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ファンタジーやメルヘンでのリアリティの度合いの決め方を教えてください。 (No: 1)
スレ主 tokieda 投稿日時:
SFが「嘘っぽくない」ようになるため、あらゆる論理性によって本当のように見せているのに対し、ファンタジーはそもそもそうした努力をしているのでしょうか。
ファンタジーの「嘘っぽくなさ」は、おそらくは形相によって保障されています。
つまり、石を削って彫刻を作る際には、その目的としての対象が存在しているのであって、作者が想像したり、観客がそれを見たりする以前からそこに存在し、作者はいわば観測者に過ぎないという考えです。
であればSFもまた、このような作り方でもいいはずです。「未来少年コナン」が「あり得ない動作を現実の動作の延長のように見せることで本当のように見せている」のは何故でしょうか。
SFがこのような手法を取る理由としては、たとえば読者に「自分にもできるかもしれない」「もしかしたらあの時こういう結末になっていたかもしれない」といった同一化を生む機能や、主人公の行動パターンを論理的にすることによって、推理に合理性を与えたり、あるいはその社会が持つ限界を明らかにして風刺等を行ったりする、といったことが考えられますが、そうした理由がなくとも有名なSFでこの手法を使っているものは少なくないように思えてなりません。
また、ファンタジーの方としても、ある部分はそうしたSF考証を行うことで「嘘っぽくない」ように見せながら、またある部分では、読者や視聴者には明らかに嘘であると明らかなものを見せることもあります。「精霊の守り人」において、序盤から幻想的な世界観が広がっており、読者にもこれが虚構の世界であると理解されますが、中盤には文化人類学的な「類感魔術」の要素が入っています。これらの描写の違いを決める線引きは何でしょうか。
さらに言えば、作品が本の中の出来事であると改めて明示することもあります。M・エンデの作品は言うに及ばず、絵本に描かれるファンタジーなどもそうです。ファンタジー以外でも、「この世界の片隅に」などは鉛筆を使った描写やコマが紙のようにめくれる手法などによってそれがなされています。これは一見、読者が作品から現実世界へと引き戻され、「嘘っぽくなさ」としても「形相」としてもマイナスの効果になると思うのですが、実際にはどのような効果を狙ったものでしょうか。
カテゴリー: 文章・描写
この質問に返信する!ファンタジーやメルヘンでのリアリティの度合いの決め方を教えてください。の返信 (No: 2)
投稿日時:
本格SFとファンタジーは、読者の嗜好がかなり異なるのだと思います。
私見では本格SFの論理性や「疑似科学」性は、「嘘っぽくなさ」を演出するのが目的ではないと思うんですね。そうではなく、論理性にこだわることによって「思考実験」を愉しむことが好きなのだと思います。
その点ミステリと似ていて、読者が作品の設定に対してせっかく論理的に考察しているのに、辻褄の合わない展開を突然ぶつけられて演出で胡麻化されたら腹が立ちますよね?
しかしファンタジーを好む読者は、そういうことよりも日常生活を忘れさせてくれるようなムードに浸りたいのではないかと。理屈っぽさはむしろ雰囲気を損ないますから最初から興味がないんじゃないかと思いますよ。(読者としてのレベルが低いと言っているわけではなく、単に好みの違いの話です)
だからファンタジー、特にハイファンタジーにあっては、論理的な飛躍はむしろ世界観の広がりとして歓迎されるのではないでしょうか?
