小説の創作相談掲示板:小説の書き方Q&A。執筆の悩み相談をしよう!

作中の障碍者の扱いについて。 (No: 1)

スレ主 壱番合戦 仁 投稿日時:

 どうもこんにちは。壱番合戦 仁です。

 前々から世間で疑問視され続けていた重大なテーマについてお聞きしたいと思います。

 ズバリ!

 『障碍者を使って泣ける話を作って、自慰行為するなッ!!』
 はい、これまんまの話です。障害を持った人が主人公のドラマとか、映画って、見ていてなんか違和感ありませんか?でも、僕からしてみれば、よくよく見るとどう考えても、『疲れた健常者のために作られている』としか思えません。当事者にこれっぽっちも優しくないんです。
 すこし福祉の心得がある人ならすぐわかると思うのですが、当事者からしてみれば『いつも通り生きているだけなのに一挙手一投足に感動すんなよ。ウゼェな』というのが本音なのです。
 特に挙動や振る舞いが健常者にかなり近い(流暢に会話する、空気はそこそこ読める、的外れだけど気を使うくらいはできる、集団行動は訓練したから後天的にできる、身だしなみも気を付けている、常識も気にしている)僕の様な「アスペルガー型」からすると、偏見以外の何物でもありません。
 ああいったものばかりが世に出回っているおかげで、僕たちの認知が一向に進まないのです。実に腹立たしい。
 実際、僕はそういったお涙頂戴物のドラマなど見ません。カナー型自閉症の男の子の恋が【健常者の女性に対して】実ったみたいな話は、制作者の意図が透けて見えて、反吐が出ます。
 また、アニメや漫画での障害の扱いは非常に軽いと思います。例えば、「アルプスの少女ハイジ」。

 クララが立てるようになるシーンは名作と言われていますが、そもそもクララはシリーズの途中で足が完治します。あとは本人が立てるようになるだけなのに、心療内科的な症状で立つことができません。そこを友人であるハイジらが励まし、彼女は障害を乗り越える。これだけならいいのです。この作品はきちんと障害に向き合った上で乗り越える様子を丁寧に描写していたはずです。

 ですがしかし、【本当にそれは、障害という設定を使ってまでやっていいことだったのでしょうか?】

 古来、物語において、キャラクターの『足や腕、または心の機能を取り戻す』というのは、自らの忌むべき過去との対決を意味しました。ですが、現実の多くの障碍者にとって、後天性なら自らの障害にまつわる忌むべき過去はあるかもしれませんが、もう今となってはどうしようもないことなのです。【現代医学では治せない】【ほぼ一生治らない】から障害なのです。「障害を乗り越えるべきものととらえるなど、烏滸がましいにもほどがあるのでは?」と少なからず疑問を覚えてしまうのです。
 僕は『障害を抱えたまま、成長していくこと』については大賛成です。それが本来の障碍者の讃えられるべき生き様だと思うからです。だから僕は、僕の異世界冒険記、改め、「イドラとユクサー」を書いています。
(ちなみに以前の質問で『私はただ夢が見たいだけ』とおっしゃっていた方もいらっしゃいましたので、あくまでその人も、僕も、一意見にすぎませんが)皆さんは障碍者を物語の中心に据える場合、どんな書き方をしますか?また、この命題に皆さまはどんな考えをお持ちでしょうか?

 倫理的な問題につながっているので、参考にしたいです。

 回答を心よりお待ちしております

カテゴリー: 創作論・評論

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あと、追加で質問です。 (No: 2)

スレ主 壱番合戦 仁 : 0 No: 1の返信

投稿日時:

 別件ですが、なろう系小説では『対象となる読者がキャラクターを通して常に称賛され続ける世界』を構築することが大事だと聞きました。
 その観点から考えると、僕の小説に感情移入した場合、あまりにも屈辱にまみれています。それが僕自身の持ち味だとも思ってはいるのですが、読者はいい気分がしないでしょう。

 何か工夫した方がいいのでしょうか?

 第三稿の物語は終盤に向かいつつあります。今から修正することは不可能に等しいですが、次回作の参考にしたいです。

 回答をお待ちしております。

あと、追加で質問です。の返信 (No: 3)

投稿者 桂香 : 0 No: 2の返信

投稿日時:

壱番合戦さんお久しぶりです。桂香と申します。覚えていらっしゃるでしょうか
今年もマラソンが名物の某チャリティ番組が目前に迫るなか、こういった質問があったので気になりました。
実は、もう少し昔から公的に疑問が出ていることでして、2016年の24時間テレビのフィナーレあたりの裏番組で、NHKが「バリバラ」という番組コント形式で『24時間テレビ』をパロッたVTRを放送していて、壱番さんの疑問に影響があるだろう内容になっています。参考程度に見るのもいかがでしょうか。健常者の過半数、障碍者の9割が嫌うと記事アンケートより

記事:「24時間テレビ」は障害者の「感動ポルノ」 裏番組のNHK生「バリバラ」に大反響
動画:https://www.youtube.com/watch?v=mLOC9d_8OJc

某ツイートによる内容紹介:
ドキュメンタリー風映像では、「それらしい」音楽やキーワードで、いかにも「健気な」障害者として描かれているのだが、それをぶち壊すように「使えない」発言を連発し、そのたびにスタッフが「その話いらないっす」などと軌道修正する。要するに、24時間テレビを完全にパロディー化したコントなのである。

なお、以前の会話を見て思ったのですが、一つのこと(前はロスチャイルドだかロックフェラーだかで今回はバリバラかな)だけを信じず、事象に関するほかの情報を自分で探し出すことを考えるといいと思います。私も人のこと言えませんが、ネットより書籍で調べると精度が上がるかと思います。(正解が必ず出るとは言っていない)バリバラの普段の放送内容を見たりして、信頼できる情報源か一考するのも悪くないでしょう。
毎度毎度(イ〇トさんがついているとはいえ)足が不自由な子にエベレスト登山だの泳ぎが苦手な島の子に無理やり3か4キロ遠泳だのは普通に拷問かと。
ちなみに、あの番組の障碍者批判はともかく、後ろ足を怪我している犬に無理やりギネス記録取らせたってこともあるので、これも関連で。
https://celebsokuho.com/8105.html

