小説の創作相談掲示板:小説の書き方Q&A。執筆の悩み相談をしよう!

アルファさんの返信一覧。得点の低い順1ページ目

元記事:筆が乗らないのです

お世話になっております。藍川です。
タイトルの通り、小説の続きが書けなくなってしまいました。
全く書けない訳ではないんですけど、「これだ!」っていういい表現が全然浮かばないんです。
昨日まではスラスラ書けていただけに少し焦っています。
皆さんはこういう事になった事はありますか?
また、どうやってこれを乗り越えましたか?

上記の回答(筆が乗らないのですの返信)

投稿者 アルファ : 0 投稿日時:

こんばんは。私の場合は放置です。本来は考えが新鮮なうちに書き上げたほうが良いんですけどね。できれば物語の先行きは覚えているうちに箇条書きしておくべきです。忘れちゃうこともあるので。
年月の経過に任せて考えが熟成されるのを待つか、早急創作のためのインプットをして短期間でアイデアをひねり出すかは自由です。よくある方法ですがインプットの場合は、刺激的な、あるいはリラックスする音楽視聴(感情描写)、風景を見に散歩と写真撮影で知らない場所に出掛ける(風景描写)、人との会話(頭のリフレッシュ)、いろいろな物が絡まりあって、いきなりふとアイデアが浮かびます。あとは夜に見た夢を参考にしたり、眠る瞬間にアイデアが降ってくるときはそれを敏感に摑まえることです。
私の場合、三割程度完成してない作品があります。なかでも一割は数年かけて続きを書いているものもあります。
十五年放置してたのにいきなり続きが思い浮かんで一気に完結させた作品もあったぐらいです。年月の経過とともに自身の価値観変化や実際の経験値、知識の幅が加わったからでしょう。そこで注意すべき点は、若いころから作風と文体が変化するので、細かい辻褄合わせが必要になることです。
どうしても若いままの感性ではいられなくなり、フランクな表現が排除され堅い表現になったりします。「だったよね。」が「だったのだ。」になったり。あとは恋愛の内容が変わったり、ジャンル自体が変わったり。リメイクまでいかないけど前半と後半があまりにも違ったり。
子供心やいられないという年齢になってくる、許せなくなってくることもあるから、ロックとかポップの歌手ってすごいって思います。ただ、ある程度は若いころから考えが熟成されている人が自作小説に手を出すものだと思っているのでなんともいえませんが、やっぱり子供のころのおバカ加減や若々しさや無茶な言葉選びはしなくなってきます。

カテゴリー : やる気・動機・スランプ スレッド: 筆が乗らないのです

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元記事:物書きへの適正について

当方自分は文章を書くのに向いてないと思っています。
理由はだいたい二つ
1) 何事にも無感動、無感想
作文を一行未満で完成とし、講義の感想?を書けといわれて30分以上居残りさせられるような人間です。無論読書感想文は鬼門、正直一人で書き上げた覚えがないです。
2) 対人能力の不足
当方中学卒業後はネット環境を含めても交友関係がほとんどありません。そもそも人の気持ちをうかがうこと・空気を読むことがまるでできず、弟の同級生が亡くなった際、その人が長期入院中だったと聞いて『どうせ誰も覚えていない』と発言するほどです。
他に、他人とはだいぶ違った思考をする点(例えば好きな人に値段をつけてといわれれば10円だか50円だかという安値をつけたり、怖いものと聞かれてペストと答えたり)も挙げられるでしょうか。
国語自体は答えればたいてい当たるほどには得意なのですが、こんな人間はアイデアをプロット投稿板に投げて他人頼みにするほうがいいんでしょうか?
それとも意地と執念だけを頼りに自分で書くことに挑戦した方がいいのでしょうか?

上記の回答(物書きへの適正についての返信)

投稿者 アルファ : 0 投稿日時:

無感情でも、すでに「何か書きたい」と思った時点で、何かの心が動かされている状態に入っているのではないでしょうか?

