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社会派小説のネタ募集!ネタ探ししているそこの君!僕とディスカッションしよう!(あざらしさんが勧めてくださったレオンが発端のスレです) (No: 1)
スレ主 壱番合戦 仁 投稿日時:
以前の僕の質問を見返すと、社会派小説の観点に立って話しているな、という自覚を覚えました。
それならば、
【現代文明における成人の儀の話】と、
【核家族社会の黒歴史】や
【理性や思考だけを育てる『頭脳教育』の是非】、
あるいは、【家族形態の多様性について】や、
【人間関係のオリジナライズ(固有種化)を促せる社会の実現】などの話題は、僕にとって至上命題であると思い立ちました。
どうも、壱番合戦 仁です。ただいま、あざらしさんが勧めてくださった映画に感化されて、過集中状態です。
これから、一つ一つ丁寧に解説していきますね。各議題に分けて投稿しますよ!これから僕の持論に対して、皆様の意見を募りたいと存じます。レッツ、ディスカッション!
壱、【現代文明における成人の儀】
以前、『人類文化史上において、書き手が紡ぐ物語が視聴者や読者にとって、奇しくも成人の儀の代わりとして機能している』という記述を、ある学術書にて見かけたことがあります。
個人的には、今もなお、小説を始めとしたとした物語が、僕たち人類の心を育み続けている、とは思います。
とはいえ、その機能は完全とは言えないでしょう。現状の社会を顧みても、ニートのオタクたちに《行きて帰りし物語》の系譜に属する本を読ませても、おそらく成長はしないでしょう。人によるとは思いますが、効果は非常に薄いと言わざるを得ません。なぜならば、《自分事としては捉えていない》からです。
当たり前のことですが、多くの場合において、小説にせよ映画にせよ、『この本を購入したあなたは劇中の人物が起こした他人事を覗き見る立場に置かれます』、という不文律のもとに読者は存在します。
これでは、成長することはおろか、娯楽作品の域を出ません。(エンタメ小説家のための場なのに、申し訳ない)
少々脱線します。
『新世界より』著/貴志祐介の漫画版のエンディングの様な手法をとることはできます。今までHEで語られた物語の主人公が、「どうせコイツ架空の人物だろ……。ケッ、ツマンネ」と高をくくっていた邪かつ健全なる感覚を持った読者たちに、「千年後のあなたへ」と告げて微笑みます。その言葉の裏に、物語そのものの重みを全部込めて読者に贈るのです。その発想力と鮮やかな手並みに僕は感嘆しました。一瞬、彼女が神の向こうの世界から話しかけてくれたのだ、と泣きそうになりました。
でも、すぐに夢は覚めます。僕は、その本を一度閉じて、表紙を見返しました。
なんてことはありません。【表紙に映し出された彼らは、最も本人たちにとって栄光ある姿のまま時を止め、命を得ることはありません】。
僕は、強い悲しみを覚えました。嗚呼、物語に恋することのなんと虚しいこととか!
だからこそ、誤解を恐れずに申し上げれば、娯楽の観点から言っても、《自分のためだけに作られた世界に行って、自分を主人公として生を謳歌し、峻厳なる試練を乗り越えて、その世界を去る》という体験を、生身で実感できる媒体を作ることができれば、物語はもっと面白くなる可能性を秘めています。
この日本に限らず、皆誰もが『自らに精神的成長をもたらすかりそめの世界』を求めていると、愚考します。
『事実は小説よりも奇なり』ということわざの裏には、「ある一面においては、現実は小説よりも奇妙さに優れている」=「小説並みの出来事は起きうるのだ(だから現実を悲観することはない。きっと楽しいはず)」→「でも、ぶっちゃけいうと、今年の年末休暇は俺tueee系のラノベ世界でバカンスしてェわぁ……ムナシィ」という願望が見え隠れしていると思います。(うがった解釈であることは自覚しています)
では、これらの課題を現代技術で賄うとすれば、何があげられるか。
今現在、可能性があるとすれば、古今東西の魔術の科学的実証や霊体の分析計測を通して『本物の異界』を探求するか。(その応用で世界創造の技術が開発されればめっけもん)
もしくはフルダイブ技術、もしくはその代わりとなるVR技術を開発するか。
いずれにしても、実現性自体は否定できませんが、将来の話とするしか冷静な見方がありません。
僕だって、ここではないどこかを旅して成長したいし(異世界行きたい!)、一定の筋書きに沿ってスムーズかつドラマチックに凱旋したらかっこいいのに、と妄想しますよ。
誰でも一度は物語を夢見ることはあると思います。
前述のうちに『行きて帰りし物語』は、成人の儀の代わりだ、と申し上げました。
この際です。出来るかどうかは別として、こう考えてはいかがでしょうか?
「代わりなんて使わずに、本当に成人の儀をしちゃえ!ついでに社会制度もそれに合わせて変えた方がいいよな」と。
皆さんなら、今の現代社会に成人の儀(または試練)は必要だと思いますか?
もし必要なら、どんな試練を受けたいですか?また、自身の要望を別にした場合、社会全体から見てどんな成人の儀が必要だと思いますか?
補足解説。
我々人類は、「人間」というよくわからないものを演じてきました。
ですが、「我々は、何という名前の生き物だったのでしょう?」
思わず、「人間」と答えてしまった、そこのあなた。そう、それこそが社会にゆがみをもたらす元凶だと僕は考察しています。
我々は、自然環境に適合するために道具や文化の発明を通して、「人の世」という、自然の摂理から引き離された隔離世界を作りました。そうしているうちに、自分が生き物、あるいは動物であることを誰もが忘れてしまいました。
生物図鑑に自らを「ヒト」と記しつつも、サルに分類される自らを「万物の霊長の類」としてしまったり、絵図に書いたヒトに下着を履かせたりすることが、人が自分を動物だと思っている何よりの証拠です。
断言しましょう。動物よりも偉いとされた「人間」は、『ヒト』という生物の在り方に立ち返って、あらゆる生命と対等になるべきです。その方がよほど健全だし、少なくとも僕はそういう立場をとります。
僕は人間の尊性を過信してはいけないと思います。
皆さんも、人生を生きていて一回は、自分の本能を抑えつけたことがあったかと思います。あなたが男性で、異性を目の前にしたことがあるなら、なおさら、覚えがあるでしょう。
「そうした欲求を持つことは健全」とされているにもかかわらず、社会正義や世論、および小説を含むメディアは本能に関する事柄に対して強い嫌悪を表現します。
いかにも食欲や性欲、自己承認欲求丸出しのキャラクターは、敵役の性格について語るとき、もはやテンプレートにすらなっています。
ですが、ここで一度考えてください。
「欲求を持つこと自体は健全と認めるのに、何で「お花を摘みに行っていいですか?」とわざわざ遠回しに聞いてから野糞するがごとく、人に隠れてこそこそさっさと済ませなきゃいけないの?」と。
ヒトは、たくさんの必要不可欠で根源的な欲求をその遺伝子に刻んでいます。
「気持ちいい」と感じることは罪なのでしょうか?
