小説の創作相談掲示板:小説の書き方Q&A。執筆の悩み相談をしよう!

t-logさんのランク: 9段 合計点: 24

t-logさんの返信一覧

元記事:地の文が書けない

 寒くなってきた今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。
 さて今回相談したいことは表題の通りです。正直に申しまして、[なぜかけないのか]どころか[そもそも何を書けばいいのか]すらわかりません。人並み以上に本は読んでいるのですがそれでもさっぱりです。
 以下に現在執筆中の短編の書けた部分を開示しますので、どういったことが足りないのかご教授願いたいです。
ーー以下小説ーー
 少女の前に少年が一人倒れている。
「どうしてこうなったのかって?これには深い事情があるんです」
そんなわけでしばらく時間はまき戻る。

 夜も更けてすっかり暗い林の中、荷物を背負った少年が立ち止まっていた。大きなリュックのためか背を丸め、ヘッドライトをつけた顔には困惑の色が浮かんでいる。
「いやいやこんな始まり方されたら誰だって困るよ」
「開幕早々メタ発言なんかしない」
少年に言葉を返したのはセミロングの少女。こちらは藪打ち用の鉈を持ってはいるがそれ以外の荷物は少なく、身軽な格好をしている。
「いやだって、ウルトラマン第二話みたいな始まり方じゃ真面目な作品とはだれも思わないよ」
「初代バルタン星人は十分真面目な話じゃない。比べるなんて脚本家の方に失礼よ」
「ぬぐ、けどもう少し雰囲気ってもんがさあ」
そんな会話をしつつ、少女が少年を先導し林の中を進む。
「ねえ奏、うちら少年少女って年かな?」
「燈、女性の年に触れないのはマナーだと思うのだけど」
あまりメタ発言ばかりだと話が進まないのですが。
「「お前が努力しろ」」
ごもっともで。
 生暖かい空気の中、ヘッドライトの明かりを頼りに燈と奏は進んでゆく。
「これ、状況説明した方がいいんじゃないかしら」
夜野燈はとある秘密結社所属の改造人間である。今回は幼なじみ兼別の支部所属の月影奏に「水中から白い触手を出すUMAを見せてあげる」言われ、半ば強引に連れ出されたのであった
「説明が雑、それに無理やりすぎるすぎる」
「そうね。これじゃ燈がUMAにつられて40秒で支度してついてきたってことがわからないわね」
「そうじゃなくて。はあ、それよりまだつかないの?」
「え~っと、沼にはもうついてもいいころなんだけど」
問われたことに対し言葉を濁す奏、その態度から燈は嫌な想像をする。
「まさか迷ってる?」
「だ、大丈夫よ。ちゃんとつく、もうすぐだから」
「はあ、もうUMAなんていいから帰りたいよ」
「ここまで来たら退くだけ損よ、口じゃなく足を動かして」
「そんな気質効果は損の元だよ。そもそも奏がいきなり言い出さなければうちが下調べして先導できたのに」
「そんなことされたら…っと、ついたわよ」
 話している間に藪を抜け、二人は林から沼のほとりに出る。
そこそこの大きさはあるが葦など水生植物は少なく、暗くよどんだ水面がよく分かる。
何かが出てもおかしくないという雰囲気に燈の顔色がより悪くなる。
「これはUMAよりも幽霊が出そう・・・あれ、他の人がいる?」
耳聡く人の声を聞きつけ沼の反対側を見る燈。そちらには懐中電灯と思しき明かりが数条動くのがみえる。
「あ~、ちゃんとした道を通れば向こうに出るんだ」
「ちょ、ちょっと待って。ちゃんとした道があるの知っててわざわざ林の中をえっちらおっちら歩かせたの?自分が方向音痴だって自覚してる?」
「だって、もしほかの人と会ったらここがなんなのかバレ…二人っきりになれないじゃない」
「ごまかし方が雑。ここ、UMAが出るんじゃなかったの」
燈の追求に奏は悪びれる様子もなくあっさり口を割る。
「ちゃんと出るわよ。UMAじゃなくお化けだけどね」
お化け。この言葉に燈の顔は青くなる。
「・・・帰る」

上記の回答(地の文が書けないの返信)

投稿者 t-log : 0 投稿日時:

