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元記事:創作における聖典の引用について

 タイトルに関することで3つほど、有識者の方にお聞きしたいことがあって参りました。
 カテゴリー選択は著作権・オリジナリティにいたしましたが、キャラクターについてのものにもなると思います。

1・創作における聖書など、いわゆる聖典の引用は可能なのでしょうか。

2・犯罪者、それもいわゆる愉快犯にあたるキャラに聖典の一節を唱えさせることは問題になるでしょうか。

3・実際に聖典の一節を引用している作品はあるのでしょうか。また、それらが問題となった事例はありますでしょうか。

  なお、2つ目の質問において最もお聞きしたいケースは、「罪を悔いるなどの意図ではない」、「聖典の内容を曲解している(=犯行の免罪符として扱っている)」など、無知でも問題になるかもしれない、という考えに行き着くようなものとなっております。

 問題になるような創作をしなければ解決することであるとわかってはおりますが、ファンタジーではない世界観で、清廉なイメージの強く与える宗教家でありながら、アウトローでもある、というギャップを持つキャラクターを作りたいという欲求が強く、創作する、しない、どちらを選ぶにしろ、納得する理由が欲しいという思いでこの場を借りて質問させていただきました。

 回答のほど、なにとぞよろしくお願い申しあげます。

上記の回答(創作における聖典の引用についての返信)

投稿者 あざらし : 2 投稿日時:

問題になるか否かは『法的な問題』と『感情の問題』を区別して考える必要があります。(これより以下、大前提として法的なことは日本での話。海外は異なります)

その上でですが、まずは法的な問題から。
1)法的には著者の死後50年保護されます。聖書の場合は著者が誰であるかという問題が発生します。
信仰している方々以外、一般的にはモーセとか、あこらの方でしょうから、とっくの昔に亡くなってます。
宗教として信じている人からすれば、口述筆記でしょうし、そうなると著者はヤハウエですので”死語”という考えが成立しません。
ややこしいですね^^;

ですが、もっと簡単に説明することも出来ます。
ご質問から原著であるヘブライ語の話ではなく、日本語の聖書かと思います。
この場合は当然ながら訳者がいますし、翻訳にも著作権が発生します。
神学という学問が存在し、また聖書という性質から翻訳しっぱなしで放置、ということも考えにくいのではないでしょうか。
訳者の方はご存命であるかも知れません。お亡くなりになられている場合は死後年数の問題になります。
聖書が法人著作であるものを引用された場合は公表後50年です。

2)引用用件を満たしてください。
小説の場合は引用元を(普通は最後にまとめて)書くのが慣例です。

3)聖書の引用はイッパイあります。
有名な所だと映画【園子温監督:愛のむきだし】で、三分ほどの間、ヒロインが聖書の一節を読み続けるシーンの熱演が話題となりました。

次に感情の問題。
実はこっちの方がやっかいです。
と、申しますのも著作権は前述の刑事以外にも、民事もからみます。
荒っぽい話ですが、ぶちゃけ著作側が憤慨して『許せん!やったる!』と思えば、民事になるかも知れません。
商業作品というのは、こういったトラブルにGOを出した出版社側が対処しますし、会社である以上それなりに強い弁護士がついていることが相手側も想定できますので、よっぽどの事がないと訴訟問題に発展しづらいということもあります。

実際問題として、フィクションに一々目くじらを立てる可能性は高くないでしょう。
特に規模として大きいカトリックに関しては、世間の目もありますので可能性も下がるかと思います。
ただ、聖書である以上、キリスト教系すべてが対象、つまり相手が複数であり、かなーり胡散臭いキリスト教系ってのも実際日本国内に存在しますので正直には解りません。
訴訟と信心は別の話ですし、目をつけられ、憤慨されたら、後は相手の行動力次第です。

2)内容が具体的に解りませんので、こういう書き方になりますが『貶められたと感じる相手が存在するなら、その相手が黙認できるか?』です。

3)感情的な部分で有名な例は『悪魔の詩、訳者殺人事件』でしょうか。
イギリスの【悪魔の詩】という小説を翻訳した、日本の大学助教授卯が殺害されています。
小説ですが、ムハンマドが多神教を認めたが後に「悪魔のささやきだった」としてコーランから削除したという記述が問題になり、各国の訳者が殺害されています。

一神教の宗教を信仰している人々にとって、多神教を認めるというのは根底を揺るがす大問題ですから、殺害という手段はともかく憤慨する気持ちは想像できるところです。
私自身は無宗教の無神論者、強いていえばアニミズムに近い感覚ですが、特定宗教を信じるというのは『存在しない(神)を、意識の力だけで存在していることにしてしまう』という強烈な想いです。

無宗教の人間からすれば、信仰というのは『目の前にあるペットボトルは意思をもっている』これを信じて、信じ続け、ペットボトルが喋り出し、あなたに忠告や苦言を呈し、日常生活そのものをペットボトルさまの仰る通りに行動し、ひれ伏して従う。
これを”全く正気のままで”意思の力だけでやってのける、信じられないパワーです。

絶対に間違って理解してほしくないのは、『ムスリム・イスラム教徒特有の過剰反応』という認識。
件の殺人事件そのものも、当時のイラン最高指導者ホメイニ師という”個人”が殺害指令を出していたのが発端です。

アメリカも基本的にキリスト教徒が多いですが、学校の先生すら『教えることになってるから、教えるけど進化論は嘘っぱち。神様がお作りになられた』とか普通にいいますよ。(細かくは反優生学とかもあるんですが)
信仰している人からすると、聖書ってのは神の言葉ですから、極めてデリケートであることは間違いありませんし、それは多分、日本でキリスト教を信仰している人も同じかと思います。

最後になりますが、結構簡単な話を。
読んでませんので、こういった書き方になりましたが、基本的に私個人は『いいんじゃね?』という考えではあります。
率直には(清廉なイメージ)(アウトローでもある)他諸々を満たすことは宗教家に拘る以外にも道があるように感じました。

加えて、最も重要なのは結局の所『書かれた小説を教会に持って行き、信者さんに見せられるだろうか』ということではないでしょうか?
『殴られそう』『ちょっと見せられない』なら、そりゃやっぱりまずいでしょう。
『黙認してくれそう』『これぐらい大丈夫』なら、セーフなのかもしれません。

