視点者の意識がないときの描写の返信
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視点者の意識がないときの描写(元記事)
こんばんは、お世話になります、左野です。
小説を書いていると、視点者が寝たり気絶したりするシーンに当たることがあります。
視点者の意識がないときの描写は以下の方法で問題ないでしょうか。また、他に方法があればぜひ教えてください。
1:視点者が意識を失うぎりぎりまで地の文で書く。その後は書かない。
いわゆる、「おれは寝てしまった」というものです。
よく使われている手だとは思うのですが、「『おれは寝てしまった』ってモロに目覚めたあとに考えることだよなあ。『おれは死んでしまった』に近いものを感じるぞ」というような、余計なことを考えてしてしまいます。
かといって別のいい言葉が思いつくわけでもない。
これはお約束の文章として素直に使っていいのでしょうか。
2:視点者を変える
視点者を変える方法です。意識がなくなった後の展開が長いときに使うべき方法と聞きます。
しかし、一人称小説でやると、地の文が随分変わってしまいます。(文章力によるとはいえ)違和感を覚えますか。
3:視点者の意識がなくなったあと、神視点(というより無視点三人称? 地の文では登場人物の心情を一切書かず、ただ事実のみ書く)で描写する
特にお聞きしたい方法です。
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例)
「頭が痛い」
そうぼやくと、椅子に座って本を読んでいた魔女が、長くて美しい髪を耳にかけてから、本をぱたんと閉じてこちらに視線を向けてくる。
「風邪でもひいたのか」
「たぶんね。もう寝るよ」
おれは頭を押さえながら、フラフラと歩き、ベッドに腰掛ける。
「寝るのなら、その前に薬を飲むかい。私が作った薬がまだ残っているはずだ」
「うん、ありがと。それ飲んで寝るよ」
おれがそう返事をすると、魔女はさっと薬箱から瓶を取り出した。
「ほら」
「サンキュ」
瓶を受け取り、一錠だけ取り出す。すると、魔女は水がなみなみと入ったコップをもってきて、すぐ近くの机に置いた。
「水。これを飲み干せ」
「え、いいよ。そのままのみこめるし」
「寝ている間に脱水症状を起こしたらどうするんだ」
「わかった、わかったよ」
他人の健康だけは本当に心配するんだよなあ、この魔女は。自分のにはてんで無頓着なくせに。そんなことを思いながら、コップに口をつける。
「熱は?」
コップの水を半分飲み干してから、答える。
「……ああ、なさそう。大丈夫だよ」
「ならいいんだが」
「そうそう、この薬、よく効くんだよね。飲んだ瞬間こてっと寝られちゃうんだ。起きた頃にはもう元気いっぱいだし」
「特殊な睡眠薬だからな」
「ん、じゃあ、おやすみ」
おれはそう言って、水をふくみ、薬を口に放り込む。ゴクンと飲み込んで、それだけでもう眠い。ベッドに横たわり、ブランケットを被る。どんどん眠気が襲ってくるのが嫌でもわかった。
「おやすみ。ふふ、もう寝息を立てている。……私は心配でならないよ、君はいつも必要以上に無理をするんだ。君は私よりよっぽど脆いというのに」
暖炉の光がコップをオレンジ色に照らす。暖かい空気で部屋は満たされている。
「君の前じゃ口が裂けたって言えないが……私は君のことを」
誰かの思いを隠すように、火の粉のパチパチはぜる音だけが、病人の小さな寝室に響いていた。
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というものです。
今書いている小説があるのですが、例のように、視点者の意識がなくなったあとの展開が視点を変えるには微妙な長さで、しかしどうしても描写したい場面があります。
そのために方法3を使う予定なのですが、変でしょうか。
よろしくお願いします。
視点者の意識がないときの描写の返信
投稿者 オミクロン 投稿日時: : 1
オミクロンです。自分の3の手法を多用しているので、参考になれば幸いと思い書き込ませていただきます。
まず、留意すべき点として、「視点移動」が発生した。ことを分かりやすくすべきだと思います。例外があるとすれば、叙述トリックの真似事をする時くらいでしょうか。
自分がの場合、視点移動直後に主人公の3人称を使います。佐野様の文の視点移動に私が文を入れるなら、次の一文を挿入します。
深い眠りに落ちた主人公の頬を、魔女は優しく撫でた。
1人称の地の文で、自身の3人称が出てくることはありません。なのでこの瞬間に、「あ、視点が変わったな」と分かりやすく見てもらえると思います。
ただ、他の方々の指摘通り、3人称神視点は情報の取捨選択が極めてシビアです。読者が知る必要のない情報をズラズラ書けば、蛇足になります。また、必要なものでも余計に書けばネタバレに直結します。
この【必要な情報】というのがまた厄介者でして。短期的に見れば不必要であっても、長期的に見れば必要だったりする場合があるんです。特に継続することに意味がある情報、情に関するものが該当すると思います。
そこらへんはストーリーの詳細により精通した作者が、推敲に推敲を重ねることでどうにかなると思います。
最後に、これは他の批評者様への批判に当たりますが、多少関連するので書かせてください。
3人称神視点の文章というのは忌避されがちです。カメラワークの問題、情報過多の問題、感情移入の問題等々。それは否定しません。ですが、存在してはいけない文体ではないと思います。
むしろ、それらを適切に扱えれば、物語に厚みを持たせることが出来るというのが私の考えです。「主人公の視点で全てが見える」物語は、極論が過ぎると感じました。逆に物語を薄くする可能性を持つと私は思います。
実例を提示させてください。ソード・アート・オンラインのアリシゼーション編です。
ネタバレになりますが、主人公キリトは作中で心肺停止状態になり、脳の一部が損傷に近い状態になります。それを治療するためにアンダーワールドへとダイブすることになります。
そこからはアンダーワールドの世界と、現実世界の双方で物語が進行します。現実世界においては主人公不在であるため、視点は3人称神視点で進行しています。
更に中盤以降キリトは心神喪失状態となり、自活すらままならなくなります。そこからはアンダーワールドの世界でさえ、主人公がいるにも関わらず、キャラクターのアリスへと視点が変更されます。
では、これらの「主人公の外」にある物語や描写。アスナの必死の努力や、神代の葛藤、アリスの献身などは、作者の長ったらしい自己満足と断ぜられるべきでしょうか? 私は否だと思います。これらを失えば、あのアリシゼーション編は駄作として終わったでしょう。
総括します。3人称神視点は毒にも薬にもなります。毒性のみを見て捨てるのは、余りにも勿体ないです。なのでまずは自由に表現をして、後から真に必要か否かを推敲するのがいいかと思います。そうすれば自己満足の領域を可能な限り削り、演出の部分を増やせると感じました。
長文失礼しました。
カテゴリー : 文章・描写 スレッド: 視点者の意識がないときの描写