活冷茶さんの質問 2013年03月19日
最近のライトノベルの主な読者層では、『努力をする』そして『成長する』主人公が避けられる傾向にあるそうです。主人公が泥臭く努力したり熱くガンバって成長する描写なんていらないから、平凡な高校生がほんのちょっとしたきっかけでお手軽に作中最強の力を手に入れたり、何もしなくても可愛い女の子が惚れてきたり、そんな作品が求められているとか。
ネット上では、そもそも我々の生きる現代が『努力しても報われない』時代であるせいで、努力して成長するという描写が若者には嘘っぽくしか見えないせいだ、と分析している方もいました。一理あるかもしれないと思うと同時に、なんとも寂しい考えだとも思ってしまいます。
ツイッターをしている方なら御存知かもしれませんが、あの界隈では十年来のベテランのラノベ作家陣がそんな『努力嫌いな読者』の現状に苦言を呈し、彼らの作品とはリアルタイムな接点の無い若い(と思われる)読者の方々に批判されるという一幕もありました。
何かに向かってひたむきに努力し頑張っている人には好感が持てる、なんて、人が息をするのと同じくらい当たり前のことだと思っていました。努力して成長する主人公なんてものは、私は今までは王道中の王道だと思っていましたし、これっぽっちも疑いなどしていなかったので、これほど根本的な部分で思想の違いがあるとすれば、本当に衝撃的なカルチャーショックというかジェネレーションギャップのようなものを感じざるを得ません(まぁ、まだ三十路にも達してませんが……)。
ラノベの読者が全てそうだなんてヤボったいことは言いません。そういった読者はごく一部だろうと考えて無視しても良いのですが、さりとて、平凡な主人公と数人の美少女達を取り巻く各種ラブコメ作品であったり、主人公最強をウリにしたラノベが非常に人気である現状を鑑みると、そうそう無視して良いものとも思えません。
このような『努力を嫌う』風潮は一過性のものだと思いますか?
そうでないとすれば、今のラノベ業界でウケようと思ったら、努力をする主人公は書かない方が無難なのでしょうか?
皆様のご意見をお聞かせください。
●答え●
ああやっぱりtwitterソースですか。
たいていこういうものは「最近の若者はだらしがない」と言いたいだけの古参オタクが適当な印象論を語って、それを悪意のある者やデマをすぐに信じちゃうタイプの人が、無批判のままに拡散してそれを作家や作家志望が真に受けて勝手に萎縮して自爆しているというのがお約束なので、まあ話半分で聞き流すのが賢明ですね。
処女厨論争なんかもおそらく根本は同じですね。
『ソースはtwitter』と書くだけで一気に信ぴょう性がガタ落ちするのですから、不思議なものですね。いやまぁ、そういう例を持ちだしたのは自分なんですけども。
少数派と思われる人々の声が大きいのもこのテの話題の特徴ですね。
さて最近の若者……というか、いわゆるにわかオタク批判の類型と捉えてしまっても良いものでしょうか。
私個人としても本文に書いたように、いくらなんでもそりゃないだろうという気持ちが非常に強いのですが、しかしSAOや魔法科高校その他色々な類似作品が人気を呼んでいるのもまた現状なので、はて、という気持ちで、色々ご意見を聞きたくてこのスレッドを立てました。
仰る通りあまり真に受けすぎず、かと言って完全に無視を決め込むこともない程度に受け止めておきます。
どうもALLTです。
なんか、どっかのネットニュースでありましたね。「努力型の主人公は廃れた!?」って感じの。
よくあるのが、主人公の特訓シーンが無い。そこそこの修行であっさりと師を超える。突如チート能力を手にいれる。ってのですが、それは単純に「努力型の主人公そのものが嫌いなんじゃなくて、努力を見せられるのが嫌い」なんですね。
で、結果的に努力型の主人公に嫌悪感を抱くと。
私の周りでは、他人の頑張ってる姿をみて「頑張れ」とか「応援してるぜ」って思ってる人はかなり少数です。
どっちかっていうと「うざい」とか「ダサい」とか「自分に酔ってるマゾ」っていうマイナスな意見を持つ人が多いですね。
「才能だけで部活やってると思ってた彼氏が超努力型だったんだよ! 裏切られ幻滅した! もう別れる!」これ実話ですよ?
