ライトノベルは純文学に劣るモノなのか?3

ジダマさんの意見

 こんにちは。ジダマです。お久しぶりです。
 時間が惜しいのでちゃっちゃと書いてしまいます。悪文になりますがご了承ください。
 あと最近読み返した本の知識をそのまんま書いてるような形になりますが、許してください。

 大塚英志さんの本に「キャラクター小説の作り方」という本があるのですが、
 そこにライトノベルのレベルは低いと見られているのは、
「自分たちの小説が何なのかについて、
 作者も編集者も一度だって真剣に考えたことがないから『小説』として進化し損なっている」
 と書いてありました。

 で、その最大の理由は出版社側がライトノベルを「小説」だとは思っていない点にある、
 とも書いてあります。

 ところで、チョコエッグというお菓子があります。
 卵型のチョコレートの中におまけのおもちゃが付いているあれです。
 ライトノベルはあれと同じなのだと大塚さんは言います。
 つまり文章がチョコでおまけがイラストなわけです。
 チョコエッグを買う人はチョコよりもおまけが目当てです。
 ライトノベルを買う人もイラストが目当ての人がいるということです。

 純文学とライトノベルを比べてライトノベルの方が低いとみなされるのは、
 イラストで売るというスタイルをとっているから、
 というのが一つの理由ではないかな、と思います。

 そもそも角川スニーカーは少女向けのライトノベルのコバルト文庫が売れてるみたいだから、
 「じゃあ、こっちも似たようなのやろう。人気作家を引き抜いて」と始めたヤツで、
 そのときからイラストで売るというスタンスをとっていたので、
 今もイラストで売ってるのはしょうがないと言えば、しょうがないことなんですよね。
 スニーカーから派生した電撃も似たような感じでしょうか。

 ライトノベルは小説なので、文章で勝負です。
 そして、その文章的にも良い作品にイラストがつくことによって、よりよい作品ができるわけですね。
 イラストがなかったらあんなには売れないだろと思える作品が、
 そのへんにゴロゴロしてますからね。
(個人的な話ですが、「灼眼のシャナ」と「終わりのクロニクル」は、
 イラストがなかったらさっぱり売れなかったと思います)。

 イラストがなくても売れるのは「半分の月」とか有川浩さんの作品ですかね。
 特に有川さんはイラストが少ないハードカバーで本を出してるみたいですし、
 その試みは実に好感が持てます。

 あと純文学は芸術でラノベは娯楽ですから。

 ピカソと、いとうのいぢを比べたとき皆さんも、
 ピカソの方がすごいというような意識があると思うんですよ。
 ピカソの良さを理解してるにしてもしてないにしても。

 まあその純文学でさえも最近は衰退してきてると言われてますけど。
 オタクパワーで純文学の本や講談社ノベルスにですらアニメ絵がつき始めましたから。

 あと志の違いとかも原因の一つではないでしょうか。
 ライトノベルの出版社はメディアミックスした自分のところのアニメや漫画、
 ゲームにしか消費者を誘導する気がないみたいですし。

 ハルヒを読んだら次はアニメなんですよね。
 ハルヒを読んだ人が次に村上春樹を手にとる確率はかなり低いです。
 まあ僕はライトノベルを経て、最近では無性に清少納言の枕草子を読みたくなってますが、
 これは例外でしょう。

 一昔前の筒井康隆の「時をかける少女」や、井上ひさしの「ブンをフン」とかの小説は、
 若い読者に文学を噛み砕いて伝えようとしていたんですね(これも大塚さんの受け売りです)。
 今のライトノベルとはずいぶんと違います。
 まあこれらはライトノベルではなくてジュブナイル小説ですけど。

 で、そのような出版社の出すラノベに僕たちが喜ぶから、
 出版社は、イラスト付けておけばオタクが買って駄作でも少しは収入源になるから、
 と毎月バカスカ小説を出すんですね。おかげで良作が駄作に埋もれてしまって大変です。
 まったく、じつに迷惑です。

 だから消費者であり、かつ作者である僕たちはそのへんの事をちゃんと考えて、
 書く必要があると思うんです。
 そうやって自分たちの小説について真剣に考えたとき、他の人にもバカにされなくなるわけで、
 もしバカにされたとしても「こいつは何も分かってないな」と逆にバカにできるわけですね。

