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物語の余韻についての返信

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物語の余韻について(元記事)

先日、評価シートが届きまして、そこに『地の文や台詞に余韻が感じられない。余韻を感じられるようにすればもっと物語に深みが出る』と書かれていました。
この余韻というのはどういうものでしょうか? いえ、なんとなくならわかるのですが、それが果たして正しいのかどうか気になりまして。この疑問に答えを出すべく質問をさせていただいた次第です。

物語の余韻についての返信

投稿者 手塚満 投稿日時: : 5

公募先からの評価が「地の文や台詞」とのことですので、どの部分で余韻が感じられないのか、小説本文を示して頂くのが難しいのでしょうか。余韻にもいろいろありますので、原因が多岐に渡っている可能性もありますよね。
(それでも「小説のタイトル・プロローグ改善相談所」掲示板で冒頭を投稿して相談してみてもいいかもしれません)。

余韻のなさについて、既出の良回答と被る部分もあるですが、思い当たることを列挙してみようと思います。

その前に余韻の意味や効果の確認から。余韻って、例えば寺の鐘がゴーンと鳴って、その後も長くなり続ける音のことですね。聞き続けていることもあれば、鳴り終わったと思っていたら、ふとかすかに鳴り続ける音に気が付いたりもする。

転じて、見たものや誰かが言ったことの、その後が気になるようなことを指すわけですね。小説なら、描写の後にも何かが引き続き起こると感じたり、台詞の後に何を言いたいかを感じたりする。

そういうものが、なぜ必要なのか、ということから考える必要がありそうに思います。なぜ、完全に説明したり、言いたいことを全部言ってしまうと、面白くなくなるのか。これは、書いている人なら心当たりのある現象があります。

考えたことが思った通りに書けていたら、嬉しいですよね。言葉にする前は非言語的なイメージもあったりするんですが、全てを言語化できたら充実感があります。例えば「そうだよ、こういうことが言いたかったんだ」という気持ち。

しかし、作者が言いたいことが全部言えていたら、読者はどうなるのか。ひたすら作者の言うことを聞くだけになってしまいますよね。想像を巡らせる余地がない。言われた通りにイメージするだけになる。読書が作業に堕してしまい、退屈です。

ある(地理担当の)予備校講師さんがTVで授業で行うような講義をやっていました。例えば「小麦の生産量は人口に比例する」と説明し、生徒Aに「世界で一番人口が多い国は、どこでしたっけ?」と問う。生徒Aは「えっと、イン(ここで講師がちょっと首をかしげて見せる)、あ、中国」と答える。講師はニコッと嬉しそうに「そうですねー!」と言い、生徒Bに「じゃあ、小麦生産が世界一なのは?」と問う。生徒Bはそこまでの話を踏まえて、「中国になるはず」と言い、講師がまた嬉しそうに「そうですよねー!」と言う。

そうやっていると、だんだん生徒も面白がってきます。正しく答えられたからだけではないでしょう(質問が簡単すぎますし)。講義に参加し、講義を補完しているという自覚が生じ、充実感が生じるのが大きな理由の一つになるように思います。ちょっと大げさに言えば、「この講義を仕上げたのは自分なんだぞ」という気持ちです。

余韻の効果は、風情とか深みとか曖昧に表現されることが多いんですが、ラノベに関して言えば、読者が物語を補完する、物語に参加する意識が出る、といった効果があるように思います。読者には、キャラに感情移入して欲しい、できればキャラになり切って物語を味わって欲しいわけですから、単なる見物客ではまずいわけです。だから、物語に参加してもらい、特に完結させる喜びは読者に譲る必要があります。そのための手法の一つが余韻であるわけです。

