第4研究室 創作に関するQ&A 515P | トップへ戻る |
初心者Xさんからの質問
 キャラクターと人間の違いとは?
 
 よく、『キャラクターじゃなくて人間を描け』という言葉を耳にします。

 よく悩むのですが、実際のところ両者の決定的な違いって何でしょうか?
 何を描写すれば人間で、何を無視したらキャラクターなのか、意見をお聞かせ下さい。


●答え●

冬さんからの意見

 心を描写すれば人間で、それを無視したらキャラクターです。


ひなげしさんからの意見

 こんばんわ、では早速。

 そもそも私は『人間ではなくキャラクターを書け』派なのですが、
 人間とキャラクターの違いということについては関係ないのでおいといて。

 結局のところはデフォルメにあるんじゃないですかね。
 強調した性格や容姿、仕草など。


 人間って、そこまで極端な人ってそうそういない思うんですよ。
 狂的な笑い声をあげる殺人鬼とか、ですわと言うお嬢様とか。
 〜デレなんて一言で表す性格もそうですね。
 そこらあたりが、人間とキャラの違いだと思います。

 ちなみに、そうやって強調した姿を、創作ならではの表現とみるか、
 リアリティの欠如とみるかは人それぞれということで。

 ではでは。


魏延さんからの意見

 感情がしっかりしてるかどうかでしょう。

 人間の感情をテンプレ化すれば喜怒哀楽の4つですが、
 実際はもっともっと微妙であいまいな感情を抱いてます。

 そうしたさまざまな感情や、
 その変化が微細に表現されていればいるほど人間臭さが出てきます。


 寡黙キャラや無表情キャラだって、
 “ふとした瞬間に”喜んだり悲しんだり怒ったりするから魅力的に映ります。

 ただラノベやエンタメ重視の物語では、
 キャラの内面ばかり細々書かれてもしんきくさいことがほとんどなので、
 重たい場面だけ詳しく書き込むとか、
 ある程度キャラ小説と割りきって簡潔に書くとか、
 風景描写などで婉曲に表現するとか、
 微妙なさじ加減が問われる部分だと思います。
 人間味がなくなってはだめだけど、
 必ずしも人間臭いキャラが魅力的にはなりませんから。


兵藤晴佳さんからの意見

 はじめまして。兵藤晴佳と申します。

 人間とは、様々なステータスの総体です。

 ステータスとは、人種・信条・性別・社会的身分・門地(日本国憲法第14条参照)その他、
 遺伝的なものや生育歴によるものなどを含む、ひとりの人間を構成する要素です。
 それらは全て一定ではなく、上下の幅を持っています。
 
 簡単に言ってしまうと、善悪や美醜で割り切れない、複雑な存在が人間なのです。
 複雑だからこそ、条件や他者との関係によって、活躍できたり惨めにつまずいたりするのです。

 キャラクターとは、人間を一面的にとらえて色分けしたものです。
(現実の社会でこれをやると、『差別』といいます。絶対にやってはいけません。)

 「強気でかわいい女の子」「臆病でトロい少年」といった人物の捉え方は、
 「どんなふうに」という具体性を欠いています。
 その上、活躍するかつまずくか、どちらかの行動パターンしかありません。
 ストーリーは単純化され、退屈なものになります。
 
 最低限、登場人物には二面性を持たせるべきでしょう。
 
 「人徳ある医者なのに、息子には後継者になるよう強要する」
 「乱暴で下品なプータローだが、審美眼に優れている」

 そもそも人間とは、矛盾を抱えた生き物です。

 しかし、ひとりの人間に矛盾がひとつ巣食っているだけでも、ストーリーが動き始めるものなのです。


獄兎ロクさんからの意見

 こんばんは、ロクです。

 私なりの解釈だと

 キャラクター: 作者の作ったシナリオ通り動くための操り人形。
 人間     : 独自の行動理念を持って行動する。
          よく練れていれば書いている途中勝手に動き出してくれる。


