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かにさんさんの返信一覧。得点の高い順3ページ目

元記事:性別を主題にした物語を作りたいが……

最近漫画などでは、性別未分化モノが流行っている様で、どこか性別という概念の息苦しさを表している様にも思えます。甘粕です。

甘粕自身、性別が男女の中間に位置する中性の為(詳しくはwikiを参照の事)
性別を主題とした物語を手がけたいと思ったのですが
ここで二つほど悩みが出てきました。

・漫画では、その性別の曖昧さがイラストによって可視化され、
わかりやすくなっている&大半が恋愛もの、なので読んでくれる人も多かろうと思うのですが、小説ではジャンルは選べても性別の曖昧さを表現する事がどうにも難しい。
(私は数年前漫画を描いていたので、別媒体で展開も出来なくもないのですが……)

・そして性別という概念を社会全体の仕組みから考えた時に
社会が崩壊するレベルで、制度などを考えるのが難しい。
(これを回避する為に性別未分化モノは殆どが恋愛ものなのか? と思ったり)

性別未分化モノを恋愛抜きで小説で展開させる事は難しい事なのでしょうか?

私が何故そのジャンルを手がけたいか、という理由を述べますと
私自身がはっきりしない苦しい思いを昇華させたい、知ってもらいたい、という思いがあるからですね。で、わかりやすい手段として「物語化」させたいという事です。

皆様の知恵をお貸し頂けないでしょうか?

上記の回答(性別を主題にした物語を作りたいが……の返信)

投稿者 かにさん : 1 投稿日時:

中性というのは、生物学上の性別とジェンダー・アイデンティティに差異があるということでしょうか。となると、テーマとして語りたいのは以下のような内容でしょうか。

■テーマ概要
現実において、生物学上の性別は「選択の余地なく与えられたもの」。それを「選択できるもの」にすることで物語の主体が「決断のリスク」を自覚せざるを得ない状況を作って、「どちらの性を選ぶべきか?」という主題を語りたい。

となると、作中で以下は語る必要がありそうです。

①中性(未分化)であることのメリット・デメリット
→「そのままでもいいんじゃない?」という選択
②男性であることのメリット・デメリット
③女性であることのメリット・デメリット
④物語主体の「どの性への分化するのか?」の決断とその決断の根拠。

この時、性別を決めないことに対するリスクがあって「タイムリミットを過ぎると生殖機能を失ってしまう」みたいな設定があると、決断を後押しする展開が作りやすいと思います。有性生殖能力がなければ性別はないので、これは「中性(未分化)」から「無性」という選択になりますね。

ついでに、「未分化状態から分化後、性別は固定されるのか? 分化後も外的因子によって性転換が可能なのか?」という設定は決めておく必要があると思います。

世界観は「人間が性的に未分化であることは当たり前」の世界にして、社会構造はもう語らない方向のほうが楽でしょうね。語ろうとすると、テーマとなる『性別』の背景にある知識をどれだけ持っているかが、創作難易度に直結すると思われます。

今回の場合は、生物学と社会学に関する以下のような知識はある程度必要になるかと思われます。

有性生殖、無性生殖
繁殖戦略
性的二型
性決定
性転換
性同一性
Xジェンダー
フェミニズム

これに加えて社会の作られ方に対する理解も必要なので、結構しんどいと思います。

カテゴリー : 設定(世界観) スレッド: 性別を主題にした物語を作りたいが……

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元記事:ラノベの一般読者層の知性レベルは、テレビの想定視聴者くらいを想定すべきか?

どうも。質問は初めてです。よろしくお願いいたします。

本題ですが、ラノベの一般読者層の知性について質問です。

会社でなんとなくぼーっとしていたとき、ふと「ラノベの一般読者層の知性レベルは、テレビの想定視聴者くらいなのではないか?」という仮説が思い浮かびました。これについて、色々調べたところ、以下のようなことが分かりました。

――――――――――――

■テレビの想定視聴者層はどれくらいか?

(少し昔の話題になりますが)とある芸能人が「CMは偏差値40の人にも理解できるものじゃなきゃダメ。この会社にいる時点で普通ではないと自覚しろ。世間にはおそるべき量のおそるべきバカがいる。そしてそれが日本の『普通の人』だ」という発言をしました。

また、演劇人の壤晴彦氏は、Twitterで同じような発言をしています。
「もう随分昔、当時の売れっ子脚本家とプロデューサー同席の時「日本のTVドラマは小3の語彙力で書けと言われます」俺「ホント?」P「ウン」俺「小4じゃダメなの?」P「視聴者から『難しい』ってクレームが来るんだよ」