そういう風に感じてしまう人が増えて、修行シーンでの尺稼ぎができなくった……。
ってのが私の考えです。
それ以外にも「努力せずとも俺は最強なんだよ」っというキャラに憧れて自己投影している人も数はともかく、絶対数はあるでしょう。
そういうのもあって主人公の修行シーンが無い→その必要がない主人公→天才型主人公
って構図が生まれたんじゃないでしょうか?
また、努力が天才を倒すってリアリティが無い。圧倒的な天才が凡人をフルボッコにするほうがまだあるっていう意見もありますね。
努力はいわば主人公の見せ場の準備期間です。ライブとかでもスタジオ設営とかいいからさっさと、アーティスト見せろってなるでしょ? つまりそういう事なんです。重みよりもテンポが求められていると言えば分りやすいでしょうか?
私自身も延々と修行しているシーンだけを見せられるのはイライラしますね。
これはネットの意見なのですが「ラノベは基本的に単行本ごとに出す形式上、1巻目でそれなりに話展開させて区切りつけないといけない。修行して徐々に強くなる、なんてやってるとそれだけで1巻終わってしまう」出版社もテンポよく発行して儲けたいわけですから、修行して徐々に強くなるっていうのは、物語の区切りがつけにくくなってしまうことから、あまり好かれていないのかもしれません。
私としては最初から何でもできる天才型より、努力型の方が好きなので、努力している人間が前述のようにマイナスな意見を持たれるのは不快ではあります。
私も天才型主人公は何人か作ったことありますが、全員がハイリスクな条件持ちです。能力のせいで短命だったり、命を削ったり、能力自体はチートでも本来の身体能力はかなり劣化しているとかなどです。
あと、私個人としては修行シーンの尺稼ぎができないなら、特別な特訓じゃなくて、―朝食前に剣の素振りを200回。2年間、これを書かした日は一度もない―というように、普段から何気ない1日の中でも修行しているって描写をちょちょいと入れたり、ジョジョ二部のように一気に流して、それから2ヶ月、ついに約束の日が訪れたって感じにしたり、強い今と弱かった過去を描写したり、同じ努力でもいろんな見せ方があるとは思います。
ちょっと長くなりましたね。完全に私個人の見解ですが、参考になれば幸いです。
同じ努力型主人公好き同士頑張りましょう。
確かに天才型とかラッキーで実力を手にした主人公が多い、というのは最近の風潮であるかもしれないです。
ただ、イコール努力する主人公は受けないのか? と問われるとそんなことはないと思います。
最近売れてる作品の主人公はそうだというだけであって、努力する主人公なんて漫画だろうがラノベだろうが珍しくもないですし(マァ素質ゼロから努力して一流にって主人公は稀かもしれませんが)
ただ、努力って言うと美しく聞こえるかもしれませんが、実力を得るために行う行動、活冷茶さんの言うところの修行シーンってやってることはジミな場合が多いんですよね……
考えてみてください。たとえば戦闘訓練において努力を怠らず、実際に実力がある兵士、というキャラがいたとしましょう。
そういうキャラが普段している努力と言えば、走り込み、素振り、仮試合、魔法とかを使うなら図書館で勉強、机に向かって魔法理論の練習等々……
話の中、有効にでそれらをこまめにはさむのってかなり難しいです。
実際、仲間との会話をする理由づけにそれらのシーンを描くならともかく、『俺これだけ努力してるんだよ! 見て見て!』という風に描くとウザく思えます。
リアルでもそうじゃないですか? 努力というのは人知れずやるからかっこいいのであって、それを他人に話して『評価して!』というのはただのかまってちゃんです。
物語を描くという都合上そういう側面もあるので最近はそれらの問題を解決できる天才型、が流行っているのかもしれませんね……
とはいえ地道な努力をしている主人公、というのは決して嫌われる存在ではありません。
作者の都合で過剰にアピールしない限り『このキャラは天才じゃなく努力の上で今の実力に至っているのだ』というのは非常に好感が持てるキャラ設定だと思います。
長ったらしく描きましたが、活冷茶さんのこれからの創作活動に少しでも足しになれば幸いです。
それでは。
う~ん……私としては、努力が避けられるのではなく、努力の描写が避けられているか、修行シーンがエンターテイメントとして面白く描けていないというだけのことだと思います。
ドラゴンボールZで、セルゲーム前に10日間の間をアニメでは引き伸ばしでかなり長く時間をとっていましたが、私にしてみれば、修行シーンも日常シーンも要らないから、早くセルゲーム本編に移ってくれよ! って思いながら見てましたもの。
淡々と何か同じ作業だけを繰り返しているように見える修行シーンや、戦うべき敵がいるのに、修行シーンばかり見せられて、なかなか敵との戦いが始まらないというパターンが忌避されているのではないでしょうか?