 違い
・何人かの話し合いの途中のセリフを他のキャラに言わせても違和感が無いのがキャラ。
 特別な口癖が無くても内容だけでそいつだと分かってもらえるのが人間。

 例:
 なんかいきなり隣の村と戦いになりそうという場面での話し合い。
 サンプル数確保のため世界観、リアリティは無視。


 戦いに巻き込まれただけの普通の少年や気弱なおじさんは戦いを避けるような発言。

 腹黒気味のオッチャン(武器商人と考えると分かりやすい?)は兎に角自分の儲かる方へ話を誘導。

 お嬢様は人の命なんぞ重く見ない、過激発言、お金でなんとかのどれか。

 世界を救うようなゲームの主人公みたいな主人公は話し合いで解決しようとする。最初のやつと同じか。

 どこだかの戦闘民族(サイヤ人、分かるならドラッケン族)みたいな性格のヤツは兎に角戦いを望む。

 小ズルイヤツは
・自分の村の人間を見捨てて逃亡。
・裏切って村の人間を隣の村に売る。
・隣の村に通じてなんか儲けようとする。
 ETC

 途中から発言ではありませんが。

 とりあえず、
 ベジータ(みたいな奴):「よろしい、ならば戦争だ」
 
 真っすぐで心優しい少年:「どうして戦わなくちゃいけないんだ! 他に道があるだろ?」

 みたいなことになったらそれはキャラクター。
 勿論極端な例です。分かりづらくてすいません。


雷徒さんからの意見

 こんばんは、雷徒です。

 難しいですよね、そこの差って。
 個人的にな回答になりますが、悪しからず。

 キャラクターというのは、記号の寄せ集めにしか見えない場合。
 人間というのは、いくつもの記号が絡み合って一つの存在になっている場合。

 と、勝手に思っております。
 まあ、有り体に言えば生きてるように見えるのが『人間』ということなのだと思います。
 前にもどこかで書いたような気もしますが、感情を持ち、思考し、行動している、
 これらを表現しきれてようやく記号ではなく生きた人間に見えてくるのではないでしょうか。
 まあ、私自身ちゃんと『人間』を書けているか怪しいので、偉そうなことは言えないのですが。


ひすいさんからの意見

 どうも、ひすいと申します。

 私個人としては、キャラクターは「表面上の要素のみを表現された登場人物」、
 人間は「複雑な内面的要素まで表現された登場人物」ではないかと思います。

 たとえば、クラスにムードメーカー的な生徒がいたとしましょう。
 その生徒はいつも冗談を言ってはクラスを笑わせていて、人気も高い。
 外から見てみると、おそらくその生徒には「気さくな性格」だとか、「楽天的」だとか、
 ひょっとすると「おバカキャラ」みたいな印象を受けるかも知れない。
 表現をそこまででとどめたものが「キャラクター」です。

 しかし、当然その子にも悩みだとか、苦手な友達だとか、短所とか、そういったものがあるはず。
 そういったただ外から見ただけではわからないような部分まで表現してはじめて、
 その人物は「人間」となるのではないか、と私は考えます。

 枚数の少ない作品はともかく、長い作品は、長いストーリーのなかで、
 ひとりの人物がいつもとは違った一面を見せることがあるはず。
 そういった「ああ、やっぱりこのひともこういう一面があるんだな」というような、
 より人間らしく描けているものがここでいう「人間」ではないかと、私はそう考えます。

 では。


冬星さんからの意見

 キャラクターは要するに「性格」ですね。
 それで、漱石の『坑夫』に関連したことが書かれていますので、ちょっと引用。

 よく小説家がこんな性格を書くの、あんな性格をこしらえるのと云って得意がっている。
 読者もあの性格がこうだの、ああだのと分かった様な事を云ってるが、ありゃ、みんな嘘をかいて楽しんだり、嘘を読んで嬉しがってるんだろう。本当の事を云うと性格なんて纏ったものはありやしない。本当の事が小説家などに書けるものじゃなし、書いたって、小説になる気づかいはあるまい

 つまり、人間は複雑すぎて、
 キャラクターでその人間をすべて言いきることはできないということでしょうか。
 といってもあまり深く考えないことが一番な気もしますが。


きりんげさんからの意見
 「風も吹きあへずうつろふ、人の心の花に」

 こんにちは、きりんげと申します。
 キャラとは? 人間とは?  分かりませんと断言できます。
 以下駄文。

――――――――――――――――――――――――――――――

 冬さんが書かれていたように、
 心を描写される存在が人間であったら、
 非キャラクターな存在の条件が変わってくるような気がしてきます。
 ではキャラクターが何かではなく、人間が何かについて考えてみます。

 私達は小説を書き、登場人物を幾つも生み出します。
 その登場人物達は、人間でしょうか? キャラクターでしょうか?