さらに、KeyHoleTVの開発者である苫米地英人氏は自著の中で「そもそも現代のテレビ番組が、どういう層を対象にしているかというと、小学生高学年レベルの知力を対象レベルとしている。つまり、小学校高学年の頭脳が見てちゃんと理解できるレベル以上のものは、テレビには存在しないのだ。報道だろうが連ドラだろうが、同じである。すべて小学生向けのものだと思って間違いない。」と語っています。

小学3~4年生レベルの知性というと、国語が「ごんぎつね」、算数が「割り算」「小数」「角度」、理科が「磁石のしくみ」くらいとなります。いやいやさすがに馬鹿にし過ぎではないかと疑ったのですが、その手の人と付き合いのある友人に確認してみたところ、「まさにそう。彼らの知識はほんとそれくらい」と強く頷いていました。

これらを鑑みるに「テレビは小学生高学年レベルが理解できるように作られている」というのは信ぴょう性が高い(と私は思っています)。

■偏差値40の人は何に興味があるのか?

下記サイトにて、「偏差値40の人は何に興味があるのか」を解説していました。

はあちゅう氏の電通の先輩が言う「偏差値40の人向けPR」を解説。
https://www.kyohei-suzuki.com/entry/hensachi40-pr

(以下引用)
『偏差値40程度の人達は「時間が潰せること」と「快楽を得られるもの」に興味が振れていると言えます。電車やバスの待ち時間、退屈な授業中の暇潰しはスマホでソシャゲー。でも、ゲームだけだと飽きるので、楽しいことがしたいと思って恋愛を求めたり、バイクに乗ったり、ギャンブルにはまったりする。恋愛は本能、その他は「周りがやってるから」という理由で選び、ハマって行きます。彼らは多くのこと、本質的なことは考えず、本能や親しい人の勧めに従って行動するのがパターンです。物事をよく考えてから判断して行動する傾向のある、偏差値の高い人々とは逆のベクトルを向いています。』

そのうえで、偏差値40の人に受け入れられるコンテンツの特性として以下の要素を挙げていました。
・五感に訴え、本能を刺激するもの
・強く共感させるもの
・親しみを持たせるもの

――――――――――――

上記を踏まえたうえで、ライトノベルの一般読者層は、上記のような特徴を持つ人々と考えてもよいと思いますでしょうか? それとも、これ以上の知性を想定すべきでしょうか? もし、後者を支持するならば、どれくらいの知性を想定すべきだと思うでしょうか?

ご意見よろしくお願いいたします。

上記の回答(ラノベの一般読者層の知性レベルは、テレビの想定視聴者くらいを想定すべきか?の返信)

スレ主 かにさん : 1 投稿日時:

みなさんご意見ありがとうございます。

私個人としては、にわとりさんのご意見が一番しっくりときました。

『読み手個人個人は本来小学3年以上の知性があるはずだけれど、「ラノベというコンテンツは頭空っぽにして楽しむもの」という意識があるため本来の知性は発揮されず、ラノベ読書時は偏差値40の状態になっている』。これが実態な気がします。ラノベってエンターテイメント・コンテンツですものね。私の中に「本を読む=知的活動」という先入観があり、「人の知性レベルは状況・状態によって変動する」というのが盲点になっていました。

また、「『語彙力ベースで考えれば小3程度で大抵のことは表現可能』だから、そのレベルが作り手の想定する知性のボトムラインとなっている」という考えも納得できました。

他、いただいた意見の中で、自分の考えと異なるものに意見を添えさせていただきます。

■手塚満さんの「本当は読者は必ず作者より賢い」について

必ずしもそうではないと思っています。というのも、読者の集合知は、あくまで各々の知識集まりであって、一つの体系としてまとまっているわけではないからです。読者集団の知識は体系化される際の批判プロセスを経ていないため、根本で間違えている可能性があります。例えば、集団の多くが特定の偏見を共有していた場合、集団の主張する『統計的根拠』は信用できないものになります。これには実例があり、作家の竜騎士07氏が自作「うみねこのなく頃に」にて問題出題編にてミステリーの謎を読者に提示して、同作の次エピソードを執筆している(エピソード8まであり、半年単位で発売された)際、2ちゃんねるに正しい答えを提示した人が一人いたらしいですが、その答えがその他大勢の連携によって「間違っている」と潰されるのを氏はリアルタイムで目撃したらしいです。
上記のような話もあり、大衆の知は、統計的に有意となる特定条件下でない限りは、あまりあてにならないと思っています。それよりかは、多くの批判を超えた専門的な体系知の方を信用すべきです。

■あざらしさんの「小説において『面白い』は少数を向いてても良い」について

そうだったら嬉しいなあと思っています。ただ、プロとしての活動を想定する際は、この考えは取り間違えるとリスクになると思っています。というのも、ラノベのビジネスモデルには以下二点の特性があるからです。

