たぶん、これが最後です
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エンタメを目指すのか、文学を目指すのか(元記事)
暴走気味の議論に返信していただき、有難うございます(本心)。
スレ主様にも他の方にもご迷惑かとも思いつつ、この件については少しこだわりたい理由がありましたので、ご容赦ください。
しかしこれ以上論じても平行線かと思いますので、一応最初の本題に戻って私なりのまとめを。
>「自己紹介パート」その他、設定を説明するための段落はそもそも必要なものでしょうか?
エンタメならNO(不要というより、基本的に無い方がいい)。純文学ならYES(必要な場合がある)。
一言でいうなら、これが私の結論です。
エンタメにおいて冒頭の設定説明パートがマイナスになるのは「つかみ」の問題であって、それ以上でもそれ以下でもありません。ただしエンタメではつかみは死活的に重要です。中盤~終盤がいかに素晴らしくても、そこまで読んでもらえなくては無価値だからです。
純文学の場合は考え方が違います。冒頭において前提を説明する必要があると判断される場合は、まどろっこしいというだけの理由でそれを排除してはいけません。その結果ほとんど読まれない作品になってしまったとしても、少なくとも無価値ではありません。
純文学でも「ついて来られない読者はついて来なくてもよい」という姿勢の是非は問われるところかとは思います。作者側に伝える努力は必要でしょう。
それでもエンタメと純文学とでは真逆というほど考え方が違う部分があります。そして、どちらが優れているということもありません。
ジャンルに貴賎なし。
次に、尺の問題。
>「自己紹介パート」その他、設定を説明するための段落はそもそも必要なものでしょうか?
短編ならNO(不要というより、基本的に無い方がいい)。長編ならYES(必要な場合がある)。
エンタメでも純文学でも、短編なら核心に近い部分を切り取って構成することは強く求められる技術でしょう。
一方で長編はスロー・スタートの方が適していることが有り得ます。ただエンタメの場合は「つかみ」の問題と抵触するので、多くの書き手が悩むところだと思います。そこは作者の腕の見せ所でしょう。
純文学とエンタメは作品の作り方がかなり異なります。別物と言って過言ではないほどです。純文学・ラノベ・アニメを比較した場合、近いのは同じ小説である純文学とラノベではなく、ラノベとアニメだと私は思います。
兵藤さんに質問したいのは、文学寄りの作品を書きたいのか、エンタメを目指していらっしゃるのかという1点です。
いくつかの実作を拝見したかぎり、ラノベとは少し違う気もしますが一般のエンタメ志向だとは思えるんですね。このスレと前の女ボスの相談も、最初の質問はエンタメ方向と思えました。
ですからエンタメを前提にして意見を述べたところ、やりとりをかさねるうちに純文学寄りに話がずれていく感じがしたので、そこにやや戸惑いました。
エンタメか文学かと杓子定規に線引きはしなくてもいいですが、やりたい方向性がエンタメ寄りなのか文学寄りなのかは明確に意識された方がよいのではないかと思います。
そこがぶれていると、アクセルとブレーキを同時に踏むようなことになりかねないからです。
たぶん、これが最後です
投稿者 あまくさ 投稿日時: : 0
……それと、すみません、やはりもう1点。
>本当に現実を変えるほど「ドラマティック」であるということは、ドラマに触れた観客の生活が変わるということなのであり、そのきっかけはまだ日本で見つかっていないだけで必ずある、という「思想」を筆者は述べています。
私に言わせれば、それは思想ではありません。
ただ、繰り返しますが「設計思想」というような用法なら、思想の一種ではあります。
木下さんの論じる文脈において「思想」というなら、重要なのは明治日本における「近代の受容」という歴史的な課題に際し、当時の日本人が理解しがたかった「思想」とは何か?
そういう問いかけなのではないでしょうか?
ヨーロッパ特有の中世的権威の否定。キリスト教=神への懐疑。それは中世以来千年以上に及ぶ西洋の歴史を生きていない日本人には少なくとも体感として理解しがたいものです。(ジイドやドストエフスキーの作品を読むと少しだけ体感できる気がするのですが、本当の意味で理解できているのかどうかは分かりません。ただ、そういう巨大な何かの影くらいは知ることができました)
詳述するスペースがないので簡単に書きますが、19世紀西洋の文学者は神を否定してしまったゆえに「個人」という問題に悩み、そこから生じる精神的な葛藤を作品に盛り込んでいます。そのきわめて真摯な文学的態度に明治日本の文学者は衝撃を受け、しかし精神的な葛藤の内実を体感的には理解しきれなかったために、「文学は真摯でなければならない」という形で受け取ってしまったように思います。
でも、これって本末転倒だと思うんですね。
人間は悩む理由があるから真摯になるのであって、真摯であることそのものが立派なわけではありません。理由もなく真摯ぶってもしょうがなくね? ということです。
日本近代の文学者や劇作家にとって西洋文学の本質を取り入れることが困難だった理由は、以上のようなことと私は考えています。
「ドラマツルギー」とは、真摯な思想を表現するために精緻に鍛え上げられた技術ではあるでしょう。しかしあくまで技術であって、思想そのものではありません。よってエンタメにはエンタメの技術があるのであって、そこに優劣はつけられないと強く考えるのですよ。
ヒロインとイチャコラして読者を萌えさせる技術も立派な技術です。
カテゴリー : 文章・描写 スレッド: 問題を早めに提示するのは当たり前のことではないか?