小説の創作相談掲示板:小説の書き方Q&A。執筆の悩み相談をしよう!

風呂桶さんの返信一覧。最新の投稿順1ページ目

元記事:小説家になろうを引退しようか考えているの返信

こんにちは

今が2021年ということを考えると1度距離をおいてみるのもいいかもしれませんね。
これは才能がないとか、過去の努力が足りなかったということではありません。
書くことについてどれだけ前向きに楽しめていたか、それについて落ち着いて考える時間を作る、という意味です。

私は小説が上達していくためには3つの読者が必要だと考えています。
1つめは、人生で小説をほとんど読んだことのない読者です。もし身近にそういった読者候補(家族、友人)がいるなら、ぜひ読んでもらって感想を聞いてみるのがいいと思います。その時、テンプレがなぜ現在まで残っているのか考えみるといいかもしれません。
2つめは、小説に精通した読者です。これは新人賞の評価シートなどを利用することで、応募条件を満たしていれば、誰でも無料で貰うことができます。
3つめが、ネット読者ですが。例えば多くのネット読者が褒めていた箇所と欠点として指摘されていた箇所があっても、小説に精通した読者が読むと真逆の評価だったということがよくあります。ネットはレスポンスも早くかつ便利ですが、過信しすぎないよう注意する必要があります。
これらを使い分けながら、そのつど自分に必要な要素を取り入れいくわけですが。
ここには先生も友人も相談できる相手もいません。
だからといって孤独を感じたり、孤独になっていく必要はないですが、前向きにポジティブに考えられるかどうかでその人にとって孤独の意味が変わってきます。
なので、どう対処していくかをこれから説明します。

問題が起きた次元と同じ次元では、問題は解決しません。

例えば今なら、
書けない。上手くいかない。辞めたい。疲れた。といった、考えられるすべての闇を体験し尽くすなかでご自身がそれを受け入れ克服し、変容していった先で、闇に感謝することができるようになった時に扉の向こう側に行けます。というのが古い時代の考え方です。

私がやっているのは、自然がある近所の公園のベンチに座るでもいいですし、特に何かするでもなくそこで何も考えずのんびりするだけ。自然のなかにいて、日常生活で自然と触れ合う時間を作ります。
そして、できれば朝起きてからと寝る前に瞑想するのがいいのですが、1日に1回瞑想しています。
たまにでいいので、人の手入れが行き届いた神社やお寺ならどこでもいいです。
その場所に行って20分くらいベンチに座っているだけで、神聖な空気を細胞に取り込むことができます。
また鳥居などをくぐった先は聖域になるので、神社なら神様に、お寺なら仏様に心の声はすべて聞こえています。いきなり参拝するよりも。
心のなかで、今日はどこからきて、何年小説を書いていて、どういった悩みを持っていて、どうなれば幸せかとか、お金がこれくらい欲しいとか。親身になって聞いてもらえるようにあなたの情報があればあるほどいいですから、ベンチに座って、心のなかで聞いて貰った後で参拝するといいと思いますよ。
そうすれば加護が貰いやすくなるというだけで、行動するのはあくまでも本人であって、神や仏がその人にかわって現実を変えてくれるわけではありません。
一応、私は宗教者でも宗教研究者でもなく、ただの一般人です。
他にも神仏とは別のやり方がありますが。
これ以上は、この場ではあまり好まれないように思います。
詳しいことは、波動関連の本を読むのが手っ取り早い。
私は独学なのでそういった書籍をこれまで読んだことはないのでどれがいいか分かりませんが。大きな本屋さんで気になったものを、棚から適当に手に取って流し読みすれば、言いたいことの雰囲気は伝わるはずです。

令和では、新しい時代の考え方でお悩みがよくなっていくことを願っています。

上記の回答(小説家になろうを引退しようか考えているの返信の返信)

スレ主 風呂桶 : 1 投稿日時:

 ご回答と、読者と気分転換の大切さを教えていただきありがとうございます。

 私は日常を切り詰めて小説執筆してたきらいがあるかもしれないので、tさんとは方法が異なってしまいますが、根幹の部分は大事にしていきたいと思います。

カテゴリー : やる気・動機・スランプ スレッド: 小説家になろうを引退しようか考えている

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元記事:小説家になろうを引退しようか考えているの返信

Webコンテンツの隆盛は、ユーザーには楽しいだろうし、供給者側も様々な可能性を模索して取り組んでいるでしょうが、少なくとも小説の世界においては書き手の疲弊につながってしまっているように思えてなりません。
書きたいことがあるのなら諦めずに着実な歩みを続けてほしいと願いますが、PVを争う世界からは身を引いてみるのも一つの手かもしれませんね。

今のWebの状況は、誰でも出版を目指せるという幻想を広めてしまったのかもしれません。しかし、出版は商業ですからね。いや、商業が悪いとはまったく思っていないのですが、需要と供給の法則からは逃れられないということです。本来、日本の市場規模から必要とされる「プロ作家」の数はそう多くないらしいですよ。しかし、長引く出版不況に苦しんできた業界は、「薄利多売」に追い込まれているのでしょう。そのため求めているのは作家ではなく、安く調達できるコンテンツなのだと思います。

このサイトにも問題は多々あり、昔の活気が無くなってしまったことは残念ですが、少なくともPVではなく創作そのものと向かい合う環境が残されている点は良いと感じています。

上記の回答(小説家になろうを引退しようか考えているの返信の返信)

スレ主 風呂桶 : 0 投稿日時:

 二度目のご回答ありがとうございます。

 今日のWeb小説界隈の情勢に関して、よくわかりました。以降があるならばPVへの意欲は少し落としたいと思います。

カテゴリー : やる気・動機・スランプ スレッド: 小説家になろうを引退しようか考えている

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元記事:小説家になろうを引退しようか考えているの返信

実力不足を自覚していて、なおかつ結果も出ていないのなら、引退でいいと思います。

上記の回答(小説家になろうを引退しようか考えているの返信の返信)

スレ主 風呂桶 : 0 投稿日時:

 ご回答ありがとうございます。

 先の方々への返信通り、一度本気の作品を書いて見ますが、それで駄目ならば、おっしゃる通りにしてみようかと思います。

カテゴリー : やる気・動機・スランプ スレッド: 小説家になろうを引退しようか考えている

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元記事:小説家になろうを引退しようか考えているの返信

続ける、辞めるという大きな決断にはせず、いったん筆をおいて離れてみてはどうでしょうか。

まず、僕個人は効率重視ではなく、いわゆるエンジョイ勢(楽しく書くことができたら結構満足するタイプ)で、ちょっと変な角度から話すので、適当に聞いていただいて構いません。

僕も鳴かず飛ばずがずっと続いている身なので、書くこと自体から離れていた時期も大分ありました。
ただ、短編なり長編なりを書いた経験からなのか、友人や仕事で人の話を聞くことを楽しく思えるようになれたと思います。
ラジオをずっと聞くとか、普段接点のないアスリート、棋士、雀士、ギタリストさんなどの本を読み、「へぇ!」って感じて、「また何か書きたいな」って思うようになることもあります。

それが原因で会社で成果を上げたとかお金をもらったとか、そういうことはありません。
ですが、スレ主さんは四年間の執筆を通じて、他の何かに興味を持ったり、楽しめたりということはありませんでしたか?

執筆という原因は一つですが、実際にやってみると自分だけのノウハウになることもありますし、それらをバッサリ捨ててしまうというのはもったいないと思います。
なので、「書きたい事がかなりある」のなら一旦、その気持ちを仕舞っておいて、距離を取り、他の事をしてみてもいいかもしれません。
また書きたいと思うならそれもよし、そのままだったらそれもよしって感じですね。

んー、我ながらなんか変なこと書いたなーって感じがしますが、小説を書いているとこんな風になるヤツもいるていどに受け取っていただければ、幸いです。

上記の回答(小説家になろうを引退しようか考えているの返信の返信)

スレ主 風呂桶 : 1 投稿日時:

 ご回答ありがとうございます、サイドさん。

 正直な話、私は、過度に時間を使って無理に執筆作業をしてたせいで、変に考え込んでいたかもしれません。
 それの解消のためにも、サイドさんの言う通り、筆を置いてみるのも考えてみたいと思います。

