第4研究室 創作に関するQ&A 166P | トップへ戻る |
眠り彦さんからの質問
 ラノベ美少女のリアリティ
 
 こんにちは。眠り彦と申します。
 皆さんに意見を聞きたいと思いスレッドを立てました。

 数年前から、ライトノベルに分類される小説は殆んど買わなくなり、
 ネットで創作小説を読むくらいなのですが、
 ラノベに出てくる少女に少し引っかかる所があるんです。
 ラノベ読者の大半が男性であることを考えると、美少女が出てくるのは仕方ないとして、
 でもこれは不自然かな、と思うことがあります。

 例えば現代学園物だとして、ちょい不思議系とか周りを巻き込む強引な美少女ヒロインて、
 現実にいたら確実に浮く気がするんです。現実にいたら確実に孤立してますよね。
 子音が伸びるような話し方のキャラ、「はぅ」とか「ふぇ」とか言うキャラも、
 現実で周りにいたらかなりイラっとします。
 私の場合、それが異性にモテるための計算されたブリッコならば理解できるんですが、
 ラノベのキャラは地ですよね。

 物語の中で現実味を出させるのがリアリティならば、これってどうなのでしょうか?


● 答え ●

蒼い人さんの意見
 表現されるリアリティというのは2つありまして、
 実在するリアルと、実在してほしいリアルがあります。
 ラノベにおけるリアリティは主に後者で構成されていると思います。


 語尾に何かつけるのは、実際やられたら私はドン引きしますが、
 二次元ではお約束の節があります。
 そうした変な癖は二次元において許容される。
 と言うよりは、そうしたものの生息区域が二次元なのです。
 そこでしか見られない、という前提があるからこそ、
 「現実では見られないこと」が通用するのではないでしょうか。

 故に、現実を描くのと現実味を出すのとは意味が違います。
 どんな変なものでも、それっぽく書いた者が勝利を収めてしまうのです。


んぼさんの意見
 ドラ○もんもね、現実にいたらすっげー怖いと思うんですよ。
 ムー○ンだってね、現実にいたらすっげー怖いと思うんですよ。
 某薔薇乙女だってね、現実にいたらすっげーk(ry
 怖くないのは、現実じゃないから。

 リアルは現実だけど、リアリティは「仮説」の上に成り立つものだから。
 その「仮説」が即ち「お約束」で、ジャンル全般に流れる通奏低音のようなものなんです。


 当然、そのお約束を持ち得ない人間がそれを読むと、
 違う「仮説」のもとに物語を追うので、リアリティを感じられないわけです。
 ラノベは、他の一般小説に比べて著しく「リアル」と「リアリティ」が乖離したジャンル(?)です。
 未だに自分は、慣れませんw


高谷研さんの意見
 高谷と申します。
 ちょっと気になる内容だったので私見を述べさせて頂きますね。

 実は自分も眠り彦さんの意見にはだいたい賛同するんですが、
 この問題について最近ひとつ気づいたことがありまして。

 現実の女の子とラノベ美少女の関係。
 これは、本物の熊とテディベアの関係と同じなんじゃないかと。

 テディベアを好きだという人間は、必ずしも、というより、ほとんどの人が、
 テディベアが現実の熊に似ている かどうかなんて気にしませんよね。
 テディベアは、現実の熊という生き物を模倣して作られた熊のぬいぐるみという存在が、
 模倣に模倣を重ねているうちに、当初のモデルからはかけ離れた
 「虚構のなかの熊の可愛さ」を極端な形で表した存在です。
 ラノベなんかで描かれる美少女像というのも、
 長年アニメや漫画で描かれてきた美少女キャラの類型、言ってみれば記号の集積です。
 それは、現実を模倣しない虚構だけの価値観。

 例をあげると、萌えキャラの定番には「メガネっ娘」というのがありますよね。
 これは、もっともわかりやすく虚構がひとり歩きしたキャラ記号だと思んですけど、
 さて、よく考えてみてください。
 この「メガネをかけた女性」という存在、ひと昔まえだと、いっちゃあなんですが、
 ブスの典型みたいなイメージがありましたよね(今もあるっちゃありますが)。
 しかし、どの時点が始まりかはわかりませんが、漫画やアニメのなかで、
 普段はメガネをかけた女の子が、メガネをはずすと実は可愛い、みたいな描かれ方をされました。
 そういう女の子に人気が出れば、当然同じようなキャラが氾濫します。
 そのうちに、「メガネをはずすと可愛い」が、「メガネをかけていても可愛い」となり、
 いつのまにか、「メガネをかけていると可愛い」に変化していったのです。
 自分が思うに、いま巷で氾濫している萌えの記号というのは、
 こんな形で広がっていったように思います。