ただし、説得力を持たせることはやはり必要なわけで、そこに論理を使えないとなると、作者の直観的なセンスで乗り切るしかありません。
というわけなので、ハイファンタジーにはこうすれば優れた作品になるというセオリーはなく、一にも二にも作者の感性の勝負ということになります。
>これは一見、読者が作品から現実世界へと引き戻され、「嘘っぽくなさ」としても「形相」としてもマイナスの効果になると思うのですが、実際にはどのような効果を狙ったものでしょうか。
高級なフランス料理を食べる時に店の中がラーメン屋みたいだったら気分がでないでしょう?(フランス料理って高級なの? という突っ込みは禁止。笑)
ハイファンタジーのファンはムードに浸りたいので、そういった演出が気にならないんです。ただし、繰り返しますが演出のセンスが良くないと台無しになります。
* * *
なお、上の文中、「本格SF」「ハイファンタジー」と書きました。
非本格SFはどちらかというとファンタジーに近いものが多々見られます。例えばスター・ウォーズって宇宙を舞台にした「剣と魔法」型のファンタジーと捉えた方がしっくりしませんか?
一方でローファンタジーは、現実寄りの土台作りも重視されるので、SF的な論理性がしっかりしている方が面白くなることが多いようです。
ファンタジーやメルヘンでのリアリティの度合いの決め方を教えてください。の返信 (No: 3)
投稿日時:
なにいってんのか、意味が分かんない。馬鹿にも分かりやすい言葉で説明して。
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>>SFが「嘘っぽくない」ようになるため、あらゆる論理性によって本当のように見せているのに対し、ファンタジーはそもそもそうした努力をしているのでしょうか。
村上春樹が訳した『空飛び猫』で凄い納得した。
なんか母猫が産んだ子猫ズには羽が生えていて、しかも飛びやがるって童話なんだけど、
母猫は「羽がついてんだから、そんなもんだろ」と受け入れる。
受け入れてしまう。
ファンタジーは理屈をかなぐり捨てて「これはこんなもん」と受け入れてしまう事が売りです。
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あなたが病気になった時、薬を打ってもらったり、呑んだりしていると思う。
その薬が、どういう成分で、その成分がどういう効果で、自分の体にどういった影響を与えるかまで確認していますか?理論的に突き詰めて考えていますか?
スマートホンをどういう仕組みなのか知るために分解し、機構を調べた事はありますか?
これ飲めば治る、マシになると信じて【受け入れて】のんじゃんっていませんか?
機構しらなくても使えるし、ええやん☆と【受け入れて】使っていませんか?
薬剤やスマホは、一般人にとってファンタジーです。
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分かりにくい?
あー・・・・一角獣って知ってる?
アレね。サイを初めて見たヨーロッパ人が【額に角の生えたウマみたいな生き物】と口で説明することで発生した誤解が元になっているらしいの。
あとは「下半身が貝で上半身が馬みたいな、変な生き物」とか。これはタツノオトシゴ。
見たことも無い生き物の説明に、絵や写真が使えない時、人間は既存の生物に当てはめ説明しようとする。そして誤解が発生し、その地域にはケルピーがいたりユニコーンがいる不思議な世界が出来上がる。
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普通に考えて
シマしま模様の馬とかギャグの域でしょ?
首だけやたら長い角だらけの馬っぽい生き物?
鼻が腕みたいに長くて手並みに器用に動く、バカでかい生き物?
クビ周りにだけ毛がフサフサな大型猫科獣?
白黒ツートン色のグリスリー。
雪山の一部に生息する、蛇みたいなシッポをした幻の肉食獣?
成体になってもハチの大きさしかない極彩色の鳥。
アルビノではないのに白い熊
・・・・アホか。アホじゃねーか。そんな生き物いんの??・・・・・・・・いるわー!!!!(´Д`;)
しまうま、キリン、ゾウ、ライオン、ジャイアントパンダ、ユキヒョウ、ハチドリ、ホッキョクグマ。
いるのを知っているから知っているだけで、口頭で聞かされたら馬鹿にする奇獣たちを、奇妙だと感じる心を失っているだけです。
しかも現地人からすると普通に実在する生き物でしかない。
知ってた?狸って基本日本周辺にしかいないんやで?信楽焼のタヌキの事、白人は豚だと認識しとんやで?アメリカやヨーロッパには基本タヌキいないから
日本から輸入して野生化したタヌキはロシア周辺にはいるけどね。
白人からすれば、タヌキはファンタジー生物なんやで?
