純文学へベクトルを向けるか、娯楽小説へベクトルを向けるか。
どちらの道へ進むかはあなた自身が決めること。他人がどうこう言ってもあまり意味はないように思います。
ただ、「他人に媚びる」という言葉を否定的に何度か使っている点に少し気がかりを感じました。
他人のことを考える。他人を尊重する。
これは媚びるということですか?
違うでしょう?
純文学だろうと娯楽小説だろうと、小説は作者と読者のコミュニケーションです。読者のことを考え、どうすれば伝わるかを模索するのは当然のことです。
「読者に媚びたくない」というくだらない言い訳を口にし、開き直って伝える努力を放棄するのは、私は違うと思いますね。
>たとえば、アスペルガー症候群の主人公を書くなら、「相手の気持ちがわからない主人公=読者の気持ちがわからない主人公」という体裁をとって、【あえて】独りよがりな文章を書く。
表現として「独りよがりな主人公」を客観的に描けるのなら、よいと思います。
しかし、
>「相手の気持ちがわからない主人公=読者の気持ちがわからない主人公」
この文章にそもそも錯誤があります。
相手(作中人物)の気持ちがわからないのは作中人物の一人である主人公。それと読者の気持ちがわからないというのは(たとえ体裁のつもりであっても)イコールとは見なせません。
読者に対しているのは作者であって、読者も作者も作中人物ではないからです。そこをごっちゃにしない方がいいと思う。
たとえ作者と一心同体のように見える主人公が人の気持ちがわからないキャラクターであっても、それによって現実の作者が読者の気持ちを考えることを放棄することの言い訳にはなりません。
ただ、誤解してほしくないのは。
小説を書く理由は人それぞれでしょうから、読者のことを一切考えずに自分のためだけに書くことも、それはそれでありだと思っています。
そのこと自体をどうこう言っているわけではなく、「読者に媚びない」という言い訳に逃げているのではないかという、その一点についてのみ疑問を述べているのです。
>湊かなえや百田尚樹のような売文奴になってほしくないのだといいます。
あなたの師匠やあなたが湊かなえや百田尚樹の何を知っているのですか? 湊かなえや百田尚樹にもそれぞれのやり方があり、あなたも自分のやりたいことをやる。ただそれだけの事じゃないですか。
あなた自身をよく振り返って、何のために小説を書くのか考えてみるといいです。
繰り返しますが、自分のためだけに書くことも別に間違いではありません。
しかし、誰かに読んでほしいと少しでも願うのなら、読者のことを考えないという姿勢は有り得ないことだと思います。
僕はあくまで娯楽小説の土俵でやりたいと思います。
言いにくくて伏せていたことがあります。まずはそのことを言わなかったとんちんかんをお詫びします。
まろん師匠は知性の鋭い方ですが、人を見下す癖があるので本気にするかどうか悩んでおりました。
湊かなえにしろ百田尚樹にしろ、人に受けるように配慮した文がお嫌いらしいです。
ですが、あまくささんの一言で目が覚めました。
彼女に小説を書かせれば、本人によるとリーダビリティを破壊した新文体小説を書くつもりらしいです。
やはり彼女の言う文学論を当てにしないほうがいいのでしょうか。遂行の指摘に関しては非常に鋭い意見をくださるので、つい彼女の言うことに耳を傾けてしまいます。
というか、相談で意見を聞くことよりも、自分でどうしたかをきちんと決めるほうが大切ですよね。
でも、基準がないのでどうしても迷ってしまいます。
ベースはあります。娯楽小説の土俵でシリアス路線の小説が書きたくて、現実の差別や迫害、障害などを書いていきたいと思います。
そのうえでお尋ねしたいことがあります。
性格、または人格が破綻、もしくは歪みかけている人物の主観でお話を書くにはどうしたらいいでしょうか?
その技術を教えてください。