しかさんへの返信
元記事を読む
しかさんへ(元記事)
まず、初めに一つ。
枝さんとしかさん、お二人の意見に同意できることが一つだけあります。それは、
◎望みを持てば必ずかなえられるわけではない。
ということです。もっと正確に言えば、
◎望みを持ち、なおかつそれに向かって努力したとしても、必ずかなえられるわけではない。
これが私の基本的な現実認識です。
>ここには作家になる夢を持った人が集まりますから、生まれや環境を努力で補えないことを認めたくない人が多いのかもしれません。
という意見には、一部同感です。
ただし。
努力のやり方と量によっては望みの達成にある程度近づける可能性はあるので、諦めきれないのなら努力してみる価値はあるんじゃないの? とも考えています。
* * *
ちょっと話が脱線しますが、作家になれるという夢を抱く人が増えた背景には「なろうの功罪」も関係しているかもしれません。「書籍化」という甘い言葉が、誰でも簡単に職業作家になれるという幻想を振りまいているように見えます。
しかし作品が一つ書籍化されただけで、小説一本で身を立てていけるわけではありません。
もちろん趣味で小説を書き、ある程度の人に読んでもらえれば満足だという人も大勢いると思います。
ただ、中には。
「あなたはなぜ小説を書くのですか?」という問いに、「負け組の人生から抜け出す一発逆転を狙っている」と答えた方を見かけたことがあります。
本気でそう考えているとしたら、きわめて危険です。
* * *
話をもどします。
>私は自由意思は存在しない派なので、もし同じ考えでなければどこまで話しても平行線になりそうです。
自由意志の問題は、たぶん一生議論しても結論は出ないくらい奥が深いですよ。
「自由意志は存在しない」という見解は、「未来は過去~現在の因果律に縛られ、ゆえにすべて決定している」という考えに行き着きかねないのですが、そういうお考えということでよろしいでしょうか?
>他に恵まれていたなら弱音を吐くこともないでしょうし、他があるという考え方では解決にはならないと思います。
「他がある」というのは前提となる現実認識を述べただけです。それが何かの解決になるとは主張していません。
>私が根性論と指すのは「行動すれば見返りがある」「望み通りにいかないときにも必ず選択肢はある」という考え方です。
私の文章をもう一度読んでみてください。行動すれば「必ず」見返りがあるとも、望み通りにいかないときにも「必ず」選択肢はあるとも、どこにも書いていないはずです。
>どんなときでも行動の仕方としてあげておられる4つのいずれかは必ず可能だという考えならそれは根性論だと思います。
これも同じ。色々な方法があると言っているだけで、それによって「必ず」何かの成果が得られるということではありません。
私の文脈にしかさんが勝手に「必ず」という言葉を付加してしまっています。それゆえ根性論のように見えてしまったにすぎません。
>>諦められるなら別に努力しなくてもいいのです。
>スレ主さんは努力しても届かないと思っていながら諦めることもできなかったためにここに書き込まれたのではないでしょうか。
私もそう思いますよ。
>>他人を羨むということは、現実的な背景があって心情的には理解できても、結局あまり役には立たない「雑念」でしかないんじゃないかと。
>その「雑念」の一言で一蹴することは根性論ではありませんか? 少なくとも冷たい考え方だと思います。
根性論ではありません。冷たい考え方ではあるかもしれませんね。
しかし繰り返しますが私は「現実認識」の話をしているにすぎず、それを冷たいと感じるのはしかさんの情緒的な印象にすぎないのではないでしょうか? (こういうことを言うところが冷たいのか。笑)
>不幸なときほど「いまはそれでかまわない」と言ってもらいたいです。
よくわかりますよ。
ですが、私はカウンセラーではないのです。
私とて相手の言葉や意見に多少の異論を感じたとしても、その時の相手の気持ちを考えてまずは苦しみを和らげる配慮をすることはあります。しかし、このサイトは人生相談をする場ではないので、ただ慰めるだけで終わってしまっては意味がないと思うんですよ。ですから言葉を選ぶことはありますが、多少なりとも創作に関わるアドバイスを加えるように心がけています。
なので、質問者の考えている前提に異論を感じた場合は、なるべく傷つけない言葉で違うと考えていること自体は伝えようとしています。
(ついでに言うと、当方の考えの方が必ず正しいと思っているわけでもありません。私の考えがおかしいと思ったら、遠慮なく反論してほしいです。意見交換がしたいのです)
>>作家としての視点と仰るからには、小説の題材としてはよいという話になりますが、それでよろしいですか?
