフリーデはニコと響司を信じることにした。あの二人が、そう易々と水の餌食になるとは思えなかった。
決断さえすればエルフリーデの行動は早い。すぐに部室棟へと疾駆する一陣の風となった。
数歩遅れてアレンもついてくる。平然とエルフリーデの後ろに続いてくるあたり、その身体能力はさすが一位の通水師といえた。
広すぎるほどに広い敷地を抜け、南門そばの部室棟に駆けこんだ。第一から第三までのグラウンドには多数の生徒が避難していたが、建物内部は静かなものだった。
エルフリーデは、長い脚を生かして数段飛ばしで階段を二階まで上った。
そこへ、聞き覚えのある高い声が鋭く耳朶を貫いた。
「あれは?」
「ルルちゃんの悲鳴よ!」
あの高く、こんなときでも甘さを失わない声は間違いない。
改めて床を蹴ると、向かう先でドアが開き、小柄な少女が転げ出てくるのが遠目に見えた。
ルルだ。非常時ながら本を手放さないあたりが彼女らしい。
そして、ハニワおたくの少女を追うように、部室から気味の悪い物体がうねり出てきた。アメーバのような水の塊が、ルルに覆い被さろうとその身を目一杯広げた。
ニコの体は激しい勢いで横に持って行かれ、鈍い衝撃とともに倒れこんだ。
「よかった……あまり痛くありません。パパもこのくらい楽に死ねたのなら……」
「ニコちゃんしっかり! 目を開けて!」
いまわの言葉を語ろうとしていたニコを、暖かくも鋭い声が現実に引き戻した。
「ほら、立つんだ!」
強引に体を引き上げられ、ニコは仕方なしに目を開けた。そして一呼吸ののち、間近にある顔に頬を赤く加熱させた。
「き、キョウジ先輩?」
息がかかるほど近くに憧れの男性の顔がある。その響司は、残念ながらニコの顔ではなくプールのほうを見つめていた。普段の温厚な顔が、今はなりを潜めている。
ニコは状況を理解した。触手に貫かれるところだったのを、瞬き一つほどの差で響司が救ってくれたのだ。
「ふっ!」
鋭く呼気を打つと、響司はニコを抱いたまま五メートルもの距離を横に飛んだ。
ニコは、呆然と響司の横顔を見つめながら、先ほどまで自分たちがいたあたりで床が砕ける音が鳴ったのを聞いていた。
「大丈夫? 自分の脚で立てる?」
お姫様のように抱かれながら、ニコは、ここで首を横に振りたい誘惑にかられた。しかし、理性がそれを許さない。
「へ、平気です。ありがとうございます」
響司は、確実にその返事を聞いてから、優しく床に立たせてくれた。
「先輩、今のきわどいタイミングで助けてくださるあたり、ヒーローの素質十分です」
「ギリギリだった理由が、海パンから学生服に着替えていたから、というのでも?」
それは考え物だ。とはいえ、海パン姿のヒーローに助けられることを思えば、やはり今のほうが何倍もましだろう。
あれこれ考察していると、再び水の触手が二人に襲いかかってきた。それを、ニコと響司はそれぞれ左右に飛んでかわす。
響司の前で醜態は演じられないという見栄が、ニコの内から怯えを蹴り落としてくれた。またも守られる側に回ってしまったことは、心に針を落とされた思いだったが、それを悔いている余裕はなかった。
プールの水がゆっくりと盛り上がり始めている。隆起した水は、徐々に明確な形を成そうとしているかに見えた。
「ニコちゃん、いけるね?」
響司は柔らかい瞳で目配せをすると、返事も待たずに走った。
響司が急ぐわけはニコにもわかった。膨大な量の水が、一つの意志を持って水獣になろうとしているのだ。それを屠るには、水の性質を濃く残している今のうちに、通水で形状に干渉するのがベストといえた。肉を持つ生命体にまで変化させてしまっては、形状干渉は困難になる。そうすれば、武器を用いて物理的に殺害するしかなくなるのだ。
自分の役目が後衛であることを、目立ちたがり屋のニコはすんなりと受け入れた。最近の出来事は、自身にアクションが不向きであることを思い知らせるのに十分だった。
そして、ニコは響司の実力を信じていた。単純に身体能力を比較すればニコは誰にも負けない。しかし組み手をすれば、勝つのはエルフリーデや響司のほうだった。
今も、響司は無数の触手を巧みな体捌きでかわしている。その動きは柔らかく、川面を流れる木の葉が岩をよけるさまに似ていた。よけるばかりで触手をはねのけようとしないのは、必殺の一撃のために力を集中しているからだろう。
しかし、敵の手数に響司も閉口している。そこを援護するのがニコの役目だった。
響司を近づけまいと暴れ狂う触手群に、ニコは力一杯の通水を遠隔で叩きこんだ。
触手群が形を維持できずに爆散し、一帯を覆う霧となる。響司の目前に一本の道ができた。
時間にしてわずか数秒間の隙に、響司はプールサイドを抜けきり高く跳躍していた。その手には透明の槍が握られている。たった今生じた霧から作った、水の武器だ。
通水を伝達するための媒体に過ぎないため、武器の形状に意味はない。響司がイメージする力の象徴が、槍だったというだけのことだ。
響司は、二階にも届こうかという高さからプールに降下していく。そして、動物の頭部に変化しかけている部分に槍を突き入れた。
水は、牛のような呻きをもらして崩れ落ちた。一撃だった。
響司は、反動で激しく波打つ水面に、体操選手のような見事な着地を決めた。水の上に立って沈まないのも、通水のおかげだ。
「先輩、さすがです」
「ニコちゃんもね。それより、僕たちは僕たちの役目を果たさないと」
「役……目?」
「ハニワ研究同好会は、こういうときのために結成されたんだよ。今、外では通水師にしか対処できないような事態が起こっているんじゃないのかい?」
言われてニコは思い出した。爆発音に続き堀の水が暴走したこと、それらを、たどたどしい身振りで響司に語って聞かせる。
ニコの話を、響司は普段通りの穏やかな表情を崩すことなく聞いてくれた。おかげで、話し終える頃にはニコの心もだいぶ落ち着きを取り戻していた。
「……なるほどね。学園は完全に閉ざされたみたいだね」
「これでは現場に行くこともできません」
あのとき、迷ったりせずに橋を渡っておけばよかったと、後悔が心に満ちた。
「きっと、なにか方法があるよ。諦めずにそれを探そう。まずは正門に行ってみようか」
きらきらした瞳で響司を見上げていたニコだが、同時に引っかかるものも感じていた。この落ち着きようはなんなのだろう、と。
まるで、突破口があることをあらかじめ知っているかのようだ。
「まさか……ですよね」
軽く首を振って、ニコは前を行く響司の背中を追いかけた。今は、五年前のヒーローのように頼もしいこの背中を信じるのみだった。
エルフリーデは、全力で走りながら横に飛ぶという、曲芸じみた動きで危険を回避した。
背後から飛来したのは、音速を超える水の弾丸だ。それが肩口を過ぎ、ルルに覆い被さろうとしていた怪物に命中した。
アメーバ状の怪物は、瞬間動きを止め、すぐに結合力を失ってただの水となった。大きな水音をたててルルをずぶ濡れにしたが、その程度の被害は我慢してもらうとしよう。
ルルは、濡れたツインテールを顔に貼りつかせながら、抱えていた本が水浸しになったことを嘆いていた。
「怪我はないようね」
安堵で顔が緩まないように努めながら、エルフリーデはゆっくりと歩み寄ってルルを立たせてやった。それから突風のような動きで振り返り、教鞭を振った。
「うわあっ?」
鋭く空気を裂く音と、空気の抜けた鈍い悲鳴が重なった。
エルフリーデがアレンを睨む瞳は、冬の朝のように冴えて冷たい。
「それ、よけなかったらあたしに当たってたと思うのよね」
エルフリーデが顎で示したのは、顧問教諭の右手にある飛び道具だった。
やたらと口径の大きな拳銃だ。むろん、ただの銃ではなく、反対側が透けて見える水の銃だ。しかし威力は見ての通り。力をこめて撃てば水獣を殺すこともできるし、物理的な力においても実銃を凌ぐだろう。
紙一重で教鞭の間合いを外れていたアレンは、さらに力をこめて睨んでやると簡単に一歩退いた。
「い、いやぁ。エルスターくんなら確実によけてくれると思ったし、それに、ちゃんと水獣を倒したから……ねぇ?」
「そう。信頼してくれて嬉しいわ」
「いやぁ」
「などと言うと思ってるの!」
怒鳴り、エルフリーデは強く一歩踏みこんだ。アレンの左足の上に。
「ふんぐ!」
歪んだ顔から潰れた悲鳴を吐き出して、アレンは脂汗を大量に生産し始めた。
「ちょっ! 痛い痛いイタイ! エルスターくん、これはまずい! わりと真剣に危険……いたたた!」
「早い口調でもしゃべれるのねえ。普段どれだけ力を抜いてるのかがわかるわ」
非常時なのに、だんだん楽しくなってきてしまった。悪い癖が顔を出してきた。
エルフリーデは、大きな胸が相手に触れるほど近寄って体重をかけた。
アレンが言葉もなく口を開閉させるのを見て、エルフリーデはさらに笑顔になる。自分でも性格が壊れていると思わないでもなかったが、壊れたものは修復が困難なのだ。
嗜虐心に忠実に従って、満足がいくまでアレンの苦悶の表情を観察した。
思ったよりも早く飽きたので、一〇秒ほどで足の上からどいてやる。すると、アレンは空気を求めるようにあえいでエルフリーデを非難してきた。
「な、何度も言ってるけど、僕は教師できみは学生なんだけどなぁ。僕は激しく疑問を感じざるをえないよ」
「ルルちゃん大丈夫?」
哀れな訴えを粉砕する勢いでシカトしてやった。ああしなければルルの身が危険だったことはわかっているが、認めるのが癪だった。
エルフリーデは小柄な下級生に歩み寄った。心配なのは、怪我と、精神的ショックだ。
「せんぱいぃ〜。ひどいんですよ。お水を飲もうと思って蛇口をひねったら、どんどん溢れてきちゃって、おかげで『青春の刑務所、はにわ道中』が水浸しです」
なんというタイトルだ。ため息をつきたいのをこらえて、エルフリーデは優しげに微笑んだ。その気になれば、こういう表情もできるのだ。
「それだけ? 怪我はないのね?」
「それだけってなんですかあ! 『青春の刑務所、はにわ道中』ですよ! アンデスの小さな出版者が出してるだけだから手に入れるのが大変だって、先輩も知ってるはずです。結局水も飲めないし……」
知ってるはず――大いに間違った認識だった。
「ああ、ごめんね。そういうつもりで言ったんじゃなくて、体の具合は大丈夫なのかなって」
相変わらず、ルルを前にすると調子を崩すエルフリーデだった。
「体……喉が渇いてます」
のんきな回答に応じて、エルフリーデの横合いから気だるげに手が突き出された。
アレンだ。水の入ったボトルを持っている。
ルルは、赤ん坊のような肌を上気させると、嬉しそうにボトルを受け取った。水浸しの少女は、実においしそうに水を飲む。
「用意がいいわね」
一応褒めたつもりなのだが、アレンの肩は落ち、無精髭をなでる手もゾンビのそれのように生気がない。
「何を落ちこんでるの?」
「なにって、自分の胸に手を当ててみるといいと思うなぁ」
エルフリーデは、アレンを敬遠するように早朝の青空色の瞳を冷たく細めた。
「もしかしてあなた、女子高生に自分の胸を揉ませて、それを観賞して興奮を得ようという……早い話が変質者?」
「あー、そうそう。もうそれでいいからさぁ。ちょっと外を見てくれるかなぁ」
投げやりなアレンに、不満顔で唇を尖らせてしまう。実に面白みのない反応だ。どうやら、少しばかりいじめすぎたらしい。
ルルが喉を潤している間に、エルフリーデは言われたとおりに外の様子を確認してみた。
廊下の窓からは、第一、第二、第三グラウンドの様子が一望できる。そこでは、地下の水道管が破裂して水が暴れ回っているようだった。生徒たちが安全な場所を求めて無秩序に逃げ回っている。
「学園中あんな感じなのかしらね」
「だろうねぇ」
しかし、まださほど深刻な状況になったとは思わない。暴走と呼べるうちは、逃げていれば大事はない。本当に危険なのは、水が秩序だった動きを始めたときだ。
「ただこのぶんだと、校舎のほうも水回りはだいぶ混乱してるでしょうね。でも、一つ気になることがあるわ」
「なんだい?」
「部室の水道から暴発した水が、ルルちゃんを明確に標的として捉えていたことよ。ここから見る限り、グラウンドや校舎では、水の暴走はそこまではっきりした形では現れてないわ。つまりこの部室棟に……」
そこで、エルフリーデは一旦言葉を切った。別にもったいつけたわけではない。
ちろりと唇をなめる。
表情から、先ほどまでの冗談めかした雰囲気をぬぐい取る。妖艶かつ好戦的に笑み、エルフリーデは軽く右足を引いた。とっさの動きをとりやすくするためだ。
「つまらないことに巻きこまれるのは勘弁願いたかったけど……こういうのは大歓迎だわ」
部室棟二階の廊下。見通しはいいが、ここが閉鎖された空間だということを思い出させられた。前方、後方、ともに奥で蠢く透明な物体が視覚に障る。
挟撃されたことを知り、エルフリーデはルルを背中にかばった。状況に反して心は躍り、それが正直に顔に表れていた。
学園の正門にあたる北側の橋も、噴き上がる水壁が横にせり出して道をふさいでいた。
「やっぱり駄目みたいだね」
ニコを従えて北門に着くなり、響司は嘆息とともに後ろを振り返った。
「ええ……やはり東門に駆けつけたとき、わたくしだけでも食料プラントへ向かっておけばよかったみたいですね……」
ニコの表情は黄昏空のように暗い。後悔と責任で自分の心を痛めつけているように見えた。
「いや、ニコちゃんの選択は正しかったと思うよ。たぶん、外はかなり危険なことになっているしね」
水の壁のせいでわかりにくいが、学園の外には巨大な生物の気配がいくつも感じられる。水獣が街中で暴れ回っているのだ。
「それに、ニコちゃんがきてくれなかったら、僕はプールで水獣に殺されていたかも」
黒曜石の瞳に微笑みを浮かべつつ響司は言った。
一人でもおそらく負けることはなかっただろうが、響司はあえて気休めを口にした。
ニコも、そうとわかっているはずなのに元気と笑顔を取り戻してくれたようだ。
響司が歩を進めると、北門に集まっていた生徒たちが道を開けてくれる。
自分が学園の中の有名人なのだと自覚するのはこんなときだ。有名になりたいのは、どちらかというとニコのほうだと思うのだが、世の中そう都合よくはできていない。
一度、不良グループから兄のことでしつこく絡まれたことがあった。その際に本気で怒って以来、どうも爆発物みたいな扱いを受けているように感じる。
野次馬にやんわりことわって、響司は割れた人垣を申し訳ない気持ちで抜けていった。
後ろからは、ニコも肩身が狭そうな顔でついてくる。
どうも、女生徒たちの視線には居心地の悪さを覚えざるをえない。妙に熱っぽい視線。何か、彼女たちの気に障ることをしただろうか。
響司は、水壁の前まできて空を見上げてみた。壁は、一〇階のビルに匹敵するほどの高さがある。ニコから聞いたとおりだとすれば、直接触れるのは危険だ。
響司は、周囲の霧から透明で優美な槍を作り、石突きで軽く地面を叩いた。
背後で、女子生徒たちが騒ぐのが聞こえる。
「もしかして僕、みんなを無用に怯えさせてるのかな」
「あれは……いわゆる黄色い悲鳴というやつだと思いますけれど……」
ニコの言うことがよくわからなかったので、曖昧に笑って首をかしげる。すると、ニコは安堵したように目尻を下げた。その反応も、響司には今ひとつわからない。
「とにかく早く様子見を終わらせたほうがいいかな」
響司は、自分でさえ無造作と思う動きで、造形の美しい槍を前に突き出した。
一瞬で、槍は音もなく水蒸気と化し、水壁に吸いこまれていった。
「吸収……されたみたいだ」
「先輩でも、この壁を崩すことはできませんか? このままでは、みんな閉じこめられたままになってしまいます」
ニコが、蒼穹の瞳を不安げに揺らして見上げてくる。
それについては軽く笑顔でごまかしておいて、響司は別のことを話題に上らせた。
「これは、ただ水が暴走しているだけじゃないよ。明らかに人為的な力が作用してる。校庭や校舎の中の水とは、根本的に違う」
そう言うと、ニコの頬がひくっと動き、瞳が行き場を失い左右にさまよい始めた。
思わず、響司は優しい気持ちになる。正義の味方を自称するだけあって、ニコは嘘のつけない体質のようだ。
「僕に、話してないことがあるでしょ」
「そ、それは……」
ニコの狼狽は、見ているぶんには笑いを誘うものがある。何となく、エルフリーデの気持ちが理解できるような気がした。
「大丈夫。今日は怒らないから」
安心させるように穏やかに言うと、ニコは、ためらいがちながら口を開いてくれた。
「わたくし、見たのです。北門の前を通りかかったときに、キョウイチが橋の上にいました。堀の水に手をかざしていましたし、そのとき、風があったにもかかわらず水は波紋一つ立てていませんでした。それで怪しいと……」
思った通りだった。これを兄がおこなったのだとすれば納得できる。普段は周囲に波風立てるのを好まない響司だが、このときばかりは、熱くなる心を静めることができなくなっていた。
「やっぱりそうか……。ついに、このときが……」
兄が学園に現れてから、この日がくることをずっと警戒し続けてきた。待ちこがれていたと言い換えてもいい。重大な事件だということは理解しているが、それでも、響司の心は常になく熱く震えるのだった。
五年間、閉じこめてきた想いが、ようやく行き場を得た。
はやる心臓を鎮めるように、響司はそっと胸を押さえた。鼓動は、運動会で自分の番を待つ少年のように高鳴っていた。
「キョウジ先輩? 笑っているのですか?」
「ニコちゃん。僕はね、五年間、今日という日がくるのをずっと待ち続けていたんだよ。不謹慎だけど、楽しみにさえしていたんだ」
響司は、握った拳から意識的に力を抜きながら、ニコの碧眼を見下ろした。
碧空色の瞳は、戸惑いに彩られながらも、力強い信頼をこめて見上げてくる。
「わたくしも、お力になれますか?」
響司は、一瞬ためらったあとで頷いた。
巻きこんでいいものかと悩んだが、ニコは強い。通水の素質だけではなく、心も強くまっすぐに育っている。なにより、ニコは五年前の事件の関係者だ。響司は、穏やかに微笑んでニコの蜂蜜色の頭をなでた。すると、少女の白磁の肌がうっすらと桜色に染まった。
一言かけようと響司が口を開きかけたとき、学園全体に簡素な放送が流れた。
『高等部二年、キョウジ・フワくん、至急、理事長室まできてください。繰り返します。高等部二年――』
放送を聞きながら、響司はニコと目を見合わせた。状況は、あちらこちらで進行中らしい。
「面白くなってきた」
響司は、目を伏せて軽く笑った。エルフリーデが使いそうなセリフだと思うと、その笑いが苦笑に変わってしまいそうだった。
放送は、当然部室棟にも届いていた。
「響司たちのほうでも、面白い状況になってるみたいね」
羨ましく思いながらも、エルフリーデは肩をすくめるだけで、理事長室に向かおうとはしなかった。できなかったのだ。背後にはルルをかばっているし、廊下の両端からは、アメーバ状の水の化け物が這い寄ってくる。注意して見れば、窓の外側に薄い水の膜が張ってあるのも確認できる。気づかずに窓を破れば、その罠に無惨な目に遭わされていただろう。
「アレン、不思議だと思わない?」
「ん?」
「グラウンドや校舎では無秩序に水が暴れてるだけ。固体に変化することもなく、本当にただまき散らされてるだけよ。なのに堀の水は、明らかに何者かの意志によって壁を作っているわ」