あと、私は乗り越えることと抱えることは並立すると考えています。乗り越えることだけを考え独り歩きさせるからそうなるのだと思いますよ。抱えたまま成長といいますが、いずれ人との衝突は免れ得ません。思考の癖はまあ個人に任せるとして、自立して、自分で考えて、不必要な部分を削ろうとか言うのはどうしても必要かと。語義の拡大解釈をしすぎだと思います。
書き方としては、正直奇をてらうか否かでちがってくるんですけど、たとえば「おれは普通の高校生、田中祐介」と本人の頭の中で堂々と言えるような書き方をすべきかと。「考え方は同じ……はずなのになぜか違うんだよなぁ……」と普通の少年少女として悩ませるとか。
薬の作用副作用に個人差があるように、出るとこと出ないところは人によって違いますし。その内側の推測がどっかずれている気がするというミステリ調も悪くないでしょう。特に本人が何かを抱えていた場合、読者に疑似体験させることもできますしね。
与えられたものが同じで、共感する部分が圧倒的に多くても、内部の器質に対する認識の誤解やそれに関する認知で互いにずれた生活をしている。みたいな。
ただ、壱番さんの場合、架空種族いっぱいの異世界転移ときていますからそれは難しいでしょう。ならば逆の認識、共通項をみつけだすという方向からはじめると良いかもしれません。そのなかの普通(モブとも常識人とも)を10人ぐらい用意して主人公と交流をはかる、という書き方をおすすめします。

確かに、小説家になろうなどであればこの手の読者とは相性が悪いです。カクヨム等別サイトに投稿するか、なろうでも玉狙いの人の竿にかかるかの2択。あとは、ツイッターの宣伝などで稼ぎましょう。硬派厨や逆張り好きもいますし、「普通のなろうとは違う!」をキャッチコピーに求めている人だっています。自分を支えてくれそうなユーザ層を見極め、彼らに向けたアプローチ戦略を練って、ほかのことはキレイさっぱり忘れちゃいましょう

作中の障碍者の扱いについて。の返信 (No: 4)

投稿者 サタン : 2 No: 1の返信

投稿日時:

障害者ってのを、良くも悪くも重く考えすぎだと思いますよ。
「野球の才能ない人が球界で頑張っていく話」と何が違うんでしょうか?
球界において野球の才能がない事は、当たり前の事が出来ないわけだから障害に等しい事です。
それが球界という狭い世界の話でなく、日常生活という身近な話だから重大なことになってくるけど、それはあくまで「現実の話」として。
創作の話、つまり物語においては「才能ない人の努力」と大差ない物語です。

でも、言わんとしてる事の一部は理解できます。
例えば身体の障害で有名なのが五体不満足の乙武洋匡。
五体不満足でありながら運転免許を取ろうと頑張ったり、タレントとして頑張ったり文筆家として活動したり、スポーツライターをしたりしてる。すごい人。
でも、本当に凄いのはそんな彼を支えてる人でしょう。五体不満足の代わりに動いてる周囲が頑張ってるんじゃないの、と思う。
国会議員になった れいわ議員もそう。神輿にかつがれてるだけとは言わないけど、頑張ってるのは周囲の支えてる人。もちろん本人も頑張ってると思うけど。
それで障害者にスポットをあてて「さあ感動しなさい」というのは烏滸がましいというものだね。

ただ。
人間、読者ってのは、そんな当然の事を言われても面白くないんだよね。
「弱い主人公が強い敵に打ち勝つ」から面白いんであって、「才能ない人が頑張って成功を収める」から面白いわけです。
「障害者の話」を「才能ない人の話」とどう違うのか、って最初に書いたけど、
ようするに、障害者をテーマにした作品はこうした面白さが詰まってるドル箱なんですよ。
「声」というコミュニケーションツールに不自由がある人の、心温まる人間ドラマ「聲の形」とかね。

だから、私の本心としては「障害者が凄いんじゃなくて、支えてる人が凄いんだろ」って思うわけだけど、創作的にそれは不正解でしょう。
そんな身も蓋もないこと言ったら面白くないので。

で。
スレ主さんの相談は最初の頃から見守っていたけど、時々返信もしたけど、どーも、この「現実の話」と「創作の話」がごっちゃになってる気がします。
「それは現実には正しい」ないし「現実に君がどう思うかは自由」という主張を、そのまま創作の世界に持ってこようとしてる。
例えば私の主張「障害者が凄いんじゃなくて支えてる人が凄いんだろ」って話を書いても面白くないでしょ。
作品内で弱者の象徴となるであろう障害者を踏み台にして支える人の活躍を書くことになるので。そんなん面白くない。
創作的には「弱者が強者を見返す」という基本、まあそればかりではないけど、そうしたカタルシスが大事なので、これを作っていかなければならない。

そんなわけで、ただの人生相談でないのなら、
>僕は『障害を抱えたまま、成長していくこと』については大賛成です。それが本来の障碍者の讃えられるべき生き様だと思うからです。
そういう自己主張は掲示板ではなく作品でしてるだろうからどうでもいいんだけど、それを創作としてどう落とし込むのかって話が出来ないとダメだと思う。
「障害を抱えたまま成長していくこと」そこにどんなカタルシスがあって、どういうところが面白いの?