たとえ「何に心動かされたか」、は書けなくても、「何が得意か」は思い当たりますか? 得意分野もなく自分にさえ無関心な場合でも、それを事細かい描写で書いてみるといいかもしれません。
なので、一度あえて「無感情な人間を題材とした抜け殻のような人を主人公に作品」を書いてみてはどうでしょうか。無機質な人間の作品は世にあるものですし。無機質でも「何か」が在るものだし、知らないものが潜んでいる可能性もあります。あなたがよくしているであろう、自分を見つめて観察した「自身」を作品風にしてみることです。
本来なら、物語を書く引っ掛かりは「何に心動かされたか(喜怒哀楽)」という体験に肉付けしていくのも一つの方法ですが、それがあなたにはもとから無いんですよね?
けれど、あなたには「自分で何か書きたいという欲求ならある」のですから、世にすでにある物事よりも高尚なものが自分には書けるかもしれない、という意味かもしれませんよ。(誰もがそう思うものであり、ほぼ確実にすでに前例が作品や思想として世に出回ってるものですが)

どうやら無神経なことを言ってしまったと記憶しているから、人への死生観や人の値段のことを書いているのでしょうし(それを人から指摘されて気づいたというのならまた話は変わってきますが)、あなたにも心があるのかもしれませんよ。心の咎というものですね。
出逢う人によっては劇的に人としての心が育まれる瞬間もいつか巡ってくると思います。逆に誰それと出くわしたために脳細胞が劇的に死滅寸前に打撃をうけてボキャブラリーが木っ端みじんに吹っ飛んでくこともありますから、人との出会いには充分と気を付けてください。
気になることには、あなたは幼いころからある種のふれあいが欠けてたのでしょうか。無感情が生み出される条件は、幼少からの感情変化や先天性な心の動かなさの二つが考えられます。

あと、物書きには適正もへったくれもないんじゃないでしょうか。(ただひとえに仕事として求められるか否かで言ってしまったら適正してる人なんか極わずかになってしまいますが。)人はとにかく書きたいから書く。それがいつのまにか物語になっている。そんなものだということをプロアマ関係なく思います。人は感情関係ないとしても、生きてますから。
プロットというものが組めているのなら、どういったジャンルなのかが気になります。恋愛ではなさそうですが、小難しい化学的な分野の物語だと私は苦手です。

とはいえ、私も昔は頭のなかがほぼ毎日真っ白状態で頭が働かずにボーっとしていた、勉強できない、場の状況を読めない、人の感情に無頓着で場違いなことを言う、人が怒るだろうことが分からずに不思議に思ったことを不謹慎なのに気づかずに言って人を怒らせる・不審がらせる、問題解決能力が無い、遅刻ばかり、忘れ物ばかり、それらは全く悪気が無い、物覚えが悪すぎて習い事全部続かなかった、常に疲れ切っていた、気づくと無表情、ただし決して無感情ではなくむしろ感受性が人よりもろかった、なので、似たもの同士では無いでしょうが、何かしら近いものは感じるような気はします。
質問主さんの場合は私とは違ってしっかりした人だと思いますが。

対処として私は自分は脳の働きや脳の成長が著しく遅い、というのは自覚していましたから、自分でどうにかしなければ目の前のあらゆる悩みをこれからも対処できないと思って、小学生時代から好きな創作で感情や脳の記憶回路とかを磨いてきました。
自分で自分を鍛えることは重要だと思います。それが数学か、国語か、道徳か、視覚から得る絵画か、自作の作品かは人それぞれですが、もっといろいろな物を見て実感することは大切です。
意味のなさそうなものにこそ意味を見出してみる訓練とかも良いのではないでしょうか。例えばキュウリが緑の意味とか…は化学的に決まってるから考えることはないですが。

カテゴリー : やる気・動機・スランプ スレッド: 物書きへの適正について

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元記事:現在「看護師」 昔「看護婦」 使うときの返信

私は気になりません。
うん、『私』と態々書きました。
というのも、極一部だとは思いますが、いくらアルファさんが心を配ってもケチをつける人はいるかもしれません。

宮崎駿氏の最高傑作『風立ちぬ』のワンシーン、結核にかかったヒロインが床についている横で主人公がタバコを吸うシーンに文句をつけた団体(だったかな?)もいるぐらいです。
普通に考えて『そういった時代背景』であることは観客全てが承知しているような物語の終盤であり、タバコを吸うことそのものが感動的なシーンであるはずなのに文句をいう人はいいます。

