高得点作品掲載所     アイゼンさん 著作  | トップへ戻る | 


 我は馬である。

 かつてはただの馬だったが、今は騎馬というものである。
 我の仕事は、主の足としてあらゆる場所を駆けることだ。
 
 さて、今我がいるのは陽の照りつける草原だ。
 周囲には物々しい戦装束に身を包んだ人間が、地を埋め尽くすようにごった返している。
 ここは人と人とが大勢でぶつかり合う場所――すなわち戦場である。
 我は戦場以外でも主の足としての仕事を負うが、やはりこの殺気と熱気に満ちた空間を駆けるのが本来の役目である。
 今も我の背に乗っている主は、騎士というものらしい。
 戦場においては平時とは違い、主は胸や足に固い何かで覆い、手にはこれまた長い棒と牙を組み合わせたようなものを持つ。
 我は人の言葉など解らぬ故、これら「鎧」や「籠手」をどう呼ぶかは知らぬ。ただ何度も見かける内に、そういう概念のものとして認識しているだけだ。
 我の傍らには主と同じく馬に跨った者らがずらっと横並びに整列している。それなりに長い距離を挟んで睨み合っている向こうの敵陣も、同じく武装した人間と馬の列がびっしりだ。
 人間が何故こうも大規模かつ定期的に同族殺し大会を催すのか、我にはとんと理解できぬが、主の望みに応えて走るのが今の我だ。
 ブオオオオと味方の陣から大笛が鳴る。それを合図として、両軍がのろのろと馬を走らせ始める。
 ……遅い。
 味方も敵方も大挙してぶつかり合わんとしているが、どちらの馬もやたら遅い。
 まあ当然かもしれぬ。ここらは我が住んでいた土地とは違い、草も悪く、そも根付いてる馬の血そのものが種族的に体格の良い方ではない。
 だが、我は違う。今も首を並べている他の薄茶色の同族と異なる浅黒の毛並みと、一回り太い強靱な四肢を持っているのだ。故に、こうした横並びの突撃の場合、我は自然と突出する。
  我と主は押し寄せてくる津波のような敵達に単身突入していく。そんな我等を勇み足を踏んだ馬鹿と見たのか、嘲りの表情を見せる敵前列の姿がどんどん大きく なっていく。 我は走る速度を緩めない。まるで止まる気がないかのようなこちらの突進に、敵は武器を構えて備えるが、たかが単騎と侮っている以上、我らは 止められはしない。
 主が我が背で得物を執った。
 長柄斧槍。長い棒の先に斧の刃と槍の穂先を取り付けた武器だ。
 他の騎兵がこれを使うのはほぼ見かけないので、これは本来馬に乗る者の武器ではないのではないかと思う。むしろ歩兵が騎士を倒すために用いている所を多く見たので、おそらくこれは馬無き者の対騎士用の武器なのだろう。
 しかし主は好んでこれを使う。騎士にして、騎士殺しの武器を振るうことを得手としているのだ。
 敵の先頭にいた騎兵を狙い、主は斧槍を突き出した。
 我の疾駆が生み出す突進力を加え、極めて大型な武器である斧槍の破壊力、それを練られた技によって穂先に集約させた一撃に、敵の身に着けていた薄い鎧はあっさりと貫かれた。
 あっけない味方の死に動揺が走った騎兵達に、なおも主は死を振り撒いた。
 斧槍が弧の軌跡を描く。
 斧刃がヒュンッと空気を裂いた振るわれた瞬間、敵の首が冗談のように簡単に消えていた。
 鮮血が舞い散る中、さらにもう一閃の弧が再び風切り音を奏で、二体目の首無し死体を作りあげる。
 あまりにも一方敵な殺戮劇に、敵の動きが決定的に鈍る。が、気骨のあるものもいた。気合の声を上げながら、一人の騎兵が円錐状の突撃槍を突き出す。だがそれが主を貫くよりも早く、主が手綱を通じて我に命ずる方が早かった。
 我はふわりと軽さすら感じさせるような動きで地を蹴り、一瞬で槍を突き出した兵のすぐ側に身を舞い降りさせた。
 我の動きを見て驚愕に染まる突撃槍兵に、主は槍を見舞った。近距離で繰り出されたとは思えぬ一撃に、敵は血を撒き散らしながら落馬する。
 そこまで暴れたところで、味方の騎兵達が波となって敵に襲いかかった。
 馬に乗った騎兵達の集団戦は勢いだ。我ら馬の生む突進力のまま敵に雪崩れ込むことが肝要であり、それだけで決してしまう戦も少なくない。
 そして敵の波は我と主に出鼻をくじかれ、明らかに勢いが弱まっていた。
 そこに打ち寄せる味方の波。結果は言わずもがなである。
 波に飲まれた敵が、一度決まった流れを変えられずにどんどん押されていく。味方は追撃に猛り、もはや勝敗は決していた。
「よくやったぞパラグノフ」
 背の上から主の声が聞こえる。
 主は我に名というものをつけた。その我に発音できぬ音が、我を指す鳴き声的な記号なのだと気付いたのは、主と共に生きるようになったしばらく後だった。もっとも今では呼ばれているのに気付く位はできるようになったが。
 主は追撃に加わらず、我の首をゆっくりと撫でていた。主の気性は戦の冴えと裏腹に、理知的で温厚であることを我は知っていた。
 かつては自身がこのような生活を送ることになるなどと想像すらしていなかったが、今の我には当たり前の一つである。今更ながら慣れというものは恐ろしいものだと思うが、この生活も不快ではない。
 共に戦場を駆ける時も、こうして主に撫でられる時も、我にとって決して悪い時間ではなかった。



 その時、我の物語は終わった。
 我のつがいは草原に伏し、動かなくなってしまった。
 もはや一鳴きも出来なくなったつがいに、我は鼻先を押しつけた。
 冷たい。
 つがいはもはや、何度もお互いの首を触れ合わせた時にような暖かみが失せていた。
 そして我は悟る。つがいにぬくもりが戻ることは永遠に無いと。
 つがいは失われてしまったのだ。もう我と首を並べて駆けることは叶わない。
 我はうなだれた。
 白く美しいつがいの骸の前でどうして良いか分からず、ただうなだれた。
 視界に映る景色は昨日と変わり無い。見渡す限りの草原。風の吹くたびに緑の草が美しい波を打つ。
 だと言うのに、もはや我は昨日までの我ではない。
 つがいがいないのだ。
 病気にかかり、大いに苦しんだ末に死んでしまった。死んでしまったのだ……!
 我は天に向けて、大きく嘶き(いななき)を上げた。
 そして、駆け出す。
 いつものように、風を受けるがための心地よい走りではない。我の体は今、訳の分からぬ激情で満ちていた。何かがどうしようもなく足を駆り立て、我は草を蹴り飛ばすようにして走った。亡骸となったつがいの周りに広がる草原を、ただひたすらに走り続けた。
 陽が昇ってから沈んでもなお、足と体力が限界を迎えるまで暴走し、力尽きるとその場に倒れ、眠り、草を食み、そしてまた走り出した。そんな日を何度も何度も繰り返し、しかし我は止まれなかった。
 我を占めるのは疑問ばかりだった。
 どうしたらいい。
 つがいがいなくなり、我の物語は終わってしまった。ならばどうすればいい。どこを駆ければいい。自らの物語が終わってしまった者は、その後をどう生きればいい?
 答の出ない自問の中を、ひた走る。
 そして、そんな日をどれほど繰り返したか、ある日、我の前に決定的な変化が現れた。
 駆ける我の前に立ちふさがる者がいた。
 人間だった。長身としなやかな筋肉を持った若い雄だ。
 忽然と現れて道を塞ぐ愚か者を前にして、我は止まるつもりなどなかった。
 だが人間は、思いもよらぬ行動に出た。お互いがぶつかる直前、人間が消えた。一瞬目を疑い、次に背中に重みを感じて驚いた。人間は一跳びで我の背に跨ったのだ。
  我は驚きのままに人間を振り落とそうとしたが、人間は逆に我の走りを御し始めた。体重の移動で、軽い蹴り足で、首に触れた手でもって、確実に我は走りを支 配されようとしていた。無論、我は我を御しようとする試みに怒りを感じ、もともと乱暴だった走りを、さらに暴走させた。のみならず、激しく首を振って体を 揺らし、人間の支配から脱しようとした。
 が、それは徒労に終わった。我の抵抗は、やんわりと受け流された。人間の制御はこちらを無理矢理従わせようとするものではなく、無理なく走りの流れを導く柳のようだった。最終的に乗り手の望む走りになるものの、我にとって不快を感じさせない自然な導きだ。
 完全に我の走りが御されたことを悟ると、我は足を止め、背に乗った人間を見た。人間は我の顔を認めると笑顔を浮かべながら、何事か問いらしきものを発した。
 ――一緒に行くか?
 無論人の言葉など我には解らぬ。しかし、この人間の言いたいことはなんとなくわかる。
人間は、自らの物語に我を誘っているのだろう。
 悪くないと思えた。既に我の物語は終わっているのだ。走る道を失ってしまった我がまだ駆ける道があるならば、我は駆けるべきだと思った。
 しかも、この人間はそこらの同族では追いつけぬはずの我の走りを操って見せたのだ。この人間と共に行くことに興味も沸く。
 馬らしくもなく黙考していた我は承諾の意を示す嘶きを上げ、その後を人間に委ねた。人間はこちらの意を正確に汲んだようで、嬉しそうな微笑みを見せた。
  そうして我は選択した。ここで走るままに走って潰れて死す道もあっただろうが、我はそれを良しとしなかった。何せ、我は生きているのだ。我の物語は終わっ てしまったかもしれないが、我自身は生きている。ならば、生在る限り、我は駆けねばならない。その道をこの人間が示してくれるかもしれないと、この時、馬 らしくもない運命的な予感がしたのだ。