「確かにねぇ。誰の仕業だろう。キョウイチ・フワかな」
アレンは、本当に不可解そうに、顎の無精髭をざらざらとなでた。
「それはわからないけど、なんのために壁を作ったのかは、想像できるわ」
「それって?」
「それはたぶん……っと」
喋りながら、エルフリーデは慌てて身をひねった。
廊下の奥から伸びてきた触手が、あわやのところで白い制服をかすめていった。
身をそらした柔軟な姿勢から、エルフリーデは右手を翻した。そこから繰り出された光条は、見事に遠くに身を横たえる怪物に命中して、水でできた体を霧散させた。
エルフリーデの右手には、透明で涼やかな鞭が握られていた。普通の鞭よりも圧倒的に長い射程を持つこの武器が、エルフリーデ愛用の得物だった。
「どうやら、先にこっちの問題を解決しないといけないみたいね」
言い終えたときには、すでに解決を終えていた。後ろを見ることなく、逆方向から這ってきていた水獣に、鞭の一撃を浴びせていたのだ。
「はぁ、さすがだねぇ、エルスターくん」
「これでも響司には負けるけどね。そうそう、響司といえば、あたしたちも理事長室に行ったほうがいいのかしら」
運動を終えたので、エルフリーデはなかばくつろぎながらロゼ色の髪にブラシを通していた。すでにその手に水の鞭はない。
「だろうねぇ。最初に爆発の起こった食料プラントの様子も気になるし」
エルフリーデは、形のよい唇から深く息を吐き出した。確かに、面白い事件がいろいろと起こっているようではある。自然と、顔が楽しげな笑みを刻んでしまう。今日まで、自分がこれほどまでにトラブルを好む人間だとは自覚していなかった。新たな自分を発見した気分だった。
「ねえ、アレン。部室棟の水も、無秩序なんかじゃなく、何者かの意志に操られて動いてること、気づいてた?」
「言われてみれば……。やっぱり、キョウイチ・フワが暗躍してるんじゃないかなぁ」
エルフリーデは、アレンの意見を払いのけるようにして手を振った。
「思えば、一連の事件はかなり周到に計画されていたものだと思うのよね。アンデスやアルプスで水獣が出現したことが、そもそもの始まりだったんだわ。きっとそれは、ヒマラヤを手薄にするのが目的」
「実際、うちの学園からもたくさん応援を出したし、うん、確かにヒマラヤから多くの通水師が派遣されているねぇ」
エルフリーデは、アレンの相づちに満足し、ブラシで自分の手のひらを軽く打った。
「これを計画した人物の本当の標的は、この学園だったんじゃないかしら。通水師を養成するっていうことは、金の卵がたくさんいるということだものね。今のうちに潰そうとしたとも考えられるわ。もっとも、うちの同好会からも大勢派遣されたことは予想外だったでしょうけど」
「だとすると、通水が使えるキョウジくんやリヴィエールくんも標的にされてることになるねぇ……」
「でしょうね。でも、さしあたっては平気だと思うわよ。大量の水が集まるプールでは危険があったかもしれないけど、それを切り抜けたとすれば、学園内はもう安全だわ」
エルフリーデは、首をひねるアレンを見て赤い唇を小さく吊り上げた。
案の定、アレンは間抜け面いっぱいに疑問を満たして聞き返してくる。
「あ、安全って言うけど、現に僕らは、結構危険な状況の中に身を置いてないかなぁ?」
「それはそうね。だって、あたしたちの近くに敵が潜んでいるんだもの。だから、かえって他の場所は安全なのよ」
窓から見る限りでは、学園内には落ち着きが戻りつつある。理事長室で何があるのかはともかく、プール以外の場所が安全だという考えに偽りはない。
「ぼ、僕らの近くに敵がいるって、キョウイチ・フワが?」
「さあ、誰かしらね。ただ、学園内にいる敵なんて、黒幕にしてみたらただの駒に過ぎないんでしょうけど」
エルフリーデは、心中でこっそりと舌を出した。次第に精神が高揚してくる。
「駒? 黒幕がいるっていうのかい?」
「当たり前でしょ。アンデスやアルプスに水獣を放って都市を壊滅させるなんて、特位クラスの通水師じゃないととても無理だもの。それに比べたら、部室や廊下に出没した水獣なんて泥人形みたいなものよ。あたしにも倒せるくらいお粗末だったんだから。つまり、敵の一人は特位。もう一人はそれより下位の通水師だっていうことよ」
「なるほどねぇ。でも、学園内に駒がいるって言っても、今は僕ときみ、キョウジくんにリヴィエールくんに、キョウイチ・フワしかまともな通水師は……。やっぱり、該当するのはキョウイチしかいないよねぇ」
「ねえ、さっきから不思議に思ってたんだけど……」
エルフリーデは、上目遣いでアレンの顔を窺った。自分自身でも特に挑発的と感じている表情を作って笑う。
「どうしてあなたは、そんなにキョウイチのことを疑って欲しいのかしら」
瞬間、アレンの雨雲色の瞳が揺らいだのは、残念ながら、エルフリーデの色香に堕ちたせいではないだろう。
「どうしてって、それ以外の選択肢がないと思うしねぇ」
「あらそう? まず、あたしはあたしが犯人じゃないことを知ってる。他に部室棟にいる通水師っていうと、一番簡単な答えがアレン、あなたなのよね」
「冗談きついなぁ。普通、犯人っていうのはもう少しこう、どこかに隠れてだね……」
「だって、始めに部室棟に行こうって言ったのはあなたじゃない」
今の一言は、思った以上に効いたようだった。
アレンも、どうやら冗談ではなく本気で自分が疑われているのだと気づいたらしい。見れば、指先が意味もなくネクタイの先を引っかいている。
「だから待ち伏せはできないってわけ。仮に尾行されてたとして、第一位のあなたがそれに気づかなかったというの?」
「気づかなかったことは、不注意だったと謝るよ。けどねぇ……その疑惑はちょっと勘弁して欲しいなあ。これでも一年近く、同好会の顧問をこなしてきた僕だよ?」
アレンは苦笑して、よれたカッターシャツの襟元をただした。さすがに、それだけのことで疑いをかけられるのは心外そうだ。
しかし、エルフリーデとてその程度の材料で人を糾弾しようというほど愚かでもない。
少しは説得力が出るようにとブラシを鞄にしまい、それを肘にかけて腕を組んだ。つい、胸元が強調されるポーズをとってしまうのは癖のようなものだ。
「顧問教諭といっても、同好会のことになんて、ほとんど関与してこなかったじゃない。ほんの最近まではね。なぜなら部長が常に目を光らせてたから」
アレンが部長を警戒し、恐れていたのは理解できなくもない。部長の前で悪事を企むことなど、エルフリーデもできる自信がなかった。
部長を苦手としているのは、決してアレン一人ではないということだ。ただし、エルフリーデは恐怖感を抱いているというわけではない。どちらかというと畏怖に近かった。
「だいたいね、あなた通水の授業でニコちゃんとキョウイチに模擬戦をやらせたらしいけど……キョウイチが通水を使えるってこと、どこで知ったの? そんなこと、内申書にも書いてないはずだけど。それにそういう調査は部長の専門よ。わざわざ部長に訊いてみたの?」
「はは、ちょっと推理してみただけだよ。彼の両親は二人とも特位の通水師だったし、弟のキョウジ君も優秀な通水師だものなぁ。それに、死刑囚の彼が入学してくるなんて、あまりに不自然じゃないか。そんな背景があればねえ。予想もつくよ」
アレンが、どうだと言わんばかりに両腕を広げた。アレンに得意な顔をされると、無条件で怒りが煮えたぎってくるから不思議だ。
エルフリーデとしては、このピンの甘い顔を見ると、教鞭なり、しなりのいい定規なりに手を伸ばしたくなってしかたがない。
サディスティックな衝動をどうにか抑制し、エルフリーデは冷静を装った。
「そう思ったから、あたしも今日までは追求してこなかったのよ」
エルフリーデは、事態の変化に備えて鞄を床に下ろした。その間も、アレンの緩んだ瞳からは目をそらさない。
「でもあなた、さっき言ったわよね。『最初に爆発の起こった食料プラントの様子も気になる』って」
その言葉を、アレンは黙って聞いていた。特に反論をしてくる様子もないので、エルフリーデはたたみかけることに決めた。
「さあて不思議だわ。食料プラントで爆発が起こったことを、どうしてあなたが知ってるのかしら? 学園の周りには、もっと火災の危険が大きい工場がいくらでもあるっていうのに。轟音の直後から、あたしたちは一緒に行動してなかった? すぐに水の壁ができたし、外の様子を窺う暇はなかったわ。少なくともあたしにはね。」
エルフリーデは、ロゼ色の髪を払うと同時に、身振りで廊下全体を示してみせた。
「それにね、あたしたちの会話の間だけ、周りの水が動きを停滞させてるわよ。不器用ねえ」
アレンは、相も変わらずネジが緩んだような表情を崩そうとしない。気の抜けた苦笑で頬をかくと、思い出したように周囲で水道管を脱した水がうねり出した。
「これ以上、何か話す?」
「……参ったなぁ。けどねエルスターさん、前から僕を疑ってたんなら、きみの行動は迂闊すぎたんじゃないかなあ。人の目のないところで、僕と対峙するなんて」
「いいえ」
エルフリーデは、芝居がかった調子でゆっくりと首を振った。せっかくだから、空気が緊迫してきたことを楽しむつもりだ。
「ここなら派手に立ち回っても、他の生徒に被害が出ないものね。まあ、観客がいたほうが気分は盛り上がるかもしれない……かな?」
相手が格上の通水師であることなど、すでに頭にない。
「……やれやれだ。よく切れる女性っていうのはこれだから好きじゃないなぁ」
アレンの雰囲気も、どこか変わったように感じる。飄々とした口調は同じだが、まとっている空気が鋭角的だ。人ではなく、冷えた刃と話しているみたいで落ち着かない。
「別に、あなたに好かれたくて女やってるわけじゃないわ」
「誰でも同じさ。男はみんな、頭の悪い女の子が好きなのさ。都合がいいからねえ。それに……」
雨雲色の瞳が、エルフリーデの肩越しに廊下の先へ向けられた。
背中にルルをかばいながら、エルフリーデは窓とは反対側の壁に体を寄せた。
目の高さを、鋭利な光条が通過した。わずかでも反応が遅れていたら、頭は熟れたトマトのように弾けていただろう。
エルフリーデの命を奪い損ねた水の塊は、アレンの右手に受け止められ、一丁の拳銃を形作った。
「それに、何よ?」
速く激しく暴れる心臓をごまかすように、エルフリーデはことさらゆっくりと、アレンに話の続きを促した。
アレンは、抜いた顎髭に顔をしかめながら一瞥をよこしてきた。
「そう、それに、きみの頭脳は少々中途半端なようだよ。僕に勝てるつもりでいるらしいなんてねぇ」
そう言ってアレンはにやつく。右手に持った透明な銃を、無造作に弄びながら。
その態度に、エルフリーデはいたく自尊心を刺激された。
「そんなに可笑しいかしら?」
「可笑しい以前の問題だよ。きみは、すでに負けているんだからねえ」
アレンが会心の笑みを見せた直後だった。
背中に灼熱を感じた。
「え?」
アレンを睨んでいた瞳を、下へ向ける。
腹から異物が生えていた。水を固体化させて作られた短剣だった。
「な……ぐっ!」
内臓を潰すように、短剣がえぐられた。
喉から、大量の血がせり上がってきた。度を超えた激痛に、一瞬気絶しそうになる。
「ルル……」
精一杯の力を振り絞り、後ろに首を向けた。
背後の少女は、ガラス玉のような瞳で、ただ虚ろにエルフリーデを見上げていた。
理事長室直通のエレベーターに、ニコは憧れの先輩と乗りこんだ。さほど速くもないスピードで、二人きりの密室は上昇を開始した。この状況で少しは色気のある会話を期待したニコだったが、響司は微妙な距離を詰めようとしてくれない。
「中央棟の一二階が全部理事長室だっていうんだから、すごいね」
「すごいとは思いますが、ただの無駄とも言えますね」
色気のない話題に、かわいげのない応えを返しては鬱になりかかる。
響司の笑顔は、こんなときでもときめきを覚えさせてくれる。しかし、その笑顔が普段と違う質のものであることには気がついていた。
「先輩、なんだか楽しそうですね」
「そう? うん、かもしれないね」
あまりトラブルを楽しむ性格には思えないのにと、ニコは首をひねった。
電子音がひとつ鳴った。一二階に着いたのだ。
ニコは緊張し、乾いた唇をそっと湿した。
悪の総本山に突入するさい、どんな口上を述べればいいかはすでにシミュレート済みだ。
扉がひらいた。
「あれ?」
予定と異なる呟きをもらし、ニコの口はぽかんと開いたまま固まった。
何もなかった。いや、ものが少なすぎた、と言うべきか。
広大な、あまりに広大なフロアの隅に、机が一つ、本棚が二つ、キャビネットが一つ。目立った家具は、それくらいしかない。他には、植物の鉢がいくつかキャビネットの上に並べられているくらいだろうか。寂しいのを通り越して、なんだか惨めな部屋だった。フロアのほとんどが全面窓なので、明るいのが救いではある。
唖然としているニコを尻目に、響司が部屋に踏み出した。警戒心を微塵も感じさせない。
「せ、先輩、待ってください」
ニコも慌てて続く。
ぽつんと小さく見える執務スペースを、ニコは高い視力を生かして観察してみた。
よく見れば、そのスペースにだけ畳が敷いてある。数えてみると一二枚あった。
古くさい机では、六〇がらみの男性が静かに響司たちを待っているところだ。
ミルクに数滴の墨を垂らしたような髪に黄色の肌、黒縁眼鏡が印象的だ。オールバックにした白髪と太い眉が、意志の強さよりも頑固さを主張していた。
ニコたちの顧問教諭の瞳を雨雲色とするなら、この人物の瞳は雷雲色と表現するのがちょうどよかった。不健康そうな太った体だが、地味なスーツ姿が妙に威厳を感じさせた。
学園の理事長、翁延寿だ。
三〇メートル以上は歩いただろう。ようやく、畳の手前までたどり着いた。
「響司・不破です」
そこで、ニコは喉をひくつかせてしまった。よく考えたら、自分はまったくお呼びでないのではないか。完全なる部外者の自分が、ここでなんと言えばいいものだろう。
そこに助け船をくれるのが、ニコの大好きな響司という先輩だ。
「彼女は、同好会の後輩、ニコ・リヴィエールさんです。同席、かまいませんね?」
翁は即答しなかった。
ニコは、翁に睨まれて身を硬くした。
入学式に壇上で見た理事長は俗物のように見えたのに、今は別人かと感じるほど力強い威厳に満ちている。山、とニコは連想した。
理事長は、静かに頷くと両手を机の上に置いた。
「貴女がニコ・リヴィエールさんか。よく話は聞いている。まあ二人とも、もっと近くへこないか。ああ、畳の上では靴は脱いで」
「失礼します」
響司が、一礼して靴を脱ぎ、畳に上がった。
ニコもそれに倣いながら、気づかれない程度に眉を寄せていた。話を聞いているとは、どういうことだろう。入学してから、理事長の耳に届くほどの事件を起こした覚えはない。
机の前で並んで立つと、ニコは隙を見せないように呼吸を整えた。
「すまないな。この部屋で客を迎えることがないので、ソファの一つも置いていない」
言って、翁は重そうな体を椅子から離した。
思ったほど背は高くなかった。男性の平均身長よりは五センチほど低いだろう。それなのに、威厳と体重だけは十分すぎるほどにある。
隣の響司が、年寄りの冷や水をなだめるように優しい声を出した。
「理事長、無理をなさらないで座っていてください。座っていても話はできます」
「気にすることはない。座りたくなったらそうさせてもらうとしよう。まあ、そうゆっくりはできないだろうが茶ぐらいは飲んでいってくれ」
翁は愛想に乏しい顔で言うと、壁際のキャビネットまで歩いて茶の準備を始めた。
ニコとしては、意外な展開に戸惑うばかりだ。もう少し、悪の黒幕的言動をしてくれないと成敗ができない。
「あのう……理事長?」
「なにかね?」
ニコが思い切って声をかけると、翁は手を休めることなく低い声を返してきた。
「この広い部屋……なんなのです?」
「ああ……」
翁が顔をわずかに上げた。ほうじ茶特有の芳香が漂い、ニコの鼻腔をくすぐった。
「ワシも理事長になって二〇年が経つが……いまだにこの広すぎる部屋に慣れることができんよ。しかたがないので、必要なぶんだけ畳を敷いておる。エレベーターが遠いのが欠点だが、やはり窓の近くが好きなのでな」
翁理事長は、盆に三つの湯飲みを載せて歩み寄ってきた。一つを自分で取ると、盆を差し出してくる。
「いただきます」
響司は、遠慮するそぶりも見せずに湯飲みを取った。
ニコは迷ったが、信頼する先輩が手にしたものならばと割り切った。
ほうじ茶に口をつけながら、ニコは自分が一つ、勘違いをしていたことに気がついた。
この広すぎる理事長室を、翁が作らせたものだと思いこんでいたのだ。しかし、考えてみれば学園の歴史は数百年にもなる。また、校舎も、築後百年近い年月を経てきている。
この贅沢は、翁理事長とは関係ないものだったのだ。
ただ、それだけで翁理事長を信用できるものでもない。
翁は、盆を机に置いて立ったまま茶をすすっていた。その姿が、やけに年寄りじみて見える。
響司が、湯飲みを見つめたまま訊いた。
「あの水の壁は、越えられるでしょうか」
「越えて、どうする気だね」
「戦います。僕の宿命ですからね」
「きみは、宿命を信じているのか」
問われて、響司は困ったように苦笑した。
哲学じみた話になってきたので、ニコに口を挟むことはできない。
「いえ……。ただの格好つけで言っただけですよ。でも、この戦いに僕の力が必要なのは確かですから」
「死ぬかもしれんぞ」
その一言に、ニコは肩を跳ね上げた。とっさに、隣に立つ思い人の袖を握りしめてしまう。
響司が、少し驚いたように見下ろしてきた。その顔はすぐに笑顔に変わった。自分を安心させるためなのだということぐらい、ニコにもわかった。
「……かもしれませんね」
笑顔だけは穏やかだったが、響司は気休めを口にすることはなかった。
「でも、ここで僕らが破れれば、きっと人類すべてが遠からず滅びることになるでしょう」
肝心なところで、ニコは会話について行くことができなかった。自分の知らないところで、何か、あまりにも大きなことが起ころうとしている。
なぜ、自分はこんなところにいるのか。足下が、ひどく不安定なものに思えてしかたがなかった。正義という大儀は、こんなとき、ニコを支える役には立ってくれなかった。
翁は、湯飲みを机に置いて、一つ大きな息を吐いた。
「正直に言うとな、ワシは、きみのことを両親に似ていると思っていた。だが違ったな。きみには信じる人と護るべき仲間がいる。それは……彼らにはなかった強さだ」
「本当に強いのは、僕ではありませんよ」
響司も湯飲みを机に置いた。その黒曜石の瞳は、窓の外、水壁の向こうを見はるかしているようだった。
「両親をご存じで?」
「……彼らは、この学校の生徒だった。ワシがまだ理事の一人に名を連ねたばかりの頃だった」
翁の瞳は響司を向いていたが、見ているのは、何か別のものであるように思えた。
「二人とも優秀で、人望が厚く、あまりに強すぎるが故に孤独で、決定的な弱さを持っていた。そして、堅かったな」
ニコは、会話の空気に入りこめずに湯飲みの縁を爪で引っかいていた。耳障りなのに、やめることができない。
「理事長、そろそろ」
響司が、決然と会話を打ち切った。
「行くのか。ずいぶんと嬉しそうに見えるのは、ワシの気のせいか?」
