こんにちは。壱番合戦 仁です。
皆さんに質問させていただきたいことがあります。
ズバリ、「ラノベに行間は必要ですか?」
これについては、詳しくないので僕は意見しません。皆さんの回答をお待ちしております。
次にまろん師匠の文学論について。
彼方は、「せっかくアスペルガー症候群の君が、アスペルガー症候群の主人公をかくのだから、常識や常人の感性につきやってやる義理はない」と僕にご教示なさいました。
暗に彼女は、「(きっちり描き切ってなお読者が読めないと文句を言うならそれは読者のせい)だからこそ、読者に媚びて読みやすくしてやる必要などない」といいます。湊かなえや百田尚樹のような売文奴になってほしくないのだといいます。
「自分の主義主張を曲げてまで馬鹿に面白いといわれる事より、文学者として意義のある小説を書いて賢人に称えられるほうが尊い」
これが彼女の一貫した主張です。これには僕も大いに賛同するところです。
ですが、ここで一つ疑問が出てきます。
「これって、純文学の流儀だよね?」「この方向があっていると強くサンドする僕は、ラノベ作家をやるべきではないのではないか?」と思ってしまったのです。
面白い小説は書きたい。でも、読者に媚びたくないし、主義主張を捻じ曲げるなんてまっぴら。ましてや、奴隷ハーレムものを書いて「さすが○○様!すごいです!」なんてやりたくない。
正直そろそろラノベに飽きました。
【異世界転移ものにしろ、転生ものにしろ、魔王勇者ものにしろ、奴隷ハーレムものにしろ……。自己承認欲求を満たして現実逃避するためのオ〇ホじゃねーか!!】
っとと。失敬。これは言い過ぎですが、読了しても胸の奥に何も残らない小説が多すぎる気がします。萌えとか抜きで、ラストシーンに差し掛かったあたりのヒロインを抱きしめたくなるようなラノベも、味わいのある余韻が残って、文学的に意味のある感動を覚えるラノベも、聞いたことないし見たこともありません。
おそらくですが、ラノベの正体を彼方が知ったとしたら、たぶん僕がラノベ作家になることを義人はしないでしょう。そして、ぼくも、同じラノベを書くにしろ、純文学や大衆文学を書くにしろ、味気ない小説を書くつもりはありません。
続きはまた今度。
人に何かを教えるときに短所を直すか、長所を伸ばすか、又は両方をするかってあると思うんですけど、まろん師匠さんのそれは壱番合戦さんが今もっているものを伸ばしていこうよ。いっそ振り切っちゃおうってものだと思います。
ただその場合には、わかる人だけわかってくれればいいということになると思います。壱番合戦さんの小説を読んだ限りでいうと(序盤しか読んでませんが)
まろん師匠自身の考えだったとしても、それはそれでアリで正解もないので、壱番合戦さんとの相性の問題になると思います。
壱番合戦さんが小説でやりたいことって、なんですか?
ラノベでも純文学でもまろん師匠さんの言われてることを実行に移した場合、差別をする方達が読むかと言ったら正直読まないと思います。
バカにする目的で読むことはあるかもしれないけど、壱番合戦さんの本意は届かない可能性がかなり高いです。
そういう方に届けるには工夫が必要です。
真っ正面からいっても手にとってもらうことは難しい。本を買うとき、ネットで小説を読むとき、興味がもてないものは彼らに限らずスルーしますよね。
本当に彼らに届けたいのならラノベだろうと純文学だろうと、興味をもってもらって、そこがスタートライン。ストーリーを楽しんでもらう中で、さりげなく自分の言いたいことをエピソードの中に落とし込んで、読み終わったあとに自然な感想として差別について考えてくれたら上出来なのではないでしょうか。
これは媚びるのとは違って、興味をもってくれてなんぼって話です。
純粋な疑問なんですが、主人公が読者の気持ちがわからない独りよがりの文章というのは、どういうことなんでしょうか?
主人公は小説のキャラなので読者の気持ちがわからないのは普通のことだと思います。私のキャラも読者の気持ちはわからない。
主人公のキャラによっては、他のキャラの気持ちがわからないことはあると思います。でも、主人公の世界に読者はいないと思うのです。何か思い違いをしてるなら申し訳ないです。