また性格自体は特別努力型ではなくても、必要に迫られて成長し、強くならなければならないという場合もあります。
また努力もしているけれど、物語が終わる段階ではさまざまな理由でとんでもなく強くなっているという場合もありますね。
例えば3×3EYES(サザンアイズ)などは、主人公の師匠とヒロインが行方不明になるという展開があります。
行き先を知るためには師匠が設定した修行プログラム(=その師匠の師匠=物語における宿敵と戦い勝つ)をクリアしなければならない。
このときの描写を見てみると、主人公がこのプログラムを相手に修行してるシーンはほとんど描かれていないんですね。
実際には・・・
1.最初に宿敵の姿を見て驚いてるシーンと
2.どうすれば勝てるんだ? と考えながらやられているシーン
3.戦っている最中に上手く倒す戦法を編み出し、プログラムを攻略したシーン。
の三回しか描かれていないんですね。
この間日常シーンなどをはさみ、中だるみを防ぎつつ、中々プログラムを攻略できないと独白させたりして、努力している描写を省きつつ、努力していることをきちんと読者に伝えているわけですね。
結局のところ見せ方の問題と、物語的に中だるみするような描写を繰り返すことが問題なのではないでしょうか?
上手く説明できているか怪しいですが、僕が思ったのはそんなところです。
一過性どころか、90年代からずっとそんな感じです。
では、最近になってこのような風潮がライトノベルにおいて取りざたされるようになったのはどういうことでしょうか?
BASTARDのDS然り、FSSの天照然り、るろ剣の剣心然り、おそらく90年代どころかずっと昔から、最強を標榜するキャラクターは大勢いました。しかし、それに反した努力型への嫌悪はあまり聞いたことがありません。
単にネットが発達して、同時にぽつぽつ流行ってきた数作品が話題になったというだけ、でこういう風潮があると思わされてるだけなのでしょうか。ALLTさんにも返信しましたが、そもそも若者の多くが努力を嫌うのは日本の(?)風潮でもありますしね。
飛車丸さんからすれば、私が知らないだけだろという気持ちでいっぱいでしょうけれど、なにぶん、ライトノベルに関してはあかほり世代というわけでもないので、あの時代の事情については浅学で申し訳ないです。
> よくあるのが、主人公の特訓シーンが無い。そこそこの修行であっさりと師を超える。突如チート能力を手にいれる。ってのですが、それは単純に「努力型の主人公そのものが嫌いなんじゃなくて努力を見せられるのが嫌い」なんですね。
なるほどです。後述されていますが、特訓シーンばかり延々続けられても面白みに欠けるのはそのとおりですね。かと言って全く書かないわけにはいかず、創作家の皆様におかれましては、その辺の按配に苦慮させられていることと思います。
そして、特訓シーンへの煩わしさが飛躍して、ついに行き着くとこまで行き着いたのが『努力型』への嫌悪ということになるのでしょうね。
> 私の周りでは、他人の頑張ってる姿をみて「頑張れ」とか「応援してるぜ」って思ってる人はかなり少数です。
> どっちかっていうと「うざい」とか「ダサい」とか「自分に酔ってるマゾ」っていうマイナスな意見を持つ人が多いですね。
ハッとしました。深く胸をえぐられた気持ちです。失態でした。
そうでした。『頑張るのはダサい!』。中高生の中にはこういう考えが根強くあるものでした。私がリアル中高生だった頃から大分経ち、そういう風潮があったのを久しく忘れていました。日本の忌むべき考え方の一つに思えますが、これは念頭に置かねばならないですね。
ふと思い出したのですが、某格闘漫画の人気キャラクターも『強くなるために努力するのは女々しい』という非鍛錬の美学を持っていましたが、男として憧れずにはいられない程のカッコイイ漢でした。色々な考え方があってしかるべきですね。
> 「才能だけで部活やってると思ってた彼氏が超努力型だったんだよ! 裏切られ幻滅した! もう別れる!」これ実話ですよ?