 メディアに情報として既に刻まれている存在達は、
 どれだけ再生を繰り返しても、何回閲読しても、同じ行動を繰り返すでしょう。
 小説をもう一度読んだら、展開が違ってるなんて事はありません。
 ゲームも、プログラムを越えて活躍する登場人物はいないでしょう。
 当然です、紙や基板や記録媒体が生きてる訳ではありませんから。

 すると、彼らは人間ではないのでしょうか。

 では、記録映画「くろよん物語」に出ているのは人間?
 映画やドラマや小説「黒部の太陽」に出ているのはキャラクター?
 どちらも黒部ダム建設の話なのに。

 テレビや映画に出ている役者も、
 メディアに刻まれれば、それは情報であって人間ではないのかもしれません。


 と敷衍するとややこしい事になってきます。


 一体どこに錯誤があるのでしょう。
 どうも比較する事に問題があるようです。

 キャラクターと人間は同列に語られる存在ではありません。
 キャラクターは人間に含まれる部分集合です。

 倒置しますと、私たち人間はキャラクターでもあります。
 厳密に言えば私たち人間はキャラクターとしての一面も有する、それより巨大で複雑な存在です。


 ここで言う複雑とは何か。
 あえて言えば、定義を作り出せる存在という意味が同等です。

 人間はキャラクターを定義します。
 人間はキャラクターを造形します。
 人間はキャラクターを分類します。
 人間はキャラクターを思索します。
 人間はキャラクターを運用します。
 人間はキャラクターを転化します。

 しかし、逆はありません。

 キャラクターは人間の必要条件を有するだけであって、等価ではありません。
 人間を部分的に見た時にだけ、同値関係となります。

 この辺りは、
 兵藤晴佳さんの書き込みにおける、「差別」の話と少し被ります。


 これだとまた、ややこしい事が起きてきます。

 人間はキャラクターとして振舞う事が可能です。
 一見キャラクターに見える存在も、ひょっとすると人間かも知れません。
 少なくとも、人間の必要条件は満たし得るのですから。

 そして前々述の通り、生命であるか非生命であるかも、問われません。
 シリコンの詰まった箱は、人間かもしれません。
 紙の登場人物は、本が閉じられている間は人生を謳歌しているかもしれません。

 生物に関して問うと、更にややこしいです。
 人は人というキャラクター、犬は犬というキャラクター、猫は猫というキャラクター、
 としての一面が得られますがそれぞれに、、
 人は人としての人間性、犬は犬としての犬間性、猫は猫としての猫間性、
 として、より広い存在意義を持っている可能性を常に示唆できます。

 今度は、何でも人間のような気がしてきました。
 一体どうなっているんでしょう。
 特に私の頭。


 答えは、
 「どうでもいい」です。
 「子、怪力乱神を語らず」です。

 私達が人間であり、キャラクターの枠に捉われなければ、それらの問題はどうでもいい事です。
 ただ人間は、その「どうでもいい」という事につけ込んで、
 キャラクターや人間の種差を自由に作り出します。

 人から人というキャラクター、犬から犬というキャラクター、猫から猫というキャラクター、
 を取り出したければ、人間は自由にそれらを取り出します。

 非生命を、異生物を、偽人間を、
 人間と認めたければ、人間は自由にそれらを決定します。

 原則的にはそうなっております。
 あくまで原則ですが。


 この辺りからが本題でしょうか。 

 お察しの通り、前述の原則上、人間は例外を限りなく許容します。
 この点において人間はキャラクターと区別されます。

 つまり、
 人間は対象を、定義・造形・分類・思索・運用・転化、しますが、
 人間は自身を、定義・造形・分類・思索・運用・転化、できません。
 常に非合理を有し続けます。

