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物語の考察のさせ方について (No: 1)

スレ主 投稿日時:

こんにちは㎜というものです。
面白い作品は読者に考察させる内容が含まれていることが多いですよね。
読者にはただ一つの答えではなく、様々な答えを考えさせ、議論させるものが私個人的には面白い作品であると考えています。
そこで、考察について4つの質問があります。
①作品によって異なると思いますが、どういった内容が読者にとって考察し甲斐のあるものになるのでしょうか?
②どういった点(例えば、登場人物の言動、舞台の背景等)に考察させる要因を入れたらいいのでしょうか?
③読者に考察させるので、作者側であらかじめ答えを用意しておいたほうがいいのでしょうか?ただ、私としては答えを用意して作品を書き、考察させるとなると、その答えに導かせる作品になってしまい、読者の考察の答えが1つだけになりそうで不安です。
④そもそも、今の読者に考察させるような作品を好むひとはいるのでしょうか?
みなさん回答お願いします。

カテゴリー: 設定(世界観)

この質問に返信する!

なるほど、こんな感じですかね。 (No: 2)

投稿者 ソラナキ : 0 No: 1の返信

投稿日時:

どうも。ぶっちゃけそんなに知識に自信があるわけでもないですが、ちょっと答えたいと思います。おかしいところあっても許してね。


簡単なもので言うと、何某かの行為の意味、あるいはそれに隠された真意とかですね。
たとえば異世界に召喚されて、世界を救ってくださいと言われる。そのように行動するが、何かがおかしい。何か隠していることがあるのではないか、と登場人物と一緒に考えるわけです。そういうのは登場人物と別の回答に至ると面白いですし、結構しがいがあると思いますよ。

言動だと、匙加減が難しいですね。舞台の背景や、設定で疑わせるのがいいと思います。もしくは、登場人物の行動によってもたらされた結果から、何かあるのかと気付くとか。そんなのがいいと思います。

それは決めといた方が書きやすいですし、主人公らの行動がブレずに済むと思います。ただここら辺は、慣れた人が手を出す感じですかね。

はいはーい、此処にいますとも。考察好きですよぼかぁ。

物語の考察のさせ方についての返信 (No: 3)

投稿者 サタン : 2 No: 1の返信

投稿日時:

①:面白い作品。考察する要素があるから面白いのではなくて、面白いから考察しています。
②:主に設定。設定を説明しない。描写はする。
③:たぶん考え方を間違ってると思う。読者に推測させる、させたい、という事なわけだから、端的に言えば「推理パートがない推理小説」のようなもの。そもそも率先してやるようなものではない。
けど、一応それを地でやってヒットした作品はある。「ひぐらしのなく頃に」は推測させる余地がないほどにわけがわからず話が進んで、推理させようと作者が動いてヒットした。
④:一定数いるけど、センスや技量、明確なコンセプトが必要だと思うし、ハッキリ言って「推理パートのない推理小説」が面白いとは思えない。
それを面白いものに仕上げるアイディアやセンスが必要だと思う。
「ひぐらしのなく頃に」はホラーとすることで推理パートなど謎の解明がなくても楽しめる形にしたアイディアが凄かった。

アニメを始めサブカルチャーで「考察」という言葉が出始めたのは、おそらくエヴァンゲリオンあたりからだと思う。
エヴァは、物語を進行するにあたって必要な説明はするけど、使徒が何なのかとか何故戦ってるのか(なぜ使徒が攻撃してくるのか)ということをほとんど語らないし、状況と結果から世界観の設定を推察していくしかない。
その多くは描写によって、まあつまり直接表現でなく間接的に表現されているので推測することはできる作りをしている。
記憶に新しいところで新劇場版Qでいうと、シンジが綾波に連れ去られたあと、着替えでトウジの名札がある衣服が出てきて視聴者は「あっ」と察してしまうよね。
要するに、そこで「考察」の余地が入ることになる。
エヴァは基本的にそういう場面がめっちゃ多くて、本当に何も語らない。映像で刺激を与えて「え、なにそれどういうこと?」と思わせるのが上手い。
個人的に言えばQはソレをやりすぎで、開始1分からどーなってんのか意味不明だった。
まあそれはさておき。