本来、快感と幸福は不可分一体であったはずです。
僕は、多くの「極端に【人間】になりすぎて、病気をこじらせた人たち」に出会ってきましたが、「禁欲しすぎたから壊れた」という方々は結構いらっしゃいました。
キメたことがある人もいたし、イッている人もいたし、ミエテいる人もいました。
あくまでも僕の主観ですが、彼らは非常に「人間」でした。少なくとも「ヒトらしさ」は見受けられませんでした。
これを踏まえて考えても、おかしいですよね。
僕らは、ご飯をたくさんおいしく食べている友達を前にして「獣みたい」と罵った、というたとえ話を聴かされても、「言い過ぎだ」とは思っても、「間違っている」とはなかなか言い出せません。
セフレを何人も持っているけど、誰にも迷惑はかけていない。そんな幸福なチャラ男を前にして、「お前はケダモノか」とかいっても、それほど違和感はありません。
でもよくよく考えてみたら、それはとても恐ろしいことだと思います。
皆さんはどう思いますか?
カテゴリー: 創作論・評論
この質問に返信する!社会派小説のネタ募集!ネタ探ししているそこの君!僕とディスカッションしよう!(あざらしさんが勧めてくださったレオンが発端のスレです)の返信 (No: 2)
投稿日時:
続きです。
弐、【核家族社会の黒歴史】
僕は経済についてはとんと暗いのですが、人類文化学的な観点から申し上げますと、高度経済成長期という時代における資本主義は、【核家族を前提とした社会体制を根本から覆しました】。特定の世代を生きた大人たちの間では、有名な話ですね。
結果論を承知で端的に言うと、核家族制度と資本主義は相性が悪かったのかもしれません。
資本至上主義を掲げると、社会全体が個人に、『仕事を一番優先する事』を求めます。(労働時間という資本を切り売りしているのですね)
あの時代の経済主義は「仕事をする人々をたくさん増して、その仕事から生まれたモノやコトを買う人もセットで増やす」ことで、経済を活性化させる狙いがあったのだと思います。AIなんてさほどメジャーではなかった頃の話です。時代が時代ですから、人力に頼らざるを得なかったのも仕方のない話かもしれません。
ですが、その時代が残した負の遺産は、今も僕たち若者の世代に受け継がれています。
核家族という共同体は、日本古来からの「家制度」の性格を強く受け継いでいます。
皆さんは、「家」という文字を思い浮かべて、何を想像しますか?
たいていの方は、プライベートな空間と、思うでしょう。
それは一面としては正しいのですが、もう少し掘り下げると、いろいろとブラックな世界が広がっています。
例えば、法律では家制度の慣習を考慮して、「家庭内で起きた犯罪は、極力その家庭内の法律に裁かせる」という、世にいうところの「民事不介入」もしくは「家庭内不干渉」という慣例があります。
これを隠れ蓑にして、家族や親せきに狼藉を働く輩が後を絶たないということは、今巷でも取り上げられている社会問題でもあります。
そうです。「家」という場所は、現代社会において「閉鎖された環境」であり、「ばれなきゃ何をやってもいい」がまかり通ってしまう危うさをはらんでいるのです。こんな状況を打破するには、既存の慣例や風習を改め、新しい社会制度を作っていくことが大事です――――――――。
ここまでは、並の論客ならだれでも言います。でも、だれも具体的な方策については話さない。もしくは既存の社会の在り方の切り口を変えただけか、付け焼刃程度です。でも、僕はこうも思います。
「もっと妄想すればいいのに」と。
――――人間が想像できることは、実現できる。
フランス人作家、ジュール・ヴェルヌより。
この言葉が記す通り、「妄想」は「想像」となり、「想像」は「理想」になり、「理想」は「目標」になります。あとは立てた目標に向かって、日進月歩すればいい。
ならばこそ、もっと自由にいろんな家族の形をイメージすることが大切だと思います。
それはそうと、我ながら思いっきり作品のネタになりそうな話ですねww
ともあれ、二番の議題についても皆さんの意見を募集します。
感想やご意見をどしどしお寄せ下さいね!
それでは、次行って見ましょー!
社会派小説のネタ募集!ネタ探ししているそこの君!僕とディスカッションしよう!(あざらしさんが勧めてくださったレオンが発端のスレです)の返信 (No: 3)
投稿日時:
参、【理性や思考ばかりを育てようとする『頭脳教育』の是非について】
ハイ、学園物を書いているそこのチミチミィ!!学び舎を描写するならば、教育に関しての話題に詳しくなることは大きな武器になるぞォ!考えればきっと、支倉凍砂/著『狼と香辛料』みたいなスゴいブツを書けるぞっ!君もこっちへ来給え!
さあ、レッツ・傾★注!
さて、今取り上げたように、日ごろから学園物を得意とする方に朗報です。
今回は、学校教育に関する問題提起をします!僕の実体験も織り交ぜつつお届けしますねw
思春期特有の強い飢餓感。あふれ出る豊かな情緒。猛り狂う情熱と、汚泥のように湧き出す情欲。
これらを懐かしいと思われる方も多くいらっしゃるでしょう。僕の場合は、今もありありと思い出せます。というか、思春期末期が終わった直後なので、実感としては昨日今日レベルで思い出せますが。
ヒトという生き物が、「アイデンティティ」という仮面を見つけ、程よく「人間」になっていくのは、大体において思春期相当の年頃だったと記憶しています。
ですが、一部の大人は、彼らを必要以上にヒトが本来持つ生態から引き離してしまいます。いえ、よくよく考えたら、大なり小なり同じようなことはしているのです。
問題は、「ヒトという生き物を、どこまで【人間】という獣ではない尊いとされる何らかの存在として振舞わせるか?」
「または当事者として、どこまでヒトらしく生きて、どこまで人間らしく生きるか?」
今回はこれについて考えたいと思います。
皆さんのご意見をどしどし募集しております!
有意義な議論をレッツ・エンジョイ!
社会派小説のネタ募集!ネタ探ししているそこの君!僕とディスカッションしよう!(あざらしさんが勧めてくださったレオンが発端のスレです)の返信の返信 (No: 4)
投稿日時:
肆【人間関係のオリジナル化について】
絆というのは基本的には「人と人」同士、応用的には「人と物」か、「人と獣」あるいは「人と霊」の間に生まれるものですから、実に様々で十人十色です。
物語が人を描くものである以上は、そうした人間関係のフロンティアを探索することは極めて有意義と言えます。
「博士が愛した数式」「狼と香辛料」「レオン」「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」
きわめて際どく、特殊な人間模様を描いたこれらの作品は、いずれもベストセラーの誉れをほしいままにしています。
おーい!そこの初心者さん。そうだよ、プロットとにらめっこして「在り来たりだなぁ……」と独り言ちたことのあるそこの君!きっと君の役に立つから、寄っといでよw
さあさあ、皆さんお集りかな?それでは、再開しましょうか。
まず最初に。
粘膜王女三世/作「白瀬千春は献身的で平等な性の女神です」という、幻の名作についてです。
この方は、僕の目指す作風に非常に近い方で、下ネタの土石流が如き不条理ギャグと、いかなモラリストであっても、「――――これで本当に良かったのか?」と唸らせるであろう、心の奥底をえぐるえげつないシリアスをかき分ける天才です!初期の作品にこそ、ストーリー構成にに難はありましたが、最初期の作品である「キャットキラー」は、構成の欠陥を押しのけて余りある鮮烈な作風を武器に、今もなお、小説鍛錬投稿室(長編の間)の評価点ヒエラルキーの頂点に君臨する大作です!!僕は彼方を敬います!尊いぜ!
