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なろう系ラノベに努力の要素を持ち込むのはタブーか? (No: 1)

スレ主 うっぴー 投稿日時:

なろう系ラノベは、「友情」「努力」「勝利」の法則を掲げた少年ジャンプとは対極にある存在で、読者はチートハーレムを望んでおり、主人公が努力するのはタブーである、ラノベ読者は努力が嫌いである、という言説があります。

一方で、ラノベ新人賞の下読みさんによると、物語には成長要素が不可欠で、読者は登場人物が成長していく姿に心を動かされると言います。
果たして努力をせずに、成長が描けるのか?

実は、なろう系ラノベの読者は努力が嫌いなのではなく、対価の約束されていない努力が嫌いというのが真実だと思います。

その証拠として、主人公がモンスターを倒して経験値を稼ぎ、ステータスをアップさせる、新たなスキルを獲得するというタイプの物語が多いことが挙げられます。

これはシリーズ累計発行部900万部突破のヒット作「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか 」(GA文庫・2013/1/11刊行)がパイオニアとなった要素で、主人公などの登場人物のパラメータがゲーム的に表示され、モンスターを倒すたびにこれがアップしていきます。

「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか 」の主人公は、登場した当初は最弱でしたが、成長速度が異様に早くなるスキルの持ち主で、どんどん強くなっていきます。
この成長要素が快感だったわけです。

なろう系の異世界転生とは、より本質的に言えば、ゲーム世界への転生です。
ゲームの世界では、モンスターを倒せば必ず経験値やアイテム、お金が手に入ることが約束されており、努力が無駄になりません。

これはラノベの読者層であるオタクに馴染みやすい要素であるため、受け入れやすく、努力して強くなっていく主人公に感情移入しやすくなっています。

しかし、これ以外の方法で努力したり、主人公の成長を描いたなろう系ラノベ(書籍化作品)は、寡聞にして知りません。
もし、これが以外の方法で努力したり、主人公の成長を描いた書籍化作品がありましたら、その内容などを教えていただけるとありがたいです。

なろう系に努力の要素を持ち込むのはタブーか?についてもご意見をいただけるとありがたいです!

カテゴリー: 創作論・評論

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なろう系ラノベに努力の要素を持ち込むのはタブーか?の返信 (No: 2)

投稿者 サタン : 0 No: 1の返信

投稿日時:

ちょっと主旨からズレてしまうかもしれませんが、
まず、能力をゲームパラメータ的に表現したのは「ソードアート・オンライン(2002年~)」のほうが先でしょう。
こちらはまんま「ゲーム世界」なので、SAO以前からあったアイディアではありますが、ゲーム世界から異世界へとシフトしていく過程で「ログ・ホライズン(2010年~)」や「オーバーロード(2012年~)」などの作品があり、完全にゲーム世界から切り離して異世界でゲーム的要素を取り入れたのが「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか」や「転生したらスライムだった件(2013年~)」になるかなと思います。
「能力をゲーム的に表現する」という意味で言えば、おそらくはソードアート・オンラインがパイオニアであると言えるかなと。
ゲーム世界から異世界へのシフトは、もともと異世界には「冒険者ギルド」や「強さのレベル」といったゲーム的要素があったので、ファンタジーが流行ったなろう系では受け入れやすい土壌があったものと思います。
余談ですが、それまで「ギルドのクエスト」などの名称がゲーム的過ぎて「ギルドの依頼」という現実的な言い回しにしてたのが、この頃を境に「スキル」とか「経験値」とか「ステータス」とゲームっぽさを全面に押し出すようになった、というのは興味深いですね。
それまで避けてたものを歓迎するようになった感じで。

次に「努力」についてですが、といってもこれは持論でしかないので「これが正しい!」って意見ではないのですが、
「友情・努力・勝利」というのは、「ジャンプの法則」と言われてますが、その法則自体はジャンプに限定した話ではなく、物語の法則でもあります。
というのも「勝利」というのは結末・結果を意味しています。であれば「友情・努力」は過程を意味します。
勝利というのは美酒と例えられるように良いものです。
一方で努力というのはできればしたくない、あまり良いイメージのないつらいものです。
「つらい努力を友情をもって乗り越え、勝利を掴む」という事になりますが、この物語を読んだときに読者が得られるものを考えると、
これは、「カタルシス」についての話をしている言葉です。
カタルシスは「抑圧」と「開放」の関係なので、「努力」と「勝利」がこれに当てはまり、努力を乗り越えるスパイスがジャンプ的に言えば「友情」である、という事になる。
だから、一昔前の話ではありますが、ラノベの流行作品ではこの「友情」が「恋愛」でしたよね。
前回の話題で出てきた「灼眼のシャナ」や「ゼロの使い魔」などは、まさにこれでしょう。
つまり、「友情・努力・勝利」における「勝利」はカタルシスが得られる瞬間のことで、「友情」は読者層の好み、「ジャンプっぽさ」や「ラノベっぽさ」から来るもの。
そして「努力」は、勝利のための試練であり、どんな物語にも共通するカタルシスを得るための「抑圧」となります。

