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壱番合戦 仁さんの返信一覧。得点の低い順1ページ目

元記事:文章に突き刺さるような衝撃が足りません& アスペルガーの作者がアスペルガーの進行を出すのはセーフでしょうか?の返信

こうした例文というのは、おおよそ「私の好きな作品の例です」という形で参考になるものを挙げるのが当然ですが、これは、一つ大きな誤解が含まれることになります。

例えばですね、ベガさんがまったく知らないし興味もない、そんなジャンルの名台詞を並べたとして、ベガさんはその名台詞に「メッセージ性がある」「心に刺さるようだ」と果たして感じるでしょうか?

要するに、ベガさんはその作品の内容を知ってるから、「君を救うためなら俺は何度でも死ぬ」という台詞の意味がわかる=メッセージが伝わってくる、というわけです。
つまりこれ、物語(内容)あってこそなんです。
「好きな作品」はそれだけ思い入れがあったりするからなおのこと。

言ってしまえば、「その文章」それ単体では、大してメッセージ性もないし、普通の文章です。
ただ、内容を知ってればその文章の「背景」が見えてくるので、素晴らしい文章に思えるんです。
「突き刺さるような衝撃が足らない」と思うなら、その原因は「文章」ではなくて、「背景」つまり物語のほうです。
リゼロから抜粋した一文は、実は私は読んでないので詳しい内容は知りませんが、概要くらいは知っています。その概要から考えるに、「君を救うためなら俺は何度でも死ぬ」というのは作品の主旨をまるっと表現した一文ですよね。
何度も死んで、ループして、辛い思いをしてでも相手を救おうとしている。本編はそういう内容の物語だと思うんですが、違いますかね?
その「物語」が良いものなんであって、「文章」が良いわけではありません。
この例文の場合は、確かに主旨をコンパクトに表現していて秀逸だけども。別に心に刺さるような表現をしようと思って書いたわけではないでしょう。

歌詞の場合は、小説よりも込められる言葉の数が少ないので、フレーズ、つまり単語で似たようなことをしています。
1の例文は、少年少女ががむしゃらに行動して希望をつかみ取り、一気にゴールへたどり着き次のステージへ進む。そんな物語がイメージできます。
わかりやすい単語を置いて、その複数の単語から連想されるイメージで一つの物語が作れるわけですね。
そのイメージがすなわち「メッセージ」という事。
例えば偉人の名言なんかもそうだけど、その言葉から連想できる言葉の背景がある。
その名言を聞いて理解した瞬間、聞き手のほうがそういう物語を勝手にイメージしちゃう。

で、小説の場合はというと、小説には作者が決めた物語が存在するので、これをより強く強調することが大事だろうと思います。
歌詞や偉人の名言みたく「勝手にイメージ」されたら困るので、作者が考えた想定通りのイメージを強くしてもらう必要があるわけです。
行き当たりばったりで小説を書いてたり、雰囲気しか決めてない場合は、おそらくこのあたりでかなり悩むでしょう。
というのも、「こういう物語」という主旨が決まってないので、「何を強調した文を書いたらいいのかわからない」となるためです。
リゼロの場合はヒロインか誰かを救うためにループして何度も主人公が死ぬって話ですよね? だから例文みたいな台詞が出て来る。
こうした主旨が決まってなかったら、絶対にと言っていいほど、例文みたいな台詞は思い浮かばなかったろうと思います。

まとめると、
その例文は「文章」それ単体では、普通です。
ただ、「物語を凝縮した一文」なので、内容を知ってればその一文の意味が、書かれている事以上にイメージできる。
これによって読者は「それまでの過程」を一気に連想するので、この一文が非常に重いものになってくる。
つまりここで連想し印象に残る物語が強いほど、一文に強いメッセージ性を与えることができる。
要するに「物語」あってこそ。
こうした文章は、おおよそ話が盛り上がるタイミング、クライマックスか、読後感を深めるためのラスト数行か、あるいはこれから読む物語の雰囲気を知ってもらうために序盤へと配置することが多いと思います。

上記の回答(感謝!)

スレ主 壱番合戦 仁 : 0 投稿日時:

前回もコメントしてくださりありがとうございます。
なるほど、 なるほどプロトができていてもストーリーの趣旨や 物語のテーマができていなければ 重い文章というのは書けないんですね。
大変参考になりました。
ありがとうございます!

カテゴリー : 文章・描写 スレッド: 文章に突き刺さるような衝撃が足りません& アスペルガーの作者がアスペルガーの進行を出すのはセーフでしょうか?

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元記事:話の筋を作りながら物語のテーマにぶち当たるまで思いつくままに書いていていいんでしょうか?& アスペルガーの作者がアスペルガーを題材に…………の返信

正直、自分でもどこまで踏み込んで良いのか戸惑いがあります。小説作法の質問として真剣に答えるつもりですが、お気に障ることがあれば申し訳ありません。

>1.アスペルガーの作者がアスペルガーの 主人公を出していいのか?
また、アスペルガーの作者が、 実体験をもとにアスペルガー症候群を題材にしていいのか?