その小説鍛錬投稿室上位ランカーが書き上げた「白瀬千春は献身的で平等な性の女神です」! なんと、これから僕が素晴らしいと評価する上、閲覧者からも好評を得ていたにもかかわらず、さる新人賞の三次選考に辛くも落とされた没作品なのです!!(没でない原稿のクオリティって一体……?)ざわざわ・・・・・・・、ざわざわ・・・・・・・。
で。問題のこの作品は、主人公のごくごくフツーのノンケな中学女子と、養護施設で堂々と売春している変わったJC「白瀬千春」の禁断の友情を描いているんだけど、ここで出てくる友情論に僕はいたく感心した訳。
「友達でも、今のまま好きでいていいよね……?(性的な意味で)」
直接こう言っていませんが、時間をかけてゆっくりとこの結論へ物語は向かっていきます。
そして淫行を繰り返した報いが千春ちゃんに襲い掛かります。
千春ちゃんは、命がけの、中絶という試練を乗り越えて、息絶えた我が子を河川敷で火葬します。
(ちなみにその子は、生まれてすぐ死んだので、人生を謳歌できなかった分を天国で幸せに生きてほしいという願いを込めて、天使と書いてエンジェルちゃんと名付けられました)
そして、各々二人は今までを振り返り、お互いに「人間として千春ちゃん(主人公)を愛していた」ことに気が付いたのです。
でも、性におおらかな千春ちゃんと違って、主人公の性的指向はストレートでした。まるっきりのノンケだけどどうするか。そして二人は、冒頭の通り「友達のまま、互いに恋をする」と決めたのです。
こうして、大団円というにはあまりにも胸に残る重い物が多すぎる代わりに、重厚で爽やかなコクのあるエンディングを迎えたのです。(レオンが売れるなら、これを映画化したら売れると思うけどなぁ……)
ええっと、脱線しまくりましたが、このように「親友的な家族」とか「家族的な先後輩」とか、「恋愛的な友情」とか。このように、既存の人間関係のハーフと言える関係を社会的に認めていけば、より人は人間らしく、ヒトらしく生きることができると思います。
こうした関係性の社会受容過程において重要なファクターとなるのが、【人間関係の固有種化】だと思います。
人と人の出会いは、いくつもの運命と偶然が重なり合って生まれた一期一会とは申しますが、ならばこそそこに生まれる関係性も、唯一無二の既存の言語におけるどの単語でも表現できない『繋がり』へと進化し得ます。このことは大変すばらしいことだと僕は思います。
皆さんは、大切な誰かと特殊な、または固有の関係を結ぶなら、どんな関係がいいですか?またそのパートナーとして見たいことを挙げてみてください。アイディアの創出にきっと役立つはずですよ!
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ああそうだ。粘膜王女三世さん。この板を見ていらっしゃったら、ぜひとも、「白瀬千春は献身的で平等な性の女神です(十八禁版)」を、なろうのメールで送っていただけませんか?もしくはなろうやラノベ研究所の皆さんに迷惑が掛からないサイトにのっけて下さいませんか?
あの夜、女子たちが寝室でいつものように雑魚寝していた時に交わした女子トークの伏字が見たいです。主人公はどんな淫夢を見たんでしたっけ?千春ちゃんが最低イケメン教師に友情パワーでリベンジポルノした詳細も知りたいです!
あとあと!あの後、主人公と千春は同性結婚したのでしょうか!その後の暮らしも見てみたいです!
最後に、二人のベッドシーンをもっとはっきりしっかり読みたいです!自主規制なしで書けば、あの作品はもっと輝くと愚考します!テーマがテーマだけに、避けられないでしょうし、僕と粘膜さんはかなり作風の方向性が似ています。
僕は昔、「自主規制しないでこのまま突っ走った方がうまくいきそう」と言われたことがあります。
それはもしかすると、粘膜さんにも言えることなのではないでしょうか。
嘆願とともに、ご参考になれば幸いです!絶対見せてくださいねー!!
社会派小説のネタ募集!ネタ探ししているそこの君!僕とディスカッションしよう!(あざらしさんが勧めてくださったレオンが発端のスレです)の返信 (No: 5)
投稿日時:
元々は書きこむつもりはなかったのですが、作者レスだけのスレッドが埋没するのはまずいと思い、来ました。
ただ私が話すのは今回も内容に関することではありません。やはりあなたの姿勢への話です。
先に言っておきますが私は最近あなたの態度に対して、正直嫌気がさして来ています。
というのも私は過去に一度、あなたを見限ったことがあるのですよ。
あの醜い大論戦を見た時は、このサイトも結局『人の業には抗えないもの』なんだなと思いました。
当時私は多くの方からのアドバイスを取り入れ、ここに出入りするのが楽しみになっていました。
ここは他の掲示板サイトと比べたらマナーが良くて良識のある利用者様が多く、お互いをリスペクトしあっている空気が好きでした。
しかしそんな純粋な気持ちで楽しめたのもあなたが掲示板を荒らし始めた頃までです。
そこから後はあなたと同様にマナーの欠けた発信をする利用者が増えました。今私は10人以上他の利用者をブロックしています。
つまりあなたが私の好きな空気を破壊する原因を作ったのです。
でも私はあなたへの憎悪を抱きながらも掲示板の方は静観していました。
安易に怒りの言葉を向ければ荒れる火種を生むだけだからです。
だからあなたが一度ここを去ると決意した時は安心しました。ようやく心を入れ替える気になったんだなって。
しかしあなたが再び戻ってきた時からの今日までの物言いを見ると、あなたからは少しも反省の色が感じられない。
回答者としてのあなたのアドバイスはやけに偉そうだし、スレ主としても軽率な発言が目立つ。
この間の二次創作に関する姿勢についても『御作が遊びで作られたものじゃないとは知らなかった』とやけに大げさに愕然して謝罪していましたが、私に言わせれば人の作品を勝手に『遊びで書いたもの』と決めつけている時点で(そしてそう思っていたことを公共の場で公言している時点で)謝る気がないんだなこの人って思いました。
もし自分の中では誠実に謝ったつもりなら、これからは謝罪文の中に相手を不快にさせるものがないかにも気を配って下さい。
もしあなたが同じ態度のままで他の利用者に接するなら、その内管理人様に通報しますよ。
相手が不快に思うかどうかがわかっていれば、とっくに自閉症なんて直っていますよ。 (No: 9)
投稿日時:
あの時、「僕が大げさに愕然と驚いた」と言いましたが、決して大げさではありません。ものすごくびっくりしたのですよ。おちょくっているわけでも、はったりを利かせているわけでもありません。
上から目線なのはもともとです。意識していなくても、僕の口から出る言葉はたいていの人の顰蹙を買います。直す練習を継続することはやめないにしても、そのいちいちを気にしていては、僕もおちおち生きていけません。
ただでさえ、他人を傷つけていないかをリアルでもこっちでも気にしているのに、これ以上気を回せなどと言われても困ります。
憎悪を抱かれるのは勝手ですが、僕はきちんとここの方の勧めがあって戻ってきたのです。それをあなたにどうこう言われる覚えはありません。僕もしばらく悩みました。それで、きちんと謝罪の場で謝ると、「いつまでも引きずっていると迷惑」とのことでしたので、それ以降は気にしないことにしました。そうしないと迷惑だそうなので。
最近の投稿者の質問を見ていますが、失礼な質問をしている方は特にいらっしゃいませんでしたよ?十人以上もブロックしているなんて、さすがにちょっと……。
>>元々は書きこむつもりはなかったのですが、作者レスだけのスレッドが埋没するのはまずいと思い、来ました。
ただ私が話すのは今回も内容に関することではありません。やはりあなたの姿勢への話です。
気に入らないなら無視すればいいじゃないですか。なんならブロックすればいい。
話題に触れず、スレ主を叩くのは荒らしですよね、って以前も告げませんでしたっけ?通報したければいつでもどうぞ。中立的な立場の管理人さんに意見を伺った方がよほど早いです。
ブロックされまくって大勢の人が相手してくれなくなれば、その時はその時です。作品さえ作れれば、何も困りません。支障がある場合もあることも確かですから、それも併せて考えます。
それと、今回のスレッドは、いつもお世話になっている皆さんにお礼をするための参加型の企画として発表したのです。あくまでも、『好意からの行動』です。それがこのような形になってしまい、非常に遺憾です。
態度を直せとは、具体的にどのことを指しているのですか?また、それを僕に言って、どう直せと?生まれてこの方、いえ、そこまで言わなくていいですね。物心ついてから十数年間の間ずっと悩み続けてきた、僕の人生の命題を今すぐに解けと?