会話文が続く下記の個所に、地の文を挿入しました。
最小限の範囲で、セリフも改変してます。

>「そうじゃなくて。はあ、それよりまだつかないの?」
>「え~っと、沼にはもうついてもいいころなんだけど」
>問われたことに対し言葉を濁す奏、その態度から燈は嫌な想像をする。
>「まさか迷ってる?」
>「だ、大丈夫よ。ちゃんとつく、もうすぐだから」
>「はあ、もうUMAなんていいから帰りたいよ」
>「ここまで来たら退くだけ損よ、口じゃなく足を動かして」
>「そんな気質効果は損の元だよ。そもそも奏がいきなり言い出さなければうちが下調べして先導できたのに」
>「そんなことされたら…っと、ついたわよ」
> 話している間に藪を抜け、二人は林から沼のほとりに出る。

「そうじゃなくて。はあ、それよりまだつかないの?」
「え~っと、沼にはもうついてもいいころなんだけど」
歯切れの悪い返答に、燈は嫌な想像をする。
「まさか迷ってる?」
「だ、大丈夫よ。ちゃんとつく、もうすぐだから」
 秦の「大丈夫」ほど当てにあらないものはない。燈の悪い想像は当たっていたらしい。本当に迷ったようだ。
「はあ、もうUMAなんていいから帰りたいよ」
 いつ目的地につくか、わからないと思うと、急に背中の荷物が重く感じだした。足取りが重くなる。うなだれたせいで、ヘッドライトの光が関係のないところを照らし出す。
 遅れだした燈に、秦は舌打ちをした。 
「ここまで来たら退くだけ損よ、口じゃなく足を動かして」
 そう言って強引に手を引く。だが燈の士気は上がらない。
「そんな気質効果は損の元だよ」
 そもそも奏が、いきなり沼に行くなどと無理を言わず、十分な時間さえくれれば、燈自身が下調べして先導できたのだ。そう愚痴をこぼすと、秦はかぶりを振った。
「駄目よ、そんなことされたら…」
「なに?」
 燈は秦の顔を覗き込んだ。彼女は気まずそうにそっぽを向いた。
「なんでもない……ってほら、ついたわよ」
 秦が右手を上げ、まっすぐ前を指さした。
 深い藪を抜け、ようやく二人は林から沼のほとりへ出た。

こんな感じでどうでしょうか。
ざっくりなんで、文章表現が拙いのはご容赦を。

人が会話するとき、口だけが動いているわけではありません。
身振り手振りや、頷いたり首を振ったりもします。
嬉しい話なら喜び、嫌なことを言われればムッとします。

今作であれば、歩きながら会話しているわけです。
精神状態によって、足取りが軽くなったり、重くなったりもするでしょう。

そういう仕草、表情、行動を地の文で描写すればいいのです。

セリフのみで書くよりも、感情表現が豊かになります。

また、一部セリフを地の文に落とし込めばメリハリがでます。

参考になれば幸いです。

カテゴリー : 文章・描写 スレッド: 地の文が書けない

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元記事:語り手とカメラを意識させるのはまずいの返信の返信

以下はあくまでも私の考え方なので、もちろん異論はあると思います。また、視点・人称はルールではなくテクニックだというお考えには同感です。だからこそ原則論ではなく、それぞれの視点の長所・短所を踏まえた上で最も効果を発揮させるためにはどう書くのがよいかという私なりの方法論から意見を述べています。(なので論理的には矛盾することを言っている場合があるので、この問題は説明するのは難しいんですね。まあ、やってみます)

(1)
>「~は思いもしなかったのだ」という文章、一人称では問題はなく、三人称神視点では没入感が妨げられる。とのことですが、三人称一元視点の場合はどうですか。

三人称一視点と最も相性が悪いと思います。

(2)
>例えば、過去の出来事だったら、一般的に知られている歴史を振り返るのなら大丈夫だが、登場人物の過去はNGなのか、それとも一般的な歴史でもダメなのか。

一般的な歴史はOKでしょう。三人称一視点の記述は、基本的に視点人物(視点を固定する人物)の知識と一致させた方がいいように思います。

(1)について。
「~は思いもしなかったのだ」という文章は、一人称でも問題はあると思います。
こういう書き方の問題点は三つ。

A 時系列の乱れ。過去を振り返る文章なので、叙述の流れを止める、進行中の時間の流れと合わないなどの問題が生じる場合があります。

B 物語全体が回想になってしまう。

 小説の時間には大きく2分して、回想型と現在進行型があるように思います。どちらがよいか一概には言えないでしょうが、緊迫感をつくためには現在進行型の方が有利です。「~は思いもしなかったのだ」と書くことによって読者と物語の距離感が遠くなってしまうリスクがあるんじゃないかと。