動物園では、タヌキの檻に白人群がったりするんやで?
「実在しやがったスゲー!!!」って。
【奇妙だと感じる心を失った世界】がファンタジー・・・で、どうやろ?
「食い散らかすのには飽きました」言ったじゃないですかっ!? (No: 8)
投稿日時:
>薬剤やスマホは、一般人にはファンタジー
リアルでは、ステロイドが真っ青になるほど脳細胞を無差別に破壊するし、そりゃ言語障害が出たり、集中力がなくなるわぁ…
しまいには臓器に正しい命令が出せず脾臓がアウトスリン出せずに糖尿病やら、臓器不全にもなるわ。
そもそも脳が不全だって言うの!
後、スマホは国民の監視デバイスだし、洗脳までしてんの?
盗聴から盗撮、盗作まで忙しい簾中だよなぁ。
まじ地獄の蓋が開きそうだよ…
人気回答!ファンタジーやメルヘンでのリアリティの度合いの決め方を教えてください。の返信 (No: 4)
投稿日時:
>SFが「嘘っぽくない」ようになるため、あらゆる論理性によって本当のように見せているのに対し、ファンタジーはそもそもそうした努力をしているのでしょうか。
こういう言い方はバカにしてるように聞こえもするんですが、ぶっちゃけ初心者ほどそういう努力をしてると思います。
魔法や世界観の設定をえらい細かく考えたりするでしょ。
書きなれてる人ほど、SFでも設定を考えこそすれあまり設定設定で書いたりしない。
というのも、物語にとって大事なのはそういう設定ではないし物語への没入感は「現実的にありえるかどうか」で得られるものではないためですね。
虚構だからこそ、作ってる人には最初から虚構だとわかってるからこそ、慣れてない人ほど虚構を覆い隠そうと「現実的な」という部分を必死になって考える。
物語への没入感を得るのは、単純にドラマ性の有無でしょう。
物語からドラマ性を極力排除して流れを作ると、これは歴史の教科書みたいになる。歴史は学術的に事実であると裏付けされた出来事なので、「嘘っぽくない」という事であればダントツなはず。
じゃあ、スレ主さんは歴史の教科書に対して、嘘まみれのラノベよりもずっと熱中して読めますか、ってこと。
「嘘っぽくない・事実のように書く」というのは実はあんまり大事なことではないのですよ。
ただ、SFってのはつまりサイエンス・フィクションであるので、科学的な要素に関して嘘っぽくちゃ話にならないってだけ。
だから紐解けば、本質的にはSFもファンタジーも割とおんなじよ。
「能力・機能」と言えばSFっぽくて、「魔力・魔術」と言えばファンタジーっぽいというだけ。
それを説明するガワの解説文で「能力(アビリティ)はパーソナルな認識によって発現する形が変わる」とか、「魔術の個性は血筋によって決まっている」とか、そういう「設定・テーマに対する色」がついて、それっぽくなっていく。
じゃあ、同じものであるなら何でSFのほうが説得力がある設定に見えるのかつったら、
これは単に作者にも読者にも科学的な基礎知識があるから、もともと持ってるイメージすなわち先入観によるところでしかない。というのが私の考え。
そういう前提知識が無い状態、読者の中にそれを作るところから始めなきゃならないファンタジーは、だから最初に躓くと「嘘っぽく」というか「初心者臭く」なる。
でも、最初に書いたけども、別にそれが物語への没入感に直結することじゃないから、例えば素人作品の なろう系 なんてのはそれでも受け入れられてますよね。
大事なのはドラマ性、物語性なので、つまり読者はキャラクターの活躍や衝突を読んでるわけで、形成する世界の非現実性は割とどうでもいいんですよ。
それはドラマを彩り舞台を支える要素の一つである大切な要素ではあるけど、そういうところが物語の没入感に直結するわけではない。
つまり
>作品が本の中の出来事であると改めて明示することもあります。
こういう作品は、世界観の舞台を「舞台」として利用してる作品ってこと。