――これが我が主との最初の出会いであり、我の関わることとなった物語の始まりであった。
  


 我は寝床で夢から覚める。いつのまにか陽は昇っていた。
 先日の戦で疲れていた我は、主の家に帰るなり早々に眠った。
 主と同じような騎士の多くは、にょきにょきと妙に高い建物が密集した都市に居を構えてるようだが、主の家はその都市より少々離れた場所にある。
 ずっと人気の無い草原で暮らしていた我は、人間が造る建物という概念を知った時は大層驚いたものだが、それよりも驚いたのは我等馬専用の建物が用意されていたことだ。
 雨に濡れることもなく、風が吹くこともなく、ただ壁に囲まれる生活というのは最初こそ妙な感じがだったが、それも慣れればそれなりに快適さを感じるようになった。人間が狂ったように建物を建てるのも少しだけ理解できた気がする。
 ただ、この厩舎(うまや)には我以外の馬といえば痩せたのが二、三頭いるのみである。どれも年老いており、我も彼らとはほとんど意思疎通をしない。
  猿が群れの長に近しい程潤沢な餌や良い雌を手に入れられるように、人間もまた偉ければ偉いほど大きな住み処を持ち、多くの同種を従え、我ら馬も多く所有し ているようだ。なのに、主が従えてるのは人間が二人に我と他数頭の馬。住み処も小さくはないが、都市で見た山のような大きさの建物とは比べようもない。
 あれほどまでに強い主が何故群れの長とならず、あまつさえ強さに見合わぬ富に甘んじているのかまるで理解できぬ。一度、主達の長とおぼしき偉そうな冠をかぶったひょろひょろの老骨を見たことがあるが、よもやあれが主より強いというのだろうか。
「おはよう、パラグノフ」
 声をかけられ、側にいた白髪に気付く。
 温和な笑顔を絶やさぬ、老いた人間の雄だ。髪も髭も白いので、我は白髪と呼んでいる。
 首を向けた我を優しく撫で、白髪はいつものように厩舎の掃除を開始した。
 我が汚した敷き藁をせっせと取り替え、それが終わると我の体を綺麗に洗い、毛並みを整えてくれる。毎度思うが、こいつはひどく働き者である。
 かなり年をくっているだろう白髪が年若い主に仕えているのは、親が子に仕えているようで妙に映るが、主に対する白髪の忠誠は極めて厚い。
 いつも主の身の回りの世話、料理、掃除、我等馬の世話と多用にこなし、そのことに喜びを感じているようにも見える。我と白髪は、同じ主に仕えるもの同士、すなわち同志といっても良いだろう。
「おはようパラグノフ! ……あ、掃除の邪魔だったかしらパーシェル?」
 厩舎に響いた新たな声に、我は首を動かした。
 そこにいたのはさらさらと長い金髪を輝かせる若い人間の雌。
 その幼さを微かに残す顔は、我にとっても馴染みのものだった。
 人の醜美など我にはわからぬが、他の人間の雌と比べ、この者の顔立ちは非常に整っているように思う。金の髪と青い瞳の対比もとても綺麗だ。彼女と共に人の多い町などに出向くと、すれ違う人間の雄達が何人も振り返っていたので、人間の基準からしても美しいのだろう。
「フレデリカ様おはようございます。掃除は今し方終わりましたのでお気になさらずに」
 まるで子か孫に見せるような顔で白髪が微笑み、金髪も笑顔で返した。
「ふふ、お務めご苦労様。パラグノフは元気そうね」
「はい、それはもう。昨日の戦も大活躍だったと旦那様が申しておりました」
「そう、ありがとうねパラグノフ。あの人を守ってくれて」
 言って、金髪は我の顔をそっと撫でた。その手触りは主のごつごつした手とは違う、滑らかで柔らかいものだった。起きたばかりの我を、再び眠りに誘ってしまうような心地よさだ。こうしていると、何故か我は暖かかった母馬のことを思い出してしまう。
「フレデリカ様はパラグノフがお気に入りのようですな」
 目を細めて見ていた白髪が口を開く。
「ええ、最初は浅黒くて体も大きいからちょっと怖かったけど、すぐ分かったわ。この子は優しい子だって」
 答えながら、金髪はなおも我を撫でてくれている。我としてはお返しに毛繕いでもしてあげたいところだが、前に白髪にそれをやったら、頭の毛が我の歯に引っかかってぶちぶちと抜けてしまった。その時の白髪の悲鳴はまだ耳に残っている。
 ならば、と金髪の顔をべろーんと舐めてみたが、これまた何とも言えない顔で固まった後にうっすらと涙目になってしまった。
 そんなわけで、我は同じく主に仕えるこの二人に対する感謝の念を、心に留めるだけにしている。まったく人間とは難しいものである。 