で、ですね。(少なくとも私は)差別用語だとは思いません。
元々、というか大昔、呼び名はともかく立場として、医学の黎明期は男性の職業であり、単に看護人です。

麻酔がない時代でも傷を縫ったり、四肢を切り落としたりという、ぶっちゃけ外科的
アプローチは必要です。
そういう時に痛みで暴れる患者を押さえつける、要するに腕力が必要なんですが、これは必然的に男性の仕事です。

そこから時代が進み、ナイチンゲール云々もあり女性がすることが多くなり、看護”婦”と態々つけ加えてます。
『ご婦人が看護してくれる!』ってのは、言い方が変かもしれませんが老若男女問わずに患者にとって救いであり、病室で心が安まる華でしょう。
当時の人もそういう思いがあったのではないでしょうか。

どっちかというと『オッサンでも看護”婦”って呼ばれるぜ! ウヒっ!』という男性側の立場があって、厚生労働省が『もう男女の区別は必要ないんじゃね?』という流れではないでしょうか。

>読者が「看護婦は差別用語です」とつっこんできたら、創作上の全体像や雰囲気で不都合が生まれると思った次第です。

とはいえ、対策したいお気持ちは理解できます。
率直には『笑い飛ばそうよ!』と言いたいところなんですが、どうしてもということなら、お断りとして冒頭もしくは巻末の欄外とし【物語の時代背景を鑑みて、当時使われていた用語を使用しているシーンがあります】等々を書いておけば良いのではないでしょうか?
ただ、それでもケチをつけるのが趣味みたいな人は一定数いますので、『笑い飛ばす!』というお気持ちも忘れずに、そんなことに負けないで欲しくも思います。

ではでは、執筆頑張って下さい。
応援いたします。

上記の回答(現在「看護師」 昔「看護婦」 使うときの返信の返信)

スレ主 アルファ : 0 投稿日時:

返信いただき、どうもありがとうございます。
やはり私もどうしても看護師が差別用語には思えなかったので、使ってしまいたいと思っていました。むしろ、「看護婦」は素敵な言葉だと思っています。優しさと実直さが伝わる名詞と思えるし、それを言ったら世の一部の男性はどう思うかはわかりませんが、「看護師」という言葉にしても頼りがいがあって力ある名詞とつながる語感を私なら受けます。
時代背景のためには、看護婦としてもかまわないのではないか、というご意見をいただけてうれしいです。そもそも名称というものは、数年の時代背景では到底払拭できないような、言葉や名詞自体の宿る魂があるものです。患者が看護婦に癒されてきた時代は深いのは確かです。
実際、いくらサイドで「土方は差別用語」という人もいるらしくても、働いている人自体が自分たちを土方と名指しているものです。少なくとも私が以前いた職場では普通に「俺ら土方は何々行政の管轄で区分されてるから今回の現場依頼主はこうたらっていうところの」となんの変哲もなく使っていた名称でした。ただ、それも個人の受け方ひとつかもしれませんね。
ちなみに、現場では「植木屋」「造園」と呼ばれている職業も、私個人では「庭師」と声を大にして呼びたいぐらい「庭師」という言葉が歴史を感じるし情緒あって大好きです。
看護婦に限らず、時代に合った言葉で使ってみようと思います!
励みになりました! どうもありがとうございます。

カテゴリー : 設定(世界観) スレッド: 現在「看護師」 昔「看護婦」 使うとき

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元記事:現在「看護師」 昔「看護婦」 使うときの返信

小説を書いていると、そういう言葉の選択にはしばしば悩まされますね。
そこには似て非なる二つの問題が複合しています。一つは「考証」の問題、もう一つは「情緒」の問題です。
また、作品の地の文が一人称か三人称かにも係わってきます。一人称の場合はより厄介なので後述するとして、以下は三人称の場合で考えてみます。