>それならば同意できます。
>すみませんがよく分かりませんでした。
すみません、ちょっと言い方が回りくどかったかな?
言いたかったのは、
>作家であれば、認めたくない現実を直視しその不幸の渦中にある人に寄り添う視点こそ大切ではないでしょうか。
こう言われると説得力がありますが、
>人間であれば、認めたくない現実を直視しその不幸の渦中にある人に寄り添う視点こそ大切ではないでしょうか。
と言い換えても違和感がないのでは? ということ。
ひねくれたことを言うようで恐縮ですが、「作家であれば」「人間であれば」の部分に「教育者であれば」とか「成熟した社会人であれば」とか、何を代入しても成立してしまうんですよ。
だから、どうして作家であることと結びつけるのですか? と質問してみたかったのです。
……まあ、「作家を目指しているなら、その程度の人の気持ちを理解しろよ」と言いたいのかもしれませんが。理解した上で、どうするかだと思うんですね。「傷の舐めあいをしたい」と言われて「じゃあ、舐めあいをしましょう」でいいのかなと。
もちろん「傷の舐めあい」という言葉がやや聞こえが良くないだけで、苦しんでいる人への寄り添い方にも色々あることは承知です。私はそういうやり方はとらないというだけです。
* * *
一旦、私の考えをまとめておきます。
1)学者としての見識や教養があることが、小説を書く上でさほど重要な要素だとは思えない。
2)小説に限らず望みの達成は、才能と努力と運の3つがかみあった時に得られる。
2-a、環境が有利に働くのは運の一部。
2-b、運は当事者の意志でコントロールできない要素なので、これが介在するということは「必ず得られる」は有り得ないことを意味する。
3)努力すれば何かが「必ず」達成できるとはかぎらない。しかし努力は唯一当事者の意志でコントロールできる要素。そして努力の方向や量によって目的への距離を縮めることはできると思うので、諦めきれないのであれば努力してみる価値はある。
*3の「努力は唯一コントロールできる」ということについては、最初に触れた「自由意志」の問題に関わりますね。
ちなみに私見では自由意志そのものは存在します。自由意志によって現状や将来を変えられるのか変えられないのかが、議論の分かれるところなんじゃないかと。
究極的なことを言うと、自由意志否定派の最も極端な考えは、過去も現在も未来もすべて決定していて人間は何をやっても無駄だという見解に行き着くんじゃないでしょうか?
個人的には、まだそこまで言い切るのは早いと思います。
しかさんへの返信
投稿者 しか 投稿日時: : 0
諦めなければ可能性はある、というのは私も同じ考えの上で書き込ませてもらったつもりでした。枝さんもそれを分かった上で、可能性の低さにたえかねての書き込みだったと思っています。
自由意志に関しては脱線になるというのもあってちょっと言葉足らずでしたが、おおざっぱに言って決定論者だと考えていただいてかまいません。
ただちゃんと勉強したわけではないのであまり突っ込まれると返事に窮します……矛盾があったり、これから勉強して考えが変わることもあると思います。(しかもいま見返すと字が間違ってましたし)
いまの考えとしては、意志と呼んでいるものは結局のところ環境(状況というべきか)に突き動かされて決定するのだから、決まっているも同然かなと。未来が見えない(起きていない)ために未来が決まっていないように感じるのではないかと思っています。
「なにをしても無駄だから行動しない」というより、「なにをしても無駄と考えて行動しないことを選択することが必然」という考えです。なにをしても無駄かどうかはやってみるまで分からないという。(王道の決定論でしょうか?)
