【質問/考察?】主人公及び異世界の設定・描写、その解釈についての返信
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【質問/考察?】主人公及び異世界の設定・描写、その解釈について(元記事)
1.主人公の無双描写(能力・知識チート)の質について、その限度は?
主人公を強く見せるために敵を弱くするというのは昔からあることですが、小学生レベルの掛け算で賢者認定、杜撰な知識で異世界改革など主人公が強い・すごいというより周りがひどいだけの設定や描写で主人公を賛美するのは無理がありませんか?
2.俗に「中世ジャガイモ問題(ジャガイモ警察)」と呼ばれる設定に対する解釈について
いわゆる中世風異世界に「ジャガイモ」と呼ばれる農産物を登場させたときに「その時代にジャガイモがあるのはおかしい」という批判は、現実世界の歴史を基にした主張です。ジャガイモという名前に引っ張られる形でその歴史過程までも異世界に当てはめようとしてしまうことがおそらく原因でしょう。
反論としては、「異世界が舞台であり現実のそれとは違う」というものがありますが、この場合「ジャガイモ」という名称の由来が新たな争点となります。
異世界であるなら別に「ジャガイモ」である必要は無いのではないかというわけです。(無論すべての名詞を異世界風に改めるのは某FFのように読者の理解が追い付かなくなる危険がありますが)
もう一つ話題になったものとして「異世界シャワー問題」があります。(僕はその作品を読んでいないので詳しいことはわかりませんが)異世界なのになぜシャワーがあるのか? という疑問だったと思います。ジャガイモやシャワーに限らず異世界に関する描写・設定について読者はどこまでを現実的に判断し、どこからをファンタジー的に判断するのでしょうか?(考えるだけ無駄という意見はこの際おいといて)
【質問/考察?】主人公及び異世界の設定・描写、その解釈についての返信
投稿者 手塚満 投稿日時: : 2
正直なところ、ご質問内容には興味が湧きませんでした。1は作品ごとの工夫を度外視しての一般化ですし、「小学生レベルの掛け算」「杜撰な知識」「周りがひどいだけの設定や描写」と、スレ主さんが期待する回答は既に決まってしまってます。
2ですと、逆に個々の事例に拘ってしまっている。確かにジャガイモは例だし、ご質問もジャガイモを例に取った説明のように見える。ですが、「ジャガイモ」が名詞という記号であり、実態そのものでないこと等へ踏み込む様子がない。
「異世界シャワー」問題に至っては、読んでないと仰ってますよね。それで何か論じられるんでしょうか? 私も書籍版は読んでいません。話題になった当時は「なろう」にありましたんで、読んでみました。シャワーに違和感を表明したのは、あるプロ作家でしたね。作品内容だけでなく、その作家の普段の言動なども考えないと、JKハルにおける「異世界シャワー」問題は論じられないように思います。
いずれも以下の各項で触れてみたいと思います。興味ないのになんで回答を試みる気を起こしたかといえば、各ご回答には興味ある内容が多かったからなんです。ご質問はお世辞にも中身があるとはいえませんが、少なからず寄せられた回答がよき議論になっている。だから参加してみたくなったのです。
> 1.主人公の無双描写(能力・知識チート)の質について、その限度は?
これって作者が設定する強弱、賢愚の相対性に過ぎません。無双主人公を出したいのなら、抜きんでて強力、ないしは天才になるのは必然です。でも「抜きんでて」なんですよね。絶対的な基準じゃない。例えば「12万5千度の炎が出せるなら最強」にしてみたとして、15万度出されたら最強じゃなくなる。主人公の12万5千度を最強としたいなら「この作品世界では理論上の最高温度」とか「他のキャラはそこまでやれない」とするくらい。
既出の良回答と被りますが、現実の歴史でも「小学生レベルの掛け算」を古代の庶民に見せたら、賢者レベルに認定される可能性が高い。異世界なら文明や教育レベルは設定次第ですよね。
設定次第を使った作品だってあります。ドラえもんですと、のび太が他の惑星に行ったら、超人的な膂力と認定されるなんて話がありました(重力が弱い星なので、住人の筋力が低いという設定)。確か永井豪さんの昔の作品で、未来世界に行った男の話もありました。その話では、機械文明の発達で人間が虚弱化してしまった、と設定されていました。そのため、過去から来た普通の男でも超人的になってしまう。
いずれも無理な感じはありません。周囲が主人公を褒め称えるのも自然でした。作品内での整合性があるからだと思います。
一方、無理を感じるものがあるのも確かでしょう。実際の作品を出すのははばかれますので、この場で捏造してみます。例えば、悪役(嫌われ役)が凡人レベルの実力もないのに親の七光りだけで威張り散らし、周囲を虐げている。主人公が颯爽と現れ、悪役の親が公認するゲームで悪役を叩きのめす。周囲が主人公を「凄い」「最強」「英雄だ」と心から称賛する。
おかしいですよね。凡人以下の悪役は実際にはモブキャラでも倒せてしまうことは分かり切ってるわけですから。悪役が叩きのめされて気分はいいでしょう。しかし主人公が強いことにはならない。戦えさえすれば誰でも勝てる相手に勝ったに過ぎない。
こういうの「ご都合主義」と呼んでるわけですよね。作者が「みんなが主人公を褒め称えるシーンが欲しい」と思って、整合性、必然性等を考慮せずに話を運んでしまうといったことで起こることです。