 人間が持続する過程にて、上記は否定される場合がありますが。
 それらは普遍化されず元に帰着していきます。
 自らを定義した人間は、キャラクター定義の行為と同じく、人間の部分定義を果たしているだけです。
 逆を言えば、定義を受け入れ、それから脱出しない存在は、人間ではありません。
 「キャラクター」あるいは「定義された人間」と表現される、部分存在か人間外です。


 例えば、
 善なる者として、必ずや悪を倒すべく良き努力を実行し続ける存在がいたとします。
 正に叙事詩の英雄のように、あらゆる困難にめげず、
 労苦をいとわず、苦痛に耐え、煩悶と戦い、絶望に屈せず。
 必ず、世の悪を打ち果たさんと活動し続けます。
 必ず、です。
 必ず。

 これは人間ではありません。
 絶対的に悪を行う人間と同様に人間ではありません。
 これは、倫理以前の話ですらない話です。

 「必ずそう動く」 という事は例外が無いという事です。
 それは、
 「そういうキャラクター」 という事になります。


 アシモフの作品に出てくる三原則ロボットの母、キャルヴィン博士も言ってます。
 「人間の為に作られたロボットと、理想的な人間と、二者は行動において区別が付かない」
 これと意味が似通います。
 小説のキャラクターですら、この事実を指摘できるようです。

 『キャラクターでなく人間を描け』 と言われた時に必要な理解です。


 質問を引っ張りすぎましたね。ここからが回答になります。

>両者の決定的な違いは何か?

 ありません。

 ここまで書いておいてなんですが、
 人間はキャラクターでもあり、逆もまた然りです。
 評価する側の見方に拠ります。

 今まで書いてた事と違うと言われるかもしれませんが、
 私は人間なので前提を破れます。

>何を描写すれば人間なのか?

 人間を書くというのは、つまり人間を書く事です。
 同語反復ですが、私達は人間が何であるのか完全には分かっておりません。
 分かっているのは、人間の描写には人間が必要だという事だけです。

>何を無視したらキャラクターなのか?

 何を無視してもキャラクターになります。
 既に書いたように、人間ですらキャラクターの側面を持ちます。
 私達は、どんなものからでもキャラクターを見出せます。


 質問には恐らくこれが欠けています。

>キャラクターを人間にするには?

 人間にするのに必要なもの。
 心でしょうか。リアリティでしょうか。感情でしょうか。機微でしょうか。
 ディテールでしょうか。二面性でしょうか。
 理念でしょうか。人物像でしょうか。記号量でしょうか。
 表現法でしょうか。内面でしょうか。人格でしょうか。

 情報。論理。思想。目的。立場。過去。言葉。情緒。
 行動。癖。考証。善悪。欠陥。想像力。関係。実物。魂。外見。嘘。
 矛盾。ユーモア。トラウマ。生まれ。信念。共感。生態。
 観念。風潮。反骨。可能性。意外性。社会性。キャッチ。ニッチ。
 etc.

 私が個人的に思うものを書きます。

 キャラクターは人間になれないのかもしれません。
 キャラクターに出来るのは、自分をキャラクターで無くする事。
 要は、

 キャラクターが己のキャラクターを否定して見せる事。
 これをを必要な条件に加えます。
 否定です。


 キャラクターを打ち破れるキャラクターは、
 人間とまでは行かないでしょうが、キャラクターでも無くなるでしょう。

 と書きつつ、
 これ変ですねキャラなのに。

 色々書いてきたように、
 自分で自分のキャラクターを壊し続けるキャラの事とは違います。壊し続けるというのも機械論的です。
 人間と同じように、変わろうとしても変わらず。その癖、いつも揺らいでいる有待の事です。
 その揺らぎの程度は問いません。揺るがない者は死体だけですから。
 程度というのも意味不明かもしれません。

 揺らぐ存在である人間は、
 既に与えられているキャラクターを裏切ります。良い意味でも、悪い意味でも。
 そして必ず例外というものを発生させます。計っても、計らずも。
 しかし、それができれば人間になれるという訳でもありません。
 人間のほとんどの時間はキャラクターの様な存在に留まっています。
 人間が人間を証明できるのは、ほんの一瞬です。
 一瞬の次には、もうその人間は何処かに行ってしまいます。
 この辺りが限界です。