 つまり、現実の女の子がどうであるかは関係なく、
 あくまで虚構のなかだけで可愛いければいいのだと。


 それと、ラノベの物語様式自体、現実を模倣しない構造をもっています。
 ハーレム系のラノベなんて典型ですよね。
 ラノベは、基本的には現実を模倣しない書き物です。
 言い換えれば、物語の約束事を踏まえられる人だけが面白がれるジャンル。
 物語を面白くする要素にリアリティは欠かせませんが、
 ラノベの場合、多くはこのリアリティをもともと放棄しているのです。

 長くなりましたがこんなところでしょうか。
 結論として、だから自分はラノベがあまり好きじゃないと(笑)。


北野卵さんの意見
 こんばんは。卵です。yahoo!japan文学賞の締め切りが十一月だと勝手に思いこんでいたので、
 かなり焦っています。自分の腐った黄身が憎いです。

 そういえば、某巨大掲示板で「どうして美少女とばかり都合良く出会うのか?」
 という質問に対して、「中年のオッサンと出会って嬉しいか?」という答えがありました。
 思わず納得。

 で、本題。
 何というか、そもそもそういうライトノベル――
 要するに語尾が特殊であったり、無条件に主人公を好いていたり――
 にリアリティを求めるほうが間違っているような気がします。
 なので、いちいち気にせずに読んでしまうのがベターなのでしょう。

 娯楽品だし、それが楽しいと言う人が多いならば、そういう作品の存在も仕方のないことです。
 ここの掲示板でも良くありますが、シリアスばかりだと読者が疲れるからと、
 ギャグ専門のキャラクターをこしらえ、意味のないインターバルで笑わせたりとか。
 これも商業的に求められているのでしょう。
 こういうのは嘆いたり疑問に思ったところでどうしようもありません。流されましょう。
 そのうち読者の嗜好も変わるでしょうから、そうなったら作品の傾向も変わるでしょう。

 まあ私はそんなのは知ったことじゃありませんが。
 読者の嗜好なんて路傍の石くらいにしか思ってないし。


峰しずくさんの意見
 こんにちは。

 これはすご〜く簡単なことです。
 世の中には、たくさんの人間がいて、そこにはたくさんのドラマがあります。
 しかし、小説として読みたいような物語は、そのたくさんあるドラマの中のほんの一部です。

 それはなにかというと、美少女ヒロインであり、「はぅ」とか「ふぇ」とか言うキャラなんです。

 つまり、ごまんとある人生ドラマの中から選ばれた存在が小説になっているだけなんですよ。
 (という考え方は、いかが?)

> 物語の中で現実味を出させるのがリアリティならば、これってどうなのでしょうか?

 小説のリアリティと、現実とは全く異なるものですよ。
 これを間違えてはいけません。


 現実の会話など冗長で、いちいち文字にしてたら、うっと〜しくてたまりませんよ。

「なに、暗い顔してるんだよ」
「え? なに?」
「なに、暗い顔してるんだよ、ってきいたんだよ」
「暗い?」
「暗いよ」
「そうかなあ? 暗い?」
「ああ、暗い。何かあったのか?」
「別に」
「別にって事ないだろう?」
「何もないって」
「何も無いのか?」
「何も無いよ」
「本当に何も無い?」
「何も無いよ」
「じゃあ、俺の思い過ごしか」

 現実の会話は、これくらいくどいです。
 そういうあれこれをまとめたり、あるいは表情の描写なんかもひっくるめて、
 端的に表現した技巧が「はぅ」であり「ふぇ」なのです。


松野さんの意見
 こんばんわ。

 そういうヒロインが多いのはやっぱり根底にある共通概念みたいな、
 いわゆる「男に媚びる」ことでしょうねー。
 あとは編集側から、美少女沢山出してとか、ツンデレにしてくれとかの注文するとかもあります。