①ラノベのキャッシュは「数」によってもたらされるため
※競争差別化の話は置いておいておきます。

ラノベのビジネスモデルは、基本値上げを想定していません。これは、ライトノベルが「数のビジネス」であることを示しています。「100人に価値200を提供する」のと「200人に価値100を提供する」のでは、集団に同じ量の価値を提供していますが、後者の方がキャッシュが入ります。出版社は営利団体のため、後者の作家のほうを重宝すると考えられます。

②ラノベ作家は「売れるか売れないか」による格差が極めて大きい職業のため

ラノベのビジネスモデルは、メディアミックスを前提にしています。ラノベの中で売れたものをアニメ化してメディアミックスで稼ぐ。「リスクの少ないところでテストする」という合理的な考え方です。この時、メディアミックスの有無によって出版社にもたらされるキャッシュの差が100倍あると聞きます。また、編集者は一人当たり50人前後の作家を担当しているため、優先順位が低い人に対してはあまり時間を使えないらしいです。

これら二点は、作家の所得/待遇に対する格差の存在を表しています。私個人も前者のような「少数に強く受ける作品」を書く/読むのが好きなのですが、だから「それでいいんだ!」と開き直るのは、プロ作家活動としてのリスクになると考えています。まあ、この辺りの方針は自身の思想や技術と相談しつつ、自己責任で決定してくものだと思います。

■あざらしさんの「存在しないスポンサーではなく、読者を向いて執筆して欲しく」について

……まあ、スポンサーいるんですよね。出版社というスポンサーが。そして、スポンサーがキャッシュ上のリスクを負っている以上、それに背く意思決定は事実上できないし、してはいけないのだと思っています。会社と株主の関係と同じですね。自由なものを書きたいのなら自分の資本でやれって話ですし。ビジネス上のこの点には納得していますし、そうあるべきだとも思っています。

プロ作家としては、スポンサーの利潤を追求しつつ、エンドユーザーの要望に応えるのが職業的な義務である。スポンサーの利潤にならない商品は、自分の資本で出して、自分で資本的責任を持つ。これが正しい考え方じゃないかと思います。

時間が遅くなったので、この辺りで。
みなさん、ありがとうございました。

カテゴリー : その他 スレッド: ラノベの一般読者層の知性レベルは、テレビの想定視聴者くらいを想定すべきか?

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元記事:新人賞に落ちた時の立ち直り方

お久しぶりです、本居です。
突然ですが、人生で始めて応募した小説が一次落ちしてしまいました。自信作だったので非常に悔しいです。
初めてなので当然かと思いますが、やはり一次通過すら出来なかったと言うことは作品がつまらなかったと言う事でしょうか?
文章構成、描写共に能力不足だったとは思います。しかし物語としては自信がありました。
そこで質問です、作品の内容ではなく、能力不足で一次通過出来なかったと考えても良いのでしょうか? 単につまらなかったと面と向かって言われれば納得出来ますが、そう言う訳でもないのでどうしても能力不足を理由にしたいです。
また、1から構成し直し作品を作り直すのは意味があるのでしょうか? これも経験と受け入れ、次回作に力を入れた方が良いのでしょうか。
ご回答、よろしくお願いします。

上記の回答(新人賞に落ちた時の立ち直り方の返信)

投稿者 かにさん : 1 投稿日時:

私も自信作が一次落ちしたことあります、あります。
結果見る前に会社辞めてやろうと思ったくらい自信あったので、落ちたときはすごく落ち込みました。(私は性格自信家なので、そういうことがよくあるのですが)

で、そこから立ち直る方法ですが、新しい作品を書き始めるといいですよ。次作に本気で集中していくと、前作のことは案外自然と忘れていっちゃうものだったりします。

落ちた作品はずっと放置しておくといいです。半年から一年くらい経つと、それなりに冷静な目で読めるようになるので、その時、改めて分析をしてみてはどうでしょうか。

自信があった作品なら、完全にダメな作品であるわけがないと思います。でも、トゲトゲのレーダーチャートみたいに「一部分が良いけど、全体としてはどうだろう?」という作品だったのかもしれません。

私個人は、書き終えた作品には、あまり執着しないほうがいいと思っています。
公募に投稿した時点で、その作品は完成したのです。その時点での自分の全力を出し切って『完成した』と判断したから公募に出したはずなのです。なら、完成した作品にはそこで一区切りつけて、その時に学んだことを使って次の作品を作っていくほうがいいと思います。その方が新しい発見があると思います。

後、落ちた作品は、なろうやカクヨムとかに投稿するのもいいと思います。私も落ちた作品はそちらで供養しています。毎日更新したら、意外とpvついたり、レビューもらえたり、毎日読んでくれている人がでてきたりして「完全に悪い作品じゃあなかったんだなあ」と、自分の費やした時間に価値はあったんだと実感できたりします。