それはニコも感じていたことだった。今日の事件が起きてから、響司はいつになく躁なのだ。
「五年ぶりですからね」
それを聞いて、翁が苦笑した。
笑うと、目尻の皺が優しげだった。その発見が、ニコには新鮮だった。
「では、ついてきたまえ」
その言葉は、明らかに響司一人に告げられたものだった。
ニコは、どうするべきなのかわからない。
不意に肩に置かれた手に、ニコは小さく悲鳴を漏らしそうになるほどびっくりした。
見上げると、響司が頷いた。
「理事長、彼女も連れて行きます」
「先輩?」
ニコは、碧天色の瞳を丸くした。
翁は、いぶかしげな眼差しを響司に向けた。
「わかっているのかね。きみがこれから向かうのは戦場……いや、死地だ」
「死中に活を求める、というやつですよ。彼女の才能は、その活になり得ます」
「え……え?」
ニコは、響司と翁の間で何度も首を往復させた。期待していた展開ではあったが、予想はしていなかった。
翁が、眼鏡の奥の瞳を雷雲のように光らせた。まともに視線を向けてもらうのは、これで二度目だ。
「ニコ・リヴィエールさんだったね」
「は、はい」
緊張のため、食いしばった奥歯が鳴った。ここにくるまでは悪の親玉だと信じていた理事長の前で、ニコは柄にもなく雰囲気に圧倒されていた。
「キョウジくんとともに行きたいか? 死ぬかもしれんぞ」
深い色の瞳に見据えられ、ニコは唾の塊を飲みこんだ。
「で、でも、先輩の身にもしものことがあれば、人類が滅びるともおっしゃいました。それなら、キョウジ先輩のお手伝いをしたほうが、結果的に安全に繋がるのではないかと……」
それに、響司と二人で危険を体験すれば、吊り橋効果によって恋が生まれるかもしれないではないか。
この期に及んで、ニコの頭はその程度の思考しか編みあげることができなかった。
翁が小さく笑ったのは、裏の思考を読まれたせいだとは思いたくなかった。
翁は、二人に背を向けて本棚の奥へと歩いていく。
屋上に出て、ニコは感嘆のため息をもらした。今日は驚くことばかりだ。
肩が触れるほどの距離で、響司は悠然と眼前にある設備を観察していた。
全長一〇メートルにもおよぶ弓が、横に寝かされて柵に設置されていた。しなり、力を蓄えるためのリムは、根本部分では九センチほども厚みがある。人間の力では、このリムをたわめることはできないだろう。
「このリムは、グラスファイバーとカーボンでできていてな、硬さも半端ではないが、弾性も併せ持つ素材だ。君らが二人がかりで引いても、このリムは曲げられないかもしれないな。それから、射撃の衝撃で弓がぶれないよう、リムの根本付近では左右にスタビライザーが設置されている。中央から前方に伸びているのは、同じく、ぶれを前方向への力に変換するためのセンターロッドだ」
ニコは、大昔の攻城兵器を彷彿とさせる巨大な弓に、素直に感心してしまった。玩具を見せつけられた子どもと同じ表情で、碧天の双眸をきらめかせる。
ヒーローに憧れるニコは、その延長で、様々な武器や防具に多大な関心があるのだった。
「弦にはきわめて強靱な硬鋼合金繊維を使っている。サイトは、霧でも光の届きやすい赤色レーザーサイトなので、この状況でも問題なく使えるだろう」
響司が、珍しく困惑気味に首を傾けた。
「理事長……この弓で、いったい何を?」
翁は、嬉しそうに歯茎を見せた。
見るたびに笑顔が子供じみてきていると感じるのは、ニコの気のせいではないだろう。
「水壁は、幸い一〇階ほどの高さしかないだろう。ここからなら脱出は可能だ」
ニコは、不意に襲ってきた悪寒に大きく体を震わせた。
弓には、女性の腕ほども直径のある矢が、すでにつがえられている。そしてリムは、今こそ力を解き放たんとばかりに、折れる心配が必要なほど強く反り曲がっていた。
レーザーサイトは、赤色の光点で食料プラントそばのビルを指している。
この街に越してきたのはジュニアハイを卒業してからだが、そのニコでも知っていた。
「り、理事長? あのビルは、け、警察署では?」
「ほう、大した視力だ」
褒められても喜べない。
「まさか、矢を警察署に……ですか?」
「矢には高炭素結晶線が結びつけてある。これをあのビルに撃ちこめば、糸をつたって水壁を越えることができる。それに壁を破壊しても、警察署なら修理費は税金からでるだろう。市民全員で均等に負担するのだから平等じゃないかね」
自分で弁償しようという気はないらしい。
響司が、高炭素結晶線の巻かれているリールに触れながら首の後ろを撫でた。
「意外と荒っぽい方法なんですね。抜け道でもあるのかと思っていたんですけど」
そんな皮肉にも、翁は気を悪くした素振りを見せない。皮肉を言った本人が楽しげに笑っているのだから当然だろう。
「キョウジ先輩って……」
五年前のヒーローに似ているとは以前から思っていたが、その思いがさらに強まった。
優しく、力強い。
とはいえ、ニコにためらいがあるのは事実だ。
「お二方……やはり警察署に矢を撃ちこむというのは……」
後ずさった右足に不穏な感触があった。
半瞬遅れて、かちりという不吉な音。
さらに半瞬後、すぐそばで雷が落ちたような衝撃音に吹き飛ばされそうになった。
またその半瞬後、鞭が空気を裂くのに似た音。
『あ』
三人の声が重なった。
見れば、引かれていたはずの弓が本来の形を取り戻している。つがえられていた矢はどこにも見あたらない。リールは、壊れた巻き尺のように高炭素結晶線を送り出し続けていた。
こわごわと、ニコは右足を上げた。そこから現れたのは、正体を疑いようもない、赤いスイッチだ。
隕石衝突を思わせる音が、警察署の方角から轟いてきた。それで、重く粘ついていた時間が、再度正常に動き出す。
ニコは、顔を海のように蒼くした。
「ニコちゃん……なかなか大胆な……」
「いや、先輩、これは……」
正義の味方が、警察署に強力な矢を撃ちこんでしまった。ショックでめまいを起こしそうになる。
「ワシがやろうと思っていたんだが、進んで汚れ役を引き受けてくれるとは、見上げた若者だな」
汚れ役という言葉に、さらに気が遠くなる。が、それを精神力でどうにか引き戻し、ニコは理事長に詰め寄った。
「どうしてこんなところにスイッチが埋めこんであるのですか!」
「趣味だ。引き金にしてもよかったんだが、やはりボタンとか、スイッチを押す感触には何とも言い難い魅力があるからな」
言いたいことはわかる。こんなときでなければ、ニコも同意していたかもしれない。それだけに、身悶えるしかなかった。
「さて、ともかくこれで外へ出ることができるというわけだな」
翁は動じた様子もなくリールに歩み寄り、それに設置されたレバーを引いた。
リールが、送り出しすぎた高炭素結晶線を高速回転で巻き戻し始めた。すぐにラインが張り、準備が整う。
「さあ、いつまで気に病んでいる。早く現場に行かねば、街の破壊は続くばかりだぞ」
ニコは、はっと顔を上げて屋上のフェンスから身を乗り出した。霧の中でも、天性の視力のおかげで街の様子がはっきりと見える。
食料プラントの火災は思った以上に規模が大きい。そして、それより深刻な状況に見えるのが学園周辺の街の様子だ。
五年前のアルプス、首都ツェルマットで見た異形の化け物どもが、街を盲目的に破壊している。ただ水を集めて化け物に模しているだけの異形ではない。水から生まれたとはいえ、本物の肉と骨を持った生命体だ。このタイプの水獣を人為的に作り出せるのは特位の通水師だけ。水に溶けた情報思念群体が自らの意志で生み出したのでなければ、この事件には特位の通水師が絡んでいるということだ。
翁が、高炭素結晶線に金属のフックを咬ませた。矢は、やや下向きに撃ちこまれているので、フックに掴まっていれば自然と外へ滑り出すはずだ。
響司がフックの下端を握り、高炭素結晶線の強度を確かめるように二度ほど引いた。脱出準備は整った。
「リヴィエールくんも、本当にいいのだな」
翁の重い言葉に、ニコはためらいなく頷いた。
「では行きたまえ。君たちは一連の事件の黒幕を発見し、場合によっては殲滅しなくてはならない。その覚悟は、できているのだな」
特位の通水師と戦う覚悟、ということだろう。
ニコはひとつ喉を鳴らし、深々と頷いた。正義の味方が、巨大な悪を目の前にして逃げるわけにはいかなかった。
ニコは響司の元に向かいかけ、ふと脚を止めた。
「理事長……あなたは、いったい何者なのですか?」
「ワシは、ただの教育者にすぎぬよ。生徒たちの幸せを願いながら、君たちを戦場に送り出す。情けない教育者だ」
憂いを浮かべる雷雲色の瞳に、偽りはないとニコは信じた。信じたかったのだ。
「五年前のことを、何かご存じで?」
「直接は知らん。キョウジくんなら詳しく知っているだろうが、訊くより、見て、心に刻んでくるのだ。ワシにできるのは、きみを戦場に送ることのみ。本当に、それだけだ」
ニコは響司の穏やかな顔をそっと見上げた。しかし追求はしない。
きっと、行けばわかるはずだ。
「リヴィエールくん。きみはまだ未完成だ。だが、それだけに、他の誰よりも大いなる可能性を秘めている。がんばって、キョウジくんの助けになってやってくれ」
まるで、ニコのことを前から知っていたような口ぶりだ。そういえば、先ほども、自分のことを人づてに聞いているようなことを言っていた。
尋ねようかと思ったが、やめた。それも、行けばわかることなのだろう。
ニコは、蜂蜜色の髪を揺らしてお辞儀をすると、踵を返して響司の元へ駆け寄った。
「よし、行こうか」
力強く返事をしようとして、ニコの喉は固まった。よく見れば、フックには一人ぶんの取っ手しかついていない。これでどうやって二人の人間を吊り下げるのだろうかと首を傾ける。と、突然響司の腕が腰にまわってきた。
「は……へっ?」
意味のわからない声を上げているうちに、体はあっさりと響司に引き寄せられる。
「しっかり掴まって」
耳に触れる響司の息。
ニコの白い顔は、瞬時に沸騰して夕焼けの色になってしまった。響司に抱きしめられるなど、恐れ多くて妄想の中でも体験したことがない。
もはや言われたとおりに動くだけの人形と化して、ニコは響司にきつく抱きついた。
響司が苦しそうに咳をしたのにも、気づく余裕がない。
「じゃあ、行きます」
響司が敬語で告げたので、ようやくそばに第三者がいることを思い出したくらいだ。
憧れの先輩は、軽く屋上のフェンスを蹴って、宙に飛び出した。
抱き合う男女は、空の人となって炎と破壊の街へと滑っていくのだった。
大量の血塊を吐き出した。床が頬に触れる。どうやら、廊下に倒れてしまったらしい。
背後からルルに刺されたのだ。完全に致命傷だった。腹から命の灯が漏れ出ていくのがわかる。即死しなかったのが不思議なくらいの傷だった。
「だから言っただろう? きみは、すでに負けていたんだなぁ。僕の水を飲んだユーリーさんを背にした時点でね」
完全にやられた。無関係のルルまで利用してくるとは思っていなかった。
死に顔をよく見たいのか、アレンに、うつぶせの体を脚で仰向けに返された。
恨み言を口にしたくても、喉からは血の泡が出てくるばかりだ。
何か反撃をしようとして上げかけた手が、途中で力を失い自分の胸に落ちてきた。
痛みはもうない。ただ、胸ポケットに入れていた小瓶の硬い感触だけが、不思議と鮮明に指先にまとわりついてくる。
スカウトに行った際、恭一に持たされた小瓶だ。倒れた衝撃で、ふたが外れてしまったようだった。きっと、中身も完全にこぼれてしまっただろう。結局、瓶の中身は不明のまま死んでしまうことになりそうだ。
ルルが、虚ろな表情でアレンの傍らに立っている。正気に戻ったとき、人を刺したことを覚えているだろうか。それが心配だ。
アレンが、勝ち誇った表情で無精髭をなで、何か言っている。だが、その声を聞く聴覚も麻痺してきたようだ。
そして、次第に視界がぼやけ、薄暗くなってきた。死が近い。
目を開けたまま死ぬのは格好悪いな。薄れゆく意識の中で、エルフリーデはぼんやりとそんなことを思った。しかし、今、自分が目を開けているのか、それさえもわからない。もう、何も見えないことは確かだ。
しばらく、混濁する思考の中を意味もなくさまよった後、エルフリーデの意識は完全にこの世から隔絶された。
直後、全身の筋肉が弛緩し、事切れた。
エルフリーデ・エルスターは死んだ。
4章
晴れ渡った空を黒煙が包み、その黒を、轟々たる炎がオレンジに染め上げていた。舞い散る火の粉が、焦げた天に星をまぶしているかのようだ。
食料プラントは、原形をとどめないほどに爆ぜ、無惨な廃墟に成り果てていた。
周辺に霧はない。すべて水獣になったか、火災による熱の影響か。
強風が、響司の黒髪を横になでつけた。白い制服の裾が、風に叩かれやかましく鳴った。
蜂蜜色の髪が隣からなびいてきて、響司の肩をくすぐった。赤い顔の少女が、恥ずかしそうに自らの巻き毛を押さえる。
先ほどからずっと、ニコの顔が赤い。炎のせいでもなさそうだ。高炭素結晶線をつたって空中散歩をしたときからだったと思う。どうしたのか訊いても「大丈夫です」と答えるだけなので、響司としては対処のしようがない。
ニコを連れてきたのは、間違いではないと思いたい。普通で考えたら三位程度の通水師では足手まといになるだけだ。しかし、ニコはただの三位ではないのだ。翁理事長が言ったように、ニコは未完成だ。
響司個人としては、ニコの能力を非常に高く評価している。それこそ、いずれは特位の通水師になる素質さえあるのではないかと思っているほどだ。
先ほど腰に腕を回したとき、ニコの体の細さを実感した。その体で、身体能力が誰よりも高いのも、素質の一端が現れているからだ。開花すれば必ず戦力になる。花が、開けば。
響司は風上を向いて、あまりの強風に双眸を細めた。寒さに自らの肩を抱く。
もともとビルの配置や地形の関係上、ここは年中強い風が吹いているのだ。しかも火災による熱が、不規則な気圧の変化までもたらしている。
「すごい風だね」
響司は、食料プラントの隣にある大きな貯水池を睨んで口元を歪めた。
池よりも湖と呼んだ方がいいかもしれない。その湖の湖面が、大きく盛り上がっていた。
「あれは……なんでしょうか」
ニコの小さな問いに答えたのは、響司ではなく湖自身だった。
水面を押しのけて、複数の異形が立ち上がったのだ。
鱗に覆われた長い体が水面を突き破った。蛇に似た姿だが、質量が圧倒的だ。大人三人が手をつないだよりも太い胴。体長は、水面から出たぶんだけでも三階建てのビルに匹敵する。さらにその背には、コウモリに似た羽。
「水獣か。完全に肉を得ている」
しかも、それが数える気も起きないほど無数に湖面から立ち上っている。
響司は、ニコを背に庇って一歩進んだ。
包丁同士を擦りあわせたような声で異形が鳴いた。縦長の虹彩が、ひとそろい響司たちを睨んでいる。敵と認識されていることは疑いようがなかった。
「水獣など、相手している暇はありませんのに……」
背後で、ニコが声を震わせながら呟いた。
まったく同感だったが、見逃してもらえる雰囲気でもない。響司は、深呼吸で気持ちを落ち着けてから湖へと歩みを進めた。
「やるしか、ないのですね」
ニコも覚悟を決めたようだ。後ろで、足音が続くのが聞こえた。
肉を得た水獣では、これまでのように体を四散させるようなまねはできない。物理的にダメージを与えて倒すしかないのだ。
まず、最初に響司が湖面へと足をつけた。
それを待っていたのか、蛇たちが同時に殺到してきた。
響司は、平地を駆けるように湖上を疾駆し、異形の鎌首をかわした。しかし、それは等しく敵の陣中に飛びこむことをも意味していた。
第二波の気配。
響司は、かわさずに拳を水の中に突き入れた。水に溶けこんだ情報の渦を操作する。
直後、氷柱のような水の刃が湖面から飛び出し、響司に牙をむけていた化け物を殴り飛ばした。化け物たちが、怒りの咆哮を上げて両の目を爛と輝かせた。
「なんて頑丈な……」
水の刃で串刺しにするはずだったのに、鱗が硬すぎたために殴りつけるにとどまってしまった。
次の手を考えるのに、わずかな時間、響司は動きを停滞させてしまった。
背後から忍び寄る異形に気づくのが遅れた。反応が間に合わない。
響司が身をひねったときには、すでに鎌首は腕が届く距離まで迫っていた。
体が硬直し、瞬間、時が止まった。
しかし響司が諦める間もなく、怪物は強烈な打撃を食らったように横へ吹き飛んだ。
巨大な水の塊が飛んできたのを、響司は黒曜石の瞳で捉えていた。その方角には、畔で屈みこみ、水に手を触れているニコがいる。
響司は、軽く手を挙げて感謝を告げると、吹き飛んでしぶきを上げた異形に飛びかかり、鱗に手を触れた。
よく考えれば、敵は全身を水に濡らしているのだ。ならば倒す方法はある。
鱗の表面を覆う水にも、情報思念群体は溶けこんでいる。そこに、響司は自らの意思を干渉させた。
水の分子振動を、極限まで停止状態に近づける。これによって水は急激に冷やされ、氷となるのだ。
狙い通り、蛇は表面を超低温の氷に覆われて動きを止めた。
半端な低温ではない。蛇は血液さえ凍らせて絶命するしかない。
少し遅れて、ニコが放った水の弾丸が凍りついた異形を粉々に打ち砕いた。それを横目に、響司は次の標的へと躍りかかる。手に透明な槍を作り出し、きつく握りこんだ。直接手を触れて攻撃するよりは、こちらのほうが戦いやすい。
得意とする柔軟な動きで、響司は異形どもの牙をしなやかにかわしていった。よけきれない攻撃は氷柱をぶつけて弾いたり、後衛の援護に任せて対処する。
湖面を走り抜け、響司は次々と蛇に似た化け物を氷漬けにしていった。
「キリが……ないな!」
いくら倒しても、水獣は際限なく湖の中から出現してくる。
少し前から、湖自体を凍らせようと、さかんに力を湖面に送り続けているのだが、やすやすとはいかない。冬とはいえ、比較的温暖な地域でもあるし、量が膨大すぎる。せいぜいが、一度ほど水温が下がった程度だろう。
問題は、ニコの疲労だ。遠隔射撃の命中率が落ちてきているのが、響司にはわかった。肉体に問題はないのだろうが、ニコの場合、普段から脳の負担が大きいのだ。
本人もさほど意識をしていないようだが、ニコは視力が優れすぎている。普通なら必要のないものは認識しないよう、視覚にフィルターがかかるものだ。しかし、どうやらニコの場合、精密な瞳が捉えたものすべてを視覚として処理しているようなのだ。それでは、脳がすぐに参ってしまう。
素質がありながら格闘を苦手としているのは、それが原因だ。相手や自分の速い動きは、ニコの視覚に過剰の負担を強制してしまう。その結果、乱戦になると足をもつれさせたりめまいを起こしたりして、自分で窮地に飛びこむのだ。本人はただのドジだと思っているようだが、ニコが不注意なわけではない。
だから、ニコは人混みなども苦手としているはずだ。
無数の異形を相手にするというのは、ニコにとってはもっとも厳しい状況に違いない。
どう打開すればいいのか。
迷いが、響司の動きをほんのわずかに鈍らせた。
四匹の怪物が繰り出してきた連続攻撃を、響司は強風に乗るように宙を舞ってかわした。だが、それを追撃せんと鎌首を伸ばしてきた五匹目の牙には反応が遅れてしまった。
水で足場を造り、さらに高く飛翔したが、このままでは足を引っかけられてしまう。
後衛の援護が、今にも響司の脚に食らいつこうとしていた異形を弾き飛ばした。
ニコのその攻撃に、響司も巻きこまれた。