アルプスの少女ハイジを例に上げてるけど、これもそう。
親友が「障害を克服した」から面白いんであって、障害者を出すに当たって「面白い場所」をちゃんと作っている。
だから、現実問題として障害者を克服するだなんてと思う読者もいるけど、創作としては大正解(というか王道)の設定と構図になっています。

>皆さんは障碍者を物語の中心に据える場合、どんな書き方をしますか?
あくまで創作として物語を考えます。
つまり、現実どうなのかよりも、面白さが優先。
まあ、いまの私にはそれほどテーマに込めたい想いもないので、スタンダードに「才能ない人が頑張って成功する話」を土台に考えます。
人間関係のコミュニケーションを主に書きたいのであれば「聴覚障害」や「吃音」といった障害を扱うし、勇気を出して前へ進もうとする話なら、そうだな「足」が動かない人か、ナルコレプシーとか何かあるとすぐ止まってしまう人がいいな。

ありがちだと思うのだけど、作者の思いを込めた作品は、思いが込められすぎて「面白さ」を込めるスペースがなくなってるものが多いです。
なので、私ならそれを気をつけるかなと思います。

作中の障碍者の扱いについて。の返信の返信 (No: 5)

スレ主 壱番合戦 仁 : 1 No: 4の返信

投稿日時:

 ええと、返信ありがとうございます。

 「目の見えないスコットランド人のハーフの女の子と、狭心症の主人公が結ばれて、障害を抱えたまま、成長しました。めでたしめでたし」というハッピーエンドを描き切って大成功した作品があります。
 「かたわ少女」って一度は聞いた事ありますよね?あれの最終版のマリー編だと、そういう結末です。
 僕は以前からこのビジュアルノベルが気になっていて、なかでもマリーの生きざまにいたく感銘を受けました。
 この小説曰く、『本当の障害は、みんなができることができない事ではなくて、その人のコンプレックスや生きづらさ、あるいは心の傷のことを言う』ということです。
 以前から、僕はこの話を頭では理解していたのですが、それを恋愛小説という形で示してくれる作品はなかなかありませんでした。
 実際、差別的なニュアンスとは裏腹に、『難病を患って、瞬く間に障碍者になってしまった主人公が、養護学校での青春と恋愛を通して、どう成長していくのか』を見事に描き切っています。少なくともつまらないとは思いませんでした。レビューでも高評価でしたし、サブカルチャーの分野であそこまで真剣に障害を取り扱った作品も珍しいでしょう。
 そして、読み終わったとき、僕は決めたのです。
 「主人公にはバッチリ生きづらさを抱えてもらって、それを克服してもらおう」と。
 それこそが、物語におけるカタルシスにつながるのではないかと思います。

 >>で。
スレ主さんの相談は最初の頃から見守っていたけど、時々返信もしたけど、どーも、この「現実の話」と「創作の話」がごっちゃになってる気がします。「それは現実には正しい」ないし「現実に君がどう思うかは自由」という主張を、そのまま創作の世界に持ってこようとしてる。
例えば私の主張「障害者が凄いんじゃなくて支えてる人が凄いんだろ」って話を書いても面白くないでしょ。

 うーん。気分として面白くないかでいえば、なんてことないです。「そういう意見もあるんだな」くらい。でも、作品として面白いかでいえば、それは僕だって見たくないです。
 エンタメ小説、引いてはライトノベルの基本的なメソッドで行けば、そのご意見は大正解ですし、僕もそれを身に着けたいのですが……。ご指摘の通り、今作のもととなった原作は、「僕の人生のIF」を題材にしています。なので、中身となる設定はともかくとして、主要なキャラクターの約半数が僕の理想とするヒロインや、実際に出会ったことのある知人やクラスメイトをモデルにしています。
 当然彼らをモデルにしている以上、現実での出来事や人物プロフィールを使った方が肉付けがしやすかったりします。それで、便宜上こういったかきかたをしているのですが、やっぱり邪道ですかね……。
 でも、やっぱり、このままの書き方だと後々苦労しそうだな、とは思っていて、現在読者受けを意識したプロットをストック中です。
それと、支えている人も相当苦労しているはずですが、しっかり焦点を当てれば、当事者もかなり葛藤していますよ。(実際、かたわ少女には支援してくれる人は二人程度しか登場してきませんし、ほぼチョイ役でしかありません)

 あと、今回は身体的にも知能的にも健常者に限りなく近いケースもままある発達障害を持った主人公にしました。これなら普通にガンガンバトルも行けますし、それどころか症状を中二チックに異能として扱ってもいいかと思っています。気を付ければ恋愛もそれなりにできるでしょう。身だしなみと言動にさえ気を付ければ、発達障害者も精神障碍者も知的障害者も素材としては行けるはずです。(腕とか足がなかったりする場合超能力とかで浮くとか、目が見えない場合はバトルの時とかは強キャラポジションにする必要はありますが)

 えっと、その上で質問させていただきたいのですが、ラノベで純文学ベースの私小説スタイルって駄目ですか?いえ、反論したいのではなくて、受けが悪いかなって気にはしていたんです。
 私小説の場合だと、自然主義文学に基づいて「現実を写生×脚色(orフィクションのエッセンス)=文学)」という方程式のはずだったと思います。
 エンタメ小説に分類されるライトノベルで、純文学風味でやってしまったらだめなのでしょうか。

 >>障害者ってのを、良くも悪くも重く考えすぎだと思いますよ。
「野球の才能ない人が球界で頑張っていく話」と何が違うんでしょうか?
球界において野球の才能がない事は、当たり前の事が出来ないわけだから障害に等しい事です。
それが球界という狭い世界の話でなく、日常生活という身近な話だから重大なことになってくるけど、それはあくまで「現実の話」として。
創作の話、つまり物語においては「才能ない人の努力」と大差ない物語です。

 あー。それ言えているかもしれません。もっと肩の力を抜くべき、と。確かに、そのせいでエンディングが思いつきませんでした。自分ではなかなか気づけなかったことなので、素直にありがとうございます。

作中の障碍者の扱いについて。の返信の返信の返信 (No: 8)

投稿者 サタン : 0 No: 5の返信

投稿日時:

そうですね、まず、厳しいようですが「自身の常識が相手にも通じる」とは思わないほうが良いでしょう。
私はゲーム関係の仕事をしていますが、このところ同人関係には触れる機会がほどんどなかったのもあって「かわた少女」なるものに覚えはありませんでした。
調べてみて、「ああ、海外で作ってたエロゲか、完成してたのか、アレ」くらいには思い出しましたが、内容なんてまったく知りません。
そして、これも厳しいようですが、
> そして、読み終わったとき、僕は決めたのです。
> 「主人公にはバッチリ生きづらさを抱えてもらって、それを克服してもらおう」と。
> それこそが、物語におけるカタルシスにつながるのではないかと思います。
そういうイメージがあるだけで、ふわっとした雰囲気を指して言ってませんか。
「少女が障害を克服する」これを面白いと定義して、ではどう書くかというのをわかってないように思える。
だから、まず現実としてどうかって事じゃなく、創作として物語の理解を深めるのが先ではないですか、という事を言っています。

障害者を扱う以上、その「障害者」が何を意味してるのかを考えるべきでしょう。
なんのヒネリもなく「生まれつきハンデのある人物」と考えるのであれば、私が言うような「才能ない人の努力」という物語が生まれます。
でも、「ハンデある人」は障害者の一側面でしかないですよね。
例えばちょっと意地悪に「行動しない言い訳を持ってる人」でもいいと思うんですよ。何をしても自身の障害を言い訳にして動かない、それで同情を買って生きているというアンチテーゼを書いても良いと思う。
このように「言い訳」と定義すると障害者の物語は「才能ない人の努力」にはなりません。
「負け犬が勇気を持って一歩踏み出す話」とかに向いてますね。「ダメ人間が立ち直る話」のほうがわかりやすいか。

「障害者」という言葉を漠然としたイメージで語っていて、しかし実態を知っているからこそ、そのイメージに具体性があるかのように誤解していると思う。
いや、「現実」の話をすれば、少なくとも私よりスレ主さんのほうが理解あって詳しいと思う。
けど、「創作」の話をすると、それはまったく違う。理解はあっても創作としての具体性がまるでない。
だから、曖昧なイメージを口にして「それがカタルシスに繋がると思う」と書かれていても、すみませんが私に言わせれば「それはただの希望的観測で、カタルシスにつながって欲しいなーと言ってるに過ぎない」と答えます。

> うーん。気分として面白くないかでいえば、なんてことないです。「そういう意見もあるんだな」くらい。
だから。
「そういう意見もあるんだな」は現実の話。
創作として「弱者を踏み台にして主人公の活躍を書く」だなんて物語は面白くないよ。
コレを面白く書くのであれば、テーマを障害から別のところに置かないとダメでしょう。
私は、「障害者についてどう思うか」という話をしているのではなく、「創作としてどういう物語が面白いか」を話しているのです。
現実の作者の周囲に登場人物のモデルがいるとして、これは別に問題ありませんが、それを創作として面白く仕上げるというのは「現実」とは別の話なんですよ。

ラノベで純文学ベースの私小説スタイルって駄目ですか?
うーん……
まず。
「純文学」というのは、大衆小説よりも純粋に芸術性を追求した文学作品のことを指します。
なので、余計な事を言ってしまうかもしれないけど、官能小説などは一歩間違うとエロスを追求した芸術作品になるので純文学にカテゴライズされることもあります。古い例としてはマゾッホやマルキ・ド・サドなど性的趣向が偏ってるタイプの作品とかね。
その例から非常に偏見に満ちた言い方をすると、純文学というのは変態にしか書けません。
そして、その特質上、エンターテイメントとは真逆の方向性であって、芸術性とエンタメの両立はできるけど両立したらそれはもう純文学ではありません。「純粋に追求」していないので。
ようするに、「ラノベで純文学ベースの…」という発言は、「国立美術館にアニメのセル画を置いたらまずいかな?」と言ってるようなもので、それ違うよね、という事がわかると思う。
同じ絵だけど置く場所違うよね、と。

そして、さらに厳しい事を言うようだけど、
まあ、これは自分の経験談でもあり、他人の様子を見てきた事でもあり、よくあることで、別にスレ主さん個人を批判しているわけではないと理解してもらいたいのだけども、
そもそも、「ラノベで純文学のような」とか「ラノベで一般文芸みたいな」とか「ラノベで大人向けの」とか言う輩は、100%とは言わんけど9割は単なる逃げ口上で、エンタメが書けないから「コレは一般向けの純文学で大人向け」と言ってるに過ぎない事が多いです。
純文学の私小説が書きたいのなら、純文学というジャンルで勝負しましょう。
ラノベに純文学を混ぜるなんて止めといたほうが無難です(ただ、前述したけど作者が本当の変態ならやってのけると思う。それは読んでみたいし、いずれ登場する事もあるかもしれない)。

端的に「ラノベで純文学ベースはダメか」という質問に答えれば、
上で否定しているような事を書いているけど、ダメではありません。
ダメではありませんが、エンタメしなければラノベではないので、そもそもラノベでなければラノベとして受け入れられないのは当然のことだと思います。
そして、純文学というのを止めて「私小説」というものだけで考えると、これもダメではありません、としか言えないです。
不可能ではないと思うし、うまくすればできそうな気はする。
けど、ラノベっておそらく「小説」という文章媒介の中で最もエンターテイメント性が高いジャンルだから、現実に沿った私小説との相性は最悪だと思う。
それこそ小説より面白い現実を生きてる人でなけりゃ、その体験談をラノベで私小説にするだなんて難しいんじゃないかな。
つまりさ、人物にしろ出来事にしろ「現実」を参考・モデルにしてるけど、組み立てる小説内ではエンタメ重視の「創作」なんだから、エンタメの創作が面白ければ面白いほど、モデルの現実と創作した作品とで乖離は酷くなるよね。
その私小説を面白く書こうとするほど嘘っぽく現実味のない出来になって、私小説の良さを殺した作品で、全体として面白くない出来栄えになると思う。

作中の障碍者の扱いについて。の返信の返信の返信の返信 (No: 9)

スレ主 壱番合戦 仁 : 1 No: 8の返信

投稿日時:

>>だから。
「そういう意見もあるんだな」は現実の話。
創作として「弱者を踏み台にして主人公の活躍を書く」だなんて物語は面白くないよ。

 ごめんなさい。そうですよね。それじゃ面白くないよね?っておっしゃいたかったのに、何言っているんだろう、僕。

>>「少女が障害を克服する」これを面白いと定義して、ではどう書くかというのをわかってないように思える。
だから、まず現実としてどうかって事じゃなく、創作として物語の理解を深めるのが先ではないですか、という事を言っています。

 まさにその通りです。あの作品の良さをどう自作に落とし込むかが、全くわからなくて困っています。すみません、それなりに理解していたつもりでしたが、判っていたのは現実の事情だけだったみたいです。ええと、他作品の長所を取り込む方法を教えていただけませんか?
 あと、やっぱりまだまだふわっとしたイメージしかないので、具体性を持たせたいです。何か方法を教えてください!