ちょっとだけ、かつて『新人類』に直面したオジさん達の気持ちが分かったような気がします。
なんか意味わからなさすぎて若干鳥肌たちました。
> それ以外にも「努力せずとも俺は最強なんだよ」っというキャラに憧れて自己投影している人も数はともかく、絶対数はあるでしょう。
憧れはしますよね。そりゃぁ、何の努力もしなくても最強無比というのは。頑張るのは悪いことじゃないですが、人間やってるなら誰だって辛いよりは楽な方が良いものです。
主人公に自己投影して読み物を読むというのもイマイチ自分には馴染みが無い楽しみ方なので、その辺についてももう少し理解していきたいですね。
> また、努力が天才を倒すってリアリティが無い。圧倒的な天才が凡人をフルボッコにするほうがまだあるっていう意見もありますね。
それは確かに。凡人側を主人公にして総スカン喰らったゲームを一つ知っていますが、それならまだ天才が世の中を自由に蹂躙するような作風のほうが、爽快感もありますね。
> 努力はいわば主人公の見せ場の準備期間です。ライブとかでもスタジオ設営とかいいからさっさと、アーティスト見せろってなるでしょ? つまりそういう事なんです。重みよりもテンポが求められていると言えば分りやすいでしょうか?
言いたいことは分かりますが、その例えは間違っていると見えます。
その例えで言うなら、『努力』とはミュージシャンの練習風景のことでしょう。ライブ設営は剣士が戦の前に鎧を装着し剣を佩き兜を被る一連のお着替えシーンみたいなもんで、それを努力と言うのは……延々それを見せられても、そりゃ客側・読者側は飽きるのも道理でしょうけどね。いやそういうシーンが好きな人もいるでしょうけどね。
私は美少女が和服を着て黒の御髪を整える描写に何ページ費やされてもいいですしね(私事)
揚げ足取りのようで申し訳ありませんが。
> あと、私個人としては修行シーンの尺稼ぎができないなら、特別な特訓じゃなくて、―朝食前に剣の素振りを200回……
うーん。尺稼ぎのために入れられるような努力描写なら、そもそも、そんなもの要らないと私は思いますね。たぶん、見てもつまらないでしょう。ただ確かに仰る通り、鍛錬は欠かしていないという描写がちらとでもあるだけで、だいぶ話は違うものになってくるでしょうし、そういうのは好きですね。
主人公の話ではないですが、ツンデレな女の子が陰でものすごい努力してるとかべらぼうに可愛くて悶え死ぬのでもっとやってほしいという気持ちですが。具体的にはサ○ンナイト3。
つい最近新聞で目にしたのですが、今時の若者は達観主義と言われている様ですよ。
結果が見えている事に労力を、時間を、お金を費やさない世代だそうで……
どんな記事だったのかは直に思い出せないのですが、成る程と納得できる事柄だった。
努力と成果が釣り合わないと考える様です。
初めまして、ひみつです。
私の個人的な見方になってしまうのですが、努力する主人公が避けられているというより、読み手が物語に爽快感や、癒しなんかを求めている部分もあるからじゃないかと思います。
日常生活で苦労したり、疲れたりしているときに、わざわざ主人公が泥だらけになっていたり、汗臭く血が流れるほどの話を読むよりも、もっと明るく楽しいものを読みたいと思う。
暗く陰惨な気分になっているときに、鬱展開の話を読むよりも、癒してくれるようなヒロインなり、ヒーローの話を読みたがる。
こういった、読者の感情的要因が、結果的に努力型主人公よりも、天才型主人公を求めるようになっている、ひとつの要因のように思います。
