小説の創作相談掲示板:小説の書き方Q&A。執筆の悩み相談をしよう!

手塚満さんの返信一覧。得点の高い順1ページ目

元記事:技術を求めるうちに書けなくなりました

初めまして。趣味で二次創作をしている者です。

何作か書き上げるうちに、もっと上手くなるにはどうしたらいいだろう?と考えるようになり、他人の小説を研究するようになりました。
文章を丸暗記するほど読み込んだり、好きな表現を抜き出して小話を作ってみたり、ストーリーの構造を分解してみたり。
結果、全く小説が書けなくなりました。

大好きなキャラクターにこんなことをさせたい、こんなことを言わせたい、こんなシーンが書きたい、それを理想の形で表現するための技術が欲しい。
その技術を追い求めるあまり、今では萌えより何よりいかに凝った文章にするか、凝った表現を使うか、凝ったストーリーにするか、そんなことばかり考えるようになってしまい、執筆が楽しめなくなってしまいました。

原作への愛も、キャラクターへの萌えも、書きたいネタもたくさんあります。
けれど、以前は頭の中で活き活きと動いていたキャラクターたちが今は全く動いてくれない。
自分の中からキャラクターたちがいなくなってしまったような、そんな喪失感さえ覚えています。

また楽しんで執筆を行うにはどうしたらいいでしょうか。

上記の回答(技術を求めるうちに書けなくなりましたの返信)

投稿者 手塚満 : 5 人気回答! 投稿日時:

以下、スレ主さんがどういう壁に行き当たってしまったかが具体的には不明ですので、よくあるケースを考えてみました。大ハズレである可能性も高いですから、もし「いや、自分のケースとは違う」とお感じであれば、無視して捨ておいてください。。

上達を目指せば、必ずと言っていいほど行き当たる壁みたいなものだと思います。学ぶと、まず状況がよく見えてくるんですが、学んだことを使いこせる境地は遅れてやってきます。

勝敗が分かりやすい将棋ですと、最初は駒の動かし方覚えた程度で指してみます。当然、(相手が同レベルでない限り)負けますけど、自在に指している気だけはする。

でも勝ちたいから、定跡を覚える。定跡通りに指そうとすると、かえって粉砕されるような負け方になります。そこで手筋集を見て覚えて、指してみる。覚えた通りに必死に頑張るんだけど、負ける。かえって弱くなったような気がするし、(教本、参考書に)言われた通りにしか指してないような気もしてしまう。
(要は、覚えた通りにやろうとして、指し手がパターン化してしまっているなどの弊害が怒っている状況。)

小説書きでも同じことが起こります。直感的に、思った通りに書いているうちは、自由自在に書いている気がする。だけど、なかなか受けないし、いい作品、文章、ストーリーとも(本音で)言ってもらえることが少ない。なんとか褒められる点を見つけてくれる程度でしょうか。

将棋の場合、定跡や手筋覚えて弱くなった気がしても、頑なにその通りにやっていくうちに、勝てるようになってきます。少なくとも一方的なボロ負けはしなくなる。覚えたことが無意識に使えるようになるという、いわゆる「身についた」状態となるからです。思考を定跡を思い出すのに使わなくてよくなった、などの要因が作用しています。

小説書きでも同じです。教本や参考書、あるいは名作中の例文となるものに意識的に従って書いている間は、残念ながら使いこなせていないのです。まだ練習中です。そのうち、意識せずともテクニックを使えるようになります。覚えたことを、思い出す努力なしに使える境地です。要は、応用が利くようになる。

個人的な経験、観測では、覚えたことが使えるようになるまでに、平均で3ヶ月はかかるようです(半ば分かっていたことならもっと早いし、複雑なことならもう少しかかる)。それくらいで何かが頭の中に定着するようです。必ずしも、覚えたテクを使い続けている必要はないんですが、使うように心がけていると若干は身につくまでの期間が短縮するようです。

ただ、同じことを短期間にひたすら繰り返しても、あまり効果はありません。よく「継続は力なり」といったりしますね。修練を放棄してはいけない以外に、習得には必ず時間がかかることも言っている格言なんです。

言葉を変えてまとめてみますと、勉強、研究、練習は嘘をつきません。ある程度の期間を経ないと、効果が出てこないだけなのです。

ただ、研究、勉学の方向性が間違っていないとは言い切れません。念のため、過去に書いた作品を読み返してみてはどうでしょうか。もし、過去の自作のほうが上手く書けていると明らかに感じ、どこがいいかを具体的に説明できるようなら、もしかすると勉学の方向性が書きたいものと齟齬をきたしているかもしれません。

そういうことを考慮して見たのも「凝った文章にするか、凝った表現を使うか、凝ったストーリーにするか」と「凝った」を繰り返して述べておいでだからです。

エンタメ作品では、必ずしも「凝った」ものは必要ありません。ラノベならば、美文や奇抜な比喩などでで唸らせる必要はありません。ひたすら分かりやすいこと、平易さが求められます。中高生が一読して、シーンがすっと分かるような文章、読後にぱっとストーリーを思い返せるような物語ですね。多少極言すれば「何が書いてあったかは分かったけど、どう書いてあったかは覚えていない」くらいがベストです。

分かりやすくするため、気分良く読めるために凝ってみたいのなら問題ないと思います。しかし例えば、文章が美しくなるように、あるいは伏線と回収に唸らせるために凝るのであれば、もしかすると考え直すべきなのかもしれません。

楽しく書く方法もお尋ねでしたね。上達を志したのなら、書いている途中ではなく、書き上げたときの嬉しさを求めるべきだと思います。これも多少極論ですが、「作者が面白がって書いたシーンは、読者は退屈する」ように思います。

カテゴリー : やる気・動機・スランプ スレッド: 技術を求めるうちに書けなくなりました

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元記事:ラノベの一般読者層の知性レベルは、テレビの想定視聴者くらいを想定すべきか?

どうも。質問は初めてです。よろしくお願いいたします。

本題ですが、ラノベの一般読者層の知性について質問です。

会社でなんとなくぼーっとしていたとき、ふと「ラノベの一般読者層の知性レベルは、テレビの想定視聴者くらいなのではないか?」という仮説が思い浮かびました。これについて、色々調べたところ、以下のようなことが分かりました。

――――――――――――

■テレビの想定視聴者層はどれくらいか?