お勧め作を一本だけ。
【貴志祐介著:悪の教典】
映画化されてますが、悪くないだけでお勧めはしません。
小説でどうぞ。

色々書きましたが執筆頑張ってください。
応援いたします。

カテゴリー : 著作権・オリジナリティ スレッド: 創作における聖典の引用について

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元記事:中世ヨーロッパで剣と魔法の世界が書きたい

タイトル通りです。ネットで色々と調べているうち、ちょうどナーロッパなる言葉があることを知り、そうなることは避けたいと考えています。
良い資料や小説(漫画やアニメ、映画もいいことにはいいんですが、活字に慣れるためなるべく小説がいいです)がありましたら、厚かましいようですがよろしくお願いいたします。

上記の回答(中世ヨーロッパで剣と魔法の世界が書きたいの返信)

投稿者 あざらし : 2 投稿日時:

興味深いご質問でしたので、久しぶりに書き込みさせて頂きます。

>中世ヨーロッパだけの史実だと~ 中略 ~ どこの分野が発達してどうなるの?とか。

たぶん、これ”ウソ”が多すぎるんだと思います。
もちろんフィクションなのでウソで良いのですが、仰っている『剣と魔法の世界』の、魔法の部分。

例えを出しますがRPGゲーム。
剣と魔法を扱った商品は山ほどありますよね。
ではなぜ魔法があるのに、剣が必要になるのでしょう?
射程外から攻撃できる魔法があれば、わざわざ敵の攻撃範囲に肉迫する意味がありませんし、ゲーム上でも多くは剣戟よりも強力な魔法があります。

答えは簡単、魔法とその術者は万能ではないからですね。
MPがあったり、攻撃に脆かったり、攻撃にターンが必要だったりとゲームバランスとして調整されています。
こういったバランスと取っ払って、完全に魔法が万能であるゲームがもしあったならば、それは剣の価値が認められているゲーム世界そのものが『ウソっぽく』なってしまいます。

ところが小説の場合、こういった魔法無双である狂ったゲームバランスを楽しめるケースもありますよね。
好き嫌いを別にして、なろう系に多い主人公が馬鹿強いチート能力持ちという設定小説。
あれは、それそのものが絶対的強者である主人公を通して安心してストーリーを楽しむという、ある種の麻薬みたいなものだと思います。

わさびさんがサタンさんへの返答で書かれている、
>リアリティがないと恥ずかしい
という一文とは、麻薬で見る幻覚とは真逆ですから、相性が悪くて致し方ないように思います。

ちょっとご質問を分解します。

>中世ヨーロッパだけの史実だと調べたらなんとか書ける気もします。

まず、ここはあまり過信しない方が良いです。
言葉が過ぎるとは思いますが、ちょっと調べた程度では無理です。
大河ドラマ、別に見なくても良いですが、キャストには『時代考証』という役割がありますよね。しかも一人ではなく多人数で役割分担することもあります。
ドラマを作る専門家集団であっても、史実的なことに関しては専門家を召集しなければ考証として満足いくものは作れない、という事実です。
もちろん映像と文字という違いはありますが、読者が行間から読み取れる食い違いをなくすというところは、気配りではなく、熟知のレベルだと思います。

誤解して欲しくないのは『間違ったら絶対にダメ』なのではなく、間違いを減らす努力をしつつ『もし間違っていてもいい』と書いて欲しい。
覚えておいて欲しいのは、大体においてケチをつけるのは『ちょっと知っている人』で、詳しく知っている人は気にしません。
詳しく知っている人は『完璧に作り上げる苦労』を知っていますので、疎かにはできないものです。
文句いわれたら『この半可通め』と、笑い飛ばせばよろし。

仰っている剣がものを言う時代とは合いません。銃の存在する18世紀が舞台ですお勧めを一作。
【スタンリー・キューブリック監督:バリー・リンドン】
予告 http://y2u.be/XjPSGuJskxM
完全主義者の異名を持つキューブリックにして、蝋燭照明の時代を、蝋燭の明るさのままで撮影しスクリーンに描き出すという、映画撮影以前に機材の選定と開発を行った歴史的映画です。
良い映画ですし、私も大好きですが、単純に「面白い映画教えて?」と聞かれて出てくる映画ではないです。
極端ではありますが、時代考証を完璧にするというのは、ある種こういうことでもあります。
大ざっぱにですが、今日とは明確に異なる時代の空気感を取り入れる参考には充分になると思います。

>それにファンタジーを足すとなると、頭が追いつけなくなるんです。

あくまで、ご質問で仰っている『リアル』これを『現実に即したもの』と言い換えてですが。
手に余るなら、ウソというフィクションを少なくされてはいかがでしょう。
『魔法が存在する世界』
この時点で現実世界と異なる超巨大なウソが一つありますよね。
フィクションの魔法にもいろいろあります。
テレポートっぽいもの(物質転送というSF)
攻撃に関する魔法(銃器だったり、爆弾だったりという戦闘アクション)
怪我や病気を治療する回復魔法(医学もの)
きりが無いのでとりあえず三つあげましたが、( )の中は単一で物語のネタ元、ジャンルとなる力を持っていて、魔法という大嘘の枝葉では済まないパワーを内包しています。
言い方を変えれば、回復魔法ひとつとっても範囲が限定的であれ、世界を変容させるだけの力です。
ましてやそこにエンチャントやらアイテムボックスやら、属性なんかを入れると世界に対する影響も併せて多岐にわたります。
ウソが多すぎて「現実に即したときにどう世界が変容するのか?」これに振り回されてしまっているようにも思います。
もちろんウソというフィクションはいくらあっても大歓迎です。
ですが、フィクションの中でのウソはしらけるものです。
フィクション世界を構築する、これと現実世界にフィクションを入れるのは大違いです。
後者であるなら無理のない世界を見せて欲しく思います。

漫画からお勧め作品を一作。
【白浜鴎著:とんがり帽子のアトリエ】
結構な有名作ですが、魔法の扱いが今日的な流行とはちょっと異なります。
昔からある魔法設定のひとつですが、ウソを絞って世界観の構築に成功している好例だと思います。
第一話にあるセリフ『魔法とはかけるんじゃなくて、描くんだ』
これで世界観の全体像を語るという手腕はお見事。
物語の重要な不文律を忠実に守りながら、かなり力の入った第一話です。
タイトル + 試し読みでググるとヒットしますので、まずはお試しで読んでみてください。後々かなり感心するアイデアも出てきますので気に入ったら購入して後悔しないと思います。

>どこの分野が発達してどうなるの?とか。

前項とダブりますが、ワープ的なもの、転移魔法的な代物は超絶的に世界を変容させる代表格です。
現代でもこれ一つで世界がひっくり返りますよね。
もし物語に組み込まれるならば、距離・物量・回数、なんでも良いですが、魔法に対する制限を注意深く作り上げて欲しく思います。

