ライトノベルは純文学に劣るモノなのか?4

岩倉珪衣さんの意見

 文章表現に限らず人種や職業などにおいても、
 本質的な優劣などがもとよりこの世に存在しないのは自明のことです。
 
 優劣は人間社会のみが無言に規定しているに過ぎません。
 ですが、わたしは(概して)ライトノベルよりも純文学を好みます。

 それは、純文学が他に比較して「新しさ」を求めているジャンルだと思っているからです。

 「新しさ」とは何でしょうか? それは、時代の大勢に抗い、
 異質(に見えるよう)な表現を追い求める姿勢のことです。

 流行に迎合するということは、その時点で既に「新しさ」の追求を放棄していることと同義です。
 そのような小説に存在価値はありません。
 何故なら、その大元の小説を読めばいいことだからです。
 例えば、現代には村上春樹に影響を受けたとすぐに分かる小説家が多数存在しますが、
 (ライトノベルにも多いですね)それならば村上春樹を読めばいいのです。
 彼だって相当に多数の作品を生み出しているのですから。
(例外として、既に亡くなった小説家に倣った小説は「古典の復興」などと評価されますが、
 これは時代に逆らうという意味で賞賛されるのであって、
 模倣自体が評価される訳ではないと思っています)

 時代の流れに無邪気に沿うことは、小説家としての個性を自壊しているに等しい行為です。
 私見では、ライトノベルには疑いなくその傾向が見られます。
 これを他人の言葉を借りて表現すれば、「縮小再生産」となりましょうか。

 これはライトノベルの作家や出版社に帰せられるべき問題で、
 ジャンル自体が閉塞的なのではありません。
 そうではなくて、作家や出版社がジャンルの可能性を見出していないだけなのです。
(この辺りは大塚英志氏の著書に明るいです)
 それを探索することが、これからのライトノベル作家に課せられた使命ではないでしょうか。

 現在考えているわたしなりの「新しさ」を幾つか記しておきます。
 あくまで個人的な発想で、正しさを自負している訳ではありません。

1.論理的矛盾を故意に作る(黙示録的な文章)。
2.ストーリーを作らない(刹那的描写の連続)。
3.思想を語らせない。人物の内面を描かない(外面のみの描写)。

 正直、現在のライトノベル界で受け入れられるとは思えませんが。

Epyonさんの意見

 確かにラノベを読む人にとっては大きな問題ですよね。

 私は純文学は芸術性、ラノベは商業性を追求している物だと考えています。

 重なる部分も多いとは思うんですが、別物として扱われているのも事実です。
 例えば表紙や挿絵のイラスト、軽い、ヒロインの存在などが違いとして挙げられます。
 ラノベは3つ全て満たしている場合が多い傾向にありますが、
 純文学は全く満たしていない場合の方が多いですね。
 かといってどちらが劣っているとは言い切れませんよね?
 両方読んだ人にとっては。

 しかし世の中は読書家だけで構成されてはいないのです。

 アニメ調表紙→低俗
 軽い→程度が低い文章
 重い→読む気にはなれないが尊大

 と読まずに評価する人もいるのです。
 特にラノベの場合表紙を見ただけで嫌悪されるパターンも多いですよ。私もそうでした。

 では両方読む私の意見ですが、双方の作家の文章を読むと、
 文章力において純文学作家が優れているように思われます。
 ラノベ作家はまだ隙が多いように見受けられますが、
 勿論全ての純文学作家が優れていて、ラノベ作家は劣っているという意味ではありません。
 
 傾向としてラノベ作家は文章力が足りない人が多いというのが私の結論です。

 このサイトに「ライトノベル以外も読もう」という意見がありましたが全くその通りだと思います。
 純文学を読む方であれば余計なお世話、失礼に当たりますが、
 ラノベ専門の方の為にも言わさせて頂きます。

ブービーさんの意見

 みなさんは読者の視点から語られているので私は創作者側の意見を言わせてもらいます。

 商品を出すうえで大事なのはニッチを重要視することです。
 ニッチとは「生態系に置ける地位の獲得」の事を表します。

 動物に例えて言うとふくろう(純文学)とネズミ(ライトノベル)は、
 どっちの方が強い(優れている)モノなのかと言う議論をしている事になります。
 当然生態系に置ける地位ではふくろうの方が強いです。

 しかし、ふくろうは絶滅の危機にさらされている種もたくさんいます。

 ここで出てくるのはニッチです。
 ネズミは何でも食べる事が出来るので、
 畑を荒らしたり家屋に隠れれば何とか生き残ることができます。
 しかしフクロウの多くは肉食であり寝床も大きな木ではなくてはなりません。

 そして文学には漫画的なエンターテイメント小説が売られていませんでした。
 そしてそのニッチに入りこんできたがライトノベルであると言う訳です。

 そしてライトノベルと言う商業には読者(エサ)がある為十分に生き残れてこれたのです。
 純文学は読者(エサが)少なくなりつつあり、新作(子孫)を作れなくなっていきます。
 結果的に化石(古典)が出来、ライトノベルはすばやいスピードで変化していきます。