 風を裂き、草木の匂いに包まれながら疾駆する。
 踏み締める大地と、我の蹄(ひづめ)が打ち鳴らされる音が規則的に続く。
 我は今、主を乗せて走っていた。と言っても、戦場に赴いている訳ではない。
 我等馬は一日にある程度走らねばおかしくなってしまう。主達もそれは理解しているようで、何も走る仕事が無い日でも主自身が我に騎乗し、家から少し離れた所にある草原まで我を走らせてくれるのだ。
 主はこの遠乗りの中ではあまり喋らない。だが戦の時と違い、その顔は安らいだような笑みがある。我と同じように、ただ風を感じ、草の匂いを嗅ぎ、陽の光を浴びながら疾駆することに喜びを感じているように見える。
 我はと言えば、走るのは無論楽しい。以前は人を乗せて走るなど思いもしなかったが、これが今の我だ。
 我の物語はもう無い。あの時、あの場所でそれは潰えた。
 今は主という別の物語を乗せて走る我だが、駆ける足がある限りは止まれない。止まってはならないと思う。
 思考から立ち返ると、もう家路に着いていた。慣れれば慣れる程に、いつもの順路を無意識に走ってしまう。我にとって走るということは息をするも同義なので、得てしてこういうこともある。
「おかえりなさい、あなた。今日の遠乗りはどうでした?」
 屋敷の前で、金髪が立っていた。穏やかな微笑みを浮かべて主と我を迎える。
 金髪の顔を見た主が、いっそう優しい顔になるのが見なくてもわかった。
「ああ、今日も晴れてくれたおかげで良い風を感じることができた」
「そうですね。天気が良いと本当に気持ちがいいです。」
 金髪のにこやかな顔に、主もつられたようにさらに頬を緩める。
 いつもながら、この二人は話をしているだけでとても幸せそうだ。お互いを愛し合っている良きつがい同士だと心から思う。
 そんな二人を見ていると、時折我の頭に澄んだ目をした美しい白毛の影がよぎり、胸に鈍い痛みが走る。が、それも一瞬のこと。大丈夫だ。我は大丈夫だ。
「……あなた、昨日お父様の見舞いにトルスワヌ家に行って来たのですけど――芳しくないです」
 ひとしきり笑顔を交わし合った後、言いにくそうに金髪が切り出すと、それまでの和やかだった空気が一変し、主は真剣な面持ちになった。
「そんなにお義父上の――トルスワヌ公の容態は悪いのか?」
「ええ、それに……」
 金髪は何かに怯えるように俯き、続きの言葉を紡いだ。
「最近叔父のオベロン伯を頻繁にトルスワヌのお屋敷でお見かけするのですが、そのたびに……私をひどく暗い目で見てくるのです。」
「……お義父上が天に召された後で、その血に連なるお前がトルスワヌ家の財産を占有しようとしている――そうオベロン伯が考えている節があると?」
「そう思いたくはないのですけれど……」
 不安げな声を漏らす金髪。主はその肩をそっと抱き、
「大丈夫だ。悪い事は何も起こらない」
 人間が赤子にそうするように、主は金髪の背中をぽんぽんと優しく叩いた。不安に満ちていた金髪の顔は、見る間に安らいでいく。
「すまないが茶を淹れてはくれないか? 今日は少々飛ばしてしまってな。少々喉が渇いたのだ」
「……はい! すぐに!」
 応えて、金髪は家の奥に消えていった。その背中を見送りながら主が呟く。
「どう見るパーシェル」
 主の声に応えるように、白髪が家の影から姿を現した。箒を持っているところを見ると、庭の掃除中だったらしい。
「良くありませんな」
 白髪は渋面を作って唸った。
「トルスワヌ家は国でも有数の名家です。そしてフレデリカ様は妾腹の子とはいえ、家督と遺産の相続権があります」
「しかしこのような没落した貧乏貴族の嫁にくれたぐらいだぞ? とてもあのような名家の相続など……」
「旦 那様もご存じでしょう。平民出の母親を持つフレデリカ様が厄介払いのようにこの家に嫁がされて来る前は、トルスワヌ家の家督相続権を持つ者は大勢いた。 が、そのことごとくが病死や戦死を遂げました。故に今、家督相続の最有力候補は公の実子のフレデリカ様か、実弟のオベロン伯なのです」
「フレデリカ、ひいてはその夫たる私がトルスワヌ家の家督や財産の権利を主張する可能性を恐れ、オベロン伯が害をなしてくると?」
「そ うあからさまな手は使ってこぬとは思いますが……トルスワヌ公の遺言に不満があれば、何かしら仕掛けてくるかもしれません。たとえフレデリカ様が家督はお ろか財産を何一つ継がないと宣言しても、担ぎ出そうとする者らがいればご本人の意志とは関わりなく一派が出来てしまう。それはオベロン伯にとって望ましい ことではないでしょう」
 重い顔で言葉を交わし合った主と白髪の周りの空気までが重たくなったような気がする。一連の会話は無論何一つ理解できないものだったが、何か良くない雰囲気だけは伝わってきた。
 我は沈んだ空気を纏ってうつむく主の肩に鼻先を押しつけた。主は怪訝な顔で振り向いたが、二度三度と繰り返す内に、それが我なりの励ましと気付いたのか、ふっと笑みを零した。
「ありがとうな、パラグノフ」
  主が我の頭を撫でる。それを見ていた白髪も、自然と柔らかい表情を取り戻していた。 そこで、茶器を盆にのせて戻ってきた金髪が、「今日は天気がいいので 外で飲みましょう!」と言って庭にある椅子や円卓に仕度を始め、主と白髪が笑顔で応じてそれを手伝い始めた。準備が整った場には、なんと我のための飲み水 が入った桶と人参の入った籠まで置かれていた。それから、日が傾くまで三人は終始和やかに茶を酌み交わし、傍らで我はそれをゆっくりと眺めていた。
 そんな心地の良い暖かい空気に身を浸らせながら、この時が続けば良いと我は心から思っていた。



 日課の遠乗り以外で主と共にどこか遠くへ行くということは、今日のように大抵が戦場への道行きであるということだ。
 行列を作っての遅々とした行軍の中、我はかぽかぽと音を立てて歩いていた。無論、主を背に乗せてだ。
 集められた兵の規模から見て今日は大した戦はではないのだろうが、まだ朝も早いというのに人間は眠くはないのだろうか。全く毎回人間の同族殺しに注ぐ執念は、あきれるばかりである。主達の長らしきあの冠のひょろ骨はよっぽど好戦的なやつなのだろうか。
 と、不意に一頭の馬とそれに跨った人間の雄が、我に横付けしてきた。
 黒髭と黒髪を持つ大柄な雄。それを一目見てたちまち不快感をがこみ上げた。こんな感覚は初めてで、我自身驚いた。何がそんなに快くないのかと改めて黒髪を観察して、すぐに気付く。
 眼だ。
 我等獣には決して身につかぬはずの色に染まった眼。欲や猜疑といった我が朧気ながら察することはできても、決して理解し得ぬ負の感情を宿したどす黒い眼。
 ここにいるのは本当に主や金髪や白髪と同じ人間なのかと問いたくなるような異質さが、その両の眼にありありと浮かんでいた。
「久しいな。姪と卿の婚姻の儀以来か?」
「っ! オベロン伯!?」
 大層驚いている主と対照的に、黒い雄は悠々としたものだった。
「伯よ。随分と顔をお見せできなかった無礼をお許しください」
「ああ、かまわん。こちらも色々とたてこんでいたしな。――時に卿は最近目覚ましい活躍をしているそうではないか。先の戦でも一番槍を担って敵の出鼻を挫き、完全に我が方に勢いを傾かせたそうだな。王の覚えもめでたく、近々勲章を授与される話も出ているとか」
「……ただ敵と相見える機会が多かっただけです」
 相手の意図が解らないといった感じで、主はなんとか言葉を返す。
「いや、なに」
 そこで黒髪は今まで取り繕っていただけであろう友好的な笑顔を捨て、くしゃりと顔を歪ませた。
「そろそろ卿も欲が出てくる頃かと思ってな」
 どこまでも昏い目に、いやらしく歪んだ口。悪意と欲で彩ったような、怖気の走る顔がそこにあった。
 我は人間のみに潜みうる恐ろしい何かの片鱗に息を飲み、主も思わず言葉を忘れてしまったようだった。
「オ、オベロン伯! トルスワヌ家の遺産相続の事を言っているのならば、私も妻も財を継ぐ気など微塵も――!」
「ああ、いい。卿がどうあろうともな」
 言って、黒髪の馬は我等から離れ、すぐに行軍の列に消えた。
 ふと首を傾けて主を見ると、主は全身にじっとりと汗をかいていた。あの黒髪と一体何を話したのか、緊張に未だ体が固まっているのがわかる。
 風が吹く。空気の流れが、どこか良くない方向へ吹こうとしていた。



