小説の創作相談掲示板:小説の書き方Q&A。執筆の悩み相談をしよう!

リトルさんの返信一覧。得点の高い順1ページ目

元記事:とある映画監督の感情グラフについての返信

カタルシスの構造も同じで抑圧と解放の関係がカタルシスを生むとされてる。

でも、構造としてはそうなんだけど、書き手として大事なこと・問題になることは、「それどうやんの?」ってことです。

小説の構造において、この四つの状態を繰り返し配置することで、メリハリのある感情変化を演じることができるのではないでしょうか。
スレ主さんの論は間違ってはいないだろうと思うけど正しいかどうかはひとまず置いといて、
例えば「不安」というのは「読者が不安に感じる展開を書く」ってことだと思うけど、都合よくそんな展開が出来て作者の狙い通りに「読者が不安に感じるシーン」が書けるのか、ってことが問題でしょう。
つまりは「それどうやんの」「おまえ出来んのか」って話かなと。

大事なのは「その展開を思いつけるか」ってことで、こうした思考は方向性を決めるための一助になるかもしれないけど、んーと、例えば不安も苦痛も興奮もないハートフルな日常モノを想定して「なんだか読後にほっこりする(安心がある)作品」って作品の場合、スレ主さんのグラフでは解説しきれないんじゃないかな?
つまり、こうした思考は方向性を決めるための一助にはなるけど、同時に方向性を決定してしまう以上は思考を狭めてしまうんだよ。
構造を具体的にしようとした結果、「自分が想定してる範囲内」でしか通用しないものになってしまっている。
そうなると自分の想像を超えた作品が作れないどころかイメージすらできなくなる事もあるので、ほどほどにしたほうが良いと思う。
なので、間違ってはいないと思うけど、正しくはない。
「そういう観点」から見れば正しいと思う。

メリハリのある感情の変化…っていうか、そもそも「変化」って『「A」が「A’」になる』ってことじゃん?
だから、変化自体はパターンとかグラフとか作らんでも変化前と変化後の二つがあれば表現できる。
で、感動的とかそういうのは「その変化がどれほど読者の心に訴えかけられるか」ってことだから、
えーと、人間的常識で言えば変化ってのは変化前である「A」が前提で変化後の「A'」になるって考えると思うんだけど、創作的にはこの因果は逆で考えることになって、
「A’」に感動を集めたいから、そうなるような「A」を考える。
では、それはどのようなものか。
これは答えは至極単純で、「変化」な以上はその変化の揺れ幅が大きいもののほうが良く、つまりは「落差のある要素」であるってこと。
端的に言えば、結果を考えたら結果の逆張りを序盤に持って来れば、あくまで基本形としては正解。
コッテコテな王道の恋愛モノで言うと、主人公とヒロインは最悪な出会い方をして険悪な雰囲気で始まったりするってのが、まさに教科書レベルの基本形。

でも、変化の落差が激しいと、激しければ激しいほど変化が急激になってしまうから、「変化前」と「変化後」の間に「切っ掛け」が必要になる。変化する切っ掛けね。
で、その「変化前」「切っ掛け」「変化後」の3要素の印象値的なものの話をすれば、スレ主さんの論と多少重なる部分もあるかなと思う。
というのも、これは最初に書いた「カタルシス」の構造を当ててるため、抑圧と解放の関係が緊張と緩和の関係に重なるためですね。

で、そこで「メリハリ」をつけるには、たぶん、スレ主さんは「切っ掛け」をイチ要素として捉えてないんだと思う。展開の前振り程度に思ってるんじゃなかろうか。
「切っ掛け」をわかりやすく印象的なものにすると、「ここで変わった」と読者にわかりやすいので、変化に対しメリハリを感じやすいでしょう。

上記の回答(とある映画監督の感情グラフについての返信の返信)

スレ主 リトル : 1 投稿日時:

 >例えば「不安」というのは「読者が不安に感じる展開を書く」ってことだと思うけど、都合よくそんな展開が出来て作者の狙い通りに「読者が不安に感じるシーン」が書けるのか、ってことが問題でしょう。
つまりは「それどうやんの」「おまえ出来んのか」って話かなと。

 「不安」を書こうとするのではなく、「緩和」と「苦しい」を書けば、それが自然と「不安」になるということです。「不安」だけを意識するよりは、緊張度と気楽度を複合的に考えた方がやりやすいと思います。

_____________________
 >例えば不安も苦痛も興奮もないハートフルな日常モノを想定して「なんだか読後にほっこりする(安心がある)作品」って作品の場合、スレ主さんのグラフでは解説しきれないんじゃないかな?

 おっしゃる通り、そういう作品は難しいと思います。
_________________
 >つまり、こうした思考は方向性を決めるための一助にはなるけど、同時に方向性を決定してしまう以上は思考を狭めてしまうんだよ。
 構造を具体的にしようとした結果、「自分が想定してる範囲内」でしか通用しないものになってしまっている。
そうなると自分の想像を超えた作品が作れないどころかイメージすらできなくなる事もあるので、ほどほどにしたほうが良いと思う。
なので、間違ってはいないと思うけど、正しくはない。
「そういう観点」から見れば正しいと思う。
 メリハリのある感情の変化…っていうか、そもそも「変化」って『「A」が「A’」になる』ってことじゃん?
だから、変化自体はパターンとかグラフとか作らんでも変化前と変化後の二つがあれば表現できる。

 私自身、変化前と変化後の間にある、その過程が曖昧なので、そこを具体的したいと思っています。確かに、具体的なルートを決めるため、「自分が想定している範囲内」でしか描けないことはリスクだと思います。
________
 >変化の落差が激しいと、激しければ激しいほど変化が急激になってしまうから、「変化前」と「変化後」の間に「切っ掛け」が必要になる。変化する切っ掛けね。
で、その「変化前」「切っ掛け」「変化後」の3要素の印象値的なものの話をすれば、スレ主さんの論と多少重なる部分もあるかなと思う。