また人は、自分は平均以上よりは優れていると思う傾向があるという、研究結果を聞いたことがあります。
また人によっては、対戦ゲームなんかで、自分のお気に入りのキャラクターを誰かに使われたときなど、真似をするなと怒ったことがある方もいらっしゃると思います。
以上から、自分は人より優れている、あるいは誰もが簡単には真似できない、固有の能力、才能へ憧れを抱く思いが働いて、天才型主人公の織り成すストーリーを求める方が増えている、とも考えられます。
あるいは、既に指摘されている方もあるように、作者的都合、例えば努力する姿を描くと物語が淡々となってしまうとか、努力の仕方をうまく表現できないと感じて避けてしまう。または、天才でありたい、主人公も、僕の私のそんな願望、欲望駄々漏れに書いちまったぜ♪ そんな私のような書き手が、天才型主人公万歳小説を書く。
そして、天才型主人公の小説が増え、影響を受けた方々が増え、さらに天才型主人公の小説が増えていく…
なんて、ある種の循環が出来上がっているのかもしれません。
これらは、流行と同じようなものだと思いますので、いつまでも続くということは、無いように感じます。慣れてきたあと、また努力型主人公が流行るかもしれませんし、もしかしたら何か別の新しい主人公が流行るかもしれません。なんにしても、私個人としては楽しみな話です。
あくまでも、私個人の見解になりますが、参考になればと思います。
当方現役高校生です。
確か『ハイスクールD×D』 というアニメ化もされたラノベでは、主人公はきちんと修行したうえで強くなっていたかと思いますね。
ただもとからもっていた凄まじい力を引き出すための、という但し書きが付きますが。
要はみなさん方も仰っている通り、修行シーンをどう扱うかの問題じゃないかなと考えたりします。ねちっこくやっても『今の時代では』ウザったいだけなんじゃないかと。
あとは主人公の性格かな。昔のスポ根から飛び出てきた熱血系が努力するさまなんかを見せられても、あんまり今の世代は楽しくないでしょう。
個人的には努力することを厭うという風潮はあるとは思いますが、それと同時に馬鹿正直に突っ走る、みたいなキャラクターが今の世代に合わなくなっているのかなとも。
そういうキャラクターが努力するのと、今の世代が好みそうなクール系(もしくはダウナー系?)のキャラクターが努力するのはかれらにとって違うものかもしれません。
私は自己投影派ではないのでちょっとよく分かりませんが、かれらの実情に合う主人公がいて、それに思い入れして見るのと、前述のまったく自己投影できないスポ根熱血が努力するのを見ているのとでは反応が違うのは自明の理です。
私が考えるに努力の形態もあります。
根性第一のまるで旧共産国のプロパガンダポスターみたいにベタベタな一昔前の努力と、努力を努力と感じさせないクールで怜悧な努力のどちらがより受け入れられやすいか(個人から全体を判断するのは危険ですが、私のこの記述のひとつをもってしても、今の世代の価値観みたいなものが浮き彫りになっているはずです)。
まあ、箸にも棒にもかからない論を重ねて来ましたが、努力自体に対する失望や冷笑はどうしようもありません。しかし方法論次第でどうにでもなる問題ではあります。
以上です。失礼しました(`・ω・´)ゞ
こんばんは。
私としては努力をしない主人公というと、戦闘力がどうこうよりもいわゆるテンプレハーレムラノベの、特に何もしていないのに周りのヒロインからモテまくる主人公を思い浮かべますね。あれもまた、女性にモテようとする努力をしないで、モテるという結果だけを得ている存在ですから。
では本題。
