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作品と作者の人格 (No: 1)
スレ主 甘粕 投稿日時:
良く作品と作者の人格は分けて考えろ、とは言いますが、Twitterなど素が垂れ流しになっている現代だと、呟きなどの印象からどうしても読むのが無理になってしまったり、なかなか分けて考えるのは難しいと最近良く感じます。
良く交流していた物書き友人もフェミニストばかり叩いているのを見てしまってから読めなくなったりしました。
皆様は分けて考えられるタイプですか?
それとも分けては考えられないというタイプですか?
また上記の友人の様に執拗に誰かを叩いている人にどの様な印象を持つでしょうか(私の心が狭いだけでしょうか?)
色々な考えを聞いてみたいです。
カテゴリー: その他
この質問に返信する!作品と作者の人格の返信 (No: 2)
投稿日時:
>皆様は分けて考えられるタイプですか?
>それとも分けては考えられないというタイプですか?
それは何とも言えませんが、
1)嫌な性格の作者が書いた面白い小説。
2)立派な性格の作者が書いたつまらない小説。
どちらを読みたいかと聞かれたら、1ですね。
ただこれは、世間の評価よりも作品を信用するという私の価値観も多少反映しているかもしれないので、必ずしも分けて考えているのではないかもしれません。
それと私はTwitterのような感覚的な短文より、長文を信用しますね。無意味な長文ではだめですが、無駄なく端的に説明できていても、真意を正確に伝えようとするとどうしても長くなります。
>また上記の友人の様に執拗に誰かを叩いている人にどの様な印象を持つでしょうか(私の心が狭いだけでしょうか?)
叩く内容が正当か不当かによります。
作品と作者の人格の返信の返信 (No: 8)
投稿日時:
嫌な性格、がこうなんと言いますか、まだ笑って済ませられる範囲だったらいいんですが。文豪とかは無関係で読めるんですよ。
長文で何か表現出来る場所が有れば、そちらを私も信用しますが。
友人の発言に関しては、若干いじめっぽく正当性は余り感じません。有名な漫画家さんが炎上した際に無関係なツイートをしてたりするレベルなので
作品と作者の人格の返信 (No: 3)
投稿日時:
自分は全く気にならないタイプです。
>また上記の友人の様に執拗に誰かを叩いている人にどの様な印象を持つでしょうか?
人格としては「うーん」かもしれないですけど、だからと言って作品とは無関係ですし。正直どうでもいいです。『絶歌』とか犯罪者の書いた作品とかも何の先入観もなく読めますし、自分の嫌いな思想をした人の本も時たまに読んだりしますが論理的に説明されている部分に関しては理解もしますし、同意もしたりします。(読んでいて疲れはしますが、自分と違う思想に触れれば、まあ、あって当然のストレスと思います)
逆に、どうして気になるのか知りたいです。なぜそれが作品評価に影響を与えるのでしょうか。感覚的には理解できないです。『作品を読む=その人を応援する』という意味付けがあったりするからとかでしょうか? それとも『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。坊主崇めりゃ袈裟まで綺麗』なのでしょうか。
作品と作者の人格の返信の返信 (No: 7)
投稿日時:
作品と作家の考えは密接に関係しているから、というのが理由です。ただ、時代のかけ離れた文豪などは問題なく読めてしまうので、あくまで現代に限定した話になります。
私は絶歌とか読めないタイプですね
作品と作者の人格の返信の返信 (No: 12)
投稿日時:
追記です。
本を読む=応援する、その人の利益になる
というのも理由です
作品と作者の人格の返信 (No: 4)
投稿日時:
〉良く作品と作者の人格は分けて考えろ、とは言います