 目の前で、主の穂先に貫かれた敵兵が倒れる。
 主は無言で血を払い、周囲に視線を配らせる。
 今日の戦は、森に逃げ込んだ敵兵の追撃と掃討のようだった。
 そう深い森ではないとはいえ、本来我等馬が人を乗せて森に入るのは危険だ。根に足をとられて転倒してしまう可能性があるからだ。
 が、我はそんな間抜けなことな事にはならぬし、主もそんな愚は犯さない。
 我等は生い茂る木々の間を闊歩し、敵を見つけ次第に狩る行為を繰り返していた。
 昼前にこの森を味方が包囲し、燻りだし部隊として森に突入したのは主を含め少数だったので、夕刻も近い今でも作戦完了には至っていないようである。
 長い時間を森という待ち伏せ側に有利な場所で戦っていた主は、神経を戦いだけではなく、周囲の警戒に費やしたこともあって、かなり疲れているようだった。いや、そも朝にあのいけ好かない黒髪と話をした時から浮かない顔をしており、どこか集中を欠いているような気がする。
 そしてその代わりというわけではないが、我は周囲の状況を奇異に感じていた。
 少数の腕利き部隊で森に入っての掃討戦。
 それはいい。が、いくらなんでも味方の数が少なすぎはしないだろうか。
  主と一緒に森に入った兵達は、奇襲を受けた時にやられてしまったり、はぐれてしまったりした。その後単騎で任務を遂行していった我等は、味方に遭遇してい ない。いくら突入部隊が少数でも、ここまで味方を見かけないということはおかしくはないだろうか? まるで波が引くように、徐々に味方が影を消していった ような……。
 そんな馬らしくもないことを考えたとき、背後の茂みが音を立てた。即座にそちらに向き直った我等だが、見えた味方の甲冑姿に緊張を解いた。
「ご無事ですか卿」
 声と共に、五人の歩兵が茂みから姿を現した。
「ああ、こちらはあらかた片付いた。他はどうだ?」
「は、既に残す敵はさらに奥地の一集団だけとのことです。我等もすぐに参りましょう」
「わかった。さらに奥だな」
 主が手綱を引いて、我の頭を森のさらに深い方へ向けさせる。
 味方の出現に我は先ほどの馬鹿な考えを笑い、主が示す方向へ足を踏み出そうとした。
 ……その時、我の広きを見渡せる目は見た。
 我等の背後に回った味方の兵が、我等に向かって突槍を突き出そうとしているのを。
 主に知らせる暇もない。
 我は弾かれるようにその場を跳び、突き込まれた凶器が、我等が一瞬前までいた空間を貫いた。
「パラグノフ!? 何、を……」
 我の突然の行動に驚いた主が声を上げ、そして突き出された突槍を見てそれをしぼませた。ちっと歩兵達の舌打ちが聞こえた。
「貴様等……何者だ。まさか……」
「知る必要はない」
 言って、歩兵達はそれぞれ突槍を構えた。木の葉状の穂がついたその槍は、森で使う事を考慮してか、やや通常見かけるものよりも短くなっている。それを五人で槍衾と成して、そのまま突っ込んで来るのは基本ながら隙が無い効果的な戦法だった。
 避けるのが難しい状況を前にして、主は冷静にして迅速だった。
 手綱が引かれ、主の意を汲んだ我は、木と木の間をすり抜けるように後退した。言葉にすると簡単だが、根に足を取られずに後ろへ向かって流れるように足を動かすなどという真似は、そこらの馬と騎手でやれる事ではない。
 歩兵達は木という障害物に阻まれ、一列で成していた密集突撃隊列はばらばらになっていた。が、陣を乱しながらも歩兵達は追いすがる。それを見て取った主は、今度は我に急速前進を求め、我はそれに従った。
 先頭に突出していた歩兵は、一歩後退いた我等がこのまま逃げ出すと見ていたのか、虚を突かれた顔で目の前まで踏み込まれ、あっさり斧槍を腹に受けて倒れた。
 横手から別の歩兵が突槍で一閃。それを主は斧槍の柄で受け流す。同時に我は木を利用し、今し方仕掛けて来た歩兵が得物を振るい難い方へと回る。一瞬攻撃しあぐねた歩兵に、主は容赦なく穂先で喉元を抉った。吹き出す鮮血が、斧槍と籠手を染める。
 さらに逆の横手から迫ってきた歩兵に、今し方仕留めた敵の死体を払い飛ばす。もの言わぬ人型ににのしかかられて、動きが止まった瞬間に斧刃で三人目の首筋を断つ。
 残りの二人はばらばらに攻めても勝てぬと踏んだか、、一人が回り込み、我等を前後で挟んだ。背後と前方より突き込まれる二本の穂先に対し、我は踊るようにくるりと回転して、体の位置を一頭分だけずらした。
 空を刺す両の穂先。馬にとって厳しい場であるはずの森の中で我が披露した軽業に、歩兵二人が息を飲んだ気配が伝わってきた。
 そして、主の得物が唸る。側頭部を横殴りに断たれた一人が、血飛沫と頭蓋の中身を撒き散らしながら崩れ落ち、最後の一人がひっと引きつった悲鳴を漏らした。
 主は斧槍を翻し、固まったままの歩兵に得物を振るった。風切り音と共に迫り来る死に、ただ目を見開くしかできない歩兵の首を斧刃が触れる――寸前でぴたりと止まった。
「答えろ、お前達は何者だ?」
  鋭く放たれた問いに、歩兵は呼吸を思い出したかのようにひゅー、ひゅーと口から掠れた息を吐く。数秒の後、自分が尋問されている状況を悟ったのか、無理に 不敵な笑みを作ろうとして失敗した。どの道全身に流れる油汗が、全てにおいて追い詰められていることを宣言していたのだが。
「は……は! 言うと思ってっぐぁぎゃあああああああ!?」
 何かしら余裕を取り繕うとした歩兵の肩を、主は斧刃の反対側についている騎馬落とし用の突起で粉砕した。その表情はひどく冷徹で、必要なら目の前の歩兵を、生きたまま解体することも辞さないのではないかと思えた。
「しゃべるまでこれを繰り返す。答えろ、お前達は何者だ?」
「お、俺達は……オベロン伯の私兵で」
 歩兵が言ったその一言で、主が歯を食いしばった。良くない事が起きたのだと、そう言外に語っていた。
「何故だ……何故!」
 激昂する主に、歩兵は怯えながら次の言葉を発した。
「き、昨夜死んだんだよ! トルスワヌ公が!」
「!?」
 目を見開いた主に少し気を持ち直したのか、媚を売るような気持ちの悪い顔でなおも歩兵は続けた。
「へ、へへっ。トルスワヌ公は遺言で家督をオベロン伯に、財産を娘とオベロン伯に半分ずつ渡すって書いてあったらしいけど、オベロン伯は満足できなかったんだろうよ。あんたを始末して、遺産の半分を継ぐ娘を毒殺の実行犯に仕立て上げるって――」
「毒殺……? 何の事だ!」
「ひ……!  ト、トルスワヌ公は病気じゃなかったんだよ! トルスワヌ家の使用人として潜り込んだ俺達の仲間が言ってたんだけど、公の食事に少しずつ毒を混ぜていた らしいんだ! それで、その罪をよく見舞いに来てた公の娘にかぶらせれば一石二鳥だってオベロン伯は言って……」
「――――っ!」
 主の顔が、百獣の王もかくやという憤怒の色に染まった。声にならぬ声をあげ、目の前の歩兵を怒りのまま、力任せに柄で殴り飛ばした。
 よろめき、地に伏せて動かなくなる歩兵。だが、その生死などに主はもう頭に無い様子だった。
「屋敷に戻る! 急げパラグノフ!」
 主の逸る蹴り足に従い、我は駆け始めた。
 


「な……」
 主は目の前の光景に絶句していた。
 だが、それは我も同じだった。
 我等の家は、変わり果てていた。
  玄関が荒々しく壊され、何者かが押し入った後がある。その後、火を放たれたのだろう。あちこちから火の手が上がっており、強い熱気が肌を灼く。屋敷だけで はない。白髪が手入れしていた庭園も、三人と一頭が茶を喫した円卓にも火は燃え移り、その場に積もっていた思い出ごと灰へと帰していた。
「……っ! フレデリカ! パーシェル! どこだぁ!」
 主は我より飛び降り、紅蓮に染まった周囲に向かって叫んだ。おそらく、白髪と金髪を探しているのだろう。首をせわしなく動かして希望を探す主は、かつてない程に焦り狂っており、見ていて痛いほどだった。
 我も周りを見渡すが、あるのはいくつかの死体のみだ。白髪でも金髪でもない。先ほど森で我等を襲った連中と同じく、身に着けている甲冑こそ主達と同じものだが、その一部に何かしらの紋章がある。主達人間が、特定の一族を示すために用いている目印の類だろうか。
「だん……な……さま」
 よく知った声が聞こえた。
 声の聞こえた方向へ振り向くと、家の陰に白髪が倒れていた。
「パーシェル!」
 我と主がすぐに駆け寄る。
 そこで、主は息を飲んだ。
 白髪の体は朱に染まっていた。その細い体にいくつもの刀傷を作り、溢れ出た血が地面に広がり、水溜まりならぬ血溜まりとなっている。
 主も一目で悟っただろう。白髪はもう助からぬことを。
「パーシェル……」
「だんな……様……も、申し訳……ありません……フレデリカ様が……拐かされて……しまいまし……た……」
 白髪の傍には血に濡れた軍刀が落ちていた。とすれば、向こうに転がっていた死体は白髪が討ったのだろう。白髪はこの家を守るために、老いた体でこんな状態になるまで戦ったのだ。
「パーシェル、喋るな!」
 もはや息も絶え絶えな白髪は、それでも必死の形相で口を動かす。それが自らに課せられた最後の仕事とでも言うかのように。
「やつ……らは……フレデリカ様を……ぐ……トルスワヌの屋敷へ……連れて行くと……そこで……トルスワヌ公殺害の……犯人として……親族の前で処刑……するなどと……妙な……ことを……」
「わかった。後はまかせろ。今、手当を――」
 手を伸ばした主に、白髪は小さく笑って首を横に振った。白髪自身わかっているのだろう。もう遅いと。
「旦那様……フレデリカ様……を……」
「無論だ! 必ず助け出す! だから、だからお前も死ぬな! じい!」
「ほ……その呼び方も……なつかしい……です……な」
 その言葉を最後に――白髪は動かなくなった。
 主は呆然と、永遠に目を閉じてしまった白髪を見ていた。
 主と白髪がどれ程の年月を共に過ごしてきたかは知らぬ。だが、それはおそらく我と主のそれより遙かに長い時間だっただろう。震える手で力を失った白髪の両手を静かに組ませ、じっと遺体の見つめている主の心中は、察するに余りある。
 そして、我もまた胸に穴が開いたような感覚があった。
 目の奥が突き抜けるように熱く、喉元から堪え難い何かがこみ上げてくる。
 主が同族殺しに長けていたこともあり、人間の死は沢山見てきた。だが、我はそれらに心動かされたことなどなかった。所詮人間の死。馬たる我には関係ない。関係あるとするば、我が身を預けた人間、すなわち主の生死くらいだった。
 しかし、今我は白髪の死が悲しい。
 鼻先で触れてみた白髪の体は、どんどん冷たくなっていた。かつて、つがいがそうであったのと同じように。
 白髪との思い出が、次々と頭に沸きあがった。
 我のために敷き藁を変えてくれたこと。我の毛繕いをしてくれたこと。我の好みに合わせ、味の濃い人参を持ってきてくれたこと。
 我は天高く嘶いた。我なりの哀悼の意を捧げずにはいられなかったのだ。
 我が力の限り声を出し尽くすと、主がきつく目を瞑っているのが見えた。それが哀悼の儀式なのか、ただ涙を堪えているのかはわからなかったが、その目が見開かれた時にあったのは、悲哀を怒りに変えた、決意の表情だった。
「パラグノフ」
 我に語りかける主。その声は意外なほどに静かだった。
「これから私はフレデリカを助けに行く」
 金髪を助けに行くのだな主よ? わかっている。わからぬはずがない。
 行こう主よ。例え道が険しかろうと、我と主ならば越えられぬものはない。
「だから、ここでお別れだ」
 主は寂しげな声でそう告げると、我に背を向けて歩き出した。我を放って行く先には、半壊した厩舎がある。幸いにも火は燃え移っておらず、中にはまだ何頭かの馬がいるはずだが――いや、まて。主よ何をしている?
 主は熱気が立ちこめる赤熱の空間を、意に介さないように歩いていく。呆気にとられた我からしばし離れた所で一度だけこちらを振り返り、名残惜しそうな目で一瞥し、再び歩き出した。言葉を解せぬ我に、あたかも別れを告げるように。
 ……は?
 何だそれは?
 何故我に背を向ける?
 何故一人で去って行くのだ主?
 ……ああ、なるほど。朧気ながらに察したぞ主。
 危険なのだな?
 金髪を、主のつがいを救いに行けば、幾度も超えた戦場より危険な事が待っているのだな?
 そして、それに我を巻き込めぬと、ここに置いていくことにしたのだな?
 全てわかるぞ主。もはや付き合いも長い。
 言葉は解らずとも、状況を鑑み、表情を読めば、主が何を考えてるのか解る。
 だから言わせてもらおう主よ。