よって、「努力」というのは文字通り「努力する」必要はないわけですね。
カタルシスの抑圧にさえなれば良いので。
それで言えば、あくまで「努力に相当する抑圧」という意味で言えば、
>これ以外の方法で努力したり、主人公の成長を描いたなろう系ラノベ(書籍化作品)
ほぼ大部分の作品で描かれている事だろうと思います。

この板は多数の人が見るものと思うのでうっぴーさんに対する発言ではないのですが、
「抑圧」に対してよくある誤解というのが、
「抑圧っていうとイジメられてるとかつらい状況だ」と考えてしまう事です。だから「そんなしんどい場面を書いても面白くないし、読まれないのではないか」という思いに至る。
努力もつらいものだしね。
しかしこれは大きな間違いで、まったくの逆です。
むしろ「抑圧」の要素がその物語の「売り」になるので、「つらいもの」を書こうとしているから「しんどい場面」になってるだけ。
「抑圧」っていう言葉の字面に騙されてるわけですね。
「主人公はイジメにあっている」という設定はプロット段階の話を聞くときによく耳にしますが、「イジメられてる様子が面白く見えるよう」に書かなきゃいけない。
まるでゲスい小悪党のような言葉ですが、そうではなく、例えば「イジメられて絶体絶命のときに、ヒロインや頼りになるキャラなどが助けてくれて仲良くなる」というドラマを作れば、「イジメられる事が面白い」のではなくて「イジメから助けられたことが面白い」わけで、「イジメにあってる様子」について書いていることは変わりませんが、その物語の「面白さ」は大きく違います。
「イジメ」の例では「イジメを乗り越えること」が大事なんだから「どのようにイジメを乗り越えるか」強いては「イジメを乗り越えようとする様子を楽しむ物語だ」と言えます。
つまり「抑圧」というのは、物語から見ると「抑圧に関連する要素を楽しむ話だ」ということになるので、「抑圧」は「読者が楽しめる要素」で、これってのは物語の「売り」なんだ、と私は思っています。

>実は、なろう系ラノベの読者は努力が嫌いなのではなく、対価の約束されていない努力が嫌いというのが真実だと思います。
こちらは慧眼だと思いますが、上記したことに照らし合わせると、
対価のない努力というのはカタルシスを得られない抑圧という事なので、好き嫌いではなく、そもそもそんな話を面白いという人はいないだろう、と思います。
慧眼だと思ったのは、私のように理屈っぽい事を長ったらしく書かずとも本質を言い当ててるあたりです。
私はほんとに無駄話が多いね。

確かに、最近のなろう系ファンタジーはチート系からの流れもあって、努力せずに力を手に入れることが多く、流れで領主になったり魔王になったりしてる。
強くなる=成長だ、という図式が成立するため、お手軽な成長要素で「強くなるための努力」が不要になってきているように見えます。
でもこれは先に書いたとおり、「努力」そのものは必要ではなく、ジャンプの「友情努力勝利」の「努力」はあくまで「カタルシスの抑圧」として機能すれば問題ないので、それで言えばお手軽な成長をするなろう系でも、面白い作品はやはり「抑圧」はちゃんと存在していると思います。
つまり、「友情努力勝利」の「努力」に相当するものはちゃんとある、と。

それを、「相当するもの」ではなく「努力」として書いたら駄目か? という事になると、正直、それはもうジャンプでやればいい話で、なろう系に限らずラノベ全般で「努力する主人公」というのは、そもそも古今通してあんま思いつかない……。
展開上結果的に努力してると受け取れることは確かにあるけども。ラブコメでも告白するため必死で動いて七転八倒する話とか、ヒロインの秘密を必死に守る話とか、ああいうのも主人公の主観で言えば努力になるしね。結果的に努力してるってのはあるけど、ジャンプのスポ根ほど訓練して努力して勝利に向かうラノベってのは思いつかない。
そうなると、これは「努力」の話ではなく「抑圧」の話になるかなと。

なろう系ラノベに努力の要素を持ち込むのはタブーか?の返信 (No: 3)

投稿者 とある書籍化作家 : 1 No: 1の返信

投稿日時:

基本的な事実誤認をまず指摘させていただきます。

>>その証拠として、主人公がモンスターを倒して経験値を稼ぎ、ステータスをアップさせる、新たなスキルを獲得するというタイプの物語が多いことが挙げられます。
これはシリーズ累計発行部900万部突破のヒット作「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか 」(GA文庫・2013/1/11刊行)がパイオニアとなった要素で、主人公などの登場人物のパラメータがゲーム的に表示され、モンスターを倒すたびにこれがアップしていきます。