【作品を評価するときは】の話ですよ(*・ω・)ノ
作品と作者の人格の返信の返信 (No: 9)
投稿日時:
ありがとうございます。
余り評価する立場というよりかは、純粋に読者としての視点なので、今回の質問はちょっとズレてしまった感じがありますね。
作品と作者の人格の返信 (No: 5)
投稿日時:
自分は度が過ぎたら気になりますね。不適切発言をすれば楽しみにくくなります。逆に良い主張をすれば、その作者の作品をもっと読みたくなります。
普通に読む場合は作者のことは気になりません。作品に没頭す
れば、作者の存在は頭から消えます。が、作者が不適切な発言をしていると知っていると、そもそも没頭できなくなります。
作者には最低限のモラルは身に付けていてほしいです。
作品は作者の人格を反映するものなので、例えば作者が不適切な発言をすると、「今はよくても、この人の次の作品はこんな感じのメッセージが出てくるのではないだろうか」と身構えてしまいます。あるいは、「文章では綺麗事を言ってるけど本心ではこんなこと考えてたんだな」と冷めます。
キャラクターや作品のテーマに善悪が関わることは少なくないですから、作家が不適切な発言をすると作品に対する期待値が下がりますし、過去に読んだ作品の見方も変わります。読めなくなることもあると思います。
悪を描く作品、倫理をかなぐり捨てる作品もありますけど、型を破れるのは型を身に付けている人だけだと思います。
僕は、何かに対する正当な批判や主張だったらどんどんやっていいと思いますし、怒りをぶちまけようが下品だろうが構わないのですけど、文章で何かを表現しようという人が、少なくとも作家として活動するための場所で、自分の発言が不適切なことに気付けないのは、書き手としての腕を少々疑ってしまいます。
(作家は人格を隠せと言っているのではないですよ。全然発言して構わないですが、酷い人のは読まないってことです)
それに、モラルに限らず、作品を深く知りたいなら、作家の個性って大事じゃないですか?この作者は若いころ苦労したからこのテーマなんだなとか。作品の分析に作者の経歴とかからアプローチすることもありますし。作家の個性を考えながら読むのは、おそらく二回目以降、分析的に読む場合になるのでしょうけど。
作品と作者の人格の返信の返信 (No: 10)
投稿日時:
大体の意見が一致します。
(すみません、名前が打てない)
私も正当な主張であれば許せますし、こういう考えだから作品にはこう上手く反映しているんだな、という楽しみ方も出来ますし、むしろそういうのは好きだったりするのですが、友人はとても正当な主張とは言えず、フェミニストがなんたるかも理解していないまま、大勢が叩いているから叩いていいんだ的ないじめっ子の考えです。
名前が知られていないプロは大した作品作ってない、みたいに少々創作家として疑う発言もしていたりします。
時代が離れた文豪とかは、性格や経歴など深いアプローチが出来ると思うのですけど、現代の特にTwitterを頻繁にやっているとかは個性というよりノイズが強い感じがするのです。
作品と作者の人格の返信 (No: 6)
投稿日時:
他の方が書かれていますが、作品を評価するときは完全に分けて考えています。
作品は作品。人柄は人柄。
作品にとってその人の人柄はどーでもいいしね。
ただ、事前にクソ野郎だと知っていたら、そもそも読むこと自体に躊躇するのはあります。
ものすごいクズな芸人みたいな感じ? マイナス印象から入ってるのに人を笑わせてくる芸人は凄いよね。
人としては嫌いだけど、この人面白いな、みたいな。でも嫌いだから率先して出演番組を見たりしないけど。って感じ。
>友人の様に執拗に誰かを叩いている人にどの様な印象を持つでしょう
創作をしてる人には、割とあると思うよ。
それもあんま書いてないアマチュアなんかには。
だから、私はだいたいそういう人にはこう言います。
「その主張は作品ですべきこと。あなたは創作家でしょ」