カテゴリー : やる気・動機・スランプ スレッド: 小説家になろうを引退しようか考えている

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元記事:小説家になろうを引退しようか考えているの返信

「なろう」ですけど、読まれている作者の年齢は40代で、30代がそれに続くのだそうです。たいていは読者が作者になろうとするわけですから、10代でラノベ読み始めたとすると、20~30年かかってますね。20代で作者たらんと遅めに志したとしても、執筆歴10~20年以上ということになります。

スレ主さんが今何歳かということがありますが、なろう歴=作者歴だとすると4年は短いですね。なにせ、なろうで読まれる作者は10年選手が当たり前なんですから。

もちろん、作者としてこれ以上できるかどうか、という点は年齢に関係なく、作者個人の問題であり、他人がどうしているかは無関係です。が、他人を参考にしていけないというわけでもありません。PV、読者、感想といったことが充分ある作者が、普通は10年選手なんだということは頭に入れておいていいと思います。

そのうえで、何のために執筆しているか(なろうに投稿しているか)を、初心に帰って考え直すことも必要かと思います。書いていて楽しいからか、感動した作品と同じくらい凄いものを書きたかったのか。それとも読者にちやほやされたかったのか。

と書くと、読者にほめそやされるのが低俗みたいに聞こえるかもしれませんが、そうではないです。人気者になりたいという素志でもいい。それは他人を楽しませたいということと同義ですから。他人を楽しませられていない、というのが苦ならやめる理由になります。読者的には長編1つ読むのも、相当に時間を割き、手間もかけているわけで、それで楽しんでもらえないのが苦になるというのは、人情としてよく分かります。

しかし、仮に書いていて楽しいから書いていたとして、それがいつの間にかPVばかり気になるようになって、ということでしたら要注意です。やめても納得できない可能性が低くないからです。そうなると引きずります。仕事(あるいは学業)で困難にぶつかると、「自分は作家になりたかったんだ」と思って身が入らず、執筆に戻ってうまく行かないと「仕事で稼げば、こっちはほどほどでいいや」となり、全てに中途半端になっていきます(その先には地獄がある)。

ですので、とりあえず「なろう」を休筆してはどうでしょうか。なんで作者を志望したのか、どうしてやめたくなったのか考えるためです。そのうえで断筆なら断筆、再開なら再開、当面休養なら休養と、作家志望としての身の振り方を考えたらいいと思います。

上記の回答(小説家になろうを引退しようか考えているの返信の返信)

スレ主 風呂桶 : 0 投稿日時:

 ご回答ありがとうございます。

 手塚満さんの言う通り、私は年数を重ねて、多少焦り過ぎたきらいがあるかな……と思いました。ですので、一度本当にしたい事のため、筆の速度をいくらか落とうと思います。

カテゴリー : やる気・動機・スランプ スレッド: 小説家になろうを引退しようか考えている

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元記事:神視点での小説の成功例

 まず、現在私は三人称多視点の小説を創っているので、この質問は「神視点の小説は読者の混乱を招きやすい」という定説に触れることなく、誰が見ても秀作だと思わせるような神視点の小説への興味、から出たものです。
 ということで、その存在の有無と、「秀作」があれば作品の題名を是非教えてください。興味を持ちましたら、今後読ませて頂くかもしれません。

上記の回答(神視点での小説の成功例の返信)

投稿者 あざらし : 2

ご質問を拝読し、ちょっと切り口を変えてみます。
流れとして一人称を飛ばせませんので、冒頭で一人称が混じりますがご容赦を。

小説の人称ですが、ほぼ全てが一人称か三人称ですよね。もちろん二人称小説もありますし、実際に名作も存在しますが”極めて特殊な物語”に限られます。

ところが小説以外の物語となると、三人称が基本、というかほぼこれだけです。
映画も漫画も一人称っぽいのは、小説で言うところの三人称単一視点のカメラ位置(ちょい変化)である作品ばかりです。
小説以外で一人称が多数派をしめる物語というと、これも小説の延長線ですがノベルゲーぐらいでしょうか。
それぐらい一人称というのは小説ならではです。

