架空の要素による非現実はどこまで許されるかの返信
元記事を読む
架空の要素による非現実はどこまで許されるか(元記事)
初めて投稿します。
今書こうとしている小説に結晶型生命体というのが出てくるのですが、その設定があまりにも非現実的ではないかと心配になったので、ご意見をお願いしたいです。
主人公たち少年少女が、結晶型生命体が搭載された戦闘機に乗って地球外生命体(いわゆる敵。まだあまり設定は練られていない……)と戦うという話。
結晶型生命体は普段は結晶体で、人の意思の力を感じると急激に成長し、思い描かれた物体を模倣する。例えば、「マシンガンを!」と念じるとマシンガンに変形し撃てるようになる。(このとき弾は念じた人の精神がもつ限り出る。)気力が切れるともとの結晶体に戻る。
「生命体」なので「死」がある。つまり無限に活用できるわけではない。
結晶型生命体と精神的接触をし過ぎた人は廃人化する可能性がある。
結晶型生命体は宇宙から来たもので、作中の研究者たちもその生態を解明できていない(というか書き手がそこまで考えていない)。
というのが大まかな設定です。
特に気にしているのは、「念じればだいたい何でも作れる」「なぜそうなるかの説明ができない」という点です。
創作で非現実的なものが出てくるのはよくあることですが、この設定は度を越していないでしょうか。
ご意見よろしくお願いします。
架空の要素による非現実はどこまで許されるかの返信
投稿者 サタン 投稿日時: : 1
それを言ったら、アラジンと魔法のランプで「なんでも願いが叶う」というのは非現実的で度を越していないか? と、なりませんかね?
モノによっては精霊の力を超えるものは不可能と設定がついたりするけど、もとの設定でも「三回まで」という抑止力がついてる、という部分で「度を越した」から「やや現実的なライン」になってると思う。
このように制限をつける、というのがよく使われてる方法でしょう。
また、これは設定面の話ではあるけど、物語面での話をすると、
度を越した無茶な設定というのは実はとっても扱いやすい。繰り返すけどあくまで「物語では」の話です。
アラジンと魔法のランプの場合でも、「最後の願いは精霊を自由の身に」とオチが付くけど、もし原作に「精霊の力を超えるものは不可能」という設定がついていたら、「それで自由になれるなら、精霊は元から自力で自由になれたんじゃないの?」って話になる。精霊の力では脱出不可能だからランプに拘束されてるわけだし。
度を越した設定だから、好きなように展開させられる。
だから、「制限を付ける」という例を出したけども、現状のままで十分面白そうに組み立てられると思う。
「念じればだいたい何でも作れる」という設定自体に制限を見いだせるので、現状のままで何も問題ないんじゃないかなと思います。
例えば、簡単な銃は作れるけど、マシンガンなんかは主人公の知識が足りないから作れない、とか。よく切れる剣を作ることは出来るけど、それ以上の万物を切れる剣はイメージできないから作れない、とか。
「念じれば」というのが曖昧なので、曖昧だからこそ臨機応変に制限を付けられる設定だと思います。
「なぜそうなるのか説明できない」というのも、別に問題ないでしょう。
技術解説する物語じゃないんだから。
「それをどう利用して物語を盛り上げるのか」が大事なので、仮説はあるが現状わかっていない、で何も問題ないと思います。
むしろ、「何でも作れる」や「説明できない」に細かい設定を作ってしまうと逆に物語が作れなくなると思います。
カテゴリー : 設定(世界観) スレッド: 架空の要素による非現実はどこまで許されるか