これに関しては特に問題ありませんが、その物語で主人公の意志を描写する時、注意する点が幾つかあります。
竹牟礼様の目標も考慮した上で言うと、「主人公に、読者が共感する要素を取り入れる」「アスペルガー症候群持ちの主人公ならではの意志を描写する」といったところでしょうか。

アスペルガー症候群持ちかどうかは関係なく、とにかく主人公は読者に肯定される存在でなければなりません。そして、竹牟礼様の「本気でかつて自分にも向けられた発達障害に対する差別や偏見を、他でもない自分のペンによってぶっ壊そうと思ってます」という意志を考えれば、尚更外せない要素です。

とはいえ、共感する要素というとあまりにも抽象的ですので、「読者の意志と主人公の意志を重ねる」と申しておきます。
ラノベ読者のような人は大抵、「美少女と出会いたい」「超能力を使ってみたい」「異世界に行ってみたい」などの欲求を持っています。その欲求を主人公が持っているなどすれば、主人公は読者にとって共感できる存在という事です。
「読者と同じ事を主人公が思ってる」というとわかりやすいかと。
ただ、そういった設定があるだけでは、読者は実感を持てません。
物語中に度々、そのような「共感できる意志」を見せると、効果は大きいです。

「アスペルガー症候群持ちの主人公ならではの意志を描写する」という事ですが、自分から言える事はあまり無いかもしれません。
アスペルガー症候群を持つあなたが感じてきた事を、物語の中に取り入れる、という辺りでしょうか。
設定を活かせる上、読者に伝わるものも大きいかもしれません。

>2. 「物語のテーマにぶち当たるまで話の筋を掴みながら場当たり的に書いていき出来上がったら推敲する」という書き方でも大丈夫なのか?

ラノベの作法というのは、必ずしも「一つのものが正解」という訳ではありません。
もちろん基本や傾向、前提などは数え切れない程存在し、それらは基本的に意識すべき事です。
しかし、最終的に作品を構成する方法となると、作者によって違ってくるでしょう。
あなたの師匠が仰る方法が、100%正解とも間違いとも言えません。
ですので、その方法を実戦するかどうかは、竹牟礼ご自身が決めるべきです。作品を書いていく中で試し、経験を積んでいくのも良いですし。
いっそ、方法を否定してしまうのもアリなんですよ。もちろん、自分なりの方法が見つかっている場合に限りますが。
とはいえ、その師匠の実力が確かなものなら、それを取り入れて損はないと思います。

今回の質問二つについては、最終的に竹牟礼様の意志が関わってくるでしょう。
アスペルガー症候群を持った主人公の気持ちは、竹牟礼様の経験を元にすればしっかりと描写できるはずです。
そして、作品のつくり方は千差満別である事を理解した上で、自分に合うものを見つけて下さい。つまりは、これにもまた経験が必要という事です。
あなたの師匠の仰る案は、一つの例です。しかし、覚えておけば必ずあなたの経験、そして力になるでしょう。
自分の意志を元に、様々な方法を見つけていって下さい。

上記の回答(勇気づけられました!)

スレ主 壱番合戦 仁 : 0 投稿日時:

ありがとうございます!
気に触るどころか勇気が湧いてきました!
様々な人に小説についてアドバイスされましたが、こんなに勇気づけられたのは初めてです。
自分の中でまとまっていなかったことが黒瞳さんのコメントに詰まっていました。
また行き詰まったら質問しますので、 是非ともよろしくお願いします!

カテゴリー : 小説の批評依頼 スレッド: 話の筋を作りながら物語のテーマにぶち当たるまで思いつくままに書いていていいんでしょうか?& アスペルガーの作者がアスペルガーを題材にしていいんでしょうか

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元記事:本人の経験をもとにしていいか、師匠とはどういう人か

 以下、出来る限りのことを申し上げておりますが、門外の者ですので、間違いもありましょうし、誤解もあるかと思います。また一個人の考えでもあります。予めお詫びし、ご了解、ご高察をお願いいたします。

―――――――――――――――

> 1.アスペルガーの作者がアスペルガーの 主人公を出していいのか?
> また、アスペルガーの作者が、 実体験をもとにアスペルガー症候群を題材にしていいのか?

 なぜこういうYes/Noの選択にするのか、ちょっと戸惑います(こういう選択肢に絞った経緯が分からない)。ただ、前段で竹牟礼さんご本人がアスペルガー症候群だと自己紹介されておられ、そこからは当事者・経験者だから他人よりよく分かるという実感をお持ちのようです。

 確かに、普段は気にしていない人よりはずっと知識があり、ご自身の経験としては感覚的な細部に至るまで感じ取っておいででしょう。なんとなれば、自分の内心まではっきり分かるのは自分以外にはいないわけですから。

 アスペルガー症候群について、一般的で初歩的なことから考えてみます。専門医がよく参照する臨床基準資料にDSM(「精神障害の診断と統計マニュアル」米国精神医学会編)があるのはご存じだと思います。現在、第5版、DSM-5(2013年~)ですね。
(他に、ICDがあるが、個人的に聞いている臨床への用いられる度合いや、最新版ICD-10ができた時期などを考えて、割愛します。)

 DSM-5からはアスペルガー症候群の記載がなくなったこともご存じだと思います。アスペルガー症候群という括りで診断することが難しく、他の症状と合わせて判断したほうが良い、といったことがあったようです。その辺りの事情は、専門家での議論であって、私のような一般人には分かりません。

