いったん話をもどしてみます
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性善説ではありませんの返信の返信の返信の返信の返信の返信の返信(元記事)
うーん、『前提が違えば結果も違う』のは当然のことだし、『特定の尺度に合わせて局面を切り抜く』のも当然でしょう。
ですが、『尺度の基準』を人間に合わせてから『人間と動物』を論じるのであれば、論じ方として人間側に偏り過ぎている。
当然だけれど、『人間、或いは動物』のどちら側にも寄せない、つまり『絶対的』な尺度を用意することは限りなく難しいし、出来ない。
これがもし、人間同士の事であるならば、社会規範とか、『理想』と言う大雑把な物を尺度に当てて論ずることは出来るでしょう。
或いは、個人や国家同士の比較において、事態を分かりやすくするために比較対象の片側を基準に持って来ることも理解できます。
ですが、そもそも『人類の社会における善悪』の議論をしている時に
>人間の特徴の一つに社会を作るということがあります。
ミツバチやアリも社会を作る生き物ですが、やつらはたぶん思考も学習もしないで本能だけで社会が作れるのだと思います。
しかし人間にはそれができないので、長い歴史を経て、思考し、経験を重ねながらルールを作りあげてきました。
と仰られれば、『人類の社会を基準にした時の動物の社会の話をしている』『人類の学習や思考を前提に、動物の思考や学習を考えている』ととられかねないとは思いませんか?
そういう意図はなかった、と仰られるのであればそれでも良いのですが、俺にはどうも『人類の善悪の話をしているところに、他の動物の社会性に関する話を抱き込んだ』ように見えた訳です。
その上で、『ある尺度に合わせているだけ』とのことですが、そも人間の話をしているところに動物の話を入れているのですから、俺からすればむしろ『人間尺度で話して居ない方がおかしい』ように見える訳です。
大本のところが、人間の善悪論に帰結するわけですから、『人間の社会に比べて動物の社会はどうか』と言う話にならざるを得ない訳ですし、実際あまくささんもそのような書き方をされています。
ですが、例えばミツバチやアリが社会を作るという話ですが、アレだって厳密に言えば『人間尺度』です。彼らの生活は社会を作るだけが全てではない。
はぐれる事も、巣の移動も、社会同士の対立も、それぞれあります。人間から見て、人間の作る『社会』に似ているから『社会』と呼ぶだけで、人間社会と比較しうる物では無い。
二番目に上げられていた猿の実験の件もそう。
動物行動学ではわりと頻繁に似た実験をするので、あまくささんの知っているソレに携わった猿がどのような成長をした個体かによる影響もうけますし、逆に野生における猿がどういう成長をするかを示す結果でもありません。
あくまで、単純化した状況における学習能力の問題であります。
大体、人間の学習能力の何割かだって、パブロフ的刷り込みに依存している訳で、この実験結果のみをもって人間と猿の思考能力の違いを立証しようとするのは些か性急すぎます。
例えばカラスは自動車を使って木の実を割ることが有ります。これは偶発的な現象ではなく、学習によって習慣化されたものとして、です。バードウォッチャーたちによって、ある程度離れた森林から木の実を運んでくることも確認されています。
一方、狼の実験の方ですが、これ確かヤマネコかハイエナによる群れ同士の抗争の観察結果として、反証に値する――つまり『復讐を避ける/同業他社になりかねない相手を削ぐ目的で、同族殺しを行う』という結果が出ているはずです。
また、狼にあっても、彼らには根本的に『身内同士で喧嘩をしあって、伴侶を決めたり、群れの中での順位を決める』という習慣がある種類も多いため、そもそも『どういう種類の戦闘』であったかの性質によるため、これも『洞察力』の有無を測るテストにはなりません。
人間だって、プロレスや大相撲で相手を殺すまで戦わないでしょう?
そしてここら辺を、俺が『人間の尺度』と呼ぶ部分なんですが、あまくささんの比較実験として出す動物の情報は、凄くピンポイントに過ぎる。
その動物の生態や、社会性、生存環境を無視して、細かな実験結果を人間の社会性・思考能力と比較しているので、『傲慢だ』と言うのです。
注1について。
人間を超えた思考の枠組みを持て、とは言ってません。まず俺はそんなもの持ってないし、俺が持っていない以上、あまくささんが『人間を超えた思考の枠組み』を持っていても、議論にならないでしょう。
そんな難しい事ではなく、もっと単純に『動物を比較対象にするなら、動物の事をもっとよく見てから話して欲しい』という事です。
>こちらがフラットに言っていることに、無意識に価値観を当てはめてませんか?(註2)
『誰の』価値観かにもよりますが。
フラットに物事を語る時、その根底にある価値基準の事を『価値観』と言います。あまくささんが何かを語る時、それを見ている俺は、『あまくささんの価値観』を考えるように意識的に見ています。
何せ、俺とあまくささんの価値観が違う可能性はそこそこ高いですからね。『価値観』の事を考えない訳にはいかないでしょう。
俺が勝手に『俺の価値観』をあまくささんの発言に重ねているんじゃないか、と言う意図でしたら、『そうしないように努力しています』としか言いようがないですね。まあただ、俺が『こう見える』と書いている場合は、明確に価値観を重ねていますよ。
注2について。
俺の言葉で意訳させてもらいますが『価値観や先入観を出来るだけ排除して考える』っていう意味合いの事ですよね?