 「切っ掛け」を採用してみると、上記の表で一番落差がある「苦痛」と「興奮」の間に設置されるのでしょうか?
_____
 参考になりました。ありがとうございます。

カテゴリー : 創作論・評論 スレッド: とある映画監督の感情グラフについて

この書き込みに返信する >>

元記事:とある映画監督の感情グラフについての返信の返信の返信

> 「不安」を書こうとするのではなく、「緩和」と「苦しい」を書けば、それが自然と「不安」になるということです。「不安」だけを意識するよりは、緊張度と気楽度を複合的に考えた方がやりやすいと思います。
あぁ、そういう考え方か。なるほど。
感情の変化というか、変化なんだけどどっちかっていうと感情表現の演出の話みたいな感じかな。
複合的と書かれているけど、逆に言うと、一個の感情を分割して表現するということでいいのかな。それはとても良い着眼点だと思います。
ただ、やはり「個人の理解として」あるいは「基本形として」で4つの要素に分けてパターン化するのは意味があると思うけど、実践で使うとなると、前述したとおり「それ出来るのか」「思いつけるのか」って事がハードルになることには変わらないので、あくまで「理解するうえでの構造化」って考えを持ったほうが良いと思います。
要するに、「不安を書けばいい」の「不安」が捉えにくいからと言って「緩和 と 苦しい を書けばいい」としても、だからそれ思いつけるのかよ、って同じところで躓いちゃうと思うので。

でもここで「感情を分割する・複合的に考える」という視点は素晴らしくて、「不安」という要素を別角度からとらえて書くことは、すなわち「不安を書く」のではなく「不安を描写してる」と言える。
ただ、うーん……
繰り返し、あくまで基本形として自分の理解としてパターン化するのは良いと思うけど、
感情を分割して複合的に表現するのであれば、単純に「そのキャラはどんなことに不安を感じるか?」という具体例を挙げていって、それを直接書いてしまったほうがいいと思うよ。
そうして挙げた具体例のうち、基本形のパターンと照らし合わせて微調整したり、より効果的と思える候補を決めたりする、そういう、あくまで「思考」のための一助であって、こういう構造化・分析は「書く」ための手助けにはならんと思う。
自分の選択・判断に理由を付けられる、その理由を基準に良し悪しが判断できる、それが自信につながって筆に迷いがなくなる。
そういうことはあると思うから無駄ではないと思うけども。

>「切っ掛け」を採用してみると、上記の表で一番落差がある「苦痛」と「興奮」の間に設置されるのでしょうか?
いや。「切っ掛け」の話はスレ主さんの考えには合わないものだったかもしれん。
スレ主さんは「感情の変化」はグラデーションのように徐々に変化していくものだと考えられてるから、そこが曖昧になってしまう、のかな。勝手な感想でしゃべってるけども。
でも、意外と感情ってスイッチのように唐突に切り替わるもんだと私は思う。
だから、私が「徐々に変化していく感情」を書く場合はスイッチを何個も用意して「徐々に」を表現してる。
そのスイッチのことを「切っ掛け」と書いた。
で。
「平常な状態(変化前)」から「切っ掛け」があって「不安に感じる状態(変化後)」と書けば、読者は「人物がどのタイミングで何を思って不安になったのか」が明確に理解できるようになるから、この過程が曖昧になることはない。
例えば、ファンタジーなんかで「領民に優しい領主とその家族」があって「あるとき強い盗賊団が襲ってきて領主は領民に裏切られ、領土と家族を失った」と展開し「領主は人間を憎む魔族として転生を果たし人間を滅ぼそうとする」ってエピソードを考えた場合。
これって一番印象的な場面は「領民に裏切られてすべてを失った」ってところで、これは「領主が魔族に転生する切っ掛けの出来事」でしょう?
今回は「憎しみ」っていう感情をエピソード表現してみたけど、そもそも感情の変化において最重要な箇所は「切っ掛け」だと私は思うのよ。
あくまで「変化の演出」においての話ね。
スレ主さんは「変化前」と「変化後」に意識が向いていて、その間の穴埋めをどうにかしたい、って感じに思えたから、
いやいや、穴埋めじゃなくて「そこ」が一番重要な「切っ掛け」だから意識したほうがいいですよ。っていう言葉でした。

なので、スレ主さんの考え方で「不安」を表現したとして、その考えとは別にしっかり「切っ掛け」を意識して注目させないといけないと思うので、
>「苦痛」と「興奮」の間に設置されるのでしょうか?
というスレ主さんの考えにそのまま組み込める話ではなかったかもしれないです。

上記の回答(とある映画監督の感情グラフについての返信の返信の返信の返信)

スレ主 リトル : 1 投稿日時:

 すみません。「不安」という言葉選びが微妙でした。緊張して苦しい状態ですから、「緊迫」の方が適当です。
 「緊張して苦しい状態」の表現なのですが、そこまで難しい事ではないと思います。例えば、「バトル中、負けそうになる」という状況では、
 バトル→緊張
 負けそう→苦しい
 というように解釈できるので、「緊迫」です。
 他にも、「ベッドで横になり、悩み事をする」という状況は、
 ベッドで横になる→緩和
 悩み事→苦しい
 緩和して苦しい状態→「苦痛」です。

 >スレ主さんは「感情の変化」はグラデーションのように徐々に変化していくものだと考えられてるから、そこが曖昧になってしまう、のかな。勝手な感想でしゃべってるけども。
でも、意外と感情ってスイッチのように唐突に切り替わるもんだと私は思う。
だから、私が「徐々に変化していく感情」を書く場合はスイッチを何個も用意して「徐々に」を表現してる。

 そういうことですか。変化にはきっかけが必要で、「どこにきっかけを置くか」という話をしても、そもそも変化ときっかけはセットな訳だから、その話にあまり意味は無いということですね。

 苦痛、緊迫、安心、興奮の4つの状態の適応先なのですが、読者が感じるものでも、主人公の変化でも、1話単位での変化でも何でもありだと思います。私は主に「1話単位」もしくは「1~数話」での変化を想定しています。これくらい細かくすると、長編とかだと収拾がつかなくなりそうなので、1~数話単位での変化をするなら中短編向きだと思います。

 話は変わるのですが、「苦痛」の状態を読んでいると、時間の流れが遅くなった気がするんです。逆に、「興奮」の状態は時間の流れが速くなった気がします。この差を、「読速度の上昇」と「読速度の低下」と解釈するというのはどうでしょうか。
 これにより、例えば物語での「苦痛」の比率を減らしたり、「興奮」の比率を増やしたりして、「苦しさ:楽しさ」や「緊張:緩和」を調整するというのはどうでしょうか。また、例えば、読速度から見た楽しさと苦しさの比率を、「1:1」にしたり「1:3」などにして没入感を高めるということもやってみたいです。
 この比率の最適値も知りたいです。読者層や趣味趣向によって大分差がありそうです。