大事なことなので簡潔に繰り返しますと、「言いたいことを書き切れたら面白いわけだから、その面白さは読者に譲ろう。それが面白くするコツだ」ということになります。

余韻の大事さはこれくらいにしまして、どうして大事な余韻がなくなってしまうか、いくつかケースを考えてみます。

1.説明し切ってしまう
上述しましたが、キャラの行動・言動が完了してしまうという、おそらく最もよくある現象です。ご質問文を小説本文と考えて、例にしてみます。

> いえ、なんとなくならわかるのですが、それが果たして正しいのかどうか気になりまして。

「なんとなくならわかる」わけですよね。「なんとなく」なんですから、はっきりはしていないことが読み取れます。質問ですからはっきりさせる必要があって、「果たして正しいのかどうか」と続けるわけですが、これがキャラの台詞だったらどうでしょうか。

「いや、なんとなくなら分かるんだけど」

としてしまってもいいですよね。すると、「だけど」の逆接の後に何が言いたいか、自然と想像を働かせたくなります。

もし、キャラが続けて「果たして正しいのかどうか気になって」と言ったら、読者の気持ちは「ふんふん、なるほど」でしかありません。正確に言えば、「気になって」で途切れてますので、その続きは読者が補完します。

ですが、「分かるんだけど」で切ったほうが、補完できる幅が広がりますよね。質問ではまずいわけですが、小説でなら有効です。その後の展開でどうだったのか示すことも可能ですし、逆に小説の最後の台詞であれば、「完」の後で起こることを想像したくなります。

技法的には、台詞や地の文の末尾を「……」や「――」にする手法がよく知られています。明示的に「この後に言いたいことがあるが言わない」と示すものですね。

2.逆に中途半端すぎる

もう一度、同じ部分。

> いえ、なんとなくならわかるのですが、それが果たして正しいのかどうか気になりまして。

話をひっくり返すようですが、実は決定的に足りない部分もある。どう「なんとなくならわかる」のか、です。仮にこれが冒頭の台詞だとすると、想像のしようがありません。

余韻を残すには、おおむねですが「八割分かって、二割分からない」必要があります。必要な情報のうち、半分くらいしか出していないのでは、想像の余地がありすぎて、余韻どころではなく、むしろ混乱を招いてしまいます。

3.場面転換が速すぎる

例えば、「ヒロインが主人公のデートの誘いにちょっと戸惑った→いきなりヒロインが車にはねられた→車からテロリストが降りて来て銃乱射→…」と一気に話を進めたら、ヒロインがデートの誘いにどう思ったか、読者が考えてる暇はないですよね。

小説を読み進めてもらいたいあまり、目立つイベントを矢継ぎ早に出すと、余韻がなくなります。要は読者を振り回してしまうということです(話の展開でそういう狙いがあるなら、余韻は諦めるべき。余韻は常に必要なわけではない)。

4.シーン接続が密すぎる

上記3の逆です。1と同じことで、時系列でシーンを並べ、各シーンの間に時間経過がないと、シーン間で何かが起こったかどうか、迷わなくなり、想像も働かせなくなります。

5.シーン間が飛びすぎる

上記4の逆で、2と同様です。シーンの時間をあまりに空けたり、無関係な場所に変えてしまうと、シーン間で何かがあったかどうか気にならなくなり、読者が補完しなくなります。

6.シーンの同時並列進行を用い過ぎる

シーンというよりイベントと言うべきかもしれません。例えば、メインキャラA、Bが別行動を取り、「Aがこうした→その頃、Bはこうした」みたいなストーリー進行を用いることがあります。これ自体は、読者の補完、想像力を喚起させ得る手法です。Aのシーンのとき、Bはどうしているか考えたりしますから。

しかし、2つのシーンの同時進行なら大丈夫かもしれませんが、3つ、4つと増えてくると、読者は情報整理に追われ、ついにはお手上げになってしまいます。結果、作者の説明をただ聞くだけになってしまう。あるいは、3で申しましたような速すぎる切り替えで、同時進行シーンが細切れ過ぎる場合も同様です。要は、作者にしか分からなくなる。

思いつくものを挙げてみましたが、これ以外にも余韻が感じられなくなる要因はいろいろあると思います。ただ繰り返しですが、余韻は必ず必要なものではありません。比喩と同じく、使いすぎると嫌味な感じになりかねませんので、スパイスのつもりで少量用いればよいと思います。

カテゴリー : 文章・描写 スレッド: 物語の余韻について

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