例えば、よくありますが一人称で書かれたラノベをアニメ化したケース。
これもカメラ位置を主体にいえば、アニメ化するために三人称単一視点(っぽいもの)に変化させています。
理由は簡単で、一人称は映像化するのに無理がある。
一応、実際にやった映画もありますのでご紹介を。
【2015年ハードコアhttps://www.youtube.com/watch?v=vP2b4PiXSqQ】
好き嫌いは別にして、観客を主人公と同化しようとする試みですね。

言い方を変えれば『一人称は、一人称で無ければ語れない物語』もあります。
物語での約束事、これを逸脱すると、物語をゆがめて大失敗してしまうケースがチラホラしてきます。
個人的な感想ですが、有名どころでの代表格は【涼宮ハルヒの憂鬱】のエンドレスエイト。(超有名作ですが、今となっては年月も経っていますので、未読・未視聴であれば【エンドレスエイト】でググってみてください。当然ネタバレですので今後楽しむ予定があればお勧めしません)
原作小説では主人公はループする時間を知り得ませんし、読者も物語の結末まで時間が繰り返されていることを知りません。
理由は一人称だから。つまり視点人物が知り得ない情報は読者も知り得ないのが一人称です。
ところがアニメでは、同じ内容を演出を変えて何度も放映するという暴挙をやらかしてます。

視点人物が知り得ないことは、読者もまた知り得ない、という物語の土台にまで手を入れた結果、悪い方に作用した例ですね。
視点が変わるというのは、物語にも変化を与えます。

冒頭より一人称について実例を交えて書きましたが、小説という枠を省いて、物語として見ると、三人称を選択されるというのは自然な展開でもあります。
『三人称多視点』
これは、主人公が知り得ない情報、主人公が不在である場所の出来事、これらを物語に組み込む上で必要になってくる書き方です。
『神視点』
人によって解釈が色々ありますが、心情・内面をベースにすると、心理に自由に立ち入るか、もしくは全く立ち入らないかのいずれか。
これを区別していないと、

>「神視点の小説は読者の混乱を招きやすい」

こうなります。
もちろん他にも様々な原因がありますが、もっとも「やらかしてる」パターンが多いのはコレ。登場人物の心理。
私は単なる読者なんですが、ちょい例を。

主人公太郎くんに、ヒロイン華子ちゃんが予期せぬ告白をするシーン。と、しましょう。
シナリオ風に書くと、
―― 告白シーン
華子、太郎の手を握り、告白する。
こうですね。監督や役者さんが(物語全般と、それまでの関係性を考え)演技をつけます。

これを文章にすると、
1)突然、手を握られて太郎は驚いた。華子は恥ずかしさを押しとどめるように口を開く。
2)突然、手を握られて太郎は口をあんぐりと開けた。華子は恥ずかしさを押しとどめながら言葉を絞り出した。

と、まぁ例文なんで面白み皆無なのはお許しを。
1)は太郎の心理に立ち入った場合。「驚いた」わけです。華子ちゃんは「押しとどめるように」(太郎が)見た。
2)が華子の心理に立ち入った場合。「恥ずかしさを押しとどめた」わけです。太郎は「口をあんぐりと開けた」(華子が)見た。

誰の心理にも入り込まないと、
3)突然、手を握られて太郎は口をあんぐりと開けた。華子は恥ずかしさを押しとどめるように口を開く。

なんか、字面がグチャグチャしますね。
内容も、よく言えばサッパリしている、悪くいえば何も引っかからない。
総括して読みにくい。

両者ともの心理に入り込むと、
4)突然、手を握られて太郎は驚いた。華子は恥ずかしさを押しとどめながら言葉を絞り出した。

混乱というより、いっそ拒否感が出ます。私だって、いくら活字好きでも物語がよほど面白くない限り、もし一般小説でこれをやられたら読めません。
ただ、ラノベの場合『いまからラノベを読む』という心構えがありますので、多少の「やらかし」は許容範囲です。率直には物語の邪魔をしない文章なら読みます。

とりあえず心理面から例をあげましたが、こういう3)や4)を易々とやっちゃう作家さんもいらっしゃいます。

>>「神視点の小説は読者の混乱を招きやすい」

つまり、これは「よほど達者な筆致が無ければ」という条件があります。
ただ『よほど達者な筆致』なだけに、そうでないケースが多数、つまりは定説になっているだけではないでしょうか?