C カメラは過去を振り返らない。

 現代的な三人称の視点は比喩的によく言われる「カメラ視点」であり、人格を持たないのが特徴です。
ただ、文学史的にはこの「人格を持たない視点」という手法が確立するまでが大変だったんですよ。「昔々、あるところに~」というのは、語り手が過去の知っている出来事について語っているという体裁をとっていますよね? つまり作者視点・語り手視点が物語の原型なんです。
三人称の地の文から作者を切り離し得たのは、現代小説の大きな方法的成果。なのに、「~は思いもしなかったのだ」という文章を含めて作者の顔が地の文に出てきてしまう書き方は、古典的な語り手視点の世界に引き戻してしまうんです。

で、ですね。
一人称であってもA・Bには絡んできますから、問題がないとは言えません。ただし一人称はCには引っかからないという意味で、先の書き込みでは大丈夫だと書きました。
なぜなら一人称は普通に語り手視点です。ただし、語り手は作者ではなく作中の登場人物のうちの誰かという体裁をとっています。カメラ視点三人称とは別の方法で、地の文から作者を隠しているんです。なので「~は思いもしなかったのだ」と書いても一応違和感は少ないのだと考えられます。

で、三人称一視点。これは最も実践的な視点手法で、簡単に言えば一人称と三人称のいいとこ取りを狙っているんですね。なのでこの手法は、何をやってよくて何がダメなのがという判断が難しいんです。

私見ですが三人称一視点の最大の狙いは「臨場感」だと思うんですね。

一人称にも物語と読者の距離感が近くなるという長所がありますが、語り手キャラの主観が目立ちすぎるため、「場の空気間」を表現するためには必ずしも適していません。三人称一視点は読者を視点人物に寄り添わせつつ、視点人物の心理描写は(軽く入れる人もいますが)淡泊にとどめるので、臨場感を出すためには最適な手法だと思うんですね。

つまり三人称一視点は、説話的物語手法(神視点)から現代的な三人称に進化してきた過程の一つの到達点なのだと考えています。

(2)について。
これまで述べてきたような理由で、三人称一視点では現代的三人称の客観描写を守りつつ、一人称的な効果も取り入れることを目指したいのです。そのために、文章そのものは三人称のルールに従いながら、敢えて一人称の制約を加えてしまうという方法が考えられます。一人称の制約の一つは「視点人物が知らないことは書かない」、ですよね?
なので、そのキャラが知り得ない他人の過去は書いてはいけないし、歴史の知識など誰でも一般的に知っていておかしくない過去は書いてもかまいません。

(補足)
ここまで三人称一視点(一元視点、単一視点)を推奨するような書き方をしてきましたが、一方で「現代的神視点」みたいな手法もありなんじゃないかと個人的には考えています。
ハリウッドなどで物語の面白さの基本は神話に見出せるのではないかと研究されていることからも分かるように、神視点的な手法は波乱万丈で内容の豊富なストーリーを書くにはおそらく適しているのだと思います。
ここまで神視点の欠点をいくつか書いてきましたが、逆に言えば従来の神視点的書き方からそういう欠点を取り除けばいいということでもあります。単に多視点の弊害ならば、 f-logさんも仰っているように読者が混乱しないように書けばすむだけの話です。しかし神視点には hexaが指摘されたように、地の文に「作者」が不用意に顔を出すことによる没入感の妨げという別の弊害もあると思うんですよ。このもう一つの弊害は、一見、視点・人称とは無関係に見えるからこそ、気付かれにくいんじゃないかと。
しかしこれは神視点を無頓着に採用することによって発生しやすい弊害なので、やはり視点・人称の問題の一つであるし、読むに堪える優れた神視点小説を書くためにも強調しておきたいところです。