作中の障碍者の扱いについて。の返信の返信の返信の返信の返信 (No: 11)

投稿者 サタン : 0 No: 9の返信

投稿日時:

>あの作品の良さをどう自作に落とし込むかが、全くわからなくて困っています。
そのためには、まず該当作品の「良さ」を正確に把握する必要があります。私は読んだこと無い作品なので存じ上げません。
ですが、既存作のような作品を作る方法は知っています。
繰り替えし私は該当作品を知らないので、まあドラえもんあたりで試してみますか。
ドラえもんのプロットは単純で、その物語は要約すると
「のび太がイジメられる」「ドラえもんに泣きついて道具を出してもらう」「ジャイアンを見返す」「機械が故障して調子にのったのび太が酷い目に合う」
って感じの自業自得な話があったりする。
これを、パクればいいんですよ。
「主人公が嫌な思いをする」「頼りになるキャラに泣きつく」「相手を見返す」「やりすぎて自分に被害が出る」で、おわり。
ほら、よく似た話は出来るでしょ。

たぶん、パクリは良くないものと考えて、これまで避けてきたんじゃないでしょうか。
確かに「盗作」は良くない事ですが、だからって真似ることさえ放棄したら、それは教科書を見ないで勉強するようなものだし、参考書籍を捨ててるようなもの。
で。
例えばドラえもんの場合、
「のび太がイジメられる」「ドラえもんに泣きついて道具を出してもらう」「ジャイアンを見返す」「機械が故障して調子にのったのび太が酷い目に合う」
このように物語を要約しましたが、これが「具体性」です。
なので、これをパクった
「主人公が嫌な思いをする」「頼りになるキャラに泣きつく」「相手を見返す」「やりすぎて自分に被害が出る」
という物語には一応の具体性がある事がわかりますかね?
「主人公が嫌な思いをする」の嫌な思いとはどんな思いなのかなど書いてませんが、嫌な思いをすれば良い、嫌な思いをすればシーンが成立するって事はわかりますよね。
「何を書けば良いか」は具体的で、その中身の詳細が決まってないだけで、具体性はあります。

つまり、その障害をテーマにした作品を、このように要約すれば、そこには具体的な「良さ」が現れます。
そうしたら、その「良さ」に関係する部分だけを流用して自身のプロットに書き込めば良いだけです。
いきなり長編作品の要約をするのは難しいと思うので、適当に一話完結の短編、サザエさんあたりで物語の流れを要約してみるなど訓練してみたら良いのではないでしょうか。

なるほど!その方法がありましたか。 (No: 13)

スレ主 壱番合戦 仁 : 1 No: 11の返信

投稿日時:

 これなら、僕にもできそうです。

 ええっと、これをかたわ少女に適用すると。

 「主人公が難病にかかって、養護学校に転入する」→「様々な個性を持った隣人に戸惑いながらも、少しずつ慣れていく」→「目の見えないマリーと過ごすうちに、恋に落ちる」→「家族の事情によって邪魔が入る」→「障害を乗り越えて結ばれる」→「障害を抱えたまま、ハッピーエンド」

 これを、自作に直すと。
 「主人公が発達障害と診断されて、学校や家でいじめられて、異世界転移する」→「転移先で防寒から女の子を助ける」「助けたお礼に女の子が通う学校にタダで入れてもらう」→「いろんな事情を抱えた人が集まる学校で、少しずつ慣れていく」→「助けた女の子と恋に落ちる」→「彼女の人種を迫害する武装グループに学校を襲撃される」→「家に帰ると、彼女の兄が失踪したという知らせが届く」→「彼らの旅が始まる」

 こんな感じですかねw
 おかげでアイディアがわきました。ありがとうございます。

作中の障碍者の扱いについて。の返信 (No: 6)

投稿者 あざらし : 2 No: 1の返信

投稿日時:

所感を綴ります。

>障碍者を使って泣ける話を作って、自慰行為するなッ!!

桂香さんも書いていらっしゃいますが、いわゆる感動ポルノですね。
この問題の難しいところは発信者側だけの話しではなく、受け取り側のとらえ方でも変化するという点でしょう。

同じ物語でも、
Aさんは「感動した、素晴らしい作品」
Bさんは「感動ポルノで唾棄すべき作品」
当たり前の出来事です。
本質的には、ですが、作品に対する評価ですから、それは作品を味わった人それぞれが判断することです。
障害を扱うということに特異性を持ちやすいだけで、本質的には、あくまで根っこの部分としてはどの作品も変わりはありません。

もちろん例外『中身以前に大前提として首を傾げる』というのは存在します。
感動ポルノという言葉を日本で広めるきっかけになった番組でもありますが【24時間テレビ】ですね。
本当に募金を募ることが目的のひとつにするならば、
『TV局はCMによって得た収益を寄付』
『お金の流れ、システム的に必要となる広告代理店も収益の一部を寄付』
『出演者はボランティアでまかなう』
これを満たすべきですが、そうはなっていません。ゴールデン30秒のCM料金がおおよそ1000万ですから、募金金額が2億やそこらでは、収益が目的の商売だと思われても仕方ない。