頭の体操にお勧めを一作。
※キモチワルイ系が全くダメなら飛ばしてください。
【デヴィッド・クローネンバーグ監督:ザ・フライ】
予告 http://y2u.be/Z-V3X963DRI
元は【ジョルジュ・ランジュラン著:蠅】という小説です。執筆されたのは1957年という大昔ですが、SF作家ってのは本当にスゴイ。
物質転送機の発明開発中の事故、という『現実に存在しない機器だけど、それが発明されようとするとき、どのような事態が起こるだろうか?』という想像に想像を被せた上に、哀愁と恐怖をスパイスに調理するという恐るべき所行です。
映画としては二度目の映像化になるのですが、一度目の【ハエ男の恐怖】よりも洗練されています。(時代背景もありますし、個人的には”ハエ男”の方も味があって大好きですが)
ネタバレにならない程度に書くと、大きなウソをひとつに絞った好例だと思います。
私個人としては『なんて高度な変態さん!』という感じの監督なのですが、ノリノリの映画では凄まじい能力を発揮し、この映画はその代表格。

最後になりますが、

>良い資料や小説(漫画やアニメ、映画もいいことにはいいんですが、活字に慣れるためなるべく小説がいいです)がありましたら

活字に慣れるのが目的なら、面白い小説は五万とありますので、お好きなタイプを仰ってください。
同時に活字になれるために、書こうとされているジャンルの小説は、私にはお勧めできませんでした。いや、かなり考えたのですが、こういう結果になってしまいました。
理由は大きくふたつありまして、活字に慣れるために同ジャンルの小説を読むと、その作品に引っ張られすぎることを危惧しました。
全く違うジャンルから受けた影響は、そう目立つものではありません。言い方を変えると『パクリ元』みたいな話になりにくい。(それを完全否定まではしませんよ)
もうひとつは世界観の構築という一点に絞り込むと、どうしても海外に目が向くのですが、翻訳の問題があります。
執筆される文体が、翻訳小説のそれ、に引っ張られることを危惧してです。これは実際結構見かけるのですが、読者には『あららら・・・』という感じで伝わっちゃいます。

資料としてではなく読書としてのファンタジーならば、まずは【栗本薫著:グインサーガ】をお勧めします。
30巻までなら王道ファンタジーとして全ての方にお勧めできますし、なにより筆致が頭一つ飛び抜けてお上手です。(ちょっと硬いと感じられるかも知れませんが、言い換えればラノベ読みだけに向いた書き方ではなく、一般文芸の書き方であるだけです)
ラノベならば【秋山瑞人著:DRAGON BUSTER】
中華ファンタジーで(言葉は悪いが)クソ面白いです。
筆致は素晴らしいのひと言ですが、真似できないレベルなので引っ張られることはないはず。
ファンタジー世界の空気感ということならば、ずば抜けてます。

個人的には、ジャンルの違う小説で小説に慣れ親しみ、資料的なものとしてファンタジーに触れるのは映像の方が向いていらっしゃるように感じました。
そういう意味で映像作品からお勧め作を。

【ゲーム・オブ・スローンズ】
紹介するのが気が引けるほど熱狂的ファンが多い作品ですが。
シーズン1予告 http://y2u.be/gcTkNV5Vg1E
泣く子も黙る超絶面白いドラマを連発しているHBO制作です。
タイトル通り王座を巡る話ですが、中世をベースにした剣と魔法とドラゴンが出てくる群像劇といった感じでしょうか。ひと言では言い表せない世界があります。
原作は【ジョージ・R・R・マーティン著:氷と炎の歌】で、もちろん面白いのですが残念ながら翻訳に難を感じます。
ドラマが素晴らしい出来ですので、そちらでどうぞ。
第一話で登場人物の数に面食らいますが、すぐに乗り越えられるはず。
シーズン8で完結してますが、実はドラマ版だけの完結で、故に賛否両論の最終章ではあります。(個人的には満足はできました)
はまると面白すぎて時間泥棒になったり、日常生活で意味も無く『冬きたる』とつぶやいたり、興奮して『ドラカリス!』と叫んだりという羽目に陥るかもしれませんがお許しを(笑)

長くなりましたが、執筆頑張ってください。

カテゴリー : 設定(世界観) スレッド: 中世ヨーロッパで剣と魔法の世界が書きたい

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元記事:新人賞における視点移動について

まだ新人賞に応募し始めたばかりの新人です。
視点移動についてこちらのサイトでも、新人賞ではすべきではないとあります。
私の好きな小説の中にはとても上手に視点移動を活かしている作品(古いですがカスタムチャイルド、塩の街など)もありますが、これらはデビュー後に、ある程度実力を持ってやるから許されるということなのでしょうか。

今考えているお話がダメ男と真面目な女の子の話で、女の子との出会いで男が真面目に戦うという話(簡単に言えば銀魂のような)ものなのですが、冒頭シーンを女の子視点でいかに男がダメ人間かを書き、その後は男視点にして女の子との触れ合いでの心情の変化を書きたいと思っています。
ですが新人賞に送る段階では、男視点に統一して、冒頭も男視点にするべきでしょうか。
自覚しているダメ人間はダメ人間ではない(少なくとも改善の余地があると読者に捉えられる)と思うので、冒頭段階では救いようのないダメ人間を強く押したいのです。そのためには女の子視点のほうが印象強い気がして、視点統一すべきか悩んでいます。
ご意見いただけると助かります。
よろしくお願い致します。

上記の回答(新人賞における視点移動についての返信)

投稿者 あざらし : 1 投稿日時:

サクッと個人的な所見を。

>冒頭段階では救いようのないダメ人間を強く押したいのです。

物語全体、つまり構成の話しですので、視点移動すべきかどうかは避けさせて頂きます。全編通して物語の人称、相応しい方法を選んで頂きたいと思います。
その上でですが、

>女の子視点のほうが印象強い気がして

冒頭部分だけを抜き出すと、視点移動させる方が物語を理解しやすいと思います。
キャッチーであり、エピソードを通して人物を描け、物語に読者を引き込みやすいとは思います。

が、もう一点。
『つっこみ役は読者にゆだねる』という方法もあります。
主人公のダメ男視点で物語を開始するとしますよね。ここで強烈なエピソードを用意してみて下さい。
あくまで心情は男性視点であるし、ダメ男なりの考え方。
そういったエピソードを強烈に仕上げれば、『おいおい大丈夫かコイツ』という考えを読者に発生させることは可能です。