 現実味を出すならやっぱり「イマドキ」でしょうかね〜。
 ケータイ開いてメール打ったり、友達とお喋り、髪を染めたり、
 勉強よりも今を思いっきり楽しむみたいな。

 ちなみに自分がまだ高校生の頃、
 現実に「ほえ」とか「はにゃ」「ふにゅ」と言う女子が居ましたが……孤立しておりました。
 あまり学校にも来てませんでしたし(汗)


竜宮かれいさんの意見
 どうも、こんばんは。はじめまして、竜宮かれいと申します。
 ラノベに出てくる美少女は確かに珍しいタイプの人間が多いと言えます。
 でも作品にはそれなりにリアリティ対策のようなものがあると思いますよ。
 
 実際、彼女等は作中でも浮くことが多く、
 良く考えてみると主人公とその仲間以外ろくに友達がいない、なんてことはざらです。
 「はぅ」とか「ふぇ」とかいうキャラの周りにはそれにイライラしまくりの人物がいる場合もありますし。
 これは、こんな奴いたら美人でも浮くだろうなぁ、
 という作者の考えでそうなっているのだと思います。

 物語の現実味というのは、ありそうな事実を並べることでは無く、
 ありえなさそうな事実を如何に現実とマッチさせるか、ということだと思います。


 少なくとも、私はそっちの方が話を膨らませやすく楽しい話になるのではないかと思っています。
 それでは、失礼します。竜宮でした。


花菱 庵さんの意見
 夜分失礼します、初めまして。花菱と申します。

 多少乱暴なようですが、例えばそういう美少女キャラクターを
 “「はぅ」とか「ふぇ」とか奇声を発する類の種族”と捉えてみてはいかがでしょう(笑)

 そういう美少女が現実にありえないのとほぼ同レベルで、
 獣人や吸血鬼は現実にありえませんが。
 そういったキャラクターが登場するファンタジーを指して、
 リアリティがないと称する人もいないかと思います。(極端な例かもしれませんが)

 物語のリアリティは我々の現実・日常にいかに近づけるかということではなく、
 いかに読者に理解し易く描くかではないかと考えます。
 

 ゆえに読者の思考常識は疎かに逸脱できませんが、それを納得させるだけの理由があれば、
 つまり説得力があれば、その物語はリアリティがあると言えるのではないでしょうか。
 その説得力の幅は……これはきっと、小説のジャンルに拠るのでしょう。
 純文学では集団の中、孤立せざるをえない自己中心的な異分子も、
 ラノベでは向かうところ敵なしのヒロインになりえるのかも知れないです。

 リアルを描くのは目的でこそあれ、手段ではないのかも? と思います。

 意見の一つとして何かの参考になれば幸いです。
 それではー。


脂さんの意見
 やっぱりこれはイラストが重要な役割をしめていると思いますよー。

 例えばハルヒの長門などは、
 のいぢのイラストがなかったらここまで萌え対象にならなかったと思います。
 イラストのない素人小説であっても、イラストがあるという、
 こういうキャラならこういう感じのイラストになるだろう、という萌えのお約束があるのだと思います。

 では、小説ではどのようにキャラの魅力を立てればよいか。
 上で長門という例をあげましたが、
 似たようなキャラで「ゼロの使い魔」にタバサというキャラがいますね。
 タバサは過去を描くことでキャラの背景を掘り下げて書いてます。
 しかも人格形成の歴史としてはリアリティある王道にのっとって。
 タバサの方が、本来の意味での小説的キャラとして王道にのっとり成り立っているわけです。
 あ、誤解のないように言っておきますが、私はハルヒがおもしろくないとは思っていません。
 (私みたいな年寄りからの視点では)ナンセンス風味ギャグ風味SF、といった感じで、
 このナンセンス風味の配置が絶妙だと思っています。

 あと、リアリティとリアルの違いの話を少しだけ。
 舞台演劇では、演技にリアリティを求められますが、それは必ずしも日常の動作と一致しません。
 舞台って演技が大仰ですよね。リアルの動作ではないわけです。
 それは大勢の観客に伝えるために仕方のない、お約束みたいなところがあるわけですね。

 そのお約束とリアルの再現性とを妥協したものがリアリティとなる場合もあります。

 そこで妥協に終わらなかったのが歌舞伎やバレエですね。
 これらは動作や感情を抽象化しきって、それらをコード化し、
 そのコードを組み合わせることでリアルとは違った感動を呼び起こす作用を獲得しています。