仰っている内容は、おそらく無双だからではありません。ご都合主義が感じられるとリアリティのなさにがっかりする、という昔から言われているものに過ぎません。ご質問(ないしはご主張)は問題のとらえ方が間違っています。
> 2.俗に「中世ジャガイモ問題(ジャガイモ警察)」と呼ばれる設定に対する解釈について
「ジャガイモ」という名詞は語源があって、ある一つの種類の芋を指しますね。そういう意味では、「ジャガイモ」と書いたら、対応する芋がイメージされる。現実の古代~中世ヨーロッパが舞台(ただし魔法やドラゴンはいたりする疑似的なもの)だとしたら、避けるべき。それは分かります。「国王の人気が失速」したり、「話が脱線」したりという表現も避けるべきかもしれません。そこまで制限して、作者、読者ともメリットが生じるかは疑問です。ですので、出すのを控えたり、変えるとしたら固有名詞だけでしょう。
ですが、古代~中世欧風の異世界だと話は違いますよね。「ジャガイモ」があって何がいけないのか。現実世界とリンクしてしまい、異世界感が損なわれるからでしょうか。それは一理あります。「ジャガイモ」を避けるなら、リンゴもピーナッツも避けるべきでしょう。調理法、食器にもオリジナルのものと固有名詞を考案する必要が生じます。結果、わけが分からない食事シーン描写に陥ります。
それでもいい、と思える作品もあるでしょう。例えば、異世界(ないしは異星)に放り込まれて戸惑う主人公ならアリでしょう。食品も(現代日本から来た)主人公にはグロテスク、味も不慣れなうちは極めて不味くて苦労するといった運びなら、異質・異常感を出すために、現実のものを連想させない固有名詞を与えるのはアリです。
一方、冒頭から美味しそうなご馳走を出したかったらどうか。例えば、腹を減らした主人公が宿屋に駆け込んで来たら、大勢がご馳走を食べていて、とか。未知のオリジナルな固有名詞で美味しそうと感じてもらうのは相当に無理が生じます。ビーフステーキにジャガイモの付け合わせ(に相当する食事)をどう言い換えるのか。言い換えること自体は簡単です。ですが「美味しそう」と感じてもらうのは、事実上、無理でしょう。
異世界感よりも食事が美味しそうなほうが大事であれば、なじみのある表現を使うべきなんです。異世界なんだから、なんでもかんでも異質にするべきと一律には言えない。そもそも、異世界の住人とて2足歩行で顔には目が2つ、鼻と口は1つずつ、髪の毛が生えていているだけではなく、美人・イケメンかどうか、マッチョか否か、とかとか、現実世界基準のものが多数あるわけです。たとえ、異世界感を強調する作品でも。でないと、例えば恋愛とか描いても感情移入はしてもらえないですよね。
これも問題意識の持ち方が間違ってるんです。問いの立て方がおかし。「ジャガイモ」を例にしてもいいけど、「中世欧風でアリかナシか」と考え始めると、罠にはまります。ジャガイモが出て来て雰囲気壊れる作品読んだら「ナシ」と言い始め、ジャガイモが出て来ても自然な作品を読んだら「アリ」と言い始めてしまったりします。
さらに映像作品を引き合いに出して文章作品に安易に適用したりして、さらに間違ったりします。例えば「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズの前日譚「ホビット」シリーズでは、ホビットが食道楽ですんで、食事シーンがふんだんにある。原作小説はありますが、映画版で考えてみます。中世欧風異世界ハイファンタジーですが、食事ではジャガイモやトマトなどが並んでいる。まるで全世界から食材を集めてきたかのようです。
大変に美味しそうで効果的です。ですが、だから文章でも同じに描いていい、とはなりません。映像は説明しないから成り立つ面が多分にあります。トマトに見えるけど、トマトと呼んでないし、単にさりげなく置かれているだけ。意識してみなければ、「あ、トマトだ」とは思わない。文章だと必ず名詞を書かないといけません。必ず意識することになります(意識しないなら読んでない)。
同様のことが「エヴァンゲリオン」(1995年)でも見られました。日常シーンでアスカがゲームをしているんですが、マシンがセガサターン(そっくり)だったんです。だけど、単にさりげなく置いてあるだけだから無理は生じていない。これを文章で「アスカがセガサターンでゲームをしていると」と書いたら、相当おかしな感じになります。「2015年でなんでセガサターン? レトロゲームファンなの?」みたいになりかねません。映像作品だからこそ、さりげなく置くことができ、当時の視聴者に日常感を感じてもらうことが可能だったわけです。
同様に、「トップをねらえ」(1989年)。日常シーンのソフトドリンク(缶)、スナック菓子は当時に実際にあったものを忠実に描いていました。ただし誰も固有名詞で呼んだりはしない。映像作品だからこそ、それで日常感を出せたわけです。どちらもGAINAX作品・庵野監督で、小道具での効果の出し方に特有の拘りがあったのかもしれません。
表現媒体でも違いが出てしまうわけですね。決して「中世欧風(異世界)ファンタジーでジャガイモはどうか?」みたいな、大雑把な、あるいは大枠過ぎる問いを立ててはならないと思います。間違った問いには適切な答えは生じません。延々として終わらない議論であるのも、無理からぬことかと思います。必ず「この作品にジャガイモは適するか否か」みたいなピンポイントな疑問を持つべきです。
(続きます)
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