 ――――ふざけるな!!

 貴様は我の主だろうが!
 我は貴様の騎馬だろうが!
 我は主の物語の役を請け負ったのだ! 他ならぬ貴様の誘いを、我自身の意志でだ!
 それをここで降りろとは、馬鹿にするにも程がある!
 我は怒りのまま、主の背に突進し、大口を開けて主の肩に噛みついた。歯に力は込めないが、顎でがっちりと噛み締める。驚きふためく主に構わず、そのまま地面に引き倒す。
「!? パラグノフ――!?」
 肩から口を離し、仰向けになって何やら抗議の声を上げようとした主の顔を覗き込む。
 主の目に我の目を映し、この滾る怒りよ伝われと視線に熱を込める。
 しばしの沈黙。
 今だ燃えさかる家屋の紅蓮に照らされながら、一人と一頭は無言で意を交わし合った。
 ややあって、主は呆けたような顔でぼそりと呟いた。
「一緒に……行こうと言うのか」
 一緒に行くぞ主。
 危険だの何だのといった理屈は関係ない。
 汝には我と一緒に行く義務があり、我には汝と一緒に行く権利がある。
 我は主に横腹を向け、とっとと行くぞと言わんばかりの視線を流して鞍への騎乗を促した。
「……オベロン伯の私兵は多い」
 ゆっくりと立ち上がった主が、我に歩み寄る。
「その全てを薙ぎ払ってフレデリカを救出したとしても、いわれ無き罪にて追われるだろう。それでも――行ってくれるか?」
 おそらく人特有のややこしい事情やらをぐちぐちと言っているのであろうが、馬たる我には関係ない。
 我がした返事は、ただ一回大きく鼻を鳴らすのみだ。それで伝わるはずだった。
「すまないな。相棒」
 言って主は鞍に跨り、鐙を踏み、手綱を握った。
 欠けたものが埋められていくような感触とともに、伝わってくる確かな重みと充足感。騎馬と戦士は合わさり、我等は騎士に、何ものにも阻めぬ最強の存在となる。
「目指すはトルスワヌ邸だ! 目一杯飛ばせ!」
 主の檄に、我は虎狼の遠吠えの如く激しく嘶いた。
 任せろ主よ。今日の我は、風をも越えて見せようぞ。
 
 
 
 駈ける。駈ける。駈ける。
 大地と我の蹄が怒号のような足音――否、疾駆音を奏でる。
 周りの木々が流星のように過ぎ去って行き、暮れる空の暁に染まった雲も、激流の大河のように背後に流れていく。
 我は、かつてない速さで駆けていた。
 目指す場所はわかっている。
 主が指し示した方向には、まばらな木々と、草のはげたかろうじての道があるばかり。この方向にある建物は、我が何度か金髪を送り届けたやたらとでかい屋敷だけだったはずだ。知っている道ならば、走るのもたやすい。
 夕刻である今は無論明るい昼間よりも走りにくいが、例え嵐のただ中でも我は一切速度を緩めぬだろう。そう、今はただ全力で駆けるのみ。
 既にかなりの距離を過ぎた。いい調子だ。この分ならばほどなく目的地に――。
 そう考えた時、ぐんっと手綱が引かれた。
 我は危うく、有り余る速度の慣性を殺せずに転げ回るところだったが、何とか足を踏ん張ってその場に体勢を保ったまま立ち止まる。
 その直後、目の前に幾本もの投擲槍が突き立った。我が止まらなければ今まさにいたであろう場所にだ。
 何者、などと考える必要も無い。敵だ。
 薄暗くなった空の下、道に向こうから、側の林の影から、馬に乗った兵達がわらわらと出てきた。やはり主達と同じ甲冑に、見慣れぬ紋章をつけた兵達だった。
「おとなしくしてください。我等は貴公を捕らえよとの命を受けているのです」
 先頭の騎兵が口を開いた。
 真面目さの無い嘲笑うような口調と、にやにやした顔がかんに障る。
「……誰の命だ」
 主が刺すような鋭い声で言う。白髪の死を思い出しているのか、その顔に確かな憤怒が現れていた。
「無論オベロン伯ですよ。いやはや妻に義父を毒殺させ、トルスワヌ家の財産を我が物にしてしまおうとは。ああ、何と恐ろしい!」
 芝居がかった態度で騎兵は何事か言うと、周りにいた大勢の兵達もげらげらと笑った。
 その余りに不快な光景に、我は歯を噛み締めた。が、背に上の主が感じたものはその比ではなかったのだろう。
 ちらと見た主の顔は、見たことのない類の激情で満ちていた。氷の酷薄さと灼熱の憤怒がないまぜになったような矛盾した凄絶さで染まり、主の体から溢れ出る形容のできぬ何かが周囲の空気に渦巻いているようだった。
 主は無言で長柄斧槍を構えた。
 そして、手綱を片手に強く握る。
 伝わってくる、主の荒ぶる心。
 征くぞ、という意志が、手綱を通じて我に届く。
 そして、我も同じ想いだった。
 ああ、征こう主よ。
 我等の前に立ちふさがるもの全てを突き破ろう。
 