小説で神視点を利用するかどうか。
これも三人称単一視点を基本として、ほぼカバーできるはずです。心理面の問題はシークエンスで視点を切り替えればリーダビリティに影響を与えません。

映画にしろ漫画にしろ、アニメだって物語としての心理面はキャラクターの演技が基本です。モノローグの多様なんて、凡百の手腕ではうるさいだけになっちゃいます。
それでも神視点を利用する作家さんがいらっしゃるというのは、達者な筆致を持った著者がやれば、確かに効果的だからです。
登場人物の内面に踏み込み、その人物の感情に寄り添いながら物語を楽しむというのは、ある種、小説が持つ最も光り輝く魅力です。
人称は物語を主体にして、その物語を最も引き立てる手法が正解なのではないでしょうか。

ということで実例を。
【栗本薫著:グインサーガ】
発行部数3300万部という超有名なベストセラーですね。巻数も化け物ですが、40巻ぐらいまでは(あくまで個人的な話し)夢中になって読みました。
極めてスケールの大きい話しですので、神視点で無ければ、こういった物語にならないという好例かと思います。

文章面でお勧めの著者さんを。
【海老沢泰久著:美味礼讃】
小説としての神視点、の実例ではありません。
というのも基本的にノンフィクション作家さんです。
お勧め作も辻調理師学校の創設者が題材。
あくまで読みやすく、かつ内容の濃い文章を書かれる著者の力量としてご紹介しました。

ではでは、執筆頑張って下さい。

カテゴリー : 文章・描写 スレッド: 神視点での小説の成功例

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元記事:最近の最強主人公には強さの重みがまったくないのはなぜ?

ダイの大冒険には主人公ダイがモンスターから女の子を救い出すが、モンスターを蹂躙する人間離れした強さに女の子が怯えるシーンが存在します。
その後大魔王バーンに「お前は余と同じ怪物だ。人間たちはそんな異質なものに英雄になってほしくはないぞ」ということを言われます。
ところが今の主人公はモンスターを倒すと「素敵ー!抱いて」などと言い寄られるのがほとんどです。強いことのデメリットなんて出てきやしません。
また主人公は万能でもあり、「釣瓶式井戸は大変そうだからポンプ式を作ってあげるよ」というシーンがよくあります。
ワンピースのルフィの台詞に「助けてもらわねェと生きていけねェ自信がある」がありますが、この手の主人公は正しくフランキー並の工作力を持ったルフィです。(作品によっては風車式井戸だったり、井戸以外の技術だったりします)
ルフィもダイも、アーカードやサイタマと比べると最強主人公とは程遠いですが、恐らくこの四人はポンプや風車を作れる万能主人公ではないでしょう。
なぜ今の主人公はこんなにも不利になることが少ないんですか?

上記の回答(暴力に無駄な時間を割かないことが『国力』の一面)

投稿者 ごたんだ : 0

そういや日本のニートって、やたら弁当作りたがるよな…!

欲しいものがあれば奪っちゃえばいいじゃないっ!!?的な作品は嫌いだが…無いんだろうな、奪ってまで欲しいものが…

カテゴリー : 流行分析(なろう研究) スレッド: 最近の最強主人公には強さの重みがまったくないのはなぜ?

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元記事:なろう系ラノベに努力の要素を持ち込むのはタブーか?

なろう系ラノベは、「友情」「努力」「勝利」の法則を掲げた少年ジャンプとは対極にある存在で、読者はチートハーレムを望んでおり、主人公が努力するのはタブーである、ラノベ読者は努力が嫌いである、という言説があります。

一方で、ラノベ新人賞の下読みさんによると、物語には成長要素が不可欠で、読者は登場人物が成長していく姿に心を動かされると言います。
果たして努力をせずに、成長が描けるのか?