今回の議論に関して言えば、環境(状況)に抗うことはできないから運命は変えられないけれど、行動が無駄になるかどうかは行動するまで分からないという考えです。
No.28への解答
>あらかじめ1の行動(逃げる)をとると決まっていたとします。その場合でも、あなたは何もしないでボンヤリしていてもいいことになりませんか?
なにもしないでボンヤリしていたら私の選択は3(なにもしない)になってしまいませんか?
逃げると決まっているなら、私は逃げるのだと思います。
それが環境に突き動かされラプラスの悪魔が導いた選択だとしても私には判断がつきません。
私は「意志」も事象の一つだと思うので、決まっているのは私の行動にとどまらずどんな気持ちになりどう考えるかも含めたすべてと思っています。それらすべて一律に、現実に起こる事象と捉えています。
もともとこういう風に考えたのも「さっきの行動をやり直せるのか」という疑問からきています。もし時間が巻き戻っても、私と私をとりまく環境も同じ状況に戻るなら、やり直したところで私は他の行動をとったのだろうかと。もし私が他の行動をとったならそれはなにかが私に影響しなくてはならないのではと。
それと一応……スレ主さんに共感したのは決定論からではなく、私の経験(広い意味で、体験だけでなく見てきたものも含む)に基づく人生観からです。もちろんそれが決定論に繋がるので無関係ではありませんが、決定論が先ではないことを言っておきたくて。言うまでもないかもしれませんが。
>「必ず」何かの成果が得られるということではありません。
>私の文脈にしかさんが勝手に「必ず」という言葉を付加してしまっています。それゆえ根性論のように見えてしまったにすぎません。
「成果が得られる可能性のある努力の方法(選択肢)は必ず残されている」という前提で「努力するかしないか」と話されているのだと解釈していました。成果に必ずと付与したつもりではありませんでした。
読み返してみるとあまくささんの意見はたしかにシンプルな現実主義ですね。ちょっと斜め読みになっていました。
……しかしその現実を理解しておられる方に、重ねて「これしか道はないからやる(あるいはやらない)しかないよ」と言うのでしたら根性論に思えます。
なんというか……「考え方を根性論と言ったのはズレていたけれど、見解は変わらない」といったところです。
「雑念」云々に関して。
少なくとも冷たいと言いましたが、雑念と一蹴することはやはり、冷たいだけではなく実のない根性論だと思います。心と現実(状況)は切り離せないものではありませんか?
というより区別できないものかと。
不安や嫉妬の感情はどんな行動をとれるかという選択肢に大きく関わる重要な状況の一つで、「無視すればいい」で解決できない、現実を構成する要素だと思います。感情は見えなくても作用しているのに、その作用を無視すればいいで押しきろうとするならやはり根性論になりませんか?
>私はカウンセラーではないのです。
>このサイトは人生相談をする場ではないので(以下略)
ここが真剣に小説を書く人の集まる小説のための場所だからこそ、スレ主さんはここに書き込まれたのでは?