作品の中でフェミニストを叩きまくってる、あるいは作品自体がフェミニストを叩く内容の本で、それを書いたというなら、これは創作家として正しく評価するよね。
そんな風にSNSなんかで主張しまくってるのは、言っちゃなんだけど「作品を書くよりSNSで数行だけ書いたほうが楽」だからで、表現の場が「小説」じゃなくなってるんだよね。
だから「書かない作家」に多いと思うし、なので私はそれを指摘することにしてる。
すごいムカつく人がいたとして、その人の悪口をどっかに書くくらいなら、創作の中でムカつく人を登場させて惨たらしく殺してしまったほうが創作家としてはずっと健全だと私は思う。
ま、それを言ったら究極的にはこうして返信してる自分の主張もまた作品でやれよって話になっちゃいますけどね。
作品と作者の人格の返信の返信 (No: 11)
投稿日時:
芸人さんの例えがすごくわかりやすいです。事前にクソ野郎だと知ってしまう確率が今は高すぎて分けて考えるのが難しくなっているというのが正直なところです。
友人は書かないタイプではないです。
10万、40万文字単位の作品を書いていて、Web小説賞の一次を通っています。だから実力はあると思っているんですが、Twitterなどの発言で足元をすくわれないかだけ心配で。
ただ作品にはフェミニストは何もかすってないです。正当性はほとんどないです。
作品と作者の人格の返信 (No: 13)
投稿日時:
そもそもツイートもリツイートもなんなら作家ごとブクマも、ひかえています。
その人の嫌な部分さえ知らなければ、気持ちよく読んでいられたのに・・・ってなると、【この作家の足を引っ張りたい】という人間の思惑を感じます。
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あー・・・『黒子のバスケ』とか『進撃の巨人』とかの作品って個人的には「大して面白いと思えない」作品なんですが・・・・・・わざわざ作者やファンに粘着し、ディスるほどでもないつもり。
叩くために綿密に理解したい!とも思わないし、それに時間を割きたくない。批判ツイート読むくらいなら、その時間で本のページを開きたい。
友人とかと、そうなったら相互を一回はずす?かな。
「悪い、こういう批判系ツイートを見るの、気分的に辛いんだわ」
「【俺のために自由な意見を止めてくれ】っていうのも違う気がするし・・・一旦、相互をはずさせてもらうね(m´・ω・`)m ゴメン…」みたいな。
作品と作者の人格の返信の返信 (No: 14)
投稿日時:
Twitterはやってないのですが、連絡は断ちました。呟きを見つけてしまったのは偶然で。それによって足を引っ張るというよりも残念な気持ちと、余りにも人への尊敬が足りない姿勢に怒りを覚えたのです。作品は文章力も恐ろしく高くて一部の人に刺さるだろうと思っていただけに落胆が大きくてですね。
私も嫌いな作品には労力は割かないですね。
作品と作者の人格の返信の返信の返信 (No: 15)
投稿日時:
たかがラノベ作家ごときなのに、批判が俳優やミュージシャン並みですよね~。
収入とか、どれだけ差があるかは知らないけれど、バッシングは平等なんて・・・(;´∀`)
純愛系の歌を歌っていた人が、不倫騒動で歌ごと売り上げがダウンみたいなノリで、作家の吊し上げが始まりそう。
ネットワークが繫がれば繋がるほど透明な存在ではいられない的な?
作品と作者の人格の返信の返信の返信の返信 (No: 16)
投稿日時:
そのくせ自分が何か言われると 表現の自由だ。迷惑だ! って叱り飛ばしてやりたい気持ちがありますよ。
大体そんな感じです
作品と作者の人格の返信の返信の返信の返信の返信 (No: 17)
投稿日時:
話変えちゃいますが、
ちゃんと観ていないんでアレですけれど、アニメーションの『ユリ熊嵐』が、そんな話じゃあありませんでしたっけ?