>これらはデビュー後に、ある程度実力を持ってやるから許されるということなのでしょうか。

そうですね。
【塩の街】の有川浩氏が解りやすいと思いますが、デビュー作にしてお見事な物語です。
現在はエンタメ色強めの一般小説を主な活躍の場にされてますが、やっぱりお上手です。(個人的には、もう一歩、あと一歩という期待も強い作家さんですが)
有川氏に限りませんが、ラノベから一般に活躍の場を移行された方は、やっぱり基本がしっかりできてますし、基本が出来ているから移行したともいえます。
(必ずしもそうではない、という例も存在しますけど)

視線移動ですが、そう恐れることはないと思います。
三人称で、章による区切りをつけ、自然な視線移動をされるなら、普通に読めます。
ライトノベル以外の小説では『物語を語る手法』というのは、三人称であることが多いです。
主人公がいないシーンを描くという、多くの物語で頻繁に起こる出来事は、たとえそれが映像作品、映画やドラマ、それどころか漫画であっても文章に起こすと三人称を選ばざるをえないケースがあります。

色々と勉強すべき事は多いと思いますが、まずは三人称の練習をされてみてはいかがでしょうか。
デビュー後も延々と一人称しか書けない作家さんは(否定するわけじゃありません)どうしても新作の選択肢が狭まるでしょうし、いずれ三人称を書くべき、書きたくなる時が来るようにも思います。
物語に相応しい人称を執筆寺に選択するというのが普通で、先に人称が設定されると物語もキャラクターも自由に動かすことが難しいのではないでしょうか。

ではでは、執筆頑張って下さい。
応援いたします。

カテゴリー : 文章・描写 スレッド: 新人賞における視点移動について

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元記事:目が見えないキャラが総じてベタ目なのはなぜ?障害を持ったキャラの萌える造形やシチュエーションとは

 目が見えないキャラって、漫画に描かれるとベタ目として書かれますが、あれっていつ頃のどの漫画が発祥でしょうか。僕も目が見えない人にいくらかお会いしたことがありますが、瞳孔に光がある方はかなりいらっしゃった記憶があります。角膜が損傷していたり、虹彩に問題がある場合はその限りではないかもしれません。

 眼が見えないキャラが漫画に登場すること自体、あまり機会がありませんが、どうしてもベタ目のイメージが付きまとうのはなぜなのでしょうか。そして、ベタ目を使う理由というのは、やはりビジュアル的にわかりやすいというのがあるのかもしれないと愚考します。

 とはいえ、判然としないのもたしかです。皆様の見解をお伺いしたいと思います。

 二問目。

 ベタ目の盲目キャラって、女の子だと萌えると思います。とくに「見る」必要がないので、目をわざと閉じて微笑んでいるときの愛らしさと言ったら!たまりません。少なくとも僕は好意的にとらえています。ビジュアル的に言っても、女の子を書くときにあの描写の仕方をすると、無茶苦茶可愛いです。男の子でも変人キャラに合わせるとギャップがあって面白いと思います。

 個人的には、あんな感じの分かりやすく、かつ好意的な描写が他の障碍者を描写する際にもあれば、もっと受容されるのではないかと思います。(体ではない方に問題がある場合は、外見に一目で見て取れる特徴を安易につけるのは少し難がありますが、やり方さえ間違えなければ効果的だと思います。)

 そこで追加の質問です。
 各障害を微笑ましく描写するには、どうしたらいいでしょうか。ああ、深刻にならないでください。肩の力を抜いて、「こんな障害を持ったキャラがこんなことしたら萌える(あるいは尊い)」と思い付いた事を教えていただきたいのです。

 一例をあげます。

 僕は小学生のころ、スズちゃんという、下級生の女の子と支援級で同じクラスでした。(ちなみにそのクラスは当初僕のためだけに創設されたという曰く付きです。それゆえ、僕は第一期生なのです)
 その子は根っからの性格美人で、とても世話好きでおしゃべりな女の子でした。

 知的障害を持っているなんて気にもならないほど善い子で、ろれつが回らないながらもみんなと積極的に仲良くなろうとする姿は、今の僕が描くキャラクターの造形パターンの一つとなっています。もはや十八番です。

 ある日、彼女は床に転がしっぱなしの僕のランドセルを見つけました。それは自分の本意ではない投稿をしてしまったことへのささやかな反抗だったのです。そして、そこに鉢合わせた僕を見てこういうのです。
 「ぼー、そうがないなー。ばたしがかたつけるかんね(もー、しょうがないなぁ。私が片付けちゃうからね)」

 あの日のことは今でもはっきり思い出せます。彼女のひたむきな姿とお人よし加減にきゅん死しかけましたww

 皆さんも、もし、こういった障害を持ってい「そのひとだからこそ」、キュンキュンしたことがおありでしたら、そちらも教えてください。特にあざらしさん、読みせん。期待してますよ~w(この場合の名指しはいいんでしたっけ?)

 仕事の当事者でも、中間管理職とか、アイドルとか、とにかくどんな事柄や立場の当事者にも言えますが、「笑い話にできる範囲の好意的な誤解」や「微笑ましいフィクション」というのが、その立場に属する人々のイメージに寄り添っているだけで、世界はもう少し優しくれると思うのです。

 もし僕が周りから正しく理解されなかったとしても、どうせ誤解されるなら楽しく笑ってくれた方が、周りも自分も幸せです。それで、実際に出会ってから「もー、そんなのありえないってば~ww」っていつか誰もが笑い合えたらちょうどいいなって思います。

 最近は、小説の描写について考えることが多くなって、たどり着いたのが「デリケートな描写は少し誤解されても気にしなくていいんだ」ということです。肩の力が抜けたというか、一歩成長できたと思います。

 描写は正確に越したことはありません。ですが、僕も、そんな幸せな誤解を与えられる作者になりたいです。

 ですので、ぜひ、皆さんの回答をお待ちしたいと思います。

 それでは。

上記の回答(目が見えないキャラが総じてベタ目なのはなぜ?障害を持ったキャラの萌える造形やシチュエーションとはの返信)

投稿者 あざらし : 2 投稿日時:

期待されるようなことは書けませんが、所感を。

>ベタ目なのはなぜ?