目の前の景色が反転し、ハンマーで殴られたような衝撃が、響司の内臓を揺さぶった。
「先輩っ!」
ニコの悲鳴のおかげで、意識をどうにかつなぎ止める。ここで失神したら、責任を感じたニコがどんな無茶をするかわからない。
消滅しそうになった槍をどうにか維持し、響司は宙返りを決めて着地した。
脳と内臓にダメージを負い、判断力が一時的に鈍っている。
一旦乱戦を脱しようとして、響司は水面を蹴って後退した。そこを阻むものがある。
背に当たった新手の異形に、響司は振り向きざま力を叩きこんだ。
とたんに凍りついた化け物だが、そこから距離を置こうとした響司に、早すぎるタイミングでニコの攻撃が命中した。蛇ではなく、響司自身に。とっさに展開した水のシールドをも打ち砕くほどの威力だった。
全身がバラバラになりそうな衝撃。
ニコが、泣きそうな声で自責の叫びを上げるのが聞こえた。
コンビネーションに生じた狂いは、簡単に修正できるものではなかった。修正しようにも、響司が受けたダメージと、ニコの疲労はあまりにも大きい。
気を抜けば水に沈みそうになる体を、響司は気力だけで持ち上げた。二本の脚で立ち上がろうとすると、強風に上体を持っていかれそうになる。
「先輩!」
ニコが駆け寄ろうとするのを、響司は片手で制した。乱戦の渦中にニコを引きこむのは得策とは言えなかった。まずは一度、離脱しなくては――
すぐそばに禍々しい気配を感じた。咄嗟に顔を上げたものの、そのときにはすでに、状況は絶望的になっていた。
異形の顎が、息がかかりそうなほど近くに迫っていた。
長い舌と、釘のように鋭い牙がくっきりと見える。喰われる瞬間まで意識がはっきりしているというのは残酷だなあ。そう考えて、響司は苦笑した。
ここまでなのか――。
迫る牙は氷柱のように光を反射している。そこに自分の苦笑がいやに鮮明に映っていた。それを見るのが嫌で、響司は目を閉じる。
あっけない幕切れだと思った。
「あっけなかったなあ」
廊下に仰向ける美女は、もう動くことはない。
ロゼ色の髪を見下ろしながら、アレンはカッターシャツの皺を手でなでつけた。雨雲色の瞳には、なんの感慨も浮かんでいない。
実際、人を一人殺したからといって、罪悪感も快感も覚える必要はないと思っていた。別に初めてというわけでもない。五年前に自らの生き方を決めて以来、通水師を次々と殺してきた。また、将来通水師となる可能性のある子どもたちも、手にかけてきたのだ。
戦果がひとつ増えただけに過ぎない。喜びや悲しみといった感慨もない。
「まあ、学園にきてからは行動を控えていたからなぁ。これからは忙しくなる……か」
窓から外を見ると、生徒たちに落ち着きが戻り始めていた。水壁の前には人だかりができているが、混乱には陥っていない。さすがに、世界中から傑物ばかりが集まるネオ・カシミール学園だ。
「それにしても厄介な水壁だなあ。管理者の仕業なのかな……?」
しかし、そんな話は聞いていない。ならば、キョウイチ・フワの仕業と考えるのが一番自然かもしれない。
「ま、ひとまずは与えられた仕事をこなしていればいいのかね。キョウジくんとリヴィエールくんはどこにいるのかなあ。キョウイチも探して殺さないと。ふう」
通水師を殺すのが与えられた役目だ。この状況なら、彼らが死んでいても水のせいにすることができるだろう。
「彼ら以外にも、四位の通水師は一般生徒の中にも何人かいるんだよなぁ」
アレンは深く息を吐いた。面倒だが、必要なことだ。やらないわけにはいかない。
「いくか……。じゃあね、ユーリーさん」
エルフリーデの死体を見下ろすルルに声をかけた。
ルルは虚ろな瞳を向けてきたが、返事はくれなかった。意識などないのだから当然だ。自分の命令を聞くようにコントロールはしているが、それ以外では人形と変わらない。連れて行っても、もう役には立たないだろう。
アレンは、一体の人形とひとつの肉塊に背を向けた。
次の標的は誰にしようかと、事務的に考えつつ階段のほうへ向かう。
耳に届く、小さな衣擦れの音。ルルが身動きでもしたのだろうか。
かまわず、アレンはのんびりと歩を進めた。
すると今度は、もっとはっきりと、衣服がこすれる音、靴が床を踏みしめる音が後方から聞こえてきた。
さすがに訝った。人形が、命じてもいないのにそれほど大きく身動きするはずがない。
一応警戒して振り返る。
喉の奥が引きつった。普段意識的に眠たげにしている瞳を、大きく見開いてしまった。
「馬鹿な……」
気の利いたセリフが出てこない。だが、適切な言葉だったかもしれない。そこにある光景が、実際に馬鹿げていたからだ。
死んだはずのエルフリーデが立っていた。
生々しい破裂音に、思わず響司は首をすくめる。
予想していた衝撃は、いつまで待ってもやってこなかった。
響司は、眉間に皺を寄せつつゆっくりとまぶたを開いていった。
相変わらずの強風に、はっきりと目を開けることができない。しかし、眼前の光景が巨大な牙でないことだけはわかる。
自分を喰おうとしていた蛇の怪物は、頭部を失っていた。先ほどの音は、異形の頭部が爆散した際のものだったらしい。
断面は炭化しており、おかげで血が飛ぶこともなかった。
その異形が、湖に落ちてしぶきを散らすまで、状況を理解することができなかった。
他の怪物どもも、警戒のためか動きを停滞させている。
「ニコちゃんか……?」
強大な素質がこの瞬間に開花したのかと思い、響司は湖畔の少女を振り返った。しかし、そこには、碧眼を見開いてこちらを凝視するニコの姿があるだけだ。
否、そうではない。
ニコが見ているのは響司ではなかった。響司の背後を見て、驚愕しているのだ。
「まさか!」
ひとつの可能性に気づき、響司は慌てて体ごと後ろを向いた。
はたして、そこには響司が期待したとおりの人物が立っていた。
伸びた前髪を風になびかせ、そこに佇むのは、この世にただ一人の兄。
不破恭一だ。
「兄……さん……」
喉から絞り出した声が、まるで別人のもののようだ。
兄は、相変わらず黒塗りナイフのような瞳で見据えてくる。鞘の払われた妖刀じみた雰囲気もいつも通りだ。
火の点いていない煙草をくわえつつ、恭一は静かに口をきいた。
「待たせたな」
待った。本当に待った。
今日も、事件が起きたことを知ってから、このときがくるのを楽しみにしていた。不謹慎と思いつつも、ずっと心を弾ませていた。
口元が、自然とほころんでしまう。
「待ったよ……五年間、ずっと」
響司は、熱くなってきた目頭を押さえ、兄の姿をもっとよく見ようとした。
「兄さん……? その血は」
恭一は、響司の視線を追うように自分の体を見下ろした。純白だった制服は、あちこちが破け、血に染められている。白い部分のほうが少ないくらいだ。ずいぶんと大量の血をしみこませている。
「ああ」
恭一は、気だるそうに返事をすると、口の煙草を胸ポケットにしまった。
「化け物がそこら中で暴れててウザかったんでな。とりあえず全部殺してきた」
こともなげに恭一は言う。
「返り血だと言いたいところなんだが……残念ながら、おおむね俺の血だ。思ったより苦戦しちまった」
「あ、当たり前だよ」
恭一が全部と言うからには、実際に一匹残らず水獣を片づけてしまったのだろう。
確かに、街を満たしていた咆哮や破壊音は、いつの間にか聞こえなくなっている。
信じがたい戦闘力だ。街では、湖よりもさらに大量の水獣が暴れ回っていたはずだ。しかも空中を滑走しているときに見た限り、街にいたのは、さらに強く、巨大な種類の水獣ばかりだった。よく生きて立っていられるものだ。
「兄さん……平気なのかい?」
「傷は直した」
直接的な回答ではない。それが響司を不安にさせた。
恭一の通水が、この五年で特位のレベルまで高められたのは響司も承知している。特位とは、つまり水を材料として錬金術がおこなえるレベルだ。
水を材料に、水獣のような本物の生命体を作れるのと同様、受けた傷をも治療することさえ可能だ。腕をもがれても、特位の通水師なら再生することができる。
だからといって不死身なわけではない。傷は治っても、受けたダメージは疲労という形で必ず残る。あまり負傷と再生を繰り返すと、疲労で通水が使えなくなったり、意識を失うこともあり得る。
全身を血に染めた恭一が、本当に満足に動くことが可能なのだろうか。
心配を口にしようとした瞬間、これまで以上に強い風が吹き、響司の目を閉じさせた。
それまで様子を窺っていた異形どもが、これを好機と動き出したのが気配でわかった。
響司は強風の中懸命に目を開き、状況の確認を急いだ。
左右から、縦長の虹彩を持った化け物が同時に牙をむいて迫ってくる。
飛び退こうとした響司だが、それより先に、異形どもは湖面から突き上がった水の槍によって串刺しにされてしまった。響司が試みて、鱗に弾かれてしまった攻撃だ。
響司は、ハニワのような顔で唖然とし、兄を顧みた。
恭一は、ズボンのポケットに両手を突っこんだ姿勢のまま、興味なさげに左右の化け物を見ている。恭一が息を吐くと、異形を貫いていた槍がただの水へと戻り、形を失った。直後、化け物は全身から血の霧を噴き出し、力を失って湖に沈んだ。
「すごい……」
こうまで格の違いを見せつけられたら、ただ感嘆するしかない。自分が心配するなど、侮辱だったのではないかとすら思えてくる。
「響司」
恭一は、ポケットから出したコインを親指で弾き、それを左手で掴んだ。
表情は、笑みに近い。血に濡れた顔だけに、やたらと凄絶な表情だった。
「行くぞ」
響司は、右手の親指を立てて返事に代えた。
「今日は僕たち兄弟にとって、限りなく辛い日になるだろうけど、心のどこかでは、この日がくることを望んでいたんだ。兄さんと肩を並べて戦う日が来ることを」
それを最後まで聞かずに、恭一は湖面を蹴った。
響司は苦笑し、それに続く。
ついに、五年間止まっていた歯車が動き出したのだ。
腹部を見る。制服には刃物で裂かれたような穴が空いていた。背中を探ってみても同様だ。
白かった制服は見る影もなく、大量の血によって真っ赤に染められていた。
足下の廊下も、血だまりが広い範囲を真っ赤に浸食している。これだけの血を流して、なぜ自分は立っている?
「……? なんで、あたし生きてるの?」
首をひねるばかりだ。わけがわからない。
数メートル先でも、アレンがぽかんと口を開けている。
「な、なんだあ? 確かに殺したはずなのに……」
そんなことを言われても、本人にもわからないのだから説明のしようがない。
制服に穴は残っているが、体自体に傷口は見あたらない。自分でも惚れ惚れするみずみずしい肌がそこにあるだけだ。
「ねえアレン、あたし生きてるみたいよ。あなた、ちゃんと殺したんでしょうね?」
わざと肩をすくめ、冗談めかして訊いてみる。すると、アレンの両眼に鋭い光がよぎった。
「なあに? 逆上するの? しちゃうの?」
戸惑っているのはエルフリーデも同じだったが、それは悟らせない。状況はまったく不明だが、ここでアレンの心理を揺さぶればチャンスになる。それだけは確かだ。
――まずは武器――。そう考えて右手に意識をやった。そこで、蓋の開いた小瓶を握っていたことに今さら気がつく。半分以上がこぼれ、今は喉を潤すほどの量も残っていない。
「まさかこれ……」
小瓶に注意が向いたのを見逃さなかったあたり、アレンもやはり、ただの教師ではなかった。
だが、何度も同じ手を食うエルフリーデではない。
背後からの二度目の刺突は、血塗れの制服をひるがえして難なくかわす。さすがに、一日に二度も死ぬのは勘弁願いたかった。
不意打ちに失敗したルルのブロンドが、ロゼ色の髪に触れるほど近くにある。
エルフリーデは、小さな唇で艶めかしく笑んだ。
小柄なルルを左腕で抱きしめ、右手の小瓶は自らの口に運ぶ。
わずかに残っていた小瓶の水を口に含み、エルフリーデはためらいなくルルに口づけをした。
「うあ……」
アレンが戸惑い呻くのが聞こえる。この期におよんでも、性格は普段と大差ないようだ。
エルフリーデは、ルルの鼻をつまむと口移しで水を飲ませた。
ルルの喉が何度か嚥下したのを確認し、エルフリーデは唇を離した。
効果はすぐに現れた。ルルの瞳が理性の光を取り戻し、焦点をエルフリーデの顔に合わせてくる。
「エルフリーデ……先輩……?」
完全に、ルルはアレンの呪縛から解放されていた。
「先輩……あたし、先輩を包丁で刺して、そしたら仕返しにキスされる夢を見ました」
「キスだけ? そこからが本番なんだから、続きを見てらっしゃいな」
クスリと微笑みながら、エルフリーデはルルの延髄に当て身を見舞ってやった。
笑いながら他人を鞭打つことができるエルフリーデだ。このくらいは小石を蹴るよりも平然とおこなえる。
かくんと力を失い倒れこんでくるルル。
「首のすわらない赤ん坊みたいね」
そんなことを連想しながら抱きとめる。しかし、今は眠る美少女を愛でている場合ではなかった。
アレンの顔を指さし、言ってやる。
「猿がバナナで殴られたみたいな顔してるわよ」
「……なんだい? それ」
意味のわからない比喩で表現された顔を不機嫌そうに歪め、アレンはエルフリーデに対して半身になった。
アレンの放つ雰囲気が、常になく温度を下げた。ピンが甘いと馬鹿にしていた表情が締まり、口調からも気だるさが消えていく。おそらく、こちらが本来のアレン・ヤングなのだろう。
ようやく、対等の立場まで引きずり下ろしたということだ。
「その小瓶……」
「ふふ、素敵なオトコからの貢ぎ物よ」
「そんな……。傷の完全治癒に、傀儡の解放なんて、いくら高位の通水師でも僕の力の特性を把握してないと……」
「そうよ。最近、誰かに自分の通水を見せなかったかしら?」
「まさか……」
アレンが、何かに気づいたように目を剥いた。
エルフリーデも聞いた話だ。実技の授業で恭一がどさくさに紛れてしかけた通水に、アレンは水弾を撃ち返しているのだ。恭一が反撃の水弾を弾かずに掌で受け止めたのは、その水からアレンの力量と通水の特性を調べるためだったのだろう。
小瓶の中身は「癒しの水」だった。それも、アレンの通水を無力化することに特化したものだ。もしもアレン以外の人間が敵だったなら、ルルの催眠は解かれることがなかっただろう。
エルフリーデは、左にルルの小さな体を抱きながら、もう片方の手でロゼ色の髪を艶やかに払い上げた。
髪に染みこんでいた鮮血が、無数のルビーのように美しく散った。
床を染めていた自らの血を使い、エルフリーデは深紅の鞭を作り上げた。
鞭は一旦、中空で文字を描くように踊ってから、エルフリーデの周囲で波打った。
呼応するように、アレンの右手にも大口径の拳銃が形成された。
アレンの表情からは、すでに動揺がぬぐい去られている。むしろ、この状況を楽しむように、口の端が上向いていた。
「エルスターくんは知ってるのかなぁ。力を。圧倒的な力をもった存在というものを」
「そんな存在があるとしても、それはきっとあなた以外の誰かね」
エルフリーデの鞭が床で鳴った。瞳を愉悦に輝かせる。
開戦を告げる、女王の宣言が空気を切り裂いた。
「教えてあげる。強さは、力ではないってことをね。さあ、跪きなさい!」
目の前で起こっていることが信じられない。信じたくもなかった。
犯罪者の兄を持ちながら、幾多の障害をも越えて優しく笑う響司に、ニコは憧れていたのだ。
なのに、その響司は、ニコがこの世でもっとも憎んでいる男と背中を預け合って生き生きと戦っている。
兄であり、親殺しの大罪を犯した不破恭一とだ。
兄弟は、まるで心が通じ合っているかのような芸術的連携で、次々と水獣を屠っていく。怒りを忘れ、思わず見入ってしまいそうになるほどのコンビネーションだった。
ニコの見ている前で、水上の戦いはものの数分で幕が引かれた。
無限増殖でもするかと思われた異形が、拳闘の一ラウンドほどの時間で全滅したのだ。
響司は清々しそうに笑っていた。
恭一は冷めた表情だ。
しかしニコにはわかった。普段と比べると、恭一の頬がわずかだけ下がっている。
あまつさえ、兄弟は互いの拳を軽く合わせ、相手の健闘を称えた。
なぜ、響司は両親を殺した兄のためにああも無防備に笑うことができるのか。ニコに対しては向けてくれたことのない、花が咲いたような笑顔だった。
これは、裏切り――そう、裏切りだ。
沸き上がった怒りは、我慢する間もなくあっさりと決壊した。
「キョウジ先輩!」
元々通る声だったが、今回の叫喚は特に、食料プラントの火災すらも吹き飛ばしかねない声量だった。
男二人がこちらに注目する。いっかな笑顔を崩さない響司が、このときばかりは癇に障って仕方なかった。
恭一が、強風に揺れる前髪の奥で眉根を寄せた。
「響司……どうしてあいつがここにいる」
横の弟を睨んで、責めるような口調だ。
ニコの奥歯が鳴った。強く噛みしめすぎて、こめかみに鈍い痛みが走った。
逆に、響司は悪戯を思いついた少年じみた顔で恭一の苛烈な視線を受け止めた。
「戦力になるって判断したからだよ。彼女だって五年前の事件を経験した一人だしね。のけ者にするのはかわいそうでしょう? それに、彼女の素質は、兄さんも認めているんじゃない?」
「そいつは寝言か? それとも――冗談のつもりか?」
恭一が、血染めの制服をはためかせながら湖畔のニコへと歩み寄ってきた。響司も、乱れた髪をなでつけながらそれに続いてくる。
ニコは一歩も動かなかった。手の届く位置まで不破兄弟がくるのを待つ。
「おい」
足を踏めるほどに近づいてきてから、恭一が声をかけてきた。
「邪魔だ。足手まといは帰ってろ」
黒塗りのナイフを思わせる瞳で睨み、そう切り捨ててきた。
「な……今、なんと……?」
暴力的衝動をギリギリのところで抑え、ニコは食いしばった歯の間から問い返した。
「足手まといだと言ったんだ。これ以上響司の怪我を増やしたいのか?」
その言葉に、ニコの視界が真っ赤に染まった。暴力的衝動が胸の内で荒れ狂い、四肢が理性の外側で勝手に動く。
無意識に放った平手は、恭一の頬で高い音を鳴らした。
頭部が破裂するか体が吹き飛ぶかしそうな一撃だったにもかかわらず、恭一はよろめきもしなかった。血の混じった唾を吐き、平然と無機的な瞳で見下ろしてくる。
「ここは五年前のツェルマットと同じだ。せっかくそこで助かった命を、こんなところで落と――」
「黙りなさい!」
ニコは、恭一のぼそぼそとした言葉を怒号で打ち砕いた。
「何を企んでいるか知りませんが、これだけは言えます! あなたは人殺しだと! そして、わたくしは決して人殺しを信用しませんし、あなたのことを許しもしません!」
気の利いたセリフではないだけに、ニコの気持ちがありのままこめられた言葉だった。
それを受けた恭一は、拳を固めるでも嫌味を返すでもなく、ただ暗い瞳をわずかにそらした。今さら罪の意識が芽生えたとでもいうのか? やめてほしい。
「帰るのはあなたのほうです。それに、一連の事件の犯人があなたではないと、証明できるのですか? ここが五年前のツェルマットと同じと言うのなら、最凶の人物も、同じくあなたなのではなくて?」
少なくとも学園を水壁で閉ざしたのは恭一だと確信している。それに、プラント爆破や水獣の出現についても、これほど怪しい人物がいるだろうか。この街に恭一が現れてから様々な事件が発生している。できすぎだろう。
恭一の後ろで、響司が困惑顔を作っていた。
それを見とがめ、ニコは仇の肩越しに響司の眉間に指を突きつけた。