カテゴリー : やる気・動機・スランプ スレッド: 新人賞に落ちた時の立ち直り方

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元記事:社会派小説のネタ募集!ネタ探ししているそこの君!僕とディスカッションしよう!(あざらしさんが勧めてくださったレオンが発端のスレです)

 以前の僕の質問を見返すと、社会派小説の観点に立って話しているな、という自覚を覚えました。
 それならば、
 【現代文明における成人の儀の話】と、
 【核家族社会の黒歴史】や
 【理性や思考だけを育てる『頭脳教育』の是非】、
 あるいは、【家族形態の多様性について】や、
 【人間関係のオリジナライズ(固有種化)を促せる社会の実現】などの話題は、僕にとって至上命題であると思い立ちました。

 どうも、壱番合戦 仁です。ただいま、あざらしさんが勧めてくださった映画に感化されて、過集中状態です。
 これから、一つ一つ丁寧に解説していきますね。各議題に分けて投稿しますよ!これから僕の持論に対して、皆様の意見を募りたいと存じます。レッツ、ディスカッション!

 壱、【現代文明における成人の儀】

 以前、『人類文化史上において、書き手が紡ぐ物語が視聴者や読者にとって、奇しくも成人の儀の代わりとして機能している』という記述を、ある学術書にて見かけたことがあります。

 個人的には、今もなお、小説を始めとしたとした物語が、僕たち人類の心を育み続けている、とは思います。
 とはいえ、その機能は完全とは言えないでしょう。現状の社会を顧みても、ニートのオタクたちに《行きて帰りし物語》の系譜に属する本を読ませても、おそらく成長はしないでしょう。人によるとは思いますが、効果は非常に薄いと言わざるを得ません。なぜならば、《自分事としては捉えていない》からです。

 当たり前のことですが、多くの場合において、小説にせよ映画にせよ、『この本を購入したあなたは劇中の人物が起こした他人事を覗き見る立場に置かれます』、という不文律のもとに読者は存在します。
 これでは、成長することはおろか、娯楽作品の域を出ません。(エンタメ小説家のための場なのに、申し訳ない)

 少々脱線します。
 『新世界より』著/貴志祐介の漫画版のエンディングの様な手法をとることはできます。今までHEで語られた物語の主人公が、「どうせコイツ架空の人物だろ……。ケッ、ツマンネ」と高をくくっていた邪かつ健全なる感覚を持った読者たちに、「千年後のあなたへ」と告げて微笑みます。その言葉の裏に、物語そのものの重みを全部込めて読者に贈るのです。その発想力と鮮やかな手並みに僕は感嘆しました。一瞬、彼女が神の向こうの世界から話しかけてくれたのだ、と泣きそうになりました。
 でも、すぐに夢は覚めます。僕は、その本を一度閉じて、表紙を見返しました。
 なんてことはありません。【表紙に映し出された彼らは、最も本人たちにとって栄光ある姿のまま時を止め、命を得ることはありません】。
 僕は、強い悲しみを覚えました。嗚呼、物語に恋することのなんと虚しいこととか!
 だからこそ、誤解を恐れずに申し上げれば、娯楽の観点から言っても、《自分のためだけに作られた世界に行って、自分を主人公として生を謳歌し、峻厳なる試練を乗り越えて、その世界を去る》という体験を、生身で実感できる媒体を作ることができれば、物語はもっと面白くなる可能性を秘めています。
 この日本に限らず、皆誰もが『自らに精神的成長をもたらすかりそめの世界』を求めていると、愚考します。
 『事実は小説よりも奇なり』ということわざの裏には、「ある一面においては、現実は小説よりも奇妙さに優れている」=「小説並みの出来事は起きうるのだ(だから現実を悲観することはない。きっと楽しいはず)」→「でも、ぶっちゃけいうと、今年の年末休暇は俺tueee系のラノベ世界でバカンスしてェわぁ……ムナシィ」という願望が見え隠れしていると思います。(うがった解釈であることは自覚しています)

 では、これらの課題を現代技術で賄うとすれば、何があげられるか。
 今現在、可能性があるとすれば、古今東西の魔術の科学的実証や霊体の分析計測を通して『本物の異界』を探求するか。(その応用で世界創造の技術が開発されればめっけもん)
 もしくはフルダイブ技術、もしくはその代わりとなるVR技術を開発するか。
 いずれにしても、実現性自体は否定できませんが、将来の話とするしか冷静な見方がありません。

 僕だって、ここではないどこかを旅して成長したいし(異世界行きたい!)、一定の筋書きに沿ってスムーズかつドラマチックに凱旋したらかっこいいのに、と妄想しますよ。
 誰でも一度は物語を夢見ることはあると思います。
 前述のうちに『行きて帰りし物語』は、成人の儀の代わりだ、と申し上げました。
 この際です。出来るかどうかは別として、こう考えてはいかがでしょうか?
 「代わりなんて使わずに、本当に成人の儀をしちゃえ!ついでに社会制度もそれに合わせて変えた方がいいよな」と。

 皆さんなら、今の現代社会に成人の儀(または試練)は必要だと思いますか?
 もし必要なら、どんな試練を受けたいですか?また、自身の要望を別にした場合、社会全体から見てどんな成人の儀が必要だと思いますか?