基本的に、「考察」が先にあって「面白い話」になるのではなく。
「面白い話」だから読者が勝手に「考察」するので、「考察する要素」を先に考えるのは失敗の素だろうと思います。
エヴァの場合は設定の説明をしないコンセプトなんかなと思える感じで、それがファンの考察に至っただけではないかなと。
てゆーか、これも私個人の考察ではあるんだけど、監督の庵野は元ジブリでナウシカの作画とかしてて、宮崎駿にナウシカの古い時代の話作ろうって言ってたんだよね。そんで宮崎駿がYESと言わなくて自分で作ることにしたのがエヴァ(かどうかはわからんが、時期的には合う)なので、要するにエヴァって巨神兵のことでセカンドインパクトって「火の七日間」なので、設定を語らないんじゃなく語れないんじゃないかと思うんだけども。
まあ、要するに「考察されようと思って作った作品」ではないと思う、という事。設定を説明しないよう努力してたら結果的にそうなっただけではないかと。

でもこれは、言ってしまえば「説明しないで読者に伝える」という事なので、非常に難しいし面倒くさい。
もしやろうとしてるなら、一度チャレンジするのは良いと思うけど、止めたほうがいいと思う。

物語の考察のさせ方についての返信 (No: 4)

投稿者 読むせん : 1 No: 1の返信

投稿日時:

身もふたも無く言おう

 や め と け !!

考察厨ですが、きほん考察なんて基礎知識があって初めて成立し始めるものです。

なので基礎知識がないやつ、アホなやつには難解で面倒くさい御高説たれる高尚な作品にしかならん。ならへんで?ではなく、ならん(断定)

=====================
>>①作品によって異なると思いますが、どういった内容が読者にとって考察し甲斐のあるものになるのでしょうか?

童話と民話。

シンデレラは中国の纏足をモチーフにしたものであり、シルクロードを逆走することによって欧州に伝播した物語ではないか?この話ではないか?って考察は面白かった。
その説を聞いた後で、聊斎志異にその話(中国版シンデレラ)みつけてテンション上がった。

ギレルモの「パンズ・ラビリンス」とか民話マニアの観点も含めて2万文字近い蘊蓄垂れられる。

映画「私はゴースト」はフリーゲームと真相、世にも奇妙な物語の【私は、女優】ヒロインの正体、成仏の果ての所の意味、悪魔払いの理由と原因まで考察を垂れ流せる。

でも知らんでも見れっから。意味分かるかボケって言ってもいいから。うん。

物語の考察のさせ方についての返信 (No: 5)

投稿者 あまくさ : 2 No: 1の返信

投稿日時:

>面白い作品は読者に考察させる内容が含まれていることが多いですよね。
>読者にはただ一つの答えではなく、様々な答えを考えさせ、議論させるものが私個人的には面白い作品であると考えています。

そうかもしれませんが、そういうことが通用するのは読者が作者に対して揺るぎない信頼感を抱いている場合だけです。
「考察」という立派そうな言葉に惑わされていらっしゃらないでしょうか? 本来、考察が必要になるということは、その作品に一読しただけでは容易に理解できない要素があるということを意味します。しかしそれは、普通は作品の欠陥と看做されてしまいますよ。
理解しがたい内容が欠点と思われないのは、読者の側に「この作者が稚拙な作品を書くはずはないから、難解なのは何か深い意味が隠されているからだろう」と好意的に解釈してくれるからです。他の方が例としてあげられている庵野監督は、そういうクリエイターだという評価が定着している人です。すでに盛名のあるそういう作者なら何をやっても受けるんですよ。でも、アマチュアや無名の新人が同じことをやると、まず間違いなく駄作判定されてしまいます。
なので庵野監督並みに世間に実力が認められるまでは、作品作りには分かりやすさを心掛けた方が無難です。

……すみません、ちょっと身も蓋もないかな。
でも、そういうことだと思いますよ。

ライトノベル作法研究所管理人うっぴー /運営スタッフ:小説家・瀬川コウ:大手出版社編集者Y - エンタメノベルラボ - DMM オンラインサロン

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物語の考察のさせ方についての返信 (No: 6)

投稿者 玄翁 : 1 No: 1の返信

投稿日時:

もうすでに回答がいくつも出ていて私の回答も大同小異になりますが、”物語の考察のさせ方”と書かれている時点でおそらく考え違いをされています。

考察は基本読者が勝手にやるものです。支持する一定の層がいるから成立するものです。

作者の方から意図してそれをやらせようとしてもほぼほぼ失敗すると思います。

有名なところであしたのジョーのラストシーンがありますが、あれにしても現代では想像できないくらい連載当時熱狂的な人気があったからこそ長く考察されることになった訳です。
ただそのシーンにしてもそうですが、あえて明言を避けたり多くを語らなかったり何かしら含みを持たせて読者の想像に委ねる手法は特に珍しいものではなく、余韻を生み出すくらいのもので考察されると言うのはあくまで結果にすぎません。

考察するかしないかは結局読者次第なので、作家としてはひたすら面白い作品作りに注力すること以外に正解はないと思います。

物語の考察のさせ方についての返信 (No: 7)

投稿者 雨オカマ : 1 No: 1の返信

投稿日時:

 考察というと、私はもっぱらまとめサイトのツッコミ片手にジョジョの考察をするのです。そしてそれは、なんというか「神学(適切か不明ですが)」なんですね。「好き」というのは決まっていて、「どうやったら自分にとって好きな部分を破壊せず物語の整合性を取るか」というゲームなわけです。つまりは「すでに信仰することは決まっていて、そのうえでより『自分が納得するため』考えるんです」。
 これは、その作品が優れているかというのとは関係がないことです。エンタメの優れている作品というのは、一般常識的な読み方を続けるだけでなんらか良いメッセージや美術性といった満足感を与えるもので、それなのにその満足感のために読者の側に複雑な考察が必要なものは構造的な欠陥を有していると見ております。神学によって生じた価値は一般読者には無効です。
 こういうファン活動もたまに「考察」と言われたりしますけれど、当然除外したほうがいいでしょう。というのも、作者が意図的に読者に「隠れた要素」や「一見した矛盾」を提示してるわけではありませんから。区別できないときはままありますが。
 おそらく聞きたいのは作者が意図的に読者に対してなんらかの考察を誘発する、ないしはある種の「引き」の技法として効果的な情報の出し方をする方法と言うことではないでしょうか。

 ①記憶操作とか精神の障害だとかで回想や見ている世界とそうではない世界があるとか、パラレルワールドやアバターなどの同じ姿だけど違う存在がいるとか、なんらかの陰謀に巻き込まれ、様々な策謀やスパイが暗躍しているとか、「表(人物の同一性、明瞭な認識、正直)」の場面のあと「裏(人物の不同一、信用できない認識、嘘)」があるような設定を示されると、考察、というか諸々の描写を考える意味が生じますね。
 これとは別に「専門用語を理解しないといけない」とか「本が引用されている」とかもある種の考察が必要になりますが・・・。
 ②正面きって謎や矛盾や専門用語を使っちゃって考察してもらうのも男気があるでしょう。謎謎謎、で攻めていくのも考察してくれるでしょう。
 ほかにはギャグの場面、とか日常の場面、とかの副次的な情報に隠しておいて、あとで「裏」が明示されるとその場面の意味が変わるというような仕方も多いと思います(会話というところに焦点が当たった場面での背景や人物の癖とかの副次的要素)。そうすることで細かい描写に考える意味が生じるわけです。
 「ヘボット!」というキッズギャグアニメで、「トゥル子」というへんちくりんなキャラクターが出てきます。これは多分、ギャグ連発型のキッズアニメではよく登場する素材で、「爆釣り!バーハンター」というアニメで「島田のおばちゃん」という「芋食ってオナラをするギャグパート」のためだけにどこからともなく参上するキャラがいるのですが、トゥル子も表向きはその役割を持っていて、(大人の)視聴者にもおそらくそういうものとして認識されています。
 それで、そのキャラがどこからともなく現れて、キャラクターの足を引っかけて転ばせたりするんです。でも、話が進むと、ループ世界の設定が出てきて、そいつが実は味方側の重要キャラで、主人公たちが破滅的な未来を選ばないようにギャグパートのなかに潜んで監視してたことが明らかになります。
 こういう事態が生じると、かつてギャグパートだったものの意味が変化することになり、そういった部分にも焦点となる意味以外のものを考察してくれるようになるでしょう。こういう現象を有効に発生させるのに大事なのは、隠すための表の舞台が見るに値するものであり、かつ裏の舞台と整合性が取れること、明らかになったときに衝撃があること(ギャグキャラがシリアスキャラになるような落差とか)などだと思います。この例では一気に答えを出してしまいましたが、多分情報を小出しにしていって、どこを確定させ、どこを確定させないかのセンスが大事なのでしょう。
 ③個人の感想ですが、私は答えがないと嫌です。ただ、芥川先生の「藪の中」みたいに「確定できないということが確定」というような「認識不安」を扱ってるうえでの「答えはない」は「答えみたいなもの」ってことでOKです。そうでないなら失敗と看做します。裏の舞台が示されたときに、あらゆる矛盾した現象が、その情報の開示によって矛盾なく統合される瞬間こそ快感です。やはり「答えがない」ではなく「答えが作中人物に示されない」、あるいは「答えを出せるものではないという答え(不可知であるという判断、みたいな)」「意味のある無回答」という・・・曖昧ですが、そういう類のものでないと受け入れられません。全体として、考察そのものではなく、常に答えがもたらす快感を求めていると考えています。
 ④個人の感想ですが、竜頭蛇尾になりがちで、そういったものを何回も見た覚えがあるのであんまり期待できないです。何も考えず理解できる本線があれば大体何を仕込まれてもいいような気がしますが、議論するうえではどんなところにも隠れた意味を見出そうとされるとまともに話が出来なくなって、結構うんざりしますね。