「先輩もです! どうしてこんな男と肩を並べていられるのです! 今まで、わたくしたちを欺いていたということですか?」
「いや、そうじゃなくてだね、兄さんは――」
「響司」
暗く、有無を言わせない声が割りこんだ。普段は乾いている恭一の瞳が、このときばかりは湿っていたのが、妙にニコの心に引っかかった。まるで自分が泣かせたみたいで不快になる。
「だからおまえ一人でこいと言ったんだ。この石頭が、どうしたら戦力になる? 声がでかいだけが取り柄のヒヨコじゃねえか」
もう一撃、ニコの平手が炸裂した。
今度も恭一はよけようともせず、口から赤いものをひとすじ垂らした。
響司は、自分が殴られたみたいに顔をしかめていた。
前もって、兄弟はこの日のことを打ち合わせていたのだ。今の恭一の言葉がそれを裏付けていた。以前、響司一人しかいない部室から聞こえてきた話し声のことを思い出す。
「もう……いいです」
もう、誰も信じられない。想い人に裏切られ、一体誰を信じろというのだ。優しくはげましてくれた理事長も、笑顔の下で嘲り嗤っていたに違いない。
ニコは、唇を噛んで踵を返した。強風で乱れる巻き毛も気にならない。
ここで泣いたら負けだと思った。さらに強く唇を噛むと、かすかに鉄の味がした。
不破兄弟に背を向けて、ニコはいまだ爆音轟く食料プラントへと足を向けた。
「ニコちゃん、そっちは危ない!」
背中に追いすがってくる響司の声も無視する。兄弟が何を考えているのかは知らないが、のこのこと安全な場所に避難するつもりなどニコにはなかった。プラントの爆発事件を調べ、もしも不破兄弟が犯人だという証拠が出たら、正義の名のもとに彼らに鉄槌を下すのみだ。
どうして、響司に五年前のヒーローの姿を重ねたりしたのだろう。あの日見上げた血まみれの背中は、やはりあのとき失われてしまったのだろうか。
ニコは何度も首を振った。忘れられない言葉がある。
「守ってあげるから、僕の背中を見ていて」
その言葉のおかげで、ニコは今もこうして生きている。しかし、もう守ってもらうだけなどまっぴらだった。戦う力は得たはずだ。一人で、すべてを解決してみせる。そうすれば、きっと過ぎし日のヒーローに巡り会うこともできる。
ニコは、足下を睨みながら決意と回想に身を浸していた。
「危ない!」
そう叫んだのは、不破兄弟の兄か弟か。
はっと我に返ったニコは、湖から伸びてきた触手が胸の前まで迫ってきているのを目に捉えていた。
よけられない。
ニコの心臓が、一際高い音を刻んだ。
瞳孔が拡散し、周囲の光が無秩序にニコの網膜に投射されていく。
そこに見たように思った。憧れのヒーロー、その勇ましい姿を。
閉じた瞼にそれを焼き付けた直後、鉄砲水を食らったような衝撃がきた。
触手に突き倒されたのか、短い落下感のあと、全身が地面に叩きつけられた。背中を打ち付け呼吸が止まる。また、顔には生暖かい液体をかけられた感触があった。
「…………?」
血の臭いは感じるが、痛みはなかった。
目を開けたとき、見上げる形でそこにあったのは背中だった。肩を触手に貫かれ、傷口からシャワーのように血を噴いている。
ニコの記憶をトレースするように、五年前と同じ光景がそこにあった。
散った赤い液体がニコの顔を汚しているところまで同じだ。
ニコを突き飛ばし、身代わりになってくれた背中の主は、もっとも憎むべき悪党だった。
「……キョウ……イチ……」
左肩を貫かれた不破恭一は、荒い息を吐きながら横顔を見せた。
「バカ……が……。俺より前を歩いたら、背中を見せられねえだろうが……」
「あなたは……」
すべてが五年前と重なって見える。
見上げる背中。顔にかかる鮮血。触手と、それに貫かれた左肩。黒髪黒瞳の横顔。
「そんな……まさか……」
ニコは首を左右に振った。そんな現実は信じられるはずがない。
なのに、脳髄に追い討ちをかける一言が降ってきた。
「守ってやるから、俺の背中を見てろ……」
忘れ得ぬ言葉を、不破恭一が口にした。
気絶したルルを人質に取ろうと思うのだが、そうはさせじと深紅の鞭が複雑な軌跡で牽制してくる。
同好会の部室になだれこんで立ち回りを演じたかと思えば、すぐに廊下へと誘導されてしまう。そして、そのときにはすでに、エルフリーデの腕に小柄な少女は抱えられていなかった。
「思ったよりもやるねぇ」
鞭を回避しながら、アレンは顎の無精髭をざらざらとなでた。
右手の銃から透明な弾丸を撃ち出す。
美貌の眉間へと飛んだ弾は、繊手に弾かれ飛沫となった。窓からの光に照らされたそれは、宝石の舞いのように優美だった。
アレンは、荒れた髪をさらに乱すように頭髪をかきむしった。
「あの水の効果……かね」
自分の通水に対抗するために特化された、「反作用の水」とでも呼ぶべき水だ。それを傷口に浴び、体内に取りこんだエルフリーデは、確かに厄介な敵だった。
思わず舌打ちをしていた自分に気づき、アレンは苦笑した。
焦ることなどない。もともと、実力の差は歴然なのだ。負ける要素は見つからない。
弾丸と鞭の応酬を繰り返しつつ後退し、アレンは適当な部屋の中に飛びこんだ。すぐに天井のスプリンクラーを探り当て、そこに破壊の意思を送り込む。血染めの制服姿でエルフリーデが駆けこんでくるなり、スプリンクラーの奥で、水が暴れ狂った。
アレンは、水に標的を指示してやった。
スプリンクラーから追い出された水しぶきは、外敵に群がる蜂のように、ロゼ色の髪の美女に殺到する。
エルフリーデは、回転レシーブの要領で床を転がり、凶器の雨をかわした。よけきれなかったぶんは、通水により弾いたようだ。
入り口の床には釘で打ったような穴が無数に空いた。
アレンは攻撃の手を止め、改めて室内を見回した。どうやらここは物理部の部室らしい。何台かのコンピューターに本棚が二つ。大きいほうの本棚は漫画がぎっしりで、小さい方の本棚に申し訳程度に文献が並んでいた。
アレンには使い道のわからない実験機材が机の上に投げ出され、置ききれないぶんは部屋の隅に積み重ねられていた。無線機やら消火器やら中華鍋やら、がらくたとしか思えないものばかりが乱雑に置かれた部屋だ。
壊れたスプリンクラーが、物理部の備品や私物の漫画雑誌を水で使い物にならなくしていく。
「攻撃はおしまいなの?」
天井からの雨を浴びながら、エルフリーデが髪をうっとうしげに払った。水に濡れた全身が、いやに艶めかしい。
アレンも、スプリンクラーが降らせる雨を服に染みこませつつ髪を後ろになで上げた。
「エルスターくん、同好会の活動目的を言えるかなあ?」
「単純なものだわ。通水師にのみ解決可能なトラブルがあれば、身を投じて人を助けるってね」
アレンは、エルフリーデの怪訝そうな表情を見て質問を重ねた。
「じゃあエルスターくん、なんで、きみは人を助けたいなんて思うんだい?」
「…………」
「トラブルに身を投じるということは、自らを危険にさらすということじゃないかなぁ。赤の他人のためにそんなことをして、なんの得があるのさ」
「何が、言いたいわけ?」
不快そうだが、話に食いついてきた。アレンは内心で手を叩いた。
「人助けなんて、そもそも不必要だと思わないかなあ。むしろ、人なんていないほうがこの星は豊かだったんじゃないかと、僕は思うねぇ。昔から、この星を食い物にしてきたのは人間だし、世界を水没させたのも、核兵器を使用して水の怒りを買ったせいだ。そのせいで、一体何万種の生物が滅びたか……考えたことくらいはあるよねえ?」
「ずいぶんと持って回った言い回しだけど、ようは人の存在を否定したいわけね」
「そんなに話を急がないでほしいなあ」
苦笑して、アレンは顎をなでた。たかだか高校生だが、エルフリーデをこちらのリズムに引きこむのは容易ではない。
「でも、五年前にツェルマットでボランティアに参加してた通水師さまの言葉とは思えないわね」
「調べたのかい?」
秘密にしていたわけではないが、過去を調べられていたとあっては、いい気はしなかった。
「部長がね」
大した情報収集能力だ。確か、不破恭一が通水師であることを調べたのも部長ではなかったか。しかも、素性や経歴を調べられていたということは、始めから信用されていなかったということになる。
「……まあ、昔は僕も人助けを喜んでやるような気色悪い人間だったからねえ。でも、あの街で見た追いつめられた人間の行動、それはそれは醜いものだったよ。もともと僕は性悪説を支持してたんだけどね、実際に人の醜悪な部分を見せつけられると、生きたまま地獄に落とされたみたいで吐き気すら覚えたもんさ」
罵り合い、喧嘩、暴行、略奪、殺人、破壊。弱い者たちが、さらに弱い者から奪い、かわりに暴力を与える。水獣の駆逐に奔走する中で、アレンは嫌というほど見せつけられたのだ。恐怖に駆られた人間の醜さ、汚さを。
「そうさ、人間どもはイザベラまでも……」
アレンは、拳をそばの机に叩きつけた。
合成樹脂製の机が、みしりと耳障りな音を立てる。
アレンは、後衛としてコンビを組んでいた女性のことを思い出す。能力は低かったが相性がよく、かけがえのないパートナーだった。
ツェルマットで人々のために戦った。その彼女が命を落としたのは、水獣との戦いにおいてではない。
「誰の名前……?」
ロゼ色の髪の少女が、降り注ぐ水には頓着せず、髪の貼りついた顔で訊いてきた。
似ていた。すでにこの世にない、かつての相棒に。彼女も、雨に全身を濡らし、寒さに震えながら逝ったのだ。
「人間に……人間に殺されたんだ!」
双丘の谷間めがけて弾丸を放った。瞬間的な怒りがそうさせた。
弾丸は、エルフリーデの胸に届く前に片手で弾かれた。
エルフリーデの両目が、ふと緩んだ。
「あなたでも、怒ることってあるのね。というより、つねに怒りと憎しみを抱いて、その上に別の感情の衣をかぶせていた。そう言ったほうが正解かもね」
笑っていた。それも普段の艶やかな笑みではなく、ぬくもりを感じさせる穏やかな微笑だ。
「どうして……笑うんだい」
「滑稽なくらいどうしようもなく、あなたが人間だからよ」
「馬鹿な。僕は人間であることを捨てたよ。人間は地球の膿だからねぇ。生きているだけで毒を撒き散らす、害虫のようなものだと思わないかい? 人間さえ滅ぼせば、きっとこの星は昔の美しさを取り戻すよ」
「膿は確かに老廃物だけど、もとは白血球だったものよ。それがなければ、生物は生きられないの。それに、害虫なんていう虫は、この世に存在しないわ。人間が、自分に都合がいいか悪いかを分類してるだけ。害虫だからとすべてを駆除しても、生態系が乱れてしっぺ返しとして身に降りかかる。この世は、そういう風にできてるのよ」
「……論理のすり替えだよ」
「なら話を戻すわ。どうして人間を助けたいかっていう質問だったかしら? 簡単だわ。あたしが人間だからよ!」
エルフリーデの足下で、赤い鞭が床を叩いた。話は打ち切るつもりらしい。
アレンとしても望むところだった。これ以上話をしても無駄だということはわかった。やはり、相容れることはない。
そして、アレンの時間稼ぎは成功していた。
室温が三〇度以上まで上昇していることに、エルフリーデは気づいていないだろう。暑さを感じさせないための放水でもあるのだ。
会話をしている間にも、床を濡らす水を徐々に蒸発させていた。湿度は、飽和状態近くまで上がっている。
空気中の水蒸気と水を、瞬時に超高温まで加熱する。それで勝負は決まる。いくらこちらの能力に特化した力を得たとはいえ、地力が違う。水の温度上昇程度なら、こちらは一瞬でおこなう力を持っている。対応する時間など与えない。自分の周囲だけ水の防壁を造り、すぐに室外へと飛び出せば危険はない。美女の蒸し焼きのできあがりというわけだ。
アレンは、表情を隠すために頬を揉んだ。
「きみは知らないだろうねえ。圧倒的な存在というものを。あの方もまた、人の滅びを望んでいるよ」
圧倒的な力の前では、人の意志など塵にも等しい。どんな意志も、どんな夢も、その力の前では踏みにじられるより他はない。
「あの方を知らずに死ねるきみは、きっと幸せなんだろうな。少なくとも僕よりは」
力を行使するためにひとつ息を吸いこんだ瞬間、天井からの降雨が止まった。
「ん……?」
エルフリーデの仕業なのは間違いないが、意図が読めない。
躊躇した隙に、部屋の片隅で異変が起きた。
視界の隅で、エルフリーデの鞭が消火器を砕く瞬間を捉えた。金属が割れる高音とガスが爆発するような音が、後背から聞こえてきた。
「――っ!」
声を上げる間もなく、室内が白い闇に支配された。
リン酸アンモニウムと重炭酸ナトリウムの混合粉末が、内部の炭酸ガスによる圧力で爆発的に拡散した。
目を細め、口元を手で覆って対処する。
白い粉煙の向こうから、笑いを含んだ警告が届けられた。
「アレン、火の気は厳禁よ。下手に火をおこしたら、その瞬間『ぼん!』だからね」
エルフリーデは、どうやらこちらの作戦を読んでいたらしい。室温の急加熱によって粉が連鎖的に発火し、粉塵爆発を起こす。その恐れをこちらに抱かせることによって、攻撃を封じようというつもりか。
「だとしたら、愚かというしか……」
消火器内部のリン酸アンモニウムも重炭酸ナトリウムも、当たり前のことだが不燃性だ。これらで粉塵爆発は起きない。攻撃をためらう理由にはならないのだ。
エルフリーデが物理部室を出た気配のないうちに決めるべきだろう。視界はないが、待避路はわかっている。
「これで……」
呟いた瞬間、粉がわずかにアレンの口に入った。
「なっ! これは!」
不燃性の粉末などではない。小麦粉だった。
アレンは、喉の奥を引きつらせつつ発動寸前の力を引いた。
思い出すのは、エルフリーデたちと歩いた放課後の部室棟だ。物理部の部長が消火器を作ったと後輩に自慢していた。そして、中身が調達できなかったので小麦粉で代用したという会話が脳裏に甦ってくる。
そして、エルフリーデはそれを覚えていて利用したのだ。
「これだから、うちの文化部連中は……!」
舌打ちして、アレンは猫のような素早さで部室を出てドアを閉めた。エルフリーデは、まだ中に潜んでいるはずだ。
「なんて女だ……」
こちらの手を読んでいながら室内を小麦粉で満たすとは。もしもあの粉が小麦粉であることに気づかなかったら、発動した力によって粉塵爆発が起きていたことは間違いない。そして、双方とも命を落としていただろう。
「相打ちの覚悟ができてるとはねぇ」
白粉だらけの肩で息をしながら、アレンは物理部室の壁を廊下から睨み続けた。室内のエルフリーデも同様に攻撃の機会をうかがっているはずだ。
夕方も近づき霧も出ているため、外ではすでに照明に灯が入れられたようだ。廊下の窓から、水銀灯の白い光が差してくる。
息を殺して気配を探ること数秒。
物理部室の壁一面に、突如として無数の亀裂が走った。
「なっ……!」
思わず、口を開けたまま硬直してしまった。その間に亀裂は網の目のように細かく無数に走っていく。
決壊は身構えるより先に訪れた。
地響きのような低い音が室内から聞こえたかと思うと、直後に壁が全面にわたって砕け、飛礫となって襲いかかってきた。
室内の壁を濡らしていた水に、エルフリーデの通水が破壊の力を与えたのだろう。
つくづく大胆な女だ。
壁の破片が全身を叩くのもかまわず、アレンは前方を凝視し続けた。額に拳ほどの石塊が当たり、眉間を血が伝う感触があった。それでも、力を防御に配ることなく透明の銃を構える。
エルフリーデは、次の一撃に賭けてくるはずだ。無傷で甦ったとはいえ大量の血を失った上、本来以上の力を引き出しているのだ。そういつまでも互角の戦いができるはずがない。
「最後だよ。きみのね」
呟いて、アレンは唇を歪めた。
無風ではあるが、徐々に濃密な粉の雲が廊下まで這い出てこようとしている。いっそこちらも煙幕に紛れてしまおうかと考えたが、罠の懸念がある。敵の性格の悪さは身にしみてわかっていた。
右手は銃を構えているので動かせない。
アレンは、左の肘で背後の窓ガラスを叩き割った。
風が吹きこんできて、小麦粉の目くらましをわずかに押し戻した。同時に、水銀灯の白い明かりも割れた窓から射してくる。
それが事態を決定した。
水銀灯の光量が増したためか、白粉の雲の中にかすかな人影が浮かび上がったのだ。
「獲った!」
そうアレンは確信した。時間差もなく、体は動いていた。
爆音のない発砲。風を伐り、透明の弾丸が人影に吸いこまれた。
粉塵を隠れ蓑に不意打ちをするつもりだったのだろうが、窓から射しこんだ照明が仇になったということだ。
運は自分に味方した。アレンは、喉を軽く痙攣させて笑い声を抑えた。
アレンの右手首で鈍い破砕音がしたのはそんな折だった。
「――え?」
口元を歪めたまま右手首を見たアレンは、笑顔のまま表情を凍らせた。
腕に深紅の鞭が絡みついている。そして、関節でもないその場所から腕がぶらりと垂れ下がっていた。
激痛は直後にきた。
「ぐああああああっ!」
笑い声をこらえていたはずの喉が、意識とは無関係に苦痛の叫びを迸らせた。
鞭が解かれると同時に右手の銃が霧散した。
左手で右腕を抱えこむ前に、二撃目が下方から襲いかかってきた。
蛇よりも怪しく不気味な動きで、深紅の鞭が上半身に巻きついてきた。抵抗する余裕はなかった。恐怖に身震いしたときには、すでに死神の鎌は振るわれたあとだった。
鞭が生き物のように締めつけてくる。気圧が百倍になったような圧迫に、全身が悲鳴を上げる。両腕が折れ、あばらも数本持っていかれた。内臓のダメージも無視できない。
「――かっ!」
強引に肺の空気を圧し出され、その際にアレンは喀血した。
鞭が白煙の中に引き上げるなり、世界がぐらりと傾いた。
自分が倒れたことはわかったが、現実に起こった出来事が理解できなかった。
「僕の、攻撃のほうが……先、だったのに、なぜ……」
這いつくばった姿勢から立ち上がり、エルフリーデは忌々しげに鼻に皺を寄せた。足早に白煙から脱すると同時に、鞭をしならせて物理部室の窓を片っ端から割りまくる。
アレンが割った窓から吹きこんだ風が、小麦粉をともなってエルフリーデが割った窓へと抜けていく。
「あーあ、一気に総白髪になったみたい。服の中まで粉っぽいし」
自分の撒いた種とはいえ、不快なものは不快だった。軽く咳をして喉の奥をすっきりさせながら、エルフリーデは急速に薄れていく小麦粉の雲に視線を流していた。
それから、床に伏して呻き声を上げる顧問教諭に興味を移す。
アレンの両腕とあばらを砕いた感触は、生々しく手の中に残っている。内臓も無事ではないだろう。特位でもないアレンの回復力では、身じろぎひとつするのも困難なはずだ。
表情に出さないよう努めているものの、エルフリーデのほうも疲労がひどかった。傷は完全に治っていたが、出血による体力損耗までどうにかなるものではない。正直、立っているのも辛い。意志に反して膝が笑っている。それどころか、気を抜けば意識を失いかねない状態だ。
それでも、表情が弱気にならないよう意識して顎を上げる
「跪きなさい……と言いたいとこだけど、それすらできないくらい無様にやられちゃったみたいね」
他人事のように言うのは、まさに他人事だと思っているからだ。あんな悲しそうな顔をされてしまっては、そうでも思わないと倒したことに罪悪感を覚えてしまう。
「く……僕は、なんで、負けた……?」
苦しげに喘ぐアレンを見て、エルフリーデは吐息をこぼした。少しは嗜虐心が沸いてくるかと思ったが、そういう気にもなれない。
