真面目系クズを好きになれない場合の返信
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キャラを好きになれない場合(元記事)
自分や他人の創作したキャラを心から好きになることができません。
以前、同人活動をしていたのですが、一度勢いで本を出してからはそのうちまた出すと言いつつ、三年が経過した今も作る予定は決まっていません。
自分の周囲の人間は(好きになったジャンルの過激さゆえかもしれませんが)2時間くらいの映画を観て1万文字ほどの感想が書けたり、数千字に及ぶ小説を継続的に執筆してもまだ頭の中に描き足りないものがあったりと、愛や発想力については目を見張るものがあります。
対して自分はそれらを観ても友人のように「しんどい」だの「無理」だのといった変な感情が生まれてこないばかりか、他の人が観て涙を流すようなシーンでは特にピンと来ない有様です。友達の「解釈」を聞いて理解することはできても、それによってそうした感情が出てくる訳でもありません。
自分がキャラ絡みで作品を好きになる時というのは、単に絵柄が可愛い時だとか、シチュエーションが気に入った時であり、「そのキャラに固有の経験や言動」を読み取って感動したことは一度としてない気がします。
また、情緒不安定なのか誰も気にしないようなシーンで泣くことはあるし、映像や物語の技法を読み取れた時は得意になる時もありますが、それらは感動に内包されるものではあってもその種の感動のごく一部のものに過ぎないように思えます。
自分がこの種の感動を味わうことができないのは、何か心にタガやブレーキのようなものでもあるか、それとも根本的に自分にそうした感受性が欠落している/育っていない可能性があり、感受性を今からでも養えるものなら養いたいと思っています。
絵柄やシチュエーションだけではその本人を好きになる意味は薄いでしょうし、少なくとも長期的に創作をするモチベーションにはなりません。どれだけ自分の趣味嗜好を盛り込んだキャラクターを作っても、その数奇な人生やお洒落な雰囲気に心揺さぶられるような感性を持っていなければ、キャラ文芸の一番の強みを自ら捨てて縛りプレイをしているようなものだと思います。
自分の他にも同じようにキャラを熱狂的に好きになることのできない友人がいて、その人はライトノベルで仕事を貰っています。でもその人は小説を書くことそれ自体を好きになって続けています。自分のように「自分の求めるものが存在しないから自分で書くしかない」という理由で小説を書いている人とは人種が違う気がします。
物語そのものがとりたてて好きという訳でもなく、設定をその中で動かすモチベーションも長続きしないとなれば、創作をする限り自分の心は死んでいくばかりだとさえ思えます。
自分には感受性なるものをまだ得る余地があると考えたいです。どのようにすればそれを手に入れることができるでしょうか。
真面目系クズを好きになれない場合の返信
投稿者 ごたんだ 投稿日時: : 0
昔の日本は『書生』なる名前の『ニート』を飼う文化がありました。
昔は本が貴重で本好きは『ニート』が好きでした…
昔の文豪は、体が弱いはずなのに山登りと釣りだけは好きで、本好きの金持ちも例に漏れずアウトドアです。
昔の書生は明らかに『真面目系クズ』が多く、完全にサイコパスだろって、ツッコミたくなる生体も数多くいます!
昔の日本は、そういった若者をヤマハラ、ウミハラで連れ出し「この光景を見て感動出来るなら、何も問題は無いよ…」みたいなことを横からボソボソと挟むのが、通貨儀礼というか文化としてあったのですが…廃れました。
私が思うに日本人というものは、足を使って初めて漢字精を得れる生き物で無いかと、それが次郎であったりしますが、
もし商売敵として「ライトノベルサッカー」が「万我華」に負けるとすれば、そういった分野でしょう!!!
それは“漢字精”と言うものでなく、如何にして脳に血液を送るかと言う話しです。
“万我華”は勿論、絵を描く以上手を動かします! なら文屋は?
昔なら字を書きましたが、今ではどうです??
スマホやパソコンの電磁波はシナプス的に悪影響を与えるようです!
文屋は足りない部分を足を使って補わないと、万我華に比べ劣った人生、劣った人格、劣った作品を生み出す存在に成り果てるのではないか…?
そんな危惧を抱いてなりません…
実際に業界人には、そういった危惧があるか分かりませんが、いえ、きっとあるでしょう!
自転車で移動、ツーリングする人間が多いです。
これはスピードこそAIにとっての感受性だと暗に言っいるように、私には感じざる負えません!(あばれる君風)
後、ここの住人は「真面目系クズ」が多く、馬鹿にされる時も暗に「これだから、真面目系クズがっ!、ハッ!!!」なんて揶揄われているように散見されますね!!!!
カテゴリー : やる気・動機・スランプ スレッド: キャラを好きになれない場合