オミクロンです。現在進行形で執筆中の長編も、終盤に差し掛かってまいりました。皆様の温かい助言あって、ここまでこれたと思います。此度もまたいくつか助言を頂きたく、ここに投稿させていただいた次第です。よろしくお願いいたします。
本題に入らせていただきます。まず一つ目の質問は、「主人公在籍での三人称多元視点メインの可否について」です。
物語のある決定的な出来事から、当初は主人公一人称視点の基本文体(地の文)から、三人称神視点に基本文体がシフトします。そしてさらなる決定的な出来事による主人公復活まで徹底しているのです。ですが主人公は死亡も離脱もしていないのです。
主人公を主人公から一時的に引きずりおろし、主人公含む中心人物の人間関係を主人公に据えるといえばいいでしょうか。私はこれを「主人公が自分自身すら見失う」のと、「主人公以外の人物の掘り下げ」という理由で使用しております。
ここで問題なのが、主人公という存在がいながら、全体俯瞰のような視点が長く(おおよそ20万字ほど)続くということです。もちろん主人公が復活した後は、基本主人公の一人称視点に戻ります。さらに復活直後に「自分自身すら見失っていた」という主人公の独白(地の文)が入ります。
皆様に評していただきたい一つ目は、この技法はありか、なしか。という点です。もちろん忌憚なき意見もお待ちしております。
次なる質問に参ります。内容としては「一人称視点で恣意的に五感情報を書かない技法はありか、無しか」という点です。似通っていて申し訳ありません。
一人称視点における五感情報の重要性については重々把握しています。視覚のみならず嗅覚、聴覚、触覚、味覚を過不足なく文章に組み込むことにより、情景描写がよくなることは承知の上です。
ですが先述の「自分自身すら見失っていた時期」や、「蛇足のため省略したさほど重要でもない時期」に度重なる無茶を主人公は重ねます。その結果、主人公から五感情報が徐々に失われ、最終的には色彩以外の視覚と聴覚以外を全喪失します。
要は徐々に痛覚(感覚)が薄れ、味を感じなくなり、匂いが区別できず。色彩すら失われていくのです。
これももちろん終盤で人物会話でネタばらしをします。ですがそれまでは完全シームレスに五感情報を著しく欠いた一人称視点文章が続きます。皆様に評していただきたいのは、この技法の是非についてです。
最期の質問に参ります。これは技法とは関係がありません。単純に意見を募りたく書きました。内容としては、「人間はどんな存在に対して絶対的な不快感を抱くか」という内容です。
ここで書いた「不快感」の意味において、五感情報や容姿、因縁は関係ありません。一片の対話の余地もなく、微塵の躊躇もなく「排除」したくなるような感覚です。
憎悪であり、嫌悪であり、軽蔑でもあり、不寛容でもあります。作品中にも書いていますが、まさに「不倶戴天の敵」という意味です。
私はこの理由に、「自分とはほんの少しだけ、だが決定的に違うIFの姿」という同族嫌悪のようなナニカを理由に据えました。分かりやすくするのなら、Fateのエミヤが衛宮士郎に抱く感情を、逆に衛宮士郎がエミヤに抱いている。とでも言えばいいのでしょうか。
ですが個人的にはもう一押し「絶対的な不快感」の理由が欲しいところです。なにかアイディアがあれば教えていただけると幸いです。
以上です。よろしくお願いいたします。後、私自身が少々繁忙期に入った関係により、返信が非常に遅れる可能性があります。ご容赦ください。
風邪やら体調やらでしょっちゅう味覚がおかしくなって家族に作った料理の味について突っ込まれるhexaです。母親も似たようなことやらかすんだけど、それが笑えなくなってきた……。
>主人公在籍での三人称多元視点メインの可否について
主人公がまともに動けてない状態なら、仕方ないというかそれは普通にありえることだけど。
ただ、以前からのオミクロンさんの描写方法に関しては、少し疑問がある。一人称で自分のことを「自分」と表現し、三人称多元視点で視点の切り替えが頻繁にある。以前話を伺った限りでは、この三人称多元視点を実際に存在する神の視点とみなしたいみたいだけど、それがそうと明かされる前がおそらく長すぎて、読者がずっと混乱し続けている可能性がある。そこが心配といえば心配。
20万字くらいの間だったら、時折短いシーンで主人公の引きこもり状態での独白が時々挿入されてもいいかもしれない、とは思っているけれど。しつこいけれど一人称を「自分」にしていると、その切り替えがうまく読者に分かってもらえるか、やっぱり少し心配だったり。
>一人称視点で恣意的に五感情報を書かない技法はありか、無しか
ありだとは思うけれど。引きこもり状態ってことなら逆に五感を遮断気味になってやっぱり普通に心理描写のみの独白のようになると思うけど。でもこれも、長くないほうがいいだろうという気がしている。
ナチュラルに狂気の世界に入っていく気がするからな……読者に「主人公の絶望を伝える」のはいいけれど「狂気を共有させる」のがいいことかどうかは、ちょっとわからん。ちなみに読者以上に執筆者のほうが耐えられなくなる可能性があるから、オミクロンさんが耐えられるならそれで構わんとしか。
サタンさんの言うように、じわじわ迫っていくところまではむしろわりと書きやすいくらいだと思うけれど。完全にあっちの世界に行ってしまった状態を長く書き続けるのはやっぱり微妙だと思う。それこそ他者視点の出番ですとしか。
篠原千絵の「闇のパープルアイ」では、主人公がだんだん自分の味覚が変化していく様子がじわじわと描写されている。この人小説も書くだけあって、主人公の独白が上手いんだよねー。キャラの視点がしっかりしたブレていないセリフが多いうえに、殺人事件などでの大量虐殺を取り扱う思い切りの良さも持っている。解説本で「乱暴な言い方になってしまうけれど、非常にエンタメ性が高い」と評されていたけれど、エンタメ性を追求するってここまで技量がいるもんなのか、と思わされる作家さんです。
あと、聞いただけでやったことはないんだけど「さよならを教えて」というゲームがマジで狂気の世界(精神科病棟に入院するレベルの患者の視点)を描いているので、精神的にやばい状態の人がやるのはおすすめしないヤバゲーだったという噂がある。そういう意味でもリアルすぎる狂気の描写はあまりおすすめできん気がしている……。
>人間はどんな存在に対して絶対的な不快感を抱くか
「絶対的な」というもの自体がそもそもあり得ないんじゃないか、と思っています。
あくまでその人物の主観でしかないと思う。その人物になりきって考えてみてはどうかと。
自分の場合ですか?……すみません、口に出すのも嫌なので言いたくないです。それに該当してしまう人を不快にさせたくないから。うっかり言って、それが自分が仲良くしたい人が「俺もそういう人なんだけど」とポツリと言われた時の気まずさといったらもう……
でも、ジョジョでいうところの「吐き気を催す邪悪」てのが、一般的には受け入れられやすい絶対悪じゃないのかなーとは思う。