 整合性を保ったまま(読者の心ではなく展開を)裏切るには、「嘘」「陰謀」「記憶操作」のような舞台装置もありますから、なんとなく考えれそうですが(作中での表の情報へ裏の情報がどう変換されるか、その整合性はどうであるかというように)、「考察を起こさせる」というのは、実は結構複雑だと思います。読者の想像を奮起する不気味なモンスターの描写とかでも考察は発生しますし(映像作品ですが、青鬼とか)、「想像力を奮起させる文章センス」みたいなものも関わってくると思います。
 もしかしたら「魅力がある作品は続きが気になる」だけで「隠して示唆する技法」や「謎」にどこまで意味があるかも分かりませんが。

物語の考察のさせ方についての返信 (No: 8)

投稿者 手塚満 : 2 No: 1の返信

投稿日時:

既出の良回答と被る部分も少なくないのですが、ご質問を拝読して思ったことを説明してみます。

まず「考察のさせ方」「読者に考察させる」という言い方が、細かいことで揚げ足を取るようで申し訳ありませんが、エンタメ作者のスタンスから外れているように思います。作者が(情報の非対称性を使って)読者を使役したり、試したりしてはいけないのです。楽しめる作品だと思ったら、学校のテストみたいだった、になってしまいますから。

推理物ですと、読者との知恵比べみたいな面、楽しさがあります。だけど、考えさせる要素を入れてあるのか。違いますよね。密室だったりして殺人がいかにも不可能そうだけど、実際に被害者が倒れている。自殺でないことが明らかになり、ではどうやって、となります。

ですが、考えさせているわけではありません。不思議で面白そうだから、自然と「どうなってるんだ?」と思うわけです。さらに言えば、読者が考えることは必然でもない。探偵の鮮やかな謎解きの見事さだけを堪能してもいい。しかしその後、探偵の推理と論証が合理的か、事実誤認がないか考えたりすることもあります。探偵の手並みが鮮やかであれば、ですが。

考えさせる、考察させる書籍の代表が教科書、参考書、問題集です。これらは面白いでしょうか? 知識が増える、理解できるものが増える楽しさはあります。ですが、教科書、問題集自体が面白い書籍と思う人は(その分野の上級者を除き)いないんじゃないかと思います。

ですので、考察させる要素があるから面白くなるわけではありません。特にエンタメではそうです。面白いという興味が湧いたら、知りたいという好奇心が湧き、もっと理解しようと考察したくなるわけです。逆はありません。分からない、知らないものなんて、世の中に無数にあります。でも、知らない、分からないからといって、いちいち調べようとしたりはしません。調べる、考える動機として興味は必須です。