 つーか、僕も電車の中や学校でライトノベルをブックカバーなしで読む勇気はありませんし、
 やはりライトノベルに対して少し劣等感を感じているんだなと思います。

 まあ僕たちの態度も悪いと思えますけどね。
 つまらない作品ならつまらないと言わなければなりませんし、
 中途半端なアニメ化だったら(いやむしろどのようなアニメ化に対してもか?)
 断固として拒否しないといけないと思います。「小説がアニメ化できるものか!」と。

 はい、まあそういうことで、バカにされたって仕方ないかなとも今は思っています。
 ただし、「今は」であっていつかはなんとか賞をとって、
 ラノベをバカにする人をぎゃふんと言わせてやりますけど。
 あとライトノベル業界を少し改革することを目論んでいます。

 えー、ぐだぐだですが、このへんで終わっておきたいと思います。
 質問にちゃんと答えられてないような気がしますがごめんなさい。許してください。
 はい、そういうわけで皆さん、共にライトノベル作家を目指してがんばっていきましょう。
 では、失礼します。

イレイズさんの意見

 ライトノベルと純文学を比べる事はそもそも間違いではないかと個人的に思います。
 同じ『小説』という枠でも、中身は違います。
 目玉焼きにソース派か醤油派か、みたいな感ではないでしょうか?
 ソースをかけるか醤油をかけるかは個人次第でしょうし、
 それは小説にも言えるのではないでしょうか?

 他の方も仰っている様にライトノベルの歴史はまだ浅くこれからだと思います。
 個人的にですがライトノベルが純文学より劣っていると思われる理由を幾つか。

1.基本的な対象年齢が低い為『子供の読む物=レベルが低い』と思われている。
2.表紙や扉絵などにマンガの様なイラストが入っている為『オタクが読む物』という先入観があり、
  オタク自体がバカにされている傾向がある。
3.小説としては未だ一般的では無い。

 と、以上の事からかと個人的に思います。

 劣っていると思われるのは、特にオタクがバカにされている事が一番絡んでいると思います。

魏延さんの意見

 ライトノベルが一般的に敬遠されるのは……

・文章のレベルや感性
・凝ったCG的なイラスト
・対象年齢の低さ
・上に伴い、はちゃめちゃな展開や人物

 以上ぐらいですかね。一般的に言われているものは。
 上から言っていくと、まずは文章です。『何でもあり』であるがゆえに、
 中立的で流暢な文で酔わせる純文学と比べるとどうも違和感があります。
 愚生でもそんな感じですから、一般文学至上の方にとって、
 ラノベの文は肌に合わないんでしょうね。

 「そんなこと言ったって、中には~~」との言い分もありますが、それは純文学とて同じなんです。
 笑わせる純文学もあります。泣かせる純文学もあります。
 簡素で分かりやすい言葉で綴られた純文学もあります。
 純文学を基準に比べるなら、やはりラノベは勝てません。
 ラノベを基準にするなら、純文学は堅苦しいという印象が生まれるのですけれど。

 次にイラストですが、さすがに派手なもの、狙っているものには愚生も躊躇います。
 図書室で借りるにせよ勇気が要ります。
 「いかがわしい本」とまで言われます。実は賛同していた自分もいます(泣
 まあ、そこは言ってもどうにもならないので、個人の問題ということで。

 次に、少年少女世代が読者層であることも差別の原因になっており、深刻です。
 万人向けに作られたのではなく、活字離れ、イケイケで、ゆとり教育で育ってきた世代向け。
 作家は彼らに合わせるつもりはなくても、どこかでレベルを落としている感があります。

 最後に、あまりにマンガチックな描写、展開、人物が続きます。
 例えば。
 髪が真っ白だったり真紅だったり真っ青だったり。
 それでいて日本人だったり。
 なぜかおたずねもの。あるいは凄腕の○○とか殺人鬼とか宇宙人とか……。
 しかもそれをほとんど抵抗もなしに受け入れている周囲と主人公。
 ……こういう作品が主流になっている面もあるのですから、
 例えそれらにそれなりの理由があったとしても、
 落ち着き感やわきまえたはちゃめちゃ感が好きな方には、付いていけないでしょうね。