デフォルメであり漫画的記号でしょう。
目が見えないと一口でいっても原因は様々です。
加齢が重大な要因となるものを除いても、症状によって眼球の状態は変わります。
正しく表現するなら、ベタで塗ったような状態より、白濁したような眼球に見えることの方が多いです。(多い少ないで語るはなしではありませんが)
ベタで塗ったような目で表現するというのは、ある種の記号(漫画的)として成立している部分が強いように思います。

このベタで塗ったような目は、漫画的記号でいうと『無感情』も表します。
『目は口ほどにものをいう』とはよく言ったものですが、目というのは感情を表しますので『そこに光を宿さない=感情を宿さない』状態の漫画記号ですね。

>目をわざと閉じて微笑んでいるときの愛らしさと言ったら!たまりません。少なくとも僕は好意的にとらえています。

(目を閉じて)(微笑んでいる)というのが、そのままではないでしょうか。
(感情を表さない記号であるベタ塗りの目)と、(微笑み)という相反する状態を避けるために目を閉じるという状態にしているように思います。

ただ、目を閉じるという行為そのものは記号だけでもありません。
全盲の方が目を閉じるのは、大きくは『空気の乾燥(目が乾かない)』つまり楽だからだそうです。本人は笑って仰っていましたが「(目を)開けても閉じても景色は同じだから」とのこと。
もうひとつは『主に音に集中している』これは日常生活で我々も普通にやりますね。ピアニストは演奏に集中すると上を向いたり、目を閉じたりといった仕草を(おそらくは無意識に)しますが、音に集中するときに視覚が邪魔になるためでしょう。さほど特殊なことではなく、我々も全神経を集中させるレベルで小さな音を聞き逃すまいとするとき、自然と目を閉じます。

さて。
本題を書きますが、私としても大切な思い出ですので若干の躊躇があります。正しく伝わるか解りませんが、ご了承を。

萌えた訳でも、キュンキュンした訳でもなく、友人です。
小学生の時、特別支援学校の運動会に参加したことがあります。学校教育、授業の一環としてクラス全員で参加したのですが、出発前に態々校長先生が教室に来て訓示をしていたことから、おそらく特別に許可を得ていたはずです。
子供ながら感じたことは、担任教師が相手側の学校教師と親しげにしていたので、おそらく先生同士の繋がりが発端だったのでしょう。

先生からは「出来る範囲で手助け」ということを聞かされていましたが、おおよそは応援。
特別支援学校の生徒さんと席を同じくして応援するのですが、率直には楽しくはありませんでした。今思えば、そもそも初めて会った子供同士が教師という大人の介入で「仲良くやれ」というのも無理があります。子供なんて大なり小なり自然発生的に摩擦があり、そこから仲が良くなっていくものでしょう。そういった摩擦もなにもなく、けれど教師の指示で応援するというのは、子供心にスベった感覚だけが妙に強かったことを覚えています。
入学式直後のような、仲良くしようとは思うが、相手がどのような人物なのかと探るような状態が精一杯だったのは、多分クラスメイト皆が感じていたのではないでしょうか。

激しい運動には不向きな子が多いので、玉入れだとか、ダンスが多かったのですが、(おそらくは)メインイベントの徒競走、リレーが始まったときです。
その子は転倒時に危険がないようヘッドギアを被っていました。
ヘッドギアはこの学校の生徒さんでは珍しくありませんが、他の子はラグビー選手のような頭や耳部分だけを保護するタイプなのに、その子はボクサーがスパーリングをするときに付けているアゴまで衝撃をクッションできるものでした。
子供心にそのボクサースパーリング姿が「カッチョエエ」と思ったものです。
足も悪いらしく、バトンを受け取るスタートラインまで片足をずるずると引きずり、それなのに腕は何かを抱くように胴体にピッタリくっつけていました。
動く足の一本でケンケンをし、そのケンケン足と顔だけが前へ前へと急いている。残る不自由な手足は、まるで飼い主を必死で追いかける犬のようだと、不謹慎ですがそう思ったんです。
ほとんど惰性と義務感だったのですが「がんばれ」と叫んだ私の声に、その子は振り返りハッキリと満面の笑みを返しました。

当時から、声は、まあ人並み以上に大きかったので妙に目立ち、またこれが妙な位置関係で座っていた教師が振り向きざまに「おい」と呼び、私に目配せをしてきました。
狡っ辛いワルガキだった私は、クソガキならではの能力で教師の望む反応に敏感でもありましたので、担任が望んでいる展開も理解できます。
当時を思い返すと赤面の至りですが、私はその子に駆けよりましたが、手を引く事が出来ません。そうしようとしても両腕は胴にピッタリとくっつき、どうも手をとると痛みがあるように思えたのです。

手持ち無沙汰になった私は、その子の肩に手を回し、抱き寄せるようにしてスタートラインまで一緒に歩きました。
リレーといってもトラック半周ほどを数人交代で走る競技でした。
生徒によって障碍も、その程度も様々な学校です。速い生徒は既にゴールしていますし、⒉番手3番手の生徒も横を抜けていきます。正直なところ、どうにも居心地の悪さを感じますが、今更その子を放置するわけにもいかず、ずっと肩を抱いてバトンを待っていました。
その子のタスキと同じ色をしたバトンが手渡されたのは、他の全員がゴールしてしばらくしてからでした。

手渡された、と書きましたが、それはバトンで殴られたような具合でした。
前走者に悪気があったわけではありません。
バトンを手渡した前走者の子も、手が不自由で押しつけるようにぶつけるのが精一杯。
私に肩を抱かれてる子も、手で受け取ることができないというだけのことです。

その子が自分で立っていられることを確認し、私がバトンを拾いました。
もうこうなったら一緒にゴールするしかありません。
ところがその子は「んっ! んっ!」と不機嫌そうな声を出すだけで、一向にゴールに向かおうとしません。
目だけが必死に訴えてきましたが、なにがしたいのかサッパリ。それどころか肩を振り回して私の手をふりほどくと顔から地面に倒れ込みました。
慌てて助け起こすと顔の真ん中から下が真っ赤。
倒れたときに、したたか鼻を打ったらしく、噴出した鼻血が校庭にちっこい水たまりを作り、私はわけもなく「ごめん、ごめん」を連呼し、教師はかけつけクラスメイトはどよめき、リレーはそれで終わりました。

というのがあらまし。
これには後日談があり、学校に手紙が届きました。
その子からの手紙だったのですが、ぐにゃぐにゃの字で「うれしかった。ありがとう」あとは、その子の名前が書かれていました。
余計なのは担任教師が私をわざわざ教壇に呼び寄せ、クラスメイトの前でお褒めの言葉と、追加の両親からの手紙を紹介したこと。
要約すると『自分でゴールまでバトンを運びたく、それを持とうとして転んだ。本人は意固地になってしまったことを後悔し謝りたく思っている。相手の両親は大変に喜んでいる。出来れば逢いに来てやって欲しいらしい』
クソガキだった私は担任教師に”後々まで語るであろうネタ”を提供したことに苛立ちはしましたが、ちゃんと謝りたい気持ちの方が強かったので、担任と一緒に相手を訪ねることをその場で了承した次第。
気に入らんかったのは、女の子を訪ねることをクラスメイトが囃し立てたこと。