フィクションならなおさらです。あるフィクションについて知ったり理解したからといって、そのフィクション以外では役に立ちません。人気作であれば、ファン同士で交流するときに役立ちますが、それも元をただせばその作品が面白いからですよね。

考察させる要素があるから面白いはずだ、なんてのは、冒頭の長い設定語りと同根の間違いです。面白がるのは作者だけです。面白いかどうかが先です。面白ければ、作者が特に意図して謎を入れてなくても、読者は勝手に考察します。繰り返すようですが、面白いものは深く知りたくなるから。作中のアイテムだって、読者が勝手に設定を付与したりもします。

例えば、最初のガンダムでも制作者が考えていなかったことを、ファンが後付けで設定し、体系化までしました。有名なのが「ミノフスキー物理学」です。作中に出てきたのは「ミノフスキー粒子」なる架空の粒子で、単にレーダーが使えない設定にするためのものです(おそらくモビルスーツの近接戦闘を描きたいから)。

ガンダム初作はありていにいえば、科学・SF考証・設定は甘かったようです。そのため矛盾する、あるいは無理がある描写が出て来てしまったことも再三あったようで、冨野監督ですら悩まされたらしい。

普通は作品の欠点になりますよね。駄目出しされる要素です。だけど(プロ作家・イラストレーター含む)多数のファンは「どうすれば、作中描写が合理的とできるか」に挑戦し始めたわけです。その成果の1つが「ミノフスキー物理学」です(作中では理論名だけは設定されていた模様)。ミノフスキー粒子はこういう性質で、だからあの描写ではこう作用して、とかやり始め、ついには完遂してしまった。

あまりにも出来が良かったので、ガンダムシリーズで採用するまでになりました。他にモビルスーツ姿勢制御技術としてAMBACなんてのも同様に出たりして、同様に公式化されています。もう隅々までファンが考察していたわけです。ひとえに面白かったから。面白いものは、できるだけ正しいものであって欲しいから。好きになったら、あら捜しより補完するほうが楽しいから。受け手が好きな作品の創作に参加できた気がするから。

「考察させる要素」って、そういうもんなんです。面白いからなんとしてでも理路整然とした理屈、体形で理解したくなる。作者ですら考えもしなかったことまで考察して補完するようになる。大事なことなので繰り返しますと、興味が先、知識欲が後です。興味→好奇心→考察、なのであり、逆コースはありません。読者にテスト問題を与えるがごとき態度で作品書いたら、途中で見捨てられるでしょう。

ご質問各項目についても考えてみます。

> ①作品によって異なると思いますが、どういった内容が読者にとって考察し甲斐のあるものになるのでしょうか?

上記で説明した通り、面白いものです。

> ②どういった点(例えば、登場人物の言動、舞台の背景等)に考察させる要因を入れたらいいのでしょうか?

(超上級者でない限り)入れてはなりません。どうせ全てを描き尽くすことはできないのです。考えたくなる要素は勝手に、必然的に発生します。特に文章作品はそうです。言葉は、例えば絵に比べて圧倒的に情報量が少ない。精一杯、精密、正確に描写したところで不完全なんです。描けば描けるのに、わざと削って分からないようにしようなんて気を起こしたら、描写不足に陥ります。下手に見えるだけです。

> ③読者に考察させるので、作者側であらかじめ答えを用意しておいたほうがいいのでしょうか?ただ、私としては答えを用意して作品を書き、考察させるとなると、その答えに導かせる作品になってしまい、読者の考察の答えが1つだけになりそうで不安です。

「答え」ってなんだろう、ということになります。作者としては、普通は「正解」と思うものです。ですが「正解」の実態は、作者がたまたま選択したものに過ぎません。例えば、作者は「このシーンで主人公は黙っているが、内心では怒っている」と思って書いたとします。読者が語義などを誤らずそのシーンを読んで「主人公は悲しんでいそうだ」と思ったとします。

作者と読者、どちらが正しいともいえません。作者が「このシーンはこういうつもりで書いてあるんだ」と後で説明したとしても、読者の判断が間違っていることにはなりません。何が書いてあるかだけが問題で、書いてない作者の心づもりなんて判断材料ではないからです。

