「ざまあ要素」は重要かなとの返信
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「ざまあ要素」は重要かなと(元記事)
最初の相談を、もう一度読んでみました。
>僕は今最も書きたい作品がありまして、それを書くには、ライト文芸的な書き方を習得しないといけないと感じています。
>そう考えると、心理描写に作為的なものを感じるのは非常にまずいと思っています。
>恣意的な心理描写になってしまったり不自然な心の動きになってしまうのは避けたいのですが、どうしたら読者に「作為的ではない」「テーマにストーリーを飲まれない」書き方ができるか。
>教えていただければと思います。
1)なろう系
2)ライトノベル
3)ライト文芸
4)大衆小説
5)中間小説(社会性・人間の掘り下げなどシリアスな要素を持つ大衆小説。娯楽と純文の中間という意味ですが、最近はあまり言わなくなったかな)
6)純文学
これらに優劣はありません。それぞれテクニックが異なり、そのテクニックに優劣があるだけです。
他の区分けとして、
A)読者に爽快感をあたえる。
B)読者に思考をうながす。
これも創作の出発点として、大きく分かれるところです。
1・2・4はA型、6はB型、3・5はA・B両方の要素をもつということになるのかなと。
示されている金木犀さんの作品は5に最も近い気がしました。3のライト文芸は、まあ主観なんだけど、少し読み味が異なるような。
でですね。
「ざまあ」「予定調和」「主人公補正」
これらは1~5には必要な要素だというのが持論です。異なるのは扱い方と強度のみ。
純文学だけはこの3要素を徹底的に排除しようとする姿勢が強く、かなり異質です。しかし、3と5はBを前面に出すとしても、ベースにはAが必要だと思うんですよ。爽快感には「悲劇的なカタルシス」も含みますが、いずれにせよ読者を楽しませることを忘れるのは絶対にNG。だって、それじゃないと読んでもらえないもん。
で、示された短編には、「ざまあ」「予定調和」「主人公補正」がすべてそろっていたと思います。
理由。
他のキャラの悪い点を抽出して配置しています。単純に落としているわけではなく上手く書かれていたとは思いますが、テーマに誘導するために配置されていることが見え隠れはします。そして、
主人公への誤解 → 誤解していたキャラの一人がやらかしてしまう
という流れをつくっていました。これは明らかに「ざまあ」です。「ざまあ」というほど毒々しくはないのですが、仕組みはそうなっていました。
>「優しい人って、うぅ、自分のこと優しいって、うぅ、言わないね」
この言葉の使い方は確かに秀逸だと思いますが、そのまんま、テーマと一致しているところが気になります。ストーリーがこの言葉に行き着くように書かれていて、実際に行き着くという「予定調和」です。
そして主人公を軸にしたエピソードがすべてそこに着地するように構成されているので、
>・「主人公を救うためだけに書いたストーリーを読まされている」
という感じになります。「予定調和」とも重なりますが、読者というのは「視点人物」に親近感をいだいて同情的になりやす傾向があるんですね。それが「主人公補正」です。
繰り返しますが、ライト文芸・シリアス寄りの中間小説であっても、この3要素を上手く取り入れるのは重要なテクニックだと個人的には思うんですよ。
ただ、なろう・ラノベはそれ一本槍でもいいですが、ライト文芸・中間小説はどちらかというと隠し味的な使い方が求められるのかなと。
ただ、3要素を軽視したり拒否したりするのはエンタメ小説としては失格だと個人的には思うんですね。
なので、前のレスに、
◎「ざまあ」については、提案ではなく、どちらかというと注意をうながしたつもりです。
◎もちろん本作を「ざまあ系」に寄せるのは、無理でしょう。
と書きましたが、
「提案していない」を「強く推奨はしない」に訂正させてください。
内在する「ざまあ要素」をよく見極め、効果的な部分は積極的に利用してもいいのでは? という意味では「提案」でした。
あそこでは、ややこしい言い方をしてしまってすみません。ざまあ系にする・近づけるではなく、ざまあ系の利点を上手く利用するということでもあります。
また、
A)読者に爽快感をあたえる。
B)読者に思考をうながす。
で言うと、ライト文芸・中間小説は、「Aを軽視せず、Bを盛り込む」のがよいと考えています。
プロットで誘導してすんなりテーマに着地するだけだと、Bにつながらないんじゃないかなとも思いました。
御作では、作者が読者に見せようとしている主人公の内面に「誤り」が無さすぎるような気がしました。
なので主人公も他のキャラをどこかで誤解していて、それに気づいて「虚をつかれた」というエピソードを入れるなどの方法が考えられるかなと。
作中では主人公にとって都合の良い言葉に対して「虚をつかれた」と書かれており、違和感がありました。
そこを改善するための方法の一つとして、ムネさんあたりを上手く使うなどが考えられるかと。
>「……この前、悪かったな」
>「はい?」
からのパートに少しそういう雰囲気があったのですが、十分ではなく、あれだとやっぱり作者が主人公を擁護しようとしているだけとも感じられました。
今まで気がつかなかったムネさんの意外な一面を見て、主人公も反省したというようなことがあると、物語に奥行きも生まれ、「主人公に都合が良いだけ」という感じも消えるのではないでしょうか?
「ざまあ要素」は重要かなとの返信
スレ主 金木犀 投稿日時: : 1
あまくささん返信あざっす。
他の方の感想を書いて燃え尽きていました。
1)なろう系
2)ライトノベル
3)ライト文芸
4)大衆小説
5)中間小説(社会性・人間の掘り下げなどシリアスな要素を持つ大衆小説。娯楽と純文の中間という意味ですが、最近はあまり言わなくなったかな)
6)純文学
→そうか、なろう系ってラノベという括りではないんですね。
僕としては、ラノベの延長線上にあるものだと思っていました。
あと、中間小説って、具体的なものってあるんですか?
いわゆる純文学というものは、昔の小説を指すんでしょうか。
たとえば夏目漱石とかって、当時ではたぶんめっちゃ軽い部類の作品ですよね? それでも今では純文学という括りになるのかな。
芥川とかも、河童とかはかなり難解(統合失調症の話ですよねあれ)ですが、羅生門とかはエンタメって感じがします。
時代が古くなるだけで純文学になる説。
たとえば現代では朝井リョウとか、吉田修一とか、重松とかは、わりと人間心理の深さとか書くと思うんですが、大衆小説になるのかな。村上とかは純文学?
考え始めると混乱してくるんですよねそういう括りって。なにをもってエンタメ、爽快感と別個にするのか。
どの小説にもそういう要素はあるし、なかったら売れなくない? って思っちゃう。
●御作では、作者が読者に見せようとしている主人公の内面に「誤り」が無さすぎるような気がしました。
→たしかに、そうかもしれません。芥川とかめっちゃ自省してるし、太宰さんとかもそうですよね。生活めちゃくちゃだけど、ああいう人が書く小説って偽りない本心を書こうとしている感はあります。今作もそのつもりでしたが、なにかと自分に都合が良いと言えばそうかもしれません。
本作は文芸よりに書くことを意識しました。
ラノベ文芸というには、おっしゃるとおり、キャラクターの造形が甘いし、売りも見えないですよね。
しかしキャラクターとかは、あとでなんとでもなりますが、心理描写の癖(自身の偏見)に関してはなかなかどうしてセンスというものが必要な気がしますね。
主人公の内面を付き、矛盾を描く。そういう部分が必要だった、というのは腑に落ちました。
そうですね。それを書く必要があったと思います。
執筆お疲れさまでした。
カテゴリー : 小説の批評依頼 スレッド: テーマに飲まれていると感じさせないための技術