『できすぎ』と思われるかも知れませんが、本当なので仕方ない。
失礼ながら、手紙の名前を読むまで女の子だったことに全く気がついてなかったんです。
スパーリング用のヘッドギアの印象が強くて顔なんて見てなかったし、髪も短かったし、背もちっこいし、そもそも私自身が思春期前だったので男女をあんまり意識してなかった。
初恋は済ませてたが、これも二次元で、現実では恋知らずの時期。(なんと家にあった美術書に載ってたベアトリーチェ・チェンチの肖像(笑) 不幸な人だがメチャクチャ可愛い。理想のタイプです、はい)

その後、数年間短い手紙のやりとり、いわゆる文通ってのをやりましたが、大切な思い出で友人です。
彼女はお母さんのお腹で事故が起きて、手足と発語が不自由になったのですが、普通の女の子と同じように勝ち気で我が儘で優しくてぬいぐるみが大好きでした。

>ですが、僕も、そんな幸せな誤解を与えられる作者になりたいです。

頑張って下さい。
毎度、視点はよいと思うのです。

最後にお勧め作品を。
【リュックベッソン監督:レオン(完全版)】
完全版を名指ししたのは、この感覚。
公開時とは異なり、マチルダという12才の少女との愛情に踏み込んでます。
まぁ、普通に劇場公開しずらいわな。
『レオンはロリコンかよ!』と非難するのは簡単。
ですが、マチルダというヒロインと愛情を育んだのであって『マチルダがたまたま若かっただけ』という見方、この感覚を掴んで欲しく思います。
たぶん今後の壱番合戦仁さんに、一滴のヒントをくれるように思います。

カテゴリー : キャラクター スレッド: 目が見えないキャラが総じてベタ目なのはなぜ?障害を持ったキャラの萌える造形やシチュエーションとは

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元記事:作中の障碍者の扱いについて。

 どうもこんにちは。壱番合戦 仁です。

 前々から世間で疑問視され続けていた重大なテーマについてお聞きしたいと思います。

 ズバリ!

 『障碍者を使って泣ける話を作って、自慰行為するなッ!!』
 はい、これまんまの話です。障害を持った人が主人公のドラマとか、映画って、見ていてなんか違和感ありませんか?でも、僕からしてみれば、よくよく見るとどう考えても、『疲れた健常者のために作られている』としか思えません。当事者にこれっぽっちも優しくないんです。
 すこし福祉の心得がある人ならすぐわかると思うのですが、当事者からしてみれば『いつも通り生きているだけなのに一挙手一投足に感動すんなよ。ウゼェな』というのが本音なのです。
 特に挙動や振る舞いが健常者にかなり近い(流暢に会話する、空気はそこそこ読める、的外れだけど気を使うくらいはできる、集団行動は訓練したから後天的にできる、身だしなみも気を付けている、常識も気にしている)僕の様な「アスペルガー型」からすると、偏見以外の何物でもありません。
 ああいったものばかりが世に出回っているおかげで、僕たちの認知が一向に進まないのです。実に腹立たしい。
 実際、僕はそういったお涙頂戴物のドラマなど見ません。カナー型自閉症の男の子の恋が【健常者の女性に対して】実ったみたいな話は、制作者の意図が透けて見えて、反吐が出ます。
 また、アニメや漫画での障害の扱いは非常に軽いと思います。例えば、「アルプスの少女ハイジ」。

 クララが立てるようになるシーンは名作と言われていますが、そもそもクララはシリーズの途中で足が完治します。あとは本人が立てるようになるだけなのに、心療内科的な症状で立つことができません。そこを友人であるハイジらが励まし、彼女は障害を乗り越える。これだけならいいのです。この作品はきちんと障害に向き合った上で乗り越える様子を丁寧に描写していたはずです。

 ですがしかし、【本当にそれは、障害という設定を使ってまでやっていいことだったのでしょうか?】

 古来、物語において、キャラクターの『足や腕、または心の機能を取り戻す』というのは、自らの忌むべき過去との対決を意味しました。ですが、現実の多くの障碍者にとって、後天性なら自らの障害にまつわる忌むべき過去はあるかもしれませんが、もう今となってはどうしようもないことなのです。【現代医学では治せない】【ほぼ一生治らない】から障害なのです。「障害を乗り越えるべきものととらえるなど、烏滸がましいにもほどがあるのでは?」と少なからず疑問を覚えてしまうのです。
 僕は『障害を抱えたまま、成長していくこと』については大賛成です。それが本来の障碍者の讃えられるべき生き様だと思うからです。だから僕は、僕の異世界冒険記、改め、「イドラとユクサー」を書いています。
(ちなみに以前の質問で『私はただ夢が見たいだけ』とおっしゃっていた方もいらっしゃいましたので、あくまでその人も、僕も、一意見にすぎませんが)皆さんは障碍者を物語の中心に据える場合、どんな書き方をしますか?また、この命題に皆さまはどんな考えをお持ちでしょうか?

 倫理的な問題につながっているので、参考にしたいです。

 回答を心よりお待ちしております

上記の回答(作中の障碍者の扱いについて。の返信)

投稿者 あざらし : 2 投稿日時:

所感を綴ります。

>障碍者を使って泣ける話を作って、自慰行為するなッ!!