上記の回答(語り手とカメラを意識させるのはまずいの返信の返信の返信)

投稿者 t-log : 1 投稿日時:

詳細な回答と解説、ありがとうございます。大変参考になります。

(1)について。
Aの問題点については、私も認識してました。最初に例として出した際に「ダサいかどうかはともかく」と書いたのも、こういう部分が単に視点の問題だけではないからです。例として最適ではないと思いつつ、他に思い当たらなかったので、注釈付きで挙げました。
A・Bの問題は人称視点とは関係ないので置いておくとして、Cの部分で一元視点は引っかかるということなんですね。
一元視点のチェックに、一人称に変換するという方法がありますが、この件については通用しないようですね。

質問しておいてなんですが、私の感覚として、三人称の地の文に人格が垣間見えることが、そこまでリーダビルティーに影響するんだろうかと疑問があります。
先の例では、それ以外の問題点の方が大きいのではないかと。好例が思いつかないので、間違ってるかもしれませんが。

回顧型の小説
歴史小説によくみられるタイプかなと思います。そもそも過去の出来事であることが、前提ですからね。
人物を描くのなら、感情移入もしやすく、臨場感もある「現在進行型」が向いてますが、歴史の転換期にスポットを当てたものや、その時代になにが起こったのか、客観的に描く作品なら「回顧型」が向いているんじゃないでしょうか。

>三人称一視点の最大の狙いは「臨場感」

私の考えでは最大のメリットは「客観性」だと思っています。
一人称の場合は、すべて視点者の言葉で語られるので、それが作者の主張と同一視されがちです。ですが、かならずしもそうではありません。三人称にすることによって、視点者と距離を置くことができ、作者の意図が別にあることを示せることが、大きいのではないかと考えます。

(2)について。
>基本的に視点人物(視点を固定する人物)の知識と一致させた方がいいように思います。

ということは視点者が知りようのない「特殊な物理法則」などもダメということですね。
私は、三人称の地の文には、客観的事実でないと書けない。逆にいえば、客観的事実であれば、何を書いてもかまわない。と考えており、視点とと結び付けてはいませんでした。
今回、皆さんの指摘を受け手元にある小説をチェックしたところ、視点者の知識から逸脱した内容には触れていないとこに気づきました。
また、サタンさんの「作者の解説文」の見解を読んで、確かに視点者の知識から逸脱した内容については、最初か途中で挿入するかの違いはあれど、物語の進行とは切り離して記述してあるなと、思い当たりました。
とうことで、質問させていただいたのですが、やはりそうなんですね。
この件について、「三人称なんだから、客観的事実は書いても問題ないでしょう」という考えの人はいないんでしょうか。いれば、意見を伺いたいです。
子供が視点者で、地の文に大人でないとわからないような記述がある、というのは例外なんでしょうね。

「現代的神視点」
当てはまっているかどうかは、わかりませんが、ファンタジーで吟遊詩人が語るという、体裁をとった作品を読んだ覚えがあります。
三人称の変わり種としては、金田一耕助シリーズは、実在する金田一探偵の冒険譚を、友人である作家の横溝正史が記録に残す、という形になってました。
横溝氏が登場する作品もありました。
当初から想定していたとは思えないので、シリーズを続ける際に何らかの必要性があったのでしょう。

カテゴリー : 文章・描写 スレッド: 神視点での小説の成功例

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元記事:関係ないことをちょい横槍

>サタンさんも言ってるけど物語→神→読者の中継点となっているケース
個人的にはそのケースしかねえだろ、と思ってたのだけど、あざらしさんが「ノンフィクション作家」をオススメに挙げてるのを見て、ハッとした。
ノンフィクションは専門外だしまったく興味なかったんで気づきもしなかったけど、hexaさんの言う「ナレーション」に類すると言っていいのかどうか、ともかく多視点でなく神視点が良い場合(作品の一部で神視点を使うなどではなく)もあるのだと考えを改めました。
作者視点だと作者の主観が入った文章になるし、まあそれは避けられないけど、神視点のほうが「記事」に近く事実を書くノンフィクションとの相性は悪くないのだと。