アレンが、戦いの最中に女の名前を口にしたから――だろうか。自分にそんなセンチメンタルな一面があるとも思えないが。
先ほどの会話からすれば、アレンが人を忌むようになったのは五年前にツェルマットへ赴いたことと関係がありそうだ。大切な女性を、殺気立った難民に殺された。そんなところか。女性だったのだから、ただ殺されたというだけではないかもしれない。
エルフリーデは、哀れみを含んでしまいそうになる視線を外すために、肩にかかる髪を払った。都合よく、散った小麦粉が表情を隠してくれた。
「ブロッケン現象を知ってる?」
「なん……だって?」
アレンは、眉間に線を刻みながら怪訝そうに床から見上げてきた。
「登山者にはよく知られた気象光学的現象よ。前方に霧がかかってるときに背後から太陽の光を受けると、観測者の影が霧のスクリーンに映し出されるの」
「それじゃあ……まさか……」
「そう、あなたが撃ったのは、あなた自身の影だったのよ。今日は太陽が顔を見せてないし、時間帯も夕方が近かった。外は、水銀灯が点灯される程度には暗かったわ。だから、あたしは白い煙幕を張って部屋の壁を取り払ったのよ。そして、あなたは自分のところまで粉が押し寄せてくるのを嫌って廊下の窓を割った。すぐ背後に水銀灯が点灯されていたのにね」
「そんな……」
「あたしは、ずっと床に伏せて機会を窺ってただけよ。あなたは灯りを受けて生じた自分の影に向けて銃を撃ったってわけ」
アレンが愕然とするのを見て、ようやく、わずかに気分が軽くなってきた。しかし、今度は努めて瞳の温度を冷やし、無表情を装う。
人が人を憎悪するということは、実はそれほど珍しいことではない。その罠に嵌ったアレンを、エルフリーデは嗤うことができなかった。
「もともと、通水師には人に失望してしまう人が多いしね……」
アレンに聞こえないよう、エルフリーデは口の中だけで独りごちた。
通水師は、水に溶けこんだ始源からの情報を引き出すことができる。そしてそれにより、人類の過去に触れてしまう者も多い。
人類の歴史を見れば、人という種に失望しても不思議ではない。そもそも、この世界が水没したのも人の愚かさが原因なのだ。人の業を見て人に幻滅した通水師は、アレンのように世界に仇を成そうと考えることがある。
アレンの場合は、情報を引き出したことよりも、実体験として人の醜さを味わったのだから事情は異なるだろうが。
エルフリーデは、今度ははっきりとアレンに向けて、斬りつけるように言葉を放った。
「それでも、あなたは人間なのよ。そして、あなたが大切に思う人もね。人を憎むことは、あなた自身と、その人までも貶める行為にほかならないわ」
アレンはわずかに目を剥いたようだが、エルフリーデの言葉が届いたかどうかは、表情からは窺えなかった。
アレンが、腹を上にして床に寝そべった。その顔が安堵に満ちているように思えて、エルフリーデは片眉だけを器用に上げた。
本当は、アレンも誰かに止めてもらうのを待っていたのかもしれない。そう思うと、エルフリーデは苦くもないのに渋い表情になってしまう。
敗者が微笑み、勝者が顔を歪ませる。
アレンが、目を閉じて穏やかな声をかけてきた。
「エルスターくん、きみは、僕を殺すべきだ」
ようやく、エルフリーデは整った顔に笑みを浮かべる気になった。
「黙りなさい。あたしは人の言いなりになるのが何よりも嫌いなの。それが敗者の言葉ならなおさらだわ。あなたをどうしようと、勝者であるあたしの勝手よ」
勝ち誇った妖艶な笑みをたたえて、エルフリーデは横たわる敗者を見下ろした。
アレンは、閉じていた瞳を軽く見開いたあとで、すぐに表情を変化させた。諦めたような、あるいは感謝をするような笑顔だった。
「エルスターくんは、知っているかい。圧倒的な、存在という……ものを」
エルフリーデは、戦いのさなかに交わした会話を思い出す。
「さっきもそんなことを言ってたわね。あなたが言ってた『あの方』とやらが、その、圧倒的な存在だとでも?」
アレンの顎が、かすかに縦に振れた。
「なら、詳しく聞かせてもらいましょうか。言っておくけど、敗者に黙秘権はないわ」
苦笑して頷くアレンの顔は青い。怪我の影響だろうが、エルフリーデは容赦をしなかった。アレンのほうも、苦しげでありながら音をあげようとはしない。
そうしてアレンの話を聞き終えたときには、エルフリーデの顔も、自身の瞳の色のように冷たく青ざめていた。
「あの兄弟……なんてものを背負いこんでくれたのよ……」
少年は、ニコをかばって左肩を触手に貫かれた。大量の鮮やかな深紅が飛び散って、ニコの顔を汚した。
悲鳴を上げそうになったニコを、優しい笑顔が落ち着けてくれた。そのときに少年が口にした言葉は、今も鮮明に心に刻まれている。
「守ってあげるから、僕の背中を見ていて」
そのときから、少年はニコだけのヒーローになった。ニコは、少年に少しでも近づきたくて通水を修行し、正義の味方を志すようになったのだ。
もう、守られてばかりではいない。自分は、人を守ってあげられる力を手に入れたのだ。
そう思っていた。
しかし、現実は思い通りにはいかなかった。入学式の日も、いつかの学校の屋上でも、暴漢を倒したのは恭一だった。また、プールで水獣になりかけた水から間一髪で救ってくれたのは響司だった。貯水池で水獣の群れと戦ったときは、自分のミスから響司を傷つけてしまった。その響司の危機を救ったのは、恭一だった。
そして今。五年前と同じ光景が目の前にあった。それが、自分が少しも成長していない証のように思えて惨めになってくる。
「怖いのか。だったら俺の背中だけを見てろ」
脳髄に氷を刺しこまれたような衝撃があった。
認めたくない。しかし、直感が告げているのだ。
不破恭一こそが、五年前にニコの命を救った少年にほかならないと。
他の人間では、同じ状況でもこれほどの既視感は得られなかっただろう。恭一の瞳を見るたびに胸の奥でざわついていた憎しみとは別の感情。それは、懐かしさだったのだ。
また、ニコは恭一の左腕が、右腕に比べてわずかに反応が鈍いことを思い出した。授業で模擬戦をやったときに気づいたことだ。それは、五年前にニコをかばって左肩に大怪我を負ったせいではないのか。
だが、両親を殺してツェルマットの悲劇を起こした不破恭一と、ニコを救ってくれたヒーローがどうしても結びつかない。ニコの頭は、煮こみすぎたシチューのように混ざり合い、乱れていた。
見れば、恭一はすでに前方へと厳しい視線を飛ばしている。
その視線の先にいたのは、湖畔に立つ、完璧な美貌を持った少女だった。ニコよりも一つか二つ、歳が下に見える。
寒気を通り越し、恐怖さえ覚えるような美少女だ。水晶のごとく白く透明な髪に氷河の色をした瞳が印象的で、石膏のようになめらかな肌からは、人特有の暖かさは感じられない。それは彫刻のような、造形美と表される類の美であった。
美少女の姿を一目見た瞬間、ニコは空に潰されるような圧迫感と恐怖を感じ、体の震えを止めることができなくなった。ただ、確信に似た思いが津波のように胸に打ち寄せるのみだ。
――殺される、と。
恭一の肩を貫く触手は、蔦のように伸びた少女の人差し指だった。彫刻のように変化のない表情が不気味だ。
不意に、ニコは肩を叩かれ息を飲んだ。喉まで跳ねた心臓を飲みこむようにして、ニコは横を見上げた。
響司の穏やかな顔がそこにあった。響司の顔からは緊張は窺えるものの、恐怖に圧されている気配はなかった。
「せ、先……」
「ニコちゃん、僕らは、ここを動いちゃいけない」
それに逆らう気は、まったく起きなかった。だいいち、震えがひどくて立ち上がることもままならない状態だ。いつものように、正義の御旗を掲げて立ち回るなど到底できない。
「僕はこれから、兄さんの後衛として全神経を戦いに向けなきゃならない」
「で、でも先輩は普段は前衛では……」
響司は、静かに首を振った。
「兄さんと組むときだけ、僕は後衛になるんだ。僕の力を余さず使うことができるのが、今のところは兄さんだけだからね。そして、ニコちゃんには、僕のフォローを頼みたいんだ」
「そんな、わたくし程度ではなにも……」
「できるさ。ニコちゃんならね」
言った途端、響司は、糸の切れた人形のように脱力して倒れかかってきた。
「先輩っ?」
慌てて響司を抱きとめたニコは、戸惑いのあまり余裕などないはずの恭一を仰ぎ見た。すると、再びニコの顔に生暖かい赤が降りかかってきた。
響司の左肩から少女の指が引き抜かれたところだった。掃除機がコードを巻き取るように、少女の指も湖畔の彼女のもとに素早く戻っていく。
恭一は、それを信じがたい速度で追い、左の拳を美少女に見舞った。肩の傷は、すでにふさがっていた。
少女は、紗の布を幾重にも重ねたような服をなびかせ、水の上を滑るようにして攻撃をかわした。
常軌を逸した速度で動く恭一を見て、ニコは悟った。響司は、力のすべてをバックアップに割いたために倒れたのだ。自力で立つ力さえも、兄のために使っている。
「フォロー、ですか……」
確かに、立つことすらできないようでは誰かが守ってやらなくてはならない。響司は、それをニコに任せてくれたのだ。
そこまでしないと倒せない相手とはどういった存在なのか。ニコは、美少女の姿をした化け物が恐ろしく、それを紛らすために恭一の背中を見つめ続けた。
通水師どもを分断するつもりで学園内に配下を置いたというのに、思惑は半分以上が外れたようだった。配下が引き止めに成功した通水師は、たったの一人だけだ。兄弟を引き離したかったのだが、やはり人間の配下ではあてにはならなかったということか。
また、通水師の養成を掲げた学園は、それ自体が脅威でもある。そのために大量の水獣を生み出して破壊を目論んだのだが、それも果たせなかった。材料となる堀の水は、恭一によって先に防壁として利用されてしまったのだ。思いの外強固な防壁だったため、学園内に侵入できた水獣は一匹もいなかった。そうこうしているうちに、生み出した水獣はすべて恭一に討ち取られてしまった。
美少女は、整いすぎた眉と眉の間を寄せて不快さを表現した。人間だった頃の仕草や癖といったものはなかなか抜けてくれない。
拳を空振りした恭一が、挑むような双眸で見下ろしてきた。
「五年ぶりの再会かと思ったんだがな。その姿はなんだ? 油断でもさせるつもりだったのか?」
久しぶりに聞いた声は、ずいぶんと雰囲気が変わって感じられた。声変わりだけではなく、口調がすっかり変わっている。
弟のほうも、先ほど少女と話していたのを聞くかぎりではだいぶ変わったようだ。昔は、兄のほうが穏やかに喋り、弟が乱暴でぞんざいな口調を用いていた。
その変化を、美少女は寂しいとは思わなかった。そんな感情はとうに捨てている。
「この年頃の娘こそが、人のもっとも美しい時期であるゆえ。そうは思わぬか?」
「人を滅ぼそうと目論んでいるくせに、人の姿か」
「神は、自らの似姿として人を作ったという。これは人ではなく、神の姿だ」
「神を信じる通水師なんざ、いてたまるか」
「ならば、私が神になろう。管理者たる私なら、その役にも相応しかろう」
宣言し、管理者は強風になびいていた白髪をなでつけた。
「だれが、おまえなんぞに管理して欲しいもんかよ。クソ親父。それともお袋か」
「どちらも不適切だな。私はすでに貴公たちの親ではない。人ですら、な」
だから、目の前の兄弟を殺すことになんのためらいもない。世界浄化の邪魔をするというのであれば、排除するより他はないのだ。否、人間である以上は例外なく処分対象だ。
確かに五年前まで、自分は二つの体と二つの精神を持った人間だった。しかし、水と究極の共鳴をおこなった瞬間に生まれ変わったのだ。まず、肉体という殻を破り、まったく新しいひとつの体を手に入れた。精神も融合し、より高度な水との共鳴がおこなえるようになった。完全に、人を越えた存在だ。
「水に溶けた情報のすべてを見た私だからこそわかる。人は、地球という星に破壊と汚染しかもたらさぬ。滅びるべき種なのだ」
「……だから、それをおこなう自分は管理者だってか。ふん、自分を神だとか抜かすヤツに限って信用できたためしがねえぜ」
管理者は、押さえていた氷河のごとき髪を払い上げた。強風のため髪が銀色の河のように流れる。少しだけ苛立った瞳を恭一に向け、鈴のような声で告げた。
「理解しろとは言わぬ」
「人の理解を諦めるとは、全知全能の神さんにしては情けねえな」
恭一の右手に、透明な刃を持った刀が現れた。刀身が恭一の身長ほどもある長刀だ。
冷たい輝きを放つ切っ先を、恭一は不敵な笑みで突きつけてきた。
応じて、管理者も右手を目の高さまで掲げる。色白の腕が、たちまち変質して透明の輝きを放った。水晶のような拳を、強く握りこむ。
「五年前はこの体に不慣れで不覚を取ったが、今回はそうはいかぬ。しかも、今回はたった一人……。結果は見えている」
「一人じゃ……ねえよ!」
恭一が、彼我の距離を瞬時に詰めて刀を振るってきた。特位の通水師にしても、そのスピードは異常と言ってよいものだった。
閃光のような剣撃を右腕で弾きながら、管理者は反撃の蹴りで風を起こした。
恭一の頭部が、熟れた果実のように爆ぜ割れるかと思われた。しかし、それは刹那に見えた錯覚だった。管理者が蹴ったのは、後方回転で飛びすさった恭一が残した残像にすぎない。
「やはり、兄弟を引き離せなかったのは失策だったようだな」
恭一のみなら、特位といえど蟻を踏むくらい容易に殺すことができる。問題は、弟の能力だ。
仮にも親だったのだ。響司の能力はよくわかっている。響司は、生まれつき脳が異常に発達しているのだ。知識の吸収や情報処理能力は、本人さえ限界を把握しきれていないだろう。
もともと通水師は水から情報を引き出し、それを改竄することで能力を発現させる。その際に脳にかかる負荷は計り知れないほど大きい。ところが響司の脳は、それを一桁の算数をおこなうがごとくたやすく処理してのける。世界的にも珍しいタイプの変異体なのだ。
今、恭一は通水に関わる情報処理を響司に任せているはずだ。神にも等しい力を持つ自分と互角に渡り合えるのはそのためである。遠隔で情報処理をさせるためには精神の同調が不可欠だが、兄弟であるためか、その点でも問題はないようだ。
「しかし……人には限界というものがある」
管理者は、自らの周囲に数十本の水の刃を出現させた。同時に水面を蹴り、恭一へと迫る。
旋風をともなう拳を、すれすれのところで恭一にかわされた。頬にひとすじの傷をつけ、黒髪が数本、強風の中を飛ぶ。続いて払った脚も寸前でよけられたが、恭一の体勢がわずかに崩れた。
管理者は、そこにありったけの水の刃を殺到させた。それは、さながら獣に襲いかかる蜂の大群のようだ。
白い耳に心地よく、恭一の舌打ちが届く。
恭一が太刀を振り上げると、無数の弾丸が周囲に生じ、管理者の刃と激突した。
水音とは思えない低音が轟き、広大な水面に大きな波が立った。
しぶきの中から銀光が疾ったのを、管理者は見逃さなかった。
恭一の剣撃を、透明な右手で受け流す。その音が鳴りやまないうちに、管理者は掌から、赤ん坊の頭ほどもある水の球を生み出し、低い砲撃音とともに撃ち出した。
球は恭一の左肩をかすめ、いまだ炎上を続ける食料プラントの外壁に命中した。
特殊コンクリートの巨大建造物が、風船のように膨張した。かと思うと、直後には破裂と表現するよりない、奇妙な破壊の餌食となった。爆音とともに無数の破片が飛散し、それが治まった頃、そこには広壮なる空き地が拓けているのみだった。
冗談のような光景だが、これを喜劇と感じるほど管理者も趣味は悪くない。内部には消火活動にあたる人々もいたはずだが、彼らにとっては悲劇、あるいは惨劇以外のなにものでもないだろう。
「おおおっ!」
恭一が、右手だけで握った長刀を叩きつけてきた。球がかすめた左肩は、しゅうしゅうと音を立てて高速の治癒がおこなわれている。
軽く刃を蹴ってやり過ごしたあとも、絶え間なく斬撃が繰り出されてきた。そのすべてが必殺の気迫を秘めていたが、軽いステップで苦もなく対応できた。水面から飛来した弾丸や刃は、左右の手で叩き落とす。
管理者は、美貌の中で冷笑した。
「貴公では私には勝てぬ」
管理者は、指を一本立てて告げる。
「一つ目の理由。五年前は貴公以外に、特位が二人、一位が六人いたものだ。しかし今回は、多くの通水師が世界各地に出払っている。このたびの戦い、無理があったとは思わぬか?」
「五年前の俺だとは、思わねえことだ!」
横薙ぎの一閃を、管理者は二本の指で挟んで止めた。そのまま刃を押し返し、二本の指を恭一に見せつけてやる。
「二つ目の理由。貴公は、学園を水獣から守るために大規模な障壁を築いた。あれほどの力を使えば、消耗は避けようもない。そして……理由の三つ目だ」
管理者は、肩で激しく息をする恭一を見上げて、ゆっくりと三本目の指を立てた。
「出血をともなう傷を、今日だけで何度負った? 街に放った水獣は、特位の通水師とて一筋縄ではいかぬものばかり。水の力を借りて傷はふさごうとも、失った体力と生命力はどうにもなるまい」
「そんな、ヤワな鍛えかたはしてねえよ!」
そう言って斬り上げる剣閃は、なお苛烈だったが、顔からは血の気が失われつつあった。
刃を受け止めた腕で、四本目の指を立てた。
「そしてこれが最大の理由」
反対側の掌を、管理者は響司と、彼を支える蜂蜜色の髪の少女にかざした。
小さな水の球を生成する。それを拳大まで膨張させると、予備動作もなく撃ち出した。
「ちいっ!」
射線上に、恭一の左手が割りこんだ。
赤熱した鉄板に水をかけたような音がした。
筋肉を鎧っている恭一の体が、テニスボールのように軽々と、畔近くまで飛ばされた。水しぶきが盛大に上がる。
浅瀬なので沈むことはなかったが、にわかに立てないほどにはダメージを与えたようだ。一応通水で相殺したようで、その証拠に肉体は人の形を保っている。
管理者は、恭一がもう一度水面の上に立つまで、黙然と待ってやった。
頭を切ったのか、恭一の顔は、左側が鮮紅に染められて凄惨さを極めていた。二本の脚で立ち上がり右手で太刀を構えつつも、左腕は力なく垂れ下がっていた。左腕は各所から血を噴き、なかばちぎれかかりながらも急速に再生をしているようだ。恭一の能力ならば、しばらく待てば左腕は機能を回復するだろう。
「頭脳を守りながら戦わなくてはならぬ、それが貴公のアキレス腱だ。水から送られてくる膨大な情報をすべて弟に任せることで、潜在能力を引き出している。そのおかげで弟は五体を動かすこともままならず、自分の身も守れぬ。粗末な闘法だな」
さらに言うなら、なぜだか恭一は左腕の反応がほんのわずかだけ遅い。先ほどから左腕をよく怪我しているのは、その影響だろう。
すでに、恭一の顔は蒼白となっていた。喘ぐように呼吸をする姿からも、体力の限界が近いことは明らかだった。
管理者は、仮面のような顔に微量の笑みを刻んだ。
「私は、ひとつの肉体に二人分の頭脳を備えている。貴公とは違うのだ」
言うと、管理者は左腕をも透明に変質させた。ついで、長い白髪も光を透過させ始める。長髪が河のように波打った。
「青き星のため、滅びるがいい」
水面を蹴り、はじめて管理者のほうからしかけた。
ニコは、全身の力を失った響司を地面に座らせ、大きめの岩にもたれかけさせた。そうしながらも、碧天色の瞳は恭一と美少女の戦いに固定されている。