カテゴリー : 創作論・評論 スレッド: とある映画監督の感情グラフについて

この書き込みに返信する >>

元記事:とある映画監督の感情グラフについての返信の返信の返信の返信の返信

うーん……
この返信を頂いて感じたのは、スレ主さんは何らかの作品を読んで(ないし思い出して)4つの状態に照らし合わせて作品分析をしている、つまり、スレ主さんは「読者」の立場で作品分析をしている、ということです。
なぜ私がそこを気にしたかというと、

例えば、スレ主さんが大好きな作品を読んでみてください。それはもうあっという間とまでは言わんけど時間を忘れて読めると思う。
けど、じゃあ、学生なら歴史の教科書でも取り出して、1p目から読んでみてください。同じように時間を忘れて読めるでしょうか。まあ読めるとしたら歴史じゃなく数学の教科書でもいいや。
>「苦痛」の状態を読んでいると、時間の流れが遅くなった気がするんです。逆に、「興奮」の状態は時間の流れが速くなった気がします。
では、読むのに時間をかけてしまった教科書のほうは、「苦痛」の状態が書かれていたでしょうか。
物語と教科書じゃ違うだろって思うかもしれませんが、私が言いたいのは、「苦痛」が書かれているのではなく「苦痛」を感じているのは読者だってことなんです。
物語において「時間の流れが遅くなった気がする」と感じてるのは「読者」であって、「そこに書かれている内容」ではないんです。

つまり、「読者の立場から分析している」ということで、書き手であれば「書き手の立場から分析しなければならないのではないだろうか?」ということです。
「読者」だから感じることと、「作者」として作り上げるものをごっちゃにして分析してないかな、と思いました。

だから、ちょっと意地悪なことを言ってしまうと、
> バトル→緊張
> 負けそう→苦しい
> というように解釈できるので、「緊迫」です。
これら例題は、まあ、スレ主さんがそう思ってるだけ、と言えてしまいます。
もちろん創作は一人でするものですから、創作論を共有する必要はありませんし、別に「自分がそう思ってるだけ」で何も問題ないです。
ただ、「作者」と「読者」は別の人物なので、必ずしも同じように感じたりしません。ということは「緊迫と解釈できる」とは限らず、作者の独りよがりになってしまう可能性が捨てきれないと思います。

でも状況を限定すれば自ずと解釈も限定されていくので、スレ主さんがよく書くジャンルでスレ主さんの作風の中でのみ成立する論として、間違いだと指摘することはできないかなと感じます。
例えば最初に私が指摘した「ハートフルな日常ものだと通用しないよね」って言に対し、「いや俺それ書かないし」ってなればスレ主さんの中では別に何も問題ないですから。

>この差を、「読速度の上昇」と「読速度の低下」と解釈するというのはどうでしょうか。
読者が「苦痛(文字通りの意味じゃなく時間を感じるような精神状態になってるという意味)」と感じてるだけ、って書いたけど、
そう感じたシーンを思い浮かべてみると、おそらく、端的に言って「ゆっくりしてるシーン」と「激しく動きのあるシーン」の違いがあるんじゃないかと思う。
これは、よくあるというか無意識にというか、状況で自然とそうなるっていう小技で、
「ゆっくりしてるシーン」は単純に文字量が多いんですよ。キャラの心情とかを長めに書いたりするし。
「激しく動きのあるシーン」は、改行も多くスピード感を出すため短い文章の割合も多くなる。
そうするとページを捲る速さが違う、そのため読書速度が上がったように感じられるかもしれないし、実際テンション上がって早く読んでるかもしれないけど、本当に単純な話で1pあたりの文字量が違うってだけだと思う。

>これにより、例えば物語での「苦痛」の比率を減らしたり、「興奮」の比率を増やしたりして、「苦しさ:楽しさ」や「緊張:緩和」を調整するというのはどうでしょうか。
うーん……
結局、「苦しさ」あっての「楽しさ」なんだよね。
楽しさしかなさそうなコメディ作品にしても「緊張」と「緩和」が大事だし、シリアスな話のカタルシスにしても「抑圧」と「解放」の関係が大事になる。
作品の中で印象的で一番面白い場面を最大限に書こうとして、単純に「楽しさ」を増やして「苦しさ」を減らすってすると、たぶん面白くなくなる。
何故かっていうと、「楽しさ」の部分を面白いと感じるための前振りが「苦しさ」になるから、この「苦しさ」を十分に読者に伝えていないと面白くならないから。
では、その比率はどんなものか、どんな黄金比があるのかっていうと、
ぶっちゃけ作品によってテーマによって違う。
「苦しさ」と「楽しさ」が「9:1」で名作って言われてる作品もある。
というか、そこまで逆張りで極端に作れるから名作になるんだけど、うーん……

>「苦しさ:楽しさ」や「緊張:緩和」を調整する
中略
>「1:1」にしたり「1:3」などにして
「苦しさ」「緊張」をどっちも「1」に、つまり最小限にしようとしてる、と読みとれる。
カタルシスを勉強しはじめた初心者とかは「抑圧」と「解放」の「抑圧」を深く書こうとするって事があるんだけど、
つまり「いじめられっ子」が「強くなってクラスメイトを見返す」みたいなシナリオで、「いじめられてる様子」をねっとり長々と書いたりしちゃうんよ。
これは大きな間違いで、読者はそもそも「主人公が虐められて精神的に追い詰められてる様子」を長々と読みたくないし、「クラスメイトを見返す」のが面白いと思う読者は、追い詰められる様子なんか読んでも面白くない。
では、スレ主さんのように「抑圧」を「1」にしてしまえばいい、と判断した場合は、
今度は「抑圧」つまり「虐められてるから相手を見返したとき読者はスカッとする」のに、その前提の「虐め」が薄すぎて「見返した」ときにスカッとしないというか、主人公やりすぎじゃねえの、って思われかねない。
前述したとおり、かえって面白くなくなる。
じゃあ、どうすべきなのかっていうと、
そもそも考え方が間違っていて、「抑圧」を「つまらなく書いている」から問題なんだよね。
「主人公が虐められてるシーン」を面白く書けばいいだけなんよ。
そんな事が可能なのかって思う人もいるかもしれんけど、例えば「虐められてる途中で学園のアイドルがやさしく助けてくれる」とか「学校の外では超凄い人に気に入られてるけど、虐めについては相談できない」とか、読者の年齢を考えて、読者が羨ましいと思える要素を「虐め」に絡めて展開させる。
そうすると「抑圧」ではあるけど「読みたくないもの」ではなくなる。
こういう「つまらないもの」を「面白く書く」って意識が足りないから、「抑圧」や「緊張」や「苦痛」なんかを「1」としてしまってるのではないかなと思った。