 ただ、アスペルガー症候群という症名から、どういう人なのかということを考えるのは難しいということだけは確かだと思います。アスペルガー症候群だからどうこうと、肯定的、あるいは否定的、さらに差別的に考える一般人がいたとしたら、もう専門医でも諦めた判断に固執し、勝手なイメージでやってしまっている可能性が高いと判断すべきでもあると思います。

 ですので、フィクションであっても、「主人公はアスペルガー症候群です。だからこういうキャラなんです」といった描写は、誤解を広げないように書くのは非常に難しいと思います。専門医に近いレベルの知識と経験が必要ではないでしょうか。

 なお、これは当事者団体などの活動とは別の話です。生きづらさがあって診察を受け、アスペルガー症候群だと診断され、だからといって生きづらさは解消されない。周囲から差別的扱いも受ける。だから、当事者で集まって問題を解決していこう。それは、非常に大事で、DSMの改定が悪影響を与えないようにしなければなりません。

 竹牟礼さんが構想してお出での物語で、当事者の苦しみの部分にスポットを当てるのなら、問題は起こしにくいかもしれませんね。それも、ご自身が経験したことに限定して、内面含めて描くのなら、さらに問題は少なくなりそうです。

 簡潔に言い直しますと、アスペルガー症候群という括りで一般的に創作してしまうと、傷つく人、困る人、誤解する人が多数出そう。ある一人のアスペルガー症候群の個人的な経験として創作するなら、あまり問題ない創作をすることはできそう(注:できそう、であって、個人経験にすれば何を書いても大丈夫、とはならない)。

 もう少し枠組みを広げて考えてみます。精神医学の本はどれくらいお読みになった経験がおありでしょうか。一般向けのものではなく、大学の医学部で教科書になりそうなものや、臨床心理士が読むようなものです。

 総合的な精神医学教科書を2冊ほど読んだことがあります(他にハンドブック的なものも読んだが、症名の浅い解説程度で参考にならず)。それと臨床心理士向けの参考書。年長の作家志望の知り合い(その後、商業デビュー)から、狂気がないと、少なくとも狂気が分からないと小説なんか書けない、というアドバイスを受け、分からないので読んでみたのです。

 ちょっとびっくりしました。主に2点です。1点めは、どの症状も大なり小なり自分に当てはまるものがあること。もう1点は、まるでフィクションのキャラを解説してるんじゃないかと思えたことです。

 どういうことかと思ったんですが、理解に至る手がかりは精神医学教科書内にありました。異常という状態を舞台に置き換えた喩えがあり、舞台全体を均等に明るく照らしているのが普通の状態だとすると、失調した状態は舞台全体が暗くなったり、一部にだけスポットライトが当たっている状態との説明でした。

 さらに、バス停の喩えもありました。いつも定刻より30分遅れてバスが来るバス停がある。ある日、たまたま定刻通りにバスが来た。いつも通りでない観点からは異常事態と思えるが、定刻通りが本来だと考えると、他の日はずっと異常だったと思える。つまり、価値判断基準次第でどちらにも変わってしまう。

 フィクションだと、キャラの一面を強調しますし、そのために誇張もしますよね。現実にはいそうもない奇矯なキャラはフィクションに数多といます。例えば、照れるたびに主人公を張り倒すヒロイン、なんてちょっと前はよくあったりしましたが、現実にいたら大変です。

 そういうキャラでも理解できるのは、読んでいる読者自身にも、可能性としてはあるため、推測可能だからでしょう。この点は、構想されてお出での物語が読者に理解される可能性を示唆します。しかし、理解できるために非常に誇張されて、現実では見当たらないほどの奇矯なキャラも大勢いるわけです。むしろ、どんどん奇矯にしていかないと、面白みが出ないほどです。

 力を尽くしてアスペルガー症候群の主人公を描いてみたら、ごくありきたりのキャラだった、なんてことになる可能性は低くありません。

 それでも、お考えの差別をぶっ壊すという点が魅力にならないか。構想の重要なポイントの一つのはずですね。現実だって、誰かを虐げるより、一緒に笑うほうが楽しい。それは、笑うからではなく、悪いことをしていないから、つまり罪の意識を感じないからですね。フィクションで得た感覚と知識を現実にも持ち込んで、もっと嬉しい。そうなる可能性はあります。

 しかし、注意点も考えておくべきでしょう。多くのフィクションでは問題を解決しています。奇矯なキャラも、周囲、特に仲間とやっていけるようになるラストが多いわけですね。そう考えると、もう先行例が数多とあるわけです。むしろ、フィクションの大多数がそういうもの。その中で勝ち残れるだけのものがあるか、よく考えておくことが必要だと思います。

 なお、作者本人がアスペルガー症候群だから、というのは小説を補強するものにはなりません。そこをセールスポイントにしてしまうと、作者の魅力込みで小説を読んでもらうことになります。有名人ならともかく(「ああ、これをあの人が書いたんだな」という快感が生じる)、我々無名人では無理でしょう。

 それに、アスペルガー症候群をよく知らない人がターゲット読者層ですよね。知らない人だと興味を引くことすら難しい。タイトルや内容梗概に興味を引かれて読み始めるのは、おそらくかなり知っている人です(だから、もともと差別的ではない点も、ターゲット読者層から外れてしまう)。

 難しいですが、読み始めてもアスペルガー症候群がテーマに含まれているとは分からず、読み終わってから「主人公はそういう人だったのか」と分かり、何らかの感慨を残すように書ければ、成功できるような気がします。

―――――――――――――――

> 2. 「物語のテーマにぶち当たるまで話の筋を掴みながら場当たり的に書いていき出来上がったら推敲する」という書き方でも大丈夫なのか?

