飯テロモノを書きたいのですが、『飯』そのものの描写をどこまでやっていいのか基準が分りません。の返信
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飯テロモノを書きたいのですが、『飯』そのものの描写をどこまでやっていいのか基準が分りません。(元記事)
お久しぶりです。大野です。
前から連載していた作品が、ある程度軌道に乗ってきて新作品のアイデアを練っていたのですが……。
練っていたところで、タイトル通りの疑問にぶち当たりました。
作品の完成予想図。
大学受験中に親が原因で鬱になった主人公が、妹(or従妹)の高校進学が少し遠くに進学するのをいいことに妹共々家を出て二人暮らしをすることになり、その先で家事をしたり、今まで言ったことのない店で外食してみたり、バイトしたり、高校時代に同じ部活だった仲間とふざけたりする。感じの作品です。
鬱の原因について親も納得しており、かつ親自身の性格である故に理解できても親にはどうしようもなかったこと。妹(or従妹)は妹で鬱になるほどではなくとも兄の苦労を理解していたこと。兄妹がシスコン・ブラコン気味であること。
この三点を抑えて置いたうえで、なんですが。
『精神的に疲れてる主人公』がうまい飯を食って元気を出すシーンで、料理の外見及び味そのものの描写について。どれくらいの文量が相応でしょうか?
個人的には文庫本サイズで考えて八行くらいかな、と思うんですが。どうでしょう?
飯テロモノを書きたいのですが、『飯』そのものの描写をどこまでやっていいのか基準が分りません。の返信
投稿者 あまくさ 投稿日時: : 0
カレーを素材にした短編、拝見させていただきました。
向こうに感想を書いた方がいいのかなとも思いましたが、こちらのご相談もこみということで。
料理の外見と味の描写の適正量というご質問ですが、私見では量の問題ではないんじゃないかなと。とくに文章だけで勝負する小説の場合、そういうことはシチュエーションと切り離せないように思います。
例としてあげていらっしゃる『孤独のグルメ』で考えてみますね。
あれはマンガ版とドラマ版がありますが、料理の美味しさを直接的に感じさせて食欲をそそる(飯テロ)という点では、ドラマ版に圧倒的なアドバンテージがあると感じます。
どちらも視覚のあるメディアですが、マンガは無彩色。ドラマ版は素材の質感や鮮度を色で伝え、油の焼けるジュウッという音なども伝えます。この違いがどれほど大きいかは、見比べれば一目瞭然です。
ハッキリ言ってマンガ版の『孤独のグルメ』でも有名な『お美味しんぼ』でも、マンガ絵だけで料理を美味しそうと感じさせるものにはなっていないのではないでしょうか?
料理写真というのは美味しそうに撮る方法が確立しているそうで、「飯テロ」が目的なら映像メディアと他の方法では勝負になりません。
ただ、にもかかわらず小説やマンガには昔から料理物の名作が多いんですね。それらは、単に美味しさを伝えるということとは違うアプローチをしているように思うんですよ。
カレーを素材にした漫画の名作を二つ知っています。
一つは『包丁人味平』。「カレー戦争編」にブラックカレーというのが出てきます。見た目はドス黒くて美味しそうには見えないのですが、一口食べると病みつきになってしまうという究極のカレー。ところが、調合されたスパイスに麻薬に近いものが含まれていたことが発覚します。作り上げた料理人に悪意はなく、本来スパイスと麻薬は境界線がはっきりしないものなのだとか。長年それの研究に打ち込んだ料理人自身がスパイスの中毒で精神に異常をきたしてしまいます。
もう一つは、『美味しんぼ』の「カレー勝負」。こちらは単行本1巻分をついやして、カレーの起源と実像をリアルに追及しています。
序盤でとあるインド人が語る、「そもそもインドにはカレー粉というものは存在しない」という発言が衝撃的。ガラン・マサラというのはあって、カレー粉にやや似ているけれどカレー粉ではないんだそうです。
インドには地方色豊かな総菜をスパイスで煮込んだスープ料理みたいなものがあって、それを昔インドを植民地にしていたイギリス人がアレンジしたのがカレーの原型。そして日本に洋食の一つとして伝わり、日本風にさらにアレンジされたというのが真相らしいです。
しかしカレーなる名称の料理が世界のあちこちでけっこうポピュラーになり、それがまたインドに逆輸入されたりもして、ややこしいことになっているようです。インドカレーというものがあると思って期待する観光客向け、というような事情もあるみたいで。
……ええと、話が脱線しましたけど、『美味しんぼ』では主人公たちがインドに行って現地の事情を調べてまわるエピソードがあったりします。あのマンガの原作者はけっこう社会派で、理想主義者の一面があるんですね。食文化を通した主張を読者にぶつけてきたりするところがあります。
『孤独のグルメ』にもカレーは何度か登場していますが、これがまた上の2作とはまったく違うんですね。原作者は「ジャガイモごろごろタイプの日本風カレー」が好きらしく、「スパイスがどうだとか言うなよな」なんだそうです(笑
『孤独のグルメ』の主人公はマンガもドラマもこだわりは物凄く強いんだけれど、社会的問題意識なんて持ち合わせないキャラです。
あの主人公は料理の品数をたくさん並べるのが好きで、そのへん飲み屋のつまみっぽいんだけれど酒は飲めないという。なのでシラフの頭で、食べる順番を真剣に考えたりするんですね。「~は後にとっておこう」とか、「そろそろ~を攻めてみよう」とか、常連客が何か注文するのを聞いて「ここは、そういうのがあるのか」と作戦を変更したり。そんな中に思いがけない発見があることを楽しんでいるんですね。
主人公があれこれ考え、意外な出会いあり、小さな謎あり。それによって作戦を立てたり変更したり。
大袈裟なテーマはないけどコンセプトはあるという見本で、それだけでちゃんとストーリーになっている素晴らしい逸品だと思います。
言いたいことは、同じ「食」をモチーフにしてもアプローチが3者3様だということ。さながら和・洋・中の手練れの料理人が、同じ素材をまったく違う料理に仕立て上げるがごとしです。(あ、俺今うまいこと言った?w)
まあね。
食事をしない人っていないじゃないですか。だから食のストーリーって作者と読者の間に確実に共通の体験があるわけです。おかずの中で好きなものを先に食べるか後に残すかって、あるあるだったりするでしょう?
それと上の3者3様についてですが、言い換えるなら、どういう方向で読者を楽しませる作品なのかがはっきりしていてブレないということかなと。
B級グルメ的なこだわりに共感する人なら『孤独のグルメ』は裏切らないって分かるのが、強みなんだと思います。
御作の場合、巧くまとまっているとは思いましたが、どういうところで読者を楽しませようとしているのかが見えないというもどかしさは感じました。
もうちょっとウリを意識しなきゃっていうことでしょうか。
カテゴリー : 流行分析(なろう研究) スレッド: 飯テロモノを書きたいのですが、『飯』そのものの描写をどこまでやっていいのか基準が分りません。