桂香さんも書いていらっしゃいますが、いわゆる感動ポルノですね。
この問題の難しいところは発信者側だけの話しではなく、受け取り側のとらえ方でも変化するという点でしょう。

同じ物語でも、
Aさんは「感動した、素晴らしい作品」
Bさんは「感動ポルノで唾棄すべき作品」
当たり前の出来事です。
本質的には、ですが、作品に対する評価ですから、それは作品を味わった人それぞれが判断することです。
障害を扱うということに特異性を持ちやすいだけで、本質的には、あくまで根っこの部分としてはどの作品も変わりはありません。

もちろん例外『中身以前に大前提として首を傾げる』というのは存在します。
感動ポルノという言葉を日本で広めるきっかけになった番組でもありますが【24時間テレビ】ですね。
本当に募金を募ることが目的のひとつにするならば、
『TV局はCMによって得た収益を寄付』
『お金の流れ、システム的に必要となる広告代理店も収益の一部を寄付』
『出演者はボランティアでまかなう』
これを満たすべきですが、そうはなっていません。ゴールデン30秒のCM料金がおおよそ1000万ですから、募金金額が2億やそこらでは、収益が目的の商売だと思われても仕方ない。

内容も、個人的に品位があるとは到底感じられない作り、はっきり言えば下品ですが、個人的な拒否感と社会的意義は別枠で考えるべきだと思うのです。
『番組の存在により募金したであろう人の存在』
『番組がきっかけとなり、障害者の存在を意識したであろう人の存在』
この存在がゼロで無い限り、社会的意義もゼロではない。
「1000を1200にする」ということより、「ゼロを1にする」ということは遙かに困難ですから、人の行動のきっかけになる限り、手法を完全否定することも私は出来ません。
いかな手法、自己矛盾を孕んでいてすら、受け取り側である視聴者によって肯定されれば、その結果が単純に社会通念上でも『善いこと』になっていくのではないでしょうか。
感動ポルノ、これそのものが現象を指す言葉であって、特定の作品を示すべきではないと私は思うのです。

>また、アニメや漫画での障害の扱いは非常に軽いと思います。例えば、「アルプスの少女ハイジ」。

そもそもアニメのハイジは子供向け番組として作られています。
物語の内容が全て理解できなくとも、幼稚園にあがる頃には十分に楽しめますし、元々はそういった幼児でもみることができ、小学生になれば話しの隅々まで見ることができるように作られています。

アニメは1970年半ばの作品です。
今日でもそうですが、小学生にせよ幼児にせよ、日常生活で「歩けない人」に接する機会がどれぐらいあるでしょう? 
もちろん祖父母が車いすを使っているならば、それなりに機会があるでしょうが、そうでなければ街中で見かけるだけで『ほとんど存在を認識していない(実感できない)』という場合もあるでしょう。
視聴者からすればクララという『同年代であったり、お姉さんの年齢で歩けない人がいる』ということをアニメを通して実感する、これは大変に意味のあることだと私は思います。
ハイジはクララと初めて合ったとき「歩けないの?」と聞きます。大人だったら聞きません。
でも、子供であるハイジは聞くのです。
残酷であると受け止めることもできますが、真実の意味でフラットな反応と受け止めることもできますし、見ようによっては確かに軽いと見ることも出来ますね。
いずれにせよハイジにとってはクララを特別視するためではなく、今後の『日常』としてスタートだと思います。

>本当にそれは、障害という設定を使ってまでやっていいことだったのでしょうか?

私は子供に見せるアニメとして、障害者の存在を隠すより、よほどよいと思います。
クララが歩けないのは原作の通りです。
原作で歩けないクララが、アニメでは歩けることになっている。
こうなってしまうなら大問題でしょう。

>「障害を乗り越えるべきものととらえるなど、烏滸がましいにもほどがあるのでは?」と少なからず疑問を覚えてしまうのです。

ハイジの場合を先に書きますが(作中で明示されていませんが)転換性障害、機能性神経症状症、ひょっとすると脳の機能障害(もしくは併発)かも知れませんし、お嬢様でかごの鳥状態ですから日光の不足、ビタミンD欠乏による”くる病”かも知れません。
原作が書かれた19世紀だと、ひっくるめてヒステリーと呼称されてもおかしくありません。(日本語での語感、感情をコントロールできなくなっている状態、の意味とは異なります)
ぶっちゃけ当時も快癒する可能性がありますから、周囲と本人が治って欲しいと思い、それに伴った行動をするのは至極真っ当だと私は思います。
治る可能性が感じられる限り、そりゃ周囲も乗り越えるように手助けするでしょう。
ハイジもそうしていたと思いますよ。(ペーター、だったかな? 車いすを壊してしまうという行動も心理としてよいメタファーになっていたと思います)

さて。
個人的に、健常者は障害を持っている人を特別視するのではなく、そういった個性であると認識するべきだと思っています。

そう特別なことだと思わない方が良いと思うのです。
当たり前ですが、嫁さんは私より力がありません。
『男性に比べて女性は重労働には向かない』という産まれ持った性差による個性です。
ですので買い物に行ったら荷物は私が持ちますし、階段でベビーカーを苦労して持ち上げている女性がいたら『持ちましょうか?』と声をかけます。

目の不自由な方は『視覚情報に頼ることができない』という個性です。
ですので『私が代わりに見ることで助けにならないか?』を訪ねます。
同じことなんです。

昨今、アメリカでは障害者のことを先天・後天性に関わらずChallengedと呼称する文化が根付いてきています。
これは単純なポリティカルコレクトネスとは明確に異なります。
今日的には差別用語より若干マシ『(少なくとも公的な場では)つかうべきではない言葉』になっていますが、それ以前は障害者を意味するDisabledpersonやHandicappedです。
日本でなら外来語としてのハンディキャップですね。
スポーツ等でも使いますが『不利な条件』を示します。
つまり『健常者を平均としてのハンディキャップ』であり、人間に使うにはあまりにもネガティブです。

Challengedというのは、無理矢理日本語にすると『(神により特別に)挑戦する資格を与えられた人』です。(言葉の背景にキリスト教の価値観が関わります。あの国は、あの科学技術をもってして、人口の半分が進化論を拒否するぐらい生活の基盤で神の存在が普通のことです)

この言葉の重要なところは、
健常者にむいては『ネガティブに特別視するな。かわいそう、それが差別が無くならない理由』
障碍者にむいては『(神に特別に選ばれた)チャレンジドであることに誇りを持って生きよう』
こういった意味を内包しています。
健常者が乗り越えろと考えているのではなく、障碍者自身の望みでもあると私は解釈しています。

不慣れな土地で道に迷っている人と一緒。
自分で解決できそうな人に案内を買って出るのは不躾ですが、困っているならば助けるべきでしょう。
『自分で解決すべき』とは思いませんし、かといって『過干渉すべき』とも思いません。
道に迷っている本人の意思、本人の自由で判断することを、案内人は尊重するべきだと思います。
チャレンジドの方にも同じスタンスで行動すべきだと私は思います。

>皆さんは障碍者を物語の中心に据える場合、どんな書き方をしますか?また、この命題に皆さまはどんな考えをお持ちでしょうか?