 また、物語論でいうなら、伏線などはわかりやすい例です。
 伏線を張れば、それに呼応したイベントにはリアリティや説得力が増すと言われていますが、
 リアルでは伏線なんてないですよね。
 あっても後で「ああ、これはこういうことだったか」という感覚で、そうそうあるものではありません。
 なので、リアリズム演劇と呼ばれるものにはこの伏線をわざと嫌ったお芝居もあります。

 これらの例を考えると、「リアリティ」という言葉には、受け取り手との共通認識や、
 説得力、といったような要素も含まれてきているのではないでしょうか。
 元々は言葉どおりの現実性、どれだけリアルを再現しているか、ということだったのでしょうけど。


 さて、これらを踏まえてご質問のラノベ美少女なるものを考えるならば、
 アニメの美少女キャラという共通の土台があるから成り立つ
 「かりそめのリアリティ」なのかもしれませんね。
 このアニメの美少女キャラなるものが、普遍性をもった芸術作品の一要素に育つならば、
 かりそめという言葉はとれるのでしょう。
 その時は「リアリティ」さえも脱却し、歌舞伎やバレエのような「人物のコード化」
 ともいえるレベルの抽象化になっていると思います。

 余談ですが、日本人は浮世絵などで言われているように、
 抽象化が非常に得意な国民性を持っていると思います。
 今の萌えブームは、そういった国民性も背景にあるのではないでしょうか。
 浮世絵のように、日本人が萌えブームに飽きたころ、
 芸術文化論的視点で世界から見直されたりするのかもしれません。
 確かに今の萌え絵って眼の大きさとか髪の毛の色とか、
 デフォルメとトーンダウンの度合いは浮世絵レベルに達しているような気がします。
 ってゆーか情報化社会ですから、すでに萌えは輸出されてるんですよねー。
 作品自体は好きではありませんが、村上隆さんなどは先見の明があったのでしょう。
(個人的にはオタク文化は消費文化であるので、その次のステージ、
 さらに次のステージ(ものすごい速さで変化しつづけること)が重要だと思っていますが、
 この辺村上さんがぶつかっている壁なのかもしれません)


 さて、次に受け取り手が求めるから、つまり理想の具体化という側面を考えてみます。
 美少女キャラの場合は男性の女性像の理想化ですね。
(個人的に私は「男性」の前に「一部の特定の人格を持った」という言葉をつけたいですが)

 表現というものを考えると、そもそもは人間を含む自然がモチーフになっていますね。
 しかし自然は大きすぎる。なので作品内にそれをおさめるため抽象化という作業を行います。
 アニメキャラなどはわかりやすいですね。リアル人間の抽象化です。
 そして受け取り手は抽象から具象を想像します。
 この想像がなければ抽象なんてただの記号の寄せ集めに過ぎません。
 リアルの女性があるからこそ記号の寄せ集めが女性の抽象化に見えるわけですね。
 具象を抽象化する際に表現者の意思が、
 抽象から具象を想像する際に受け取り手の意思が介入するわけです。
 これらが多人数で一致すれば、同時代においては(時間軸を考えない)普遍性がある作品だと
 言えるわけですし、商業主義では売れる作品となるわけです。

 一致するだけが目的ならば、定性的であるので、
 もしかしたら論理的に解析できるものかもしれません。しかし芸術はそうはいかないのですね。
 この一致をわざとずらしたりするのがおもしろかったりするのです。裏切りが欲しくなるわけです。
 人間って厄介ですね^^;
 そんな読者を相手にする小説家も苦労します。
 自然科学などの学問から見るととんでもないことですね。
 この仮説は飽きたからだめ、って言われるようなもんですから(汗)。

 とまあ、ここまで書いてみると、ライトノベルには萌えアニメという文化が
 深く影響した共通認識があることは確かなようです。
 それがイラストなどにも色濃くでており、商業主義の効率によりそれらが重要になってきている、と。
 この辺がライトノベルは単なるアニメのネタ元の一つ、という感覚になるのでしょうねえ。
 また、ライトノベルはだめだ、
 といっている小説ファンがライトノベルを避ける一番の理由でもあるでしょう。

 ……ぽろぽろと思考のおもむくままに書いてはみたのですが、
 またしても散漫な文章になってますね(汗)

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