小説にこのような要素が入った最初期の有名作品は第15回電撃小説大賞受賞作のアクセルワールド(2009年2月刊行)です。
これは対戦&RPGVRゲームを主題としていたため、避けられない要素でした。
以後はサタンさんの指摘の通りです。ログ・ホライズン等の有名作が続々と出ており「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか」はパイオニアというより、完成作として評価されるべきです。

>>これ以外の方法で努力したり、主人公の成長を描いたなろう系ラノベ(書籍化作品)は、寡聞にして知りません。

「Re:ゼロから始める異世界生活」
アニメ化された有名作です。ループ&ファンタジーであり、死に至る過程を分析して、仲間と力を合わせて覆す作品なので当てはまります。

「ナイツ&マジック」
これもアニメ化作品です。ロボットモノですが、開発や戦記要素も豊富にあります。これもレベルやスキルの概念はありません。

「オーバーロード」
え!? と思われるかもしれませんが、主人公のアインズのスキルやステータスは成長しません。彼の場合は未知なる異世界に対する理解と、外界や部下に対する接し方という面で成長が描かれています。巻を追うごとに彼の思考が変化していくのがわかるはずです。

>>なろう系に努力の要素を持ち込むのはタブーか?についてもご意見をいただけるとありがたいです!

上記を見てわかるように、努力の要素は必須です!
肉体的・スキル的な努力に限定しないならば、ですが。

あと厳しいことを申し上げますが、うっぴーさんのラノベの知識はお粗末です。
ラノベのステータス論議からの創作論をするのなら、アクセルワールドとログ・ホライズンを除くのはあり得ません。
リアルロボット論でファーストガンダムを飛ばすようなもので、ちょっと恥ずかしい議論になっています。

なろう系と槍玉に上げるよりも、基礎的な知識をつけてください。今のままだと、十分な議論になりえないかと思います。

なろう系ラノベに努力の要素を持ち込むのはタブーか?の返信 (No: 4)

投稿者 ドラコン : 0 No: 1の返信

投稿日時:

 こんばんは、ドラコンです。「なろう」系のライトノベルを読みつけているわけでもないに、うっぴーさんのこのスレッドに私見を申し上げるのは、僭越の極みで恐縮しております。

 >なろう系の異世界転生とは、より本質的に言えば、ゲーム世界への転生です。
 >ゲームの世界では、モンスターを倒せば必ず経験値やアイテム、お金が手に入ることが約束されており、努力が無駄になりません。
 
 このご見解には納得できます。私が唯一読んだ「なろう」系の異世界移転ライトノベル『レベル99冒険者によるはじめての領地経営』(モンスター文庫、藤崎著、1~5巻、2015年~2016年)を紹介すれば、以下の一言で足ります。
 
 「魔王を倒した後の『ドラクエ』的世界が舞台の、都市経営シミュレーションゲーム『シムシティ』『A列車で行こう』」
 
『レベル99冒険者によるはじめての領地経営』は、努力の結果としてレベルや資金といった多額の報酬を得てからスタートしています。現実世界から移転した主人公が、最高位の魔法使いになるために努力をしていないわけではありません。ですが、余り努力・成長の描写はありませんでした。時々、主人公自身のセリフで、「師匠からこういうスパルタ教育を受けた」と出てくるぐらいです。

 実際、領地経営の資金も豊富で、主人公たちのレベルも高く、一般人では到底使えぬ高度な魔法を日常生活で惜しげもなく使っています。しかも、資金が枯渇したら、ドラゴンを退治して、その財産を手に入れればいい、と平然と言っています(作中ではモンスターの財産は退治した冒険者の物になります)。

 これは、先に挙げた『シムシティ』や『A列車で行こう』に例えると、資金を無制限にする裏技を使っているようなものです。現に、『シムシティ』『A列車で行こう』共に、作品によっては資金を無制限に裏技が存在する場合もあります。それどころか、『A列車で行こう』シリーズの最新作『A列車で行こうExp.』では、株式売買で「無理やり」資金を増やさねば、まともなまちづくりが出来なかったですね。これは裏技ではなくて、「表技」です。鉄道会社の社長になって、線路を伸ばして、建物を建ててまちをつくるゲームなのに、株売買を使わずに初期資金を使い切ると、線路は伸ばせない、建物も建てられないで、面白くないですから(私が下手だったからですが)。

 ですので、この『レベル99冒険者によるはじめての領地経営』は、RPG要素はありますが、都市経営シミュレーションゲーム感覚で読めました。そして、都市経営シミュレーションゲーム的な領地経営が楽しかったですね。

「なろう」発で書籍化され、ゲーム的世界観でなく、主人公の努力を描いた作品としては、私が読んだものの中では、次の作品が該当するかと存じます。ただ、「ライトノベル」の定義に該当するかは、微妙なところです。

『皇華走狗伝 星なき少年と宿命の覇王』(喜多村やすは、宝島文庫、2018年)