演劇の舞台って、当然のことお芝居だってわかってて見るわけだけど、楽しめるでしょ。
舞台用語で第四の壁ってのがあるけど、舞台を飛び降りたり舞台から観客に問いかけたり、舞台が「舞台」であることを利用しての演出があったりする。
このあたりは理解を深めるのに大変役立つと思うけど、そもそも物語としての本筋はそっちじゃないと思うのでほどほどが良いかなと思います。
ぶっちゃけ、虚構を虚構でないように見せる「嘘っぽい・嘘っぽくない」という発想が、若い。
読んでる人が虚構を楽しめるようにしなきゃ。
訂正 (No: 5)
投稿日時:
>SFでも設定を考えこそすれあまり設定設定で書いたりしない。
いや、ハードSFになってくると設定というか解説解説で書いたりするか。それがSFの醍醐味の一つだし。
ファンタジーやメルヘンでのリアリティの度合いの決め方を教えてください。の返信 (No: 6)
投稿日時:
結論から申せば、リアリティを「大枠の理屈でくくった中にあると思わないほうがいい」です。
理論的な枠組みの中にリアリティの出し方があり、その理論が分かれば。自分もそう思いたいのはやまやまですが、ないんです。作品ごとに作り出すしかありません。
それだけでは何のことやらですんで、以下、多少説明してみます。
1.SFは1つのジャンルではない
SFを、何らかの点で共通かつ固有的性質を持つジャンルと考えてはなりません。例えば「未来の二つの顔」(ホーガン)と、「キャプテン・フューチャー」(ハミルトン)は、直接的な比較は難しい。ですので、前者はハードSFに分類され、後者はスぺオペ分類で、要は別ジャンル扱いです。「キャプテン・フューチャー」の科学考証が「未来の二つの顔」より雑だから駄目、なんて批判はしません。混ぜるな危険、ごっちゃにすると混乱します。
2.未来少年コナンのリアリティの目的と手法
「未来少年コナン」の主人公コナンが、ラナを抱えて高所から飛び降りて無事だったり、拘束具の鋼を引き千切ったりするのは、観客/視聴者が「おお!」と驚いて見入るからです。感心して見入るように作ってある、というほうが正確かもしれません。
コナンは人類であるのに、あからさまに超人的なアクションを見せて、観客/視聴者に嘘っぽいとしてしらけさせることがないのはなぜか。まず第1話からの準備がありますね。それほどぶっ飛んではないくらいの力持ちと示しておく。以降、それを徐々にインフレさせる。強さのインフレのポジティブなものといってもいいかもしれません。
それだけでは単に目を引くくらいです。が、ドラマ的に「ここはコナンに解決して欲しい」という流れを作る。観客/視聴者に欲しがらせておいてから、与えるといってもいいでしょう。コナンがして欲しいことをしたなら、ちょっと無理でもなんとなく納得できるわけです。むしろ快感ですらある。落ち着いて考えたらおかしいかもしれないけれど、観ていて興奮できたらいいのです。フィクションですから。
まだあって、リアリティ(迫真性)は細部に宿るということ。全体は大嘘、細部はリアルというコツです。コナンが鋼を引き千切るとき、まずちょっと歪み、続いてネジが飛んだりする。これは壊れるか、と思ったらコナンがいったん力を緩める。疲れちゃった感じですね。そこからもう一度踏ん張る。そういう描写です。リアルでもよくあるような細部を見せておいて、「人間が鋼を引き千切れるわけがない」という常識を覆い隠すわけです。
3.欲しいと思うものは納得しやすい
しかし、それだけではまだまだ目を引くだけに過ぎません。コナンに(制作者が)そこまでさせるのは、例えばコナンの敵対者の裏をかくため。敵対者はコナンが死んだと思っている。しかし視聴者はコナンが脱出したことを知っており、コナンが現れたのを見た敵対者は唖然とする。敵対者は既に憎たらしく描かれているため、その慌てぶりを見るとスカッとするわけですね。