 キャラクターを人間の「ように」見せるのは一瞬で十分です。
 普段はどれだけキャラクター性を徹底していても構いません。


 あらゆる描写、工夫、セオリーを無視していても差し支えありません。
 性格、設定、容貌、行為、特徴、作風、どれもありえない物でも問題ありません。
 一瞬だけ、キャラクターがそのキャラでなく、それ自身になっていればいいのです。
 それは、どのどんな瞬間でもいいです。

 これは要するに、読み直したら2度と通用しない読者へのごまかし技術の追求の話です。
 前置いて必要なものとして挙げたくさぐさは、そういった技術の微々一端なのだと思います。
 つまり、こんなに書いても私には答えが分かりませんでした。
 ごめんなさい。

――――――――――――――――――――――――――――――
※※※
 終わりです。ここはお前の日記帳ジャネーヨ、の声が聞こえる仕事の裏。
 最後に1つだけ重要な追記を。
 私は、

 「人間は対象を、定義・造形・分類・思索・運用・転化、しますが」
 「人間は自身を、定義・造形・分類・思索・運用・転化、できません」
 「常に非合理を有し続けます」

 と書きましたが、
 記述自体を自己言及すれば、これも定義です。お忘れなく。

 このレスに書かれた「人間」という言葉は、一般的な人を指すものではありません。
 「キャラクターでないもの」 という意味です。
 ですから、これまでに書いた人間についての言及は、
 「キャラクターでないこと」 の条件に過ぎません。
 要注意です。

 始めに戻る。


砂時計さんからの意見
 どうも、砂時計と申すものです。

 例えばの話、小説の中に「摘手礼子」というツンデレの登場人物を出すとします。

 黒髪ロングヘアーが綺麗なお嬢様風の容姿でありながら、誰に対しても媚びず、
 プライドが高くそのせいでつい相手に冷たく強気な態度で当たってしまう。
 しかし本当は優しく、少し寂しがり屋……といった風に設定を考えたとします。
 
 で、いざ小説を書いたとき、この登場人物が「ただのありがちなツンデレ」なのか
 「『摘手礼子』という一人の人物」なのか、というのが「キャラクター」と「人間」の違いです。


 これだけでは抽象的でわかりにくいかも知れないので具体的に掘り下げると。
 前者は上記の設定そのままにテンプレなセリフと行動を取らせ、
 内面の人間性、つまり心がちゃんと考えられておらず、悪い意味で簡単に読めてしまうような、
 まるでプログラムされたようにロジカルな言動しか書けていない……という事です。
 平たく言えば「表面的・記号的な部分しか書けていない」ですね。

 それらを踏まえた上で、機械的かつ単純な
 「こういう場合こういう言動を取る」という表面的部分だけを考えて書くだけではなく、
 「こういう場合“こう感じ、こう考え”こういう言動を取る」という事を考えて描写するようにすれば、
 登場人物は「キャラクター」から「人間」になっていくでしょう。

 もっとも「人間が書けていない」「キャラクターじゃなく人間を書け」という言葉は、
 単純に描写力が足りてない事を示唆する言葉でもあるため、
 ちゃんと考えていても描写が出来ていないと取られるとこう言われる事もありますが……
 まぁ、結果描写出来る出来ないは置いておくとして、登場人物を考え書いた時に
 「こういう場合“こう感じ、こう考え”こういう言動を取る」が自然と浮かぶようになれば、
 もう殆ど「人間」を書く為の基礎は出来ていると思います。

 以上です。ではでは。


焔嵐さんからの意見
 私も初心者のようなものですが。
 焔嵐と申します。

 キャラだの人間だの、最終的には言葉遊びに過ぎないようにも思います。
 なんとなく「キャラじゃなくて人間を描け」というと、立派なことのように聞こえるでしょう?
 これの意味は、設定なんかをつらつら書き続けるより、
 きちんと一本筋の通った性格・行動・言動になるよう気をつけましょうという意味じゃないかと思います。

 キャラクター(設定資料)ではなく人間(登場人物)を描くということ。
 心を持ち、感情の動きがあり、時に理にかなわない行動を取ったりもする、
 良い面も悪い面も併せ持っている人物。それが、ここで言う「人間」だと解釈しています。