 特徴は以下の通りです。

 ・舞台は古代中国風の異世界(「皇帝」の語を使っているが、春秋戦国時代を想定か?)。
 ・異世界移転モノではない。
 ・主人公は側室の子のため、戸籍を持たず、「所有物(もの)」扱いされている、引きこもり志願の少年(17歳)。ただし、相当の読書家で知識は豊富。だが、武のほうはからっきしダメ。
 ・ストーリーは、主人公が軍師となって、副主人公の皇子を戦で勝たせること。
 ・努力の動機は「暇」。仕えることになった皇子に「人」扱いされて、皇子に心服。その立場が盤石になるまでの10年間努力することを決意。鍛え上げた軍人でなければ不可能なこともやってのけている。
 ・主人公に敵国の王から引き抜きの話があったが、「新たな関係を築くのが面倒」との理由で断る。
 ・ハーレム的要素はない。ヒロインは正・副ヒロインの2人のみ。しかも、正ヒロインの初出は5歳、作中で成長するが、それでも8歳。副主人公は副ヒロインに告白して、実質婚約する。

 これは、「ラノベ恋愛不要論。ラノベに恋愛要素は必要ない?」のスレッドに書くべきことかもしれませんが、ついでなのでここに書いておきます。

『レベル99冒険者によるはじめての領地経営』と『皇華走狗伝』の主人公は、両方とも「父性愛」の持ち主として描かれていました。

『レベル99冒険者によるはじめての領地経営』の主人公も、5巻で3人のヒロインと婚約関係になります。ですが、ヒロインはもう1人いて合計4人です。そして、4人目のヒロインは10歳の女の子です。さすがに10歳の女の子では、婚約の対象にはなりません。しかし、他のヒロインから「子育てできない父親のようだ」と評されているように、主人公はほいほいとおねだりを許してしまったり、小遣いを与えていたりします。

 また、『皇華走狗伝』の正主人公と正ヒロインの関係も、正ヒロインを政略結婚から救うためとの理由で、形式的に「夫婦」なっています。ですが、読んでいて娘のままごとに付き合う父親との感じがしました(年齢的には兄と妹ですが)。

なろう系ラノベに努力の要素を持ち込むのはタブーか?の返信 (No: 5)

投稿者 のん : 1 No: 1の返信

投稿日時:

 こんばんは、のんです。
なろう系の作品がチートで溢れかえったのは、読者様が既に抑圧された状況にあるからではないでしょうか?

 サタン様が仰られているように、カタルシスを得るには『抑圧と解放』が必要です。

 ライトノベルの主人公は基本的に読者様が感情移入しやすいよう、読者様に似せて作られていますよね。
 でしたら読者様が既に抑圧された状況にある以上は主人公も同じであり、それは理解しやすいものだと思いますし。
 サラッと弱者であることを提示して、その後いきなり転生してチートを貰って無双する。と言う、『解放』の段階へスキップする方法が合理的なのでしょう。

 しかし最初はそれでよくとも、読者様はだんだんと物語に入り込み、現実とは切り離して考えるようになります。
 勿論「自分も同じだ」と共感はするでしょうが、それはキャラクターが該当する言動をとった時だけ。物語内の『抑圧』を省略して『解放』へとスキップ出来る類いのものではありません。

 結局は物語内での抑圧も必要になります。
 何でもかんでもチートを使って一瞬で解決していては、ワンパターンで飽きてしまいますからね。主人公の努力と言いますか、ひねりが必要です。

 例えば。チートといえど今の使い方では解決できない問題にぶつかったとします。
 そこで主人公は新たなチートの使い方を模索する訳ですが……。チートはチートですから成功はほぼ約束されていますし、主人公も大して悩みません。
 それでも、これは1つの努力と言えないでしょうか?

 私の知っているなろう系は、こういった苦のない努力タイプが多かったです。
 ストレスフリーな抑圧とでも言いましょうか。人気作ほどしかっり抑圧されている気がしますが、『抑圧と解放』の比率は大差ない印象を受けました。なろう系の特徴なんでしょうかね。

▼なろう系に努力の要素を持ち込むのはタブーか?