それで言うと歴史モノも相性は悪くないのだけど、やりすぎるとただの教科書になってしまうし、
>二派に分かれるジャンルだと思っています。
「その時代の歴史を読んでいる」か「物語のドラマを読んでいる」か、という違いで分かれてしまうのでしょうね。

まあ、ぶっちゃけ本当に正しく分析すると、なろう系どころか三人称で書かれてる文芸作品の大部分で「視点のゆらぎ」はあったりもすると思うんですよね。
わかりやすく「やっちゃってる」人は、建物の外観を説明してからその建物の廊下を歩いてる人物に視点を合わせたり。
人物から建物の外観は見えないハズなんで、建物の説明が神視点になってるんですよね。
もっとも、「人物は建物の外観を既に知っているから、それを人物に説明させることに何の違和感もない」とも考えられるので、視点のゆらぎはない、と言えるんですけども。
でも、この時点で「その人物が建物の外観を知っている」という事を読者はまだ知らないので、読者としては「人物は外観を見たことがあるのだろう」と解釈する。
このため視点のゆらぎが起こっていないように見える。これを誰でも普通にやってるから、普段はあんま意識しないんですよね。
私はそれで良いだろうと思う派なので、「読者がわかればどうでもいい」と思っちゃいますね。
神視点ではなく、人物Aと人物Bとの間で「視点がゆらぐ」事も、まあ無いほうが良いけど、読者に伝わっていれば問題ないし、でも、確かに「視点がゆらいでるからわかりにくい文章になっている」という事はあるし初心者には多いので、そこは指摘するし「ゆらがないようにしたほうが良い」と助言もする。
わかりにくい文章の原因が「視点のゆらぎにある」という可能性が高い、ってだけではなかろうか。

ーーそう思って読んでるから、神視点による「作者(神)の解説文」なども、その場で一番視点が近い人物の解説である、と解釈して読んでたりする。
古いSFやファンタジーにたまにある「世界観の説明から入るタイプ」の小説は、これって「その世界観の説明部分は神視点だよね?」って話になると思うんですよね。
でも、次のシーンで某国の王子様が出てきて王子の視点で三人称が始まったら、「王子が知ってる事を最初に説明しただけの、王子視点の三人称」と私は考える。
もともと三人称は一人称と違って執筆の際にコレといったルールは無いですからねぇ……。
視点の問題も、「誰かに固定したほうがわかりやすい」とか「何にスポットを当ててるか明確にすべきだ」という話であって、別にルールではありませんし。
だからhexaさんが言うように 一人称 → 一視点 → 多視点・神視点 とその視点の数が増えていくと難しくなっていくんですよね。

上記の回答(関係ないことをちょい横槍の返信)

投稿者 t-log : 1 投稿日時:

視点の揺らぎについて、よくあるパターンは「A視点で進む中に、数か所B視点が混じる」のと「いつの間にかAからBに視点が移ってる」というのがありますね。
後者はスムーズに移行していれば、何の問題もありません。が、前者は視点の揺らぎに寛容な立場を表明しておきながら、やはり気になりますね。
特に、書籍になってるヤツなんかは、編集者が指摘してやればいいのに、って思ってしまいます。そこまで気にするのって、自分だけかと心配になってたんですが、結構いらっしゃるようで、安心しました。ありがとうございます。

カテゴリー : 文章・描写 スレッド: 神視点での小説の成功例

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元記事:語り手とカメラを意識させるのはまずい

横槍、申し訳ありません。

>「~太郎は思いもしなかったのだ」という文章がストーリーの流れをぶった切るので、没入感が妨げられるということですよね。
>それって、人称とか視点とか、関係なくないですか?

これは人称・視点に関係あると思います。
「~は思いもしなかったのだ」という文章は、一人称であれば語り手キャラが未来の時点から物語を振り返っていることを示します。しかし三人称の地の文でそう書くと、「誰が振り返っているのだろう?」という疑問が生じてしまいます。
もちろん三人称の地の文はすべて誰が語っているのか分からない「空気」のような存在なのですが、読者にそれを意識させてしまうことがまずいのです。「今、読んでいるのは所詮作り話にすぎない」ということを読者が思い出し、それによって醒めてしまうおそれがあるからです。

映画のカメラ。三人称小説の語り手。この二つはどちらも、観客や読者は物語に没入しているときには存在を忘れているはずです。それを思い出させてしまうような表現は避けるべきです。