 補足解説。

 我々人類は、「人間」というよくわからないものを演じてきました。
 ですが、「我々は、何という名前の生き物だったのでしょう?」

 思わず、「人間」と答えてしまった、そこのあなた。そう、それこそが社会にゆがみをもたらす元凶だと僕は考察しています。
 我々は、自然環境に適合するために道具や文化の発明を通して、「人の世」という、自然の摂理から引き離された隔離世界を作りました。そうしているうちに、自分が生き物、あるいは動物であることを誰もが忘れてしまいました。
 生物図鑑に自らを「ヒト」と記しつつも、サルに分類される自らを「万物の霊長の類」としてしまったり、絵図に書いたヒトに下着を履かせたりすることが、人が自分を動物だと思っている何よりの証拠です。

 断言しましょう。動物よりも偉いとされた「人間」は、『ヒト』という生物の在り方に立ち返って、あらゆる生命と対等になるべきです。その方がよほど健全だし、少なくとも僕はそういう立場をとります。
 僕は人間の尊性を過信してはいけないと思います。

 皆さんも、人生を生きていて一回は、自分の本能を抑えつけたことがあったかと思います。あなたが男性で、異性を目の前にしたことがあるなら、なおさら、覚えがあるでしょう。
 「そうした欲求を持つことは健全」とされているにもかかわらず、社会正義や世論、および小説を含むメディアは本能に関する事柄に対して強い嫌悪を表現します。
 いかにも食欲や性欲、自己承認欲求丸出しのキャラクターは、敵役の性格について語るとき、もはやテンプレートにすらなっています。

 ですが、ここで一度考えてください。
 「欲求を持つこと自体は健全と認めるのに、何で「お花を摘みに行っていいですか?」とわざわざ遠回しに聞いてから野糞するがごとく、人に隠れてこそこそさっさと済ませなきゃいけないの?」と。

 ヒトは、たくさんの必要不可欠で根源的な欲求をその遺伝子に刻んでいます。
 
 「気持ちいい」と感じることは罪なのでしょうか?
 本来、快感と幸福は不可分一体であったはずです。

 僕は、多くの「極端に【人間】になりすぎて、病気をこじらせた人たち」に出会ってきましたが、「禁欲しすぎたから壊れた」という方々は結構いらっしゃいました。
 キメたことがある人もいたし、イッている人もいたし、ミエテいる人もいました。
 あくまでも僕の主観ですが、彼らは非常に「人間」でした。少なくとも「ヒトらしさ」は見受けられませんでした。

 これを踏まえて考えても、おかしいですよね。
 僕らは、ご飯をたくさんおいしく食べている友達を前にして「獣みたい」と罵った、というたとえ話を聴かされても、「言い過ぎだ」とは思っても、「間違っている」とはなかなか言い出せません。

 セフレを何人も持っているけど、誰にも迷惑はかけていない。そんな幸福なチャラ男を前にして、「お前はケダモノか」とかいっても、それほど違和感はありません。
 でもよくよく考えてみたら、それはとても恐ろしいことだと思います。

 皆さんはどう思いますか?

上記の回答(社会派小説のネタ募集!ネタ探ししているそこの君!僕とディスカッションしよう!(あざらしさんが勧めてくださったレオンが発端のスレです)の返信)

投稿者 かにさん : 1 投稿日時:

ども、お茶です。
色々あるようですが、私個人は考えるのが好きなので、考える題材が提供される分には何も問題がないような気がしています。(議論とその人の態度は分離して考えるべきだと思うので、アサーティブに表現されているならば、その辺はノータッチに対応すべきかとも思ったり。まあ、限度はありますが)

■壱、【現代文明における成人の儀】

>>この日本に限らず、皆誰もが『自らに精神的成長をもたらすかりそめの世界』を求めていると、愚考します。

『求めうるもの』ではあると思うが、現実として、最初からそのモードで物語に接しようとする人は少ないんじゃないだろうか。特に『ライトノベル=娯楽休養のためのコンテンツ』という認識が市場に広がっている昨今では、それを主価値として提示するのは、編集者にはリスキーと考えられる気がする。(私個人は、『エンターテイメント定食+自己成長デザート付き』みたいな提供の仕方ならいけるんじゃないかと画策しているが。なろう小説が業界を跋扈している状況ではそれすらも忌避されるのではとも思ったり……)

ところで、読書行動の動機には、以下の四通りがある模様。「①娯楽休養」「②自己研磨」「③言語技能習得」「④影響触発」(参考論文:大学生の読書動機の分析/平山2004)。これは実用書なども含めた結果なので、ほんとに参考程度の情報だけれど。

>>皆さんなら、今の現代社会に成人の儀(または試練)は必要だと思いますか?