価値観を排除する、と言うのはすごく難しい事なので、それが出来るんだったら凄いなぁ、としか。
俺はそんなこと出来ないので、『他人の言葉を、自分だったらどう表現するか考えて、バイアスを掛けないように気を付けて翻訳し、自分の価値観で考える』って所かなぁ。
勿論、外側に出力する時は『出来るだけ相手にも通じる価値基準で表現する』努力はしてるけども。
いったん話をもどしてみます
投稿者 あまくさ 投稿日時: : 0
困ったな。
途中から大野さんの反論が、かなり「反論のための反論」になってしまっていると思う。私の主張はわりと一貫しているはずなのですが、それについては後述します。
(1)
>ですが、『尺度の基準』を人間に合わせてから『人間と動物』を論じるのであれば、論じ方として人間側に偏り過ぎている。
それは当然です。
だって、このスレはもともと人間の話をしていたんでしょう?
私が「人間尺度に合わせているわけではない」と書いたのは、「人間のに都合の良い尺度に頭がとらわれているわけではない(人間が複雑だから動物より優れているとは思っていない)」と言っているだけです。
・人間に都合のいい考え方をする。
・(人間の話をしているのだから)人間を軸にして、議論を進める。
この二つを混同していないでしょうか?
もしくは、この二つをゴッチャにして反論してきているようにみえます。
(2)
>『人類の社会を基準にした時の動物の社会の話をしている』『人類の学習や思考を前提に、動物の思考や学習を考えている』ととられかねないとは思いませんか?
>『人類の社会を基準にした時の動物の社会の話をしている』
これはYES。
>『人類の学習や思考を前提に、動物の思考や学習を考えている』
こちらはNOです。
私は最初から一貫して人間社会の話をしていて、動物を持ち出すときは比較対象として出しているだけです。
だから、『人類の社会を基準にした時の動物の社会の話をしている』のは当然です。あくまで論点は人類社会であって、動物の社会は主題ではないからです。
>『人類の学習や思考を前提に、動物の思考や学習を考えている』
これがなぜNOかと言うと、論旨に即して人間を軸として語ることと、それ以前に私が人間寄りに偏った思考の持ち主であることは違うからです。
>『人類の善悪の話をしているところに、他の動物の社会性に関する話を抱き込んだ』ように見えた訳です。
それのどこがおかしいのですか?
私も一貫して「人類の善悪の話」をしています。繰り返しますが、比較対象として有効だと考えたから他の動物の話を持ち出しただけです。
>大本のところが、人間の善悪論に帰結するわけですから、『人間の社会に比べて動物の社会はどうか』と言う話にならざるを得ない訳ですし、
そうではなく、『動物の社会に比べて人間の社会はどうか』という話をしています。
(3)
まあ、(2)のような議論の混乱は、私の説明がヘタだから生じている面もあるのだろうから、その点については謝罪します。
ただ、流れとしては(1)の齟齬を引きずったままやりとりして、その結果齟齬がまとまらず逆に増幅するような感じになっています。
だから、話をもどしますね。
(4)
人間という動物が、かなり奇妙で不安定な生き物であることは確かだと考えています。
奇妙な点は、
・脳が発達しすぎている。
・本能がこわれているのではないかと見る説がある。
・脳が発達しすぎた結果本能がこわれたのか、本能がこわれているため、それを補うために脳が発達したのかは分からない。
・脳の発達も人間という生物の「自然」であり、「本能」に根ざしているのかもしれないが、他の多くの動物が「本能」の比較的直接的な作用(こう簡単に言ってしまうと語弊があることは承知。しかし、そんなに間違ってはいないと思う)によって自然とやりとりするのに対し、人間はそれとは違う方法を複雑に発達させて自然と対応している。
*こういう部分で、ときどき動物の話を持ち出したわけですが、そちらは論点ではないわけです。まあ、話を分かりやすくするための譬え話に近いものと考えてください。
ただ、人間は特殊で不安定な生物なのではないかという視点で話をしているので、動物の話もある程度せざるを得ないわけで。
・上記のような形で、人間は生物としては特殊な部分を大きく複雑に肥大化させて社会を作っている。
・そのような社会の仕組みやルールは直感だけで体得できるものではないので、人間は20年以上かけてそれを学習しなければならない。
・その学習の体系は別に神が作ったわけではなく、やはり人間という不完全な存在が長い歴史の試行錯誤の果てに何とか作り上げてきたものなので、これ自体がそうとう不完全で欠陥が多い。
・人間はそういうシステムの中で学ばざるを得ないので、一人前になるまでに余分で雑多な情報も大量に受け取ってしまう。
・余分で雑多な情報の受け取り方にも個人差があるので、良くも悪くもそこで人間の個性が形成される。
だから余分で雑多な情報が常に悪いわけではないが、争いやトラブルの原因となることも多い。
・先に「神が作ったシステムではない」と書いたが、いわゆる「神の見えざる手」という仮説がある。事象間の調整がいたるところで起こる結果、全体がしだいに調和に向かうものらしいという仮説です。
・神の見えざる手が働いた結果かどうかは分からないが、現状の社会はトラブルや悲惨なできごとの坩堝である反面、部分的にはそう悪くもないと思える状態を維持してもいるようです。
(5)
で、最初の、「どういう人が嫌いですか?」にもどります。
上記のような人間観でまわりを見ていると、倫理的な理由で誰かを嫌いになることはあまりないんですよ。
むしろ、理由もなく何となく虫が好かない、ということの方が強いです。
言ってしまえばそれだけなのですが、最初の方で「生まれつき悪い人間はいない」と書いたところ理想論としての性善説を述べたと誤解されたフシがあったので、私の基本的な人間観について説明させていただきました。
こんなところで、どうかな?
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