(少し昔の話題になりますが)とある芸能人が「CMは偏差値40の人にも理解できるものじゃなきゃダメ。この会社にいる時点で普通ではないと自覚しろ。世間にはおそるべき量のおそるべきバカがいる。そしてそれが日本の『普通の人』だ」という発言をしました。

また、演劇人の壤晴彦氏は、Twitterで同じような発言をしています。
「もう随分昔、当時の売れっ子脚本家とプロデューサー同席の時「日本のTVドラマは小3の語彙力で書けと言われます」俺「ホント?」P「ウン」俺「小4じゃダメなの?」P「視聴者から『難しい』ってクレームが来るんだよ」

さらに、KeyHoleTVの開発者である苫米地英人氏は自著の中で「そもそも現代のテレビ番組が、どういう層を対象にしているかというと、小学生高学年レベルの知力を対象レベルとしている。つまり、小学校高学年の頭脳が見てちゃんと理解できるレベル以上のものは、テレビには存在しないのだ。報道だろうが連ドラだろうが、同じである。すべて小学生向けのものだと思って間違いない。」と語っています。

小学3~4年生レベルの知性というと、国語が「ごんぎつね」、算数が「割り算」「小数」「角度」、理科が「磁石のしくみ」くらいとなります。いやいやさすがに馬鹿にし過ぎではないかと疑ったのですが、その手の人と付き合いのある友人に確認してみたところ、「まさにそう。彼らの知識はほんとそれくらい」と強く頷いていました。

これらを鑑みるに「テレビは小学生高学年レベルが理解できるように作られている」というのは信ぴょう性が高い(と私は思っています)。

■偏差値40の人は何に興味があるのか?

下記サイトにて、「偏差値40の人は何に興味があるのか」を解説していました。

はあちゅう氏の電通の先輩が言う「偏差値40の人向けPR」を解説。
https://www.kyohei-suzuki.com/entry/hensachi40-pr

(以下引用)
『偏差値40程度の人達は「時間が潰せること」と「快楽を得られるもの」に興味が振れていると言えます。電車やバスの待ち時間、退屈な授業中の暇潰しはスマホでソシャゲー。でも、ゲームだけだと飽きるので、楽しいことがしたいと思って恋愛を求めたり、バイクに乗ったり、ギャンブルにはまったりする。恋愛は本能、その他は「周りがやってるから」という理由で選び、ハマって行きます。彼らは多くのこと、本質的なことは考えず、本能や親しい人の勧めに従って行動するのがパターンです。物事をよく考えてから判断して行動する傾向のある、偏差値の高い人々とは逆のベクトルを向いています。』

そのうえで、偏差値40の人に受け入れられるコンテンツの特性として以下の要素を挙げていました。
・五感に訴え、本能を刺激するもの
・強く共感させるもの
・親しみを持たせるもの

――――――――――――

上記を踏まえたうえで、ライトノベルの一般読者層は、上記のような特徴を持つ人々と考えてもよいと思いますでしょうか? それとも、これ以上の知性を想定すべきでしょうか? もし、後者を支持するならば、どれくらいの知性を想定すべきだと思うでしょうか?

ご意見よろしくお願いいたします。

上記の回答(ラノベの一般読者層の知性レベルは、テレビの想定視聴者くらいを想定すべきか?の返信)

投稿者 手塚満 : 5 人気回答! 投稿日時:

書いたら長くなりまして、結論だけ先に申し上げてみます。「書いた作品に努力を払ってくれないから偏差値40なんであって、本当は読者は必ず作者より賢い。決して侮らず、敬うべきである」です。

ツイートにせよブログにせよ、ごく当たり前のことなのに、知性とか偏差値とかで言い表しているようですね。気に障る言い方をわざとしているらしい。既出の回答にも、はあちゅうさんのツイートを解説するブログでは、真意を推測するほどに、ごく当たり前の結論に近づいていってます。

はあちゅうさんは炎芸人と言ってもいいと個人的には思いますんで、気に障る言い方で注意を引き付けるのは常套手段なんでしょう。ブログ解説でも続くツイートも紹介し、話の流れが「バカを相手にしていると知れ」→「まあ、誰でもバカなんだけれども」みたいになっているとしていますね。

ブログの解説では「本能」なんて言い方をしていますが、よく読んでみると「直感」と言い換えたほうがよさそうな個所が散見されます。本能と言えば思考抜きの印象が出てきますんで、悪い方向で刺激的な表現と言えなくもない。例えば以下。

01> 恋愛は本能、その他は「周りがやってるから」という理由で選び、ハマって行きます。
02> 彼らは多くのこと、本質的なことは考えず、『本能』や親しい人の勧めに従って行動するのがパターンです。
03> 物事をよく考えてから判断して行動する傾向のある、偏差値の高い人々とは逆のベクトルを向いています。

上記で02の「本能」は「直感」と言うべきだろうと思います。それと「本質的」とわざわざ入れて、無思慮を強く示唆するミスリードもある。

直感なんですけれども、意外なくらい賢いのです。経済的なゲームを使ったある心理学実験では、直感でプレイした被験者はスコア高め、熟慮の被験者は低めという結果を得ています。プレイ傾向を分析すると、直感では利他的・協力的で、熟慮だと利己的・競争的であったとのこと。
(熟慮したほうがいいケースもあったりするんですけど、割愛。)

直感でうまく暮らせて行けるというわけです。見聞きするもの全てについて、何がどうなっているか考えなくてもいい。ですから、普段は考えず、感じて行動しているわけです。親しい人の勧めだった、見ず知らずの人の勧め(広告を含む)より信頼できますよね。良かれと思って言ってくれると分かっているほうが安心できます(この辺り、ブログはミスリードを誘う言い方をしているようです)。また、何かを面白がっている人をみたら、自分でもやってみたくなるのは当たり前のこと(人類の進歩の源泉らしい)。