僕を脳疾病の患者かなんかと勘違いしてませんか?障害は、努力することで『改善』することはあっても、『絶対に完治しません』。治らないからこそ、病気ではなく障害と言われているのです。
改善する症状と、そうでない症状を見分ける心の目ぐらいは持ち合わせていますよ。知ったような口を利かないでください。
社会派小説のネタ募集!ネタ探ししているそこの君!僕とディスカッションしよう!(あざらしさんが勧めてくださったレオンが発端のスレです)の返信 (No: 6)
投稿日時:
私も、普段は自治みたいな真似は差し出がましいと思う方なんだけども。
えっとですね、この議題は、貴方にとっては創作に関係する相談なのだと思いますが、他すべての人にとっては創作とはまるで関係ない議題です。
要するにスレチです。
歴史作家が、江戸時代の庶民の暮らしを知りたいと資料を募ったとして、それは作家にとっては創作のためですが、他すべての人にとっては「ただの歴史の話」です。
よーするに、そんなもんは創作の場ではなくどっかの歴史の先生に聞きなさいよ。って話ですね。
ついでなので、議題の一つだけ、回答しておきます。
「現代文明における成人の儀」
そもそも大人になるまで思い違いをしてる人が多い。
成人の儀式は、古今東西「これをすれば大人ですよ」という儀式じゃない。
「これくらいはできるようになっただろ?」という、大人になったことを証明するための儀式。
すなわち、現代においては「20歳なんだから大人になれよ」と発破を掛ける儀式のことで、市長の演説を聞くような式典だけで、それは十分です。
「成人式に出たら大人」なのではなくて、「成人式に参加するなら、大人の振る舞いをしなさいよ」ということ。
「大人」ってのは、何かをしたらなれるものじゃなくて、「自分から努めて大人になる」もの。
「大人になりなさいよ」と言ってるわけです。
すみませんでした。その辺の認識が甘かったようです。 (No: 10)
投稿日時:
スレチでしたか。そうとは知らず、申し訳ない。
ネタ集めも、創作の内と考えて、広くとらえすぎたかもしれません。
以後、こういった企画や発言は控えます。皆さん、至らず申し訳ありませんでした。
社会派小説のネタ募集!ネタ探ししているそこの君!僕とディスカッションしよう!(あざらしさんが勧めてくださったレオンが発端のスレです)の返信 (No: 7)
投稿日時:
通報するとか剣呑なことを言ってるレスのおかげでスレが浮上して存在に気づけたわ。これは感謝すべきなんだろうか。こういうの、いいと思う。半年に一回くらいならあってもいい。
>おそよ英雄的ならざる人間しか描こうとしない小説というものは、もっぱら人間の卑しい部分、弱い部分、女々しい部分、小児的な部分に訴えるもの、つまりは精神的婦女子の読物だといわざるをえないのです。(三島由紀夫)
作家志望、とくにエンタメ作家志望はさ、もっと自虐を大切にしたほうがいいと思うんだ。社会不適合者が社会不適合者に妄想を売っているのが文学で、われわれはそういうイカれた数寄者にみずからなりたがっているクズ中のクズだという自覚。この感覚が共有できなければ何言っても虚しい。自分たちは小説というものに心惹かれてしまっている時点でゴミクズだ。これだけは忘れないようにしたい。選民思想に囚われた読書家や創作者ほど鼻持ちならない人種はいないからね。あれにだけはなりたくない。
スレチという意見もあるだろうけど、あくまで創作やってる人らの意見が知りたいということであれば、こういうスレもあっていいと個人的には思う。創作相談掲示板はすべからく技術論をやるべしっていうのも、それはそれで一つのイデオロギーでしかないだろうし。アプローチのしかたはもっと自由でいい。変な質問したところで受け入れられなければ回答がつかなくて淘汰されるだけのこと。
とはいえ事実ベースの議論やアカデミックな話がしたいということであればまじでこの板でやるべきことじゃないし、早くどっか行けって話。ここにいる人達は議題について半可通ではあるかもしれないけれど専門家ではないし、それっぽいことは言えても本当のところは誰も分からない、何も保証できないというのが大前提。それでいいならレッツ・ディスカッションもありなんじゃね? お互いに相手の言うことを真に受けすぎないようにやっていきましょう。
……あ、最後にいちおう念押ししておきますが、これはあくまでにわとり個人の意見です。これで許されたと思って今後似たようなスレを乱発した場合、あなたは普通に通報されてこの板から消されることになろうかと思います。でも、たとえそうなったとしても自分は関知しないし責任も取らないからそこのところはよろしく。
>あざらしさんが勧めてくださった映画に感化されて、過集中状態です。
レオン名作だよね(さっき過去スレ遡って読んだ)。マチルダとジャン・レノの関係性がひとことでは表せない多層的なところがすごく好き。というか映像のスタイリッシュさがもうすでに好き。刑事役のゲイリー・オールドマンがフィフス・エレメントでもまた良い悪役を演じているので、機会があったらぜひ観てほしい。あれも少女とおっさん(=ブルース・ウィリス)が力を合わせて巨悪に立ち向かう話。そういう意味ではレオンに似てるかも。ゲイリー・オールドマンがバカみたいな髪型してるのにちゃんとラスボスとしての存在感があってかっこいいのをしっかり観てほしい。ゲイリー・オールドマン好きなんだ……(ただのファン)。
>壱、【現代文明における成人の儀】
壱弐参肆みたいにとりあえず大字つかってみましたみたいなのダサくね?(個人の感想です)。人によってはこういうの好きなのかもだけれど。ひとのHNにあれこれいうべきじゃないのは重々承知だけど、あくまで個人的な好みとしては壱番より一番が好きだな。カレー屋じゃないんだから。
>この日本に限らず、皆誰もが『自らに精神的成長をもたらすかりそめの世界』を求めていると、愚考します。
うっそでしょ? 多くの人々が望んでいるのは精神的停滞を許してくれる物語だよ。われわれは物語で成長したくなんかない。そんなお説教はいらない。そういうのは道徳の教科書だけで十分だ。反吐が出る。
われわれは物語で成長なんてできない。できるのは物語に耽溺して成長から目をそらすことだけだ。フィクションの過剰摂取は人間を腐らせる。幼少期の情操教育にはいいかもしれないが、それはいずれ卒業しなければいけないものだ。長じてなおフィクションの魔法から抜け出せない人種は立派な中毒者だよ。われわれはみんな病人だ。病人なのに下手に文学をかじっているせいで弁が立つのが他者からみたら余計に憎らしいのだけれどね。われわれは言葉を扱えるだけのクズだ。あるいは言葉を扱えると思いこんでいるだけのクズだ。これ大事。忘れちゃいけない。
>『事実は小説よりも奇なり』ということわざ
これはさ、小説ではフラグがないと「超展開乙w」ってバカにされるけど現実にはそれがあるんだよって話でしかないと思う。現実世界、明確なストーリーラインがないのがきつい。ストーリーラインってすべてが終わったあとから過去を回想したときに初めて形式的に現れるもので、リアルタイムでは原理的に感知しようがないからね。
いままさにあなたがここでスレを立ててこういうレスを貰ってるのがあなたの人生において何の意味を持つのか、今この瞬間にはわからないでしょ。怖いね。そういうことだよ。
うがった解釈なんていらない。現実ははじめから底なしに怖い。
>今現在、可能性があるとすれば、古今東西の魔術の科学的実証や霊体の分析計測を通して『本物の異界』を探求するか。(その応用で世界創造の技術が開発されればめっけもん)
>もしくはフルダイブ技術、もしくはその代わりとなるVR技術を開発するか。
結局小説を諦めてるじゃん。活字の力を信じてないじゃん。
活字という媒体の限界を感じてなおラ研にいる理由is何? 楽だから? 他ジャンルに比べて創作が楽だからなのか?