 これは「師匠に師事する」ということだと考えて、回答を考えてみます。師匠ってどういう存在なんでしょうか。「教えますよ」と宣伝して、入門者からお金を取る師匠なら、フィットネスジムのパーソナルトレーナーみたいなものです。弟子の希望を叶えるために教えてくれる。

 一方、尊敬できる仕事をしている人に、「弟子入りさせてください」と頼み込んで師匠になってもらうような場合だと、全く異なりますね。

 師匠は弟子の希望を聞く義理はありません。師匠のレベルに達したい弟子が、師匠についていかねばなりません。師匠は何の譲るところもない。「自分はこうしているんだ。お前も同じようにやれ」です。

 もし、「師匠から自分のやりたいことをダイレクトに教わりたい」とお考えなら、やりたいことを教えてくれない師匠からは離れるべきでしょう。そうではなく、「この人のレベルに達したい、この人からは小説がどう見えているか垣間見たい」とお考えなら、自分を曲げてでも師匠に倣う(習う、ではない。念のため)べきでしょう。

上記の回答(本人の経験をもとにしていいか、師匠とはどういう人かの返信)

スレ主 壱番合戦 仁 : 0 投稿日時:

コメントありがとうございます。
以下ご気分を害してしまったのであれば 先に謝っておきます。

申し訳ありません。

1.まず先に断っておきますと、僕は特にイエスかノーかで答えて欲しかったわけではありませんので悪しからず。
(こ、今回の回答もちゃんと参考になりましたからね⁉
勘違いしないでくださいよ⁉)

2. 以下個人的な話になりますが回答につきお付き合いください。

僕の師匠は ブルースクリーンさんの二つのイメージの中間に属する人です。
有り体に言えば小説家として尊敬できるので頼み込んで教えてもらっていて、 僕の希望を叶えるために教えてくれる。
僕よりもずっと小説に関する知識と経験を持っており、その上で人格もしっかりしていらっしゃる20代のアニオタ。
そんな方です。

ただとても残念なことなのですが、 彼自身の実力をまだ見たことがないのです。
彼の一個人としての小説はまだ完成していないのです。
先にも述べました通り彼は中規模の同人ゲームプロジェクトを担う一員でした。
彼が作っていたゲームのプロジェクトサイトを見てみましたが、僕から見ると相当なものでした。
印象としては大型のテックパンクス系冒険活劇ですね。 

それに僕の師匠が毎回断ってるように、「自分は小説が専門ではない」「 自分の本業はプログラマーだ」「 自分なんかよりももっと上手い人に教えてもらった方がいいからアドバイスの強要はしない」「 自由に書いてもらった方が竹牟礼君のためになると思う」という立ち位置の人です。

以上確かに述べさせていただきました。
ではでは。

カテゴリー : 小説の批評依頼 スレッド: 話の筋を作りながら物語のテーマにぶち当たるまで思いつくままに書いていていいんでしょうか?& アスペルガーの作者がアスペルガーを題材にしていいんでしょうか

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元記事:返信

 アスペルガー症候群の当人です。私の扱う主人公もアスペ(とADHD)なので同業者だと妙にうれしくなりつつ一言。
 確かに、【発達障碍×ファンタジー】はまだ未開の地でしょう。視点もいいトコついてるなあっと思います。

 此処から叱るところです。私の言う事が的外れだったら、反論お願いします

・まず、(たまたまですが)最初に言ったとおり、被るんですよね。諦めろと言ってるわけではないんだけどヒネリが薄いし、差別や隔離、いじめが出てくる小説なんてごまんとあるわけ。特に、アスペと公言されなくとも、主人公タイプにアスペルガーと診断できる有名マンガ・ラノベの主人公は多い。兄さん探しも、よくあるタイプで、ラスボスだったとかだったら既存作にそれなりにあります。
・じゃあ、どうすればいいの?と言われましても厳しいですが、私からネタを提供しても結局他人のアイデアです。
・強いて言えることは、あなた(仁さん)は何が大好きですか? キャラは何にゾッコンですか?(私の知ってる人は鉄道と革の素材が大好きです) それで、役に立ったことがありますか?
・世間一般のイメージと、自身の内面とぶつかってみませんか? こわくありません、たじろがず一皮むければ周囲はほぼ一緒です。(実話)
 それに、(同業者ならではの)自虐ですが【内なるサクラ】ならぬ内なる桂香の声をきいてみてください。答えはこうなります。
「同じテーマで書いてるヤツがいたらやりにくい」
 これは、私の根が腐ってるとかそういう意味ではなく、作家としての気持ちでしょうか。そんな意地汚なくてすみませんが、もう、戦いは始まってます。

 最後に、散々言っといてなんですが、応援しています。矛盾した気持ちですが、言ったからにはあなたがどう成長するのか見守るのがすごくたのしみです。
 負けないですよ!