そもそも成人の儀って現代社会に必要ないと思う。もはや形骸化している印象を受ける。
日本に関して言えば、これまでの社会設計は『教育→仕事→引退』の三ステージで行われてきて、その教育→仕事のステージ移行の境目に成人の儀があった。けれど、人生百年の長寿化社会となっては、仕事ステージの割合は自然と大きく(=働く期間が長く)ならざるを得ない。長い時代の中では社会に求められるノウハウ・技術も変化する。一人生のうちに複数種類の仕事をせざるを得なくなるケースも増える。そういった変化の予測に対して、成人の儀がいままでどおりの機能を持ち続けられるかといったら疑問だと思う。

>> 「欲求を持つこと自体は健全と認めるのに、何で「お花を摘みに行っていいですか?」とわざわざ遠回しに聞いてから野糞するがごとく、人に隠れてこそこそさっさと済ませなきゃいけないの?」と。

欲望を丸出しにしてはいけないのは、社会の中でお互いに生きづらくなるからだと思う。
例えば、排便欲求があるのは正当だけれども、どこでも排便していいわけではない。電車の中で排便したら不衛生だから当然周囲の人から嫌がられる。嫌がることをしうる人は、社会から排除される。自分の権利だけでなくて、他人の権利も考えられるかどうか。それが社会生活を営む上で必要なことだと思う。

>>ヒトは、たくさんの必要不可欠で根源的な欲求をその遺伝子に刻んでいます。「気持ちいい」と感じることは罪なのでしょうか? 本来、快感と幸福は不可分一体であったはずです。

『義務』の概念が欠けていると思う。一方に権利があるとき、他方には義務がある。『快楽を追求する権利』が自然権であるならば、同じ権利が相手にもあると考えなければならない。自分には『快楽を追求する権利』があるとともに、『他人の快楽を追求する権利を守る義務』もある。だから、無条件に欲求を追求することは不当。

>> 僕は、多くの「極端に【人間】になりすぎて、病気をこじらせた人たち」に出会ってきましたが、「禁欲しすぎたから壊れた」という方々は結構いらっしゃいました。

これはゾーニングの問題だと思う。その人たちは、欲求の表現の仕方を学べはいいだけ。例えば、女性への露出願望を持っていたとして、会社のOLの前でいきなり全裸になったら犯罪だけれど、SMクラブとかで裸になるのは許容されうる。

要は、嫌な人の前で嫌なことをしなければいい。『嫌な人=大衆』ならば、限られたマニアックな世界観の中に対して自己表現をすればいい。犬食文化を持った人がいたとして、それ自体は文化として許されるけど、愛犬の話をしている愛犬家の前で食いだしたらそれはもはや嫌がらせ。表現する場所を選んでやることが知性。芸術って分野はそういった特殊性癖の受け皿でもあるのは。

小休止。

カテゴリー : 創作論・評論 スレッド: 社会派小説のネタ募集!ネタ探ししているそこの君!僕とディスカッションしよう!(あざらしさんが勧めてくださったレオンが発端のスレです)

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元記事:ラノベに行間は必要か?また、まろん師匠の文学論について。

 こんにちは。壱番合戦 仁です。

 皆さんに質問させていただきたいことがあります。
 ズバリ、「ラノベに行間は必要ですか?」

 これについては、詳しくないので僕は意見しません。皆さんの回答をお待ちしております。

 次にまろん師匠の文学論について。
 彼方は、「せっかくアスペルガー症候群の君が、アスペルガー症候群の主人公をかくのだから、常識や常人の感性につきやってやる義理はない」と僕にご教示なさいました。
 暗に彼女は、「(きっちり描き切ってなお読者が読めないと文句を言うならそれは読者のせい)だからこそ、読者に媚びて読みやすくしてやる必要などない」といいます。湊かなえや百田尚樹のような売文奴になってほしくないのだといいます。

 「自分の主義主張を曲げてまで馬鹿に面白いといわれる事より、文学者として意義のある小説を書いて賢人に称えられるほうが尊い」

 これが彼女の一貫した主張です。これには僕も大いに賛同するところです。
 ですが、ここで一つ疑問が出てきます。
 「これって、純文学の流儀だよね?」「この方向があっていると強くサンドする僕は、ラノベ作家をやるべきではないのではないか?」と思ってしまったのです。

