創作論の話 実はざまあは短編向きなのでは説の返信
元記事を読む
創作論の話 実はざまあは短編向きなのでは説(元記事)
どうも皆様こんにちは。いつもお世話になっております。
今回は私にしては珍しく創作論の話です。
よくなろうテンプレを嫌悪している人達がいわゆる「ざまあ」に対しても文句を言っている現場を何度も見てきました。
(普段はお前もそいつら側だろってツッコミはナシでお願いします)
ざまあ系の話はいわゆる復讐の亜種だと思っているのですが、主人公が復讐鬼となる基本的に短編の方が多いと思うのですよね。
商業作品に限らず昔話や神話にも、復讐を取り扱った作品は多くあるから、最近は「長編に引き延ばさないで短編でやった方がいいジャンルなのでは」と思うようになりました。
それなのにわざわざ長編でやる方が後を絶えないのはなぜなのでしょう?
ちなみに私は現在「転生チートよりは好感を持てるから、一回短編で真面目に書いてみようかな」と思っているところです。
創作論の話 実はざまあは短編向きなのでは説の返信
投稿者 大野知人 投稿日時: : 2
個人的にはナンセンスな話題だと思います。
何かっつーと、エンタメという物は『斬新なもの』を求める傾向にあります。その上で言うと、向き不向きって言うのは『書く側が楽かどうか』の話に落ち込んでしまっていて、出来上がりの良しあしとは関係ない。
これが、『ざまあは長編に向いてない気がするけど、長編でやってみたいと思います!』みたいな話であれば、『お、頑張れ!』と言ってアドバイスとかアイデアを出すんですが、『長編に向いてない気がするんで、短編でやりまーす』と言われても、『うん。それが普通だし、出来る範囲で出来る事をやるんだったらそれでもいいんじゃない?』と感じますけど、わざわざ議論をするほどではないっていう。
じゃあ、なんでここに書いているかと言いますと、『ざまあ/復讐物は短編向き』という考えが間違っていると思うからです。
確かに、ざまあと言うのは『蔑まれていた状況から這い上がり、見返す』という事により、爽快感や達成感を強く得られる要素です。
スピーディーであったり、逆転の落差が大きいほど読者は盛り上がるので、そういう意味では『ざまあ』そのものは短い方が良いとは思います。
ただ、それと並行して思うのは『ざまあ物』と呼ばれている作品のうち、どれくらいの作品が『ざまあ』のみを作品の焦点としているかです。
よりハッキリと言ってしまうなら、『ざまあ』そのものは作品のカタルシスとしては優秀ですが、あくまで単発のネタであり、それを作品の主軸にするべきではない、という話。
例として挙げるなら、バカテスやこのすばなどのギャグ系作品において、『雄二(腐れ縁の親友)に馬鹿にされた明久(主人公・バカ)が翔子(雄二に憑いてるヤンデレ)にホラ話を吹き込み、雄二が酷い目にあう』とか『アクア(駄女神)に「やーい、童貞」と煽られたカズマ(主人公・童貞)がドレインタッチなどで嫌がらせする』とか。そう言うのも、大枠で言えば『ざまあ』です。
或いは、乙女ゲームにおける悪役令嬢(転生モノのアレではなく)なんかも、作品の主軸としては『主人公(ヒロイン)がイケメンと結ばれる』事であって、悪役令嬢へのざまあは作品におけるエッセンスの一つでしかないわけです。
確かに、ざまあ単品で作品を書くのであれば短編の方が向いているのは事実ですが、結局のところ『ネタそのものが小さい』だけであり、他の要素と合わせれば幾らでも長編化は出来るという話。……そして同時に、たとえ短編でも『ざまあ』単品でネタを作るなら、ストーリーとしては薄いという事も思います。
一方の復讐モノですが、これも短編向きという捉え方は間違っています。
『例に挙げられている神話や昔話の類、大体短いじゃねぇか!』という話は置いておいて。
ざまぁを単一のネタと呼ぶのであれば、復讐は『主人公の目的』であるべきです。
別に『魔王を倒してお姫様と結婚する』のと同じノリで『宿敵への復讐』の過程で仲間と出会い・成長する王道少年漫画展開でも良い。
或いは『復讐する相手がすでに死んでいた』という状況から、トラウマと憎悪に悩まされながらも、復讐相手の娘と同居するラブコメがあっても良い。
もしくは、『勘違いで自分に挑んでくる復讐者の少年/少女を良い感じに揶揄って遊ぶ魔王様』の物語を、シリアスギャグっぽく復讐者サイドから書いても良い。
発想が貧困、と言うと嫌味なようですが。要するに、バカとハサミーーもとい、ネタとキャラは使いようです。
王道の復讐モノだって、別に中ボス小ボスを用意しつつ、衝撃の真実やらヒロインとのラブコメを挟めば全然長編として書けるでしょう。
或いは、ざまあモノだって『「ざまあ」をしようとするけどポンコツミスをしでかす主人公と、捻くれつつも主人公に「ざまあ」されるのを心待ちにする悪女系隠れMヒロイン』とかでもラブコメは成立するかもしれない。愛が拗れまくっててキモイですが、そこに萌える人も居るはずです。
『政宗君のリベンジ』とかを読んでみると良いかもです。漫画ですけど。
また、あくまで『素早くやるとカタルシスを得やすい』だけなので、時間をかけてざまあしたっていい。長編の要所要所に別のカタルシスを挟みつつ、最後の最後に盛大に『ざまあ』って言うような作品も別に作れるでしょう。
最後に、もう一度だけ棘のある言い回しをしますが。
『受ける作品を作るために流行ネタを取り入れる』ことと『テンプレを何の創意工夫もなくそのまま使う』事は違う事だと思います。
さっきも書いた通り、ざまあモノは単一のネタとしては『小さい』です。ざまあネタだけで書けば、短編に収まるでしょう。ですが、そこにオリジナリティは無い。
まあ別に、後者をやってもらっても良いですが、誰かが書いたような作品を書いたとして、如月さんは楽しいですか?
オリジナリティが有り過ぎるとか、もっと流行通りの受けるネタを書けとか誰かに言われたのかも知れませんが、如月さんでなくても書ける作品なら、如月さんが書く必要は無い。
『オリジナリティの無い、どっかで見たようなざまあモノの短編』が、如月さんの書きたいものですか?
カテゴリー : 創作論・評論 スレッド: 創作論の話 実はざまあは短編向きなのでは説