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キャラを好きになれない場合 (No: 1)

スレ主 sn 投稿日時:

自分や他人の創作したキャラを心から好きになることができません。

以前、同人活動をしていたのですが、一度勢いで本を出してからはそのうちまた出すと言いつつ、三年が経過した今も作る予定は決まっていません。

自分の周囲の人間は(好きになったジャンルの過激さゆえかもしれませんが)2時間くらいの映画を観て1万文字ほどの感想が書けたり、数千字に及ぶ小説を継続的に執筆してもまだ頭の中に描き足りないものがあったりと、愛や発想力については目を見張るものがあります。

対して自分はそれらを観ても友人のように「しんどい」だの「無理」だのといった変な感情が生まれてこないばかりか、他の人が観て涙を流すようなシーンでは特にピンと来ない有様です。友達の「解釈」を聞いて理解することはできても、それによってそうした感情が出てくる訳でもありません。

自分がキャラ絡みで作品を好きになる時というのは、単に絵柄が可愛い時だとか、シチュエーションが気に入った時であり、「そのキャラに固有の経験や言動」を読み取って感動したことは一度としてない気がします。
また、情緒不安定なのか誰も気にしないようなシーンで泣くことはあるし、映像や物語の技法を読み取れた時は得意になる時もありますが、それらは感動に内包されるものではあってもその種の感動のごく一部のものに過ぎないように思えます。

自分がこの種の感動を味わうことができないのは、何か心にタガやブレーキのようなものでもあるか、それとも根本的に自分にそうした感受性が欠落している/育っていない可能性があり、感受性を今からでも養えるものなら養いたいと思っています。

絵柄やシチュエーションだけではその本人を好きになる意味は薄いでしょうし、少なくとも長期的に創作をするモチベーションにはなりません。どれだけ自分の趣味嗜好を盛り込んだキャラクターを作っても、その数奇な人生やお洒落な雰囲気に心揺さぶられるような感性を持っていなければ、キャラ文芸の一番の強みを自ら捨てて縛りプレイをしているようなものだと思います。

自分の他にも同じようにキャラを熱狂的に好きになることのできない友人がいて、その人はライトノベルで仕事を貰っています。でもその人は小説を書くことそれ自体を好きになって続けています。自分のように「自分の求めるものが存在しないから自分で書くしかない」という理由で小説を書いている人とは人種が違う気がします。
物語そのものがとりたてて好きという訳でもなく、設定をその中で動かすモチベーションも長続きしないとなれば、創作をする限り自分の心は死んでいくばかりだとさえ思えます。

自分には感受性なるものをまだ得る余地があると考えたいです。どのようにすればそれを手に入れることができるでしょうか。

カテゴリー: やる気・動機・スランプ

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キャラを好きになれない場合の返信 (No: 2)

投稿者 あまくさ : 0 No: 1の返信

投稿日時:

>また、情緒不安定なのか誰も気にしないようなシーンで泣くことはあるし、

>自分には感受性なるものをまだ得る余地があると考えたいです。

誰も気にしないようなシーンで泣くのであれば、スレ主様には感受性が無いのではなく、心に刺さるポイントが他人と異なっているということだと思います。
そしてそれは直さなければいけないことではありません。むしろスレ主様独自の感性を大事にする方がよいと思います。

スレ主様は他人と感じ方が違うことにひるみ、自信を持てないでいるだけではないでしょうか?

>絵柄やシチュエーションだけではその本人を好きになる意味は薄いでしょうし、

そんなことはありません。
現実の人間関係でも、他人の心の中なんて見えないじゃないですか。見えるのは姿や行為だけで、そこからその人の内面性を想像しているだけなんです。

小説やアニメではキャラクターの心の動きを、あたかも自明なことのように描きます。しかし、それは作者の作為に過ぎず、プロや上級者は実はテクニックでそれを読者に納得させてしまっているんですよ。しかし、そういう作為性がわりと見え透くこともあり、私だって他人の作品を読んだり観たりしていて、「ここで感動させようとしているな」と思うだけでまったく感動できないことはよくあります。逆に、何でもないところで他愛なく泣いてしまうこともあります。

スレ主様が他の人が感動するようなところで感動できず、別のところで泣かれるのだとしたら、むしろそここそが創作者として重要な資質に触れている部分なのではないでしょうか?