大正~昭和初期を舞台とした三人称であれば、地の文では「看護師」。セリフの中では「看護婦」。安全策を重視するなら、これが無難です。
時代を考えればセリフの中にまで「看護師」と書いてしまうと時代考証として違和感が強すぎます。昨今問題視される用語の中でも「看護婦」は身体や精神の障害を指す言葉ではないので、セリフとして使うくらいはセーフでしょう。
一方で三人称の地の文はあくまで客観的叙述になりますから、大正時代を舞台とする小説で現代用語を使っても問題ないのです。それがダメだと言い出すと、すべての用語や言い回しを当時のものにしなければいけないことになってしまい、それをやったら現代人にはかなり読みにくい文章になってしまいまうでしょう。

以上が「考証」の問題になります。
しかし「情緒」の問題となると話が違ってくるんですね。

>看護師は私の感覚的に堅い感じでより行政的な感じで、極めて現代風な映像しか浮かびません。最新鋭の機器に囲まれた清潔な病院とか。このように人によっては言葉の持つ映像がついてまわるのではないかと思うんです。

これは「考証」というよりも、どちらかと言うと「情緒」の問題です。あえて語弊をおそれずに言えば、「看護師と書くと雰囲気がこわれ、作者の表現したいイメージにそぐわないからイヤだ」ということかと。
と言っても、けして情緒を軽んじているわけではありません。小説は論文でもビジネス文書でもありませんから、言葉の選び方によって伝える情感が大切なのは論を俟ちません。
ただ前述したように、すべての用語と言いまわしをその時代に即したものにしてしまうのは現実的ではありません。なので小説は、多かれ少なかれ現代的な文章をベースにして、そこに時代にあった言葉を適当に散りばめるなどのアレンジを施して書かれているものなのです。
「看護師」ではイメージが伝わらないというお気持ちは分かりますが、一つ一つの用語にこだわらない文脈全体やエピソード、人物描写によっても情感は表現できます。そういうテクニックにも目を向けることをお勧めします。

さて、後述すると書いた一人称の場合です。
一人称の地の文はその時代の誰かが語っているという設定になりますから、「看護師」という当時使われていなかった用語を入れるのは少し厳しいですね。
なので三人称のセリフと同じ考え方で「看護婦」くらいは許容範囲(身体的・精神的な障害を示す用語と比べたら)と割り切って使っておいてもいいんじゃないでしょうか。
もし心配なら、あざらしさんが提案されているように冒頭にでもその旨の但書を入れておけばいいのではないかと思います。

上記の回答(現在「看護師」 昔「看護婦」 使うときの返信の返信)

スレ主 アルファ : 0 投稿日時:

返信をいただきどうもありがとうございます。
現実的な考証と小説的な情緒、確かに客観的にしっかり分けて見ることは大事ですね。
いろいろと気づかされました。三人称の場合は地の文と台詞で名称を変えるというのも目から鱗です。
その点では時代考証をとことん地の文で書き加えて、言葉で情緒を出すこともできるわけですし、小説だからどちらも絶妙に情緒・考証を振りかけて言葉を操ることもできますね。
以前の例文で、夜のナイチンゲールが患者を癒すという言葉も、戦場で献身的だったナイチンゲールという言葉も、看護婦・看護師どちらにも当てはめることができます。ここは物書きの言葉選び一つでいくらでも操れるものなのですね。

一人称では癖が強いものになることは否めないかもしれません。だからといって、いかに現代でもばっちり浮かない作品にできるかはまだ自信はありませんが、あざらしさんの仰っていた通り、前書きで添えることも一つの方法ですね。青空文庫を読んでいると、「時代背景で差別とみられる言語をそのまま使用している」旨が書かれており、私もそれを読んでから作品を読んで、初めは「妾」に驚いた一人です。「自分をめかけと呼ぶとは相当思い切っている。当時の女性は怒らなかったのか」と。そうしたら当時の言葉選びだったようです。ちなみに私ははじめ、「妾」を小説内では「わらわ」と読んでいました…。作風が高貴な姫様が出てくるものだったので、口に出して読まなくて良かったです。
三人称と一人称での書き方の違いと、考証と情緒を分けて考えた方がいいとのアドバイスをいただき、とても参考になりました!
どうもありがとうございます。

カテゴリー : 設定(世界観) スレッド: 現在「看護師」 昔「看護婦」 使うとき

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元記事:名前が長いキャラについて。

たまにラノベで名前が異様に長いキャラがいますけど、あれはどう思いますか?