雪城 秋さんからの意見
 『キャラクターじゃなくて人間を描け』

 まぁ、これはキャラクターを人間のように表現しろと言っているのです。
 それでは、何が違うのか。

 キャラクター=設定
 人間    =仕草や表情の変化。または感情が有る


 例えば、三人グループの一人が、何かを思い付いて「そうだ!」と声を上げた場面とする。

例1
「そうだ!」
「……何?」
「昨日さ、面白いことがあたんだ!」

例2
「そうだ!」
 今思い付いたかのように手を打って一人が声を上げた。
 その人に二人の視線が集まる。
「……何?」
 良く聴きなさいよという感じに視線を交わし、
「昨日さ、面白いことがあったんだ!」

例3
「そうだ!」
 今思い付いたかのように手を打って一人が声を上げた。
 その人物を無視するかのようにげんなりする二人。
「……何?」
 そんな二人を無視して話し始める。
「昨日さ、面白いことがあったんだ!」

例1は、台詞を並べただけ。
例2は、思い出した人物に興味を持った二人。
例3は、思い出した人物に興味を持たない場合(くだらないことだと感じ取っている)

 とまぁ、その場の雰囲気が違って見えると思います。
 
 それと同時に、思い出して声を上げた人物の性格まで何となく分かる。
 台詞の間に表情と仕草を入れただけで、こんなにも違った物になる。
 それが、人間(人)を書くと言うのです。


 では、参考になればよろしいかと……。


文文さんからの意見
 ええっとですね。学生の方なら自分のクラスを思い浮かべてください。
 社会人の方であるなら会社でも多分大丈夫です。

 そのクラスあるいは職場から、
1・好感を持てる人
2・嫌いな人
 を選出してみてください。

 そして、
3・長い付き合いの親友
 を思い浮かべてください。

 問います。
 1と2の人のことをあなたはどれくらい知っていますか?
 3の人のことをあなたはどれくらい知っていますか?


 多分、1と2と比べて3が一番多くの情報や感情を出せたんじゃないですか?

 「あの人は元気で明るくて、こんな内向的でいじめられている自分にも分け隔てなく話しかけてくれる」
 そんな人物とクラスメイトになった経験がありますが、
 今考えてみるとあの人が何故そんな性格だったのか、他の面は無かったのか、
 自分の事を本当はどんな風に思っていたのかなど、疑問が絶えません。
 その人のことを知る情報が、圧倒的に足りないのです。
 これが、キャラクターです。

 それに比べて長いこと一緒にいる親友は、どういうことを言えばどういう反応を示すか、
 どんな言葉をよく発するか、以前と今で変わった事など、色々なことを知っています。
 知識としての情報が、十分にあるのです。
 これが人間です。

 そういう意味では、クラスメイトや職場の仲間などは九割キャラクターだと思います。


 好きあって結婚したのに、その後でその人の本質が見えてきて離婚する。
 なんてのも、結婚するまでは相手がまだ人間ではなくキャラクターに見えていたから
 生じることなのではないでしょうか。



 ……うーん、なんか当初思っていたように事が運ばなかったなぁ。
 無駄に長くなった上に結局言っていることは他の人と同じ。むぅ。

 あ、ちなみに邪道ですが、どうしても人間じゃなくてキャラクターになってしまうというのなら
 本物の親友をその小説に登場させればいいと思いますよ。
 少なくとも自分にとってそのキャラクターは人間です。
 ちなみに僕はキャラクター造形が苦手なため、主人公を自分にして書いてます。……でも進まない。


ぽろろさんからの意見
 ちわっす、ぽろろです。

 七つの欲望、「食欲」「色欲」「嫉妬」「怠惰」「強欲」「憤怒」「傲慢」、
 あとは欲望じゃありませんが「悲しい」でしたっけ? まあいいや。

 それを無視して動くのがキャラだと考えてます。



 人間は、大体は上に書いた八つの感情を持って行動します。
 というより、上の八つの感情を持たない限りは基本動きません。
 正義の味方だって、正義をなす為に動くのではなく「悪が許せない(憤怒)」から動くんです。
 「悲しい」人だって悲しくなりたくないから動くんです。