 練習(修行)や勉強といった読者様にとって身近でストレートな『努力』はあまり見かけなくなりましたが、オブラートに包まれるようななっただけで『努力』は変わらずしています。
 きっと、努力そのものが物語から排斥されることは無いでしょう。

ライトノベル作法研究所管理人うっぴー /運営スタッフ:小説家・瀬川コウ:大手出版社編集者Y - エンタメノベルラボ - DMM オンラインサロン

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キャラクタープロブレム (No: 6)

投稿者 あまくさ : 1 No: 1の返信

投稿日時:

努力とか抑圧という言葉は誤解されやすいので、創作論として語るときは個人的に「キャラクタープロブレム」という言葉が気に入っています。
最初に主人公の目的を阻害する障害を何かしら設定します。内的な要因でも、外的な要因でも、どちらでもかまいません。そうすると、それを解決する過程がそのままストーリーになるので、お話が作りやすいんですね。
ただ、それだけのこと。
で、そうやってストーリーを作ると、主人公が何かしらの障害を克服する流れになるので、結果的に「努力」とか「成長」などの要素をはらむこともあります。しかし、それはあくまで物語を面白くするためのテコのようなものにすぎません。ターゲット読者が努力を嫌う傾向があるなら、「努力」という言葉として前面に出さなければいいだけです。
ジャンプの場合は前面に出した方が受けると判断したのでしょうが、そのへんはどちらでもお好きなようにというところで、大した問題ではないと考えています。

なろう系ラノベに努力の要素を持ち込むのはタブーか?の返信 (No: 7)

投稿者 ふ じ た に : 0 No: 1の返信

投稿日時:

うっぴー様、いつもこういった交流の場を提供して下さりありがとうございます。
みんなが投稿しやすいように気を配ってくださっていること、いつもありがたく感じております。

家族がなろう系のコミカライズをよく読んでいるので、
会話の話題によく出ています。
そこで出た結論なんですが、
「なんらかのきっかけがあれば、俺(僕)だって小説みたいに活躍できるかもしれない」という状況が良かったのではないか、ということでした。

ジャンプみたいに努力するのって、見るからに大変ですよね。それを成し遂げるからこそ感動が生まれるわけですが。

一方で、なろう系は転生&スキルゲットすれば、簡単に活躍できるように話が進んでいくことが多いような気がします(特に序盤)。

また、ゲームの要素も受けたのも、
読者層でゲームプレイヤーが多かったからではないかと思います。
読者にとってゲームって身近ですし、多くの人がスキルを上げるのに当たり前のように時間をかけるじゃないですか。
そういった「自分でもできる」系が同じように好評だったのかな?って思いました。

だから、「努力が嫌い」というよりは、「自分でもできそうな努力」が親しみやすかったのかなぁとも思いました。

なろう系ラノベに努力の要素を持ち込むのはタブーか?の返信 (No: 8)

投稿者 ヘキサ : 0 No: 1の返信

投稿日時:

もはやうっぴー様ご自身が仰っている「対価の約束されていない努力」が嫌なのではないか、という一言にすべて集約されていると思うのですが……

少年ジャンプ要素との関連について、一言。
荒木飛呂彦氏いわく「主人公たちをいったんマイナスの状態に落としてそこから復活させるのは、作者の誰もが考えることだけど、読者側から見るとストレスを感じる状況なのでエンターテイメントとしては避けるべき」とのことです。
和月伸弘氏も「剣心がグダっていた状態が少し長すぎたのを反省してる。主人公が悩み過ぎている状態が長いのは話が進まないのでよくない」とも言っています。

ジャンプの大御所ですらその認識なのですから、webで細切れに連載されているなろう小説でも注意するのは当然のことかと思われます。

やってもできない子の憂鬱 (No: 9)

投稿者 あまくさ : 1 No: 1の返信

投稿日時:

少し興味を持ちまして。

「なろう系」でググってネットを徘徊していたら、人間には「やらなくてもできる子」「やればできる子」「やってもできない子」「やらないしできない子」の4種類がいるという論を発見しました。
なるほど。
「やらなくてもできる子」は天才型。「やればできる子」は秀才型。まあ、「努力家」と言い換えてもいいですね。従来の物語では、このどちらかが主人公として採用されていたと。普通は「やらなくてもできる子」か「やればできる子」でなければ活躍させにくいですからね。

ところが現実には「やってもできない子」と「やらないしできない子」の方が圧倒的に多い。
感心したのは、この両者を区別していることです。結論から先にいうと、なろうテンプレを好むのは「やってもできない子」のみだということ。「やらないしできない子」は「無能だからできないんじゃなくて、やらないからできないだけだ」と言い訳できる。他人や自分を誤魔化すことができる。
自分が「怠け者だ」とうそぶくことはできても、「無能」と認めるのは辛いですからね。(他人事みたいな言い方で恐縮ですが、私だって無論そうです)

なので、「やってもできない子」だけが「できる子」への憧れを持っているというんです。

ところが世間は、「やってもできない子」と「やらないしできない子」を区別しない。どちらも「ダメな子」という烙印を押してしまう。

そのへんに、「やってもできない子」だけが持つ鬱屈があるんだな!

その鬱屈と、うっぴーさんの仰る「承認欲求」は、おそらくイコールです。
やっと腑に落ちました。

なろう系ラノベに努力の要素を持ち込むのはタブーか?の返信 (No: 10)

投稿者 かにさん : 1 No: 1の返信

投稿日時:

初めまして。

すみません、私はなろう系小説は価値観合わない(楽しめない)ので、
こちらだけ意見を述べさせていただきます。

>なろう系に努力の要素を持ち込むのはタブーか?