「わたくしは……なんて、なんて愚かなのでしょう……」
力のない声と表情で呟いた。
恭一は秘匿しておきたかったようだが、これで真相に気づかないほど頭は悪くない。
五年前、恭一は特位の通水師だった両親を殺害した。その結果怒れる水が暴走し、ツェルマットの悲劇は起こった。
それは嘘だ。
真実はこうだろう。特位の通水師だった不破夫妻は、何らかのきっかけで水と高度の共鳴を体験した。その情報の渦の中で見た地球の歴史に毒されたに違いない。地球を汚す人類に、嫌悪を抱くようになったのだ。そして夫妻は互いの肉体を限りなく水に近いものへと変え、融合を果たした。それが管理者の正体だ。
ツェルマットの悲劇は、管理者が引き起こしたものだ。水獣が暴れ回った状況も、今日のカシミールとそっくりだ。
そして恭一は、ツェルマットの議事堂でニコの命を救ってくれた少年にほかならない。その少年が、なぜ殺人犯の汚名を着て世界中からの憎悪を浴びる羽目になったのか。その推測も難しくない。
通水師というのは、その能力故に羨望と畏敬の目で見られるものだ。しかし、人が自分より優れた人物を妬み、ときには憎んだりするのもまた事実なのだ。通水師が迫害を受けていないのは、ひとえに努力のたまものだ。力を人々のために使うという姿勢と宣伝が、現在の通水師の地位を保っている。
当時、不破夫妻は通水師の顔ともいうべき存在だった。他の特位は素性を伏せられていたが、彼らは宣伝の役を負っていたのでメディアへの露出も多かったのだ。
その彼らが人類の敵になったとわかれば、世界中の通水師が迫害されることになる。
そこでスケープゴートに選ばれたのが恭一というわけだ。息子たちまで通水を扱えることは一般には知られていなかったから、好都合だったろう。それに、ツェルマットの被害者には、わかりやすい形の犯人が必要だった。憎しみの向かう先が明確なことによって救われた人、というのもいるだろう。
事件の真犯人は、このようにしてすり替えられたのだ。
案の定、夫妻への同情という方向へ世論は傾き、恭一は世界中から憎まれた。
ニコも、恭一を憎んだ。「人殺し」と罵りもした。殴りもした。
ニコは、響司の手をきつく握って唇を噛みしめた。
響司が目の前で兄の話をされるのを嫌った理由がわかる。他人が口にする恭一の話題は、すべてが悪口だからだ。兄の無実を知りながら真実を話せない。響司も辛かっただろう。
恭一と会ったときに表情を険しくしていたのは、ジレンマからくる苛立ちだったのだ。また、ファミリー・ネームを呼ばれることを嫌っていた理由は、推して知るべしだ。両親を思い出したくなかったのだろう。
恭一の態度も徹底していた。ことさら人の反感を買う態度をとっていたのも、無辜の人間を遠ざけようという意図からきていたのだろう。頻繁に暴力を受けていたのは、人の憎悪の受け皿という役目故か。でなければ、自分の平手がああも簡単に当たるはずがない。
理事長が自分のことを聞き及んでいたのも、恭一が五年前のことを話したからだとすれば納得がいく。
恭一が現れてから不審な出来事が続くと思っていたが、それも逆だったのだ。事件の兆しが見え始めたから、恭一は弟のそばで管理者が動くのを待っていたのだ。
何度目になるか、戦場で再び鮮血が散った。それが強風に舞い上げられ、赤い霧となった。恭一の左腕が、ざっくりと裂かれている。
ニコの心が、罪悪感に締めつけられた。
左腕の動きがほんのわずかだけ鈍いのは、昔ニコを庇ったときに負った怪我が原因だろう。通水によって治癒はしても、大怪我の記憶が枷になることがある。完治しているのに以前と同じように動かせないというのは、よくある話だ。
恭一の太刀が、先ほどよりも短くなっている。能力が尽きかけているのだ。
依然激しい攻防は続いていたが、明らかに恭一のほうが劣勢だった。
水蒸気爆発や冷気の刃など、双方の攻撃は激しさを増すばかりだ。しかし、傷を増やしていくのは恭一ばかりだった。管理者が五回攻撃する間に、一度反撃する。ジリ貧だ。
左腕、額、脇腹、腿。各所から血を流し、恭一の姿は痛ましい。治癒の速度も、目に見えて遅くなっている。もう限界だ。
それなのに、恭一は管理者の前に立ちはだかり、ニコに背中を見せ続ける。五年前からの言葉を、守り続けているのだ。
助けに入りたい。しかし、ニコなどが割りこんでも小指一本で殺されてしまうだろう。
管理者の髪が無数の刃となり、恭一の長刀と衝突した。
恭一の刀が、超音波寸前の高音を響かせて砕け散った。
さらに、恭一の胸から大量の血が噴き出したのを、ニコの視力が捉えた。死角になっているが、管理者の手刀が恭一の胸に沈みこんでいるように見えた。さらに管理者の蹴りが恭一の腰に命中した。
恭一の体が、まっすぐに飛ばされてきた。手前の水面に叩きつけられ、二度、三度と跳ねてニコのいる畔まで転がってきた。
「キョウイチ!」
響司のそばを離れ、ニコはボロ雑巾のような恭一に無我夢中で駆け寄った。
「兄さん……」
それまで意識のなかった響司が、頭を押さえながら小さく呻いた。兄との精神接続が途切れたのだろう。
苦しげに喀血する恭一の上体を、ニコは傷に障らないよう気をつけて抱え上げた。制服が汚れるのも構わず怪我を見分していく。
ひどい状態だ。全身を裂傷、火傷、凍傷が埋め尽くし、出血も尋常ではない。
最後に負った胸の傷が、もっともひどかった。白い制服が、そこを中心に赤に浸食されていく。
「もう、治癒の通水も……」
そんな力は残っていないのだろう。息は弱々しく、ナイフのようだった瞳には力が灯っていない。
「ど、どうすれば……」
困り果てたニコの腕を、掴む手があった。冷たいが、力強い手だった。
「どいて……いろ。奴と戦えるのは、俺……だけだ」
恭一が、ニコの腕の中で身をよじる。胸の傷から、一際大量の血があふれ出した。
「そんな! これ以上動いたら本当に死んでしまいます!」
「黙れ……。おれは世界でただ一人、死に方を……選べる、死刑囚なんだよ……。おまえは、俺の背中を見ていろ。最初に、そう、言っただろうが……」
確かに言われた。五年も前に。
しかし、五年前のニコ・リヴィエールはここにはいない。
「わ、わたくしとて、いつまでもヒーローの背中を見ているだけではありません」
ニコは、胸元に飾られた制服のリボンをほどき、恭一の胸に巻きつけた。包帯のかわりにもならないかもしれないが、そうせずにはいられなかった。
ニコは、恭一に代わって立ち上がった。湖上の管理者は、余裕をみせているつもりか、仮面のような顔でこちらを観察している。
「わたくしは、ヒーローと肩を並べて戦えるようになりたかった……。いえ、わたくし自身が、ヒーローと呼ばれるようになりたかったのです」
管理者を睨みつける。
足も手も、抑えが効かないくらい震えていた。五年前を上回る恐怖が、正面から暴風のように吹きつけてくる。
恭一が、苦しげに身じろいだ。
「馬鹿が……。おまえに、死なれるわけにはいかねえんだよ……」
「死人の頼みだからですか? でも、勝つのはわたくしです。なぜなら、わたくしは正義なのですから」
もちろん虚勢だ。それでも、もう恭一が傷つく姿は見ていられない。
「一人で、すべてを背負おうなんて考えないでください」
もう、十分に傷ついたはずだ。これ以上心を削って生きていくなんて悲しすぎる。
それまで静観していた響司が、恭一の傍らに歩み寄って膝をついた。響司は兄の胸ポケットから一枚のコインを取り出した。恭一が頻繁に手の上で転がしていた硬貨だった。
「ニコちゃん、これを」
「響司、てめえ……」
呪うような恭一の声を無視し、響司が硬貨を放ってきた。
反射的に受け取った硬貨に目を移すと、思った以上に古く、手あかにまみれていた。マジックで文字が書かれていたが、すでに消えかかり、相当読みづらくなっている。
「これは……?」
「そのうちわかるよ。僕は、兄さんとは違ってきみには戦ってもらうつもりでいたんだ。そのために連れてきた。きみの素質は、本当は兄さんも認めてるんだ。ただ、危険な目に遭わせたくなかっただけなんだよ」
「響司、よけいな、ことを……」
「それを持って、戦ってほしいんだ」
兄弟を交互に見る。ニコは逡巡しなかった。ニコだって、始めから戦うつもりで響司に同行していたのだ。どんなに不利でも、決意が変わることはない。それに、不利を跳ね返して勝利するのが正義の味方というものだ。
「キョウイチ、大切なもの、しばらく借ります」
そっと、コインを制服の胸ポケットに落とした。
いつまでも喋ってはいられない。恭一の治療を急ぐ必要があるからだ。
恐怖に魂を砕かれないうちに、ニコは土煙を残して戦場に身を躍らせた。
「今度は、わたくしが背中を見せる番です」
その一言を残して。
傍らで、響司が力を失って倒れた。
同時に、弟と精神が繋がったのが実感できた。天空から世界を俯瞰するように、大地のすべてを見渡せる。
「普段は……フェミニストなくせに、こんなときは手段を選ばねえ……」
恭一は、弟のあざとさに舌打ちした。まさかニコを戦力として連れてこようとは。確かにニコの素質はずば抜けているが、戦わせることに抵抗があった。ニコの父親から頼まれた以上、極力危険にはさらしたくなかった。
「俺が不甲斐ねえからか……」
恭一は、傷口に巻かれているリボンに手を置いた。出血は多いが、かろうじて急所は外れている。胸に入れていた硬貨のおかげだ。
もう一度だけ舌を打つと、恭一は朦朧とする意識を集中させはじめた。ニコが戦場に向かってしまったからには、もはや躊躇する段階ではない。
「まさか、この俺が後衛をやることになるとはな……」
赤い唾と一緒にそう吐き捨てて、恭一はコインのありかへと精神を飛ばした。
湖面を蹴る脚が、前触れもなく軽くなった。
同時に、視界が急激に開ける。
一歩ごとに蹴り足が強くなり、蜂蜜色の髪を置き去りにしそうな速度を得る。
卓越した視力が捉えるもの、そのすべてを負荷なく認識することができる。脳で命じた動作にも、抵抗がまったくない。
脳の処理能力が、いきなり数十倍になったかのようだ。全力で体を動かしても、ほとんど脳への負担を感じない。
優れすぎた視力が、今だけはまったく足枷になっていないように感じるのだ。
響司の能力にアクセスしたのだろうか。しかしどうやって。
考えている間にも、管理者との距離は詰まっていた。
慌てて通水を使う。ニコの右手に、幅広の剣が出現した。普段の感覚で通水を使ったのが悪かったのか、体に不釣り合いな巨大な剣になってしまった。
再構築の暇はない。管理者はすでに間合いに入った。
ニコは剣を横薙ぎに払った。これも無意識だったにもかかわらず、剣は何十年も修行した者のそれのように理想的な軌道を描いた。
透明な右腕でガードした管理者が、ゴムボールのようにあっさりと弾け飛んだ。
「――え?」
ニコは仰天して口を開けた。飛ばされる寸前の管理者の顔も、無表情から驚愕へと変化していたのが見えた。
自分の力に戸惑いながら、ニコは湖上を疾走する脚に制動をかけた。響司の能力が働いていることに疑いの余地はなかった。
世界がクリアに見え、細胞のひとつひとつとまで対話が出来そうなほど頭が澄んでいる。今まで抑圧されていた自分の能力が、はっきりと把握できる。同時に、空から世界を俯瞰しているような不思議な感覚もあった。
「これが先輩の能力……でも、なぜ……?」
この能力にアクセスできるのは、兄の恭一だけではなかったのか。
思考は、強制的に断ち切られた。
足下の湖面から、五本指の透明な触手が伸びてきた。
胸元に迫ってきたそれを、ニコは側転するようにかわしざま、蹴りを見舞ってやった。
触手は無数のしぶきとなって飛散した。
普段のニコにはあり得ない動きで、自分でも思わず目を剥いてしまった。まるで、一流の武闘家の動きをトレースしたようだ。
剣の間合いのわずか外側で、湖面が泡のようにもぞりと持ち上がった。それは次第に小さな人型となり、氷で作ったような美少女の姿へと形を変えていった。体は次第に色を得て、紗の布を重ねた服まで形成される。
「体を、自在に水へと変化させられるようですね……」
剣で弾き飛ばされたあと、水中に沈んでニコのそばまで移動してきたらしい。ニコの視力でも捉えられなかったところを見ると、本当に全身を水と一体化させていたのだろう。
ニコは、全身を濡らす汗に気づいて額を袖でぬぐった。管理者の「気」が、凄まじいプレッシャーとなって小柄な体を責め立てる。満身創痍でこれに耐えていた恭一の精神力は、自分など到底およぶところではない。
管理者は、冷たい表情の下に苛立ちを覗かせ、鈴を転がしたような声を投げてきた。
「なにを……受け取った」
「え?」
「弟から手渡されたものが、胸のポケットに入っているだろう。それはなんだ」
恭一の持っていた硬貨がなんだというのか。
そっと胸ポケットに手を当てると、唐突に、ニコの頭に鮮明な映像が流れこんできた。
「――これは」
二人の子どもがいる。小さな兄弟だ。悔しげに泣き、袖で涙をぬぐう兄を気の強そうな弟が元気づけようとしている。弟が、兄の手を引いて玄関をくぐった。
「これは、恭一の記憶……」
コインを通して、恭一の記憶が流れこんでくる。不思議と、そのことにまったく疑問を抱かなかった。
流れこんでくるイメージの中では、恭一は近所の少年たちにいじめられた弱い子どもだった。それをいつも助けてくれたのが、腕っ節の強い弟の響司だった。
その日も、響司がいじめっ子を追い払ってくれた。
泣く兄と眉を吊り上げる弟。二人を玄関まで出迎えたのは、優しげな雰囲気がよく似た夫婦だった。
恭一の記憶に触れているニコには、それが不破夫妻なのだとすぐにわかった。テレビで見た姿より、やや儚げだが暖かみがある。
母が腰を落とし、恭一を慰める。
父は、響司の頭を撫でて笑顔で拳を差し出した。響司は、嬉しそうに瞳を輝かせ、父の拳に自身の小さな拳を軽く当てた。兄を助けたことに対するねぎらいだ。
父が、しゃがみこんでポケットから二枚のコインを取り出した。それぞれに、ペンで「護」と、漢字という文字を使って書く。
そう。この日に恭一は一生の宝物を手に入れたのだった。
それは、生まれて初めての小遣いだった。同時に御守りでもあった。
銀色に輝く硬貨を手にして、恭一は泣くのも忘れて喜んだ。この御守りを持っていれば、きっといつでも勇気がわいてくる。そんな気がしたからだ。
恭一が勇敢で優しい少年に変わったのは、この日を境にしてのことだった。この御守りがなければ、きっとツェルマットでニコを助けてくれた少年も存在しなかっただろう。
恭一の宝物の記憶。それが、古びたコインを通じてニコの頭の中に流れこんできた。
恭一とニコの精神が、コインを介して接続されている。そんな感じだった。
「だから、先輩はこれを持っていろと……」
合点がいき、ニコは湖畔の兄弟を横目でチラと見た。
脳の機能を兄に預けている響司は、全身を弛緩させて倒れている。その傍らでは、恭一が胸を押さえつつ目を閉じ、精神を集中させているようだ。
つまり、弟から能力を受け取った恭一は、自身の想いのこもった品を通し、それをニコに伝えているのだ。能力の中継、とでも言うべきか。
秀でた体術を使うことができたのも、恭一の精神と感応したからに違いない。この五年で恭一が積んだ修行の成果を、意識もせずに発揮していたらしい。
ニコは、管理者の質問には答えずに右手の剣を敵の眉間に向けた。巨大な剣だが、ニコの膂力からすれば小枝を持っているのと変わらない。
管理者も、答えのないことは予想していたようだ。かつては兄弟の両親だった美少女は、冷たい表情を崩すことなくまったく別の質問をぶつけてきた。
「何を泣いている?」
問われて、ニコははじめて、自分の双眸が涙を滂沱として流していることに気がついた。ぬぐっても、次から次へと涙が溢れてくる。
「悲しい……こんな、心が痛い……」
「理解できるように言えぬのか」
美少女の声に、わずかな苛立ちがこもった。
ニコはかぶりを振った。この気持ちは、管理者には決して理解できないだろう。
恭一の記憶を垣間見た者にしかわからない悲しみだ。そう。垣間見ただけでもこんなに悲しいのだ。恭一本人の悲しみは言うにおよばない。
ある意味、死別よりも残酷な形で両親を失い、しかも、自ら進んでとはいえ、両親殺しの汚名を着た。それにより世界中から受けた憎悪はニコが計り知れるようなものではない。ツェルマットの悲劇を生き延びた者は、一人の例外もなく恭一のことを憎んでいるだろう。ニコもその一人だった。命をかけて守った人々から憎まれ、恨まれるというのは、心にどれほど深い傷を刻むものなのだろう。
学園という空間でも、つねに憎悪の中に身を置いていた。誰かに突っかかられれば、抵抗することなく暴力を受け、怒りと憎しみのはけ口になる。恭一が暴力を用いたのは、ニコを危険から救ってくれたときのみだった。そのニコにも、罪人と罵られ、殴られた。飛び火を避けるため、弟のそばにもいられない。
あまりにも、救いがなさすぎる。
涙が止まらなかった。本人が耐えているのに、恭一を傷つけ続けた自分に泣く資格などあるのだろうか――。そう思っても、涙は堰を切ったように瞳から溢れ続けた。
「やはり人間はわからぬな。不安定だ」
管理者が、両腕を透明な結晶に変えた。硝子のような腕を掲げ、宣告した。
「滅ぶがいい」
水面を滑るように移動してくる。なめらかながら、強風を追い越すほどの速度だった。
ニコは、静を体現した動作でゆっくりと大剣を目線に構えた。
「この感情を捨ててしまったあなたに、人間の何が理解できるというのです……」
呟くように言い、頬を伝った涙が滴となって水面へと落ちていった。
ニコの剣が、光となって迸った。
力と力が激突し、熱い衝撃波が周囲の水を蒸発させた。
あり得ないことが起きている。
神に匹敵する力を持つはずの自分が、人間相手に圧されているのだ。
「なんなのだ。なんなのだおまえはっ!」
美の化身のごとき姿に似つかわしくない声で、管理者は水の爆弾を掌から放った。対象に衝突すると核分裂反応を起こす、きわめて危険な飛び具だ。
巻き毛の少女が大剣で迎え撃った。本来なら笑止千万なる行為だ。しかし、少女は管理者の撃ち出した水の球を、得物ごしに通水を送りこんで相殺してしまった。
名も知らぬ少女は、元素単位での錬金術を使いこなしている。自分と同レベルの交感を、水に対しておこなっているのだ。それはつまり、宇宙の歴史も人類の歴史も、すべて脳のスクリーンに焼きつけたことを意味している。
「それなのに、なぜ人間を護るために戦おうなどと!」
いまだ涙を流し続ける碧天色の瞳に、迷いの色を見つけることができない。
「わたくしは、わたくしの大切な人たちを傷つけさせたくないだけです! かつてはあなたにもいたはずです! 命を賭しても護りたいと思える存在が!」
賢しげに説教をたれつつも、少女は蜂蜜色の髪を乱しながら剣閃を走らせてきた。
結晶化した管理者の右腕と衝突し、またしても衝撃波が炸裂する。
管理者は、前面に薄い水の盾を展開して衝撃波をやり過ごした。敵も同様だった。
それを読んでいた管理者は、刈るような脚払いで烈風を起こした。
それを前に飛んでかわした敵に、管理者は舌を巻いた。しかも、蜂蜜色の髪の少女はそのままの勢いで刺突を繰り出してきた。
眉間に迫る剣先を、管理者は後ろに飛びつつ体を反らすことで空を射すにとどめさせた。そして、その流れに任せて後方回転し、敵との距離をとる。同時に、管理者は水面に通水を叩きこんでいた。