上記の回答(語り手とカメラを意識させるのはまずいの返信)

投稿者 t-log : 1 投稿日時:

なるほど、詳しい解説ありがとうございました。とても勉強になります。
その上で質問があります。
「~は思いもしなかったのだ」という文章、一人称では問題はなく、三人称神視点では没入感が妨げられる。とのことですが、三人称一元視点の場合はどうですか。
視点者の思考と捉えることもできるので、問題ない。か、やはり神の視点であるから、適当ではない。どちらでしょうか。

もうひとつ、三人称では地の文に嘘があってはならないといわれます。逆にいうと、視点者が知らないことでも、事実であれば書くことができます。
以前のレスで、あまくささんは神視点であれば表現できることの例を挙げてました。それは、たとえ事実であっても一元視点ではダメだと考えますか。

>事件の背景となる事柄とか、SFだったら特殊な物理法則だとか、あるキャラとキャラが仲が悪い理由の解釈だとか、過去の出来事だとか、遠い将来に主人公が遭遇する運命だとか

この中で、「あるキャラとキャラが仲が悪い理由の解釈」は視点者の解釈であれば可能だか、それ以外はNG。「遠い将来に主人公が遭遇する運命」は、上記で論じられている。ではそのほかは?
例えば、過去の出来事だったら、一般的に知られている歴史を振り返るのなら大丈夫だが、登場人物の過去はNGなのか、それとも一般的な歴史でもダメなのか。

お答えいただければありがたいです。

カテゴリー : 文章・描写 スレッド: 神視点での小説の成功例

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元記事:神視点での小説の成功例の返信の返信の返信の返信の返信の返信

>それって、人称とか視点とか、関係なくないですか?

そのへんはあまくささんが言っていることにまったく同意なのでパスさせてもらう。サタンさんも言ってるけど物語→神→読者の中継点となっているケースがあって「神要らねぇええ!」と思うのがまずい使い方をしているやつ、「あなた(神)がいてくれないとこの作品の面白さは半減してしまう」ってのが「ちびまるこちゃん」「黒いおみみの~」のナレーション。

個人的には、歴史小説は「まあ……解説してくれるのはありがたい」「でもやっぱり微妙かも」の二派に分かれるジャンルだと思っています。

>神視点だけに起こる問題点ではないと思いますよ。

そうなんだけど、一人称→三人称一元→三人称一元のシーン切り替え→三人称神視点の順に「起きやすく」なるんです。だから、小説道場ではこの順番で視点の使い方をマスターするのが推奨されている。

>なろう系の書籍になってる作品で、視点の揺らぎがあるものも存在しますから。

は? なろう系の書籍化作品ですと? そんな「玉」のほうを見ていて問題なんてあるわけないじゃないですか。小説道場だって、有段者(書籍化レベルの人)には「まだところどころ視点が揺れているが、そんな些細なことはどうでもいい。瑕瑾を探すというやつに過ぎぬ」というくらい、道場主は視点を重要視しつつも同時に寛容な人なんですよ? 私だって、f-logさんに指摘されるまで気づかなかったくらい通常は意識してないんですよ?

だから「石」のほうを見ると勉強になるんですよ。道場主もそのつもりで見ていたそうですから。

>「神視点」を「多元視点」と置き換えても成立するんじゃないでしょうか。

さっきも言ったことの繰り返しになるんだけれども、だんだん難易度が上がっていくんです。そして、難易度の低い手法で書いていれば見逃さなかったレベルの失敗をやってしまう、それが恐ろしいところなんですよ……。

上記の回答(神視点での小説の成功例の返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信)

投稿者 t-log : 1 投稿日時:

私は最初から「視点の揺らぎが読者の混乱を生む」と主張してます。その上で、「揺らぎがあったって、混乱なく読めれば別にいいよね」と言ってるわけで、混乱が生じるようであれば、それはダメに決まってるじゃないですか。
hexaさんが「読者から見てわかりやすければそれでいい」を否定されたんで、「いや、視点に関しては、書籍になってるもので、揺らぎがあるもの存在しますよ」と言ったまでです。

カテゴリー : 文章・描写 スレッド: 神視点での小説の成功例

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