上記の回答(グッドラック)

スレ主 壱番合戦 仁 : 0 投稿日時:

いいモチベーションをいただき、ありがとうございます。
以下本音。

ええ、ええ、 負けませんとも!
僕の考えてる小説はあなたの思うほど甘っちょろいもんじゃありませんよ⁉
プロットにはどんでん返しを用意してますからね!
中途半端なのを書いたらこっちだって許しませんから!
いいですね⁉

ライバルとして期待してますよ!

僕も、絶対面白いもの書いてやりますっ!

『さあここからだ』
"Let's show down"(土壇場と行こうぜ)

カテゴリー : 小説の批評依頼 スレッド: 話の筋を作りながら物語のテーマにぶち当たるまで思いつくままに書いていていいんでしょうか?& アスペルガーの作者がアスペルガーを題材にしていいんでしょうか

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元記事:キャラクターによる殺害描写の返信

作品によるというか、作者が何を書きたいのかによるので、「絶対にダメ」とか「まったく問題ない」とか明確に答えられる話ではないでしょう。
アンチヒーローなんかじゃバンバン殺してますよね。
また、そうしたコンセプト上の話でなくても、例えば「ケリをつける」とか「物語を終わらせるために」とか、一種のケジメをつけるため、しっかり終わらせるという描写で主人公ないしレギュラーキャラによる悪人の殺害を明確に書いている場合もあります。
これで印象深いのは漫画「寄生獣」のラストですね。
ラスボスが死ぬか生きるか半々な状態まで追い詰めて、主人公っぽく「彼はただ生きてるだけだ、死ぬかどうかは自然にまかせよう」という感じの事を言って去るんですが、少し考えて、身の回りの人を守るためにやっぱり殺してしまう覚悟を決めて戻ってくる。
作者の後書きで「主人公が殺してしまうのはどうかと思ったから、敵の生死はあやふやなままにしようと思ったけど、それじゃ話がしっかり終わってないから主人公にケジメをつけさせた」という感じのことが書いてあって、あー主人公が迷ってたのは作者の迷いが出てたのか、と妙に納得した。

この場合、そのシーンの主旨は「主人公の選択」ということになる。だからしっかりケジメをつけて終わらせることが大事。
そのためには「殺す」ことも選択肢の一つだけど、ちゃんとケジメが付けば別に殺す必要はないので、少年誌など低年齢層に向けた漫画では基本的に不殺がまかり通っています。
要するに、敵をぶっ飛ばして反省させるなり改心させるなりすりゃ問題ないわけですね。

一方、悪人に主旨を置いた場合、すなわち「悪人にはどういう末路が相応しいか」という話になります。
そう考えると「強敵(主人公)と戦って敗れる」というのは、実に「良い死に方」ではないですかね?
例えば横暴で醜い領主が町娘をさらって好き放題していて、という悪人がいるとすると、そんな悪人に「主人公が直接手を下す」というのは、悪人には贅沢な最期じゃないかな?
それよりも「裸で広場に追い出され、それまで見下してた町民にボコボコにされ、瀕死になったところで女性に白い目で罵倒され、なんとか逃げ出したものの恐怖に囚われ汚い下水溝から出れなくなる」という生存ラストのほうが「相応しい最後」ではないかな。

こう考えると、「その悪人がどういう悪人か」と考えると相応しいラストが思いつきやすいです。
「仲間を仲間とも思わない非道な悪人」だったら「兄貴に裏切られて手下に殺される」というのが相応しいでしょう。
「お金に汚い悪人」だったら「財産を取り上げられ、貧乏になる」というのが相応しいでしょう。
「外面はいい著名人という悪人」なら「社会的に死ぬ」というのが相応しい。
「主人公に執着して何度も襲ってくる悪人」なら「主人公の手で」というのも一種の慈悲だし、許す選択肢がないならこれが相応しいと言えるでしょう。

ここからもとの話に戻って、「メインキャラに殺させるのは避けるべきか?」となると、「メインキャラに殺されるだけの価値がある悪人なのか」という話になります。
その価値がない、あるいは殺しは避けたいと思うなら、なんとか避けて悪人には「相応しい最期」を用意してやるべきでしょう。
価値があると判断できるなら、メインキャラに悪人を殺させることでメインキャラと悪人のキャラクター性がより良いものになるため、やるべきだと思います。

上記の回答(キャラクターによる殺害描写の返信の返信)

投稿者 壱番合戦 仁 : 0 投稿日時:

僕からも質問なんですけど、 周りにも気づかれず、無自覚のうちに悪逆非道の限りを働いていたみたいなキャラクターの場合どんな最期を迎えると思いますか?