要は、観ていて気持ちいい。だから嘘を忘れる、あるいは許せてしまうわけです。
(宮崎駿監督のコナンのそういうアクション面は、ルパン三世・カリオストロの城でも発揮され、ガス切れっぽい百円ライターを見せておいて、ルパンの屋根駆け降り→大ジャンプにつなげる。その先にはクラリスがいる。)
4.リアリティという大枠はない
コナンの「あり得ない動作を現実の動作の延長のように見せることで本当のように見せている」について、ある側面を説明し出しただけでも上記くらいのことがあります。これでも語り尽くせたわけではありません。いくら語っても終わらないでしょう。こないだ、TVで再放映がありましたが、未だに語り尽くせてない様子はネット上の意見交換などを見ても明らかではないかと思います。
それでも1つの作品がリアリティのどうなっているかというのは、まだ語りようもあるでしょう。しかしたとえファンタジー、あるいはSFに限定しても、そういう大枠で「リアリティはこうなっている」という議論は不可能でしょう。創作論、特に実践的なものは古代ギリシアから行われていますが、決定的なものは出ていません。むしろ、未だに「あーでもない、こーでもない」状態です。その証拠に「これさえ読んで身に着ければ、ヒット作が出せる」なんて教科書はありません(著者、出版社の売り文句は別として)。
形相がどうこう、それなら質料は、いや現実態と可能態が、とか、いくら論じても始まりません。何千年も多数が追及して、今なお分かっていないような大枠はいったん捨てるべきです。
5.リアリティは細部に宿るゆえに個別的
リアリティは細部に宿ります。オリジナリティはその細部で隠された大嘘にあります。大嘘を発想しておいて、いかにもありそうに細部で見せかけるのが作者の腕前です。物語の感動は大嘘から来ますし、リアリティをもたらす実在感は細部にあります。リアリティは細部なのですから、線引きなんてありません。
ファンタジーやメルヘンでのリアリティの度合いの決め方を教えてください。の返信 (No: 7)
投稿日時:
ファンタジーやメルヘンでのリアリティの度合いの決め方を教えてください。の返信 (No: 9)
投稿日時:
■ファンタジーは論理性によって本当のようにみせる努力をしているのでしょうか。
ファンタジーがそういった努力をすると、読者はその作品を楽しめなくなります。
リアルを排除したところに「ポジティブな感情を生み出してくれる世界観」があるからです。
よって、そもそも読者がリアルを求めていないので、リアルにする必要性がないというのが回答になります。
老婆心ながら、この現象を説明します。
認知科学では、リアリティは「臨場感(Vividness)」によって保障されるものです。
これを正しいとすると、そもそも人間が脳内で構築する世界のイメージは『どこかに在る、絶対的な空間を不器用に模写したもの』という考えが間違いになります。
なぜなら、ある論理的な世界、あるいは、高次な情報空間に存在するだろう理想的な世界をまったくベースにしなくても、人間は世界像を自分勝手に想像して生きていけるということを意味するからです。
認知科学では、大前提として『脳の機能がリアリティを構築している』と考えます。
すると、そもそもリアリティは一つではないことが導けます。
全ての人が一つの脳を共有しているわけではないためです。
また、一人の人間の中でもリアリティはコロコロと変わっていくものでもあります。
脳の状態は、神経細胞の発火/非発火によって頻繁に変わるものだからです。
これらの状態に影響を受ける脳内イメージもまたコロコロと変わります。物理空間をベースにした『論理的なもの』であるときもあれば、快楽という目的をベースにした自分勝手に構築したイメージであるときもある。非常に曖昧なもの。リアリティというのは、その程度のものでしかないです。