上記の回答(とある映画監督の感情グラフについての返信の返信の返信の返信の返信の返信)

スレ主 リトル : 1 投稿日時:

 >私が言いたいのは、「苦痛」が書かれているのではなく「苦痛」を感じているのは読者だってことなんです。
物語において「時間の流れが遅くなった気がする」と感じてるのは「読者」であって、「そこに書かれている内容」ではないんです。

つまり、「読者の立場から分析している」ということで、書き手であれば「書き手の立場から分析しなければならないのではないだろうか?」ということです。
「読者」だから感じることと、「作者」として作り上げるものをごっちゃにして分析してないかな、と思いました。

 「作者として作り上げるもの」と「読者だから感じる事」はそんなに違うものなのでしょうか。ごっちゃにして分析してもいいのではないのでしょうか。作者は「苦痛」という状態にさせようと仕向け、読者は「苦痛」になるということです。
 ただ、作者側の不備で読者を「苦痛」という状態にさせられないと、確かに作者の独りよがりになってしまうと思います。

___________
>だから、ちょっと意地悪なことを言ってしまうと、
 バトル→緊張
 負けそう→苦しい
 というように解釈できるので、「緊迫」です。
これら例題は、まあ、スレ主さんがそう思ってるだけ、と言えてしまいます。

 こういう研究があったら知りたいです。今のままだと私の想像でしかないですね。
________
 >読者が「苦痛(文字通りの意味じゃなく時間を感じるような精神状態になってるという意味)」と感じてるだけ、って書いたけど、
そう感じたシーンを思い浮かべてみると、おそらく、端的に言って「ゆっくりしてるシーン」と「激しく動きのあるシーン」の違いがあるんじゃないかと思う。

 これも私の「気がする」というだけで、作者により「ゆっくりしてるシーン」と「激しく動きのあるシーン」で文字数や改行を増減して「時間の流れが変わった」と読者が思うのなら、私が作者の手のひらの上で転がされていたというだけです。ただ、読者側からも、作者から文字数や改行を調整された上でなお、心理的な面による体感時間の変化はもしかしたらあるかもしれないと思います。苦しい時は時間の進みを遅く感じて、楽しい時は時間の進みを速く感じるみたいな感じです。そういう心理学の研究とかあったら教えてほしいです。
_______
 >そもそも考え方が間違っていて、「抑圧」を「つまらなく書いている」から問題なんだよね。
「主人公が虐められてるシーン」を面白く書けばいいだけなんよ。
そんな事が可能なのかって思う人もいるかもしれんけど、例えば「虐められてる途中で学園のアイドルがやさしく助けてくれる」とか「学校の外では超凄い人に気に入られてるけど、虐めについては相談できない」とか、読者の年齢を考えて、読者が羨ましいと思える要素を「虐め」に絡めて展開させる。
そうすると「抑圧」ではあるけど「読みたくないもの」ではなくなる

 まさにその通りで、「抑圧」をつまらなくさせないこと、「見返し」をやりすぎないこと、展開をつまらなくさせないことを主題とした「比率」という考えです。
 “苦しいシーンを面白く書く”ということですが、それを目指した「比率」という考え方です。
 例に挙がった「虐められてる途中で学園のアイドルがやさしく助けてくれる」と「学校の外では超凄い人に気に入られてるけど、虐めについては相談できない」ですが、苦しいシーンと楽しいシーンに分解して処理すれば、問題なく「比率」に落とし込めると思います。
 例えば、
 「虐められている」→苦しい
 「アイドルが助けてくれる」→楽しい
 「外ではすごい人に気に入られている」→楽しい
 「その人に虐めを相談できない」→苦しい
 となり、例えば苦しいシーンと楽しいシーンを1対1で描いた場合、

 1.「虐められているシーン」→苦しい
 2.「アイドルが助けてくれるシーン」→楽しい
 3.「実はそのアイドルに気に入られている」→楽しい
 4.「その人に虐めを相談できない」→苦しい
 となり、「楽しい対苦しい」が1:1になります。
 この比率がどちらかに偏る場合、例えば1対3とか、10対9とかですが、この比率の読者層や趣味趣向ごとの最適値が知りたいです。

カテゴリー : 創作論・評論 スレッド: とある映画監督の感情グラフについて

この書き込みに返信する >>

元記事:とある映画監督の感情グラフについての返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信

>「作者として作り上げるもの」と「読者だから感じる事」はそんなに違うものなのでしょうか。
結構感覚的なものもあるから、説明が難しい。
舞台の裏から見える景色と表から見える景色は違うよね、と抽象的なこと言ってもピンとは来ないと思う。
観客席の表から裏の構造を分析するのと、裏側から表の反応を分析するのは意味が違うと思う。この違いが大きい。
読者視点だと、当たり前だけど「完成してる作品」が前提になるけど、作者視点だと「これから作る作品」で、読者視点では結果論が多分に含まれる。
まあ、「結果その形になればよい」わけだから結果論でもいいんだけど、だったら最も効率的な学習法は「分析」ではなく「模倣」です。
うーん……そうは言っても「その結果になる過程を分析してるんだ」と思われてしまいそうだけども、ええっと……例えば「作者は敵キャラを嫌なヤツとして書いた」のだけど「結果的に人気が出てしまって続くシリーズでも登場させることになった」なんて場合は、私個人としては「その敵キャラが人気である理由を分析する意味はない」と思う。
そこにも異論があろうけど、というのも、「作者が本気で嫌なヤツとして書いた」という前提があるから、なんらかの展開で人気に火が付く現象が起こったのであって、「人気が出そうな敵キャラ」として書いてたら絶対コケてたと思うため。結果は大事だけど、前提をしっかり把握しなきゃ分析に意味はないと思う。
「敵キャラに人気が出た」というのは結果論であって、「作者は本気で嫌なヤツを書いた」って前提を無視してはいけないんじゃないかなぁ。
つまり、裏から表の反応を気にするのと表から裏の分析をするのは違うと思うし、その分析で得られた答えが正しいものだったとしても、それを実行したところで結果は違ってしまうと思う。
ただ、思考の足しにはなると思う。