 そこに生物の多様性が出来上がり(多様性が出来上がると絶滅しにくくなる)、
 様々なジャンルのライトノベル作品が生まれてきました。

 その中には今までのエサ(読者)を食べられなくなった生き物(小説)も当然生まれてきます。
 それが現代のライトノベルと言う訳です。

メロウさんの意見2015/05/06

 これを「優劣」という観点でみていいのか分かりませんが、仮に両者を「恒久性」、「如何に歴史に残るか」という観点から見た場合、ベストセラーの純文学と、ベストセラーのライトノベルとでは、ベストセラーの純文学の方が、遥かに後の世まで語り継がれてゆくことでしょう。
 そして同時に、この「恒久性」を基準にしたとしたら、売れない純文学と売れないライトノベルの間には、何の「優劣」も存在しないということを、個人的には思います。

 そもそも、何故ライトノベルというジャンルがこれほどまでに商業的に成功しているか。
 それは、他のいかなるジャンルに比べても異常なほどに狭く「読者層」(ターゲット)を限定し、そしてその読者層が求めるものをこれでもかと言うほど作品内に盛り込んできたからです。
 ライトノベルの客層は、「サブカル好きな中高生」(或いはそれと似た嗜好のヲタク)一筋。

 日本の人口全体から見た場合ほんの数パーセントにしか満たないこの客層、しかし逆に言えばこの客層に限った場合には、ほぼ確実にそのハートを鷲掴みにできる「何か」がライトノベルにはある。更にシリーズ化によって稼ぎを増やす。故に商業的に成功する。
 ニッチな需要に対して、よく言えば「完璧に対応した」、悪く言えば「媚びた」、この「ライトノベル」というジャンルの小説は、商業的に見た場合非の打ち所が無いと言っていいでしょう。

 しかし、ニッチな需要にしか対応していないが故に、その需要から少しでも外れた人間からは、到底理解できない内容となっていることも事実です。

 時代背景が変わり、需要が変わっても、ライトノベルという「ジャンル」自体は、幾らでもその内容を臨機応変に需要と対応させて、市場において存続してゆくでしょう。
 しかし、「ジャンル」が生き残れても、「過去の作品」は生き残れません。良くも悪くも「需要の一点狙い」を図った作品は、想定されている「需要」がこの世から消えた瞬間、存在意義を失い、忘れ去られてしまうのです。

 一方、芥川龍之介や太宰治などの「文豪」の作品においては、人間の恒久的な本質、時代を超えて誰しもが共感できる壮大なテーマが描かれています。
 そしてこれらは、一歩間違えれば、辛気臭すぎたり、説教じみすぎて、つまらなくなってしまうような題材。ある意味、商業的には「不利」です。

 しかし、彼らの時代の小説家には、そもそもエンターテイメント意識、特定の客層を喜ばせようという意識は、全く無かった――あるいは少なくとも、今日のライトノベル作家に比べれば、遥かに薄かったでしょう。
 というのも、当時の人にとって、「小説を書く」というのは大地主の息子限定の道楽でした。
 商業的に成功しようが失敗しようが、どうせいざとなれば実家に帰って食っていける、そういう人たちが当時小説を書いていたのです。

 当時の小説家は揃いも揃って東大卒ですが、時代背景をご存知の方なら、当時の東大に行けたような人間は、一生ニートでも食っていけるぐらいの資産がある家の生まれであるということをご理解頂けるでしょう。
 好きな物を、思うがままに書く。それがその頃の小説家のありようでした。

 上手い作家、後に文豪と称されるようになる人々は、歴史に残る名作(しかし、一歩間違えれば全く売れない恐れもあった作品)を描けました。
 そしてその裏で、無数のヘタな作家は、埋もれて消えてゆきました。故に我々は、彼らの名前を知りません。後に残った文豪の名作のみを読み、感動し、「純文学とはなんて素晴らしいんだ」と感激する。

 一方、十年前どころか、ほんの二、三年前にはブームだったようなライトノベルが、早くも廃れ、最早誰も読んでいないところを見て、「ライトノベルはやはり移り変わりが激しく、後の世に残らないという点で、純文学に劣っている」と、一部の人は感じるのでしょう。
 或いは、そもそもからライトノベルの「ターゲット」から外れているが故に、「表紙の時点で駄目だ」「媚びすぎている」「こんな物は読みたくない」と感じてしまう人も多いでしょう。現に僕自身、売れているラノベ作品の中にも、(好きな物も当然ありますが)毛嫌いしているものが多いです。

 あまりに完璧に商業面に特化しすぎているがゆえに、ライトノベルには「恒久性」や「普遍性」が期待できません。これは「ターゲットを絞りに絞ったエンターテインメント」というジャンルの性、必然です。
 これを「優劣」と見做すか見做さないかは、全てあなた次第です。