例えば一言で言うと、ものすごく運の悪い連続過失致死魔みたいな。

サタンさんの場合はどう考えるかなと思いまして問いました次第です。

返答よろしくお願いします。

カテゴリー : キャラクター スレッド: キャラクターによる殺害描写

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元記事:近代的自我なしに思想の自由を発達させることは可能か。

異世界の設定を考えています。

もし、西洋文化のもたらされていない前近代的な地域(:=異世界)があったとして、その世界での人々の思想を考えたときに、無条件に我々の住む世界と同じ考え方や行動原理をしている訳ではないと思います。
ヌエル族が牛の尿で顔を洗う行為を一定数の日本人が「理解できない」と感じるように、異世界にも現代の日本人が「理解できない」文化があると考えます。

問題は、その文化の強制力が、近代的自我の概念がもたらされる以前には最大でどのくらいなのか、また、その世界をより「快適な」世界にするために、近代思想に代わる別の思想的変革、いわば「替わりの社会学」があるとしたらどのようなものか、ということです。

自分個人の勝手な考えですが、文化とは往々にして不自由で, 差別的で, 監視社会的であると思っています。
文化人類学的に母系社会があり得ても女権社会があり得ないことを考えれば、個人が文化という仕組みを(文化に対する反感が個人の感想だけにとどまることなく)集団として乗り越えるにはより強力な概念を手に入れる必要があり、それを手に入れるまでは人間が抗えない「何か」が人々にそうさせていると考えざるを得ません。
もし仮に異能の力をもって女性が社会的権力を持つような社会になったとしても、おそらくその「何か」はこんどは男性から権力を奪うかもしれないし、知的障碍者, 癩者, トランスセクシャルといった人々を、差別ないし「区別」するよう人間に仕組むかもしれません。

人類がその「何か」を乗り越えることができたのは思想の変革、すなわち近代的自我, 産業革命, 資本主義を経、さらには大きな物語から小さな物語への移行を経たためであると考えます。
しかしながら異世界という(特に条件がない限りは)全く西洋と無関係な世界に於いてそれほどまで我々の世界に似た思想が生まれるかどうかといえば疑問があります。

この問題を解決するには、
第一に、「異世界なのだから多少人間が暮らしにくくても仕方がないし、それ以上を望むのは傲慢だ」として諦めるか,
第二に、魔法や異能の関与を認め、そのようなものが存在する世界における混沌は予想できないものとして説明を放棄するか,
第三に、異世界に人間が存在することから我々の世界と異世界とが99%似ているとし、残りの1%が似ていないのは確率的に不自然だとして近代思想までもを人間に与えてしまうか,
第四に、ミームや情報の流れといった社会的要因に直接介入できるタイプの異能を登場させ、無理やり個人の力を強くするか,
第五に、異世界と我々の世界を交流させて近代思想をもたらすか,
第六に、近代思想に代わる「替わりの社会学」を考えるか

といったことが考えられます。
そして、自分としては第六の方法を採りたいところなので、a. 実際はどのような方法を採るのが「正しい」あるいは「創作として健全な」のか。b. 第六の方法を選んだとして、「替わりの社会学」がありえるとしたらどのようなものか。といったことが疑問に思われました。

a.の問題は一時的に保留にするとして、b.はどのようなものが考えられるでしょうか。教えてください。

なお、自分の想定している世界のスペックを載せておきます。

・「銃」は、存在していないか、広まっていない。
・西洋近代以前のあらゆる道具を使うことができる。
・西洋近代的な思想を持つ社会はその世界には現在にも過去にも存在しない。
・やむを得ずそうする時を除いて、文化は地球上のどの社会のそれからも借りない。
・ドラゴンクエストシリーズに登場する呪文のような用途/効果の「魔法」は存在する。それ以外の魔法は存在しないか、あまり知られていない。

これ以外の要素を後から加えるのは、避けたいですが可能です。また、第六の方法だけでは不可能であると判断される場合は、関与が最低限になるような経路でその他の方法を混ぜることも可能とします。

上記の回答(近代的自我なしに思想の自由を発達させることは可能か。の返信)

投稿者 あまくさ : 2

>近代的自我なしに思想の自由を発達させることは可能か。

結論から先に言えば不可能でしょう。ただし、それは「思想の自由」が近代的自我の産物だからではありません。「近代的自我」の方が西洋思想の産物だからです。よって非西洋的な世界に「近代的自我に支えられた思想の自由」に似たものが成立したとしても、それは似て非なる物と言わざるを得ません。

>もし、西洋文化のもたらされていない前近代的な地域(:=異世界)があったとして、その世界での人々の思想を考えたときに、無条件に我々の住む世界と同じ考え方や行動原理をしている訳ではないと思います。

>問題は、その文化の強制力が、近代的自我の概念がもたらされる以前には最大でどのくらいなのか、また、その世界をより「快適な」世界にするために、近代思想に代わる別の思想的変革、いわば「替わりの社会学」があるとしたらどのようなものか、ということです。

その点については手っ取り早い参考例として、古代ギリシャ哲学についてどうお考えですか?
プラトンの著作は、おそらく現代の欧米人や日本人が読んでも理解できるものです。論語もしかり。これだけ時代と文化が隔たっていても、人間の思考には論理的な共通点が生じうる証左と思えますが、どうお考えでしょうか?

>自分個人の勝手な考えですが、文化とは往々にして不自由で, 差別的で, 監視社会的であると思っています。

まあ、そういう考え方自体が西洋思想的ですけどね。

>人類がその「何か」を乗り越えることができたのは思想の変革、すなわち近代的自我, 産業革命, 資本主義を経、さらには大きな物語から小さな物語への移行を経たためであると考えます。

もう一度、古代ギリシャ・中国についてどう位置づけられているのかお聞きしてみます。
それと、近・現代社会に生きる人間がその「何か」を本当に乗り越えているのかどうか、一抹の疑問も感じます。

そもそも「小説」というジャンルも「近代的自我」の発生と進展に支えられている部分が大きいので、「近代的自我」と異質な思考をガチで扱うのは難しいと思います。まともにやろうとすると小説の脱構築になってしまいます。
「近代的自我」によって生きる主人公が非西洋的な文化と遭遇し、その異質性にカルチャーショックを受けるという形にするなら容易です。

>ヌエル族が牛の尿で顔を洗う行為を一定数の日本人が「理解できない」と感じるように、異世界にも現代の日本人が「理解できない」文化があると考えます。

そういう風習があるのは知りませんでしたが、そういう行為を見てびっくりするというエピソードを書くなら簡単でしょう?