 我は、駆けだした。

 目の前の敵達はその行動を自棄ととったか、我等をさらに嘲笑した。
 そう、我等が敵に迫るための僅かな間を、奴らは愚かにも嘲笑に費やしたのだ。
 そして、奴らの想像を遙か超える速度で距離が潰され、、その表情が凍りついた時はもう遅い。
 爆ぜるように敵前に迫った主は、その速度のまま得物を突き出す。
 穂先は馬上の兵が身に着けていた鎖帷子を貫いて、抉り穿つ。そのまま早贄となった兵は馬上から引き摺り落とされ、地面に転がって果てる。
 主は勢いを無駄にしなかった。
 我は跳び迫る。あたふたと弓を構える騎弓兵に一突き。背まで突き抜けた穂先を一気に引き抜き、主と我は返り血に染まった。
 手首を返し、主は長柄を斧刃でもって薙ぐ。隣にいた軽装の突槍騎兵が、鎖骨から脇腹まで裂かれて血飛沫と共に沈む。
 飛来音。
 敵の射た矢が主の肩当てを撥ね飛ばし、下の肌を浅く切る。
 直後、背後から突撃槍を持った騎兵が突っ込んできた。後ろから突かれた槍を我等は懸命にかわすも、円錐の先端が主の脇腹をかすめ、我の身も少々削られた。
 我と主は、互いに同じ所から血を滴らせた。
 痛いな主よ。
 だが、お互い怯む暇などありそうにないな。
 返しに振るった柄で、突撃槍の腹を押さえ、そのまま穂先を鉄兜の中に叩き込む。ぐらりと崩れる敵を最後まで眺める間などない。
 殺到した幾本もの突槍を、我は体ごと回転するかのように数歩分の距離を移動し、危ういところでかわす。
  正面。長大な騎剣で斬りつけられ、必死に我は回避を試みた。が、不覚にも主の大腿に騎剣がかすり、血を滴らせてしまう。しかし反省は後だ。再び突っこんで きた騎兵の機先を制し、主は斧槍を剛と振るう。今にも振り下ろされんとしていた長騎剣が敵の手首ごと落ち、悲鳴を上げる敵にとどめの一槍。
 一息つく間もない。敵の囲みの後ろから、山なりの軌跡で降ってきた投擲短槍が三本。内二つまでを主が得物で弾いたが、残る一つは間に合わず、主の二の腕を裂いて過ぎた。
 流石に厳しい。
 だがそれは主も我もわかっていた。孤軍が多勢に戦いを挑むとはこういうことだ。
 だが、負けぬ。負けられぬ。
 主の意に従い、瞬発的な疾駆で囲みの隙を通り抜けた。逃げるのではない。いかに我の足が速かろうが、どの道奴らを倒さなければここは進めない。
 我等は敵集団を中心に、円を描きながら疾駆し始めた。距離を置いた我等に、次々と射かけられる矢。
 だが、当たらぬ。
 我は足の速さに任せて爆走する。降り注ぐ矢は、しかし我の後塵を拝して背後の地面に突き立つのみだ。
 さもありなん。人、ないしはあの遅い同族を的にしている輩などに、我が当てられてたまるものか……!
 そして、我等は再び敵の集団に飛び込む。
 円陣を組んでいる訳でもなく、弓兵を全面に押しだしてしまった集団の“薄い”点に攻め入り、殺風を舞わせた。
 穂先で、斧刃で、突いて、穿って、斬って、断った。
 血飛沫が舞い、地面はおびただしい血を吸って朱に染まる。全てが赤に彩られていく空間を、我等は一瞬も休まずに殺して、駆けて、血に染まって、相手を血に染めた。
 我等の動きを止めようと突き出される突撃槍。それは我の首にかするような一条傷を残すものの、同時に主の穂先も敵の眼窩を貫く。
 もはや損害を度外視したのか、今度は強引に来た。四方から得物を構えた四騎が、囲い込むようにして斬りかかってくる。
 間抜けめ。
 四方を囲った程度で逃げ場を塞いだつもりか。
 跳躍。我の生涯の中でも最高の飛躍で、槍やら長斧やらの得物を飛び越える。
 囲みを抜けた主は、無様な十字を形作る四騎を食った。突いて抉って柄で殴り飛ばして斧刃を振り下ろして突起で砕いて唐竹を割って刃をかきまわして真っ赤でどろどろになって食った。食い荒らした。
 気付けば、敵はじりじりと後ずさっていた。
 こちらは今だ健在と言えど、全身に傷を負った単騎。
 一方向こうは数を減じたとは言え、圧倒的に多勢。
 だと言うのに、奴らは後ずさる。これだけの犠牲を出してもなお仕留められぬ我等を、不可解なものを見る目で見ていた。
 解らぬか。
 ならば教えてやろう。貴様等と我等の決定的な差を。
 貴様等はただの一兵にすぎぬ。
 貴様等はただの一馬にすぎぬ。
 だが我は、
 だが主は、
 
 我等は――――――“一騎”だ。

 主も我もあちこちに傷を負い、血を流している。
 だが、体はただ熱くなるばかりだ。
 我は血に濡れた地を、連続で蹴った。
 主の意志のまま、我の意志のままに。
 人馬は一つの思考を元に、一個の存在として動いている。
 ある時は舞うように、ある時は弾けるようにして血の世界を駆け巡る。
 どの方に体を傾ければ主は得物を振るいやすいか、主はどのように駆けて欲しいのか、もはや手綱を通すまでもなく理解できた。
 主は我であり、我は主だった。
 駆けて、貫き、断つ。ただそれだけの作業は、究極に限りなく近く極まっていく。
 突き込む穂先が雷と見紛う一閃と化し、迸るたびに屍を生む。
 振るわれる斧刃は真実一陣の風と化し、瞬く間も無く命脈を断つ。
 我は/私は、融けたまま一つとなった。騎士という何かになって、騎士というものが成すべきを成した。成し続けた。
 血の雨を浴び、血溜まりを駆け、殺意に囲まれながら、死を振りまき続けた。
 何も考えるまでもなく、何も迷わずに駆け続けた。
 そして。
 
 

 我の足は止まっていた。
 全身のあちこちに裂傷と打撲を負った体が重い。
 主もひどい。吹き飛んだ肩当ての下には赤い矢傷。大腿に刀傷。抉られた甲冑の下に脇腹の裂傷。手甲は柄で殴られた時にひしゃげ、その下は赤黒く腫れていた。こみかめも裂け、だらだらと頬を伝って血が流れている。
 ついでに頼みの長柄斧槍も、度重なる酷使に耐えかねたか半ばで折れていた。
 そんな我等に、最後の敵が躍りかかった。
 味方の死体が累々と横たわる中、一人鬨の声を上げて迫るその気概はかなりのものだった。実際、横殴りに振るわれた長柄半月斧での一撃は、今地面で死体と成り果てている者等の放ったどの攻撃よりも苛烈だった。
 が、我の心は少しも波立たなかった。主の頭の中で、今対面している敵はもう既に倒されているだろうと確信していたからだ。
 首を狙いにきた長柄半月斧は、主の喉元をかき切った――ように見えた。が、実際は触れてもいない。敵が得物を振るった瞬間に、主がほんの僅か首を反らしたできた紙一重の空間のみを裂いて過ぎたのだ。
 直後、我は一足で主を敵の眼前に運んだ。
 主は右手に持った斧槍の残骸、斧刃と穂先の付いた折れ端を短刀のように扱い、敵の喉笛に抉り裂く。
 敵は必死に手で喉を押さえ、もがき苦しみながら落馬した。陸に上がった魚のように地面をのたうち回り、やがてそれがただの痙攣に変わった後で、徐々に動かなくなった。
 見渡すと、もう敵はいない。せいぜい主人を失った馬達が、所在なさげに佇んでいるだけだ。
 思い出したように襲ってきた痛みと疲労に、思わず足を折ってしまいそうになる。
 主もまた同様なのだろう。今更のように脇腹の傷を押さえ、自らの体の重みに苦悶の表情を浮かべている。いずれも致命傷ではないだろうが、長く放っておける傷でもないだろう。
 主は歯をぎりりと噛み締めると、何度か荒い息を吐き、我に向かって微笑んだ。我も微笑んでみようとして、馬面でそれは難しい事に気付く。仕方なく、主の目を見ながら喉を鳴らした。それで伝わると信じたい。
 主は日が落ちる寸前の空を見て、再び表情を引き締める。
 そうか、時間がないか。
 ならば急がねばならないな。
 そう我もまた気合いを入れ直し、足に力を入れようとした――その時だ。
 視界の中のどこか一点に、妙な既視感を感じた。今日――そう今日の昼にあった何か。何かがそこに再現されようとしているのに我は気付いた。
 長い一瞬に、我は目を凝らした。
 何だ? 今我の視界には何が映っている? 危険はもう無いはずだ。そう、そこらにあるのは死体ばかりで――。
 ぞくりと、全身が総毛立った。
 ごく近くで、死体が動いていた。
 いや、死体ではないが、そう呼んで差し支えぬ体の兵士だった。胸にぽっかりと空いた穴。主が穂先で穿ったものだ。
 完全に致命傷を負っているはずの兵士は、ずるりと地面を這い、虚ろな顔で突槍を握っていた。そう、奴は後数秒の人生を、主を殺す事に費やそうとしているのだ。
 生気の失せた視線の先にあるのは、我が背上の主。
 横手からの鋭い穂先が、矢のように迸った。
 主はまだ気付いていない。

 刹那の中だ。

 地を蹴ってかわす暇はない。

 だめだ。

 主。


 だめだ!