 とにかく人間は欲望(+1)に忠実です、これ無しで動くものは人間ではありません。
 機械であって悪い意味での「キャラ」です。
 そしてどんな状況であっても人間は簡単に欲望に忠実に行動します。
 これに流されない時は、ただ単に他に大きな欲望があるときだけです。
 一切の例外はありません。まあ、それを逆手に取って「機械」を描かれる作家さんもいらっしゃいますが。

 そんな感じで。


mi-coさんからの意見
 mi-coです。

 個人的な意見ですよ。
 初心者Xさんがした質問に対して、色々な答えが返ってきましたよね。
 それは、人それぞれ、経験している事が違うからです。価値観の違いです。
 子どもが生まれた時に、将来どういう人間になるのかなんて、わからないでしょう?
 ただ、自分の作品に登場させるキャラクターにおいては、違いますよね。
 それが子どもであれ、大人であれ、どういう人物なのか、最初に設定しますよね。
 設定した段階では、それはまだキャラクターだというのが、私の意見です。
 ただの登場人物にすぎない、というわけです。

 そこから、自分が描く作品の中で、どういう風に成長させていくのか。
 そこは、作者の中で決められる事ですよね。こういう人物にしたい、という設定です。
 しかし、ある程度の枚数、またはシリーズ物になってくると、
 キャラクターの中に、確固とした人格や性格が現れてきますよね。
 自分が最初に設定したキャラクターなのに、気が付けば、こんなキャラクターになっていた。
 なっていた、というよりも、読者からはそう思われている、という感じ。
 
 そこまでいくと、そのキャラクターは、とても人間ぽいと思うわけです。
 コイツなら、こういう場面でこう言うに違いない――
 というような推測が、読み手にできるわけです。


 結論を言うと、そう読み手に思わせるように、登場人物を一人の人間として描きなさい、というわけです。
 長編を書いているうちに、自分の思っていた展開と違うようになった。
 キャラクターが勝手に動きだして、思い通りに話が進まない。
 そんな事が、実際に起こりえます。
 でも、それでいいと思います。

 だって、人間は成長するものだから。
 
 最初の人物設定で組んだ物語のストーリーなんです。
 その人物が成長すれば、最初の設定通りに話が進まないなんて、ある意味当たり前だと思うからです。
 そこをどう調整するのか。それは、作者の力量かな、と思います。

 以上です。
 最後らへんは蛇足ですね。
 ではでは、失礼しますね〜。


無常さんからの意見
 ここで言うキャラクターと人間を、漫画ではキャラとキャラクターの2つで捉えいる動きがあります。
 うろ覚えですみませんが

 キャラクター=歴史的背景が読み取れる(人格形成、嗜好など)
 キャラ=わかりやすい特徴の集合

 このような感じだったと思います。
 私的には、「人物に秘められたバックグラウンドの濃淡」と捉えています。
 一度きりの登場でも、その人間の人柄や生活が読み取れるならば十分にキャラクターであると言えます。
 逆に、「登場後すぐに撃退される威勢のいい盗賊」という設定しかない場合、これはキャラと言えます。
 後に盗賊たちの描写をし、深めていくのならばキャラクターとなります。

 なんせうろ覚えなものですから、その辺りに詳しい方がいらっしゃると怒られてしまうかもしれませんが、
 私的な解釈は以上のものです。
 このキャラとキャラクターは小説の分野でも同じことだと思います。
 個人的には「キャラクターと人間」よりか
 「キャラとキャラクター」と表現したほうが分かりやすいように思います。

 あえて皆様とは違う漫画からの意見でしたが、視覚的なイメージで捉えることをオススメします。
 『落穂拾い』の女性たちと『ドラえもん』のしずかちゃんの絵を見比べたとき、
 人物のバックグラウンドはどちらのほうがイメージしやすいでしょうか?

 参考になれたら嬉しいです。


時下さんからの意見
 はじめまして時下と申します。早速ですが質問に対して読み手からの意見を。

 型にはめている様に「見えるかどうか」で考えています。
 たとえば、周りの人間に対して毒舌を吐きまくる登場人物がいたとします。
 これだけだと型に嵌め込んでいる、と感じますが、でもそれに、優しい言葉をかける時があったり、
 癖や仕種があるといったこといくつか重なっていくと途端人間性(型がないように見える)を感じます。
 露骨に描写されると型の形を変えただけと感じてしまいますが……。

 結局、キャラクターに見える。人間に見える。
 というのはキャラクターの性格設定ではなくその書き方ではないでしょうか?