内容も、個人的に品位があるとは到底感じられない作り、はっきり言えば下品ですが、個人的な拒否感と社会的意義は別枠で考えるべきだと思うのです。
『番組の存在により募金したであろう人の存在』
『番組がきっかけとなり、障害者の存在を意識したであろう人の存在』
この存在がゼロで無い限り、社会的意義もゼロではない。
「1000を1200にする」ということより、「ゼロを1にする」ということは遙かに困難ですから、人の行動のきっかけになる限り、手法を完全否定することも私は出来ません。
いかな手法、自己矛盾を孕んでいてすら、受け取り側である視聴者によって肯定されれば、その結果が単純に社会通念上でも『善いこと』になっていくのではないでしょうか。
感動ポルノ、これそのものが現象を指す言葉であって、特定の作品を示すべきではないと私は思うのです。

>また、アニメや漫画での障害の扱いは非常に軽いと思います。例えば、「アルプスの少女ハイジ」。

そもそもアニメのハイジは子供向け番組として作られています。
物語の内容が全て理解できなくとも、幼稚園にあがる頃には十分に楽しめますし、元々はそういった幼児でもみることができ、小学生になれば話しの隅々まで見ることができるように作られています。

アニメは1970年半ばの作品です。
今日でもそうですが、小学生にせよ幼児にせよ、日常生活で「歩けない人」に接する機会がどれぐらいあるでしょう? 
もちろん祖父母が車いすを使っているならば、それなりに機会があるでしょうが、そうでなければ街中で見かけるだけで『ほとんど存在を認識していない(実感できない)』という場合もあるでしょう。
視聴者からすればクララという『同年代であったり、お姉さんの年齢で歩けない人がいる』ということをアニメを通して実感する、これは大変に意味のあることだと私は思います。
ハイジはクララと初めて合ったとき「歩けないの?」と聞きます。大人だったら聞きません。
でも、子供であるハイジは聞くのです。
残酷であると受け止めることもできますが、真実の意味でフラットな反応と受け止めることもできますし、見ようによっては確かに軽いと見ることも出来ますね。
いずれにせよハイジにとってはクララを特別視するためではなく、今後の『日常』としてスタートだと思います。

>本当にそれは、障害という設定を使ってまでやっていいことだったのでしょうか?

私は子供に見せるアニメとして、障害者の存在を隠すより、よほどよいと思います。
クララが歩けないのは原作の通りです。
原作で歩けないクララが、アニメでは歩けることになっている。
こうなってしまうなら大問題でしょう。

>「障害を乗り越えるべきものととらえるなど、烏滸がましいにもほどがあるのでは?」と少なからず疑問を覚えてしまうのです。

ハイジの場合を先に書きますが(作中で明示されていませんが)転換性障害、機能性神経症状症、ひょっとすると脳の機能障害(もしくは併発)かも知れませんし、お嬢様でかごの鳥状態ですから日光の不足、ビタミンD欠乏による”くる病”かも知れません。
原作が書かれた19世紀だと、ひっくるめてヒステリーと呼称されてもおかしくありません。(日本語での語感、感情をコントロールできなくなっている状態、の意味とは異なります)
ぶっちゃけ当時も快癒する可能性がありますから、周囲と本人が治って欲しいと思い、それに伴った行動をするのは至極真っ当だと私は思います。
治る可能性が感じられる限り、そりゃ周囲も乗り越えるように手助けするでしょう。
ハイジもそうしていたと思いますよ。(ペーター、だったかな? 車いすを壊してしまうという行動も心理としてよいメタファーになっていたと思います)

さて。
個人的に、健常者は障害を持っている人を特別視するのではなく、そういった個性であると認識するべきだと思っています。

そう特別なことだと思わない方が良いと思うのです。
当たり前ですが、嫁さんは私より力がありません。
『男性に比べて女性は重労働には向かない』という産まれ持った性差による個性です。
ですので買い物に行ったら荷物は私が持ちますし、階段でベビーカーを苦労して持ち上げている女性がいたら『持ちましょうか?』と声をかけます。

目の不自由な方は『視覚情報に頼ることができない』という個性です。
ですので『私が代わりに見ることで助けにならないか?』を訪ねます。
同じことなんです。

昨今、アメリカでは障害者のことを先天・後天性に関わらずChallengedと呼称する文化が根付いてきています。
これは単純なポリティカルコレクトネスとは明確に異なります。
今日的には差別用語より若干マシ『(少なくとも公的な場では)つかうべきではない言葉』になっていますが、それ以前は障害者を意味するDisabledpersonやHandicappedです。
日本でなら外来語としてのハンディキャップですね。
スポーツ等でも使いますが『不利な条件』を示します。
つまり『健常者を平均としてのハンディキャップ』であり、人間に使うにはあまりにもネガティブです。

Challengedというのは、無理矢理日本語にすると『(神により特別に)挑戦する資格を与えられた人』です。(言葉の背景にキリスト教の価値観が関わります。あの国は、あの科学技術をもってして、人口の半分が進化論を拒否するぐらい生活の基盤で神の存在が普通のことです)

この言葉の重要なところは、
健常者にむいては『ネガティブに特別視するな。かわいそう、それが差別が無くならない理由』
障碍者にむいては『(神に特別に選ばれた)チャレンジドであることに誇りを持って生きよう』
こういった意味を内包しています。
健常者が乗り越えろと考えているのではなく、障碍者自身の望みでもあると私は解釈しています。

不慣れな土地で道に迷っている人と一緒。
自分で解決できそうな人に案内を買って出るのは不躾ですが、困っているならば助けるべきでしょう。
『自分で解決すべき』とは思いませんし、かといって『過干渉すべき』とも思いません。
道に迷っている本人の意思、本人の自由で判断することを、案内人は尊重するべきだと思います。
チャレンジドの方にも同じスタンスで行動すべきだと私は思います。

>皆さんは障碍者を物語の中心に据える場合、どんな書き方をしますか?また、この命題に皆さまはどんな考えをお持ちでしょうか?

