私は本を読むのが苦手です。
しかし、世の中の小説家を目指す人は必ず本をたくさん読んでいますし、小説家の人も読むべきだと言っています。
しかし、私は読む気にはなれません。まずお金がないです、「本は千冊読むべき」と言いますが、そんなお金はありません。時間もありません、千冊読むのにどれだけの時間がかかるのでしょうか?学生、さらにはもうすぐ就職する年齢なのにどうやって時間を取ればいいのですか?
そもそも他人の考えを見るのが嫌です。他人の書いた作品、千冊となれば昔の作品にも触れなければならない。ですが、私は現実で色々事情を抱えている以上、それを本の中で馬鹿にされたり否定されたりするのに耐えられません。過去の嫌な出来事や歴史を見ることができません。
どうしても、そんな地獄を千冊も繰り返すなんて難しいです。それでも私は小説家になりたいのですが、小説家になる為には「本を読む」という生き地獄を体験しなければならないのですか?これは必ずやらなければならないのですか?
今までのスレ主さんのご質問も拝読してみてですが、きつい回答になります。結論を簡潔、端的に申せば、
「今すぐ断筆すべき。でないと自他を害することになる」
です。
ご質問が最初から小手先のことばかりお尋ねですよね。あるいは自然を完全悪にするにはどういう言い回しをすればいいか、とか。自然を悪役にするのは、スレ主さんも哲学的と仰る通り、難しい問題です。どんな哲学者も自然を悪とした試しはないでしょうから、極めて難しい問題です。
しかしフィクションですから、哲学的な回答とまではいかなくてもいい。もしかしたら可能かもしれない。しかし依然として高度に難しいテーマです。もう読者が「なるほど、そうだね」という気になるようなストーリー、ドラマを構想出来たら、凄いことです。
問題は、それをしれっとお尋ねである点です。作者が作品の最大級のウリになりそうなことを、どうしたらいいかと聞いてしまう。こうなると他人に代筆させるも同然の態度です。作者たらんするなら恥じ入るようなことです。
しかも、です。言い回しなんですよね。言い方ひとつで何とでもなると思っていらっしゃる。哲学的などと言いながら、極めて安易。どうやればいいか、いちいち聞いてはやってみる悪癖がついにそこまで行っちゃったのかと不安になります。
でもそういう方は、スレ主さんお一人ではない。よくいるんです。この掲示板だけでも、そういう傾向があるんじゃないかと不安になる方が、何人もお見えでした。以下のような段階を経て、消えていきます。
(分かりやすいよう具体性を持たせてますんで、必ずしもピッタリ当てはまらないものになります。)
1. こういう作品が書きたいんだと大雑把に質問する。
2. こういう出だしから、どうつなぐかと細かいことを聞き始める。
3. 誰も読んでくれないと嘆いて、読ませるにはどうしたらいいか聞く。
アドバイスを受けているうちに、なぜそのアドバイスが実行不可能か説明するようになる。
(4. アドバイスした奴のせいだ、お前のせいで私はこんなに苦しんでるんだと言い始める。)
スレ主さんはもう3まで来ているようです。わざわざ自分に難しい小説練習法を探し出してきて、これができないと仰り始めた。その練習法をやってみた形跡はなく、想像だけで不可能と主張されてお出でです。
これを続けると、できない理由を探し出す癖がつきます。言い換えれば、失敗する癖がつくのです。たとえ、うまく行き始めることがあっても、この悪癖が邪魔をするようになります。うまく行かない可能性にひたすらすがるようになる、と言ってもいいでしょう。
その後、高確率で周囲を非難し始めます。うまく行きそうな人、行っている人の足を引っ張るようなこともしたくなります。このことは、趣味の小説の執筆に留まらなくなります。仕事でも同じことをやらかしてしまうようになる。何事かに上手く行っている人は卑怯だと感じるようになってしまっていますから。
(からかってるのか、あるいは脅しかと思われるかもしれませんが、複数の実例をもとにしています。自分は小説を書きたい、書けると思い込んだために、生活苦に陥った人を何人か実見してます。小説家以外では翻訳家志望も同じような悲惨な事例を見ました。「家」がつく職種は要注意かもしれない。)
ですので、引くなら今です。就職で忙しくなるのは、むしろ幸運です。そっちにかかりきりになったほうがいいでしょう。断筆したって、自分が自分のやることを決めただけです。身の回りが落ち着き、生活が順調にいくようになったら、まだ小説を書いたっていい。誰にも迷惑はかかりません。誰に遠慮する必要もない。
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千冊読め、という練習法のご質問についても少し。自分の知る限り「好きなジャンルを千冊読め」です。この場合、好きなジャンルとは、作者としての方向性、つまり自分が書きたいジャンルになります。
それくらいやらないと身に着かない、というだけのことです。身に着くって、無意識にやれるということです。例えば、目の前にある何かを手に取ろうとして、「肩関節をこうまげて、ひじの角度はこうして」とか考えません。「これを手に取ろう」と思えば、後は無意識のオートで手が動いてくれます。
小説の執筆でも同じです。だいだいどう書いたらいいかくらいは、考えずに文章が出てこないといけません。その後、推敲に推敲を重ねるわけですが、最初の草稿くらいは、シーンを思い描いたら、自然に文章が出てくるくらいでないと、小説を書き続けるのは難しい。とりあえずの叩き台が出来る前に疲れ切っちゃいますから。
それが千冊読め、ということ。あるいは1万時間やれ、というコツです。しかも、その千冊読むのは、読む作品を面白がれる人ほど難行苦行になります。楽しんで読んじゃいけないからです。楽しく読むと、「あー面白かった」で終わります。書く技術は何も残らない。シーンさえ思い浮かべられたら、どう書いてあってかなんてどうでもいいですから。
しかし、それじゃ小説の創作練習としてはマズい。どう書くが問題ですから。楽しみそうになる自分を抑え込み、「こう書いてあると、読んでこういうイメージが浮かび、こういう感情が湧き」とシミュレートしないといけません。言い換えれば、(仮想的な)読者がどう楽しむかを観察するのであって、読んでいる自分は何の感情を抱いてもいけないのです(感情が動くと理性が抑え込まれる等の理由)。
それでも、読んで面白いという気持ちを抑えきれないなら、作家は諦めて読書家になるしかありません。好きなものを好きなままで好きなものを描くと、他人が楽しめるものにならないのです。好きになる前から好きになっていく過程を見せないと、魅力は伝わりませんから。好きだという結果、感想しか書けないなら、作者には向きません。
面白いと思わない作品なら比較的容易なんですけどね。自分は楽しめないけど、好む人が多い作品って、分析はしやすい。好きな作品だと大変ですよ。例えるなら、猛烈な空腹状態で、つまみ食いもせずに、他人のための料理を作るようなものです。
文章(おそらく小説のみでしょうか)を読むのが難行苦行、他人の考えを読まされることが大嫌いなら、大いに結構です。その点だけは向いてますよ。楽しみに邪魔されず、作品分析ができるでしょう。