広告であれば、そういう人に訴えかけるものでないといけない。エンタメと思って読むラノベだって同じ。作者はこの点で勘違いしがちです。努力を重ねて書き上げたわけですから、斜め読み3分で切り捨てられたりすると憤慨したりする。「ちゃんと読んでくれ、そうすりゃ面白さが分かる」とか。

でも、読者が努力するわけないです。特に、作品について内容も面白さも分からない冒頭ですね。「さあ気分転換のため、頑張ってラノベ読むぞー」なんてありえないでしょ。文章読むだけでも本当は面倒臭い。同じ内容のコミックがあればコミックへ、アニメ化されてたらアニメへ流れることだって多いはず。楽しめればいいんですから。決して、作品や作者について知りたいという知識欲なんかではない。

我々が書いたラノベは、無知で怠惰でわがままな(状態の)読者が読む、と覚悟する必要があります。学業や仕事では優秀な人でも、頭を使う気がないときは「偏差値40」状態でしょう。そういう状態の人に、直感で「面白そう」「ああ、なるほど」等と感じてもらわねばならないわけです。決して、熟慮したら面白いはず、ではいけない。直感でうまく行っている人に、思慮や努力を強いてはいけない。

だから、文章を平易にするに決まっています。斜め読みでも頭に入るとか、何が書いてあるかくらいは、(漢字の問題を除き)小学生でも分かるようにするのは当然です。だけれど、ラノベを読む人は全面的・定常的に「偏差値40」ではないことに注意すべきです。

興味をかき立てることに成功したら、読者は読み進めてくれます。興味を維持して、かなり読み進んだら、知りたくなってきます。「この現象はどうして起こっているのか?」「このキャラのこの行動の裏の意味はなんだ?」等々ですね。

この段階になっても、作者が「読者はどうせ偏差値40」と思っていたら失敗します。嘘、いい加減を見抜かれるからです。しかも、作者は1人、読者は多数です。今はネットで感想を述べたりしますので、読者間での情報共有も起こってきます。いわゆる「衆知の結集」です。

だから、知性では作者は読者に勝てません。読者10人があれこれ調べ、考え、話し合って出してくる意見と、作者1人の意見ではどちらが賢いか、明らかです。1つ2つくらいなら作者が誤魔化してしまえるかもしれませんが、なにせ長丁場の小説です。99%以上の部分で、読者(グループ)の判断が正しいと覚悟する必要があります。だけど、文章は相変わらず平易に書かないといけないんですが。エンタメ目的というのは、読者は常に意識してますので。

ですから、ラノベの書き方の要領をものすごく簡潔に言えば、

「小学生でも分かる平易な言い方で、大学教授に感心してもらう」

ということになります。

この「平易」ってのが意外なくらいやっかいです。似て非なる「単純」とは別物です。「単純」にするには「要素を減らしてしまう」ことになります。それも分かりやすくする手段ではあります。だけど伝えられることが減ってしまう。対して、「平易」は「つっかえずに分かる」ようにするわけです。伝える内容は減らさない。

この「平易」が難しいことは、やろうとした人はよく知っていると思います。英語圏でのことですが、「平易(plain)にしよう」という運動があり、大統領指示にまでなったことがあります。決して「単純(simple)にしよう」とは言わなかった。「必要なことを漏らさず正確に伝え、しかも誰でも分かるようにせよ」です。

「プレイン・イングリッシュのすすめ」(ケリー・伊藤著、講談社)でその辺りの事情紹介がされています。スーパーでの値引きに関する注意書きポスターで、最初に弁護士が起草した文章は次のようなものだったそうです(原文は英語)。

「本広告で通知される商品以外の広告に掲載された全ての商品は、広告で提示された価格を上回ることなく販売されることが法令により要請されており(略、原稿用紙3~4枚分くらい続く)当該顧客は事案発生について店長に通知するべきものとする。」

これをお客さん目線で言い換えて、

「お客様へ お買い上げになった商品と当店の広告価格をご確認ください。もしお買い上げ価格のほうが高いようでしたら、レジ店員にお申し付けください。何か問題が起きましたら、店長までお知らせください。」

としたそうです。ラフに訳してますんで漏れがあるかもしれませんが、原文(英語)では誰でも分かり、かつ客側としたら法的にも充分な内容になっています。分かりやすい言葉で、より短く、相手が必要とすることだけ伝える。こういうことを「平易(plain)」と呼んでいます。

同書では平易のための10のコツを示してまして、以下のようなものです。

> 1. 長い単語より短い単語を。
> 2. カッコいい凝った単語より、慣れ親しんだ単語を。
> 3. 抽象的な単語より、具体的なものを。
> 4. よけいな単語は使わない。
> 5. できるだけ能動態を使う。
> 6. 動詞を生かす。
> 7. できるだけ否定形を避ける。
> 8. ひとつの文にはひとつの情報を。
> 9. まず概論を述べてから、詳細に入る。
> 10. 原因・結果をはっきり述べる。

英語特有の問題も含んでいますので、これをそのまま日本語の文章のコツとはできませんが、ラノベに限らず、小論文や説明、描写の文章でのコツと重なるものがかなりあります。やろうと思っただけではできない、高度な技です。訓練なしにはできません。

カテゴリー : その他 スレッド: ラノベの一般読者層の知性レベルは、テレビの想定視聴者くらいを想定すべきか?

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元記事:物語の余韻について

先日、評価シートが届きまして、そこに『地の文や台詞に余韻が感じられない。余韻を感じられるようにすればもっと物語に深みが出る』と書かれていました。
この余韻というのはどういうものでしょうか? いえ、なんとなくならわかるのですが、それが果たして正しいのかどうか気になりまして。この疑問に答えを出すべく質問をさせていただいた次第です。

上記の回答(物語の余韻についての返信)

投稿者 手塚満 : 5 人気回答! 投稿日時:

公募先からの評価が「地の文や台詞」とのことですので、どの部分で余韻が感じられないのか、小説本文を示して頂くのが難しいのでしょうか。余韻にもいろいろありますので、原因が多岐に渡っている可能性もありますよね。
(それでも「小説のタイトル・プロローグ改善相談所」掲示板で冒頭を投稿して相談してみてもいいかもしれません)。