まあいずれにしても自分としては物語にそこまでの"力"が与えられるべきだとは思わないな。自分は小心者だからそんな強大な力の責任は負いたくない。自分が作ったフィクションで人間を洗脳したいっていうエゴはわからなくもないのだけれど、それを本気で実現しようとするなら作家じゃなくて政治家になってください……こっちに変な迷惑はかけないでください……っていうのが正直なところ。いずれにしても人間の精神的成長を定義して促すということになればそれはもう政治の話でしかないわけだし。
っていうか精神的に成熟した理想の大人、みたいな人間観を打ち立てた瞬間そこから真っ先に振り落とされるのはあなたみたいな障害者じゃないのかよ(んでその次は小説家と小説家志望ね。まっとうな大人だけの世界に芸術なんて不要だから)。
なんでそういう出自でありながら体制側を利するようなことをぬけぬけと言えるのか理解に苦しむ。自分より程度がひどい障害者を売って名誉健常者になりたいの? そうじゃないよね? 成人の儀って成人になれなかったゴミクズを差別してもすでに大人の皆さんの良心が痛まないようにするための制度だよ? そんなものに加担するの? 障害者であることを隠すわけでもなくアイデンティティの一部にしているあなたが?
……疑問が尽きない。ちょっとおせっかいかも知れないけれどあなたはもっと健常者の小狡いところを疑ったほうがいいんじゃないかという気がする。奴ら(まあ自分も含めてだけど)はなんも責任取る気ないよ。何が起こっているのか知る気すらないよ。全部自分たちとは関係ない世界の出来事だと思ってる。よかったね。許せるの? 腹たたない? 殺してやりたいって思わない?
>皆さんなら、今の現代社会に成人の儀(または試練)は必要だと思いますか?
上で書いた通り。まああってお自分は困らないけど、それは障害者を始めとする社会に適合しきれない人間を文字通り抹殺するようなものになるだろうね。とくにあなたみたいな人間はまっさきに排除されるだろう。それでも成人の儀が必要だと思いますか? 自分はね、たとえ健常者の側だったとしてもそんな残酷な仕組みを待望するほど落ちぶれたくはないな。これでも人権という理念を信じているんだ。
>断言しましょう。動物よりも偉いとされた「人間」は、『ヒト』という生物の在り方に立ち返って、あらゆる生命と対等になるべきです。
動物倫理を本気でやるならピーター・シンガーの『動物の解放』は必読。ついでに胎児の権利(とくの欧米のプロライフ、プロチョイス派の論争)とか植物状態の人間のもつ権利について調べると、人間至上主義の暗黒面が見えてきますよ。おすすめです。
近代社会は人間が合理的に思考することを暗黙の前提にしすぎたと個人的には思う。人間、そんな高尚な生き物じゃなくて不合理な異常行動ばっかりしている。そのなかでもとくに社会の周縁部にいてまともな行動ができない障害者や老人や胎児や犯罪者や病人がいて、いつも彼/彼女らから切り捨てられていく。創作者という人種もどちらかといえば炭鉱のカナリアみたいなものだろう。これからも空気を読んで死なないように気をつけて生き抜いていきましょう。
>「そうした欲求を持つことは健全」とされているにもかかわらず、社会正義や世論、および小説を含むメディアは本能に関する事柄に対して強い嫌悪を表現します。
これは単純に欲求を持つことと欲求を表出することの違いを区別してないだけじゃね? 万民の万民による闘争を良しとしないのであれば自然法は必須でしょ。ある種のタブーはまさに自然の摂理から要請されたもののように思うけれど。
人間が人間らしく生きるっていうのはいくつかの虚構を内面にインストールするってことにほかならないと思います。紙幣や電子マネーをただの紙屑や磁気情報ではないとみんなで信じることによってお金が使えるようになる。愛や友情という実態のない文化的構築物を本物だと信じることによって人間関係が成立する。紙についたインクの染みに音や意味を割りふって共有することによって物語を共有することができる。そういうバカみたいな嘘を何億人規模で大真面目にやっていくことによって"ほんとう"にしてしまうことこそが人間に固有の能力、人間らしさの本質なんじゃないでしょうか。
社会派小説のネタ募集!ネタ探ししているそこの君!僕とディスカッションしよう!(あざらしさんが勧めてくださったレオンが発端のスレです)の返信の返信 (No: 8)
投稿日時:
>弐、【核家族社会の黒歴史】
>高度経済成長期という時代における資本主義は、【核家族を前提とした社会体制を根本から覆しました】。
ん? 違くね? 高度経済成長が破壊したのは大家族制でしょ。
家業を継いで生計を立てていくようなシステムが消滅して、就職したい人々が都会に出稼ぎに行く状況になったから、旧来のイエが分断されて核家族化が進行したんでしょ。資本主義と核家族の相性は知らん。資本家と労働者の相互関係という資本主義の中心的な枠組みには家族とか被扶養者がいないから、家族制度や社会福祉そのものと相性が悪いのかもしれないな。少なくとも教育と介護が家庭の役割になっているのはおかしい。資本主義を徹底するならそういうのは全部資本家が子供や老人への投資として行うべきことのはずだ。
>そうです。「家」という場所は、現代社会において「閉鎖された環境」であり、「ばれなきゃ何をやってもいい」がまかり通ってしまう危うさをはらんでいるのです。
これはまあ同意。家制度の問題というよりは家制度にプライバシーの概念が掛け算された結果として、家庭が一種の治外法権状態になってしまったと自分は見ているけど。いずれにしても家庭はこの世界で最後の密室になると思う。
これは根拠のない漠然とした予感なのだけれど、これからの時代、戦争でも起こらないかぎりは家庭を舞台にした物語の比重が増していくんじゃないかな。人の世の不幸にこそ物語の芽はあるわけで。
>「もっと妄想すればいいのに」と。
ガリヴァー旅行記のリリパットはたしか家制度を諦めてたような。小学生くらいのときに福音館の児童文学のシリーズで読んだうっすらとした記憶なので別の作品と混ざってるかもしれないけど。
家族、人々がいろんな幻想を投影しすぎているので闇鍋みたいな概念になっているけれど、個人的にはまずもって社会保障の最小単位だと思っている。これより優れていてかつ実現可能性が十分にある社会システムが考案されたなら、もう家族なんていらないや。まあそれが簡単にできるとは思えないけど。
>参、【理性や思考ばかりを育てようとする『頭脳教育』の是非について】
>問題は、「ヒトという生き物を、どこまで【人間】という獣ではない尊いとされる何らかの存在として振舞わせるか?」