たとえば、物語シリーズのキスショット・アセロラ・オリオン・ハートアンダーブレード。
とか。

自分の作品のヒロインもそんな長い名前にしようと思いますけど、読者的にはそういうのはどうなんですかね?

皆さん、よろしければアドバイスをお願いします。

上記の回答(名前が長いキャラについて。の返信)

投稿者 アルファ : 0 投稿日時:

私は使う派です。ほぼ、ちょっとしたギャグ要素で入れることが多いです。引き換え、位の高い人ほど難しく長い名前を付けることもあります。定まった決まりが語尾にあったりなど。自分でも覚えられないぐらい長いネーミングにすることも多々あり、今までで一番長い名前はもうギャグだったのでだいたい100文字ぐらいある名前の犬でした。
他にも、多少生真面目な内容でも食べ物・料理名の名前をしれっと付けたりすることもあります。聞いたこともないような変な名前を連ねることも多いですし、ありそうな名前を連ねる場合もあります。

ただ、人様の前にお出しするものでは流石に限度はある、と思う方もいるかもしれませんけれど。例えばふざけきったものならバリョッケ・チャンピレッチャプー・ぴゃんぴゃ子・シュロエレン・ル・ルンル・ル・ルルンルンとか普通に登場させたりしますし、他にも個人的に綺麗な感じを並べればルーナ・エレナシー・セイレンス・セフォーラ・サンファルとか。
ただあくまでネーミングというものは、ほぼほぼ作者の個人的な好みの範囲で、読者が置き去りになる場合もあるし、やはり人様に見せる以上は覚えられる感はある程度必要かもしれませんね。それでも、ネーミングは明らかに個性を光らせることができる一つのアイテムなのは確かです。そのキャラ目立ちますし。
一つ注意が必要なのは、これを言ったら名前を付けるのが際限なく大変になりますが、外国ではとんでもない意味を持つ言葉を偶然創作で作り出してしまった場合です。興味本位で自分のキャラ名を調べてみたら、まさかそんな意味があったなんて、と驚くこともあったりします。適当につけたとしても。もしかしたら今思い浮かんだだけのバリョッケなんてのも、どこかの国では何か意味がある言葉かもしれませんね。意外にも北欧当たりの屋根のひさしの下の部材の名前だとかかもしれないし(適当です)。それならまだしも、実は口に出すのもためらわれる言葉だったとしたら、ネット社会の世では、ふと日本語の分かる方の目にとまって「日本人は失礼だな」と思われたら大変で、それなら無難な名前にしてしまおうと思う作者さんもなかにはいるかもしれませんね。

名前というものは大切な要素でもあるので、真面目な作品、コメディで分けて考えると、私の場合はどうしてもシビアなものは短い普通の名前、綺麗な名前。ギャグ要素作品では長かったりふざけた名前、になります。いきなりどちらもいることもありますけれど。そこでクスッと程度に笑っていただければそれで私はいいんです。実にシュールな感じが私としては好みなので…。
どうしても笑点は私なども加えて作者支点になりますので、センスが低くてもそこのあたりは読者から「この大事な時期に次期党首に選出され角界を騒がせている人物、ビスケット・バクバク・たべすぎーたら・ピザ氏って…。受け狙いのつもりか、この作者キャラネーミングセンス終わってるぜ(==;)」と思われても致し方ございませんけれど…。そこもまた読者おきざりイタイ系作者突っ走り冷笑突っ込み受けまくりギャグ物語っぽいからいいかもしれません。むしろわざとダサい名前をつけてみることもありますよ。
といった具合に、一個人の意見でした。
名前はあくまでキャラの導入部の一つ。素敵な名前でもおかしな名前でも、愛情があるに変わりはないとは思います。少なくとも相当の愛着は生まれるものです。作者様なりにも自分のてのもとで動いてくれるキャラクターのため自分の好きな素敵な長い名前を考えてさしあげてください。

カテゴリー : キャラクター スレッド: 名前が長いキャラについて。

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現在までに合計8件の投稿があります。 5件づつ表示中。現在全2ページ中の1ページ目。