余韻のなさについて、既出の良回答と被る部分もあるですが、思い当たることを列挙してみようと思います。

その前に余韻の意味や効果の確認から。余韻って、例えば寺の鐘がゴーンと鳴って、その後も長くなり続ける音のことですね。聞き続けていることもあれば、鳴り終わったと思っていたら、ふとかすかに鳴り続ける音に気が付いたりもする。

転じて、見たものや誰かが言ったことの、その後が気になるようなことを指すわけですね。小説なら、描写の後にも何かが引き続き起こると感じたり、台詞の後に何を言いたいかを感じたりする。

そういうものが、なぜ必要なのか、ということから考える必要がありそうに思います。なぜ、完全に説明したり、言いたいことを全部言ってしまうと、面白くなくなるのか。これは、書いている人なら心当たりのある現象があります。

考えたことが思った通りに書けていたら、嬉しいですよね。言葉にする前は非言語的なイメージもあったりするんですが、全てを言語化できたら充実感があります。例えば「そうだよ、こういうことが言いたかったんだ」という気持ち。

しかし、作者が言いたいことが全部言えていたら、読者はどうなるのか。ひたすら作者の言うことを聞くだけになってしまいますよね。想像を巡らせる余地がない。言われた通りにイメージするだけになる。読書が作業に堕してしまい、退屈です。

ある(地理担当の)予備校講師さんがTVで授業で行うような講義をやっていました。例えば「小麦の生産量は人口に比例する」と説明し、生徒Aに「世界で一番人口が多い国は、どこでしたっけ?」と問う。生徒Aは「えっと、イン(ここで講師がちょっと首をかしげて見せる)、あ、中国」と答える。講師はニコッと嬉しそうに「そうですねー!」と言い、生徒Bに「じゃあ、小麦生産が世界一なのは?」と問う。生徒Bはそこまでの話を踏まえて、「中国になるはず」と言い、講師がまた嬉しそうに「そうですよねー!」と言う。

そうやっていると、だんだん生徒も面白がってきます。正しく答えられたからだけではないでしょう(質問が簡単すぎますし)。講義に参加し、講義を補完しているという自覚が生じ、充実感が生じるのが大きな理由の一つになるように思います。ちょっと大げさに言えば、「この講義を仕上げたのは自分なんだぞ」という気持ちです。

余韻の効果は、風情とか深みとか曖昧に表現されることが多いんですが、ラノベに関して言えば、読者が物語を補完する、物語に参加する意識が出る、といった効果があるように思います。読者には、キャラに感情移入して欲しい、できればキャラになり切って物語を味わって欲しいわけですから、単なる見物客ではまずいわけです。だから、物語に参加してもらい、特に完結させる喜びは読者に譲る必要があります。そのための手法の一つが余韻であるわけです。

大事なことなので簡潔に繰り返しますと、「言いたいことを書き切れたら面白いわけだから、その面白さは読者に譲ろう。それが面白くするコツだ」ということになります。

余韻の大事さはこれくらいにしまして、どうして大事な余韻がなくなってしまうか、いくつかケースを考えてみます。

1.説明し切ってしまう
上述しましたが、キャラの行動・言動が完了してしまうという、おそらく最もよくある現象です。ご質問文を小説本文と考えて、例にしてみます。

> いえ、なんとなくならわかるのですが、それが果たして正しいのかどうか気になりまして。

「なんとなくならわかる」わけですよね。「なんとなく」なんですから、はっきりはしていないことが読み取れます。質問ですからはっきりさせる必要があって、「果たして正しいのかどうか」と続けるわけですが、これがキャラの台詞だったらどうでしょうか。

「いや、なんとなくなら分かるんだけど」

としてしまってもいいですよね。すると、「だけど」の逆接の後に何が言いたいか、自然と想像を働かせたくなります。

もし、キャラが続けて「果たして正しいのかどうか気になって」と言ったら、読者の気持ちは「ふんふん、なるほど」でしかありません。正確に言えば、「気になって」で途切れてますので、その続きは読者が補完します。

ですが、「分かるんだけど」で切ったほうが、補完できる幅が広がりますよね。質問ではまずいわけですが、小説でなら有効です。その後の展開でどうだったのか示すことも可能ですし、逆に小説の最後の台詞であれば、「完」の後で起こることを想像したくなります。

技法的には、台詞や地の文の末尾を「……」や「――」にする手法がよく知られています。明示的に「この後に言いたいことがあるが言わない」と示すものですね。

2.逆に中途半端すぎる

もう一度、同じ部分。

> いえ、なんとなくならわかるのですが、それが果たして正しいのかどうか気になりまして。

話をひっくり返すようですが、実は決定的に足りない部分もある。どう「なんとなくならわかる」のか、です。仮にこれが冒頭の台詞だとすると、想像のしようがありません。

余韻を残すには、おおむねですが「八割分かって、二割分からない」必要があります。必要な情報のうち、半分くらいしか出していないのでは、想像の余地がありすぎて、余韻どころではなく、むしろ混乱を招いてしまいます。

3.場面転換が速すぎる

例えば、「ヒロインが主人公のデートの誘いにちょっと戸惑った→いきなりヒロインが車にはねられた→車からテロリストが降りて来て銃乱射→…」と一気に話を進めたら、ヒロインがデートの誘いにどう思ったか、読者が考えてる暇はないですよね。

小説を読み進めてもらいたいあまり、目立つイベントを矢継ぎ早に出すと、余韻がなくなります。要は読者を振り回してしまうということです(話の展開でそういう狙いがあるなら、余韻は諦めるべき。余韻は常に必要なわけではない)。

4.シーン接続が密すぎる

上記3の逆です。1と同じことで、時系列でシーンを並べ、各シーンの間に時間経過がないと、シーン間で何かが起こったかどうか、迷わなくなり、想像も働かせなくなります。

5.シーン間が飛びすぎる

上記4の逆で、2と同様です。シーンの時間をあまりに空けたり、無関係な場所に変えてしまうと、シーン間で何かがあったかどうか気にならなくなり、読者が補完しなくなります。