人食い熊と少女たちが争う世界で、少女学校に熊のスパイが現れて、ついでに透明な嵐(荒らし)が吹き荒(すさ)ぶ・・・・・ような違うようなやつ。
荒らしや批判って透明で、そこに人間性や個が無くて、なんか小学校の終わりの会とかの『女児による吊し上げ』感があってすごい閉塞的な【恐怖】感があるので・・・・・「他人事」とか「エンタメ」としては悪趣味だと知りつつ割と好きな題材です。
魔女狩りの告発者みたいな、他人事の正義を振りかざす喜び。弱いものをいたぶる楽しみ。犯罪者を紋切り型の正義で断崖に追い込む遊び。社会性を笠に着た【邪悪】
匿名性を悪用したネットの炎上って、すごく女性的だと思う。男性はわりと【正義】を振りかざすのに対し女性は【正当性】で侵食する感じ。別に誰も悪くないのに、ミノタウロスの皿に乗せられていく感?怖いです。
作品と作者の人格の返信の返信の返信の返信の返信の返信 (No: 19)
投稿日時:
すみません、アニメなどはわからなかったので共感できませんでした。小学校の例えも余りピンと来ず、申し訳ないです。
ネット自体性別余り関係ない(関係あるところもありますけど)と思っているので炎上に関してもステレオタイプな二元論で当てはめるのも少々無理があるのではないかと思います
作品と作者の人格の返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信 (No: 21)
投稿日時:
アニメーションとかは、断定的な言葉をつかう小説と違い【同じ感想を抱かせない】という面で、観る価値はあると思ったりもします。
上記のアニメ電波系SF哲学っぽかったですし。意味不明すぎて【ユリ熊嵐 考察】とかもザラにありますから。
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私はユリ熊嵐というアニメーションに【創作活動における同調圧力と炎上、暴走】を重ねていたので、いろいろ思う所が出るわー。という感覚です
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二元論はwikiってきました。善悪二元論の方はちょい違うニュアンス。梵我一如系なら近いですね。
世界(梵)の中には私(我)がいて、それがさながら一つの如(ごと)し
・・・・ゆえに私こそが世界の法律である!!(極論、しかもやや電波)みたいな全能感がネットだと出やすいよねー。くらいのノリで、&そういう恐怖を知覚できない事が怖いよね!!って言いたい感じです。
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甘粕さんは失望している(のでしょうか?)
尊敬に値するはずの友人氏の、尊敬に値しない言動を見てしまい、今までの敬意がひっくり返って憎悪や怒りになりそうで苦しんでいる(のか?)そういう潔癖な所がすごく【少女チック】だと思っちゃう。
友人氏に正義の鉄槌を下す、透明な粛清者になりかけてないよね?大丈夫そう?みたいな解釈ですね。
作品と作者の人格の返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信 (No: 22)
投稿日時:
あ、二元論は男女二元論の方です。
言葉足らずでした。すみません。
女々しいとは良く言われるのですが、少女チックと言われてしまうともう何も恥ずかしくて相談出来なくなってしまいます…。
そうですね、失望というか
なにやってんだよ、作家になろうとしている人が……みたいな呆れた気持ちもありますね。作品、ここの批評掲示板にもあるんですけど、凄くこだわりのある世界観で(若干人を選ぶ部分)誰にも真似できないオリジナリティに加えて文章力があります。ここにいる人達にぜひ読んでもらいたいです。大好きだったんですよ、その小説。
互いにアドバイスや感想を言い合う仲でしたので余計に気持ちの揺れ幅が大きく、自分の抱いた感情にも相手にも怒りがありますね。私みたいな馬鹿ごときが制裁などできませんので、そんな事はみじんも思っておりません。
作品と作者の人格の返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信 (No: 23)
投稿日時:
あるいは少女という年齢の層がやたら【男性的な要素】が強くなりがちで、それを感じてしまっているのかも。
あの時期に一気に二次性徴が進みすぎて「アンバランスな子」って男女ともに多いですから。
少女っていう時期は、少年期と違い、ある種の異様な雰囲気があるんですよね。
好きな声優や俳優の結婚に怒り狂い、狂信者だったのが一転して苛烈なアンチになったり、【クラスタ】と呼ばれる無法集団になって暴走したり迷惑行為を行ったり。同調圧力でえげつない制裁を行なったり・・・・・少年より少女の方が凶暴で苛烈で、破滅的な極端さがある。
ヒロインに究極性を求めすぎる如月さんとか、主人公に万能性を求めすぎる金村さん、そして友人に失望し憤(いきどお)ってしまう甘粕さんとかは、憧れや崇拝が行き過ぎて「対象が一ミリでも自分の理想から外れてしまう事を許せない」少女の潔癖さに似ていると思うんですよ。
心理学における【投影】あるいは【同一化】っていうんですっけ?