 ラトノベルは文学作品であるかないか。
 それはない、です。もちろん一般的には。純文学が基準で。
 しかし探せば一般小説の分野に達しているのも多いと思います。
 されどまだまだそちらは主流でないのもあります。
 結論的に、こちらがラノベ差別をどう捉えようとある程度の差別が存在することは
 知っておかないといけないですね。
 その点、こういうラノベ専門サイトはラノベ作家、読者には喜ばしいものです。

ペットボトムさんの意見

 単刀直入に言うと、「時代の問題」ですね。

 今、日本文化の中でも特に注目を浴びてるアニメですが、
 一昔前は子供の観るものと位置づけられていました。
 ところが今は「クールジャパン」と海外にまで賞賛されています。

 もしかしたら今回の話題の「純文学」ですら、
 人類文明の最初期の頃は「軟弱な物」として軽蔑されていたのかもしれません。
 我々が歴とした日本語として使っている平仮名も、平安時代には女々しい物とされていたそうです。

 このように新しいものというのは、大抵の場合最初は少なからず冷遇されます。
 (もちろん、すばらしい物は賞賛もされます)

 ライトノベルは生まれてまだ10,20年そこらの文化ですから十分新しいです。
 新しい文化というのは歴史が浅く、あまり後ろ盾がありません。
 ですが、その分自由度が高いのです。若い世代が広げて行けるものなのです。
 可能性は無限大!どんどん広げて行きましょう!新たなる世界観を!
 「純文学」に負けないものを創ってやろうと皆が志せば、認めてくれる人が増えてくるはずです。
 
 かつてこの地球上に存在した数々の芸術、文化も、
 先人達の絶え間ない努力によって培われてきた物なのですから。
 むしろ、「純文学」は長年に渡って様々な概念が蓄積し凝り固まっています。
 ライトノベルがその柔軟性で「純文学」の「こり」をほぐしてやれば、
 お互いもっと素晴らしいものができるとは考えられないでしょうか?
 誇大妄想が過ぎるかもしれせんが、以上が僕の考えです。

聖冶 鏡介さんの意見

 ライトノベルと純文学。どちらかの優劣を決めることに意味があるのでしょうか? 
 そもそも、何を目的にして書かれているものなのでしょうか?
 ライトノベルはエンターテイメント。とにかく、読者を楽しませる。
 その手段としてギャグやら萌えやら熱いシリアスやら欝やらがあるわけです。
 純文学の方は詳しく知りませんが……恐らく、読者に対し、
 作者が何らかの教えを与えるものなのだと思います。
 この目的が違う二つに優劣をつけることが出来るとは思いません。

 TVの番組を例にしましょう。教育番組と娯楽番組どちらが優れているか。
 こんな議論、する価値があるのでしょうか? 果たして答えは出るのでしょうか?

 恐らく、「趣味は人それぞれ。両方とも長所と短所を併せ持つ」という結論になると思います。

 ライトノベルと純文学も似たようなものではないでしょうか。
 両方とも長所と短所を持っている。ライトノベルが劣っていることは決してない。
 私はそう断言します。

 私はそれよりも、友人のライトノベルを読みもしないで、
 軽蔑するということの方が重症であると思います。
 ライトノベルを読まずにただ批判する人が多いですが、
 はっきり言ってこういう人たちにつける薬はありません。
 「ここは決定的に趣味が合わない」と認識して、その他の事で付き合いをもつようにしましょう。

 何故ライトノベルを読まずに批判する人間につける薬はないのか。
 それは、そういった人達は大衆の意見に流され、それを己の意見として定着させているからです。
 また、こういった人達は自分が大衆から仲間外れにされることをひどく恐れるため、
 どんなに薦めても頑なに拒みます。

 こんな人達に薦めるよりも、もっと柔軟な考え方が出来る人達に薦めるべきだと思います。
 それでは。

ピトフィーさんの意見

 どうも、ピトフィーです。
 皆さんが書かれた意見に納得しつつ、私なりの意見を述べさせていただきます。
 表現形式が同じな以上、小説としては等価ですが、
 やはり純文学にはライトノベルとは明らかに異なる点がいくつかあると考えます。
 その中の一つは掘り下げ方、つまりテーマ性の深さの違いです。
 そのテーマは個人、そして時代の空気を強く反映しているかどうかにかかってきます。