6.シーンの同時並列進行を用い過ぎる

シーンというよりイベントと言うべきかもしれません。例えば、メインキャラA、Bが別行動を取り、「Aがこうした→その頃、Bはこうした」みたいなストーリー進行を用いることがあります。これ自体は、読者の補完、想像力を喚起させ得る手法です。Aのシーンのとき、Bはどうしているか考えたりしますから。

しかし、2つのシーンの同時進行なら大丈夫かもしれませんが、3つ、4つと増えてくると、読者は情報整理に追われ、ついにはお手上げになってしまいます。結果、作者の説明をただ聞くだけになってしまう。あるいは、3で申しましたような速すぎる切り替えで、同時進行シーンが細切れ過ぎる場合も同様です。要は、作者にしか分からなくなる。

思いつくものを挙げてみましたが、これ以外にも余韻が感じられなくなる要因はいろいろあると思います。ただ繰り返しですが、余韻は必ず必要なものではありません。比喩と同じく、使いすぎると嫌味な感じになりかねませんので、スパイスのつもりで少量用いればよいと思います。

カテゴリー : 文章・描写 スレッド: 物語の余韻について

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元記事:新人賞における「引き」について

レーベルの新人賞に応募する作品を書いているのですが、審査員を惹きつけるような「引き」がよくわかりません。
「引き」とはなんでしょうか?
審査員は応募された小説を流し読みしていると思うのですが、やはり最初の部分に入れた方がいいのでしょうか?
物語の最初で惹きつけるって、どうすればいいのでしょうか?

上記の回答(新人賞における「引き」についての返信)

投稿者 手塚満 : 5 人気回答! 投稿日時:

1.「引き」ではなく「ツカミ」では?

どこで何をどうお聞きになったか、ちょっと分かりません。「引き」って連載物で言われるもので、各話の最後で読者に「続きを読みたい」と思わせる要素、書き方のことですから。

ですから、物語の最初であれば「引き」は作りようがありません。物語冒頭で読者を惹きつけるものは「ツカミ」と呼ばれます。のっけから「面白そう!」と期待させるものです。たぶん、それじゃないかと思います。

2.「ツカミ」の役割

「ツカミ」は重要です。冒頭が、例えば物語の設定を延々と書いてあると、高確率で離脱されます。読者は面白い話を読みたい、楽しみたいのであって、作品知識を勉強したいわけじゃないですから。

ただし「面白い!」は普通は作れません。可能なのは「面白そう」「面白くなりそう」です。キャラも舞台もよく分からないのに「この話は面白い!」なんて不可能です(仮に面白くできたら、そこで読み終えてしまうかも)。あくまでも先を期待させるわけです。

3.ツカミの作りの原則

具体例は人気作品、有名作品を読んでください。その前提で、原則的なことを言うならツカミは、

1. 派手か突飛である。
2. 作品知識抜きで8割がた分かる。2割は謎めかせて、知りたくさせる。
3. 「どこで、誰が、何をする話」なのかおよそ分かる。
4. 無駄には入れない(後の展開を示唆したり、設定上のリンクがあったり)。

となるでしょうか。

1は推理物では「冒頭で死体を転がせ」なんていうアドバイスが有名です。まず殺人事件を見せちゃうわけですね。すると(ジャンルが推理物という前提で)「誰がどう殺した?」という興味が湧きます。

2は派手だったり異様だったりして目を引くために必要です。作品独自の設定とか知らないと分からない冒頭にしてしまうと、理解できません。理解できないものは派手なのか、突飛なのかも分かりません。

4.フルメタでの冒頭のツカミ

例えば「フルメタルパニック」では、軍用ヘリから逃げる車、車の助手席には医療用検査衣の少女が描写され、巨大ロボットが救いに現れます。ロボが軍用ヘリを叩き落とし、少女は救われる。巨大ロボはフィクションでおなじみですし、ヘリに追われる車というのも分かりやすい、よくある追跡劇です。ただ1つ、追われていたらしい少女の身なりだけがちょっと奇妙で、「どういうこと?」という興味を持たせています。

そうやって目を惹きつけて興味を持たせ、本筋に導入ですす。上記冒頭シーンの後は、少女を救った主人公の正体や所属組織の説明が入ります。読者はもう興味を持ってますから知りたくなっており、説明が少し続いても読んでくれます。そうして「誰がどこで何をする話」かが飲み込めたら、メインヒロインもストーリーにきちんと登場し、メインストーリーに入っていくわけです。

もし主人公の正体の説明を冒頭に置いたら、分かりやすくはあるでしょうけど、退屈です。奇矯な主人公ですから、多少コミカルではありますけど、コミカルが売りの作品には勝てないわけで。つまらないコメディと思われて、捨てられてしまいます。

さらに、冒頭の追跡劇とバトルも、単に目立つためだけではありません。しばらくするとメインヒロインの秘密(正体)に直結して来て、「あれは、そういうことだったのか」と納得できる作りになっています。

それが優れた「ツカミ」です。簡潔に言えば、読者の目を惹きつけ、かつ読んだことを納得できるもの、ということになります。

5.ツカミは全力を出し切るくらいに

「ツカミ」の重要性を強調するため「羊頭狗肉、竜頭蛇尾でいい」とすら極言することがあります。全力を尽くせ、ということですね。読み進めてもらわないことには意味がないのに、作者的にはつい「本当に面白いことは、後で使おう」と出し惜しみしたくなるからです。作者は「最後まできちんと読んでくれれば面白いんだから」と思いがちです。

でも出し惜しみすると面白みも減るわけで、読者は読むのをやめてしまいます。冒頭に力を入れた作品に負けてしまうわけです。だから冒頭では「考え抜いた面白いネタ全部使っちゃった。この後どうしよう」と悩むくらいに、面白さを出し切ることが大事なんです。

6.しかしラストが最重要なのも確か

とはいえ、作品の本当の面白さ、印象は終盤のクライマックスから物語の締めくくりで決まります。「羊頭狗肉、竜頭蛇尾」は方便です。真実ではありません。冒頭だけ面白い作品はショボいと評され、作品として面白いと評価されることはありません。

7.しかしラストまで読んでもらうのが冒頭のツカミ

しかし、です。その本当の面白さが分かるラストまで読者を引っ張り、読み終えるモチベを与えるのは、やはり冒頭であるわけです。とびきり美味しそうな匂いを放つ冒頭のツカミを工夫しないわけにはいきません。

カテゴリー : 文章・描写 スレッド: 新人賞における「引き」について

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元記事:ヒロインはどういうタイプが好まれるか?