今でもたまに聞くのがネーミングに関する問題で、
「平凡だけど主人公っぽいネーミングをしたい」とか「悪役の親玉っぽいネーミングが思いつかない」って悩む人がいるんだけど、「平凡な名前」を主人公たらしめているのはストーリーであって、「平凡な名前」が主人公っぽく活躍するから主人公のイメージが付いていく。結果「平凡だけど主人公っぽい名前」に思える。
決して「平凡だけど主人公っぽいネーミング」をするためのコツがあるわけではない。そんな結果論の分析は無駄。って感じ。
「敵キャラが人気」っていう結果からは、「作者は本気で嫌なキャラを書いた」という前提にはたどり着かない。
もちろん、私はそういう答えに行き着いたというだけで、その分析で得るものはあると思うし、あくまで私にとっては無駄ってだけの話ね。

>こういう研究があったら知りたいです。
研究というか、探せばどっかに論文とかありそうだけど、もっと簡単な話で、
例えば身近な大切な人が死んでしまったら悲しいよね。おそらく9割9分の人は「悲しい」って感じるでしょう。
そういう一般常識として間違えない範囲を限定していけばミスは少ないと思う。
親がネグレクトで虐待を受けてる女の子が、それでも母親に振り向いてもらうため健気に誕生日プレゼントを作って、ところが母親はそのプレゼントを生ごみと一緒に捨てていた。
そんな場面を書いたなら、読者は女の子を不憫に思うし母親に怒りを感じるはず。
そういう当たり前の反応を引き出せる展開を「思いつける」のが大事だと思うよ。

> この比率がどちらかに偏る場合、例えば1対3とか、10対9とかですが、この比率の読者層や趣味趣向ごとの最適値が知りたいです。
そりゃ本ごと違うよ。
例えば、私はわかりやすく「学園のアイドルに助けてもらう」って書いたけど、じゃあ、そのエピソードの落ちで「学園のアイドルはイジメっ子と付き合ってて、主人公を罠にハメていただけだった」ってなったら、どうよ。
たぶん、「抑圧」としてはこっちのほうがより面白い展開だと思うよ。私は鬱展開が苦手なのでこういうの嫌いだけど。
「苦しい」が10割で救いがない話もあるし、映画ダンサーインザダークとかバッドエンドものは「苦しい」の比率が高いんじゃないかな。
でも「そこが面白い(見どころ)」っていう作品作りなわけじゃん?
で、そういう作品作りの方向性は文字通り作品ごと違うのだから、「比率」という考え自体を否定はしないけど、それはスレ主さんのみに通用する比率であって、すると、それはスレ主さんが自ら手探りで作っていくものだよ。

傾向を知りたいのかもしれないけど、こういうのはあくまで私見の域を出ないから、私の回答も「私の回答」でしかないよ。
まずは何にしても「作品テーマ」や「何を書きたいのか」や「どこを見てほしいのか」っていう作品の中心に置くものが重要になる。
例えば「虐げられてる奴隷たちが革命を起こして自由を得る話」なんてのを想定したなら、「革命」というクライマックスが起こるまでは「抑圧」を書くことになる。
書きたいテーマが「抑圧」の側にあるのなら、6:4 ~ 10:0くらいの割合じゃないでしょうか。
一方で、例えばハリーポッターみたいな「虐げられてる少年が別の環境で才能を開花させる」という、「抑圧」を話の前提に置く場合もある。
読むせんさんが挙げられてるけどいわゆる「ざまぁ系」がこれですよね。
この場合、「虐げられてる」という抑圧の前提は「主人公の行動理由」とかでしかないし、作品テーマはその前提から生まれる「主人公の冒険」だから、抑圧自体は「主人公の現状紹介」に内包されていて、ほとんどそこだけなので、比率としては1:9 か 3:7じゃないでしょうか。

ちなみに私がこの比率に感じた理由は、
書きたいテーマが「抑圧」側にある場合は全編通して抑圧されてる様子を書く10:0の話になるか、三幕構成のミッドポイントまで抑圧を書いて話の落としどころを提示した以降にオチへと転ずるから、物語の半分を少し過ぎたあたりから変わる6:4の2パターンを想定したため。
「抑圧」が話の前提になる場合は、前述したとおり「主人公の現状紹介」に内包される1:9になるか、物語が本格的に始まるターニングポイントまでの3:7ではないかなと考えたため。

年齢層で言うと、バッドエンドものは難度高いし読者も選ぶし対象年齢高めになるから「抑圧」の割合が6から10に上がるごとに年齢層も高くなるんじゃないかな。
抑圧の中にも希望を出しておいて中盤以降に盛り上がるんであれば、背伸びした10代前半も楽しめるかな。
「抑圧」が前提になる場合は、ハリポタって児童書の例もあるように、前提にするだけならアクセントになるのみだから特に考える必要はないけど、なろう のザマァ系とか復讐ものになると「抑圧」の前提を雰囲気だけでなくちゃんと理解しないと話が追えないからそこそこ対象年齢は上がると思う。
あくまで私見だけどこんな感じかなぁ。

上記の回答(とある映画監督の感情グラフについての返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信)

スレ主 リトル : 1 投稿日時:

 作者は過程を作り、読者は結果を見る。
 読者は過程を知ることはできない。つまり、結果から過程を知ることはできない。だからこそ、読者視点と作者視点は違う。
 読者視点からの分析で得られた答えが正しかったとしても、作者側も完璧ではないので、それによって読者の動向を完璧に制御することはできない。ということですか?
______
 それから、比率の考察ですが、ありがとうございます。参考になります。

カテゴリー : 創作論・評論 スレッド: とある映画監督の感情グラフについて

この書き込みに返信する >>

元記事:とある映画監督の感情グラフについての返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信

私が変なこと言ったせいでだんだん主旨からズレてしまってきてるけども、
感覚的なものを説明しようとしたためにややっこしいこと言ってしまったけど、そういう小難しい理屈じゃないかなと思う。
というか、いまさら大前提を置くけども、これあくまで 私が言ってるだけ のことだからね。