私は執筆しない単なる読者ですので、その視点で書きます。
障碍に限らず、万人に画一的な答えを当てはめられない問題は世に五万とあります。

例えば、死刑制度。
賛成派・反対派が存在する以上、扱いが難しいですよね。
いずれの発言にも納得できる部分はあります。
もちろんケースバイケースによって異なりますし、問われたタイミングで答えが変化することもあります。

こういった万人が画一的な答えを持っていない題材を扱う場合、
ストーリーは登場人物を利用して可能な限りフラットに。物語を通して読者の心に発生した感情を作品のこたえにする』これがベストだろうと思います。
著者が発表した時点で、それは著者の手から離れ、個々読者にとっての作品に変わります。結論部分は読者にゆだねてよいのではないでしょうか。

品がないと感じるのは『制作者により予め用意された解釈による結論の押しつけ』
この結論を『感動』にすれば、安っすい邦画によくあるパターンです(笑)
こういうのは、鼻で笑い飛ばすぐらいしか反応できません。
こんなの態々時間を使って読ませるな、という話しです。

一本だけおすすめ映画を。
先日も放送していましたが【この世界の片隅に】
原作の同タイトル作品【こうの史代著】をかなり忠実にやってますので、漫画で読んでもよいと思いますが、アニメもよく出来ています。
安っすい著者や監督がやると、『鼻で笑い飛ばすしかない』題材を、流石の手腕でお見事に調理しています。

作中の障碍者の扱いについて。の返信の返信 (No: 7)

スレ主 壱番合戦 仁 : 0 No: 6の返信

投稿日時:

 目からうろこが落ちました。僕なりに考えてみたのですが、障害って「何かができなかったり、不得意な事全般」を指すんですね。確かに、その視点を持っていないと狭い意味での【障害】を特別視してしまいますね。

 ハイジを例に出したのは、かなり不適当だったかもしれません。すみませんでした。

作中の障碍者の扱いについて。の返信 (No: 10)

投稿者 ポコポコ : 0 No: 1の返信

投稿日時:

僕は四肢麻痺の脛椎損傷者です。
障害者ネタでお涙ちょうだいとかありだとおもいます。
なぜかというと障害者ネタを書いてもらうと、どんな病気なのか読んでる人にわかってもらえるのでありです。

ついでにいうと私はこんな状態でも色々やれてます。↓↓↓みれるかな。
https://youtu.be/EGaV9Y4wqVI

作中の障碍者の扱いについて。の返信 (No: 12)

投稿者 読むせん : 2 No: 1の返信

投稿日時:

ふははは、蛆虫のごとく湧いて出てやったぞ。おそれろ(笑)
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
>>『障碍者を使って泣ける話を作って、自慰行為するなッ!!』

別にいいじゃん好きにしろよ派。

>>「障害を乗り越えるべきものととらえるなど、烏滸がましいにもほどがあるのでは?」?

逆に聞くが乗り越えたらあかんの?

 障害があっても適応していくことはすごいと思う。両腕の欠損者が足の指を自在に使い、メイクやら車の運転までやって、検査を受けたら足の指の神経が手の指レベルまで発達していた人のルポ感心したし。
 ただし、一方で『もしこの人を可哀想だからと介護して干渉しまくり過保護にする人間がそばにいたら、この人の足の指の神経はここまで発達できなかっただろう』とも思う。

適度なきょりかん大事。

私には成長って概念(がいねん)はよく分らん。身近なアスペとかは言葉を概念レベルで勘違いしていて、お互いの言葉が繫(つな)がらず『ポイントカードは「お餅」ですか?』みたいな崩壊会話をしょっちゅうやります。

壱番さんの成長と私のとらえる成長は、たぶん似て非なる概念。

【僕たちの認知】とやらが何を指すのか知りませんが・・・・ぶっちゃけ壱番さんが私の身内のアスペに会ったら何気にドン引きしそうだな~とは思う。こんなヤバい野郎がアスペの見本なのか!?みたいな?障害にも程度はありますから

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
悪趣味な話、某アニメスタジオ放火事件直後は「こいつも真似してこういうことしないだろうな?」と母と一緒にビビったよ。このくらいの狂気性と行動力はあるからね。つーか未遂だけど似たことやらかしやがった事あるし。

・・・・マジ基地めいわくマンのが目立つんです。どんなジャンルでも。
その事実を無視して考えると世界とズレていきますよ。更に言うなら、重度のアスペルガーの迷惑被害を一番受けるのは軽度のアスペルガーです。

軽度のアスペは面倒見がよく仕事熱心だし、アスペの辛さを理解しているから無下にしない。モラハラ気質の変態になつかれるねん。
 知り合がそれで、しょっちゅう変な人間に怒鳴られたり、責任押し付けられたり、ストーキングされたりでノイローゼになってる。

 マジ基地には同類であっても同情すんな。そいつより自分の身を選んであげてくれ。そう思えないなら私達のために、私達が大切に思っている『あなた自身』を優先してくれ、ってテーマにするよ。書くなら。
============================
ハイジかー・・・・アニメより先に原作読んでたから言うが、作中最も重い障碍者って『アルムおんじ』やで?

クララはどちらかというと過保護からの脱出がテーマに近いと思う。

で、アルムおんじは・・・・・・生来のバクチ好きとかでメタメタな生活を送り、軍から脱走、殺人などを犯しアルプスに居つき、妻をもらう。
が、あまりの破滅的な生活スタイルに我が子が愛想をつかし父と絶縁。子供はアルムと違って気さくで善良でしたが無残にも事故死。

まもなく妻も死に、アルムおんじは子と妻を奪った「神」を恨み、教会にいかなくなり山奥に籠り一人暮らしをします。当時としてはマジ基地です。

ペーターなんかはアルムおんじを山に住み着いた殺人鬼みたいなものとして、始終ビビりまくっています。

ラストエピソードはハイジと一緒に山からおりて、ふもとの村にお出かけ。
ペーターの祖母の家を修理してあげたり、感謝のプレゼントとして贈られた民族衣装の晴れ着を着て、ハイジとおっかなびっくり教会のミサに参加する。

全てを憎んでいた障害者が、ハイジの手を借りながらも自分から踏み出して、神様と人間の世界と仲直りするんです。個人的には好きなエピソード。

・・・・・ま、受け取り方はひとそれぞれですねー。

作中の障碍者の扱いについて。の返信の返信 (No: 15)