小説を書く前に一つ質問をさせていただきます。
ヒロインの設定で姉貴キャラ、妹キャラ、幼なじみキャラが流行っている理由はどう言った理由からかなのでしょうか?

特に妹キャラが多い気がしますが、その理由などはあるでしょうか?

上記の回答(ヒロインはどういうタイプが好まれるか?の返信)

投稿者 手塚満 : 5 人気回答! 投稿日時:

姉や妹、幼馴染がヒロインキャラとして流行っているかどうかは別として、使いやすいキャラということはあります。なお、とりあえず姉・妹は家族の、としておきます(姉的、妹的キャラというのは置いておく)。

姉・妹・幼馴染に共通するのは物語開始時点において、

・主人公と既に親しい。
・主人公との関係性が既に確立している。
・主人公とのエピソードを既に多数持っている。

ことが挙げられます。対比されるヒロインとして、例えば「転校生」「高校入学で知り合う生徒」を考えてみます。要は「最初は赤の他人」ということで、主人公とヒロインが「遭遇する→接近する→互いにもっと知り合う」といった段取りが必要になります。

それはそれで面白いドラマが描けるわけで、一目惚れから起こるドラマなんかも可能です。しかし、段取りが必要ということは手間取るということでもあります。少なくとも序盤から中盤にかけては、いかに接近しカップルまで行くか、という筋立てになるでしょう。

もし「カップルまたはカップル寸前となった2人がどうするか」の部分で面白いアイデアがあるなら、既に遭遇から接近までは過去のこととして物語を始めたほうがいい。転校生や入学時に知り合った、となると主人公とヒロインの関係性のありようは多彩です。

一方、姉や妹だとおおよそ見当がつきます。主人公が分かればだいたい分かる。同じ家庭で育ったわけですから、おおよそ同じ傾向を持つと自然に想像できます。幼馴染もそれに準じますが、家庭が異なるので違う傾向を持たせることができます。それでも「長く友達である」ということから、あまり関係性の描写をしなくても、主人公さえ分かれば、幼馴染ヒロインはおおよそ察せられる。

さらに、いきなり過去エピソードを持ち出すこともできます。例えば、

「幼馴染が大事にしているぬいぐるみを主人公が「ボロボロだな、新しいの買えば」と言ったら、ヒロインがショックを受ける(実はぬいぐるみは、主人公が幼い頃にヒロインの誕生日に贈ったものだった)」

みたいなエピソードをいきなり作れます。描かれてない過去は存在しているけど、読者には知らせてないだけだから可能になるサプライズ的な手法です。

知り合うところから描くヒロインだと、そういうことは不可能です。遭遇前の関係性はありませんから。唯一可能なのは「以前に主人公とヒロインは会っているけど、主人公はすっかり忘れている」でしょうか。ですが、そうしてしまうと幼馴染に準じる設定になります。

まとめますと、主人公とヒロインが冒頭から2人セット(カップルないしはバディ的)で動かしやすいのが、姉・妹・幼馴染ヒロインということになります。そのうち、恋愛関係に発展させないなら姉か妹。恋愛関係の可能性を排除しないなら幼馴染ということになります。

姉と妹のキャラの違いは、ヒロインが主人公に対して保護者的であるか(姉)、被保護者的であるか(妹)かのキャラ設定に依存します。別に姉が弟に甘える性格でもいいんですけど、それならそれで姉のキャラ立ての手間を要します。あるいは多少の意外性を出す演出狙い。そういうことがなければ、読者が自然に想像しやすい(いわゆる読者の引き出し)ポジションにしておけばいいでしょう。

とりあえず置いておきましたが、姉的、妹的キャラというのもありますね。本人の性分と不可分ではあるんですが、遭遇から始めるヒロインであれば、普通は親しくなる過程を描く必要があるでしょう(傍若無人とかの設定があれば別ですが、それはそれでキャラに強い特徴を与え、初手からドラマ展開に影響する)。

幼馴染に姉的、妹的性格を付与するなら、幼馴染の立ち位置、性格、さらに年齢差を自然に与える手法となります。姉、妹としただけで、おおよそのイメージが湧くわけですから、最初から幼馴染ヒロインの性質を分かりやすくできる。

もう一度まとめますと、

・姉・妹・幼馴染ヒロインは冒頭からカップル的なドラマを起こすのに向く。
・スタート時に赤の他人ヒロインは、馴れ初めからカップル成立のドラマを描くのに向く。
・姉的・妹的ヒロインはキャラ性質や主人公に対する立ち位置を分かりやすくする手法の1つ。

ということになります。流行っているかどうかはともかく、物語の売りや分かりやすさに応じて選ぶべきヒロイン性質でしょう。

カテゴリー : キャラクター スレッド: ヒロインはどういうタイプが好まれるか?

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元記事:1人称か3人称で書くかで悩んでいます

こちらで初めて質問させて頂きます。
小説を書いてみたいと思い、プロットまでは作りました。ただ、1人称か3人称で書くかで悩んでいます。
内容としては、主人公の男性がだんだんとストーカーになっていくホラー小説を考えております。

1人称なら心情の変化まで書け、主人公へ感情移入しやすいメリットがありますが、今回主人公がストーカーなので感情移入し難く、読みにくさに繋がるかと悩んでいる所です。
一方で、3人称は、ミステリーやサスペンスに適しているというメリットを目にしたことがあるのですが、ホラー的な部分を描写し難いのでは無いかと思っています。

メリット、デメリットやどちらの方が良いのでは無いかと言ったアドバイスを頂けると幸いです。よろしくお願いします

上記の回答(1人称か3人称で書くかで悩んでいますの返信)