 面白い小説は書きたい。でも、読者に媚びたくないし、主義主張を捻じ曲げるなんてまっぴら。ましてや、奴隷ハーレムものを書いて「さすが○○様!すごいです!」なんてやりたくない。

 正直そろそろラノベに飽きました。
 【異世界転移ものにしろ、転生ものにしろ、魔王勇者ものにしろ、奴隷ハーレムものにしろ……。自己承認欲求を満たして現実逃避するためのオ〇ホじゃねーか!!】

 っとと。失敬。これは言い過ぎですが、読了しても胸の奥に何も残らない小説が多すぎる気がします。萌えとか抜きで、ラストシーンに差し掛かったあたりのヒロインを抱きしめたくなるようなラノベも、味わいのある余韻が残って、文学的に意味のある感動を覚えるラノベも、聞いたことないし見たこともありません。

 おそらくですが、ラノベの正体を彼方が知ったとしたら、たぶん僕がラノベ作家になることを義人はしないでしょう。そして、ぼくも、同じラノベを書くにしろ、純文学や大衆文学を書くにしろ、味気ない小説を書くつもりはありません。

 続きはまた今度。

上記の回答(ラノベに行間は必要か?また、まろん師匠の文学論について。の返信)

投稿者 かにさん : 1 投稿日時:

純文学には純文学のルールがあって、その文脈に基づいて評価を受ける。自分の操作できないところにルールがある、という点はラノベとそう変わらないはず。なので、本件はルールが明確な場所で戦うか、ルールが不明瞭な場所に飛び込むかの選択肢に過ぎないと思う。

未知の地に自身の優位性があることを期待するのは個人的にはアリ。ただそれで万事うまく行くわけもなくて、どちらにせよ環境に合わせて自分を変えて行く努力は必要となってくる。その合わせやすさが、自分と環境との相性によって変わってくる。なので、相性をみるためにも一回試してみればいいのでは。

後は、障害があろうが病気を抱えていようが、作者の素性なんて読み手にとってはどうでもいいこと。自分にはどのような価値が提供できるか。それだけを考えればいいと思います。

カテゴリー : 創作論・評論 スレッド: ラノベに行間は必要か?また、まろん師匠の文学論について。

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元記事:読む せんはあらしですか

この人とサ.タンあまくsってひとらは質問がひとけたなのに回答のけたがおかしくないですか、彼らは一体ラノベ界のなんなのでしょうか

上記の回答(読む せんはあらしですかの返信)

投稿者 元々島の人 : 1

ヤフー知恵袋や「作家でごはん!」の方がもっと人の心がない事言う人いますよ。しかも初対面で。


ヤフー知恵袋
「その程度のアイデアしか浮かばないなら小説書くのやめたら?」
「貴方みたいな低学歴が小説書いて誰に褒められるんですか?バカにされるだけです」

作家でごはん!
「2行で読む気をなくしてやめた。自分の作品の推敲に移った」

後編集者に昔見せた時
「これでは3行で落とされる」
言われました。

まあ、私なんかリアルでもネットでもそんなに叩かれていない、もっと地獄から這い上がってきた人は大勢いると思いますが。

カテゴリー : キャラクター スレッド: 読む せんはあらしですか

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投稿日時:

元記事:人間とAIの恋愛について

現在練っている小説のプロットで、主人公は高校生、ヒロインはAIで、二人がARゲームの中で知り合うんですよね。
それで徐々に惹かれていくんですけど、AIと人間の恋愛や人権についての意見があったら聞かせてください。
また、それについての面白い論文などがありましたら是非紹介してくれればと思います。よろしくお願いします。

上記の回答(現実でも分かってきたAIの威力)

投稿者 あまくさ : 0

AIの特徴と強みは、将棋ソフトの例で見ると分かりやすいです。

一見将棋とよく似たゲームであるチェスでは、20世紀の時点でAI(ディープ・ブルー)が人間の世界チャンピオンを破っています。ところが将棋ソフトの方は2000年代に入っても、まだまだプロクラスの人間を破るのは不可能と考えられていたんですね。

理由は、いくつかありますが、

1)持ち駒というルールのある将棋は、ゲームの終局まで駒の数が減りません。チェスには持ち駒がないのでゲームが進めば進むほど駒の数が減っていきますが、将棋はそうならないので選択肢が桁外れに膨大で複雑なんです。将棋の全手順を読み切るのは、スパコンを宇宙が消滅するまで動かしても計算が終わらないそうです。