他の人が感動しがちな部分と、スレ主様が心を動かされる部分の特徴を冷静に分析・比較し、どこが違うのかを検討してみることをお勧めします。
ご自分の心そのものを変える必要はありませんし、むしろ変えちゃいけないんだと思いますよ。

キャラを好きになれない場合の返信 (No: 3)

投稿者 サタン : 2 No: 1の返信

投稿日時:

無いから作るという人は、成長が遅いことがあると思うからそれじゃないかな。
まあ、有るものを作ってもしょうがないから基本的にはみんな無いから作るんだけど、例えば「自分が書いてきたモノの中に流行ものが無いから作ってみる」とか、これだって無いから作るわけで。
でもスレ主さんが言うこととは違うだろうと思う。
スレ主さんの場合は「世の中に存在しないから作る」という感じだろう。
存在しないから作ろうという場合なぜ成長が遅いかというと、そもそも作品の目標も参考も存在しないために手探りになってしまいがちだから。
だから、例えば「真似して作る」といった事ができないし気持ち悪さを覚えてしまうんじゃないかな。

これは持論だけど、「自分が求めてるものが存在しないから作る」というのは生涯の目標にするようなことで、短期的な目標にはするべきではない。
なぜなら、どうあっても創作は真似から入るものだし求めてるもの(目標)が存在しないと形になりにくい。
だから自分が求めてるものに近いものを参考にして、そこへ近づいていくって行程を踏む。
すでに存在するものを参考にしながら、最終的にたどり着けるような生涯の目標ではないかなと思う。

感受性については、なんとも言えないな。
感受性を鍛えたいなら感受性が動くようなことをしまくるしかない。筋トレと同じ。
でも正直、私には感受性が原因ではないように思える。
そもそも、スレ主さん、漫画や小説を読むのが好きな人で、作るのが好きな人ではなくないか?
決めつけてるようで悪いのだけども、「求めてるものが無いから作る」タイプは自分が読みたいからって事が多い気がするのよね。
読むのは読者で作者ではないって当たり前のことに気が付けないから、根本的なところで躓いてて、それを感受性のせいにしてる気がする。
まあ、別に創作の動機になればなんでも良いとは思うのだけど、もし「書くより読むのが好き」なタイプなら、心を殺して既存作を真似しまくるしかないと思うよ。

キャラを好きになれない場合の返信 (No: 4)

投稿者 通りすがり : 1 No: 1の返信

投稿日時:

多くの人がネタバレを嫌がりますが、ネタバレを全く気にしない人も世の中には一定数います。もちろん嫌がらせでネタバレする人もいますが、素でネタバレする人もいます。これって脳の仕組み的な話で面白いと思うポイントが違うのが理由らしいです。
ネタバレを嫌う人は真相を知った時のカタルシスを楽しみますが、ネタバレ平気な人は全てが分かった上でストーリーや演出による伏線を確認して楽しむそうです。なので同じ映画を何度観ても苦にならないとのこと。
これはもう脳の仕組みが違うのでどうにもならないと思いますが、ふと想像してみるとネタバレ平気な人が細部にまで拘って作った映画の方が面白そうな気がします。

何が言いたいかと申しますと、人とは違う視点、違う感性は思わぬ可能性を秘めていると思うので、見方を変えればそれは武器なのではないでしょうか。
例えば今人気のミステリィと言う勿れなんかは違う視点、切り口で人気を博してると思います。もちろん主人公の言動を屁理屈と感じて面白くないと言う人もいますが。