投稿者 あまくさ : 2

>内容としては、主人公の男性がだんだんとストーカーになっていくホラー小説

>一方で、3人称は、ミステリーやサスペンスに適しているというメリットを目にしたことがあるのですが、ホラー的な部分を描写し難いのでは無いかと思っています。

ご質問の文を読んで、すぐに思い出した作品があります。『シャイニング』です。スティーヴン・キングの原作をスタンリー・キューブリックが映画化して有名になった作品で、私は原作の方は読んでいないのですが、このスレの論点について考えるには映画版でよいと思います。

三人称がホラーに向かないということはまったくない。
言いたいのはこれです。

映画版『シャイニング』は映像作品ですから一人称・三人称というのはないのですが、前半で次第に狂気にとりつかれていく男の姿を彼の妻の目線から描いています。
ご質問の案件は、煎じ詰めれば狂気の過程を内面から描くか外面から描くかという問題です。映画『シャイニング』の前半は外面から描くことで強い恐怖を生み出していました。具体的にいくつかのシーンを紹介することもできますが、ネタバレになるので一応それはひかえておきます。

恐怖の形は色々ありますが、正体がわからず得体の知れない存在への恐怖もその一つでしょう。そういう存在は当然外面から描くことになります。
一見普通に見える人間が、ふと気がつくと意味不明な奇妙なことをしているって、けっこう怖いじゃないですか。そういう不気味さは内面がわからないからこそで、それが徐々に嵩じていく様子を描けばいいんじゃないかと思います。

カテゴリー : 文章・描写 スレッド: 1人称か3人称で書くかで悩んでいます

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投稿日時:

元記事:主人公が戦う理由ないし戦える理由

こんばんは。
リームと申します。前回の質問は様々な意見をいただき、ありがとうございました。

今回も現在構想中の「異世界転生モノ」について、皆さんの意見を聞きたくスレッドを立ち上げました。

タイトルの通り主人公が戦う理由なのですが、正確に言うと「一般人だった主人公が、何故、生死をかけた戦いができるのだろうか。それができるほどの強い動機や目的はどういったものだろうか」ということです。

本音を言いますと「異世界転生」以前に元は一般人「巻き込まれ主人公」が書くのが致命的に苦手で、実際に作品を見てるときはそうはならないのに、いざ自分が書くと「そもそも何で元は一般人だった主人公が、命がけの戦いにすぐに参加できてるのだろうか」「殺したり殺されることへの恐怖は無いのだろうか」っという思考になってしまいます。

そのため「元からその世界で生きてきた」とか「元々、命のやり取りが非日常ではない世界観(ファンタジー世界もしくは世紀末等)」ということで深く考えなくて済む、自発的なタイプの主人公を主に書いてきました。

しかし、読者と同じ目線に立てる、成長を描ける(最初から無双してるのが多いですが)故に親近感が持てると、巻き込まれ主人公には数多くの利点があるのも承知してます。

現時点での構想では主人公は女性で
・現実世界では中3でちょうど受験生
・文武の才能はある方で、努力も怠らないが中々結果が出ない(中の上止まり)
・両親が社会的地位のある職業で、期待が大きくスパルタ教育を受けてきた
・その反動で欲というか負けん気や闘争心が薄く、他人との競争が苦手になる
・故にコミュニケーション能力は高くない。コミュ障一歩手前。
・期待に応えたいという気持ちはあるが、気負いすぎて空回りすることがほとんど
・周囲からの評価は極端で「能力があるのに手を抜いてる」「ノミの心臓」から「平和主義」「繊細で優しい」等
・最終的に無理が祟って事故死or悲観して自殺、そのまま異世界へ召喚される。

とまあ、見事な豆腐メンタル主人公なのですが スタート地点が非常に低い上に明確な目的が無いため、ここからどう戦いの覚悟持たせるかを考えています。
私なりに過去の作品を参考に、いくつかパターンを考えてはみました。

1.実は命のやり取りを何とも思わないサイコパスだった
これは昨今の異世界転生でよく見る気がします。コミュ障故に他人の生き死ににも無関心だから冷酷になれるという(単に描写不足のだけの気もしますが)もしくは生前の無欲さは自分の本質を無意識に抑えつけてたからとか。ここまで書いてなんですが、あまり使いたくはないです。

2.初陣で心をへし折り、修羅ルートへ
私がよく使っていた主人公の過去の挫折や暗い過去を、初陣に持っていき「もう戦うしかないんだ……」と豆腐なメンタルに鞭打っていく。シンジ君かな?

3.戦闘時は別人格が出てくる
異世界転生ですが異能力バトル要素もあるので、能力発動時には好戦的な人格が現れて大暴れするという闇遊戯スタイル。上記の修羅ルートから別人格を形成したパターンや別人格を向き合っていくストーリーにするなど、工夫の余地はありそう。

4.好きな人を守るため
王道のボーイ・ミーツ・ガール。この場合は逆ですが……。他にも修羅からの脱却として新しく芽生えた戦う理由と覚悟としても使えるでしょうか。

と、色々長くなりましたが 「日常から非日常へ変わったときに、主人公はなぜ戦いの覚悟を持てるのか」 これに関して皆さんの意見を聞かせてください。
よろしくお願いします。

上記の回答(主人公が戦う理由ないし戦える理由の返信)

投稿者 あまくさ : 1

スタンフォード監獄実験というのをご存知ですか?
簡単に説明するとこれはアメリカのスタンフォード大学で1971年に行われた心理学実験で、大学生など21人の被験者に看守と囚人の役割をふりわけ刑務所内でのやりとりを演じさせたものです。実験期間は2週間の予定だったのですが、日がたつに従い看守役と囚人役の関係が予想以上に険悪になってしまっため実験継続は危険と判断されて6日目に中止されました。

現在ではこの実験結果について疑問や批判も提出されているのですが、それを本気で議論し始めると長くなるので私見を少しだけ述べておくにとどめます。
批判はこれまで実験結果が誇張され、いたずらに衝撃的に伝えられてきたことへ向けたものなのだと考えられます。しかしこの実験の本質は、一つには集団の中での同調圧力の問題。くわえて人間にはいやな状況に置かれたときに、無意識の自己暗示によって、自分はそういう状況がそれほど嫌いではないのだ、むしろ好きなのだと思い込ませようとする傾向があります。そう思い込むことにより、かなり気持ちが楽になるからです。
おそらくこういう心理は困難な状況に直面した時に自分の心を守るために無意識にスイッチが入るもので、動物としての生存本能なのだろうと思うんですね。