好きだからこそ憎んでしまう理想取りでないことに癇癪をおこして固執してしまう。そんな感じ。
少女をテーマにした作品はそういうのが見どころだと思う。試しに読むと、今だからこそ共感できて造詣が深まると思います。
個人的には入手しやすさと手軽さから梨木果歩の【エンジェル・エンジェル・エンジェル】とか推したい。
作品と作者の人格の返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信 (No: 25)
投稿日時:
少女性ではなく、多分発達障害の同一化しやすい所が出ている可能性があります。
それに関しては然るべき機関に相談するとして。
男も女も異性の感覚な私にとって
そういう少女の特異性みたいなものも余りわかりません。怖いなと思う時はありましたけど。
ありがとうございます
作品と作者の人格の返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信 (No: 27)
投稿日時:
あくまで「読むせん的に」は【少女っぽい】所がある「気がする」ってだけなので、正解かどうかまでは知らないですね。それこそ男女二元論じゃないわけですから。「へー、俺ってそーなのかなー?(鼻ほじ)」くらいでお願いします(;´∀`)
作品と作者の人格の返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信 (No: 28)
投稿日時:
わかりました。
そういうふうに考えた事もなく
非常に新鮮でありました
作品と作者の人格の返信 (No: 18)
投稿日時:
これは客観的な側面と主観的な側面があるんじゃないかと思います。まず客観的な面から少し。
1.客観的な損得
少し前に、発行巻数も10を超え、アニメ化も発表された商業出版ラノベで、作者のSNSでの中韓に対するヘイト発言が掘り出され(それも数年前)、数日でアニメ化中止、原作出版も無期限停止になったことがありました。
これは「表現の自由」と絡めて語る向きも多かったように思います。が、出版、アニメ化は商業行為です。企業は損失になると見たら撤退するのは道理です。作者の自由を守って、従業員を犠牲にすることはできません。
その事例で何がまずかったかと申せば、私見ですが、アニメは中韓と深く関わることが理由の1つであったと思います。まず中国ですが、人口が多く、潜在視聴者数は膨大です。アニメは利益が出にくく、アニメータなどのクリエイターに報酬で報いることが十分ではありません。
中国でのアニメ放映は多大な商業的利益をもたらし得ます。ハリウッド映画などでも、中国人の役柄を加えることが多くなっているのも、世界展開での観客動員数を考慮してのことだそうです。アニメだって同じでしょう。作者が中国ヘイトを垂れ流していた、ということは、つまり客を罵倒していたということになります。それでは儲けようがありません。やらないのも当然です。
韓国については人口が日本よりずっと少なく、視聴者数的にはあまり稼げないでしょう。しかし、アニメ制作では深いかかわりのある国です。本格的に協業を始めたのが、調べてみますと、1967年の「黄金バット」、翌68年に「妖怪人間ベム」です。これがヒットし、以降、途切れずにアニメ制作の協業が続き、深まりもしました。
日本に来て仕事をしている韓国系クリエイターも多い。非常に不幸なことですが、京アニ放火殺人事件でも韓国系クリエイターも亡くなっています。作者に韓国ヘイト発言があれば、制作陣に動揺が起こることはリスク要因となります。アニメ制作者は過重労働が多く、しかし報酬が低いわけですから、他へ移ってしまうことはあり得ます。避けられるのも仕方ないことです。
上記は1事例ですが、作者が不特定多数、特にターゲット視聴者、制作協業者に対するリスクの高い行動をすると、メディアミックス展開どころか、原作自体が潰れてしまうことだってある、ということになります。ですから、不特定多数向けで成功したければ、嫌われやすい言動、行動は避けておけ、となります。