 ぐ。



 あ。



 痛みがあったのかどうかはわからなかった。
 火を押しつけられた。
 我は灼けていた。
 
 主が我の名を叫んでいる。
 屈強な主には珍しく、今にも泣きそうな声だった。
 どうしたのだろうと思うより先に、首の異物感と熱さを思い起こす。
 ……ああ、これは槍か。我の首を、槍が貫いているのか。
 何だ、安心した。
 咄嗟に己が身を盾とするくらいしかできなかったが、どうやら主は無事のようだ。ならば何も問題はない。
 しかし何とも痛い。徐々に現れだした痛みが、本当に痛い。
「貴様ぁぁ!」
 主が怒りの声を上げて、手に残っていた斧槍の折れ端を手斧のように投げた。元々死に体だった兵士は、緩慢な動作のまま脳天にそれを受け、今度こそ本当の死体になった。同時に、我の首から突槍が血と共にずるり抜け落ちる。
「パラグノフ!傷は――!」
 我の状態を見た主が、声を失う。穿たれた傷穴からは、どぼどぼとおびただしい量の血がこぼれ落ちている。明らかな深手だ。人間ならば即死だろう。
 だが、そんなことは問題ではない。
 我はまだ、命がある。
 我はまだ、走れる。
 主が無事で、我が走ることができるのなら、何も問題ではない。
 異様に重たくなった前足で大地を踏み締め、少しずつ交互に動かす。
 我の行動に、背の上で戸惑っている主がいた。
 二、三歩と助走をつけた我は、渾身の力でもって大地を蹴る。蹴って駆け出す。
「パラグノフ! やめろ!」
 主が何か言っている間に我は速度の波に乗った。
 後はもう我の本能がやってくれた。疾駆は止まらず、ただただ加速していくばかり。
 体が軽い。あまりの軽さに足が浮いているのではないかと思った。本当に空を駆けているかのようだ。
 手綱から、手の震えが伝わる。我に止まれと命じようとしている主の心が伝わってきた。
 だが、だめだ主。それはだめだ。
 今、我の命は尽きようとしている。こぼれて落ちる赤黒い血は、そのまま我の命の液体だ。それをとめどもなく撒き散らして駆け続ければ、その末は言うまでもない。
 あるいはこの場で足を止め、入念に治療を施し、なおかつ我が奇跡に愛されていれば、命を長らえるやもしれん。
 だがな主よ。我は馬だ。
 駆けるべき時に駆けずして何が馬か。
 主のために駆けずして何が騎馬か。
 ここで止まるようならば、我はそもそも生きていないでいい。
 背に落ちた一滴の感触があった。ひどく薄くなった感覚が、何故かそれだけを鋭敏に感じさせる。
 ……なんだ主よ。泣いているのか。
 我の命が尽きていくのを悼んでくれるのか。
 そして、是が非でも駆けねばならぬという我の意志を解してくれているこそ、その狭間で苦しんでくれているのだな。
 ありがとう、我が主よ。
 だが我を惜しむ必要などない。
 我はずっと主を乗せて駆けていたが、その実我が主の物語に乗って駆けていた。主と共にあったからこそ、今この時、確かな意味のために駆けることができるのだ。
 かつては、我にも物語があった。
 広い広い草原を、気の赴くままに駆けていく物語だ。
 我の傍らには常につがいがいた。流れるような純白の毛並みの、美しい雌だった。
 我等は常に一緒だった。共に食べ、共に眠った。青い空の下、緑の匂いに包まれた草原を、肩を並べていつまでも飽きずに駆けていた。
 だが、我の物語は終わった。
 つがいは大地に還り、我にはもはや物語を紡げなくなった。
 駆けぬ馬は馬ではない。
 しかし、我には駆ける意味が無くなっていた。
 悲しみのまま、馬としての疾駆ではない暴走を繰り返していた我に、意味を与えてくれたのは主だった。
 ただ命だけが残っていたこの我は、主の物語の一部となることで再び駆ける意味を得た。
 だから最後まで全うする。最後まで駆けさせてくれ主よ。
 主には我のように、命より先に物語を終わらせて欲しくない。金髪の元に、主のつがいの元に、必ず主を送り届ける。
 だから駆ける。
 止まることは有り得ない。
 最後の最後まで、そこにある道をひたすらに駆ける。

 ……自らの蹄の音が遙か遠い。
 意識は朧となりながら、胸に宿った烈火が我を動かす。
 そして、駆ける。己を全うするために、ただ我は駆けていく。
 
 
 
 ……。
 …………。
 …………何だ。
 我の背にいたはずの主が、何故か我の目の前にいた。ひどく悲しそうな顔をして、我に語りかけている。
 我は、止まっているのか?
 情けない。すぐにでも起き上がろうとして、気付く。
 我等がいる小高い丘、その眼下にある屋敷こそが我等が目指していた場所だった。
 そうか。着いたのか。
 一瞬、よもや辿り着く前に果てたのではないかと思ったが、ほっとした。
 四肢はもう動かない。我は無様にも倒れ伏していた。
 当たり前だ。そも今命があるだけでも驚くべきことなのだろう。横たわった体から、急速に熱が失せていくのがわかる。
 それはいい。
 だが、主よ。何をしている?
 役目を終えた我にかまっている暇などないはずだ。
 あそこに金髪がいるのだろう?
 主を待っている、主の愛するものがいるのだろう?
 行け、行くのだ主よ。
 我はもはや動かぬ体に無理矢理力を入れ、よろよろと首を上げた。そして、今生最後となるだろう嘶きを上げる。主が目指すべき場所へ向け、最後の力をもって。
 主は我の嘶きの指し示す意味を悟ったのだろう。しばらく感極まった顔で我を見ていたが、ぐっと何かを抑えるように戦慄くと、目に確かな光を宿し、眼下の屋敷へ向かって駆けていった。
 その一度も振り返らなかった背中が、我にとって最高の餞別だった。
 今の主は意志で全身を燃やしているが故の、比類無き力が宿っている。全てを吹き飛ばす竜巻に何者も抗えぬように、今の主を止め得るものは何も無い。
 だから結果はわかりきっている。主は立ちふさがる全てを薙ぎ払い、己がつがいを助け出して、これからも物語を紡いでいくだろう。
 ……少し疲れたな。
 これだけ走ればそれも当たり前か。
 視界はいつの間にか闇に包まれており、風の匂いも、木々のざわめきも、もはや感じ得ない。
 優しい睡魔に誘われ、四肢も心も、ゆっくりと溶けていく。
 そんな夢心地の中で、ふと何も見えぬはずの目に映るものがあった。
 目の前には、我の知っている姿そのままのつがいがいた。
 ……ああ、来てくれたのか。
 白く艶やかな毛並みも、優しさを湛えた瞳も、何もかもが愛おしい。
 今際の際にこんなものを見るとは、我はずいぶんと人間の死生観とやらに影響を受けてしまったのかも知れぬが、まあ悪くはない。
 なあ、我がつがいよ。
 汝を失って、我の物語が終わってから長かった。
 色々なことが、本当に色んなことがあった。
 それでも、我は駆け続けることができた。
 我は、馬であることを止めなかった。
 だから、誇っていいだろうか。
 我が我を全うできたことを、我は誇っていいのだろうか。
 つがいは慈しむような優しい瞳に我を映しながら、己の頬で我の頬に優しく触れてくれた。じわりと伝わってくるぬくもりが、我の全てを包み、我の全てを肯定してくれた。
 そうか、ありがとう我がつがいよ。

 少し、共に眠ろう。
 そして、目が覚めたらまた駆け出そう。
 大地を蹴り、嘶きを上げ、前へ前へと踏み出そう。
 あの頃のように、どこまでも晴れ渡った青空の下をどこまでも。
 
 そう、どこまでも――駆けていこう。
   


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こちらのメールフォームから、作品の批評も募集しております。

●感想
バールさんの意見
 拝読いたしました。
 素晴らしい作品でした。素晴らしい作品でした!
 大事なことなので二回言いました。

 これほどカッコイイ馬を見たのは初めてです。あぁ、もう、カッコイイなぁもう!
 もう、何だろう、あらゆる意味で完成度が高すぎてなんかもう言う言葉が思いつかない。
 作中のすべての要素が心地よく自分の中でこなれてゆくのを感じます。
 ラ研で初めて50点入れさせていただきます。