私は執筆しない単なる読者ですので、その視点で書きます。
障碍に限らず、万人に画一的な答えを当てはめられない問題は世に五万とあります。

例えば、死刑制度。
賛成派・反対派が存在する以上、扱いが難しいですよね。
いずれの発言にも納得できる部分はあります。
もちろんケースバイケースによって異なりますし、問われたタイミングで答えが変化することもあります。

こういった万人が画一的な答えを持っていない題材を扱う場合、
ストーリーは登場人物を利用して可能な限りフラットに。物語を通して読者の心に発生した感情を作品のこたえにする』これがベストだろうと思います。
著者が発表した時点で、それは著者の手から離れ、個々読者にとっての作品に変わります。結論部分は読者にゆだねてよいのではないでしょうか。

品がないと感じるのは『制作者により予め用意された解釈による結論の押しつけ』
この結論を『感動』にすれば、安っすい邦画によくあるパターンです(笑)
こういうのは、鼻で笑い飛ばすぐらいしか反応できません。
こんなの態々時間を使って読ませるな、という話しです。

一本だけおすすめ映画を。
先日も放送していましたが【この世界の片隅に】
原作の同タイトル作品【こうの史代著】をかなり忠実にやってますので、漫画で読んでもよいと思いますが、アニメもよく出来ています。
安っすい著者や監督がやると、『鼻で笑い飛ばすしかない』題材を、流石の手腕でお見事に調理しています。

カテゴリー : 創作論・評論 スレッド: 作中の障碍者の扱いについて。

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元記事:キャラクターポイントを一言で表すには

キャラクターが置かれている社会的な状況や精神状態を瞬時に理解させることができる、あるいはストーリーと組み合わせることで劇中の動作の具体的な様相を説明することのできる、道具などを配置する方法を教えて下さい。

アニメーターやゲームクリエイターの人達は、状況でキャラクターを説明するのが得意だと思います。

例えば、キャラクターに似合ってない高そうな時計を装備させる事で「親はそのキャラクターのために高いものを買うが、子供本人のことを見ていない」ということを暗示したり、
あるいは、足が悪い子供の寝ている病室の棚の上に靴を沢山置くことでキャラクターの願望を表現したり、といったようなことですが、

アニメーターさんの修正原画(?)には所々「このキャラはこうなのでこの部分はこうするとそれっぽい」というようなことが書いてあったりして、普段からそういうことを気にしているように見えます。

そこでですが、こうしたことを小説でもやりたいと思っていて、何をしたら(あるいは、何を読んで、どのような訓練をすれば)そうした発想をすることができるのか、教えて下さい。

一応自分でもキャラクターを組んではそのキャラクターのやりそうなことを考えていますが、未だ上みたいな水準には到達できていません。

上記の回答(キャラクターポイントを一言で表すにはの返信)

投稿者 かにさん : 0

小説技術の本ではありませんが、下記の書籍は参考になるかと思います。

仕掛学―人を動かすアイデアのつくり方/松村 真宏
表現の技術―グッとくる映像にはルールがある/高崎 卓馬

モノの形質や形状が人間の認知に与える影響や方向性についてかかれています。

より詳しくはアフォーダンス理論を勉強するとよいかと思います。

カテゴリー : 文章・描写 スレッド: キャラクターポイントを一言で表すには

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投稿日時:

元記事:ハーレムもので「衆道」の導入はアリか

ハーレムものをそれまで半ば食わず嫌いしていたのですが、少々気が変わって執筆・制作に挑戦してみたいと思っております。

この話の特色として考えていた要素として、一つはハーレムメンバーをメタ的には使い捨てにする(一部を除き後半にかけてフェードアウトさせるという意味)という前提でとんでもない数にしている事、そしてもう一つは主人公は男(同性)にも何人か手を出す予定だという事です。
ストーリー上は所謂「男の娘」の加入から初めて、後半にかけて筋肉質な人物とも…と段階的に慣らしていこうという心づもりです。

動機としては、神の生まれ変わりたる主人公の超然とした在り方を表現したいみたいな意図があります。
範馬勇次郎が最近「毛深いオッさん…どころか全人類が性対象たりうる」という設定が出てきた事にヒントを得ており、自分自身「女しか興味ないのはなんか凡人臭い」と思ったからです。

後はまあ…「ウケ狙い」という側面は否めないかもしれません、衆道の導入しかりなのですが、この話の主人公は「(神側の人格が出た時のみとはいえ)人前でフルチンになっても平気、どろこか自分から脱ぐ」等読者の自己投影を無視して濃ゆい味付けをしすぎたきらいはあります。
ゼウスやスサノオのような「良くも悪くも癖の強い神様」というイメージだったのもありますが、正直やり過ぎかなという懸念もあります。

一応、サンプルとしていろいろ読んだ上で考えた事ではあるのですが、またズレた事をしていないかという懸念はあります。
「ハーレムもの」としては如何なものなのでしょうか。

上記の回答(ハーレムもので「衆道」の導入はアリかの返信)

投稿者 ちくわちゃん : 3 人気回答!

タイトルを
【狂人が書いたハーレム物語】
とでもすれば成立するので良いと思います。

たぶん、バッキーさんは商品ではなく、
作品を作ろうとしているのだと思います。

自由気ままに行けば良いと思います。

カテゴリー : キャラクター スレッド: ハーレムもので「衆道」の導入はアリか

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投稿日時:

元記事:温度差

こんばんは。
一ヶ月も書けないで居ます。新入部員との温度差を埋める事を考えてもなかなか書けません。駅伝のアニメも始まり参考になるかと思い見てますが私の想像とは違う感じです。諦めて普通に書くのもネタも少なく困ってきてます。何か助言をお願いします。

上記の回答(温度差の返信)

投稿者 三文山而 : 0

 「新入部員との温度差」とは作品の内容の話ですかね?(そういえば過去にそのような相談をされてましたね……。)

 かつてアレクサンドロスの指揮する軍隊やモンゴル帝国の騎兵たちは手強い相手に出くわした時すたこらと逃げて姿をくらましました。そして側面や背後、その他敵の弱点となる部分を見つけ出して撃破したのです。彼らはそうやって世界を征服しました。

 要するに、書きあぐねているところは一旦置いといて他の部分を書き上げてしまいましょう。あるいはプロットを見直してみたりとか他のことをやりながらインスピレーションが下りてくるのを待ちましょう。

 あとはネタが少ないということですから内容が近そうなものだけでなく単純に評判が良かったり面白そうなものを気晴らしも兼ねて色々見るのが良いかと思います。
 優れたエンターテインメント作品を色々見ていればそのうちに全然関係ないと思っていたアニメのワンシーンがきっかけで良いアイディアが浮かぶかもしれません。

カテゴリー : ストーリー スレッド: 温度差

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