(逆の事例もありまして、普段の言動だけでなく、作品自体も多数から嫌われるものを作っている人もいます。ニッチながら安定した支持を得る戦略と思われます。)
作者の戦略と言動が不一致なら、「そういう行為は作者さんの将来を潰すぞ、やめるまで読まない」と告げるのもアリでしょう。ただ、作者が「いや、ニッチな市場で生きていくつもりだ」と言い出したら、それまでですが、
あるいは、作者の言動が反社会的であるような場合もあります。そういう作者の作品を読むことは、反社会行為を支持することになりかねません。商業出版なら、作者の反社会的行動に資金を与えることになる。積極的に読まない、買わないという選択もアリでしょう。
2.主観的な好悪
主観的なものだと、申し訳ないんですが、スレ主さん含めて、人様のことは分かりません。内面までわかるのは自分自身しかないからです。以下は、スレ主さんの事例に該当するかどうかは全く分かりません。それでもご参考までに、回答している自分自身の経験を申し上げているだけ、とお受け取りください。
普通は、作品Aを読む、という意識で読むんじゃないかと思います。作者が誰かは、読書中は意識していない。最も多い、普通の読書の態度と思われます。人によっては、作品はすぐ有名になるが、作者が誰かを知ってもらうには10年かかる、なんて言ったりもするようです。
別のケースもあります。作者Bが書いた作品Cを読む、という意識で読むこともあります。これは、作品Cを通して作者Bを見ている状態です。作品Bが割とどうでもいいことすらあります。著者が著名人であることをウリにするのはよくあることです。これは小説に限りません。
例えば、AKB48の歌曲は、聴くとAKB48のメンバーやパフォーマンスを思い出す、感動が甦る効果があります。つまり、歌曲だけを評価していない。もし歌曲自体が好きなら、他のもっと歌唱力のある歌手・グループのカバーがヒットするはずですが、ヒットどころか、そもそもあまりないのが傍証でしょうか。AKB48メンバー・パフォーマンスと歌曲がセットで受けているということですね(おそらく、戦略的にそうなるようにしていそう)。
作者名を意識した途端、誰かを叩く行為を思い出して不快なら後者であり、もともと、「○○さんが書いた作品」という影響を(おそらく無意識に)受けていた可能性も考慮すべきでしょう。
さらに「誰かを叩いているから」が本当の理由かどうかも、よく考える必要がある。例えば、よく見聞きするものに「○○さんは臭いから嫌い」というものがあります。経緯を調べると、(別の理由の)嫌いが先にあって、その嫌いな人の臭いを理由にするようになった、という事例が散見されます。
逆の事例が、人ではなくて食べ物ですが、例えば納豆。最初は臭いが嫌い、食欲が失せると言っていた人でも、例えば健康にいいはずだからと食っているうちに好きになることがあります。好きになると、納豆の臭いがしたら食欲が増すということも起こる。これは、慣れる以外に、納豆を食べた後の体調の変化も(無意識に)感じ取っての変化らしい(このことを「美味しい」が分かるのは食べた十数時間後だ、と表現する人もいたりする)。
そのように、好き嫌いなんて容易に逆転することだってある。主観的なものである上、理由を誤認することも、変化することも、よくあるということです。「○○は自分が好きな漫画キャラを女性蔑視だと不当に非難した叩いた。だから○○の書いたものなんてもう読めない」と感じたとして、本当に「叩いた」ことだけで嫌いになったかどうかは怪しい。
前から嫌いと思う点があったかもしれない。むしろ、あるのが普通です。ある他人について、どこを見ても好きだ、少なくとも嫌いでないなんて、あり得ない話です。どんな他人でも、基本的にその人自身のために生きているのであって、自分が気に入るように行動・言動の選択、果ては人格形成しているはずがないですから。
他人は、おおむね八割がたは自分と異なり、二割がたは共感できる。異なる八割がたのうち、二割くらいは相容れない。そういう傾向があるように思います。そうなると、さらにややこしくて、自分的には嫌な話にたどり着くしかありません。