さて。
ここまではご質問について考える上で前提となる人間理解の話になります。簡単に言えば、人間はヤバイ状況に置かれるとわりと簡単に人が変わるものだと捉えておけばよろしいかと。
ただ、コラムやエッセイならば上記の実験などを例に出して説明すればすむでしょうが、小説はそれじゃダメなんですね。ストーリーを通して読者に伝えなければなりません。

そこで、ご質問の文面を読み返してみます。
挙げられている1~4を言い換えると、主人公に異世界で性格が変わったような行動をとらせる要因として、

1.主人公にはもともとそういう素質があった。

3.心の奥底にひそむ魔性(聖性でもよい)の発現。

2.ある状況から逃れるために(この場合は危険への対応)戦わざるを得ない。

4.求めるものを手に入れるために(この場合は好きな人を守りたいという願い)戦わざるを得ない。

順番をわざと変えたのは、1と3は内的要因、2と4は外的要因という共通点があるからです。
戦う理由は1・3と、2・4の組み合わせで作ればよい。そう考えると分かりやすいと思います。

次に主人公の性格設定の箇条書きを見てみますね。
拝見した限りでは内なる魔性・聖性といった要因は示されていないので、1の方が使いやすそうです。1は同じ内的要因でも超自然的な要素がなく、人間的な性格にスポットをあてている点が3と違うんですね。
そう考えると、

A)その反動で欲というか負けん気や闘争心が薄く、他人との競争が苦手になる

B)期待に応えたいという気持ちはあるが、気負いすぎて空回りすることがほとんど

C)周囲からの評価は極端で「能力があるのに手を抜いてる」「ノミの心臓」から「平和主義」「繊細で優しい」等

このへんが使えるのでは?
負けん気や闘争心が薄いのは何か(この場合は両親から受けたスパルタ教育)への反動。
気負いすぎて空回りするというのは、真面目で努力を惜しまない性格であることを示しています。
Cの評価もAに起因する部分が多いわけだし、ストーリーの冒頭で極端な評価が示されるということは、むしろ伏線になります。「能力があるのに手を抜いてる」や「平和主義」を強調するということは、物語の進展とともに主人公のそういう性格が変化していくことを予想させる感じがしませんか?

このように見ていくと構想されている設定は、豆腐メンタルに見える主人公が異世界でヒーロー(ヒロイン?)に変わっていくお膳立てはすでに揃っているように見えますよ。

カテゴリー : キャラクター スレッド: 主人公が戦う理由ないし戦える理由

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投稿日時:

元記事:三人称複数視点の小説においてプロローグだけ一人称にすることについて

はじめまして 三上と申します。
人称について質問させてください。よろしくお願いします。

私は一人称の短編しか書いた経験がありませんでしたが、今回初めて長編に挑戦しようと思っています。
地獄少女のような、主人公と他数人以外は一話毎に登場人物が変わる形式を予定しています。
三人称で視点は主人公と各話毎のメインキャラ一人の半々です。
プロットを作り終えてプロローグを書いたのですが、主人公の境遇に深く関わる内容のため心理描写を多くすると一人称の方がしっくりくるプロローグになりました。
本編は三人称で、プロローグのみ明らかに主人公視点と推測できる一人称にすることについてどう思われますでしょうか。
人称を混ぜるのは御法度と聞きますが、プロローグのみならどうなのかご意見が頂きたいです。

上記の回答(三人称複数視点の小説においてプロローグだけ一人称にすることについての返信)

投稿者 手塚満 : 0

あまくささんがNo: 2で簡潔に、

> 1)読者が混乱しやすい。
> 2)人称や視点が動いたときに、感情移入がリセットされてしまうおそれがある。

とおまとめなのに感じ入りました。似たようなことは考えたりはするんですが、こういう風に2大難点としてまとめることはできてませんでした。

私もご質問文の「人称を混ぜるのは御法度と聞きます」は非常に違和感あります。減点されるルールなんかではちっともなくて、コツの1つに過ぎないわけですから。分かりにくい、読みにくい小説があったとき、往々にして見つかる共通点の1つが「視点移動」ということに過ぎません。

弊害は既にいい解説がありますので、ちょっと違う点について回答を試みてみたいと思います。

> 主人公の境遇に深く関わる内容のため心理描写を多くすると一人称の方がしっくりくるプロローグになりました。

冒頭の内面語りなのであれば、よほどに上手い人でないと高確率で失敗するパターンではないかと思います。

作者はもう主人公についてよく知っています。話を作ったんだから当然ですよね。だから、主人公がいろいろ物思いにふけっても、実感がわき、共感もできる。主人公が単に寝そべって溜息ついても、魅力を感じたりもする。

ですが、読者はどうか。シリーズものの途中でなかれば、冒頭では主人公とは赤の他人状態です。どんな性格、経歴、境遇等々、全く知らない。物語世界も知らない。

そういう状態で読み始めて、心理描写主体の語りを聞かされて(読まされて)、興味を持てたり、面白いと思えるかどうかです。まず無理です。どんなキャラがそう言っているか、の「どんなキャラ」が抜け落ちていますので。

勢い、何を語っているかで魅力を出すしかない。が、非常に難しい。赤の他人つかまえて話を聞かせてみて、2人に1人は感心される自信がある人は、そうそういないでしょう。自信はあっても、やってみて失敗することが多い(自分の話は自分にとっては他人の話の20倍くらい面白いとか、いろいろ理由あり)。

本編開始にどうしても必要であり、かつ面白い語りにできるんなら、プロローグの一人称内面語りを入れてもいいとは思います。

ですが、高確率でブラバされることも念頭に置いておく必要があると思います。冒頭の一人称内面語りを避けられないか、工夫を凝らしたほうがいいと思います。

カテゴリー : 文章・描写 スレッド: 三人称複数視点の小説においてプロローグだけ一人称にすることについて

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投稿日時:

ライトノベル作法研究所管理人うっぴー /運営スタッフ:小説家・瀬川コウ:大手出版社編集者Y - エンタメノベルラボ - DMM オンラインサロン

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