後のシーンで主人公に「あのとき、実は怒ってたんだ」と言わせても同様です。作者が選択したに過ぎません。読者は「悲しんでいるように見えたけど、実は怒っていたのか」とイメージを修正して読み進めますが、該当するシーンの判断が間違っていたと思うわけではありません。その時点では怒っていると判断できる情報がなかった、主人公が怒りを(読者にも)隠していた、作者が話の都合で伏せた、などと思うだけです。

ただし、どうせ読者の判断は確定できないし、正解も存在しないんだからといって、作者が想定しなくていいということではありません。細部に至るまで考えておくのは必須です。でないと、描写や台詞が一貫してきません。矛盾も生じやすくなってしまいます。そうまでしても、(上述した言葉の情報量の少なさなどにより)書かれたものには種々の解釈が生じがちだということです。

> ④そもそも、今の読者に考察させるような作品を好むひとはいるのでしょうか?

昔から少ないと思います。読者は作者から試されたと思ったら、不愉快になってしまいます。繰り返しになりますが、面白いから考察するんであり、考察させる、言い換えれば、考えることを強いたら面白くなるわけではありません。

物語の考察のさせ方についての返信 (No: 9)

投稿者 あざらし : 1 No: 1の返信

投稿日時:

実例はいっぱいあるのですが、知名度優先で選択した作品を交えながら書き込みます。
つながりのあるご質問がありますので、順不同にて失礼。

①と④について
程度にもよりますが、繰り返し味わわれる、まぁ最高峰になるほど厳しくなりますがおもしろいことが大前提。
これは『考察などまったくせずとも、間違いなくおもしろい』ということでもあります。『考察しなければおもしろくない』というのではありません。

乱暴な言い方ですが熱狂的ファンがつくレベルの作品(小説なら著者より)は、ファンが勝手に考察を始めます。カルト的な人気を誇る映画【ブレードランナー】の「ふたつで十分ですよ」なんて有名ですね。
実はあれの真相も大騒ぎするほどではなく、昨今ディスクのオマケ映像、パイロットフィルムで確認できるようになりました。「こんなもん、よっつも食いたがるなw」というビジュアルですし、実際カットして正解でしょう。
斯様に熱狂的ファンがつくおもしろさ、というのは全てを知りたくなるものです。

ここまでが土台。
加えて”今”に限らず、30年後の人にとってもおもしろく、30年前の人でも夢中になれる作品でしょうか。なかなかの高レベルで、そんなにポコポコ産まれないというのも現実です。

近年ですと【マッドマックス 怒りのデスロード】がドンピシャですね。人を夢中にさせるという部分については(マッドマックス 考察)の検索ヒット件数で一目瞭然だと思います。これが④の答えにもなっているはずです。

マッドマックスですが、ほぼ全編アクションシーンで、そのアクションを使って物語とその背景を語るという、それ以前とは異なった手法・構成を使っています。
これを成し得た重要なポイントのひとつは『480時間の撮影フィルムを編集し、2時間の映画にまとめた』という化け物じみた労力。これを支えているのが実際に描かれたできごとだけではなく、その奥に作りこまれた深い部分。
解りやすい例をあげると、火吹きギター(ご存じなければyoutubeでMad Max Fury Road - Guitar Guyで検索を)のシーン。ミュージックとリズムにより軍団の行動を指示しています。これにより「大人数に対する指令方法(元々の軍楽隊の姿ですね)から通信機器がないor数を揃えられない。必要性が極めて高い通信機器すらない、という点から作品世界における電子機器全般の状況」を読み取ることができます。
重要なのは『こんなこと全く考えなくてもおもしろい!』です。

③読者にとっては、物事を明らかにするために考える、という余地が考察になります。

>その答えに導かせる作品になってしまい、読者の考察の答えが1つだけになりそうで不安です。

結果論からいってしまえば、書いたことを全て残すのが原因になっているように思います。
言葉にすると『せっかく書いたから全て見せたい』
こうではなく『書いたからには、もっとも輝くように見せたい』こちらに舵取りを。
宝石というのはカットしてこそ輝きます。