実は、なろう系ラノベの読者は努力が嫌いなのではなく、対価の約束されていない努力が嫌いというのが真実だと思います。

その証拠として、主人公がモンスターを倒して経験値を稼ぎ、ステータスをアップさせる、新たなスキルを獲得するというタイプの物語が多いことが挙げられます。

これはシリーズ累計発行部900万部突破のヒット作「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか 」(GA文庫・2013/1/11刊行)がパイオニアとなった要素で、主人公などの登場人物のパラメータがゲーム的に表示され、モンスターを倒すたびにこれがアップしていきます。

「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか 」の主人公は、登場した当初は最弱でしたが、成長速度が異様に早くなるスキルの持ち主で、どんどん強くなっていきます。
この成長要素が快感だったわけです。

なろう系の異世界転生とは、より本質的に言えば、ゲーム世界への転生です。
ゲームの世界では、モンスターを倒せば必ず経験値やアイテム、お金が手に入ることが約束されており、努力が無駄になりません。

これはラノベの読者層であるオタクに馴染みやすい要素であるため、受け入れやすく、努力して強くなっていく主人公に感情移入しやすくなっています。

しかし、これ以外の方法で努力したり、主人公の成長を描いたなろう系ラノベ(書籍化作品)は、寡聞にして知りません。
もし、これが以外の方法で努力したり、主人公の成長を描いた書籍化作品がありましたら、その内容などを教えていただけるとありがたいです。

なろう系に努力の要素を持ち込むのはタブーか?についてもご意見をいただけるとありがたいです!

上記の回答(なろう系ラノベに努力の要素を持ち込むのはタブーか?の返信)

投稿者 サタン : 0

ちょっと主旨からズレてしまうかもしれませんが、
まず、能力をゲームパラメータ的に表現したのは「ソードアート・オンライン(2002年~)」のほうが先でしょう。
こちらはまんま「ゲーム世界」なので、SAO以前からあったアイディアではありますが、ゲーム世界から異世界へとシフトしていく過程で「ログ・ホライズン(2010年~)」や「オーバーロード(2012年~)」などの作品があり、完全にゲーム世界から切り離して異世界でゲーム的要素を取り入れたのが「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか」や「転生したらスライムだった件(2013年~)」になるかなと思います。
「能力をゲーム的に表現する」という意味で言えば、おそらくはソードアート・オンラインがパイオニアであると言えるかなと。
ゲーム世界から異世界へのシフトは、もともと異世界には「冒険者ギルド」や「強さのレベル」といったゲーム的要素があったので、ファンタジーが流行ったなろう系では受け入れやすい土壌があったものと思います。
余談ですが、それまで「ギルドのクエスト」などの名称がゲーム的過ぎて「ギルドの依頼」という現実的な言い回しにしてたのが、この頃を境に「スキル」とか「経験値」とか「ステータス」とゲームっぽさを全面に押し出すようになった、というのは興味深いですね。
それまで避けてたものを歓迎するようになった感じで。

次に「努力」についてですが、といってもこれは持論でしかないので「これが正しい!」って意見ではないのですが、
「友情・努力・勝利」というのは、「ジャンプの法則」と言われてますが、その法則自体はジャンプに限定した話ではなく、物語の法則でもあります。
というのも「勝利」というのは結末・結果を意味しています。であれば「友情・努力」は過程を意味します。
勝利というのは美酒と例えられるように良いものです。
一方で努力というのはできればしたくない、あまり良いイメージのないつらいものです。
「つらい努力を友情をもって乗り越え、勝利を掴む」という事になりますが、この物語を読んだときに読者が得られるものを考えると、
これは、「カタルシス」についての話をしている言葉です。
カタルシスは「抑圧」と「開放」の関係なので、「努力」と「勝利」がこれに当てはまり、努力を乗り越えるスパイスがジャンプ的に言えば「友情」である、という事になる。
だから、一昔前の話ではありますが、ラノベの流行作品ではこの「友情」が「恋愛」でしたよね。
前回の話題で出てきた「灼眼のシャナ」や「ゼロの使い魔」などは、まさにこれでしょう。
つまり、「友情・努力・勝利」における「勝利」はカタルシスが得られる瞬間のことで、「友情」は読者層の好み、「ジャンプっぽさ」や「ラノベっぽさ」から来るもの。
そして「努力」は、勝利のための試練であり、どんな物語にも共通するカタルシスを得るための「抑圧」となります。