一過性かどうかで言えば、一過性じゃないでしょう。
というかすでに何年も前からそういう風潮があるわけですし。ただそれが近年さらに顕著になってきただけでしょう。
ただ逆に言えば、これからさらにそういう風潮が旋風を巻き起こすとしても、努力型を好む読者も根強く残るでしょうね。
なにかがはやれば右向け右な傾向のあるラノベ界ですが、あえて左を向きたがる人間がいるのもラノベ界ですし。まあ、それは別にラノベ界に限った話ではありませんが。
無難かどうかでいえば、そりゃあ流行に乗っかったほうが間違いなく無難です。
ただ流行に乗っていれば受け入れられるというわけでもないので、まあ無難は所詮無難という程度の意味合いしかありません。
結局、こういうのって、作者側の問題だと思うんですよね。
読者はあくまで、自分の素直な感性に従って作品を選んでいるだけですし。
発信するのはあくまで作者です。
流行に乗る乗らないも、どういう読者に向けて作品をつくるのかも、作者が決めることです。
自分の作品が受け入れられないのは読者のせいだ、なんて考えにさえならなければ、自分の思ったままに、自分の作品を書くのが一番だと思いますね。
ではでは。
映画評論家や映画ファンが集う、とあるラジオで、
「最近はダメ人間が努力などで成長する映画が少ない。
主人公に元々ある資質をいかにして引き出すかという映画が多い」
ということをおっしゃっていました。
もし、本当に努力型主人公が避けられているのなら、それはライトノベルの読者層に限った話ではないのでしょうね。
個人的には、読者がどうこういうよりも、作者側が天才型主人公を好きなだけ、もしくは書きやすいだけ、かもしれないとも思います。あるいは編集者さんからの要請でしょうか。
(なにせ、努力型主人公は成長しきってしまったらそこで話が終わってしまいます。
だからといって、延々と努力させているとそれはそれでリアリティがないです。できるだけ長く続けたいラノベや漫画には不向きそうです)
だから結果的に天才型主人公の本が多く流通し、流通量が少ない努力型主人公の本は、はた目には不人気なように見える、という可能性もあるんじゃないでしょうか。
読者側の嗜好の変化だとしても、恋愛もの、特にハーレムものでは致し方ない気がします。
なぜなら、結局世の中、顔のいい人間がモテるという現実があるからです。
もしくは天性のトーク力がないと、彼女彼氏はできてもモテはしません。
勉強や身だしなみなどを気遣っても、たかが知れています。
努力でどうにかできることではないのです。
大人になれば財力や権力などがものを言うのでしょうが、ライトノベルを好む中高生なら、やはり顔やトーク力がものを言います。
なので、普通の人間がモテるという願望が叶えられる話が好まれるのではないでしょうか。
あと、たとえ主人公が努力をしていなかったとしても、苦労はしていると思いますよ。
最強の能力があるのに、毎回ピンチになってそれを根性と計略で乗り超える主人公とか。
女の子との間で板挟みになり、苦しみぬいたあげくひとりを選ぶ主人公とか。
主人公ともなると、なにかしら苦労はしているものです。
過去の人気作にしても、努力より苦労に重点が置かれていたように思います。
仮面ライダーは怪人に負けると特訓していましたが、九十八話という全体からみるとごくわずかでした。
ハットリくんも鉄腕アトムものび太もアンパンマンもスパイクスピーゲルも大神一郎も、努力というよりは苦労をしていたようなイメージがあります。
というわけで、努力を苦労に置き換えれば、カルチャーショックも薄らぐのではでしょうか。