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名前が長いキャラについて。

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元記事:ストーリーを作っていくコツとは

はっきり申しますと、自分は作家志望の底辺初心者です。
自分は長編を一本も書き切ったことがありません。故に新人賞に投稿したことは一度もないです。
こんなストーリーを書いてみたい、という思いでワンシーンを書くくらいが自分の限界です。世界観のアイデアやキャラクターのアイデアが浮かんでも、アイデア止まりで終わってしまいます。
自分とは違い、何度も新人賞に原稿を出している作家希望者や、様々なストーリーを執筆している方は数多くします。
彼らのようにたくさんのストーリーを作るにはどうすればいいのでしょうか?

自分とストーリーを何本も完成させる、または新人賞に応募する方々とは才能の違いによる思い、自分に諦めをつかせようともしましたが、それでもやはり夢ですので、そう簡単に諦めきれず、小説を書きたいという思いが強まるばかりです。
才能を羨んでばかりではいられないので、情けない話ですが、アドバイスをお願い致します。

上記の回答(ストーリーを作っていくコツとはの返信)

投稿者 玄翁 : 0

はじめまして。

>自分とストーリーを何本も完成させる、または新人賞に応募する方々とは才能の違いによる

いきなり失礼ながら、私はそうは思いません。
世の中他人が自分の及びもつかない成果を上げると往々にしてそれは才能だ、と言ったりしますが、そしてそれはある面その通りだったりしますが、大抵の場合、それは地道な努力と試行錯誤の末に身に着いた実力によるものだったりします。

こちらで言うところの短編に相当するものを過去に書き上げた程度の人間の意見ですが、学生時代私はテレビの洋画劇場など割とよく見ていて、ああ言った番組で映画のワンシーンをハイライトとしてCMなどで流すのを見ていたせいか、自分でもストーリーのワンシーンを閃いたりすることがあり、そこから物語を紡いでいくような方法で小説を書いたりします。

比較的野乃さんの例に近いかと思いました。

もちろんそこでワンシーンを書くだけではストーリーにはなりません。そこでそのシーンが物語の途中っぽければそこからつながるようにワンシーンを少しずつ作っていきながら、実際には物語の初めから少しずつシーンを作っていき、自分が最初に考えたシーンにつながるように計算し、もしくはうまくつながらないようなら修正しながらそのシーンにつながるように細かいシーンを作っていけば数多くの短いシーンの集まりが自然とストーリーとなっていきます。

最初から一続きの長編ストーリーを作ろうとするととても作れそうにない、と諦めてしまうだけでしょうが、短いシーンをいくつも考えるのなら少しがんばれば何とかなりそうではないでしょうか?
もちろん個々のシーンにつながりがないと物語になりませんが、しかし一番大切なのはどう言う方法をとってもいいのでまずは一本書き上げることです。

最初はすごく短くてもいいし、自分で読んでも面白いと思えないものでもいいのでまずは最後まで書き上げることです。

そこまでやらないと経験値がたまりませんし、レベルが上がることもありません。

書き上げたものがとても他人には読ませられないような見事な失敗作となるでしょうが、でもそれは作品としては評価されなくても確実にあなたを成長させてくれるはずです。

それができたら次は各シーンを少しずつ面白くしたり、あるいは見せ場を作って盛り上げたりと言ったことを考えながら作っていくことです。
あるシーンにあった何気ない事柄がその後のシーンで深い意味を持ったりと言うような離れ業も慣れてくれば出来るようになるかと思います。

繰り返しますが、短いシーンをいくつも作ってそれらをつなぎ合わせ、一つの物語にする、まるっきりの素人考えだと言われればそれまでですが、一応私が小説を書く場合の基本的なスタイルです。

野乃さんの参考になればと思います。

カテゴリー : ストーリー スレッド: ストーリーを作っていくコツとは

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投稿日時:

元記事:Wordで写経をしていたのですが……

文章力を上げるためにライトノベルの写経を
やっていたのですが、たまに書籍と書き写した文章を
比較してみると、一行に対しての文字数が合わない時があります。
何度書き直したり、見直してみても数文字足りないのです。
練習している分には問題はないのですが、
同じ書式設定で投稿用の原稿を書いていたので
「この問題を無視したまま書き続けていていいのだろうか」
と、気になってしまいます。
原因、または直す方法がわかる方、お待ちしております。

上記の回答(ちなみに、全て訓練だ!)