読者は過程を知ることはできないというより、読者はそもそも知る必要がないから、読者視点だとそこを認識すらしない。
前のレスではあくまで説明のために「前提」とか「結果」とかって言葉を使ったけど、
そもそも「悲しいシーン・楽しいシーン」を作るには一種のロジックっていうかテンプレみたいなものがあって、そこに当てはめて形を整えたりすりゃ書けるし、えーっと、つまり、
これもほんと説明のためだけの例えだけど、
「作者の感情・やりたいと思う事」 → 「それを形にするための数式」 → 「読者がそれを読んで感じるモノ」
みたいな図式が作品に対するざっくりした作者と読者の関係のようなもの。
で、このスレッドの本旨である「感情グラフ」は「形にするための数式」の一つだと思う。だからそこを考えること自体は間違ってないし良いことだと思う。
でも、読者はそもそも「作品を読む」が最初にあるから、読者視点の場合この図式の指向が逆になってる。
すると、前述したけど 読者はそもそも過程を知る必要がない から、
つまり、読者は過程を知るのではなく、結果から直接作者の作品を「読み取る」わけで、
「読者が作品を読んで感じる」 → 「作品を読み取る・共感する」 → 「作者がやりたいと思ってる事を知る」
ってなる。
その中で「作者はこの展開にしたいから、このキャラはこういう性格なんだ」なんて仕組みを読者は知る必要はないでしょ?

で、この読者視点の「分析」だと結果ありきだから、例えば「ゴブリンスレイヤーの主人公は熟練者だけど英雄と比べて弱く描かれている。この弱さがカッコよさの秘訣だ」とか考えたりする。
主人公は特別強いわけではないけどカッコよく活躍するからね。
そういう主人公を作りたいと思ったアマチュアは、読者視点だと「自分が感じ取ったもの」が頭にあるから「弱いけど活躍するヒーロー」を作ったりする。
けど、作者視点だとこれはまったく違って、
「ゴブリンスレイヤー」の主人公は「ゴブリンに親しい人を目の前で殺されて復讐に生きてて、ゴブリンを殲滅するためならなんでもやる」という設定になってる。
おそらく「ゴブリン殲滅」が書きたいことで「親しい人を目の前で~」ってのは理由付けだろう。
そして、そこが魅力でそこが作品の面白味になる重要なパーツって設計をしてる。
だから「ゴブリンに対する執着」というワードがとても大事で、「ゴブリンを殺すためならどんな事でも執念深く追い詰める」ということを表現するために「強いヒーロー」より「弱いヒーロー」のほうが「執念」を書けるので主人公に特別な能力を与えることはなく、熟練者という程度が適切。という答えになる。
つまり、「自分が感じたもの」ではなく「そのシーンの目的」など物語ないし作者の考えを想定して考える。
だから、読者視点の分析だと「弱いけど活躍するヒーロー」は書けるけど、作者視点でないと「何かに対する執念で弱くとも挑んでいくカッコよさ」は書けない。
ゴブスレ主人公の魅力は「弱さ」や「強さ」ではなく「執念」なので、極論、無双キャラでも同じヒーロー像は作れる。

でも、「弱いけど活躍するヒーローがかっこいい」という結果と、その分析結果は別に間違いってわけじゃないと思う。
あくまで「弱いけど活躍するヒーロー」はうまくすれば書けると思うから。
けど「ゴブリンスレイヤー」の主人公の魅力は分析しきれていない。それは作者視点が足りてないから。
ちなみに、これは「ゴブリンスレイヤーの作者の視点」って意味じゃなくて、「自分が書き手である(創作する立場の人間)という視点」ね。

じゃあ、その作者視点(書き手の視点)とは何かって言ったら、これは単純で、
「作者(書き手)が何をしたいのか」がまず頭にあるってこと。
作品分析する際には、「その作者は何をしたくてこの設定にしたか・この展開にしたか」を前提に置かないと。読者視点の場合は「この展開を読んで自分がどう思ったか・感じたか」が前提にあるから。
そういったものを無しに「Aを書くためにはこういう工程を踏めばいいんだ」と分析したところで、それは既存作の「ガワ」だけを分析したにすぎず、「なぜ・中身・目的」そういったものが抜けている。
そのため具体性がなく、具体性が持てないと再現性もないので、それはおそらく、失礼なこと言うけど、おそらく 理解したところで書けない・表現できない と思う。

私の言はまるで「読者視点は良くない」とでも言いたげだけど、別にそうでもなくて、考えることは思考の足しになるし、「模倣」で書くなら読者視点でガワを真似てったほうがよりよいクォリティで形になると思う。
下手に分析せずに真似て学んだほうが良いこともある。
「この展開を読んで自分が感じたこと」を強調して書けばオリジナルよりも一歩進んだ形に書けるし、読者視点の理解が良くないわけではない。
作者視点が足りてないよという指摘だったので。

というのも、スレ主さんは「小説の構造において、この四つの状態を繰り返し配置することで、」と、「繰り返し配置する」というワードから短いシーン単位での構造を想定していたものと思われる。
けど、そもそも「そのシーンの目的は?」ってことを考えると、その比率は千差万別で「どういう目的があってこういう比率にしている」と答えられる分析ではないと思ったため。
「メリハリのある感情変化」というのが目的のように受け取れる文面だけど、これは結局のところ「読者を飽きさせないためには」という事に集約されると思う。そのための「メリハリある感情変化」なのでは?
すると、感情グラフそのものの分析や映画監督の言の流用は良いと思うけど、そこだけ切り取った分析は、それだけでは不足ではないかと思う。
そもそも「こういうテーマの物語を書くうえで、こんなシーンがあり、こういう印象を与えたくて」とかなり限定されたときに、「感情グラフ的にこうしたほうがいいかな」と判断の助けになるような考えだと思うかな。
なのでそういう「前提のテーマや目的」が知らされてない状態で第三者が「感情グラフは正しいね」とは言えんと思うし、たぶん、その感情グラフはシーン設計が正しいかどうかを判断するツール(なので解説には向いてる)で、シーンを作るための道具ではないと思う。

上記の回答(とある映画監督の感情グラフについての返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信)

スレ主 リトル : 1 投稿日時:

 納得しました。
 相談することで思考がクリアになりました。ありがとうございました。

カテゴリー : 創作論・評論 スレッド: とある映画監督の感情グラフについて

この書き込みに返信する >>

現在までに合計21件の投稿があります。 5件づつ表示中。現在全5ページ中の1ページ目。

ランダムにスレッドを表示

魔法が使えない理由付け

投稿者 霜月 一三 回答数 : 20

投稿日時:

はじめまして。初めてこのサイトに質問を投稿します。 私は小説家になろうに作品を投稿しています。異世界転移系の長編です。 その作品... 続きを読む >>

小説の批評と欠点の指摘

投稿者 朱鈴 回答数 : 2

投稿日時:

こんにちは。 以前ノベル道場のほうで『家族の記憶』を批評依頼をさせて頂いた朱鈴(あかりん)です。 プロット板かノベル道場に投稿す... 続きを読む >>

能力名について;漢字四文字にカタカナでルビを振るのはパクリか。

投稿者 妻杉 一起 回答数 : 1

投稿日時:

『とある魔術の禁書目録』では超能力名が漢字四文字にカタカナのルビを振ったもので表されますが(例えば“超電磁砲《レールガン》”など)、... 続きを読む >>

ランダムに回答を表示

元記事:構想途中のネタについて

こんばんは。
現在チマチマ活動しております灰野と申します。
現在、小生は障がいを持った主人公達の冒険譚的なものを書こうと思っておりまして。
『叡智の泉』と呼ばれる不思議な泉と、その泉を守るように作られた迷宮(ダンジョン)を巡って、主人公達が旅をする、というあらすじなのですが……。
ちなみに、登場するのは全員獣人(○ートピア風)です。
もっと泉についてとかの設定を細かく練りたいので、どなたかアドバイスよろしくお願い致します。

上記の回答(構想途中のネタについての返信)

投稿者 t : 0

こんにちは
面白そうなお話ですね。
この場合、私だったら逆で現時点では叡智の泉については何も考えないです。

この物語には、
障がい、泉を守るように作られた、全員獣人、そして叡智の泉。
この4点が他にはない魅力といえます。
念のために書いておくと、障がいはネガティブな意味で使うのではなく。ポジティブな意味で使うことを前提としています。

これはあくまでも考え方の一つとして聞いてもらいたいのですが。
障がい、泉を守るように作られた、全員獣人。
この3点を結び付けるものが今だと叡智の泉です。
よって叡智の泉を魅力的に表現しようと思ったら。
逆説的に、障がい泉をまもるように作られた全員獣人、と『物語の方向性が主人公が叡智の泉へ向かって旅をする』となっているかぎり。
その旅が叡智の泉の存在の証明となり、今あげたそれらの設定より一番上にきます。

叡智の泉に到着すると。
それこそ真っ白な空間でも、それこそただの泉でもいいわけです。
考え方としては、
叡智の泉を、障がい、泉をまもるように作られた迷宮、全員獣人で叡智の泉を表現します。
何かの参考になれば幸いです。

カテゴリー : 設定(世界観) スレッド: 構想途中のネタについて

この書き込みに返信する >>

投稿日時:

元記事:宗教が元ネタ、どんな扱い方ならOKか

よろしくお願いします。初めてこの場所を利用しますので、失礼がございましたら、申し訳ありません。

宗教を元ネタにする場合、何処まで、どんな扱い方ならセーフなのでしょうか?

元の形が匂えど、アレンジした状態なら? もしくは全く別物にしたなら?

一部だけを抜粋して、その情報に別の情報を肉付けして利用するなら?

こちらとしては、宗教の事柄や言葉、そういった情報そのまんま利用する気はなく、アレンジした、一部利用した、そのままみたく見えるけど意味合いが全く違う利用方法だった、などで、これ本家そのままですよ! というような使い方はしないつもりです。

こういった使い方なら許されるのでしょうか? もしくは、そもそも宗教を元ネタにすることは駄目でしょうか? 宗教関連を元ネタにする場合、注意する事柄を教えて下さい。

上記の回答(宗教が元ネタ、どんな扱い方ならOKかの返信)

投稿者 あざらし : 2

ある程度のボーダーラインは引けるかと思います。
大前提としてですが、宗教をネタにした作品はイッパイあります。
知名度が比較的高く、かつ際どい作品をあげますが、
例えば映画なら【マーティン・スコセッシ監督:最後の誘惑】
アニメなら【サウスパーク】
漫画なら【中村光著:聖☆おにいさん】

上記作品を少々補足します。
【最後の誘惑】
名監督の手による名画。
個人的にも好きな映画ですが、キリストその人をあまりにも人間的に描いたことがキリスト教徒の反感を買った模様。教義的にも神の息子なので、まるっきり間違いではないと思うのですが、まぁ、文句つける人はいるだろう、という感じです。

【サウスパーク】
ある意味、中道的リテラシーを試される苦笑いと爆笑が入り交じるアニメ。
そもそも作風として、日常生活に溶け込んだ偽善から国家犯罪まで、ブラックユーモアと風刺により歯に衣着せぬ物言いで斬りまくるので当然っちゃあ当然。
このアニメにかかるとアンタッチャブルはないに等しいので、イスラム教から中国まで噛みつかれたり舐め回されたりします。
コンピューター使用のストップモーションで一話あたりの制作日数が6日。時間が短すぎて局の介入による放送停止判断が間に合わないらしい。(なので、危険すぎて以後お蔵入りになる幻回もあります)
個人的には大好きですが、これは日本では絶対に作れないだろう作品。
アニメとしては異例の長寿番組でもありますし、ケーブル局とはいえアメリカの懐の深さも垣間見られます。

【中村光著:聖☆おにいさん】
内容は今更でしょうし、未読ならば試し読みでどうぞ。
線引きの感覚をご自分でつかまれるには、小説以上に参考になるかと思います。
フランス語版に続き、英語版もありますので少なくとも出版社(講談社)は『問題ない、GO!』という判断を下しています。
個人的に感心する工夫は、
1)笑いをユーモアに絞り込んでいる
2)人間の信者は排除している(記号以上の扱いをしない)
3)キリストもブッダも愛すべき対象として描いている

ちょい補足すると
1)ウィット・コメディ・ギャグ・ジョーク、笑いの種類も色々ありますが、ユーモアを基本にしてます。
むりくり言語化すると、個人を特定せずとも成立するが、理解するのに共通認識が必要不可欠となる、普遍的かつ潤滑油的な和みを主とした笑いとでもいいましょうか。
受取手にとって共通認識となるのが、キリスト教と仏教。