「なろう系はアウト。ラノベはやりようがある」というのが自分の主張です。

私は『旧ラノベ読者が大人になり会社に入って「努力じゃどうにもならん!」と現実に打ちのめされて「完全現実逃避」の「なろう系」を好むようになった(成長を忌避し『癒し』のみを求めるようになった)』と解釈しているのですが、本当にターゲットがこの文脈上にいるのでしたら努力は書いたらダメなんでしょうね。主年齢が30代でしたら会社なうでサラリーマンなう(あるいは派遣?)でしょうし。「努力で出世できるの??(なれないでしょ?)」「努力で正社員になれるの??(なれないでしょ?)」みたいな唾吐き「ぺっ」な対応を受けそうな気がします。

ただ私は、現中高生である純ラノベのターゲット層に対しては努力を描いていいとも思っています。社会不安から保守傾向が進んでいると言われてますが、10代や20代前半はまだ学生身分で『社会(だいたいは会社)』という『次のプラットフォームへの移行』を前提としているプラットフォーム上にいる点がなろう層とは違うと思うのです。

会社に入っていくらか経つと社会的ポジションとアイデンティティが強く紐づいてきますし、社会上のポジションの固定化がそのまま「自分の可能性」の固定化と感じられる=『詰む』のでしょうが、中高生大学生くらいは、まだ『自分の可能性を信じる余地』(「場所を変えれば輝けるのでは?」という期待)が残っているはずなので、やりようがあると思うのですね。

例えば、「それぞれにそれぞれの輝き方がある」ことを肯定したうえでの努力とか。具体例を挙げるなら、漫画のアイシールド21(24だっけ?←なぜあいまいなのか……)みたいなものでしょうか。『ボールキャッチが大得意だけどボールを投げるのが下手』な野球部員が、キャッチ一本優秀な点があればやっていけるアメリカンフットボールチームに入って活躍する(1キャラクターの話ですが)、などのストーリーはラノベに応用すれば売れる気がします。

思うに、『「努力」の前提に環境とのフィットやマッチがある』のが、現代の価値観なのかと。「環境とフィットしない状態の努力や苦労は無意味・無価値・無駄」というのが、現代若者の本音なのかもしれないなあと思ったりします。

長々とすみません。
さらりと読んで考えたことなので、論点がズレていたらごめんなさい。
何かの参考になれば幸いです。

なろう系ラノベに努力の要素を持ち込むのはタブーか?の返信 (No: 11)

投稿者 joker : 1 No: 1の返信

投稿日時:

おそらく 以下の方がすでに言われている通りだと思われる。

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです
2009-01-30

「努力を恐れる男達」。

執着

 
 
 本気で努力する・時間や情熱を賭けて努力する、ということを怖がる男達がいる。
 
 「努力をしない男達」というよりも「努力を恐れる男達」。
 
 これが単なる怠惰であれば、まだしも救いがあるのかもしれない。情熱の対象がみつかれば、彼は怠惰の檻から這い出るだろう。しかし“努力が恐いから”怠惰を装うタイプの人の場合は、そもそも情熱の対象に憑りつかれてのめり込むこと自体を避けてしまうので、情熱を持つこと自体が困難だ。こういう男達は、さも冷静を装った、斜に構えたようなポーズをとることで、情熱と努力から逃げ回っている自分自身に気づかないように振る舞っている。オタク向けの表現をするなら、『涼宮ハルヒの憂鬱』のキョンのような男性、と言えば分かって貰えるだろうか。
 
 
 なぜ、彼らは努力を恐れるのか?その要因は多岐にわたるだろうが、一言に集約するなら、
 
 努力して自分が満足するような成果が得られなければ、高いプライドが傷ついて、自分自身が無価値であるかのように感じられて落胆するから。
 
 という表現にまとめられるだろう。
 
 
 努力を恐れる男達は、表面的にはどうあれ、非常にプライドが高く、傷つきやすい。自分が100の成果を期待している努力に対して、100の結果が速やかに得られなければ、それだけで傷つくぐらいにはプライドが高い。70や80の結果や、ゆっくりとしか成果の出てこない結果でさえ、ときには彼らの繊細な自尊心を傷つけ、落胆させたり怒らせたりすることもある。
 
 そんな彼らであれば、男女交際のような、見かけのうえでは0に近い結果もあり得るような挑戦から尻込みするのも、無理ならぬことだろう。ほんらい、片思いで終わってしまう恋愛のなかにも“失敗から学ぶ余地”“経験を蓄積する余地”が多々あるわけだけれども、自尊心が高い男達にとって“俺が真正面から努力を尽くしたのに振られた”などという結果はとうてい受け入れられるものではないし、傷つきと苛立ちで頭が真っ白になってしまう。だから、この手の自尊心の強い男達は、努力・失敗・挫折から貴重な教訓を学び取ることが著しく困難だし、自尊心の傷つきで頭が真っ白になりかねない体験に、なんの意味も見いだすことが出来ない。
 