みんなと一緒になりたいという相談に対しての回答としては無責任かと思いますが、違うままでもアリなんじゃないでしょうか。

キャラを好きになれない場合の返信 (No: 5)

投稿者 ふ じ た に : 0 No: 1の返信

投稿日時:

スレ主様のご質問の文章の中で、「他の人はこれだけ出来ている。でも自分はそうじゃない。その人たちに比べてそれほど好きじゃないから、自分は他の人と違うから、創作活動が続かない」ような内容だったので、他人と自分を比較しすぎな気がしました。

創作活動は、優秀な周りと比べ続けちゃうと、自己否定に繋がって、やりづらくなると思いますよ。
あくまで趣味で創作するなら、自分のやり方で、自分のペースで、自分の好きを極めてもいいのでは?って思いました。

あと、人が作品の何を好きになるのか人それぞれなので、キャラ萌えできなくても、創作はできるかなって思いました。
設定が好きな人は、設定にこだわって物語を作っている人もいますよー。

私の場合、アウトプットしたいという欲求が自分の中にあったので、行動に移して、書ききった感じです。キャラが好きよりも、この欲求が重要かなって個人的に思いました。
ちなみに私の場合、他の作品を読んでいくと、書きたくなる欲求が強くなったので、何か参考になれば幸いです。

キャラを好きになれない場合の返信 (No: 6)

投稿者 迷える狼 : 0 No: 1の返信

投稿日時:

私の個人的な考えでざっくり言っちゃいますが……。

他人の作ったキャラクターが好きになれないのは当然だと思います。人にはそれぞれ好みがありますから。
万人受けすると思われても、ハンバーグが嫌いな人や、カレーが嫌いな人は居ます。それと同じ事です。

ただ、自分で考えたキャラクターが好きになれないというのは、作家としてはどうなのと言う気がしないでもありません。

逆に言うと、

「厨二病だろうが1人よがりだろうが何だろうが、それなら自分の好きな様にキャラクターを作っちゃえば良いじゃん」

と、思います。
例えるなら、「デビルメイクライ」(カプコン)の「ダンテ」みたいに、

「イケメンでクールでニヒルでスタイリッシュで、その上めちゃ強くて良い奴」

という、完璧超人みたいなキャラでも良いんじゃないですかね。アメコミなら、文字通りの「スーパーマン」みたいなキャラ。

逆に、「嫌いなタイプのキャラだから動かしやすい」って人も、居るには居ます。けど、それは例外だと思います。

結局、自分の好き勝手にやりゃあいいんですよ。作品って、ある意味でその作者のエゴですからね。
私は、自分の好きな様にキャラを作って、好きな様に動かしていますよ。

自分が好きになれるキャラクターを作れば良いんです。考えるのは自分なんだから。

他人のキャラに関しては、個人の好みなんだから合わないならそれで良いんじゃないですか。無理に好きになってどうするの?って思います。

ぶっちゃけた話、私は「ルフィ」や「ナルト」って、主人公だけど大嫌いですよ。だけど、「ワンピース」や「ナルト」の作品自体は嫌いじゃないです。

そういう事なんじゃないでしょうか。

真面目系クズを好きになれない場合の返信 (No: 7)

投稿者 ごたんだ : 0 No: 1の返信

投稿日時:

昔の日本は『書生』なる名前の『ニート』を飼う文化がありました。

昔は本が貴重で本好きは『ニート』が好きでした…

昔の文豪は、体が弱いはずなのに山登りと釣りだけは好きで、本好きの金持ちも例に漏れずアウトドアです。

昔の書生は明らかに『真面目系クズ』が多く、完全にサイコパスだろって、ツッコミたくなる生体も数多くいます!

