「わかる」前提で話を作ってしまうの返信
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「わかる」前提で話を作ってしまう(元記事)
初秋の候失礼します。
どうも当方、視聴者がこちらの意図通りに「だけ」話を理解する、加えてある程度基礎知識がある状態で話を見ると思っているようです。
ストーリーものの二次創作を何年も作ってきて、『なぜそんなこともわからないのか』『なぜツッコミ待ちの部分ではなくそこを気にするのか』と疑問に思うことが数多あったのですが、最近ようやっと自分の方に問題があるのではないかという可能性に気づきました。
小説執筆に際し同様のことが起こらないようにしたいとは思うのですがどうにも根が深く、自覚した程度では直りそうもありません。どういったところに気を配れば多少なりとも改善できるのでしょうか。
「わかる」前提で話を作ってしまうの返信
投稿者 あまくさ 投稿日時: : 2
作者が当然わかるはずだと思っていたことが、読者に伝わらない。
仰っているのはそういうことでしょうか?
でもそれって、しごく当たり前のこと。作者にしてみれば、あらかじめ頭の中にあるイメージを文章に置き換えているわけです。しかし全部言葉にすることはできないので置き換えきれないことが残ります。その部分は作者の頭の中にだけは存在しているので、つい他人もわかるはずと思ってしまうんですね。
だからこそ、小説は誰かに読んでもらうべきなんです。自分が書いたものが他人にどう受け止められるか、何が伝わり何が伝わらないものなのかは、他人に読んでもらって感想や批評をもらわないとわからないものです。
書いて読んでもらってコメントしてもらう。思うように伝わらなかった部分があれば、そこを修正してみる。これは同じ作品を何度も書き直すという意味ではなく、伝わらなかった理由を自分なりに考えてみて、その経験を次の作品に活かしてみるということです。で、また誰かに読んでもらって反応をみる。
要するにフィードバックを繰り返すということですが、これを根気よくつづけると、だんだん身についてきて読者の反応というものがある程度は読めるようになります。
ちなみに。
宣伝するわけではないのですが、このサイトの鍛錬投稿室は10年くらい前にはそういうフィードバックを得るためにわりと有効な場所でした。辛口批評が推奨されていて、作者も感想を書く側もそういうことをデフォルトとして受け入れていました。時にかなり殺伐としてしまうこともありましたが、率直な意見交換の場としてけっこう機能している面があって、少なくとも私にとってはかなり勉強になった気がしています(作品投稿数20、感想投稿数300くらい)。
しかしそういう感じでやっているとやはり荒れてしまうこともあるので、酷評肯定派と否定派の対立が顕在化するなどあって、良くも悪くも大人しくなってしまった気がします。デメリットと一緒にメリットまでもが排除されてしまった感は否めません。
スティーヴン・キングが何かに書いていたのですが。
自作を10人の人に読んでもらったとして、まずは全員に対して微笑しながら「なるほど」と言えと(笑
次にきわめて不本意な意見があった場合、それを述べたのが一人だけなら気にしなくてもいい。しかし数人から同じようなことを言われたらそれがいかに納得できない内容であっても、自分の側に何か問題があると考えた方がいい。
……とのことでしたよ。
また、川端康成氏が『伊豆の踊子』の終盤の描写中「視点のブレ」があると批評されたことがあるらしいのですが、それに対するこの大文豪の反応が印象的。
「確かにそうも読めるだろうが、あそこは~な場面なのだから、この場合はあの書き方でおかしくはないと思うのだが……ぶつぶつ」
みたいなことを言ってましたよ(笑
なんか、鍛錬投稿室の作者の返信とあまり違わないなあと。まあ、ノーベル賞作家でもそんな調子ですから、われわれごときが気に病む必要もなく、冷静かつ戦略的に対処すればよいのではないかと思っています。
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