2)チェスソフトの方が研究が先行していたことと、当時のコンピュータの処理速度の問題など。

2も大きかったのでしょうが、1の問題があるために将棋ソフトとチェスソフトはプログラムのアプローチの仕方が違っていたんです。
チェスソフトでは、その局面でのすべての選択肢を評価させる方式(全幅探索)が採用されていました。しかし将棋の場合は選択肢が膨大すぎるためその方法は現実的ではないと考えられていて、プログラマーが人間の作った定跡を元にして指し手をある程度しぼっておく選択探索という方法が主流だったんです。

ところが2005年に登場したボナンザというソフトでは、チェスのプログラムを参考にした全幅探索方式を採用しました。その結果、多くの研究者の予想を超え、プロ棋士たちが驚愕するほどの強さを発揮したんですね。

こういうことを可能にした条件の一つがインターネットの普及で、数万局の対局データをネット上から得て「機械学習」を実行させました(この機械学習も将棋の場合は有効ではないというのが、当時の常識だったようです)。その結果、人間の盲点になるような指し手、見落としやすい絶妙手をソフトが発見するようになり、良好な結果に繋がったんです。
そこで次の段階として、ネット上の人間同士の対局だけではなく、ソフト同士にも対局させてその結果をビッグ・データ化するという方法に進みました。

ごくごく簡単にまとめるとこんな流れになるのですが、この方式を採用して以来あれよあれよと言ううちに将棋ソフトは成長してしまい、今ではプロの名人クラスでも歯が立ちません。

で、ここから何が分かるかと言うと、コンピュータは人間の思考の範囲内で動かしているうちは人間を超えることはできないらしい、ということが一つ。
ところが巨大な処理速度とパワーに物を言わせ、人間の思考を離れて勝手に仕事させておくと(機械学習)、いとも簡単に人間を超えてしまうということです。それが様々な局面で実証されつつあるのが現状です。

   *   *   *

以上はAIの強みについての話になりますが、もちろんまだまだ弱点も問題点もあります。
ですが、そこに言及すると長くなるので、とりあえず「こいつは思ったより侮れないらしいぞ?」ということがフィクションだけではなく現実の世界でも起こってきている、というお話でした。

カテゴリー : 設定(世界観) スレッド: 人間とAIの恋愛について

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元記事:死んだら星になる

1、死んだら星になる、と聞いたことがあるのですが、元ネタがもしあれば教えてください。(ネットで調べた限りでは確かなことはわかりませんでした)

2、作中で、死んだ人の魂を星にする魔法を使いたいのですが、本文で「星にする」と書くのはカッコ悪い気がします。「星に上げる」「空に架ける」? 「架空する」だと変だし漢文忘れたし……と迷走しています。「架天する」「成星する」?
造語でも良いので、何かカッコいい言い回しがあれば教えてください。使用頻度が高いので、出来ればいくつかレパートリーがあればベストです。

3、死んだ人の魂を星にする、という魔法を、主人公に使わせたいのですが、魂を星にする、ということは霊が消滅してしまうことになります。主人公が人殺しをしているように見えますか?
一応、霊魂は、地球にとどまっていると悪霊化してしまうので、空に架け星にすることで地球の浄化&霊魂の救済をする、という設定にしようと思ってはいます。

以上3点、よろしくお願いします!

上記の回答(死んだら星になるの返信)

投稿者 サタン : 0

1.私も見聞きしたことくらいしか知らないけれど、確か古代エジプトが起源の考え方。
とはいえ、太陽や月または北極星など空にあるものを神に例えて死者はそこへ登るという考え方は割とどこにでもあるので、一番古いのがエジプトというだけだと思う。
例えばギリシャ神話の星座には「夜空に上げる」という表現があったりします。確か双子座とか射手座とか。割と多くにそんな逸話がありますね。
仏教でも自ら炎の中に飛び込んだ兎を讃えて帝釈天が兎を月に描いたという伝説があります。
同時に、流れ星のことを「落ちる」と表現して誰かの死を意味することもあるわけで、こっちはアンデルセンのマッチ売りの少女が元ネタじゃないかと思う。

2.星座では「夜空に上げる」という表現が多いんじゃないかと思いますが、まあ、これはかなり個人的な解釈なんですが、ようは神が人を神の住まう場所に召し上げる、という意味で神格化することの表現だろうと思ってます。
なので、神がするのは夜空に召し上げる事だけで、その後星座になって輝いているのは本人の力量だろう、みたいな。
私個人の考えですが、召し上げるだけなら「昇天」「召天」「帰天」まあ単純にキリスト圏で死を意味する言葉ではありますが。

3.書き方次第で人殺しをしているようにも見えるけど、そう思って書かない限り人殺しには見えないでしょう。
迷える魂を正しい方向へ導いている、というのが第一印象ではないでしょうか。

カテゴリー : 設定(世界観) スレッド: 死んだら星になる

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