スレ主さんは人生相談ではなく小説の相談をしておられたと思うのですが。
書くのを諦めたのではなくて、書きたいけれど気持ちがついてこず、考えた突破方法がここで相談して共感を得ることだったのだと思います。そうならばスレ主さんの求めていた傷の舐めあいは停滞ではなく創作を続けるための解決策なので、アドバイスをするのならまずはそれを受け入れてからではいけなかったのかと。
創作を続けたいからこそ、いっときの上っ面だけの優しい言葉ではなく本物の共感を求められておられたのだと思います。
(私はタイムリーに書いていた短編がまさに「生まれ」を扱うものだったこともあり、解決策ではなくシンプルに共感して書き込んだのですが)
>「作家を目指しているなら、その程度の人の気持ちを理解しろよ」と言いたいのかもしれませんが。
私が注目してほしかったのは「寄り添う」ではなく「現実を直視」の方だったんです。寄り添うは勝手にくっついてくるおまけです。
たとえばネットで不幸な目にあった方の相談に対して「あなたにも落ち度があったから仕方ないことだ」という返信をよく見かけます。現実は不均衡ですがそれは受け入れがたいので、「否定したい」という気持ちに自然に傾くせいだと思っています。落ち度があったからといって不幸な目にあわされて当然なんて、よく考えたらちょっとおかしい。けれど実際には相談者が一方的に責められている場面をよく見かけます。
しかし責めている方は相談者を責めているのではなく、自分を守っているのだと思います。理由があったから不幸な目にあったのだ。だから自分は大丈夫と。要は別の安全地帯にいると思いたい。もちろん責めている本人はそんなこと考えているつもりはないでしょうが、心はたしかにそういう風に働いたはずです。少なくとも私には幾度も覚えがあります。
今回の皆さんの返信を読んだとき、私は少なからずそういった心の傾きを感じました。というか今回に限らず、この板を含めた多くの相談に対する返信に、いつも感じています。
だからそういう意味で「現実を直視」と書いたのです。不均衡な現実を直視すれば自然と寄り添うことになると思い、「寄り添う」と加えました。
>何を代入しても成立してしまうんですよ。
>だから、どうして作家であることと結びつけるのですか? と質問してみたかったのです。
なにを代入しても成立することが「作家にとって大切」に相反するとは思えないのですが……それを言うとあげ足とりになるでしょうか。
前の返信に書いたとおり、一般論というよりは私の理想になってしまいますが……
要は「心のフィルターに逆らって現実を直視しなければご都合主義な薄っぺらい小説しか書けない」という主張でした。
空想のものを作るのに現実を知っていることが有利に働くのは言うまでもないですし、そこでいかに現実を真正面から見ているかが、他の人に書けない「差」を生むと考えています。
普通は心を守ろうとするので、それに逆らった現実を描くことは読者に簡単に予想できない大きな衝撃を与えることになるのではないかと。衝撃が必ずしも好まれるわけではないですが、エンタメでは有効な要素だと思っています。
それに現実というのは一番目立たず説得力のある伏線だと思います。
ここからは私の理想ですが。
なにかを発信するということには責任を持つべきだと思います。発信すれば必ず傷つく人がいます。なにかを発信することはなにかを肯定することで、肯定の裏には否定があるからです。ぬるい観察眼のもと書かれた小説は、誰かのおかれた現実を軽んじることになると思います。傷つけるなら相応の誠意は示すべきだというのが私の考えです。
>「傷の舐めあいをしたい」と言われて「じゃあ、舐めあいをしましょう」でいいのかなと。
私はいいと思います。心が求めることは健康な状態へ戻るのに必要だから求めるものですし。一見、建設的ではないように思えますが、心の求めるものを無理をしてこらえる方が疲弊するだけの無駄な努力ではないですか?
まして今回はスレ主さんの建設的な思いからの要望だったのでなおさらです。
私はこんな人間なので聞こえが良くないとも思いません。カラオケややけ食いと違ってコストもかかりませんし、なにがいけないのか。はたから見ていると嫌な気分になる、それが一番引っ掛かっていることではないでしょうか。そうだとしたらはたから見ている元気な人よりどん底な気持ちで助けを求めている人を優先するのが道理だと思います。
あまくささんの考えをまとめたものに関しては、おおむね異議ありです。
しかしすでに自由意志のくだりで私の基本的な考え方は述べているので繰り返しになりますから、ここは省略させていただきます。
カテゴリー : やる気・動機・スランプ スレッド: 変えられない生まれや環境を補うにはどうすればいいか(作者に嫉妬してしまう)