元記事:異世界の文化や言語を考えるのは不毛かの返信
SFやファンタジーにかぎらず純文学・私小説
まで含めて、すべての小説は作者の脳内で作り出されたものであり、現実そのものではありません。したがって徹底的にリアリティを追求した小説であっても、作者の「作為」が微塵も入らないということは有り得ません。
また、純文学の作者が実体験や現実社会の事象にもとづいて作品を書いたとしても、そこには作品を通じて何かを読者に伝えたいという「意図」があるはずです。「意図」があれば当然、ストーリーの組み立てを「作為的」に「操作」することになります。
そのような「作為」「意図」「操作」は、あえて悪い言葉に置き換えれば「ご都合主義」に他なりません。作者の意図する方向にストーリーを誘導していることには違いないですから。
昭和のころの純文学作家は「いや、そういう操作をいっさい排除して、ありのままに書くのが真の文学だ」みたいなことを言ってましたけどね。そういう主張に対しては昭和の純文学界の中でさえ「そんなことは不可能。滑稽な思い込みに過ぎない。小説には作為があるのがあたりまえだ」という批判も出ていましたよ。
だいたい太宰治とか芥川龍之介とか、そうとう話を盛る作家じゃないですか。
という認識をふまえるなら、ファンタジーから純文学まで含めて実は「ご都合主義」が小説の本質だと言えます。
ま、これはあくまで私の考えなので異論はみとめますが、仮に上記の認識を前提にすれば、ファンタジー設定の現実との矛盾がどうのなんて議論は根底から崩壊してしまうんですね。
ファンタジーなんだから好きなように書けばよい。ただし、演出としての真実味と、作品世界内の最低限の整合性は必要。
また、異世界の文化や言語を考えるのは、不毛とか不毛じゃないとか議論するのがそもそもナンセンス。そうしたければそうすればよいし、したくないなら別にしなくてもかまわない。
それだけの話です。
* * *
ということで、差し支えなければスレ主様の「フィクションの定義」をまずお聞きしたいところです。
上記の回答(異世界の文化や言語を考えるのは不毛かの返信の返信)
スレ主 いろふぁ : 0 投稿日時:
返信ありがとうございます。仰る通りもう少し固まってから質問しようと思います。
「フィクション」が何かについては、歴史の教科書や物理学の論文も含めて、「作者が感じた何かしらの世界を事後的に切り取って語ったものよ全て」あるいはそれを視聴したり、視聴した経験を振り返ったりしているときの「読者の脳内に作り出されている世界」だと理解しています(ノンフィクションという用語は言葉のあやであって、誰かが何かを語るときにそうした作為が全く含まれないということはなく、ただそれでもできる限り客観的に寄ろうとしたものを近似的に客観的であるとしているに過ぎない)。
問題としては、「ある設定について、読者が(その読書経験を事後的に振り返っている場面も含めて)その本に関わっているすべての段階において、矛盾がないと考えるか、あるいは矛盾を発見してもその設定に納得がいくようにするにはどうすれば良いか」ということだと思います。
SF漫画等では論理の不整合を読者の「一瞬でも自分を騙した作者への賛辞」によって補っているかと思いますが、上述の3, 4つの理由づけは少なくともそうした「SF漫画的な補い方」としては強度が足りないように感じました。
カテゴリー : 設定(世界観) スレッド: 異世界の文化や言語を考えるのは不毛か
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