 読ませていただいてありがとうございました。素晴らしい読書体験でした。


バロックさんの意見
 アイゼンさん『馬』読ませていただきました。
 とても面白かったです。
 馬の一人称で進むストーリーなんて読んだ事がなかったもので、新鮮な気持ちで読む事ができました。
 文章も、とても綺麗で読みやすかったです。
 学校の国語の教科書にはこういう物語を載せるべきだと思うんですよね〜。


L/るしあさんの意見
 読ませていただきました。
 いやあ、なんとまぁ、次はどうなるだろう、と右手が止まりませんでした。
 新しい目線、というのもそうですが、馬の視点で書かれていて
 制約がそれなりに課せられるにもかかわらず情景が非常に分かりやすかったです。
 最後どうなったのか、非常に気になる気にさせるのもまた力、ということでしょうか。

 さて、気になった点をひとつ。

 「共に戦場を駆ける時も、こうして主に撫でられる時も、我にとって決して悪い時間ではなかった。」の後、

 「その時、我の物語は終わった。」に続いているところで空白が多数空けられていることで時点移動が起こっているようですが、ロクに説明がないままプロローグから前の時間に戻ってしまっているので、スッと本編に入ることができなかったのが惜しかったです。

 ですが、これ以外に特に問題となる点は見当たりませんでした。(まだ自分が未熟だということに他ならないのかもしれませんが)
 久しぶりに良いものを読ませてもらいました。次何か書かれた時も読ませてもらいます。ありがとうございました。


FREQUENTERさんの意見
 人以外の一人称小説はあまりありませんが、馬というのはその中でもさらに珍しいと思います。
 その着目点が素晴らしいと思います。
 もちろん作品の内容もとてもよかったです。
 馬の独白感というか、空気感が素晴らしい。
 では、次回作を期待しています。


KIDORHYTHMさんの意見
 こんにちは。
 この話は、馬のドラマなのか騎士のドラマなのか分からない。
 両方描けてない。と思いました。
 全然ドラマが描けていないのに突然クライマックスに突入した。
 という印象を受けました。
 良かったと思ったのは騎士の立場に同情できた点です。
 設定的におかしいと思ったのは、こういう立場にいる人なのに人脈が全くないのか?
 私兵倒しても反逆罪に問われるのがオチじゃないか?
 と言う点でした。


竹田 一歩さんの意見
 こんばんわ、竹田 一歩です。感想返しに参りました!

 す、すごいですっ……! 実は前にもアイゼンさんの作品『Q勇者になるには? A魔 王を殺せ』を読ませて頂いていて、その時から「き、鬼才現るっ……!」なんて思っていたのですが、今回の作品にも感服させられました!(読ませて頂いた時 は投稿から時間が経っていたために、感想を書くのは迷惑かな? と思って書かないでいました;)

 本当に、物語に惹きこまれました! 激しい戦闘描写が多いために、下手をすると殺伐とした雰囲気で終わるかもしれないところを、ここまで綺麗で感動する物語にできるその手腕には舌を巻くばかりです!

 それだけに、自分なりに調べたりしてみて、批評にも微力ながら力を注いでみました!
 ではっ、細かいのですが、誤字脱字から。

>つがいはもはや、何度もお互いの首を触れ合わせた時にような暖かみが失せていた。

→「時のような」

>戦場においては平時とは違い、主は胸や足に固い何かで覆い、……

→「胸や足を固い」

>走る道を失ってしまった我がまだ駆ける道があるならば、我は駆けるべきだと思った。

→「我にまだ駆ける」

>が、我はそんな間抜けなことな事にはならぬし、主もそんな愚は犯さない。

→「間抜けな事には」

>……私をひどく暗い目で見てくるのです。」
>……天気が良いと本当に気持ちがいいです。」


 セリフで二つほど、句読点が入ってしまっているものがありました。
 また、
>今際の際に……

 という文章がありましたが、「今際」という言葉の意味にもう「死ぬその時」という意味があるので、「の際」が文章をくどくしてしまっていると思いました。

 以上、校正の時に参考にしてもらえれば、と思います。
 次に、物語についてなのですが、

 パラグノフの主が使っている武器はハルバートだと思うのですが、この武器が使われたのは十三〜十六世紀だそうです。
 そして、フレデリカ、つまりヨーロッパで女性にも遺産の相続が認められたのが十九世紀頃なので、矛盾が生じてしまいます。
 ただ、小説ですのであまりこだわらなくても良いのかもしれません;

 もう一つ、パーシェルのセリフ中で、
>……故に今、家督相続の最有力候補は公の実子のフレデリカ様か、実弟のオベロン伯なのです」
 と、オベリン伯のことを実弟と言っていますが、その後の兵士のセリフで、
>「無論オベロン伯ですよ。いやはや妻に義父を毒殺させ、トルスワヌ家の財産を我が物にしてしまおうとは。ああ、何と恐ろしい!」
  ここではオベロン伯はトルスワヌ公の義理の息子となっていますので、矛盾となってしまっています。

 最後、僕の誤った読み取りだったら申し訳ないのですが;
 物語の中でパラグノフがバックする描写がありますよね? 
 馬は拷問的な調教を受けない限り、バックできないそうです; パラグノフの主がそんなことをするとは思えないので……;

 いろいろ書いてしまいましたが、素晴らしい作品である事に変わりはありません!
 そして、的外れな事を書いていたら本当にすみません;何かしらの参考になれば幸いです!

 では、長々と失礼しました! ぜひまた、作品を読ませてください!
あ りがとうございました!


ヒトデ大石さんの意見
 拝読させていただきました。感想を書きたいと思います。

 素晴らしいの一言に尽きます。

 読破するのに、約40分かかりましたが、一気に読みきってしまいました。
 それだけ物語にテンポもあり、飽きさせない内容でした。

 オベロン伯の私兵との戦闘シーン描写は特に秀逸だと思います。
 文章を読んでいるのに、なんとなくその描写が文字としてではなく、映像として想像が出来ました。

 でもこの作品の一番の成功した点は、主人公を「主」ではなく、その馬にした点だと思います。
 これがきっと「主」目線の物語にしていたら、失礼ですけど普通の良作で終わっていた可能性もあると思います。

 素晴らしいです。
 文句なしで50点つけたいと思います。


ヒトデ大石さんの意見
 馬テラかっこよすw
 奇をてらっただけじゃないかっこよさがありましたよ。
 我って一人称が最高で一気に引き込まれたし、
 途中も話しががんがん進むから飽きませんでしたね。
 ラストシーンの渋さもよかったし読んでよかったですw


マナブさんの意見
 初めまして。マナブと申します。

 馬を拝読させていただきました。戦闘シーンに関しては秀逸の一言です。これだけの緊迫感を醸し出せるのは本当にすごいと思います!

 ただ、最初の方で主のセリフが説明口調過ぎる点があるな、と感じました。
 それでもそれ以外、描写やお話の展開はすばらしかったです。
 今後とも、お互いにより良い作品を作れるようにがんばっていきましょう。


Ririn★さんの意見
 こんにちは。
 読ませていただきましたので感想を入れさせていただきます。
 
「馬」が主人公ということで、少なからず設定の奇抜さが評価されているかと思うのですが、私の場合はつい最近「馬」が主人公の小説をラ研で読んでしまっているので、どうにも奇抜さで加点することができなかったです。
 あと同じ設定だったので、それをどう活かしているのかという点で計らずとも比べてしまう結果となってしまいました。人と比べてしまうことを嫌がる方がいらっしゃるとは思いますが、アイゼンさんは大丈夫そうかなぁと思い、少しだけ比べておこうかと思います。
  アイゼンさんの作品の場合、主人公が馬であることに必然性はなく、馬の目から見た人間世界を皮肉たっぷりに表現しているわけでもなく、どちらかと言えば主 人公の馬は人間そのもので馬らしい部分が薄かったり、あったとしても矛盾する表記があったりして馬が主人公じゃないほうが良かったのでは?と思ってしまい ました。
 比べている作品のほうは勇者がのろいで馬になってしまうという衝撃的な展開を含み、人間が馬になっているのですが、それでも馬であることで面白みが生まれる構成でした。
 こうなってしまうとあまり正しい評価は下せないと思いますので、点数のほうは評価なしにさせていただきます。
 
 設定はともかく、ストーリー構成に関してはオーソドックスでよかったと思います。文章に関しても非常にウマい運び方で良かったと思います。

 この作品に足りないと思うのは、馬から見た人間世界の皮肉でしょうか。やはり、せっかく馬という設定なのですから、人間に変えても通ってしまうようなストーリーではなく、馬だからこその面白みを追加してほしかったと思います。

 短くて役に立たない感想ですみませんが、この辺で。
 次回作もお待ちしております。

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