語り手とカメラを意識させるのはまずいの返信の返信の返信の返信
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語り手とカメラを意識させるのはまずいの返信の返信の返信(元記事)
詳細な回答と解説、ありがとうございます。大変参考になります。
(1)について。
Aの問題点については、私も認識してました。最初に例として出した際に「ダサいかどうかはともかく」と書いたのも、こういう部分が単に視点の問題だけではないからです。例として最適ではないと思いつつ、他に思い当たらなかったので、注釈付きで挙げました。
A・Bの問題は人称視点とは関係ないので置いておくとして、Cの部分で一元視点は引っかかるということなんですね。
一元視点のチェックに、一人称に変換するという方法がありますが、この件については通用しないようですね。
質問しておいてなんですが、私の感覚として、三人称の地の文に人格が垣間見えることが、そこまでリーダビルティーに影響するんだろうかと疑問があります。
先の例では、それ以外の問題点の方が大きいのではないかと。好例が思いつかないので、間違ってるかもしれませんが。
回顧型の小説
歴史小説によくみられるタイプかなと思います。そもそも過去の出来事であることが、前提ですからね。
人物を描くのなら、感情移入もしやすく、臨場感もある「現在進行型」が向いてますが、歴史の転換期にスポットを当てたものや、その時代になにが起こったのか、客観的に描く作品なら「回顧型」が向いているんじゃないでしょうか。
>三人称一視点の最大の狙いは「臨場感」
私の考えでは最大のメリットは「客観性」だと思っています。
一人称の場合は、すべて視点者の言葉で語られるので、それが作者の主張と同一視されがちです。ですが、かならずしもそうではありません。三人称にすることによって、視点者と距離を置くことができ、作者の意図が別にあることを示せることが、大きいのではないかと考えます。
(2)について。
>基本的に視点人物(視点を固定する人物)の知識と一致させた方がいいように思います。
ということは視点者が知りようのない「特殊な物理法則」などもダメということですね。
私は、三人称の地の文には、客観的事実でないと書けない。逆にいえば、客観的事実であれば、何を書いてもかまわない。と考えており、視点とと結び付けてはいませんでした。
今回、皆さんの指摘を受け手元にある小説をチェックしたところ、視点者の知識から逸脱した内容には触れていないとこに気づきました。
また、サタンさんの「作者の解説文」の見解を読んで、確かに視点者の知識から逸脱した内容については、最初か途中で挿入するかの違いはあれど、物語の進行とは切り離して記述してあるなと、思い当たりました。
とうことで、質問させていただいたのですが、やはりそうなんですね。
この件について、「三人称なんだから、客観的事実は書いても問題ないでしょう」という考えの人はいないんでしょうか。いれば、意見を伺いたいです。
子供が視点者で、地の文に大人でないとわからないような記述がある、というのは例外なんでしょうね。
「現代的神視点」
当てはまっているかどうかは、わかりませんが、ファンタジーで吟遊詩人が語るという、体裁をとった作品を読んだ覚えがあります。
三人称の変わり種としては、金田一耕助シリーズは、実在する金田一探偵の冒険譚を、友人である作家の横溝正史が記録に残す、という形になってました。
横溝氏が登場する作品もありました。
当初から想定していたとは思えないので、シリーズを続ける際に何らかの必要性があったのでしょう。
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投稿者 あまくさ 投稿日時: : 1
実は私は視点オタクの気がありまして(笑
>質問しておいてなんですが、私の感覚として、三人称の地の文に人格が垣間見えることが、そこまでリーダビリティーに影響するんだろうかと疑問があります。
そこは書き手の腕かな。使いこなしてしまう作者はいると思います。しかし、多少なりともリーダビリティを損なう恐れのある文章を大して意味もなく書いてしまうのは避けておく方が賢明です。書かなければすむだけの話なので。
>私の考えでは最大のメリットは「客観性」だと思っています。
異論はありませんが、それは三人称そのもののメリットかなと。三人称一視点(一元視点)の話なら、三人称なのに一人称のように一人の人物に視点を固定する理由を知りたくなりますよね?
その疑問への答えとして、 f-logさんは「読者を混乱させないため」ということをあげていらっしゃいます。一方、私と hexaさんは「それもあるけれど、他にもメリットがあるんじゃないか?」と考えているわけです。そこで微妙に意見が食い違っているのだと思います。
三人称の記述には客観性がありますが、読者と物語の距離感が遠くなりがちという問題点があると考えています。
三人称一視点には、読者が物語の世界の中で実際に情景を見たり誰かと会話したりすることを疑似体験させるという狙いもあると思うんですよ。
一人称にもそういう効果はあるでしょうが、語り手の主観が前面に出すぎるのと、語り手と読者が向き合ってしまうような感覚もあるので、世界を疑似体験させるには必ずしも最適ではない気がするんですね。
なので、むしろ臨場感という点において三人称一視点は一人称よりも優れていると考えています。
>「三人称なんだから、客観的事実は書いても問題ないでしょう」という考えの人はいないんでしょうか。
いや、もちろん問題ないと思いますよ。
というか三人称の原則としては間違いではないということです。ただ、一視点には上記のような狙いもあるという考えに立てば、その狙いにはそぐわない。だから、わざわざ一視点にするメリットが半減するんじゃないかという考えです。
ただ。
世の中には妖怪のような剛腕をもった作者もいるもので、上のような考えを嘲笑うようにあたかも視点に無頓着なような書き方で、リーダビリティもそこなわず臨場感も演出してしまうんですね。
そういうのを個人的に「現代的神視点」と考えています。
カテゴリー : 文章・描写 スレッド: 神視点での小説の成功例