 うまくまとまっていませんが以上です。小説を書いたことのない奴の戯言と流してください。


ぬめりひょんさんからの意見
 パラパラと流し読みをしていて,ちょっと目に留まった発言があったので立ち寄りました。
 ぬめりひょんです。以後お見知りおきを……。

 さて、時下様の発言に「設定うんぬんではなく書き方だ」とありますが、私もそれは一理あるなと想います。
 そもそもの「キャラクターでは無く人間を書け」とは,小説等に於いてどう言う意味合いを持つ物なのか?
 私はこう解きました。

 「人間臭さを出しなさい」

 では,何故?

 その小説の読者が感情移入しやすくなるから。

 何故?

 どんなに突拍子も無いファンタジーストーリーが展開したとしても,
 突飛なキャラクター(異形・人外・含む)が登場したとしても,読者は必ず人間だから。

 その物語にエントリーしているキャラクター達の例えば心理状態,思考状況……
 等は先に皆様が色々と論じられているので,私は違う角度から論じてみようかと想います。

 例えば状況描写だけでも,そのキャラクターを人間臭くする事は可能です。
(是非では無く,あくまで可能不可能で言えばの話です)

 解り易く極論を申しますと……。


 『ある勇者が大冒険の末に,遂に宿敵である魔王の潜む地下迷宮の最深部に辿り着いた』

 と,します。

 当然勇者は何日もの間,重い防具を身に纏い,或いは敵との戦闘のさいには返り血を浴び,
 食事もままならず,街からは程遠い地下迷宮内ですから、
 温かいお風呂もフカフカのベッドも当分お預けです。擦り傷や切り傷も沢山あるでしょう。
 ちょっと一緒には歩きたくない風貌かもしれません。
 でも,一生懸命頑張ってます。

 一方,魔王は魔王でずっと日の当たらない地下に引きこもっているので,それはそれは不衛生です。
 ジットリ湿っています。
 もしかしたら粘っているかもしれません。
 何等かの感染症にかかっている可能性が高いです。

 近付き難い異臭が立ち込めているはずです。


 ……と,生活感を出してみるとリアリティが出ます。

 上記の『』内の文章に出てくる勇者や魔王が,より生々しく咀嚼出来るのではないでしょうか?

 こんな例も……

 一目見れば誰もが想わず魅とれてしまう様な,絶世の美姫がいたとします。
 
 ある夜開かれた仮面舞踏会に出席したお姫様は,
 密かに想いを寄せる男性と念願のダンスを……と,その時!

 宮廷楽士達の奏でる優雅な音色に合わせ,軽快なステップを踏み始めたお姫様の足が縺れました。
 普段から踊り馴れているはずのお姫様が何故?
 周りの皆は訝りましたが,幸いその後はミスも無く無事に終わりました。


 しかし,実は……


 お姫様は突然の腹痛に見舞われ,仮面の下では必死の形相で我慢していました。
 多分,緊張すると下ってしまうタイプなんでしょうね。
 こんな所で粗相をしたら,この先生きていけそうにありません。
 かと言って意中の相手に,踊りの最中に断り変に想われたくはありません。

 かくして,お姫様にとっては地獄のダンスを踊り切らなければならないはめに……


 ……いや,極論です。
 是非は問わないで下さい。
 それでは長文失礼しました。


三毛招きさんからの意見
 私は「多面性」だと思います。
 キャラクターは基本的に一貫します。
 例えば、泣き虫・ツンデレ・ドジ。これらは典型的な「キャラクター」だと思います。
 あるいは「キャラクター性」でしょうか。

 人間はある人に見せる一面を他の人に見せるとは限りません。
 
 悪く言えばぶりっ子、猫かぶりです。
 冷酷無比な殺人鬼が家に帰ればよい父親かもしれません。逆もまたしかりです。
 ですがそれは演技などではなく、殺人鬼としての彼と父親としての彼は同一人物であり、
 それこそが人間の多面性というものです。
 
 人間を書けとは人間を安易な特徴わけを行わずに多面性を見せろという意味ではないかと愚考します。

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