最後に②になりますが、これは”考察させること”に集中しすぎです。
その前に制作者が『意図的に考察させること』で成功に繋がったケースをご紹介します。これは代表格として【スターウォーズ】があります。
エピソード4(公開順は一本目)ですが、これではなくエピソード5(公開順の二本目)は随所に謎が散りばめられています。
当初から9部作で考えられていましたが成功するかどうか全く解らない(=続編を作れない)、というかジョージ・ルーカス自身も失敗すると恐れていた節があるのですが、冒険活劇として出来がよいシナリオであるエピソード4から作成されたという経緯があります。つまりエピソード4は単独として完結しているんですね。(ナンバリングされたのも後です)

本題のエピソード5ですが、言い方を変えれば全9章の物語で第5章。
未だ完成をみないエピソード9のシリーズに至る7・8の新シリーズを別にすると、区切りとして完結する1~6では起承転結の転。序破急でも”破”に該当する辺りですから、物語が根底から崩されるヶ所です。
ところが1~3も未だ未公開ですから、必然の帰結として謎だらけ。
後に【ロードオブザリング】という三部作が約束された映画から事情が変わってきますが、この頃はまだ『続くことが前提』という映画は無い時代、謎であることすらも利用した作りになっています。

これを物語のシリーズというだけではなく、一本の単独映画としてもジョージルーカスは利用しています。
彼のリアリティについてですが、有名なことばで『ぼくが音を立てずに急に飛び立つ宇宙船を作らないのは、そういう宇宙を作ったからだ』という言葉があります。(科学的には真空の宇宙では音が伝わらない)
同様にインタビューで、こうも応えています。
『特別に洗練されたものを作るには、映画本編にでてこないエネルギー源であるとかバルブであるとか、そういった事象もしっかり考えないとウソくさくなってしまう。それがぼくの考えた「科学」だ』
これが考察させるために必要なことだと思うのです。
SFを例にしましたが、こういった物語に出てこない部分をしっかりと作り込むというのは、考察されている作品の共通項です。

お気づきだと思いますが、エピソード5の公開は意図はあれど『そうなってしまった』というべきものですが、けれども全9部作という脚本は存在しています。
さすがに極端な例ですが、肝心なことは『物語で全ては見せない。ほんのちょっぴり見えない部分を想像で埋めてもらうさじ加減』
一方で、ストーリーに出てこない部分の作り込み、こっちは作品世界でのリアリティという名の説得力は当然、現実世界を舞台にした作品でも『その背景まで著者が熟知している』ということは同じです。
両輪がそろっているからこそ、考察が発生していると思うのです。

知名度優先で映画を例にしましたが、これは小説でも一緒です。
【スティーグ・ラーソン著:ミレニアム】
【ジェイムズ・P・ホーガン著:星を継ぐもの】
【貴志祐介著:黒い家】
【アダム・ファウアー著:数学的にありえない】
【うえお久光著:紫色のクオリア】
【宮部みゆき著:名もなき毒】

背後の本棚をパッと見て羅列しただけですが、読みおえてから再度内容を思い出して咀嚼した作品です。

志として立派ですし、賞賛させて頂きます。
おもしろい小説を書くということに全力投入してください。
執筆頑張って下さい、応援いたします。

物語の考察のさせ方についての返信 (No: 10)

投稿者 にわとり : 0 No: 1の返信

投稿日時:

 謎本って知ってますか? 90年代くらいに流行ったんですけど、有名作品の矛盾や整合性のない点を捏ね回して「実はこんな裏設定があったのだ!」という考察(という名の妄想)を書いたものです。『磯野家の謎』が有名ですけど、ドラえもんとかメジャータイトルの漫画や特撮はかなり標的にされてたと思う。
 もう少し時代が下ってから似た方法論でヒットしたのが空想科学読本。あれも公式設定の科学的にいい加減な部分から話を広げて、「このアクションを実現するためには主人公にはこれだけの超人的な腕力があるはずだ!」などと描写から推測できる裏設定(?)を紹介していく本です。続編が出てかなり長寿シリーズになっていたはず。

