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問題を早めに提示するのは当たり前のことではないか?の返信(元記事)
>名作が何度も読み返すに足るのは、ここにとどまらないからでしょう。やはり、それは書き手がいかに現実と向き合うかというところにかかってくるのではないかと思います。作品中にあらわれた「対立の構図」に、読者が「ああ、そういうことってあるよな」と思えることが、読み返しを誘う本当の感動となるのでしょう。
そのへんは兵藤さんと私では考え方が違うのかもしれません。
私は物語には「型」があって、人間の脳が条件反射的にそれに反応するのだと考えているんですよ。
小説ってすべからく作り話ですよね? まあ、私小説というのもあるし、それでなくても純文学寄りの作者は虚構の真実性みたいなことをいいますけど。「事実ではないが、真実ではある」とかね。
それはそれでいいのですが、私的にはもっと不思議に思っていることがあります。それは、物語性の豊かな、読者をハラハラドキドキさせるタイプのストーリー。
何が不思議かというと、そういう作品の読者って作り話だって分かりきっている物語を読んで、どうしてハラハラドキドキするのでしょうか? (ハラハラドキドキすることを否定しているわけではなく、そういう物語の力に驚いているんです)
何年か前に読んだ本に、純文学系の研究者がラノベに興味を持ち、それについての研究成果をラノベ形式で書いてみたというのがあったんですね。主人公は若い芥川龍之介の研究者なのですが、ある女の子がラノベを読みながらうっすら涙を浮かべている姿に強い印象をうけます。で、「芥川龍之介を読んで泣いている読者を見たことがない」と思い、読者を泣かせる力を持つラノベって何なんだろうと。
「現実と向き合っている」文学者や批評家なら、もしかしたらその種の心の動きを「感動ではなく感傷に過ぎない」と軽蔑するかもしれませんけどね。
しかし私は、そういう素朴な涙にも人間の本質が表れているんじゃないかと思います。まだ文明がなく、裸で洞窟に住んでいた、知恵のある動物の一種でしかなかった人間。自然に対する畏れ、獲物を狩ることに成功して今日は飢えなくてすむという安堵感。山の端にのぼる曙の美しさ。火をおこして暖をとり、食物を口にしやすく変えることもできることを発見した驚き。
そういうプリミティブな感動の数々が人間の心のどこかに刷り込まれていて、それを言葉によって語り継ごうとしたのが物語の原型なんじゃないかと思うんです。
蛇が怖いのは、毒をもつ種類がいるから。しかし蛇の写真や絵を見ても気持ち悪いのは、理性を超えて人間の防衛本能が刺激されるからなんじゃないですか?
ゴキブリというのはたいして害はない生き物ですが、ひどく気持ち悪いのはたぶん異質感です。異質なものには未知なる危険が潜んでいるかもしれないという、これも本能的な防衛意識なのだろうと考えられます。
文明化された人間の心の奥底にもそういう原初の本能は生きていて、作り話だと分かっている物語に反応してしまうという読者心理につながっているのだと。
創作されたコンテンツによる感動とは、何らかの形でそういう人間の原始的な深層心理を揺さぶるすべを発見した創作者によって作るられるのだと私は思います。
まあ。
純文学系の小説家は「現実に真摯に向かい合う」ことによって、そういう人間の心の深淵に辿り着くのかもしれません。そういう人って真摯に向かい合いすぎて自殺したりしますけどね。
でも私みたいなヘナチョコは自殺なんてしたくないですから、一つの技術と割り切って読者心理の誘導術を探ります。
なので。
私は物語には「型」があって、人間の脳が条件反射的にそれに反応するのだと考えているんですよ。
という乾いた思考でアプローチしようとしているわけです。
対立の構図。
そうですね。それは心理操作のテクニックと割り切ってしまえば、もっともっと精緻にできます。プラグマティックなヤンキーはそのへんを割り切るのが得意みたいで、ハリウッド式なんてなかなかイイ線行ってますぜ、旦那さん。
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投稿者 あまくさ 投稿日時: : 0
さて。
リンク先、読んできました。
まずドラマツルギーという言葉の意味については、私は劇作術でいいと思いますけどね。技術を軽視してはいけないと思います。
次に。
日本における文学や演劇の理解が浅いという話をしたいのなら、それは明治日本の近代化という問題ですよ。
近代って言ったって、それは西洋の近代なんですから。日本には日本の精神文化史があったところに、わりと強引に西洋流を持ち込もうとしたんです。19世紀ヨーロッパの芸術思潮はロマン主義全盛ですが、明治時代は19世紀も後半なのであっちではロマン主義はやや通俗的なんじゃないかとか言い出して自然主義が勃興。日本近代文学はそこらへんを移植したので、自然主義が至高と思われてやや極端な形でもてはやされた時期もあります。でもって日本独特の「私小説」がガラパゴス的に席巻していったんです。そりゃもうね、小説には0.1ミリも嘘を書いてはいけないという思想ですが、そんなことできるわけないじゃんという。
もどってヨーロッパ19世紀のロマン主義の本質は、ものすごく簡単に言い切れば「自我に目覚めよ」。これです。
18世紀の終わりころにフランス革命というのがあって、宗教もからんだ伝統的世界観が崩壊。個人の価値を尊重する思想がむちゃくちゃ重視されて、それが芸術や文学に強い影響を与えたんです。音楽なら革命から生まれたナポレオンを絶賛して英雄交響曲を作曲し、皇帝になったナポレオンを嫌悪して自曲の表紙を引き裂いたというベートーベン。ベートーベン自身は古典派と呼ばれますが、シューベルトやブラームスなどロマン派の巨匠たちがベト氏をめちゃくちゃ尊敬しています。
文学ならスタンダール・ドストエフスキーとか。ドストエフスキー『罪と罰』の主人公はナポレオンに憧れて殺人を犯し、神と個人の自我という問題に苦しむんですね。哲学者ニーチェは「神は死せり。されば我々は超人の出現を望む」と書きました。
19世紀の西洋人は神を殺してしまったのですが、神のいない世界では「自己責任」が重要になるんですね。そういう精神的葛藤の中で生み出された「近代文学」を、明治の日本人は蒸気機関とかと同じような感覚で「なんか分からないけど、すげえ」という感じで移植したんです。
次。演劇ね。
演劇が小説と違うのは、当たり前ですけど「劇場」という現実空間があることです。そこには役者がいて、観客もいます。脚本家の書くシナリオは小説にわりと近いものですが、劇場空間における役者と観客の一体感は独特なものです。つまりライブ感覚。今ならロック・コンサートなんかの方が近いかもしれません。
そういう意味では日本の能や歌舞伎だって同じだと思うんですね。能や歌舞伎にないものは、西洋流の「個人主義」。それと精緻をきわめる劇作術。
だから、ドラマツルギーは劇作術でいいと思うんですよ。それこそが日本の伝統にはなかったきわめて高度な技術です。
ゆえに。
ドラマツルギーを劇作術と解釈するのは理解が浅いという人は、理解が浅いんじゃないかと私なんかは思ったりします(笑
カテゴリー : 文章・描写 スレッド: 問題を早めに提示するのは当たり前のことではないか?