スレ主 壱番合戦 仁 : 0 No: 12の返信

投稿日時:

ごめんなさい。皆さんに誤解を招く表現をしてしまったようです。

 「乗り越える」っていうのは、「障害を完治する」という意味で使っていたのですが、語弊があったようです。
 僕が使っている「成長」の意味は、多分読むせんさんの言う「乗り越える」の意味にかなり近いと思います。
 この場を借りてお詫びいたします。

 あと、読むせんさん。冗談でもそんな登場の仕方はよくないですよ。嫌われてしまいますから、やめた方がいいです。

 それと、原作をよく読んでいないのに例に挙げたことが恥ずかしくて仕方ないです。物語全体を見ないとわからないこともたくさんあるんですね。以後反省します。

作中の障碍者の扱いについて。の返信の返信の返信 (No: 16)

投稿者 読むせん : 0 No: 15の返信

投稿日時:

なんだ怯えなかったか残念(ΦωΦ)フフフ…
むしろあの騒動直後に管理人さんがブラックリスト機能?的なもの付けてくれたのもありましたし。もうブラック登録しているのかと思っていましたから。引き合いに出されたというアレコレみて未登録だったんだーってなりましたね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

原作云々に関しては、これまた別にいい派です。これで「原作読んでみよっかな?」って興味を引けたなら満足だし。同じ感想より別の感性や感想を聞けるのは興味深いですからね。
 簡単に調べた感じ、宮崎チームはそこを省くことで明るい物語構成にして、ハイライトをクララに持たせたようです。子供向けだし生臭い部分を削ったのでしょう。

原作、アニメ、コミック実写に変換するときは、解釈を変えてもいいんですよ。そんなん言ったら「フランダースの犬」のネロなんて原作だと20歳くらいのニートですしねー。

ファッ!?ネロって放蕩ニートだったんですか?! (No: 17)

スレ主 壱番合戦 仁 : 0 No: 16の返信

投稿日時:

 本当ですか、それ!?
 あの騒動って、僕が引き起こしたあのスレでの騒動ですか?
 え、じゃあ、僕が騒いだからブラックリスト登録機能が追加されたとか……?

 何か、本当に今更だけど、皆さん改めて申し訳ありません。管理人さんが動くほどの事態になっていたとは、露ほども知りませんでした。恐々縮々の至りです。本当にごめんなさい。

 あのことがあって以来、家でも被害妄想が酷くて、今はかかりつけのお医者さんと相談を重ねて、対処している最中です。今後もご迷惑をおかけすることもあるやもしれませんが、その際は平らにご容赦いただきたく存じます。

 本当にごめんなさい。

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タイトル:作中の障碍者の扱いについて。 投稿者: 壱番合戦 仁

 どうもこんにちは。壱番合戦 仁です。

 前々から世間で疑問視され続けていた重大なテーマについてお聞きしたいと思います。

 ズバリ!

 『障碍者を使って泣ける話を作って、自慰行為するなッ!!』
 はい、これまんまの話です。障害を持った人が主人公のドラマとか、映画って、見ていてなんか違和感ありませんか?でも、僕からしてみれば、よくよく見るとどう考えても、『疲れた健常者のために作られている』としか思えません。当事者にこれっぽっちも優しくないんです。
 すこし福祉の心得がある人ならすぐわかると思うのですが、当事者からしてみれば『いつも通り生きているだけなのに一挙手一投足に感動すんなよ。ウゼェな』というのが本音なのです。
 特に挙動や振る舞いが健常者にかなり近い(流暢に会話する、空気はそこそこ読める、的外れだけど気を使うくらいはできる、集団行動は訓練したから後天的にできる、身だしなみも気を付けている、常識も気にしている)僕の様な「アスペルガー型」からすると、偏見以外の何物でもありません。
 ああいったものばかりが世に出回っているおかげで、僕たちの認知が一向に進まないのです。実に腹立たしい。
 実際、僕はそういったお涙頂戴物のドラマなど見ません。カナー型自閉症の男の子の恋が【健常者の女性に対して】実ったみたいな話は、制作者の意図が透けて見えて、反吐が出ます。
 また、アニメや漫画での障害の扱いは非常に軽いと思います。例えば、「アルプスの少女ハイジ」。

 クララが立てるようになるシーンは名作と言われていますが、そもそもクララはシリーズの途中で足が完治します。あとは本人が立てるようになるだけなのに、心療内科的な症状で立つことができません。そこを友人であるハイジらが励まし、彼女は障害を乗り越える。これだけならいいのです。この作品はきちんと障害に向き合った上で乗り越える様子を丁寧に描写していたはずです。

 ですがしかし、【本当にそれは、障害という設定を使ってまでやっていいことだったのでしょうか?】

 古来、物語において、キャラクターの『足や腕、または心の機能を取り戻す』というのは、自らの忌むべき過去との対決を意味しました。ですが、現実の多くの障碍者にとって、後天性なら自らの障害にまつわる忌むべき過去はあるかもしれませんが、もう今となってはどうしようもないことなのです。【現代医学では治せない】【ほぼ一生治らない】から障害なのです。「障害を乗り越えるべきものととらえるなど、烏滸がましいにもほどがあるのでは?」と少なからず疑問を覚えてしまうのです。
 僕は『障害を抱えたまま、成長していくこと』については大賛成です。それが本来の障碍者の讃えられるべき生き様だと思うからです。だから僕は、僕の異世界冒険記、改め、「イドラとユクサー」を書いています。
(ちなみに以前の質問で『私はただ夢が見たいだけ』とおっしゃっていた方もいらっしゃいましたので、あくまでその人も、僕も、一意見にすぎませんが)皆さんは障碍者を物語の中心に据える場合、どんな書き方をしますか?また、この命題に皆さまはどんな考えをお持ちでしょうか?

 倫理的な問題につながっているので、参考にしたいです。

 回答を心よりお待ちしております

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