人間なんて所詮、みずからを獣ではないと思いこんでいるだけの滑稽な獣にすぎませんね。ただそれと同時に、人間はみずからを獣ではないと思いこむことによって連帯し、その力を強めてきた歴史があるとも思う。つまり、たとえわれわれが滑稽な獣であったとしても、それを認めたところでわれわれには何のメリットもない。だからいずれにしても人間をやっていくしかないのだと思いますね。
ただ、ここからはちょっと真面目な話なのですが、人間概念の範囲がある日突然狭まって畜生にされてしまう可能性などが残っているので、なるべく人間というもののレンジを広めにとっておくように意識することは大事かなと思う。ナチスドイツはユダヤ人の前に障害者を虐殺していました。社会の役に立たない連中は人間以下の非国民というわけですね。社会情勢が不安定になったときにこれをされてしまわないようにわれわれは踏ん張っていく必要があります。
>「または当事者として、どこまでヒトらしく生きて、どこまで人間らしく生きるか?」
社会が"合理的人間"を壱単位として動いているから、社会を講釈していくためには社会規範をインストールして合理的人間をロールプレイングしていかないといかないみたいな、素朴な生存戦略の話でしかないんじゃないの? 社会システムがどうあるべきかみたいな論点はあると思うけれど、個人の側からしたらどこまで行っても"どうやって社会をサバイブするか"でしかないと思う。
つまり人前では人間らしく、人目につかない場所ではヒトらしく生きるのがよいということになりますね。うん、それ以上でも以下でもないんじゃないかな。
>肆【人間関係のオリジナル化について】
>絆というのは基本的には「人と人」同士、応用的には「人と物」か、「人と獣」あるいは「人と霊」の間に生まれるものですから、実に様々で十人十色です。
応用的っていうか所詮相手を擬人化してるだけじゃね? と思う。もっというと人と人の絆なんてものも虚妄で、相手が人間のカテゴリに入っているというだけの理由で自分自身の心象を安直に投影してしまう結果として、絆らしきものを錯覚しているにすぎないんじゃないかという疑念がどうしてもある。
将来的にAIとかロボットとかの技術が進歩して本当に生身の人間と区別がつかなくなったときに、人類は絆なんでものが自分の脳内にしかないことに改めて気づくのかもしれない。もしかしたらそれが『《自分のためだけに作られた世界に行って、自分を主人公として生を謳歌し、峻厳なる試練を乗り越えて、その世界を去る》という体験』(No.1)なのかもしれないな。やっぱそんなフィクションは嫌だよ。『その世界を去る』ってつまり、ぬいぐるみに魂がないことを子供に理解させることに他ならないんじゃないの? たかがフィクションでそんな思いはしたくない。
>「博士が愛した数式」「狼と香辛料」「レオン」「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」
>きわめて際どく、特殊な人間模様を描いたこれらの作品は、いずれもベストセラーの誉れをほしいままにしています。
特殊な人間関係といえば確かにそうだけれど、結局愛とか恋とか(疑似)家族の絆とか、そういう普遍的な枠組みに落とし込んだのがヒット要因な気がする。結局みんなベタな話を欲しているんだろうなっていう。読者開拓するならフロンティアより地固めじゃないの?
あと小川洋子はいつもはわりと言葉では簡単に表せない微妙な人間関係を描くタイプの作家なので、博士の愛した数式のあの爆発的な売れ方はもしかしたら本意ではなかったんじゃないかという気がしている。まあ実際のところはわからないけど。
>粘膜王女三世/作「白瀬千春は献身的で平等な性の女神です」という、幻の名作についてです。
以下のレスを見たら粘膜氏は普通に怖がりそう(笑)。Twitterで芸能人に愛が重いリプを送ってブロックされる人と似た匂いを感じるな。小説の上手さにはいくつかの評価軸があるけど、粘膜氏の文章はなんていうか、積み上げていく上手さじゃなくて場面場面で急に瞬間最大風速がくるみたいな感じだよね。
>「友達でも、今のまま好きでいていいよね……?(性的な意味で)」
"ステレオタイプな言葉に簡単に要約できてしまうような内容ならわざわざ長編小説に仕立てたりなんかしない"という意味では、大半の表現者が本当はこういうことを書きたいと思っているんじゃないですかね。固有種化とか大層な名前をつけなくても、固有の人間の固有の感情を描いてきたのがそもそも小説というジャンルでしょ。
ただ、そういう微妙な含みはマスには届きにくいっていうのはあって、それは難しいところだと思う。内容を一行でスパッと説明できる小説がエンタメとして強い、みたいなのは実際問題としてあるわけで。上でも名前が出た博士の愛した数式もたしかに変な人間関係を描いているんだけど、あれ、"シングルマザー家庭に(訳ありではあるが)知的な男を足すことでいろいろ円満になる話"みたいに読まれてない? つまり何がいいたいかというと"両親が揃ってる家庭がいいよねやっぱり"っていう家族観のステレオタイプを逆に強化してない?
>皆さんは、大切な誰かと特殊な、または固有の関係を結ぶなら、どんな関係がいいですか?
どんな人間関係もそれ自体は固有のものだよ。それを乱暴に言葉でカテゴライズしようとした瞬間に陳腐化するだけのことで。
以上。こんなところでどうですか? トピックはだいたい満遍なく拾ったつもり。何かあれば返信どうぞ。ただ個人的には、創作よりレスのほうが面白いパーソンをみるともったいない気持ちになる。あ、ここでいう"面白い"はあんまり文字通りに受け取らないでほしいんだけど。とにかくこんなとこで遊んでないで、しばらく潜って執筆に集中したほうがいいのでは。
この間の長編はあまりおもしろいと思えなかったのだけれど、いくつか前のスレの座座座座~のやつは勢いがあってちょっと良かったし、コメントに返信を書くような気持ちで執筆できたらもっと上手くなるのかなーとか横から見てて思った。ではまた。
社会派小説のネタ募集!ネタ探ししているそこの君!僕とディスカッションしよう!(あざらしさんが勧めてくださったレオンが発端のスレです)の返信の返信の返信 (No: 12)
投稿日時:
スイマセン。それ、多分大家族を核家族に書き間違えています。。きちんとした論文を拾ってそれに沿って書いたのですが、そもそもこのスレッド自体、徹夜明けのテンションで書いたので書き間違えています。
この間の長編はあまりおもしろいと思えなかったのだけれど、いくつか前のスレの座座座座~のやつは勢いがあってちょっと良かったし、コメントに返信を書くような気持ちで執筆できたらもっと上手くなるのかなーとか横から見てて思った。
エ゛ッ!?あのザザザザザザザザ、面白かったですか?結構叩かれたんですけど……。
あと、『この前の長編』って、もしかして『白きエルフに花束を』の事ですか?