ある他人のある行為を見て、その人の書いたものが嫌いになったとして、その「ある行為」を気にしているのは、他ならぬ自分です。その他人が、自分の嫌なことを見るのを無理強いでもしたら話は別ですが、そういうことはあまり起こらないでしょう。
つまり、たいていは自分の選択のせいであるわけです。他人の嫌な面をわざわざ覗き込んで、嫌だ嫌だと愚痴っている状態ということです。例えるなら、カメムシを自分の鼻先で潰しておきながら、臭いじゃないかと怒っているような状況です。
といったことを申し上げると、「じゃあ気にしなければいいのか」となりそうですが、そうではないです。それは自分にはできません。嫌なことは、思い出したくなくても、気になります。一種の警戒ですから。警戒は生存のための本能の一部です。取り除くことはできません。気にしまいとすると、かえって強まることすらあります(嫌な記憶に注意を向け、反復強化してしまうとかです)。
ですが、「嫌だと思っているけど、根っこには嫌な面を見に行こうとする自分自身に理由の一端がある」と意識することはできます。
そう思っても読めなければ仕方ありません。読まないだけの話です。楽しみたいのに苦痛のほうが大きかったら、何をしているのか分かりません。もし作者は依然として嫌いであっても、作品への嫌悪感が減じて読めるようになったら、儲けものです。読めばいい。
加えて、「自分の創作のための勉強だ」と思える場合は、ある程度は自分の嫌悪感を客観視できて、きちんと読むこともできやすくなります。
以上、繰り返しですが、全て私自身の話です。自分の個人的な経験でも、もし参考になるならと書いてみました。
作品と作者の人格の返信の返信 (No: 20)
投稿日時:
ありがとうございます。
非常に参考になりました。
偶然とはいえ、嫌な部分を見てしまった自分の責任というのも重々感じております。
客観的な損得に関しては当然の事ですね。
また読めるようになれば嬉しいですが。
(身近な友人だったという所も今回大きいと思うんですがね)
作品と作者の人格の返信 (No: 24)
投稿日時:
気に入っている絵師がTwitterをメインに活動していながら、絵を出すアカウントでそのまま政治について云々しだすと「頼むからアンタは自動描画マシンでいてくれ…」と思うだけに気持ちはよく分かります。
自分のスタンスとしては内心どう思うかはともかく「分けるべき」と考えております、特に作品が面白いなら都合よく忘れてしまおうと考えてますし、上記の絵師もポリティックな発言についても基本無視しております。
些細なことで楽しめるものが減ってしまうのは損だと思いますので。
ただそれにも限界が来る時があるとしたら、叩いている対象への憎悪や嫌悪を自分の作品にまで持ち込んで、尚且つそれが然程面白くない場合ですね。
件の友人の作品に例えるなら、フェミニストを模したヴィランを作中に登場させて、単に醜悪で愚鈍な悪役としてやっつけられるだけという展開を採用したら、でしょうか。
そういう状況に陥っている場合大抵作者がただ鬱憤を晴らしたいだけという事が多く、今後に期待できなくなるというのがあります。
結局は成果物次第、と言った所でしょうか。
出来上がったものが日頃の言動の「臭み」を感じさせないのなら無視しますし、逆に成果物まで自分の怒りや憎しみで台無しにするようなら、成果物諸共非難したい所ではありますね。
作品と作者の人格の返信の返信 (No: 26)
投稿日時:
物語の中に若干歪んだものが入ってきたりした時に限界がきましたね。
確かに成果物次第な気がします
作品と作者の人格の返信 (No: 29)
投稿日時:
元Vedaです。
過去の偉人や現代の著名人も、何か世間的に素晴らしいことをしていても、性格やプライベートではクズ……なぁんて事は多々ある話で。
個人的に一例を挙げるならば、昔の偉人では野口英世、現代だと2012年に芥川賞を受賞した小説家の田中慎弥氏。