 また、努力の成果が実感できるまで長く待てない彼らは、長期間の修練を必要とする業種や、成果がみえてくるまで時間のかかりやすいジャンルに耐えることが難しい。数年前、「入社してもすぐ転職する新入社員」が注目された時期があったが、さもありなん*1。一箇所に留まって地道に修練を重ねるような業種は、彼らには向いていない。自分の実力が速やかに評価される会社・自分の自尊心に見合うスポットライトが速やかに用意される会社・“自分らしさを存分に発揮できる”会社をこそ、どこかで待望している。しかし、そんな会社は世の中に滅多に存在しないので、結局は「本当の自分はこんなもんじゃない」と不平を抱きながら日々を過ごさざるを得ない。そういう男達が、世の中のあちこちに点在している。
 
 

努力を恐れる男達の、例外状況

 
 ここまで書くと、「そこまで努力できない奴は少数だ」「俺は大学院ニートだけど受験勉強は努力できてました」と反論する人もいるかもしれない。
 
 しかし、ここまで書いてきたように、「努力を恐れる男達」が恐れているのは
 
•成果が期待通りにあがらないかもしれない努力
•成果がすぐにはみえてこない努力

 
 であって、成果が期待通りにあがりやすい努力や、成果がはっきりみえやすい努力に対しては、むしろ熱狂的なほどのめり込むことが多い。そのような「安全な」努力であれば、傷つきやすい自尊心を痛めるリスクを冒すことなく、そこそこにプライドを充たすことが可能なのだから。
 
 受験勉強、なかでも自分の得意教科に特化した受験勉強などは、この典型例に該当する。受験勉強は、成果が得点や偏差値となってはっきり数値化されるため、受験勉強に特化した育ちの子どもにとっては、「成果があがりやすく、しかも成果がはっきりみえる」ジャンルとなりやすい。とりわけ日本の受験勉強の場合、模範解答がはっきり決まっており、マークシート方式も多いわけで、丸暗記一辺倒であってもある程度の得点が可能な教科もある。
 
 同じ傾向は、たいていのコンピュータゲームにも当てはまる。ネットゲーム・ロールプレイングゲーム・シューティングゲームなど、いずれのゲームジャンルであっても、努力に伴うレベルやスコアが数値化されて分かりやすく、努力が裏切られることも少ない。これらのゲームは「報われないかもしれない努力」「すぐに見える形にならない努力」の対極に位置しており、はっきりと目に見える形で自尊心を充たすことができる。あるゲームで自尊心を充たしにくいと感じたとしても、さっさと見切りをつけて他のゲームに移動してしまえば良いのだ。
 
 なので、努力を恐れる男性達であっても、ひとつの分野や狭いジャンルのなかで“いわゆる専門バカ”として大成することならあり得なくもない。「設計は最高技能だが、他はてんでダメ」のような形で、運良く専門職に就くことが出来れば、狭いジャンルの内側で自尊心をいっぱいに充たした“いわゆる専門バカ”として、案外たのしく人生を歩めるかもしれない。しかし、博士課程を出た人が就職難を迎えている現状が示す通り、“いわゆる専門バカ”のための椅子の数はあまりにも少ないのが現状だ。
 
 

「努力を恐れる男達」が生まれてくる背景は?

 
 なぜ、努力を恐れる男達・自尊心の傷つきやすい男達がこんなに巷に溢れているのか?
 
 個々の事例ごとに、原因や要因は様々だろうし、はっきりとしたことは私にも分からない。けれども、こうした努力を恐れるプライド高き男達がやたらと生まれてくる背景には、おそらく、
 
•「目に見える努力ばかり認めて」「目に見えない努力を評価しない」ような価値観が小さい頃から植え付けられている
•「結果だけを褒められ」「結果に至るまでの過程は褒められない」
•親の自尊心を仮託する対象として、子どもが選ばれた結果、自尊心が天狗になっちゃった*2

 
 などが含まれているのではないかと疑っている。小さい頃から塾通いに励み、テストの点数ばかりを褒められたり叱られたりしながら、親の自尊心を無言のうちに背負わされて育ったような男達は、狭い分野の内側でしか努力できない人間になりやすいように思える。あるいは、分かりやすく即座の結果が出なければ、自尊心が落ち着かない人間になりやすいように思える。もちろん、それだけでもないだろうけれど。
  
 私は、自尊心やプライドを持つことが悪い、とは思わないし、人間である以上、むしろ適度なプライドは必要だろうと思っている。けれども、プライドが高すぎて傷つきを恐れるあまり、努力できる範囲が限定されてしまうと、人生の可能性は狭くなってしまうだろうし、スキル獲得の偏りの大きな、融通のききにくい人間になりやすいとも思う。
 