2)ずっと追いかけて買っているほど熱心な読者ではありませんが、(知っている限り)信者は記号的なもので、基本的に登場人物は物語化された教義の登場人物を漫画のキャラクターにしています。
元々が誰かを傷つける類いの笑いではありませんし、そもそもキャラクターが実存していません。
これにより「お前のかーちゃん、で~べ~そ~」という『母』が存在しない。
ただし、実存しなくとも「綾×レイは、で~べ~そ~」でムッとくるファンもいる。ここでユーモアに絞り込んでいることが活きてます。

3)言葉のままです。
神ではなく、キリストさんとブッダさんという二人の人間ならば良い人すぎるキャラクターですし、実際に神であることを知らない大家さんの認識はおおむねそうです。

4)追記ですが。
世界三大宗教のキリスト教と仏教が出てますが、あともうひとつのイスラム教、ムハンマドが出てきません。
教義で偶像崇拝が硬く禁じられていますので、『絵に描く』ということが信者さんを傷つける行為になります。
これは著者さんの線引きだろうと思います。
キリスト教もプロテスタントの中には偶像崇拝禁止の宗派がありますが、カトリックがやってるのを放置して、漫画にだけ文句言うなんてことは無理がありますしね。
カトリックとして偶像崇拝を禁じていないのは『広く一般に親しみを持ってもらうため』という理屈ですが、宗教画の量産という過去がありますから、そうとでも膏薬をつけるしかないのでしょう。

私個人としては、全く問題ないと思いますがこれだけやっても批判する人はいます。
絶対になくなりません。
実際、遊学してた時の知り合いにキリスト教徒が何人もいますが、そのうち一人には『絶対に読ませられないだろうなぁ』という感じです。
人生は勿論、日常生活においての判断基準が『聖書にはどうあるか』が全ての人なので。
メチャクチャ良い人なんですが、それがキリスト教徒と関係はあるか? というのは未だに謎です。

最後に。
『では小説は?』というと、あげた三作品と比べると際どいとは言いがたい。しっかりと回避しています。
【フィリップ・プルマン著:ライラの冒険】日本なら【村上春樹著:1Q84】あたりでしょうか。
以前宗教関係の著作で書かせて頂いた【サルマン・ラシュディ著:悪魔の詩】は別枠。あれは”からかう”レベルで喧嘩売ってるようにも感じます。
作者が元イスラム教徒ですし、何か鬱積したものがあり、小説内で爆発させてしまったような感じ。
【ライラの冒険】は、読めば『キリスト教』だと解りますが、そもそもパラレルワールドの話し。この時点でメタ的には『フィクションじゃ!』です。(他にも仕掛けはあるので興味があったらどうぞ。映画とドラマで映像化されてますが観てません)
【1Q84】も、まぁ同じですね。

最後に。
小説は、当たり前ですが映像ではないので、直接的に『○○教』だと書く必要も無く、その利点を利用することは先人が大勢やってます。
映像の場合は登場人物がダルマティカと似た服を著ていたら、制作者がいくら架空だといったところでイメージ的にキリスト教と直結します。
服装ひとつにしても、イメージと乖離するようにデザインを起こさねばなりません。

大げさにいえば、中世の時代を題材にした場合でも、映像の隅、道ばたにコカコーラの缶が転がっていたら、
【映画なら観客は】撮影時のミス。間違って映ってしまった。
【アニメなら視聴者は】ミスはありえない。わざわざ描かないとこんなことは起こらない。どんな意味があるのだろうか?
【漫画なら読者は】アニメと同じですね。
こう思うわけです。

ところが小説の場合は行間から読者が読み取ります。
『文章では一行も書いていないこと』これを読者は脳内で作り出します。
おおよその宗教はゆったりした服を着ていることが多いですが、ダルマティカを想起させるようなポイントは避ける。
もっといえば、完全に特定する手がかりとなるコカコーラの缶をわざわざ描かない。
そのために協議も含めて各宗教の特徴を知っておくことで、特定宗教から距離をとって、ぱーぷんさんが書きたい小説を書けるのではないでしょうか。

長々と書きましたが執筆頑張ってください。
応援いたします。

カテゴリー : 著作権・オリジナリティ スレッド: 宗教が元ネタ、どんな扱い方ならOKか

この書き込みに返信する >>

投稿日時:

元記事:最初の一行について

いつのことだか、はたまた言われてもないことなのか。
私は誰かにこう教えられたんですよね。最初の一行は作品の全てを表すものと。

私は小説の書き始めに一番集中力を使います。読者が最初の一行で飽きられないように、読者が最初の一行でどんな話なのか理解できるよう暗闇を照らす灯火になるように、読者が最初の一行で小説のテンポをつかめるように。

だから最初の一行を書く時は全体像を頭で描きながら、一行目を語る主人公の性格を把握して、最初の一行が作品のどの行に当てはめても繋がることができるように気をつけてます。
脱線しますが夜下が書けなかったのはそのせいです。

もしかして、こういう意識は間違っているのでしょうか?
こればっかりは少し不安です。

上記の回答(作家に必要なステータスは、『MPの回復力』だ!!)

投稿者 ごたんだ : 1

難しいものを最初にやろうとするのは、馬鹿である。

何故なら、後の自分の方が精神論を持ち出さない限り、絶対的にうまいからだ。

最初に書き出した文は最も、書き直され、書き直すのが最も多いであろうシーンをまず書くべきで、最初の文が作品のDNAだと言うなら、それは『キャッチフレーズ』である。

それが出来ないのは、『プロット』が出来たない。
ページが足りないのは、処女膜が足りないせいである。

何度も言うが、後からいくらでも修正出来るものに『ロウ力』を錯ことは、己の強味という旨味を逃がす行為だ。

下らない質問は、作品に問え!!!
くっ~臭いガスを作品に込めろ!!
他人、増してネットで吐き出すな!

カテゴリー : 文章・描写 スレッド: 最初の一行について

この書き込みに返信する >>

投稿日時:

トップページへ

▼書き込みの検索

▼投稿者の検索

質問、相談をする!
コメントは4500文字以内。
返信通知設定(必要なければ外してください)

「私はロボットではありません」にチェックを入れてください。

ページの先頭へ

小説の書き方Q&A:創作相談掲示板の使い方・利用規約(必ずお読みください)。お問い合わせ