田中氏は芥川賞受賞の記者会見で、「芥川賞をもらっておいてやる」発言した時は、こいつクセ強すぎ。嫌なヤツだなぁ〜と思っていましたが、賞を取るぐらいだから素晴らしい作品を書いているのでしょう。
数年前までは甘粕さんのように、例えば作者が嫌いだと作品も嫌い……と、分けて考えられなかったのですが、去年から分けて考えられるようになりました。
「完璧な人間などいない」という事を悟ったんです。
(そういう風に考えられるきっかけは長くなるので割愛します)
多分人って、何か素晴らしい作品(小説に関わらず)やモノなどに触れると、この作品を創作する人ってどんな素晴らしい人なんだろうと期待を寄せ、まるで非の打ち所が無いような完璧な人間を無意識のうちにイメージしてしまうと思うんです。
ですが、現実のその人を見て落胆する。
でも、どんな素晴らしい作品を創り出す人だって、どんなに素晴らしい功績を残した人だって、私たちと同じ弱い心も汚い心も持っている人間なんですよ。
そう思うと、なんか人間って面白いなぁと思うようになってきました。
ただ、人対人なので、相性が合う・合わないはあるかと思います。
私も、どうもこの作家の(人を叩く)人間性は好きになれないから作品も今はもう好きになれねぇな。と思う人はいます。
かつては好きでその人の作品をたくさん読んでいたのに(笑)
でも、10代後半の頃その作品に出会ったおかげで、凝り固まった思考がその人の毒(?)によってうまい具合中和され、今の私が居ると思うと、「あの時あの作品に出会ってよかった(今は嫌いだけど)」と思っています。
今、読みたいと思うものを読む。それが1番だと私は思うんです。
読みたく無いものをいやいや読んでも、身にならないと思うんですよね。
ライトノベル作法研究所管理人うっぴー /運営スタッフ:小説家・瀬川コウ:大手出版社編集者Y - エンタメノベルラボ - DMM オンラインサロン
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作品と作者の人格の返信の返信 (No: 30)
投稿日時:
これまた微妙に違う話かもしれませんが。
俺は『作品の面白さと作者の人格』は全く無関係だと考えますよ。
例えがアレですが、正直ネット上とか漁っているとパクリ小説とか『著作権ダイジョーブ!?』って言いたくなる作品とかちょくちょく目にします。
俺個人としては『差別主義者は滅べ!』(これもまた差別)と思っていますが、それは其れとして極端な差別主義者の言っていることは一貫している場合があって、文章として考えるとすごく面白かったりします。(滑稽、ではなくですよ)
正直言って、中国が作ったパクリアニメが日本の原作より面白いこともありますし、ヒトラーの『我が闘争』を読んで部分的ながら『気分はわかる』と思う時もあります。
良い作品かどうかと、どんな作者・制作背景があるのかは関係ありません。
ただ、それでも気持ちの上では難しいことがあるのはわかります。
そう言う意味で言うと『ツイッター絶ち』とかは有効かもしれません。
どんな作品であれ、娯楽品である以上は『読者を楽しませよう』という思いがあって作られていることを覚えておくといいかもしれません。
宗教的な発信であれ、人気に便乗したパクリ作品であれ、承認欲求を満たすための作品であれ、『人に楽しんでもらう』ことで、『知ってもらいたい』『買ってもらいたい』『認めてもらいたい』意思があるだけです。
人に楽しんでもらう、という思いそのものはきっと純粋なんだと考えれば結構楽しめるものですよ。
作品と作者の人格の返信の返信の返信 (No: 32)
投稿日時:
Twitterは精神衛生に悪いので、やってはいないのですが(偶然見てしまったという感じです)、確かに面白ければまだマシなのかもしれませんね。
人に楽しんでもらう観点から、という考えが少し抜けていましたね。
ありがとうございます。
作品と作者の人格の返信 (No: 31)
投稿日時:
作っているゲームの会社とかシリーズもの続きものの順番
声優から、監督まで一切気にしたことは無い!
おっぱもイーディーも見ない。