 理屈と膏薬はどこにでもくっつくんです。考察好きな読者が本気を出せば、何にでも屁理屈をこじつけることができる。考察ってそれ自体に遊戯性があるんですよね。パズルを解くみたいな快楽が。
 と同時に創造的でもある。考察には個々の読者の個性が出るものです。そういう意味ではある種の二次創作と考えることもできる。作品の公式設定を裏読みし、キャラの関係性や事実関係を自分なりの仮説を元に読み替え、自分だけの物語をつむぐ行為。これも考察の一つの側面。
 学術的にちゃんとしたものはともかく、巷で言われるようなレベルの考察って読者側の「語りたい欲求の発露」である場合がほとんどだから、もし考察が盛り上がりやすい作品というものがあるとするならそれは「個々の読者が内心感じていることをなんでも好きに投影できる、鏡みたいな作品」なんじゃないですかね。それプラス、個々の読者に"自分の考察を語る場"が存在していること。これは作品そのものというより環境要因になっちゃうけど。
 わかりやすくいうと話題作だったら「俺この作品を読んでこんなことを思ったんだけどさ~」という語りは割と受け入れられやすい。でも無名の作品だったら普通はみんな聞いてくれない。話を聞いてくれる相手がいなかったらわざわざ考察しても寂しいだけですね。べつに全日本的なヒットじゃなくても良いんだけれど、どこかに話を聞いてくれるような"盛り上がってる界隈"が存在しないとちょっと厳しい。
 小説、というか物語でこれを最高レベルで実現しているのは、おそらく聖書に登場するヨハネの黙示録ですね。終末の予感や恐れって、どんな時代のどの世代にも一定の共感があると思うんですよね。そういう"読者の中にはじめからある感情"に上手く働きかけている。それに加えて圧倒的な知名度と権威性。ヨハネの黙示録が何で、どんな事が書いてあるのかについては非キリスト教徒であっても割とみんな何となく知っていて、ちゃんと話が通じる。
 媒体は小説じゃないけれど、言葉の解釈で界隈が盛り上がってそれが人気の駆動力になった例として連想するのが、10年くらい前のボカロ界隈。米津玄師とかじんってそういうのが上手かったよね。ノリの良い音楽で人を惹きつける→謎めいた歌詞とMV→掲示板とか動画のコメントで"考察"が盛り上がる、みたいな。わからなくてもコンテンツとして超絶面白いのは大前提で、そのうえでさらに暗号を置いてくからこれが読めたらもっと楽しいよ、みたいな提示のしかたがいいのかなと思う。まあこんなこと、狙ってできるだけの技量を持った人ってそうそういないと思うけど。

物語の考察のさせ方についての返信 (No: 11)

投稿者 アンデッド : 0 No: 1の返信

投稿日時:

今自分でそういう類いの話を書いていてノベル道場にも書き込んでいるので、その立場からコメントしてみようと思います。

エヴァとかには影響は受けてるんですが、まずコンセプトとして考察させたいというのは余りなかったです。
謎を色々と提示してそれが気になって読んでもらえたら、伏線回収でハッとしてもらえたら強みになるなという感じでした。

①やっぱり謎の提示ではないでしょうか。
②謎はあらゆる点で提示できると思います。少なくとも自分ではそういう印象で書いてます。
③僕が今書いてるのは完全に答えを用意してますが、用意しない手法もありかとは思います。ただそれは注目度が高い商業作品やプロであるから活きる印象で、素人がやってみせてもスルーされそうです。
④進撃の巨人がヒットしたのも比較的近年でまだ完結もしてない作品ですから、普通にいるんではないでしょうか。

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タイトル:物語の考察のさせ方について 投稿者: ㎜

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①作品によって異なると思いますが、どういった内容が読者にとって考察し甲斐のあるものになるのでしょうか?
②どういった点(例えば、登場人物の言動、舞台の背景等)に考察させる要因を入れたらいいのでしょうか?
③読者に考察させるので、作者側であらかじめ答えを用意しておいたほうがいいのでしょうか?ただ、私としては答えを用意して作品を書き、考察させるとなると、その答えに導かせる作品になってしまい、読者の考察の答えが1つだけになりそうで不安です。
④そもそも、今の読者に考察させるような作品を好むひとはいるのでしょうか?
みなさん回答お願いします。

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