 まず挙げられるのは歴史の長さです。
 純文学が明治時代以降、100年以上の歴史を持っているのに対して、
 ライトノベルはその原点をコバルトになりスニーカーになり求める以上、せいぜい20年です。
 積み重ねられてきた歴史の長さがそもそも異なっています。絶対的な違いの一つでしょう。
 なにしろ純文学が夏目漱石や森鴎外、
 川端康成などの読み継がれるべき作家を生み出しているのに、
 ライトノベルはまだその作家を生み出していないんですから。

 では、夏目や森が何故読み継がれているのでしょうか。
 どのようなことを書いて、彼らは読み継がれる作家になったのでしょうか。
 簡潔に言うと、彼らの文章は普遍的なものを表現しているから、だと私は考えます。
 普遍的なものとは、思想です。
 
 あ、でも勘違いしないでください。
 知とか無知の知とか純粋理性とかそういったテツガクテキガイネンを語ればいい、
 ってわけじゃないです。
 言うなれば思想は、考えに考え抜いた末に至った答えです。
 そしてそのような過程を経た考えは人類に共通なものを必然的に持つようになり、
 やがて思想に昇華されます。
 
 手元にあった山川出版の『倫理用語集』を確認してみると、
 夏目や森の思想内容がいろいろ表現されています。
 一例として夏目漱石の欄を抜き出してみると、

 近代日本の代表的作家。明治維新後の日本文化を外発的なものと批判し、
 倫理的な個人主義思想に立脚し、近代的自我の確立を解いた。
 晩年には、則天去私の立場に立った。(後略……以下主著)

 わかりにくいので、噛み砕いて言い直すと
 明治維新は日本が自発的に始めたのではなく、ペリーの来航によって始まった。
 アメリカが来なければ日本はもしかしたら、まだ徳川幕府の時代だったかもしれない。
 だから日本人は、周りの状況に流される人間ではなく、
 自分が悩んで出した答えに従って動くことのできる人間、主体的な自己にならなくてはならない。
 もちろん人として当たり前の道徳を守った上で、である。
 
 しかし晩年は、自我の確立とエゴイズムとの――主体的な自己が持つ――矛盾に悩み、
 悩みぬいた末に、「小さな私を去って、普遍的な大我(自然)の命ずるままに自分をまかせる」
 という「運命に甘んじて、静かに一切を受け入れる態度」をとるに至った。

 んー、要点だけ取り出すと、
 どうしても許せないことがあった。だから、その解決をしようとした。
 しかし、そこにもまた許せないことが出来たから、さらに考え抜いて、答えを出した。
 ってなとこになるでしょうか。

 最初に述べたテーマの深さとはこのことです。
 辿り着いた場所が深ければ深いほど、より多くの人々の心に響きます。
 深さの分だけ普遍的なものを含んでおり、思想として無意識に形作られていくのです。
 それが、読み継がれる作家の必要条件であると私は考えますが、いかがでしょうか?

 では、長々と読みにくい文で失礼しました。

blackpawnさんの意見

 まず、この質問に対して、ベクトルが違うな、と思いました。
 純文学は、(個人的な偏見では)現代にあるいろいろな物事を解釈し、
 解釈し、解釈し、心情を伝える、という傾向が強いように思っています。
 対して、ライトノベルは、文字で作られた漫画、と認識しています(個人的に)読みやすくて、
 概念がはっきりしていて、理解しやすい。そんな印象を持ちます。

 ホラーと推理小説を比べたり、海洋小説とSF小説を比べたりしても仕方ないように、
 優劣で争えるものではないと思います。

 個人的には、どっちも好きですが、片方を侮辱するような輩は、何を考えているのだか。
 気取って、錯覚した優越感に狂ってるだけではないかな、と思います。
 まあ結局、面白ければ、興味深ければ、それでいいと思います。
 作品の面白さに差があったとしても、ジャンルに優劣を付けるのはおかしいです。
 私はとっかえひっかえ色々な小説を読みますが、どのジャンルが高尚だとは思いませんでした。
 ライトノベルと純文学もそれに同じだと思います。

 偏見というか、そういう風潮はあるようですが、本質的には優劣はないと思います。