投稿者 ごたんだ : 0

『写経』は寝る前の頭の体操とか、自動書記だの、手慣らしだの時間を決めないでやった方が良いです。
あくまでも、長編小説を書くのが添えものなんで、『ドツボ』にハマると『妖怪』になりますよ。それ

カテゴリー : 文章・描写 スレッド: Wordで写経をしていたのですが……

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投稿日時:

元記事:「合う」という表現の使い方

 こんにちは、お久しぶりです。いつぞやはじつにつまらない質問に答えていただき、ありがとうございました。今回もあまり変わらないのが心苦しいですが、よろしくお願いします。
 と言いますのも最近また分からなくなってしまったのは、「合う」という表現の使い方なのです。合格とか合致のように働きや形状に見合うという意味でなら迷うこともないのですが、「話合い」や「助け合い」の場合に限って「これは当て字の類ではないのか?」と考えてしまって筆が進まなくなるのです。
 こんなことに悩んでいるからいつまでたっても文章が上達しないのだと自分でも情けなくなりますが、どうかお知恵をお貸しください。

上記の回答(「合う」という表現の使い方の返信)

投稿者 大野知人 : 1

誤用じゃない、ということはサタンさんが仰っているので少し別側面から書きます。

 まずはじめに。『漢字で書けるところをすべて漢字に変換しなくてもいいんだよ』ということを言いたい。

↑の文章、漢字に置きかえられるところをすべて漢字で書くと
 『漢字で書け得る所を全て漢字に変換し無くても良いんだよ』
 となります。これ、ちょっと読みにくくないですか?(この文もまた、『難』『無』などはめると読みづらい)

 『漢字で書くとなにか違和感がある』というのは重要な直感です。少なくとも、あなたにとって読みにくいわけですから、他の方にとってもそうかもしれません。
 むろん、全てをひらがなにすれば良いというものでもありませんが、読みにくいと感じるなら、ひらがなで書けばいいと思います。

 その2。『合う』とはそもそも何なのかを考えてみましょう。
 ここで、例えばこんな文を考えます。
『私達は政治について話した』
『私達は政治について話しあった』
 1つ目の例文の方は、『私達』が政治についてのスピーチをしたようにも聞こえますし、政治について意見交換をしたようにも読めませんか?
 一方で2つ目の例文であれば、まず『私達』は相互に話したととれるので、協力してスピーチをしたようには読めないでしょう。

 二文の違いはもちろん、『あう』です。
 ここで少し話がそれて、漢文の話になるんですが、『合う』という字も漢字である以上は大陸から来たもの(の派生物)なわけです。
 さて、さっきの二文を、どう漢文に翻訳するか考えてほしいんですが、『〜しあった』と言わなければお互いに意見交換したことがわかりづらい訳ですから、これは漢字にしなければいけません。
 するてぇと浮かんでくるわけです。『合』という字が。(実の所、ガチに古い漢文に翻訳しようとするともっと別の漢字を使うんですが)
 ただ、これで何となく分かるかと思いますが、読む上で判別をつけるために『~しあう』という表現をする必要があり、日本語の文章が根本的には漢文から派生した文化であることから言って、まず当てはまる漢字は本来存在するはずです。
 つーことで、『話し合う』などの表現に『合』という漢字を使うのは合理的に言って『当て字』ではありません。
 
 『その言葉は文章中でどういう役割を果たしているのか』を考えると、意外と当て字かどうかは判別できます。『無いと文意を誤解されかねない/そもそも通じない』ような語句は、日本語に派生する前の漢文の時点から存在するわけで、まずあてはまる漢字が存在してそれを日本語読みしたものが形を変えながら現代に残っているに過ぎません。
 もちろん、日本語オリジナルの表現や漢字もたくさんありますから、全てを解決できる技法では無いでしょうが、ふと似たような疑問を持ったときには試してみてください。

カテゴリー : 文章・描写 スレッド: 「合う」という表現の使い方

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