よって、「努力」というのは文字通り「努力する」必要はないわけですね。
カタルシスの抑圧にさえなれば良いので。
それで言えば、あくまで「努力に相当する抑圧」という意味で言えば、
>これ以外の方法で努力したり、主人公の成長を描いたなろう系ラノベ(書籍化作品)
ほぼ大部分の作品で描かれている事だろうと思います。

この板は多数の人が見るものと思うのでうっぴーさんに対する発言ではないのですが、
「抑圧」に対してよくある誤解というのが、
「抑圧っていうとイジメられてるとかつらい状況だ」と考えてしまう事です。だから「そんなしんどい場面を書いても面白くないし、読まれないのではないか」という思いに至る。
努力もつらいものだしね。
しかしこれは大きな間違いで、まったくの逆です。
むしろ「抑圧」の要素がその物語の「売り」になるので、「つらいもの」を書こうとしているから「しんどい場面」になってるだけ。
「抑圧」っていう言葉の字面に騙されてるわけですね。
「主人公はイジメにあっている」という設定はプロット段階の話を聞くときによく耳にしますが、「イジメられてる様子が面白く見えるよう」に書かなきゃいけない。
まるでゲスい小悪党のような言葉ですが、そうではなく、例えば「イジメられて絶体絶命のときに、ヒロインや頼りになるキャラなどが助けてくれて仲良くなる」というドラマを作れば、「イジメられる事が面白い」のではなくて「イジメから助けられたことが面白い」わけで、「イジメにあってる様子」について書いていることは変わりませんが、その物語の「面白さ」は大きく違います。
「イジメ」の例では「イジメを乗り越えること」が大事なんだから「どのようにイジメを乗り越えるか」強いては「イジメを乗り越えようとする様子を楽しむ物語だ」と言えます。
つまり「抑圧」というのは、物語から見ると「抑圧に関連する要素を楽しむ話だ」ということになるので、「抑圧」は「読者が楽しめる要素」で、これってのは物語の「売り」なんだ、と私は思っています。

>実は、なろう系ラノベの読者は努力が嫌いなのではなく、対価の約束されていない努力が嫌いというのが真実だと思います。
こちらは慧眼だと思いますが、上記したことに照らし合わせると、
対価のない努力というのはカタルシスを得られない抑圧という事なので、好き嫌いではなく、そもそもそんな話を面白いという人はいないだろう、と思います。
慧眼だと思ったのは、私のように理屈っぽい事を長ったらしく書かずとも本質を言い当ててるあたりです。
私はほんとに無駄話が多いね。

確かに、最近のなろう系ファンタジーはチート系からの流れもあって、努力せずに力を手に入れることが多く、流れで領主になったり魔王になったりしてる。
強くなる=成長だ、という図式が成立するため、お手軽な成長要素で「強くなるための努力」が不要になってきているように見えます。
でもこれは先に書いたとおり、「努力」そのものは必要ではなく、ジャンプの「友情努力勝利」の「努力」はあくまで「カタルシスの抑圧」として機能すれば問題ないので、それで言えばお手軽な成長をするなろう系でも、面白い作品はやはり「抑圧」はちゃんと存在していると思います。
つまり、「友情努力勝利」の「努力」に相当するものはちゃんとある、と。

それを、「相当するもの」ではなく「努力」として書いたら駄目か? という事になると、正直、それはもうジャンプでやればいい話で、なろう系に限らずラノベ全般で「努力する主人公」というのは、そもそも古今通してあんま思いつかない……。
展開上結果的に努力してると受け取れることは確かにあるけども。ラブコメでも告白するため必死で動いて七転八倒する話とか、ヒロインの秘密を必死に守る話とか、ああいうのも主人公の主観で言えば努力になるしね。結果的に努力してるってのはあるけど、ジャンプのスポ根ほど訓練して努力して勝利に向かうラノベってのは思いつかない。
そうなると、これは「努力」の話ではなく「抑圧」の話になるかなと。

カテゴリー : 創作論・評論 スレッド: なろう系ラノベに努力の要素を持ち込むのはタブーか?

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