うぅぅ……。結構頑張って作ったのになぁ。まぁ、でも、まだ改稿しているので、第三稿が出来上がったら鍛錬投稿室で発表します。よかったらにわとりさんも、ぜひご来頁くださいね。
ここまでで、スレを閉めたいと思います。皆さん、ご迷惑をおかけしてすみませんでした。また機会がありましたら、よろしくお願いします。それでは。
ライトノベル作法研究所管理人うっぴー /運営スタッフ:小説家・瀬川コウ:大手出版社編集者Y - エンタメノベルラボ - DMM オンラインサロン
プロ作家、編集者にアドバイスしてもらえる!勉強会で腕を高めあえる!小説で飯を食べていきたい人のための創作コミュニティ。学生には交通費1000円を支給。
ストップストップ!回答しきれない! (No: 11)
投稿日時:
作家志望、とくにエンタメ作家志望はさ、もっと自虐を大切にしたほうがいいと思うんだ。社会不適合者が社会不適合者に妄想を売っているのが文学で、われわれはそういうイカれた数寄者にみずからなりたがっているクズ中のクズだという自覚。この感覚が共有できなければ何言っても虚しい。自分たちは小説というものに心惹かれてしまっている時点でゴミクズだ。これだけは忘れないようにしたい。選民思想に囚われた読書家や創作者ほど鼻持ちならない人種はいないからね。あれにだけはなりたくない。
エ゛ッ⁈作家って、ゴミクズなんですか⁈社会不適合者(ゴミクズ)が小説家(ゴミクズ)から、夢を買っている……。なるほど、言われれば確かにその通りですね……。
( ゚д゚ )ノハイセンセイ!! それ僕です。選民思想でがちがちの愚か者です。「自閉症患者=ギフテッド(予備軍)」という図式を平気で人に吹聴して回る選民思想の持ち主です……。スイマセン。
合格しない人が出てしまうのも事前に織り込んで、不合格者を社会全体でバックアップするみたいな。
あと、成人の儀の事を僕は何か誤解していたようです……。あれって社会不適合者を排除するための装置だったんですね……。僕が云いたかったのは、肉体年齢を基準にした成人よりも、精神年齢査定+性格検査+生活技能検定を基準にした成人の方がいいんじゃないかなってことです。で、そこに至るまでに、行って帰ってくる物語を生で体験する機会があれば、絶対に楽しいし、成長できると思うんですよ。
成人の儀があった頃って、モラトリアム期の課題が達成されやすかったという論がありまして。「何をもって自分は成長したのか」「大人ってそもそもどういう意味?」みたいなのが、すごくはっきりしていた時代だったと思うんですよね。その辺があいまいな今の時代は、「普通の人にとっては非常に生きにくい」んだそうで。
ジョーゼフ・キャンベルなんかが「神話と成人の儀は密接な関係があって、神話を楽しむ人は図らずも主人公を通して成人の儀式を繰り返している」といっています。
「横暴な魔王の父親から逃がすために、母親の女神が主人公を人間の住む町まで流れる川にゆりかごと流して、里親に出す(貴種流離譚というテンプレート)」→
「幼馴染ができて、育ての親である王様からはそこそこ愛されて幸せだけど、主人公は自堕落な自分を至らない奴と感じる(冒険への召命)」→
「自分が治める城下町と王城が、魔物の軍勢に焼き討ちされる(RPGツクール系の鉄板ネタ)」→
「育ての親が、死の間際に『お前は半神半人なのだ』と告げ、『師匠になってくれる人がいるからそこまで逃げろ』とのことだったので逃げる」→
「メンターのもとで修業して、物語の中身にかかわることついて主人公が考察する&不思議な力を使いこなせるようになって肉体的にもビルドアップ。旅立ちのはなむけに三度までどんな敵でも撃退するアイテムを授ける」→
「道中、幼馴染と再会したり、ライバルと決闘して仲間にしたりして、少しずつパーティーを強化する」→
「魔王城へ到着。四天王を撃破して謁見の間へ突入」→
「父親である魔王のすさまじい強さの前に屈服。洗脳されそうになったところを母親の女神に助けられ、加護を受けて復活!倒れ伏す仲間を守るために立ちふさがる」→
「魔王の力の源であった魔神のオーブを手に入れて、次の神になる。女神である母親は息子の成長を喜び、楽園の世界を創造してそこに主人公を招く」→
「以前の様な自堕落な生活を望まなかった主人公は激昂。母親を超えるために強姦殺神する」
「魔王と女神を殺して秘宝を手に入れた主人公たちを、配下の魔物たちと女神の眷属が追跡する。メンターからもらったアイテムで何とか逃げ切る」→
「非日常世界と日常世界の界まで到達。父親と母親の配下は追ってこられず、彼らは悠々と凱旋する」→
「旅の間に育んできた幼馴染との恋が実り、結婚。戴冠式を経て国王になり、貧しかった国は、秘宝によって栄えた。めでたしめでたし」
この一連の流れ、いわゆる「行って帰ってくる物語」を通して、主人公はしがないお飾り領主だったのが、誰もが認める一国の王になっています。この過程が、大人になる過程、つまり、成人の儀が担うプロセスとそっくりなのだといいます。
様々な民話を伝えてきた原住民の神話を解析すると、物語の内容に教訓を込めつつ、英雄譚を通して大人になる筋道を明示するという含みがあったのではないかと言います。
>>結局小説を諦めてるじゃん。活字の力を信じてないじゃん。
活字という媒体の限界を感じてなおラ研にいる理由is何? 楽だから? 他ジャンルに比べて創作が楽だからなのか?
限界はあると思いますが、可能性はまだまだあると思いますよ。小説の性能の中で最も優れているのは、「媒体から目を離しても、物思いにふけることで没入感を保てる」というのと「非常に抽象的な表現が可能」ということです。
どんなに機械で頑張っても、こればかりは再現できません。純粋に言葉だけで表現するなら、わざわざ機会に媒体を変えて新しいアプローチを探す必要はないからです。そこに僕は可能性を感じています。
ただ、ね。どんな媒体でも同じなんですが、ゲームでも本でも映画でも、読んだり、やった後に「残らない」んですよ。気持ち的にも、人生的にも。物語という夢が覚めた後、「だから何?」と思ってしまう自分がいる。
帯や広告で絶賛されていた漫画とか、映画を見ても、上澄みではいろいろ言っているけど本質的には同じ人間が作ったものなので、似たり寄ったりです。それらに対して、お行儀がいいなんて皮肉は言いません。ただ、面白くはないです。
一度でいいんですよ。人生が変わる読書体験、あるいは映画体験をしてみたい。でも、そのためには傑作を求める必要があります。読み終わった後、「大好きになった登場人物みたいな人が、そういえばそばに居たな……」と思えるような、そんな作品。
半ばあきらめているんですよ。画面の中『だけ』の出来事として感動できる作品ならごまんとあります。
僕は、万人に向けて書かれた物語に飽きました。とんでもない意見かもしれませんが、『極上の物語というのは、役者しか観客のいない現実並みにリアルな即興劇を演じ終わった後、恋人役の相手と交際できるような物語の事』だと思います。
作った人が、客の人生に何かをプレゼントしてくれなきゃ、僕はそんな物語など傑作とは呼びません。
勝手な意見ですが、精神的停滞も立派な成長のプロセスですよ。ぼろぼろの精神は成長できませんから、停滞もある程度は必要です。そのことを僕は身をもって知っています。傷ついた心には徹底的な癒しが必要です。甘えられる相手(可愛いヒロイン)と、優しい世界(俺tueeeが許される世界)が必要です。だからこそ、ラノベは求められると思います。
問題は立ち直った後の話です。にわとりさんのおっしゃるほど、物語の価値は低くないと思いますよ。
病院を経営するゲームがあって、医者稼業を体験できるんですけど、そのゲームでは医大二年生前半レベルまでの本物の医療知識が学べるという仕組みですし、他にも実際物語によって成長したダメ人間がアメリカに居ますから。