昔の日本は、そういった若者をヤマハラ、ウミハラで連れ出し「この光景を見て感動出来るなら、何も問題は無いよ…」みたいなことを横からボソボソと挟むのが、通貨儀礼というか文化としてあったのですが…廃れました。

私が思うに日本人というものは、足を使って初めて漢字精を得れる生き物で無いかと、それが次郎であったりしますが、

もし商売敵として「ライトノベルサッカー」が「万我華」に負けるとすれば、そういった分野でしょう!!!

それは“漢字精”と言うものでなく、如何にして脳に血液を送るかと言う話しです。
“万我華”は勿論、絵を描く以上手を動かします! なら文屋は?
昔なら字を書きましたが、今ではどうです??
スマホやパソコンの電磁波はシナプス的に悪影響を与えるようです!

文屋は足りない部分を足を使って補わないと、万我華に比べ劣った人生、劣った人格、劣った作品を生み出す存在に成り果てるのではないか…?

そんな危惧を抱いてなりません…

実際に業界人には、そういった危惧があるか分かりませんが、いえ、きっとあるでしょう!
自転車で移動、ツーリングする人間が多いです。

これはスピードこそAIにとっての感受性だと暗に言っいるように、私には感じざる負えません!(あばれる君風)

後、ここの住人は「真面目系クズ」が多く、馬鹿にされる時も暗に「これだから、真面目系クズがっ!、ハッ!!!」なんて揶揄われているように散見されますね!!!!

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タイトル:キャラを好きになれない場合 投稿者: sn

自分や他人の創作したキャラを心から好きになることができません。

以前、同人活動をしていたのですが、一度勢いで本を出してからはそのうちまた出すと言いつつ、三年が経過した今も作る予定は決まっていません。

自分の周囲の人間は(好きになったジャンルの過激さゆえかもしれませんが)2時間くらいの映画を観て1万文字ほどの感想が書けたり、数千字に及ぶ小説を継続的に執筆してもまだ頭の中に描き足りないものがあったりと、愛や発想力については目を見張るものがあります。

対して自分はそれらを観ても友人のように「しんどい」だの「無理」だのといった変な感情が生まれてこないばかりか、他の人が観て涙を流すようなシーンでは特にピンと来ない有様です。友達の「解釈」を聞いて理解することはできても、それによってそうした感情が出てくる訳でもありません。

自分がキャラ絡みで作品を好きになる時というのは、単に絵柄が可愛い時だとか、シチュエーションが気に入った時であり、「そのキャラに固有の経験や言動」を読み取って感動したことは一度としてない気がします。
また、情緒不安定なのか誰も気にしないようなシーンで泣くことはあるし、映像や物語の技法を読み取れた時は得意になる時もありますが、それらは感動に内包されるものではあってもその種の感動のごく一部のものに過ぎないように思えます。

自分がこの種の感動を味わうことができないのは、何か心にタガやブレーキのようなものでもあるか、それとも根本的に自分にそうした感受性が欠落している/育っていない可能性があり、感受性を今からでも養えるものなら養いたいと思っています。

絵柄やシチュエーションだけではその本人を好きになる意味は薄いでしょうし、少なくとも長期的に創作をするモチベーションにはなりません。どれだけ自分の趣味嗜好を盛り込んだキャラクターを作っても、その数奇な人生やお洒落な雰囲気に心揺さぶられるような感性を持っていなければ、キャラ文芸の一番の強みを自ら捨てて縛りプレイをしているようなものだと思います。

自分の他にも同じようにキャラを熱狂的に好きになることのできない友人がいて、その人はライトノベルで仕事を貰っています。でもその人は小説を書くことそれ自体を好きになって続けています。自分のように「自分の求めるものが存在しないから自分で書くしかない」という理由で小説を書いている人とは人種が違う気がします。
物語そのものがとりたてて好きという訳でもなく、設定をその中で動かすモチベーションも長続きしないとなれば、創作をする限り自分の心は死んでいくばかりだとさえ思えます。

自分には感受性なるものをまだ得る余地があると考えたいです。どのようにすればそれを手に入れることができるでしょうか。

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