ま、そういう問題があるから異世界転移・転生モノが流行ったんですよ。主人公が現代日本人の思考や価値観を持って物語を体験するという形は、すこぶる書きやすいんです。

ただ、スレ主様が書こうとされているのは、おそらく登場人物全員が異世界人のハイファンタジーですよね?
それは、本当の意味で論理的に取り組もうとすると、実は不可能に近いほど難しいんです。読者とは異質な思考を持つ主人公が、読者とは異質な世界を体験する状況を書くことになるので。先鋭的な純文学ならいざしらず、エンタメならどこか1点は読者の常識や日常感覚で理解できる軸をもうけないと成立しません。
よって、妥協が必要です。

>この問題を解決するには、
>第一に、(略)

第一~四には設定都合による妥協があり、そのうち第三は無理矢理論理的に見せかけようとしており、第一・二・四は描写や展開により矛盾を隠して押し切ってしまおうという方法かと思います。
第五は先述の異世界転移・転生ものに近く、第六は異文化の異質性をガチで描こうとする方法で、要するにスレ主様は一番難易度の高いことをやろうとされています。

>a. 実際はどのような方法を採るのが「正しい」あるいは「創作として健全な」のか。

これは、「正しい」とか「創作として健全」という問題ではないでしょう。繰り返しますが、「現実問題として妥協は必要」ということかと思います。どういう妥協になるのか具体的に言うならば、

◎完全異世界でありながら、読者にわかりやすい思考や常識を忍び込ませ、描写やストーリー展開で誤魔化してしまう。

これにつきます。
おそらく、これをまったくやっていないハイファンタジーは皆無だと思われます。

異世界を描く方法は、ざっくり分ければ次に三つ。

1)現実世界の文化・歴史・風習を模倣する。

2)先行作品の世界観を模倣する。

3)一から創造する。

3はきわめて難しい上に、類例のないものは読者にとっても難解になってしまうので、推奨できません。
1・2の方法はおそらくスレ主様にとっては不本意なのでしょうが、実際問題としてはこのどちらかしかないと思いますよ。1・2なら読者にもわかりやすく、3は難解になりやすいという点も重要です。

どうしても第六の方法にこだわりたいなら、第二・三などと組み合わせて、言葉は悪いですが都合の良いところだけ読者の常識を紛れ込ませてしまうしかないでしょう。
ファンタジーって、そういうものです。割り切ってください。

まあ、スレ主様の仰っているようなことを一切考えないで、いきなりナーロッパに走るのもどうかとは思わないでもありません。
あれこれ考えた上で、想定読者などのことも含めた大局観からバッサリ妥協するという方法が、けっこうお勧めだったりします。

カテゴリー : 設定(世界観) スレッド: 近代的自我なしに思想の自由を発達させることは可能か。

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投稿日時:

元記事:お店のドア

こんばんは。
いつもお世話になっております。
調べても乗ってなかったので聞きたいのですが、お店のドアは引き戸があたりまえなのですか?
昔の喫茶店だと引き戸で開けるとカランコロンと聞いた覚えがあります。
何十年と寝たきりだと外の様子が解らないので誰か教えてください。
些細な事ですが許してください。
よろしくお願いします。

上記の回答(お店のドアの返信)

投稿者 ヘキサ : 0

高級下着店ですか……銀座とかの百貨店(デパート)の一画にブースとして陣取ってるイメージが強いかなぁ。ディスプレイでは発光するマネキンが試着していて、その透け具合も確認できる的な。

高級時計や貴金属店だととりあえず扉は全面強化ガラスの開き戸(わざと重くゆっくり開く)or自動、外から一見するだけでも入りにくそうなイメージ、どう考えてもどこかに防犯カメラ仕込んであるよねという感じでしょうが、ショッピングモールとかの下着専門店って開店したら外にも展示することが多くて、むしろ扉は開きっぱなしなイメージ(横浜や神戸の小店舗が連なるアーケードだとそんな感じです)。

そういえば「水商売ギャル御用達ブティック」ってでかでかと記された看板を目にしたこともありますが。そこに出入りする人見たことないや。

地方都市だと、そこでいちばん高級なデパートに支店が入ってるイメージがあるんですけどね、岐阜ってどうなんでしょうね。

カテゴリー : 文章・描写 スレッド: お店のドア

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投稿日時:

元記事:どうしたら臨場感あふれる修羅場が書けますか?