https://www.youtube.com/watch?v=fkJJl7hZxdY
これ見てください。催眠術の力を借りているとはいえ、術師が用意した舞台の上で、物語に沿って成長しています。しかも、キャストとも非常に親密になっている。
こういう物語が僕の理想です。
>>これは単純に欲求を持つことと欲求を表出することの違いを区別してないだけじゃね? 万民の万民による闘争を良しとしないのであれば自然法は必須でしょ。ある種のタブーはまさに自然の摂理から要請されたもののように思うけれど。
確かにそれはそうですね……。何でもありにしたら、戦争になりますし。人間らしさって、形のない概念を実在すると思えることなのかもしれませんね。
とはいえ、欲求の表出先を絞り込みすぎると、欲求自体も変質しますよって話。
要は、もっとはけ口の多い社会にした方がいいよね、って事。あまりにも、ストレスを解消するのにお金がかかりすぎる。
考えてもみてください。温泉ランドって、チェーン店とかだと高いでしょう?辺境と都市部二極集中だから、半端な田舎町にはない訳。とてもじゃないけど未成年者が出入りできるような値段じゃない。
ブッフェなんか都心一極だし、そもそもそこまで行くのに疲れる。家で寝てた方がよほど楽。
僕もタブーは現存のままでいいとは思いますけど、例えば千円くらいの低額ブッフェを地方にも普及させるとか(食欲)。『新世界より』みたいに、人気のないところでカップルが交わっていたら見て見ぬふりをするけど、さすがに人前でやったら逮捕(性欲)。とか。ワンコインのカプセルホテルをもっと増やすとか(睡眠欲)。
人間関係の種類自体を増やすとか(承認欲求とか諸々)。
実現できるかどうかは別として、いろいろやりようはあると思います。
社会派小説のネタ募集!ネタ探ししているそこの君!僕とディスカッションしよう!(あざらしさんが勧めてくださったレオンが発端のスレです)の返信 (No: 13)
投稿日時:
ども、お茶です。
色々あるようですが、私個人は考えるのが好きなので、考える題材が提供される分には何も問題がないような気がしています。(議論とその人の態度は分離して考えるべきだと思うので、アサーティブに表現されているならば、その辺はノータッチに対応すべきかとも思ったり。まあ、限度はありますが)
■壱、【現代文明における成人の儀】
>>この日本に限らず、皆誰もが『自らに精神的成長をもたらすかりそめの世界』を求めていると、愚考します。
『求めうるもの』ではあると思うが、現実として、最初からそのモードで物語に接しようとする人は少ないんじゃないだろうか。特に『ライトノベル=娯楽休養のためのコンテンツ』という認識が市場に広がっている昨今では、それを主価値として提示するのは、編集者にはリスキーと考えられる気がする。(私個人は、『エンターテイメント定食+自己成長デザート付き』みたいな提供の仕方ならいけるんじゃないかと画策しているが。なろう小説が業界を跋扈している状況ではそれすらも忌避されるのではとも思ったり……)
ところで、読書行動の動機には、以下の四通りがある模様。「①娯楽休養」「②自己研磨」「③言語技能習得」「④影響触発」(参考論文:大学生の読書動機の分析/平山2004)。これは実用書なども含めた結果なので、ほんとに参考程度の情報だけれど。
>>皆さんなら、今の現代社会に成人の儀(または試練)は必要だと思いますか?
そもそも成人の儀って現代社会に必要ないと思う。もはや形骸化している印象を受ける。
日本に関して言えば、これまでの社会設計は『教育→仕事→引退』の三ステージで行われてきて、その教育→仕事のステージ移行の境目に成人の儀があった。けれど、人生百年の長寿化社会となっては、仕事ステージの割合は自然と大きく(=働く期間が長く)ならざるを得ない。長い時代の中では社会に求められるノウハウ・技術も変化する。一人生のうちに複数種類の仕事をせざるを得なくなるケースも増える。そういった変化の予測に対して、成人の儀がいままでどおりの機能を持ち続けられるかといったら疑問だと思う。
>> 「欲求を持つこと自体は健全と認めるのに、何で「お花を摘みに行っていいですか?」とわざわざ遠回しに聞いてから野糞するがごとく、人に隠れてこそこそさっさと済ませなきゃいけないの?」と。
欲望を丸出しにしてはいけないのは、社会の中でお互いに生きづらくなるからだと思う。
例えば、排便欲求があるのは正当だけれども、どこでも排便していいわけではない。電車の中で排便したら不衛生だから当然周囲の人から嫌がられる。嫌がることをしうる人は、社会から排除される。自分の権利だけでなくて、他人の権利も考えられるかどうか。それが社会生活を営む上で必要なことだと思う。
>>ヒトは、たくさんの必要不可欠で根源的な欲求をその遺伝子に刻んでいます。「気持ちいい」と感じることは罪なのでしょうか? 本来、快感と幸福は不可分一体であったはずです。
『義務』の概念が欠けていると思う。一方に権利があるとき、他方には義務がある。『快楽を追求する権利』が自然権であるならば、同じ権利が相手にもあると考えなければならない。自分には『快楽を追求する権利』があるとともに、『他人の快楽を追求する権利を守る義務』もある。だから、無条件に欲求を追求することは不当。
>> 僕は、多くの「極端に【人間】になりすぎて、病気をこじらせた人たち」に出会ってきましたが、「禁欲しすぎたから壊れた」という方々は結構いらっしゃいました。
これはゾーニングの問題だと思う。その人たちは、欲求の表現の仕方を学べはいいだけ。例えば、女性への露出願望を持っていたとして、会社のOLの前でいきなり全裸になったら犯罪だけれど、SMクラブとかで裸になるのは許容されうる。
要は、嫌な人の前で嫌なことをしなければいい。『嫌な人=大衆』ならば、限られたマニアックな世界観の中に対して自己表現をすればいい。犬食文化を持った人がいたとして、それ自体は文化として許されるけど、愛犬の話をしている愛犬家の前で食いだしたらそれはもはや嫌がらせ。表現する場所を選んでやることが知性。芸術って分野はそういった特殊性癖の受け皿でもあるのは。
小休止。
社会派小説のネタ募集!ネタ探ししているそこの君!僕とディスカッションしよう!(あざらしさんが勧めてくださったレオンが発端のスレです)の返信の返信 (No: 14)
投稿日時:
義務を必要以上に感じすぎることで欲求のはけ口を狭めているのでは、という問題提起でもあります。
あ、そうそう。欲求の表現に対して緩い社会ときつい社会がありますよね。
たとえば、南アフリカ当たりの村だったりすると、トイレは好きなところでどうぞ、子供は裸でも一応OK。思春期になったときに着させましょうor男女ともに上半身裸は当たり前、とかざらですし。
公衆の面前は絶対嫌だけど、見習うべきところはあるんじゃないかなって。昔の日本だって、逢引き用の草むらはどこの村にもあったみたいですし。
今にして思えば、ノンケ版の発展場が無いのが不思議です。なぜ、ストレートにはラブホか自宅しかないのか。気軽に立ち寄れるイチャイチャ用スペースがあれば、車でそういうことして捕まるカップルも出ないのに。
まあ、それはさておき。
とりあえず、これやっておけば「大人になったなぁ」と手軽に実感できる、程よい難度の試験的なものがあるといいんじゃないかって思います。サタンさんの指摘だといろいろあるそうですけど、古い概念の捉えなおしって結構役に立つと思います。
とはいえ、長寿化ですか……。無用の長物と化しているのも事実かもしれません。
モラトリアム期における課題の解決の一助になるのでは、と思ったのですが、どうやら甘かったようです。