あと、追加で質問です。
元記事を読む
作中の障碍者の扱いについて。(元記事)
どうもこんにちは。壱番合戦 仁です。
前々から世間で疑問視され続けていた重大なテーマについてお聞きしたいと思います。
ズバリ!
『障碍者を使って泣ける話を作って、自慰行為するなッ!!』
はい、これまんまの話です。障害を持った人が主人公のドラマとか、映画って、見ていてなんか違和感ありませんか?でも、僕からしてみれば、よくよく見るとどう考えても、『疲れた健常者のために作られている』としか思えません。当事者にこれっぽっちも優しくないんです。
すこし福祉の心得がある人ならすぐわかると思うのですが、当事者からしてみれば『いつも通り生きているだけなのに一挙手一投足に感動すんなよ。ウゼェな』というのが本音なのです。
特に挙動や振る舞いが健常者にかなり近い(流暢に会話する、空気はそこそこ読める、的外れだけど気を使うくらいはできる、集団行動は訓練したから後天的にできる、身だしなみも気を付けている、常識も気にしている)僕の様な「アスペルガー型」からすると、偏見以外の何物でもありません。
ああいったものばかりが世に出回っているおかげで、僕たちの認知が一向に進まないのです。実に腹立たしい。
実際、僕はそういったお涙頂戴物のドラマなど見ません。カナー型自閉症の男の子の恋が【健常者の女性に対して】実ったみたいな話は、制作者の意図が透けて見えて、反吐が出ます。
また、アニメや漫画での障害の扱いは非常に軽いと思います。例えば、「アルプスの少女ハイジ」。
クララが立てるようになるシーンは名作と言われていますが、そもそもクララはシリーズの途中で足が完治します。あとは本人が立てるようになるだけなのに、心療内科的な症状で立つことができません。そこを友人であるハイジらが励まし、彼女は障害を乗り越える。これだけならいいのです。この作品はきちんと障害に向き合った上で乗り越える様子を丁寧に描写していたはずです。
ですがしかし、【本当にそれは、障害という設定を使ってまでやっていいことだったのでしょうか?】
古来、物語において、キャラクターの『足や腕、または心の機能を取り戻す』というのは、自らの忌むべき過去との対決を意味しました。ですが、現実の多くの障碍者にとって、後天性なら自らの障害にまつわる忌むべき過去はあるかもしれませんが、もう今となってはどうしようもないことなのです。【現代医学では治せない】【ほぼ一生治らない】から障害なのです。「障害を乗り越えるべきものととらえるなど、烏滸がましいにもほどがあるのでは?」と少なからず疑問を覚えてしまうのです。
僕は『障害を抱えたまま、成長していくこと』については大賛成です。それが本来の障碍者の讃えられるべき生き様だと思うからです。だから僕は、僕の異世界冒険記、改め、「イドラとユクサー」を書いています。
(ちなみに以前の質問で『私はただ夢が見たいだけ』とおっしゃっていた方もいらっしゃいましたので、あくまでその人も、僕も、一意見にすぎませんが)皆さんは障碍者を物語の中心に据える場合、どんな書き方をしますか?また、この命題に皆さまはどんな考えをお持ちでしょうか?
倫理的な問題につながっているので、参考にしたいです。
回答を心よりお待ちしております
あと、追加で質問です。
スレ主 一番合戦 仁 投稿日時: : 0
別件ですが、なろう系小説では『対象となる読者がキャラクター
を通して常に称賛され続ける世界』を構築することが大事だと聞きました。
その観点から考えると、僕の小説に感情移入した場合、あまりにも屈辱にまみれています。それが僕自身の持ち味だとも思ってはいるのですが、読者はいい気分がしないでしょう。
何か工夫した方がいいのでしょうか?
第三稿の物語は終盤に向かいつつあります。今から修正することは不可能に等しいですが、次回作の参考にしたいです。
回答をお待ちしております。
カテゴリー : 創作論・評論 スレッド: 作中の障碍者の扱いについて。