タイトルのまんまの質問ですので省略させていただきつつ、この疑問を抱いた経緯を説明した方が良いかもしれません。
なので、一応参考までに書いておきます。

ズバリ、《聲の形》という青春映画を観たからです。
ろうあ者の少女が昔自らをいじめていた少年に恋をするという、かなりセンセーショナルな内容であるにも関わらず、ジャンルは違うとはいえ、コミュニケーションの祖語によって人間関係が崩壊してしまい、そこから何を得て、何を取り戻していくのかを描いたその筆致に一目惚れしました。
感情表現が凄まじく鮮やかだったのを記憶しています。

僕はこの作品を見て一番考えさせられたことがあります。
曰く《他人の事を想う純粋な気持ちと言うのは、こんなにも美しいものなのか》と。

誰かが傷つくことで、自分へでは無く他の誰かを憎み、誰かが悲しむことで涙を流せるなんて、僕には真似できないことばかりです。
この作品に登場する彼らが、僕の目にはとても眩しく映りました。
この外側に向いた美しい感情を【他でもない僕自身が】表現できない限り、主人公のレイヤも成長しないし、脇役たちも根っこのところでは自分のことしか考えていない、とても醜く泥臭い人間のままです。

ここで質問です。
どうしたら、他人を想う気持ちを描写できますか?
僕は他人を心の底から想いやったことが、ほぼ一度もありません。
今までの僕の質問に応えて下さった皆様のお察しの通り、僕はアスペルガー症候群を持っており、感情の共感性が著しく低いです。
母が父にDVを受けて泣いているときに、一緒に泣いてあげられなかったことを今でも勝手に後悔しています。
外側に向いた他人を想う気持ちを理解できない人間が、どうしてその美しい感情を描くことができるでしょうか。
どうやらこの先を書き進めるには、僕自身の『身勝手な考え方』と決別する必要があるようです。

皆様どうか知恵を貸してください。
よろしくお願いいたします。

上記の回答(どうしたら臨場感あふれる修羅場が書けますか?の返信)

投稿者 サタン : 4 人気回答!

>外側に向いた他人を想う気持ちを理解できない人間が、どうしてその美しい感情を描くことができるでしょうか。
勘違いする事が多い部分だけど、極端に言えば「読者が勝手に感動したと思ってるだけ」で、作者がその気持を理解してる必要はありません。
ファンタジー作家は魔法を使う感覚を知ってるのでしょうか? ホラー作家は幽霊に取り憑かれたことがあるのでしょうか? サスペンスを好む作家は人を殺したことがあるのでしょうか?
そりゃ、恋愛経験のない恋愛作家というのも滑稽なので無いより経験あったほうが良いことは確かですが、別に必須ではありません。

似たような話で学園ラブコメが流行ってた時期によく聞いた悩みでは、「萌えはどうやって書くの?」というものです。
ロリっ子を見て萌えると思う人もいるし、姉御肌の大人を見て萌えると思う人もいる。
これはそう感じる「読者側の問題」であって、作者側から出来ることは「その特徴をアピールする」という事くらいしかありません。
要するに、「萌え」は書けないし、作者が書くものじゃない。そういう特徴のキャラを見て読者が「勝手に感じ取る」もの。
「感動」と「萌え」で、そりゃ話が違うだろうと思ったのなら、ぶっちゃけ考えが浅いと言わざるを得ないです。
「人の感情」ないし「目に見えない心の機微・雰囲気」を書いてる事に関しては同じで、その表現の技術としても同じです。

竹牟礼さんはアスペルガーを理由に共感性が著しく低いと仰っていますが、本当に低いのであれば「聲の形」を読んで感動しないでしょ。
表現者にとって障害は個性という武器になりますから、これを理由にするのは止めましょう。
>僕は他人を心の底から想いやったことが、ほぼ一度もありません。
私も一度もないよ。家族含め他人に興味ないし。誕生日も覚えてない。それどころか家族の名前を間違えることもあるよ。

>どうしたら、他人を想う気持ちを描写できますか?
単純にそういうシーンを書けばいいだけ。
「聲の形」は、確か耳が聞こえない少女と活発な少年の青春ドラマだっけか。
この設定の時点で「他人を思いやる」事ができないとコミュニケーションすら困難だとわかるでしょ。
「他人を思いやるシーン」を作りやすい設定で、概要を聞いた時点で「感動させようとする作者の意図」がビンビン伝わってくる。
一時期話題になったタイトルだけど、私は読んでないので、いまWikipediaでざっと確認した程度だけど、
「作品の投稿当時から現在に至るまで育っているテーマ「人と人が互いに気持ちを伝えることの難しさ」の答えを作者自身が見つけ出せなかったため、「読者に意見を聞いてみたい」という気持ちで描いたという。(Wikipedia引用)」
この作者も「自分は理解してないよ」と言ってるようだね。
その「伝えることの難しさ」を表現しただけで、その場面を見て読者が「勝手に感動した」というだけ。
もちろん感動しやすい設定で感動しやすい演出でもって、そういう感情に誘導してはいるけど、基本的には「作者が「他人を思いやる気持ち」を描写した」というわけじゃないです。
単に、「伝えたいけど伝わらないもどかしさ」や「伝わったときの嬉しさ」を書いていたら、読者が勝手に「作者は他人を思いやる気持ちを書いている」と読み取っただけ。

だから、「感動させやすい物語のプロセス」は理解が必要だけど、「その感情そのもの」を理解してる必要はありません。

カテゴリー : 文章・描写 スレッド: どうしたら臨場感あふれる修羅場が書けますか?

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