敵の着地点から、水の刃を幾本も生じさせる。かわしようのないタイミングだ。
巻き毛の少女が、双眸の間に皺を寄せた。少女は鋭利な水の刃の先端を蹴り、管理者のはるか頭上へと跳躍してきた。
「足下にシールドを生成したのか!」
頭上を仰ぎ、なかば反射的に水の球を撃ち出す体勢に入る。しかし、それは予備動作のままで終わることになった。
すでに、敵の水弾が放たれたあとだった。それが、唸りを上げて眼前まで迫ろうとしている。
なりふり構わず前へと飛んだ。
背中をかすめるように落ちてきた弾丸が、背後の水面で手榴弾のような爆発を起こす。
爆風に、管理者は一〇メートル以上も飛ばされた。頭を激しく揺さぶられたが、その程度で意識を失うような体は、人でなくなったときにすでに捨てている。
それでも、上下感覚を保ち続けるのは至難の業だった。辛うじて水面に着地したとき、管理者は体勢を崩して膝と手をついた。
すぐに索敵をおこなったが、敵の姿はない。白い制服に金髪姿は目立つはずだ。
うなじに針を当てられたような感覚が、不意に管理者を襲った。本能が疾らせたその危険信号に、逆らうことなく横へと跳んだ。
背後からの突風が、管理者の白髪を一房斬り取っていった。いや、それは風ではない。明確な意志を持った透明の刃だった。
背後から打ち下ろされた剣光は、水面を深く切り裂き、一瞬だが湖底すらも露出させた。一直線に吹き抜けた剣風が、古代の聖人による奇跡のように湖を割ったのだ。
前に跳んでいたら、間違いなくその餌食になっていただろう。管理者は、はじめて戦慄という感覚を味わわされた。
しかし、これは好機でもある。これほどの一撃を放ったあとなら、敵の残身も一瞬の隙を生んでいるはずだ。
管理者は自らの体勢が整う前に両手で水面を叩いた。跳ね上がった水しぶきを睨みつけると、それらは薄く鋭い氷の刃となって標的へと飛んでいった。
予想外にも、蜂蜜色の髪の少女は古の武術の動きですでに構えを整えていた。そして、信じられないことに、音速に近い透明の刃を、ことごとくかわして見せたのだ。犠牲になった数本の金髪が、沈みかけの陽を受けて黄金色のオーラのように少女の周囲を装飾した。
「神の目……」
思わず呟いてから、管理者は首を振った。
「神は……その名にふさわしいのは……私だけだ!」
今度は、巻き毛の少女が首を振った。
「いいえ、あなたは人間です。人を越えたと思いたいだけの、哀れな人間です。キョウイチに重傷を負わせてから、あなたの動きはわずかに鈍っています。それも、あなたが人間らしさを捨て切れていない証拠……」
「黙れ! 地球を汚し、破壊することしかできない。それが人間だ。私は違う!」
「一〇四二年前、なぜ人類が生き残ることができたのか、あなたは考えたことがないのですか? 水に、人を滅ぼそうという意志があったのなら、世界を水没させる必要などありませんでした。人の体は、水でできていることをお忘れですか?」
忘れてなどいない。水にその意志があったなら、確かに人類だけを選んで絶滅させることができただろう。
むしろ、水が世界に干渉したのは核爆発により生命が滅びるのを防ぐためだったはずだ。大陸の水没は、干渉ついでに人類のリアクションを見ようという意志が働いたためだと世間では囁かれている。
「言われるまでも、ないことだ。しかし、わたしは人の存在を許すことができぬ。人が生きているかぎり、世界は遠からず滅びることになるのだからな」
「それもあなたの予測にすぎません。わたくしがシンクロした情報思念群体は、その結果を予測できないために、未来を見ることを望んでいるように思えます」
「そうして手遅れになった世界に、おまえは後悔なく立てるのか!」
そのとき、湖上を突風が貫き抜けた。
一瞬、巻き毛が少女の瞳を覆い隠した。
管理者は、刹那のためらいもなく間合いを詰めにかかった。粉雪のように軽い動きでありながら、一呼吸の間に敵に密着している。また、駆けると同時に放っていた無数の水弾を、左右から一斉に襲わせた。
水弾は、唐突に下方からせり上がった透明な壁に阻まれて、敵に届く前に爆発を起こした。それは、予測の範囲内だ。
息をする間も与えず、管理者が右拳を繰り出す。同じく生じた水の壁を、管理者の拳はシャボン玉でも砕くように突き抜けた。
しかし、その拳も少女の大剣と衝突し、阻まれてしまった。だが、それすらも管理者の予測の内に入っていた。
すでに、左手の中には水の球体がある。
敵は敵で、その攻撃を読んでいたらしい。少女の右側面に、通水のシールドが幾重にも張り巡らされているのがわかる。
管理者は、白い顔に喜色を浮かべることを、わずかの間だけ自らに許した。
水の球体を、眼前の少女ではなく、その背中の先にある湖畔に向かって射出する。
「しまっ……!」
ようやく、憎き人間の少女が取り乱す声を聞くことができた。しかもその声は、管理者が想像していた以上に揺るぎ、乱れている。
勝利を胸元まで手繰り寄せた手応えを、管理者は確かに感じていた。
管理者の攻撃がこちらを向いたことを、恭一は視界にはっきりと捉えていた。
だからといって、回避のしようもない。自分も、かたわらに横たわる響司も、動く力など残ってはいない。
「結局、俺は最後まで中途半端か……」
護りたかったものを、一体いくつ護ることができただろう。自問するまでもなく、答えは胸の中にあった。
「ひとつたりとも……か」
呟き終えたのと同時に、管理者の掌で死の閃光が煌めいた。破壊の力を秘めた球体が風を蹴散らし迫りくる。
一瞬ののちには、自分と響司は水分子よりも細かい単位に分解されているだろう。
しかし、一瞬の半分の時間が経つか経たないかのところで、恭一は横からの強引な力によってさらわれていた。
土と砂利の絨毯に、恭一は乱暴に投げ出された。視界の隅に、同様の目に遭っている弟の姿が映った。
管理者の放った水の球体は、半瞬前まで兄弟のいた空間を撫で、その先の地面を一部、溶岩に変えた。じくじくという音がかすかに聞こえた。
「命の借りを返す機会が、こんなに早くくるなんてね」
かたわらで、砂利を踏む音。
恭一は、含むような声のしたほうへと顔を上げた。はたして、そこに立っていたのはロゼ色の髪も艶めかしい美貌の女生徒だった。血の化粧と血まみれの制服が、彼女の美貌を危うげな方向へと移ろわせている。
少々乱暴ではあったが、エルフリーデが突き飛ばしてくれなければ恭一も響司も、確実に死んでいた。それどころか、あのタイミングならエルフリーデもろとも蒸発してしまう危険もあった。
「……大した度胸だぜ」
「あら、あたしのウリは愛嬌なのに」
それに皮肉を返そうとした恭一の口が、半分だけ開いたまま凍りついた。
ニコとの精神の接続が、突然途切れたのだ。寸前まで通じ合っていた魂が、今は見えない。響司との交感は継続しているというのに、だ。
「――あいつ!」
恭一は、黒塗りナイフの瞳で湖のほうを斬りつけた。
見開かれた、ニコの瞳と視線が交差した。
管理者の拳が、ニコの胸元をかすめていた。薄く血が舞い、裂けたポケットから古びた硬貨が跳ね上げられた。
ニコは、こちらに気をとられすぎていた。
恭一たちを仕留め損なった管理者に、その衝撃から立ち直る余裕さえ与えるほどに。
精神接続の寄る辺だったコインが、ニコの元から離されてしまった。
勝機は、失われた。
夕日を受けても輝きさえしないくすんだコインを、管理者が振り上げた拳で掴み取った。その行為に、意味はあったのだろうか。
ただ、コインはそこが自分の帰る場所であるかのように、優雅な放物線を描いて管理者の手の中へ飛びこんでいったのだった。
恭一の額の裏側で、白光が弾けた。
兄弟の精神が、管理者のそれとリンクした。
胸の傷は浅い。こんなときばかりは、自分の体の平坦さに感謝したくなる。
深刻なのは、怪我ではなくコインを奪われたことだ。エルフリーデのおかげで悲劇は免れたが、それに意識を奪われすぎていて大きな隙を作ってしまった。
快晴状態にあった視界に、急激に濃密な靄がかかった。いや、視力自体は以前と変わっていない。しかし、それを処理する能力が失われてしまったらしい。見えたものを認識し、判断し、四肢を判断に従って動かす。それだけのことが途端に困難になる。
当たり前のように使えていた特位の能力が、第三位レベルまで落ちこんだ。手元に、体に不釣り合いなほど巨大な大剣のみを残して。
絶望的な状況に、ニコは思わず苦笑をこぼしてしまった。たかが三位の通水師が、管理者の目の前で剣を持って立っているのだ。歴代の正義のヒーローも、これだけ馬鹿らしい実力差の中で戦ったことがあるだろうか。
「せめて一撃……」
ニコは、素人くさい動きで剣先を引いた。
そこでようやく気づく。管理者の白い美貌が、コインを掴んだ姿勢のまま動きを止めていることに。
なぜかはわからないが、これはチャンスだ。
今の自分に可能なかぎりの力で、ニコは管理者の胸に向けて突きを放った。
「これでダメなら!」
剣先が管理者の衣服に触れる寸前のことだ。ニコは我が目を疑った。
氷河の色をした美少女の瞳から、ひとすじの涙がこぼれたのだ。まさしく溶けた氷河のように、冷たく澄んでいそうな涙だった。
そう認識できたときには、すでにニコの大剣は管理者の薄い胸板を貫いていた。氷像を砕いたような手応えがあった。
刺されたほうより刺したほうが、顔に驚愕を貼りつけた。ニコの剣には、強い通水の力がこめられている。それがわかっているからこそ、管理者は結晶化した腕でのみ剣と打ち合っていたはずだ。それを、なぜよけようともしなかったのか――
パワーだけなら、ニコの通水は十分な破壊力を持っている。すでに、剣を通じて蒸発、分解の意志が管理者の体内に流れこんでいた。
もう幾秒もなく、管理者は消滅する。
管理者の双眸は、涙をこぼしたまま、静かに湖岸に据えられていた。
「恭一……響司……」
蕾のような口から落ちた言葉は、風の音にかき消されそうなほどにかすかだった。
はっとしたニコだったが、どうすることもできない。
空気が破裂するような音と衝撃があって、管理者の両腕が蒸発した。一部は霧となって周囲に滞空したが、駆け抜ける強風が、それも瞬時に拡散させてしまう。
戦いの中で、管理者は己の体を何度か液体に変化させはした。おそらく自分の意志で気体に変化することもできるだろう。それをしなかったのは、これが原因に違いない。
強風によって拡散されてしまった管理者の体は、二度と戻ることはない。それでも腕や脚程度なら、水獣を作り出したように再び水から作り直すことはできるだろうが――
さらに何かを言おうと口を開きかけた管理者の全身がひび割れ、淡く発光する。
直後、小規模な爆発が管理者の全身を侵食した。同時に、高熱の蒸気が噴き出し、強風に煽られて宙へと拡散した。
「くうっ!」
爆風に飛ばされ、ニコは湖面に尻餅をついた。慌てて顔を上げたときには、すでに管理者は全身を蒸発させ、強風によって意識すらも切り刻まれていた。
すでに、ニコの右手にも剣はない。
ニコにとっては父の仇でもあった管理者を、この手で仕留めたのだ。
ニコは、ゆっくりと立ち上がり風下のほうへ目をやった。
管理者は、空気に溶けて世界の大気へと広がっていった。時間が経つほどに拡散は進み、その体はただの分子ひとつひとつとなって世界を覆うだろう。そこに、なんの意思も介在させることなく。
「わたくしは……」
胸には、達成感も喜びも沸き上がってこなかった。それでもニコは、戦ったのが自分でよかったと思う。
かつて両親だった存在と戦い、最後の瞬間にあんな表情を見せられたのでは、恭一がかわいそうだ。それに、子どもに親を殺させるようなまねはしたくなかった。
最後にニコの瞳から涙が溢れ、頬を伝い、滴となって落ちていった。
湖面に小さな波紋が生まれ、すぐに波にのまれて消えていった。
終章
翌日、何事もなく登校する――というわけには、当然ながらいかなかった。
ひどい筋肉痛や全身の傷もだが、とりわけ気を滅入らされるのがぼろぼろになった制服だ。あちこちが破け、血と泥で汚れている。
教室の自分の席で、ニコは学校中で乱舞する憶測と噂の嵐に疲れた息をついていた。
仲のよいクラスメイトが気を遣ってくれているが、彼女たちの目にも好奇心が爛々と輝いている。クラスを訪れる野次馬も、ひっきりなしだ。これでは昼休みが思いやられる。
「先輩たちも針のむしろなのでしょうか」
昨日、事後に冷静になってから眺めた、先輩たちの姿を思い出す。響司もエルフリーデも、制服はぼろぼろでひどい有様だった。特にエルフリーデの制服など、腹部と背中に穴が空き、もとの色がわからなくなるほど血にまみれていた。
ニコは、何度目になるかわからないため息をついてから窓際の席に視線を移した。そこには、ほとんどボロ切れと化した制服を身につけた恭一がいる。全身包帯まみれにしているところを見ると、治癒がおこなえるほど力が回復していないのだろう。顔は死人のように血の気がなく、頬の肉もそげ落ちていた。
広大な学園を水の城壁で囲み、街を蹂躙していた水獣たちを一人で片づけ、管理者と死闘を演じた。それだけの力を使って廃人にならないのだから、恭一の底力はやはり常識の枠から大きくはみ出している。
格好の凄惨さに気をとられて誰も気づかないだろうが、恭一の雰囲気は、明らかにいつもと違っていた。どこかぼんやりとした瞳は、今までの彼にはなかったものだ。
昨日は、恭一はニコが湖岸に戻る前に姿を消してしまった。五年前に言うと誓った「ありがとう」も、まだ告げられていない。それに、「ごめんなさい」も言わなくてはならない。
ただ、恭一と精神を繋げたニコだからこそわかることもあった。きっと、恭一は一人で泣いていたのだと思う。五年ぶりに。
だから、ニコはあえて一日待った。
また先ほど、噂好きの級友から新しい話を仕入れた。入学式の日に連続発生した恐喝事件。その被害者たちのロッカーに、取られた金額が正確に返却されていたらしい。
誰の仕業かは考えるまでもない。恭一なら、水に溶けた情報から過去を覗き、被害者や被害金額を調べることも可能だろう。
思い切って話しかけようと腰を浮かしかけたところ、恭一のほうが先に席を立っていた。
にわかに教室の空気が変わった。
恭一が無言で歩み寄ってくるまで、ニコはどうしてよいかわからずに、ひたすら蜂蜜色の巻き毛を指に絡めていた。
目の前で恭一が止まる。
ニコは、つい、へらっと愛想笑いを浮かべてしまった。
「ど、どうも……」
「あれ……返して」
恭一が、右手を突き出してきた。
何のことだか察したニコは、修繕した胸ポケットから一枚の硬貨を出し、おずおずと恭一の右手に載せた。
それを掲げ見た恭一の目元が寂しげに緩んだのは、ほんの一瞬のことだった。黒瞳は、すぐに普段と変わらない威圧的な色に取って代わられた。
五年前の「ありがとう」、言うなら今だ。
「あ、あの……」
「黙ってろ」
低く圧するような声音に、ニコは言葉を噤んでしまう。
黙れとは、今後も今まで通りに話しかけるなということだ。恭一は、これからも罪人を演じ続けるつもりなのだ。
それは、悲しいことだ。
「いや……嫌です。わたくしは黙りません」
「…………勝手にしろ」
恭一は、鼻であしらうようにしてニコに背を向けた。しかし、目をそらす前に恭一の双眸がかすかに緩んだのを、ニコは見逃さなかった。視力にだけは、自信があるのだ。
ニコは、得意げな笑顔で恭一の背中を見送った。
五年前の「ありがとう」は、なるべく人のたくさんいるところで言ってやるとしよう。
それがいい。
血まみれの制服は注目の的で、なかなかに愉快だった。普段以上の視線の束のせいで、新しい快楽に目覚めそうだ。
「顔や髪にも血を塗って登校すればよかったかしら」
「僕の血じゃなければね」
「つれないわねぇ」
かたわらの響司は、集まる視線を柔らかな笑顔でいなしていた。それも一種の才能だろう。逆にエルフリーデの武器は、視線を向けただけで道を開けさせる、凄みのある笑顔だ。それを駆使し、無人の野をゆくがごとく廊下を歩く。
「そういえば、今朝ユーリーさんと部室で会ったよ。別にいつもと変わりなかった」
「あの子の場合、鈍いだけだと思うわ」
「ヤング先生はどうなったんだい?」
「急遽姉妹校に転勤――って名目でチベット送りね。処遇はお偉いさんが決めるでしょ」
「死刑なんてことはないよね……」
響司の眉が心配げに寄った。相変わらず優しいことだ。兄弟そろって。
エルフリーデは、緩む表情筋もそのままに口だけ尖らせた。
「酌量されるでしょ。執行官に殺させるくらいなら、あたしが昨日殺してたわ」
響司が何とも表現しがたい顔で見下ろしてきて――最終的には苦笑に落ち着いた。
「失礼ね。人の顔見て笑うなんて」
そんな会話を続けているうちに一年生のフロアに着いた。ちょうど教室から恭一が出てきたところだ。
「あら、奇遇ね」
「わざわざ訪ねてきておいて、何が奇遇だ」
素っ気ない返事は無視して、エルフリーデはこっそりと教室の中を覗きこんだ。ニコが、恭一から金を奪われたということになっているらしく、クラスメイトから慰められていた。
戸惑うニコは、意外にも普段と変わらず元気そのものに見える。
「ふうん。優しいのね」
「誰がだ」
どこまでも素っ気ない恭一に、エルフリーデは意味ありげな笑顔を送って肩をすくめた。
響司が、暁光のような表情で半歩出た。
「あのさ、兄さ――」
「おまえは喋るな」
にべもない兄の態度に、響司は困ったように耳の後ろをかいた。
エルフリーデは、肩を叩いて響司を慰めてやった。確かに、響司が喋れば恭一の演技は水の泡だろう。昨日精神を同調させた二人のことだ。会話がなくとも気持ちは通じているはずだ。
「用件はいつも通りよ。どう?」
「いい加減諦めたらどうなんだ……」
答える恭一は、心底うんざりしたような声を出す。
「早く入部してくれないと、部長が帰ってきちゃうのよ。困るわ」
「勝手に困ってろ。なんで、俺があいつの言いなりにならなきゃならない」
「あら、部長のこと、知ってるの」
「……戦友……のようなものだ」
心底嫌そうに、恭一が言う。
エルフリーデは得心し、ひとつ指を鳴らした。部長が恭一のことを知り、部に引きこもうとしたのも納得がいった。
「なんだか、今日は機嫌がよさそうね」
「……なんだそれ……」
言って、恭一は疲れたように眉間を揉んだ。
本人は気づいていないようだが、今日はずいぶんと表情が豊富だ。その中に笑顔がないのは、まあしかたがないだろう。
会話を打ち切るように、学園中に予鈴が響き渡った。同時に、一言もなく教室へ引き返していく恭一。
野次馬たちも、未練がましく振り返り振り返りしながらそれぞれの教室に戻っていく。
エルフリーデは、肩をすくめて響司と目を合わせた。
いつか、恭一の笑顔を見る日は訪れるだろうか。もし訪れるとして、そのとき恭一の隣には、きっとニコがいるのだろう。
エルフリーデは、少し寂しげに微笑みながら恭一の教室に背を向けた。
「……諦めるものですか……」
呟くと、響司が穏やかな笑顔を向けてきた。
それで、自分が大いなる失言をしたことに気がつく。朴念仁だと思っていたら、兄に関わることだけは敏感にできているらしい。
「やれやれだわ。あたしの苦難はひとつも解決しちゃいないじゃない」
腹立ち紛れに響司の臑を蹴飛ばしてやってから、エルフリーデも日常の学園生活へと戻っていった。
〈了〉