 にも関わらず、「努力を恐れる男達」は、今も増え続けているような気がする。団塊ジュニア〜ロスジェネ世代だけの話ではなく、もっと下の世代にも共通した心性だという印象を、私はどうしてもぬぐい去ることが出来ない。一体いつまで、こんな傾向が続くのだろうか?「努力を恐れる男達」がこれからも増え続けるのだとしたら、なかなか大変な世の中になっていくような気がする。
 
 
 [関連]:「彼女がいない」より、「惚れない」ことのほうが深刻なのでは? - シロクマの屑籠
 
 

*1:例外は、実力主義の会社に入社していて、なおかつ速やかに実力が認められるようなバケモノ的才覚を持った人間ぐらいだろうか。ちなみに、いわゆる実力主義の会社というのは、逆説的に、努力を恐れる男達の格好の飛び込み先となり得る。短期間で目に見える成果を出せば評価されるという看板は、即戦力の人材や天才的な人材を惹き付けると同時に、自分は努力しなくても評価されて当然という自尊心を隠し持っている、才覚も無ければ努力も出来ない人材をも同時に惹き付けやすい点には、注意しておきたいところだ。

*2:これには勿論、少子化による影響もある。子どもが五人いれば、親が仮託する自尊心は五等分されるが、一人しかいなければ、その子が一身に親の自尊心を請け負わなければならない。

なろう系ラノベに努力の要素を持ち込むのはタブーか?の返信 (No: 12)

投稿者 甘粕 : 2 No: 1の返信

投稿日時:

私みたいなのが意見していいのかわかりませんが、甘粕個人の意見をば。

努力要素が嫌いとかタブーとかではなく
サクッと読めるものを求めているからこそ
長ったらしいそんな描写(努力)いらねえよ
という話なのでは。

ウェブ小説、ハイパーテクストの大半は飛ばし読みという研究結果が数年前に出ていて、その実験対象として選ばれたのは小説なのですが、ハイパーテクスト読みに特化した若者には、読んだ直後に感想を聞いても(簡単な内容のものでさえ)答えられなかったのだそうです。

短い物語、サクッとスナック菓子食べるみたいな感覚で読みたい、が故に努力という長い描写が不必要になったのではないか(なろう系を読む彼ら彼女らの中では)と考えます

小説の作り方としてはやっぱり努力要素は入っていると思いますが(あからさまに押し出す感じじゃなく)、でないと物語を書く人なんていなくなってしまう。

ハイパーテクスト読み特化
短期記憶でも印象付く「数字」
これが読みやすいとされ好まれたのではないかと思います

実際サイトなどはアクセス数とか
数字に囚われて一喜一憂している子が多いですし

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タイトル:なろう系ラノベに努力の要素を持ち込むのはタブーか? 投稿者: うっぴー

なろう系ラノベは、「友情」「努力」「勝利」の法則を掲げた少年ジャンプとは対極にある存在で、読者はチートハーレムを望んでおり、主人公が努力するのはタブーである、ラノベ読者は努力が嫌いである、という言説があります。

一方で、ラノベ新人賞の下読みさんによると、物語には成長要素が不可欠で、読者は登場人物が成長していく姿に心を動かされると言います。
果たして努力をせずに、成長が描けるのか?

実は、なろう系ラノベの読者は努力が嫌いなのではなく、対価の約束されていない努力が嫌いというのが真実だと思います。

その証拠として、主人公がモンスターを倒して経験値を稼ぎ、ステータスをアップさせる、新たなスキルを獲得するというタイプの物語が多いことが挙げられます。

これはシリーズ累計発行部900万部突破のヒット作「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか 」(GA文庫・2013/1/11刊行)がパイオニアとなった要素で、主人公などの登場人物のパラメータがゲーム的に表示され、モンスターを倒すたびにこれがアップしていきます。

「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか 」の主人公は、登場した当初は最弱でしたが、成長速度が異様に早くなるスキルの持ち主で、どんどん強くなっていきます。
この成長要素が快感だったわけです。

なろう系の異世界転生とは、より本質的に言えば、ゲーム世界への転生です。
ゲームの世界では、モンスターを倒せば必ず経験値やアイテム、お金が手に入ることが約束されており、努力が無駄になりません。

これはラノベの読者層であるオタクに馴染みやすい要素であるため、受け入れやすく、努力して強くなっていく主人公に感情移入しやすくなっています。

しかし、これ以外の方法で努力したり、主人公の成長を描いたなろう系ラノベ(書籍化作品)は、寡聞にして知りません。
もし、これが以外の方法で努力したり、主人公の成長を描いた書籍化作品がありましたら、その内容などを教えていただけるとありがたいです。

なろう系に努力の要素を持ち込むのはタブーか?についてもご意見をいただけるとありがたいです!

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